境玉津島神社
『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名で登場し、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中するという衣通姫伝説が残されている。物語は歌謡を含み、逆らいえない愛を生きた運命の人として美しく姫を語っている。
・所在地 埼玉県深谷市境81-2
・ご祭神 衣通姫命
・社 格 旧村社
・例 祭 祈年祭 4月29日 例祭 10月19日 新嘗祭 11月23日
境玉津島神社は深谷市境地区に鎮座する。埼玉県道69号深谷嵐山線を南下して旧川本町方向に進み、『折之口』交差点を右折する。北武蔵広域農道に入り、800m程進むと、進行方向左側前方向に動物病院、コンビニエンスが道を隔てて向かい側にある信号のある交差点にぶつかるので、そこは右折。北上するように約500m道なりに直進し、最初の信号のある十字路を右折し、100m程進むと、左側に境玉津島神社の社号標柱及び、その境内が見えてくる。後で地図を確認すると、鎮座している場所は深谷市立藤沢中学校の南、東に進むと深谷花園温泉花湯の森の施設入口前が道沿いにある。
正直深谷地区は自分のテリトリーと思っていたが、「境」という地区もこの社参拝によって知ったし、自宅からあまり遠くない場所(それでも車で15分程かかるが)にこのような広い境内のある社が鎮座しているとは、思いもしなかった。やはり世間は広いものだ。
駐車場は境内参道脇に比較的広いスペースが確保されている。
境玉津島神社正面
夕方からの参拝ゆえにやや画像が暗い。
入り口付近に設置されている案内板
玉津島神社
社名「玉津島」は、県域では珍しくその本社たるべき社は和歌山県和歌山市和歌浦町に鎮座する。衣通姫命が祀られている。
創建は明らかにできないが、別当を努めた真言宗不動山明王院大聖寺を開山した実裕が寛永九年(一六三二)に入寂していることから、既にこのころには当社も祀られていたと思われる。
当社は境の鎮守としてはもちろん、安産の神として古くから信仰されていて、祈願成就の証として柄杓を奉納する風習がある。
境内にある境内神社は
天手長男神社 道祖神社 八坂神社 御嶽神社
平成十二年十月 深谷上杉顕彰会
案内板より引用
道路からもやや離れたところにある鳥居 鳥居前で一礼、長い参道の先に社殿が見える。
衣通姫を祀る神社では、古くから朝廷の崇敬を受けた和歌山県和歌の浦に鎮座する玉津島神社が有名である。古来玉津島明神と称され、和歌の神として住吉明神、北野天満宮(近世以降は北野社に代わって柿本人麿)と並ぶ和歌3神の1柱として尊崇を受けることになる。玉津島神社由緒略記によれば、当初、稚日女尊のみを祀っていたが、その後稚日女尊を崇拝する神功皇后を併せ祀り、光孝天皇のご病気を平癒させた衣通姫を御勅命により合祀したとの記載がある。
仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まるという。玉津島は古くは「玉出島」とも称された。神亀元年(724年)2月に即位した23歳の聖武天皇は、同年10月に和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発したのが、玉津嶋の初見であるという。『和漢三才図会』では、弱浦(わかのうら)という名を改めて、明光(あか)の浦とした時、衣通姫尊が示現して歌を詠んだ。
立ち帰り又も此の世に跡たれん名も面白きわかの浦浪
『和歌山県神社誌』では、第五十八代光孝天皇の夢に出現し上記の歌を詠んだとある。以来、衣通姫尊が玉津島神社の主祭神の位置になり、住吉、人丸と並んで、和歌三神と呼ばれるようになったという。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿』によると、「境村」は「坂井」とも書いていた。
村の鎮守である玉津島神社は安産の神として古くから信仰されていて、当社が女神(衣通姫命)を祭神とすることから起こったものであるようだ。底を抜いた柄杓を奉納して祈願すれば、無事出産できるといわれており、家庭で出産していたころは、近隣の村からの参詣者が相次ぎ、多いときには1ヶ月に150本もの柄杓があがったという。
社殿左側に鎮座する道祖神社。 道祖社の右隣には蚕影神社が鎮座。
金物の草鞋が額代わりについている。
境内社 天手長男神社 社殿手前左側には天王宮が鎮座。
御嶽塚
塚の頂には御嶽山国常立実尊・八海山國狭槌尊・三笠山豊斟尊と摩利支尊天碑が建てられていて、その他にも多くの石碑が並ぶ。
ところで『新編武蔵風土記稿』によると境村の小字には不思議と「鍛冶屋」が存在する。南側には「上原」地区と接し、上原地区の東側には「長在家」地区があり、この長在家、上原両地区にはどちらも小字『下原』がある。この下原という地名は、この地域は世間ではあまり知られていないようだが、嘗て室町時代から江戸時代まで続く武州唯一の刀工群である下原鍛冶の一拠点だったという。
長在家地域はこの武州下原鍛冶が現八王子地域に移住する前に一時居住し、鍛刀した地域と言われている。何より下原鍛冶に関連した地域、居住した地域にはみな「下原」という字が存在していることは注目に値する。この長在家地域を含めた荒川中流域両岸は、平安時代後期から畠山氏の所領であり、鍛冶製造が発達した一大根拠地と言われている。武州下原鍛冶がこの地にある時期一定期間移住する理由はここにあったと考える。
静かな境内
境地区は、まさに長在家、上原地区に均衡する地域であり、小字「鍛冶屋」の存在こそが、「下原鍛冶」の根拠地とはいかないまでも、鍛冶に携わった一族の居住地域だった可能性が高いと筆者は愚考する。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「精選版 日本国語大辞典」「Wikipedia」「和歌山県神社誌」
「境内案内板」等