古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

山名八幡宮

  源氏は不思議な一族である。元々源氏は一族同士の繋がりが平氏ほど強くなく、独自裁量の傾向が強い一族で、それは山名義範も例外でなかった。この山名義範は新田庶流の中で新田義重(源義重)から何故か冷遇されたようで、所領も他の兄弟と比べて新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続しなかった。(しかしこの山名郷を含む佐野地方は古来より文化が栄えた地であり、また丘陵地でもある要害の地でもあったので決して冷遇されたとは思わないのだが)その為か総領である新田義重はもちろんのこと、その一族同士の連携も古文書を見る限り全くなく、独自の動きをとることが多かった。それが結果的に功を奏することにつながった。
 例えば、平家打倒のため、源頼朝が伊豆で挙兵した際、父の義重が寺尾城(高崎市寺尾町)に立てこもって、頼朝の召集に応じない中、新田一族の中で一番早く源平合戦に参戦し、義経のもと一の谷の合戦で功績をあげた。その結果、伊豆守に任じられ幕府内での地位を強固にしたのである。義範以降の山名一族も南北朝争乱における新田義貞と足利尊氏の対立に際して、早くから、同じく新田宗家の新田義貞に従わず、足利尊氏につき従い、山名時氏の時期において山陰を中心に最盛期11か国の守護職を補任され、当時全国でも66か国であったので「6分の1殿」と呼ばれたという。明徳の乱(1392年)によって当時の総領山名氏清は戦死し、一時的に没落の目に陥ったが、その後また復権し、戦国時代の幕開けといわれている、応仁の乱(1467年)の西軍の大将、山名宗全(山名持豊)の登場に至ると山名氏の全盛期を築き上げた。
 現在の社殿は本殿・弊殿・拝殿からなる権現造りで、三手先の軒や腰部の彫刻がすばらしく、本殿は銅板葺きの三間社流造りで、彩色した彫刻が施されて、拝殿部分は、何故か後に建替えられている。また境内には、随身門・神楽殿などが存在する。

所在地  群馬県高崎市山名町1581
御祭神  玉依比売命、応神天皇、神功皇后
社  挌  旧郷社
由  来  当社は宇佐八幡宮を勧請し文治年中, 鎌倉時代に
       新田(山名)義範が社殿を 造営したと伝えられる
例  祭  10月15日 神輿渡御獅子舞  10月15日、16日 秋季例大祭

                         
 山名八幡宮は、群馬県高崎市山名町に鎮座する。八高線群馬藤岡駅西口方面を基点として西進し藤岡消防署交差点を右折、群馬県道30号寺尾藤岡線を寺尾方面に真っ直ぐ進む。途中上落合交差点を右折し北上、鏑川橋を過ぎてしばらく進むと山名町地区になり、上信電鉄山名駅の先のすぐ左側に山名八幡宮の鳥居が見え、大きな両部鳥居と社号標が立っている。
 駐車場は、鳥居をくぐった所に『第一駐車場』、第一駐車場の先に『第二駐車場』があり、今回は社殿の近くにある第二駐車場に停め参拝を行う。
                
                                               群馬県道30号線に面している大鳥居

  まず境内入口から西へ進むと、参道脇に「太刀割石」が見える。慶長五年(1600年)、馬庭念流中興の祖・樋口定次が天真流村上天流と試合と試合をするにあたり当社に参籠し、満願の日に枇杷(びわ)の木剣で断ち割ったという石という。
                       太刀割石の案内板                           太刀割石

 
当社参道を上信電鉄の線路が横切っているので線路の下をくぐって進むと神門があり、神門の奥が境内になる。残念なことにデジカメの画像が悪く、掲載できないのが残念だ。また参道右手に手水舎があり、鮮やかな朱の鳥居が立っている。鳥居の脇にはいくつかの境内社や神馬像、ムクやケヤキなどの立派な御神木が存在する。
                         
琴平・八坂社                          上の妻戀稲荷神社
                                   
                                                               参道の神馬像
  この神馬像は山名八幡宮の社殿を造営した新田義範氏の子孫である山名氏の末裔(全国山名氏一族会)が奉納したもので、神馬は西国を向いている。山名氏は全国、特に中国地方などの西国に拠点を移した山名一族であったが、室町幕府成立以降も山名郷は所領のまま残していた。そして、遠く離れた西国の地で、山名八幡宮の維持管理を自ら行っていた。全国の山名一族にとって、一族発祥の地、山名八幡宮は心の拠り所を保証する精神的に重要な場所だったのである。

山名宗全と山名八幡宮

 応仁の乱の西軍の指揮を執った山名宗全の祖が当社を造営した山名義範である。義範は新田氏の祖、新田義重の子でこの山名郷に入り山名氏の祖先となった。史書(吾妻鏡)には随所に名が記され、源頼朝の配下として活躍した。この神馬像は全国の山名氏の末裔が奉納したもので神馬は西国を向いている。                                
                                                            案内板より引用

            社殿前の鳥居                       石の階段上に拝殿がある

 鳥居をくぐり階段を上ると当社の社殿が目の前にある。社殿は、入母屋造の拝殿と流造の本殿が連結した権現造で、奥の本殿は十八世紀の建造だそうで、蜃・象鼻・鳳凰・龍・獏・唐獅子などの神獣の彫刻が施されており、平成になって極彩色に塗りあげられたそうで規模が大きく美しく豪華だ。同じ群馬県に鎮座する雷電神社は黒が基調とした本殿で男性的な感じに対して山名八幡宮は基調は白で、優雅で女性的な趣がある。
 また社殿に置かれていたチラシには、夜、美しくライトアップされた当社本殿の写真が載っている。

            
                              山名八幡宮 本殿。拝殿、幣殿共に高崎市指定重要文化財
                                
                     本殿後方の中門には裏神様を祀られているそうで、獅子頭が置かれている。

山名八幡宮      
山名八幡宮の歴史と伝承
 うしろに八幡山を配したこのあたりは古くから開けた所で、歴史をさかのぼれば縄文時代にまで人々の暮らしの跡をたずねることができる。
社伝によればこの社は源氏の一族、新田氏の祖義重の子義範が山名城にあって安元年中(一一七五~一一七七)に、豊前の国(大分県)の宇佐八幡を勧請して、社殿を造営し、武神として崇敬したのを始めとしている。
御祭神
 玉依比売命、品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)の三柱を祭神として祀り、古くから安産や子育ての守護神として、また養蚕や商売繁昌の神として有名であり近郷の人々の尊敬を長年月にわたって集めている。創建以来、八百余年の歳月は誇らしい歴史の重みとともに多くの伝承に彩られて人々の心のふる里となっている。
天国(あまくに)の宝剣
 山名城主、新田義範が当社創建の時に奉納したと伝えられる両刃の直刀で鎌倉末期のもの。
安産と子育ての神
 後醍醐天皇の孫、尹良親王が山名城に滞在の折り、城主世良田政義の娘が親王の子を懐妊し、当社に安産を祈願されたところ無事に男子が誕生、良王(よしゆき)君と名付けたという。以来、当社を安産と子育ての神として称えられるようになったとの伝承がある。
例祭
 毎年四月十五・十六日と十月十五・十六日のお祭りは多くの参詣人で賑わう。露店も立ち並び安産や子育てを願い、養蚕や、商売繁昌を祈る人々が獅子頭や、虫切り鎌、農具などを買い求めて季節の風物詩となっている。
神輿の渡御
 例大祭の際に山名町の中程にある石の標識、「八幡宮御旅所」と彫られている場所まで神輿を奉じ古式ゆかしくおごそかに列を連ねて行進する。
系図
 古い歴史を物語る山名氏の系図 山名宗全(持豊)は九代目で西国の十一ケ国の守護、応仁の乱の西軍の総大将。
乗鞍
 宝暦二年(一七五二)九月、前橋藩主、酒井雅楽頭(うたのかみ)より二町七反一畝七歩の神領と現在社宝の一つとなっている乗鞍一具の寄進を受けた。
大刀割りの石
 慶長五年(一六〇〇)三月、馬庭念流中興の祖といわれる樋口定次が天真流、村上天流と試合をするにあたって当社に神助を祈願して参籠し、満願の日に社前の大石を打ち割ったといわれ、その後見事に烏川畔において天流を破った。この大石は参道に今も置かれている。
祭日
 一月一日~七日初詣、一月十五日初市、二月節分ついな式、四月十五・十六日春季例祭、四月二十八日養蚕市、六月三十日大祓、十月十五・十六日秋季例大祭、十一月十五日七五三祭、十二月一日神むかえ、大晦日二年参り(以下中略)
                                                      『平成祭データ』より引用
            
                                                  社殿前の階段から鳥居を撮影

 この山名八幡宮が鎮座する高崎市山名町から吉井町にかけての山名丘陵を古くは佐野山と呼ばれていた。この佐野山は「さのやま」ではなく「さゐやま」と言う。山名八幡宮を基点として北西方向に山名丘陵は広がり、その丘陵地には上野三碑と言われる「多胡碑」「山ノ上碑」そして「金井沢碑」がこの狭い地域に集中的に存在している。この山名郷周辺は群馬県内では先進地区で、古来より開発され発展した地域であった。

 上野国13郡のうち、この地域に群馬郡、多胡郡、甘楽郡3郡が建設されたのは偶然ではない。都から伸びる大動脈ともいえる幹線の「東山道」は信濃の上田から佐久を抜けて碓氷峠を通って上野国の群馬郡に置かれた国衙へと通じていた。その後、主要幹線は「新田郡」へ到って、南下して武蔵国の府中へ向かう支道であった東山道武蔵路と、北上して下野国の足利へ向かう本線に分れた。この山名地域はその東山道の丘陵地と平野部とのいわば境界線に位置する、地形的に見ても非常に重要な地域であったと思われる。


         拝殿の右側にある神楽殿          社殿、神楽殿の右手には厳島神社等、境内社
                                              が存在する。

 また山名町周辺は群馬県においても古墳の集中するいわば古墳の宝庫でもある。群馬県の古墳の分布図を見ると、大体において太田市地域、佐野町、倉賀野町地方を含む県中央部、藤岡市周辺地域の3か所が古墳の集中箇所である。そして4世紀末、5世紀初頭はこの前橋市朝倉に近い倉賀野大鶴巻古墳(全長122m)と浅間山古墳(全長172m)の佐野町、倉賀野町地方、5世紀初頭には藤岡市の白石稲荷山古墳(全長175m)や岩鼻二子山古墳(全長115m)が出現し、そして6世紀初頭の藤岡市上落合所在の七興山古墳(145m)と山名丘陵地のそれぞれ東側、南側の平野部に大型古墳はそれぞれ分布され、不思議なトライアングルを形成している。またこの二つの勢力が東山道の磯部、吉井地域との交易をするためにはどうしても通らなければならない交通の要地がこの山名地域なのである。このことからみてもこの山名地区の重要性が見えてくる。

 古代毛野国の「へその地」ともいえる要衝の地がこの「山名」地区であり、この地の重要性を歴史の神が我々に教えんがため後世に山名宋全という「山名地区出身」の人物を応仁の乱の主役の一人として登場させたようにも思えるが・・・・穿った考え方だろうか。
 

 


                                                                                   

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大胡神社

三夜沢赤城神社と二宮赤城神社の間には御神幸という御神体が往復する伝統行事が毎年4月と12月に行われている。途中、大胡神社と柏倉町のお輿懸(阿久沢一家)の2ヶ所で休憩するという。三夜沢赤城神社と二宮赤城神社は南北に位置し、この大胡神社は三夜沢赤城神社と二宮赤城神社の丁度中間に鎮座する地形上の特徴があり、赤城大明神の里宮として、嘗ては近戸明神と称された社である。
 この「近戸」は赤城神という古代の国造の祖神に対して「地形上に近い場所に寄り添うように鎮座」する家来的な神であり、もう一つの意味として護衛、道案内的な神でもある。

所在地     群馬県前橋市河原町638
御祭神     大己貴命、豊城入彦命
社  格     旧郷社
例  祭     5月3日春季例大祭 太々神楽(前橋市の重要無形民俗文化財)
                 
 大胡神社は前橋市旧大胡町に鎮座している。二宮赤城神社から群馬県道74号伊勢崎大胡線を旧大胡町方向へと北上して40号藤岡大胡線に合流し、そして16号大胡赤城線を荒砥川沿いにしばらく北上すると、左側の小高い丘に社は鎮座している。社の向かい側には幼稚園がある。駐車場はあるそうだが近辺を探しても見当たらなかったので、大胡神社の入口脇に停め、急ぎ参拝を行った。
 後日案内板等で知ったことだが、この社は大胡城北端の堀切に囲まれた近戸曲輪にある。城主大胡常陸介高繁が、天正17年(1589年)三夜沢赤城神社より勧請し、大胡城の守り神とした。毎年5月3日の祭典に太々神楽(市指定重要無形民俗文化財)が奉納される。また、大正4年の算額(市指定重要文化財)とムクロジ(市指定天然記念物)の神木がある。明治42年(1909)旧町内の22社を合祀したという。

   参道の階段下脇にあった猿田彦大神の石碑          階段を上がると一の鳥居がある。
                                 
                                                鳥居を過ぎてすぐ左側にある案内板
                       
                              拝    殿
                           拝殿前には前橋市指定天然記念物の「ムクロジ(無患子)」がある。

前橋市指定天然記念物の「ムクロジ(無患子)」      指定年月日 平成20年3月19日
 
このムクロジは、目通り周3.7m、樹高25mに達する巨樹で、地上3.8mの高さで3幹に分かれています。枝張りは、東西18.2m、南北21.7mに及び、根回りは非常に大きく50m以上に達しています。環境省の調査によると、樹齢は300年以上と考えられています。
 ムクロジは、西日本の山林には自生していますが、群馬県での自生は知られていません。このムクロジも移植されたものと考えられます。ムクロジの実は、石けんとして利用されたほか、羽子板の追羽根や数珠としても利用されました。
                                                                                                                           境内案内板より引用

                  拝殿の右側にある神楽殿               社殿の右奥にある神興庫の類だろうか。

  5月3日の春の例大祭に奉納される太々神楽は前橋市の重要無形民俗文化財になっている。もとは足軽町に伝えられていたが、明治の神社合祀で足軽町神明社の神楽殿が当社に移転されたそうだ。この舞は、大胡神社の春の祭典の時、大胡神社の神楽殿に奉納される。この神楽は、数百年前の伝統に支えられ、厳しい時代でも中断することなく続けられている。今、舞は12座踊られている。また、お面の数が多いのも特色である。春の祭りは、その年の農業がうまくいくように五穀豊穣(ごこくほうじょう)を神に願い、秋の祭りは五穀の豊かな実りを神に感謝してきたと伝えられている。かつては河原浜地区と足軽町地区で交互に奉納していたが、現在は足軽町地区の太々神楽保存会によって奉納される。
 里神楽として農家の長男に受け継がれてきたらしい。秋の収穫の後、神楽の道具を大八車に積み、沼田方面まで赴き、舞を奉納したこともあったといわれている。

 また神楽殿には大正4年(1915年)11月10日に大原福太郎によって奉納された和算の算額(前橋市重要文化財)がある。和算の算額の奉納はしばしば見られるものだが、和算が明治期に衰退した関係で、大正期の算額は全国的にもむしろ珍しく、県内では唯一のものだそうだ。
                                
                             本    殿
                  
                          瑞垣内部から本殿撮影

大胡神社 由緒
 
大胡神社の由緒を示す一つの古文書がある。「一筆致啓上侯 御堅固之段珍重 奉存侯然者其地 赤城大明神当城之 鎮守ニ近戸大明神と 奉祭度侯間其元 父子之中此方江 引越神祭奉 頼侯万事家来 (折紙)口上申入侯謹言 常陸介 天正十七年十一月九日 奈良原紀伊守殿」
 大胡城主大胡常陸介高繁が三夜沢赤城神社の神官奈良原紀伊守に出した手紙である。大胡城の守り神として、赤城神社を近戸大明神として祭りたいので奈良原父子のどちらか来て祭りをしてもらいたいとの内容である。天正十八年の夏には大胡藩主牧野氏に変わるのであるが、近戸大明神(大胡神社)は奈良原紀伊守で現在に至っている。しかし、これ以前に大胡城内に神社があったと推定している。即ち城内に玉蔵院という寺院があった。この寺は二之宮(現前橋市二の宮町)赤城神社の別当寺であった。このことから古くは二之宮赤城神社の系統の近戸大明神で、春秋のご神幸の休み場所として南北朝時代から存在したと考えられるのである。大胡氏も城を守り切れず山上郷右衛門や金山の由良氏の輩下増田某などの居城の時代を経て、ここに戻って改めて赤城信仰を考える時に、三夜沢赤城神社ということになったのであろう。祭神は大巳貴命、豊城入彦命である。明治四十二年六月五日に大胡町地内の神社という神社の全部を合祀した。さらに前橋市堀之下町の熊野神社その他まで合祀せた。実に二十二社にも及ぶ多くの神社であった。そこで祭神も数多く追加され四十五柱、相殿八柱となる。
  祭日は古くから五月一日であった。山から春になると山の神が下りてきて田の神となり農耕の豊作であるよう祈念したのである。太々神楽は河原浜の人たちと足軽町の人たちの交互で奉納した。古くからの由緒あるものでお面も数が多い。この神楽は下大屋(現前橋市)産泰神社にも指導し同社の神楽復興に助力した。明治四十二年六月に近戸明神を改称して大胡神社とした。近戸は赤城の神を近いところに勧請したことを意味する。参道も東側にあったが、昭和十八年に現状のような南参道に付け替たのである。
                                                                                                                           平成データより引用

 また本殿奥には多数の境内社、末社、石祠が並んでいる。前橋市堀之下町の熊野神社など、総数二十二社にも及ぶ多くの神社を合祀したため、現在の祭神も四十五柱、相殿八柱となったらしい。『平成祭データ』には三十一柱の名が記されている。この石祠類の詳細は残念ながら解らない。

                      社殿の奥に並んで鎮座している境内社、末社、石祠類。詳細不明。

 大胡神社は南口の入口から参道正面も含め、社殿の回りが鬱蒼とした木々に覆われている。ただ社殿の隣の神楽殿の前には広い空間があり、その場所のみは太々神楽の関係だろうが日当たりが良い。今まで多数の神社を見てきたが、参道から見て社殿と神楽殿がほぼ並んで建っているいる配置も珍しく、社殿は緑が多いので日陰部分が多いのに対して、神楽殿は広い空間が前にあり、社殿の陰に対して神楽殿の陽の、その色彩のコントラストの違いが印象に残った参拝だった。
 ただ参拝時間が短く、ゆっくりできなかったことが非常に残念。後で知ったことだが、駐車場は逆方向(北側)にあったらしく、事前の計画の必要性をまた感じた。
                                                                                                
                                                                                                  


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二宮赤城神社

 二宮赤城神社は、群馬県前橋市二之宮町にある神社。 式内社(名神大社)論社、上野国二宮論社。旧社格は郷社。 関東地方を中心として全国 に約300社ある赤城神社の本宮と推測されるうちの一社である。この社は赤城山麓真南に位置し、赤城山の稜線がよく見える絶好の位置に鎮座している。この地域は古くから開けていた場所で、この社の東北方には4基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っており、赤城神と関係の深い上毛野氏の中心地と推測される。赤城神社は上野国二宮であるが、当地の地名も二之宮という。現在、赤城神社の本社は、三夜沢赤城神社というのが主流であるが、少なくともある時期、上野一宮が貫前神社となり、赤城神社が二宮として定められた頃、赤城神社の本社は当社であったのかもしれない。
 
万葉集には、赤城山を詠んだ歌が存在するが、当時はこの「赤城山」という名前では詠まれたものはなく、「3412 賀美都家野 久路保乃祢呂乃 久受葉我多 可奈師家兒良尓 伊夜射可里久母
 (かみつけの くろほのねろの くずはがた かなしけこらに いやざかりくも)」とあり、この
「くろほのねろ」が赤城山をさすものとされ、赤城山連峰の「黒檜山」に比定されているといわれている。赤城山の本当の名前、また何時、現代の名称に変わったのか、不思議な疑問がまた一つ増えてしまった。
所在地   群馬県前橋市二之宮町866
御祭神   大己貴命 多紀理比売命 多岐津比売命 市岐嶋毘売命
        天忍穗耳命 天之笠早命 熊野久須毘命 活津日子根命
        天津日子根命・和久産巣日命・大物主命 建御名方命                                               
社  格   式内社(名神大)論社、上野国二宮論社、旧郷社
由  緒   履中天皇御宇の創祀
        承和6年(839)6月従五位下「続日本後紀」
         貞観9年(867)6月20日正五位下「三大実録」
         同11年12月15日正五位上、同16年3月14日従四位下
             元慶4年(880)5月25日従四位上
        康和5年(1103)6月神事に穢れがあり中祓
        永承4年(1049)神仏習合の勅願神社 建久5年(1194)修築
例  祭   4月15日 例祭

                        
  二宮赤城神社は国道17号バイパス上武線の二宮赤城神社前交差点を右折し、そのまま北上すると国道50号線の二宮町の間に鎮座している。この前橋市二宮町は赤城山南面で赤城信仰の上で絶好の地点(西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて共に赤城山を水源としている)で、大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳が存在し、上野国の名族「上毛野氏」の本拠地と推定されている。また赤城山山頂の赤城神社の里宮とも言われている。
 この社には神仏習合の神社の名残りが多数あって、境内には宝塔、参道には鐘楼などがあるし、周囲には、古墳や遺跡の多い場所だ。現代に至るまでの歴史の遺構が何かしらの型で残っていて、色々な意味において興味が尽きない面白い社だ。
 

               南向きにある朱塗りの一の鳥居               鳥居を過ぎるとすぐ右側にある鐘楼

          昼間でもほの暗い参道          隋神門の先で左側には案内板が設置されていた。

二宮赤城神社
 
当社は、第十代崇神天皇の皇子「豊城入彦命」「大己貴尊」を始めとし、数柱の神々を祭神とし、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇の時代に創建されたと伝へられる古社である。特に、古代豊城入彦命を始とした毛野氏の子孫上毛野氏と深い縁のあった社とも伝へられている。
 平安朝初期の第五四代仁明天皇の承和六年(八二九)に従五位下に叙されて官社となり、続いて昇叙を経、第六〇代醍醐天皇の延長五年(九二七)に制定された「延喜式」内、上野国十二社中の名神大社とされた。第六八代後一條天皇の長元々年(一〇二八)頃の上野国の国司文書中に、正一位赤城大明神、上野国神名帳には、上野国二宮赤城大明神などの神位、神階が記録されている古名社であった。第七〇代後冷泉天皇の永承四年(一〇四九)には、日本全国の諸社中から五五社が選ばれ、神仏習合の勅願神社となり、当社もその一社として、社域内に造塔の折、心礎(根巻石)内に仏舎利(釋迦尊の骨片、現存)が奉納されていたのである。
 鎌倉時代には征夷大将軍源頼朝の崇敬を受け、建久五年(一一九四)当社などの修築を、守護職安達盛長に命じ、二宮太郎浅忠、岡部九内忠成らが修築を奉行したり、百石を寄進したと云う記録も見られる。戦国時代に小田原城主北條氏政の軍勢に依って、数多くの建物は打壊され、壊滅的被害を受け、宝物類も多く失ない衰微した。天正十八年(一五九〇)北條氏滅亡後、領主として大胡城へ入城した牧野駿河守忠成、康成父子を始めその後厩橋藩主となった酒井氏歴代、江戸時代幕府の天領代官藩主松平氏歴代さらに住民に篤く尊崇されてきた、そして赤城南麓地帯の連神社の中心的役割を果していた。
                                                            案内板より引用

       神代橋を渡り、正面には随神門               門の手前、右側にある社日
           
                              拝    殿
                                     
                                 
 随神門を過ぎると広い境内が広がり、社殿を中心として、その周囲には数多くの境内社、石祠等がある。社殿の左側には藁葺の神輿倉があり(写真上段左)、嘗ての十二天社といい、仏教のいう十二天を祀っていた場所だったが、明治時代の神仏分離政策により、現代は神興庫として使用されているという。また社殿右側には、演舞台(同右)、そして新しい神楽殿(下段)が並んであった。
 当神社には、太々神楽・雅楽・式三番叟が伝えられ、演じられ奉納されている。この式三番叟は、農村歌舞伎・地芝居・神楽が融合したもので、神社の古式神事と結びつく貴重なものであり、市の重要無形民俗文化財に指定されている。当社には、享徳2年(1453)神社再興の際に作られたと推定される納曽利面があり、県の重文に指定されている。舞楽の面で、納曽利には陵王が舞われる。陵王は竜王と解され、雨乞いでよく舞われる舞楽である。 
           
                              本    殿
 二宮赤城神社のの創建は不詳だが、社伝では垂仁天皇の時代に創建されたと伝えられている。建久5年(1194)には源頼朝が社殿を再建し、社領100石が寄進され社運が隆盛した。戦国時代の永禄年間(1558~70)小田原北条氏の兵火に見舞わられ、社殿をはじめ社宝、記録等が焼失したが、その後領主となった牧野氏や前橋藩主・酒井氏、松平氏に庇護され再び隆盛した。本殿の妻壁の架構も複雑に構成され、二重虹梁下の彫物も独特の意匠となっている。

 二宮赤城神社 由緒
 創立年代は不詳。
 社伝では人皇11代垂仁天皇の御宇に創建されたとつたえられていますが、この地は赤城山南面で赤城信仰の上で絶好の地点(西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて共に赤城山を水源としている)で、大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳が存在し、上野国の名族「上毛野氏」の本拠地と推定されていることは往古より信仰と共に栄えた証であります。
 赤城神社に関する文献の初見は「続日本後期」承和6年(839)で、上野国無位赤城神に従五位下が奉授された記事があり、以後「三代実録」では四回にわたり赤城神の神位昇授が記され、「上野国交替実録帳」には正一位赤城明神社とあります。
 平安後期には全国に「一宮二宮」の格付けがおこなわれはじめましたが、当社は上野国の二宮として(地名にもなり)現在に至っています。
 又、次のような伝説も有ります。
 あるとき、赤城の神が絹機を織るのに、くだが不足したので思案の末、貫前の神は外国から来て機織が上手であるから、持っているであろうと頼み、借りて織りあげた。
 そこでこのような技術をもった神が他国へ移ってはこまるので、赤城神社は一宮であったが、その地位を貫前神社に譲って二宮になったという話です。
 つまり貫前の神は帰化人の神であったと見ることができます。
 それにひきかえ赤城の神は上野国の土地に以前から住んでいた人々が祭っていた神です。
 そして、この頃は少なくとも赤城神社の方が貫前神社よりも広く一般から信仰され、崇敬が厚かったことを物語っています。
                                        
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
      

          拝殿右側にある日枝社          日枝社の右手にある赤城神社の文化財案内板
                                
        本殿右奥の林の中に、鎌倉時代のものと推定される、舎利孔をもつ塔心礎がある。

                
  本殿後方右側、日枝神社の裏手には道祖神や石祠が祀られ、鳥居の奥には秋葉神社が祀られている(写真上段左)。秋葉神社は俗にいう「火伏せの神」といい、広く信仰された秋葉大権現(現在の静岡県浜松市に本宮をもつ秋葉山本宮秋葉神社を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ないという。 
 また社殿の左側後方には「宝塔」があり(写真上段右)、南北朝期のものと推定され、この地方に広く分布し赤城塔と呼ばれていて、天台宗の法華経信仰によるものと考えられているそうだ。社殿の両サイドには多くの祠がビッシリと並んでいる(写真下段)。二宮町周辺の神々をこの地に集めた結果なのだろうが、やはり実際に見ると群馬県にはこのような社が多く、その数の多さに驚く。 
                            

 ところで、二宮赤城神社の御神幸という伝統行事が毎年4月、12月の上旬の初辰日に行われている。この御神幸というのは、二宮赤城神社と三夜沢赤城神社の間を御神体が往復する行事で、二宮赤城神社独特の神事であるらしい。御神体(神輿)は、神鉾・神衣(かむみそ)といい、娘神である二宮が、父神である三夜沢赤城神社へ衣替えのため渡御するという伝承で、古くは神衣祭(かむみそさい)と呼ばれていたが、現在は御神幸またはオノボリと呼ばれている。

 当日、氏子総代が集まり祭典を行い道中の無事を祈る。以前は拝殿から神輿を三夜沢までの12kmを徒歩で担いだ。現在は車を使用している。途中、大胡神社(旧近戸神社)と柏倉町の「お輿懸(阿久沢一家)の2箇所で休憩し、接待を受ける。この神事は、山宮と里宮の関係を示す行事で、古代の信仰を考える上で重要である行事であるという。



                    



 


 

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三夜沢赤城神社

  赤城神社は、「赤城」を社名とする神社で、群馬県中央部に位置する赤城山を祀る神社である。赤城山は関東地方の北部、群馬県のほぼ中央に位置し、榛名山、妙義山と並び上毛三山の一つと呼ばれ、また日本百名山、日本百名水にも選ばれている。この山は中央のカルデラの周囲を、円頂を持つ1200mから1800mの峰々が取り囲み、その外側は標高にして約800mまでは広く緩やかな裾野の高原台地をなしている。この赤城山を御神体として祀る神社が赤城神社であり、群馬県内には「赤城神社」という名前の神社が118社、日本全国では334社あったとされる。関東一円に広がり、山岳信仰により自然的に祀られたものと、江戸時代に分祀されたものがある。
 赤城神社は式内社であり名神大の社格があり、上野国の二之宮である。伝承では、本来、一之宮であったが、財の君である、貫前の女神を他国へ渡してはならないと、女神に一之宮を譲ったという。さらに、赤城神が絹機を織っていたが、絹笳が不足したが、貫前の女神から借りて織り上げたとも言う。ここでいう「財の君」はまず貫前神社の祭神である姫大神であり、「他国へ渡してはならない」との他国とは信濃の建御名方刀美神であるという。
 別の伝承もあり、群馬県で有名な三つの神社、赤城神社、榛名神社、貫前神社、実は、この三つの神様が、三姉妹であった、という伝承が残っている。それにまつわるお話が、「一ノ宮伝承」で、上記「三姉妹」の女神様たちが、高天原の神々に対して、本職であるところの「織物」を献上することとなった。三姉妹はそれぞれ織物を織ったのだが、当時「一ノ宮」であった「赤城神社」の「姫大神」さまは、材料が不足していたため、約束の織物を作成することができそうになかった。そこで、赤城神社の姫大神さまは貫前神社の姫大神さまから 「材料」を借りて、約束の織物をつくることができたという。その時の功績に基づいて「これからは貫前神社が上野の国の一ノ宮とする」と決められたというが真相はどうであったろうか。

 この社の正式名称は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「三夜沢(みよさわ)赤城神社」とも呼ばれる。関東地方を中心として全国に約334社ある赤城神社の本宮と推測されるうちの一社である。
所在地    群馬県前橋市三夜沢114
御祭神    赤城大神(大己貴命、豊城入彦命)
社  挌    式内社(名神大)論社、上野国二宮論社、旧県社
       古くから文武の神として、武将が崇敬した神社で、創建は祟神天皇朝の頃と言われる。
例  祭    元日祭・1月1日、修請会・1月5日、御鎮祭・3月と11月の10日、
         御神幸・4月と12月の初辰日、例大祭・5月5日

       
 三夜沢赤城神社は大胡神社から群馬県道16号大胡赤城線を北上し道なりに真っ直ぐ進み、その突き当たりに鎮座している。筆者は埼玉県北部の熊谷市に在住しているが、そこから見る赤城山は美しい稜線と裾野が広がる雄大な山だが、流石に赤城山南麓となると周りの風景も一変する。それはそれで風情もあり良いものだが。
 正面鳥居の左側には専用駐車場もあり、そこに車を停めて参拝を行う。ちなみに前出の群馬県道16号大胡赤城線をそのまま北上すると赤城山山頂に行き着くが、山頂付近の富士見町には大洞赤城神社が鎮座していて、その丁度南側で、赤城山南麓にこの三夜沢赤城神社が、そしてその南方向には里宮的な位置に二宮赤城神社がほぼ一直線に鎮座している。
          
                         参道手前の木製の大鳥居
 鳥居の両側には「赤城神社」の社号標。時代が異なるのであろう、左側のそれは新しく、また一際大きく「縣社 赤城神社」と書かれている。
 赤城山山頂に鎮座する大洞赤城神社の朱色を基調とした華やかで派手な社殿とは対極に位置する神秘的で、荘厳な社。大鳥居の前に佇むだけでもその神々しい雰囲気に暫し圧倒される。
               
                     大鳥居の手前、右側にある案内板

 赤城神社由緒略記
  勢多郡宮城村大字三夜澤鎮座
 祭神  赤城神  大己貴命、豊城入彦命 
 
由緒  
 赤城神社は東國開拓の神々が 祀られている古来の名社である
東國経営にあたつた上毛野君の創祀 以来 國司 武将が篤く崇敬し朝廷 からも承和六年(西暦八三九年)に従五 位下を贈られ 元慶四年西暦八八〇 年に従四位上にあげられ 延喜  式には名神大社に列せられた 長元九年 (西暦一〇二八年)頃には正一位に叙せ られ次いで上野國の二宮とうやまわれていた。
赤城山は高く 美しく うしろに山 山をひかえて 雄然と聳えている
山頂の小沼から出る粕川を始め各河 川は麓の村〃をひろくうるほしてい る その尊厳と恩恵とはみ山とよは れ親しまれ尊はれ上毛野君の昔から 祀りつかれて来た
分社は群馬県下のみで七十八社その 他を併せると三百余社に及ぶ昭和十 九年(西暦一九四四年)には國幣中社に 昇格の内定があつたが 終戦後は國 土建設 開拓精神発揚のため神威 益々顕著である(以下略)
                                                            案内板より引用
                                                                                                      
       鳥居を入って右手にある神池         池全体から蒸気が立ち上っていた。何と幻想的
                                           で神秘的な雰囲気
           
        圧倒されるくらいの神々しい空間。溢れんばかりの聖域感がここには存在する。

 三夜沢赤城神社の参道を進むと右側に一風変わった石碑と案内板がある。神代(じんだい、かみよ)文字が掘られた明治3年の石碑がそれである。


神代文字の碑(前橋市指定重要文化財) 
 一般に日本民族は漢字が伝わる以前は、文字というものを知らなかったとされているが、伝説ではそれ以前に神代文字と呼ばれるものがあったといわれ、現在ははっきりしているものだけでも数種類にもなります。
 この碑文は復古神道を体系づけ実践化し、又「神代日文伝(かむなひふみ)」の著作者で神代文字肯定者の一人でもある江戸時代の国学者平田篤胤の養子鐵胤が、上部の神文については、鐵胤の子延胤が撰文し、書は篤胤の門人権田直助によるものです。
 神文については、対馬国「阿比留家」に伝わる神代文字(阿比留文字)で書かれ、復古神道の遺物として重要なもので明治三年三月に建てられました。
                                                            案内板より引用

 神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)とは、漢字伝来以前に古代日本で使用されたとされ る日本固有の文字の総称であり、主に神社の御神体や石碑や施設に記載されたり、神事などに使われており、一部の神社では符、礼、お守りなどに使用するほか、神社に奉納される事もあった。機密文書や武術の伝書のほか、忍者など一部の集団で秘密の漏えいを防ぐために暗号として使用されたという。また、江戸時代の藩礼の中には、偽造防止のため意図的に神代文字を使用したものもあるそうだ。
 三夜沢赤城神社のある神代文字は「阿比留文字」と言われる対馬国のト部氏、阿比留氏に伝わったといわれ、江戸時代の国学者である平田篤胤は「日文四十七音」とも呼んだ。太占の兆形から出来たともいわれる。古代の肥後国球磨郡(球磨川流域・球磨盆地)に住んでいた人(肥人、くまびと)が使っていた文字とされる事から「肥人書」とも呼ばれる。
 この赤城神社境内神代文字の碑は昭和53年4月1日前橋市指定文化財に登録された。

     境内全域に立ち並ぶ杉の木の大木、巨木。この社はまさに水と木に囲まれた聖なる社だ。
                
                          石段の上には拝殿が見える。
                      
                             拝    殿
    向拝のない神明系の厳かで大きな拝殿。明治年間に火災で焼失した後、再建されたもの。
          
                             拝殿の後方、一段高く中門があり、垣の中に本殿が見える。
 かつて御本殿は東西に分かれそれぞれ御祭神をお祀りしていたが、明治2年に合祀されたとのこと。

三夜沢赤城神社の概要
 三夜沢赤城神社の創建は不詳ですが古代上野国を支配した上毛野君(豐城入彦命子孫)を祀っている事からも古くからの産土神として信仰されてきたと思われます。上野三山である赤城山、妙義山、榛名山は古くから霊山・神山として信仰の対象だった存在で、上野国の象徴的な存在と朝廷の権力を融合させる事でより円滑に支配を固めていったと思われます。赤城山荒山の中腹にある「櫃石」は古墳時代中期の祭祀跡と推定され高さ2.8m、最長4.7mの巨石を中心に自然石や祭祀遺物が発見され群馬県指定史跡に指定されています。赤城神社は承和6年(839)に従五位下、元慶4年(880)に従四位上、長元9年(1028)には正一位の格式を賜り、延喜式神名帳には名神大社に列せられ、上野国十二社の内貫前神社に次いで二ノ宮となっています(当初、赤城神社が一ノ宮だったそうですが機を織っている時に「くだ」が不足になり、貫前神社に借りて織り上げたので、織物が上手で財を持っている貫前神社に一の宮を譲ったといわれています。)。
 赤城神社は早くから神仏習合の形態を取り入れ小沼の神は虚空蔵、大沼の神は千手観音が本地となり、時代が下げって地蔵菩薩が加わったとされます。当初は東西2社に分かれていて、西社に小沼の神と大沼の神が祀られ、東社には地蔵菩薩が祀られていましたが、貞和元年(1345)頃、現在地である東社の境内に西社が遷座し、両社が並存する形態となりました。歴代領主や支配者から崇敬され鎌倉幕府三代将軍源実朝は「上野の勢多の赤城のやしろ やまとにいかで あとをたれけむ」の唄を残し、上杉氏、武田氏、小田原北条氏、大胡氏、由良氏、長野氏など大大名から地元領主まで多くの祈願文や寄進状が残されています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、東西両社が統一、別当神宮寺であった東社の竜赤寺と西社の神光寺が廃寺となり赤城神社として独立します。現在の本殿(神明造:切妻、平入、銅板葺、桁行3間、梁間2間)、宮殿、中門(四脚門:一間一戸、切妻、銅板葺)、明治2年(1872)に建立されたもので、時代背景から復古神道の影響をうけた代表的神社建築として群馬県指定文化財に指定されています(同時期に建てられた拝殿と神楽殿は明治27年に火災により焼失しその後、再建。)。惣門は宝暦元年(1751)に建てられた三夜沢赤城神社境内にある最古の建物として群馬県指定文化財に指定されています。
  赤城神社の本社は赤城山山頂に鎮座する元社と麓にある二宮赤城神社と三社が名乗っていて、記録の散逸などで詳細は不明ですが、元々の本社は二宮赤城神社とされ、戦国時代に北条氏の兵火により衰退したことで、その山宮とされる西社を擁する三夜沢赤城神社東社が本社の地位を確立、江戸時代に入ると前橋藩の藩庁が置かれる前橋城から鬼門に当る為藩主から崇敬された元社が急速に力と権威を付けたという説が有力なようです。赤城神社信仰は広く群馬県118社、埼玉県23社、栃木県9社、茨城県10社、新潟県13社、福島県11社あり合祀されたものを合わせると334社に達するそうです。
                  
群馬県指定天然記念物  三夜沢赤城神社のたわら杉      昭和四八年四月二五日指定
 
赤城神社の境内には杉の大木が多数あり、ヒノキやアスナロ などもみられます。中でも目を引くのが中門南側とその西隣に ある三本の杉の大木「たわら杉」です。東側のものから、目通 り周五・一m、六・一m、四・七m、根元周六・〇m、九・六 m、五・六mとなっており、樹高は各々約六〇mです。これら 三本の杉は群馬県内でも最大級のものといえるでしょう。
 たわら杉には、「藤原秀郷(俵藤太)が平将門について上野 国府(前橋市)に来る途中、赤城神社の前を通りかかった際に 献木したものである」という伝説が伝えられています。藤原秀 郷は藤原鎌足八代の後裔と伝えられ、平将門の乱を平定し、武 蔵守・下野守・鎮守府将軍をつとめたとされる平安時代の武将 ですが、その実像はあまりわかっていません。
 一方、秀郷に関する伝説としては、大ムカデを退治して琵琶 湖の龍神を助けた、弓矢の名手にして神仏への崇敬篤い英雄と して描く御伽草子「俵藤太物語」が有名です。鎌倉時代、上野 国(群馬県)東部から下野国(栃木県)南部にかけての地域は、 幕府の弓馬の家として一目を置かれた大武士団の拠点でした。 彼らはともに「秀郷流」を称していましたので、おそらく秀郷 がムカデ退治の弓矢の名手「俵藤太」として説話の世界で活躍 を始めるのはこのころからです。秀郷流武士団のなかでも赤城 神社への信仰が篤かったのは大胡氏でしたが、富岡市一之宮貫 前神社境内にある「藤太杉」にも同様な伝説が伝わっているこ とから、弓矢の名手秀郷へのあこがれは、中世の武将たちに共 通する意識だったのかもしれません。
 ところで、日光の二荒山神社の縁起では、日光神と戦った赤 城神がムカデの姿で表されており、起源を異にする秀郷とムカ デと赤城神社が様々な伝承や説話を受け入れながら結びついて きた様子がうかがえます。このように、「たわら杉」とその伝 説は、名も無き多くの人々の交流の歴史を伝える遺産であり、 赤城神社に対する時代と地域を越えた篤い信仰を象徴していま す。
                                                         境内案内板より引用
               
                        拝殿の西側にある神楽殿
              
                                            本殿の東側の斜面に多数ある石祠群

  関東の大平野の北に並んでいる山々の最前列にそびえているのが赤城山であり、その何面の中腹に群馬県勢多郡宮城村大字三夜沢の地がある。赤城神社の鎮座地である。
 赤城山中央、荒山の下方山麓の景勝の地にあたる。海抜五七〇メートルである。
 赤城山は背後の諸山を従えて、長く裾を引き、雄然とあたかも王者のように大平野にのぞんでいる。頂には黒桧岳、駒ケ岳、地蔵岳、荒山、鍋割等の峰が東から西にかけて見えていて王冠のようである。その間に大沼、小沼があり、小沼からは粕川が流れ出して、滝や渓谷をつくり、裾野をうるおし、また粕川、荒砥川とともに、平野の潅がいに利用されている。その流域には御分社が多い。平坦地では赤城山を「御山」(おやま)とよんでいる。神山と仰ぎ尊んでいたものである。
 神社のうしろの荒山から下だってくる尾根の端には神跡「ひつ石」がある。古代祭シの遺跡で、ここからは関東平野が一望のうちにおさめられ、その間を流れる利根川の末は雲煙の彼方太平洋をしのばせ、南方はるかに秩父山脈を越えて富士の霊峰を望むことができる。
 赤城神社の名が歴史書に見え始めたのは、今からおよそ一千百年余り前の仁明天皇の承和六年(西紀八三九年)のことである。その時に従五位下の神位を授けられているので、それ以前に既に朝廷から祭祀を受けられ、官社となっていたのである。延喜式の神名帳では、名神、大社に列せられ、神位は次第に昇叙されて、九条家本廷喜式裏文書には正一位と記してある。
 このように古くから著名な神であったのは、古代の上毛野国(群馬県全体)を支配していた上毛野君という一族がまつっていたからである。上毛野君は豊城入彦命の子孫と伝えられていて、上毛野国の国造となり、東国を治め、蝦夷を同化させることを任務としていた。日本書記に、「崇神天皇は豊城、活目の二皇子の夢を占って、後嗣を決めようとされた。二皇子は体を清め、神に祈って夢をみた。兄の豊城命の夢は御諸山に登って東に向かって八たび槍を振り、八たび刀を振ったというのであり、弟の活目尊の夢は御諸山に登って縄を四方に張り、粟を食う雀を追い払ったというのである。天皇は夢占いをして、兄は東国を治め、弟は天皇の位を継ぐことを決められた。豊城命は東国を治めることになり、上毛野君、下毛野国の始祖である。」という意味のことが記してあり、また同書に「景行天皇は豊城命の孫彦狭島王を東山道十五国の都督に任命された。ところが王は春日の穴昨邑というところで病死した。その時東国の人々は王が任地においでにならないことを悲しんで、王の屍をとって上野国に葬ったとあり」次いで「景行天皇は彦狭島王の子御諸別王に父の業を継いで、東国を治めしめられた。蝦夷の首領が降参して、東国は永く平和になり御諸別王の子孫が後までも栄えている。」という意味のこともしるしている。
 つまり上毛野君の氏族が東国を開拓して、東北地方へまで発展していたので、その基地である上毛野国に赤城神をまつったもので、そこで平野に臨んで、他の山々を後ろに従えたこの赤城山の神、小沼から流れでる粕川が潅がいに利用されたのでその農業の神とが、赤城神の起源と考えられる。
 鎌倉時代になると、三代将軍源実朝の歌に、「上野の勢多の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ」とあるように、将軍をはじめ武将たちが崇敬したばかりでなく、赤城神社は上野国の二宮と呼ばれて、一般の人々の信仰のまとになった。神道集という吉野時代に伝説などから作りあげられた物語の本には「もと赤城神は一宮であったが、機を織っている時に、「くだ」が不足し、貫前神に借りて織りあげたので、織物が上手で、財持ちである貫前神に一宮をゆずり自分は二宮になった。」ということが見えている。その頃は一宮の貫前神よりも二宮の赤城神の方が一般の信仰をあつめていたから、このような伝説が起こったのである。
 神道集が作られた頃は、本地垂迹説によって、神と仏とが一つにして拝まれていたので、赤城神ははじめ小沼の神に虚空蔵、大沼の神に千手観音があてられ、吉野時代頃には地蔵が加わって三神とされた。小沼及び大沼の神は粕川の上流の勢多郡粕川村大字室沢字御殿(元三夜沢)にまつられ、後に粕川の上流の神社が現在の三夜沢の地に移り、西宮と呼ばれ、今までこの三夜沢にあった神社は東宮となり、江戸時代には東西両宮が並んでいた。このように一地に神社が移されたのは、戦国の世と呼ばれる頃であろう。
 しかし、戦国の頃には各武将の信仰が特に篤く、上杉、北条、武田の三氏をはじめ、由良、長野、大胡などの国内の諸将士の願文や寄進状等が神社に蔵されている。殊に由良成繁奉納の宮殿はその寄進銘が扉にあって珍しいものである。また大胡氏はまず大胡に、次いで江戸に移ると牛込に赤城神社を分祀した。大胡氏の後に大胡城主となった牧野氏も土地を寄進している。
 参道は大胡(中央)、市之関(西)、苗ケ島(東)の三方から一の鳥居に集まっている。年代記には慶長年間に各参道に松を植えたとあって、現在中央の松並木のみが残っている。稀な松並木であり、由緒の明らかなものであるから、特に保存されるべきものである。現在の社殿は明治初年に東宮の位置に建て替えられて、東西両宮を併せて一社とされた。昭和十七年に国幣中社に昇格の内定があったので、社域整備に着手したが、終戦と共に官祭が消滅し、それ以後は専ら氏子及び信仰者によって維持されてきている。
 分社は赤城山南麓地は勿論関東平野の全般から、新潟、福島、宮城の諸県に及んでいる。現在のもののみで、群馬県に一一八社、埼玉県に二十三社、栃木県に九社、茨城県に十社、新潟県に十三社、福島県に十一社、その他を合せて計一九一社であり、合併または廃社を合せると三三四社に達している。四季を通じて、各分社からの参拝も多い。
                                                     平成祭データーより引用



                                                                                                    

                                                                                                 



 


 

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一之宮貫前神社

 古の「毛の国」、又は毛野国と言われ、独立した一つの文化圏・毛野王国を形成していた群馬県は、「延喜式」での格は大国で遠国。「記紀」・「六国史」での格は811年(弘仁2年)までは上国、以後は大国と、関東では嘗て最も繁栄していた実り豊かな強国だった。
 また群馬県は全国でも有数の古墳県であり、全国の古墳の大きさトップ100のうち、群馬は奈良、大阪、岡山に次いで、4番目に多い数があり、東国(東海・甲信・関東地方)では、圧倒的な質と量を誇る。
 なかでも群馬の古墳時代を代表する前方後円墳が太田市の
天神山古墳で、5世紀の中ごろに築かれたと言われている。太田天神山古墳の特徴の一つは規模の大きさで、墳丘の全長210メートル、二重に巡る堀の範囲まで含めると長さ364メートル、幅288メートルとなり、東日本最大の巨大前方後円墳である。さらに、遺骸の埋葬に使用された石棺も注目に値する。太田天神山古墳の石棺は「長持形石棺」と呼ばれるものだが、強い権力を持つ者に多く用いられ、東日本では極めて珍しい埋葬施設という。
 また群馬は「埴輪(はにわ)王国」と呼ばれ、日本における埴輪研究の聖地と言われるほどだ。唯一の国宝埴輪である「武装男子立像」は、太田市飯塚町から出土するなど、国宝・国指定重要文化財の埴輪全42件のうち19件(45%)が群馬県から出土していている。
 このように「毛の国」は豊かな国力を背景に、国内ばかりでなくアジア大陸との交流も盛んであった。歴史のロマンを掻き立ててくれるこの地の一之宮は群馬県西部の静かな場所に鎮座している。
所在地    群馬県富岡市一ノ宮1535
主祭神    経津主神  姫大神
社  格    式内社(名神大) ・ 上野國一宮 ・ 旧國幣中社・別表神社
創  建    安閑天皇元年(531年)   
例  祭       3月15日
神  事
    水的神事、巫射、御戸開祭 鎮神(しずめ)事 
            酒御造行事,川瀬行事 鹿占神事、機織神事

         
 一之宮貫前神社は、国道254号富岡バイパスを下仁田方面に進む。富岡市街地を抜けて、更に西側に鎮座する。貫前神社に行くには、254号バイパスと西上州やまびこ街道の接する一ノ宮交差点で右折し、約400m位行ったとこを右折するか、一ノ宮交差点の手前、一ノ宮北交差点を右折し、左側に鳥居があるT字路を左折するかどちらかだが、前者は右折すると結構急勾配の坂道なので軽自動車の愛車ではきつく感じるし燃費も悪い。安全に行くには一ノ宮北交差点を右折したほうがいいと思う。今回も(参拝日平成24年2月28日)そのルートで参拝した。神門を過ぎるとすぐ左側に市営駐車場が有り、そこに車を止め参拝を行った。
                 
                                                 正面大鳥居
                                   
                                                      大鳥居から総門に続く参道
              
                         貫前神社総門の前には両側に唐銅製灯籠がある。富岡市指定文化財

貫前神社唐銅製灯籠
 
高さ約395センチの一対の銅製灯籠で、慶応元年(1865年)製作、慶応2年にここに建てられた。灯籠の基礎部と竿部の間に、灯籠建立の際の献納者名・住居地・献納額が2段に刻まれている。献納者の人数は合計で1544名、献納額は総額4790両にのぼり、地元の多数の養蚕農家を初め、上州・江戸・横浜の生糸・絹商人らが献納している。
 本県をはじめ、周辺各地における養蚕・製糸業の繁栄興隆と、これに携わる人々の祈念を明確に示す資料として重要であり、7年後に開業した官営富岡製糸場の先駆的記念碑ともいえる重要な文化財である。

                                  
                                                           総門左側にある案内版
                                  
                             貫前神社総門 この神社では一番標高が高い位置に立っている。
                                    
   一般的に神社の境内、特に社殿は参道や門から石段を上がったところにあるが、この神社は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿がある、いわゆる「下り宮」と呼ばれる特異な形態を有している。『全国一の宮めぐり』によれば「下り参りの宮」の通称で呼ばれると言う

  神社のホームページには「貫前神社は綾女谷と呼ばれる渓間を切り開いて建造され、しかも南向きに建っているため正面参道からは丘を上って嶺に出て、それから石階段を中腹まで下って社頭に達する順路になる。」と書かれていた。総門をくぐった両サイドの風景や月読神社野土台といい、楼門、拝殿、本殿脇の壁面は石を組み上げて造った壁、完全な石垣がそこにあった。まるで城のようだ。
        
                      楼門 昭和51年国指定重要文化財に指定
            
                   楼門手前に鎮座する月読神社 祭神は月読命
          貫前神社の古い拝殿ともいわれ、明治時代までは牛王堂として祀られていた。
                    現在は近郊の4神社も合わせて祀られている。

           
             
                                                        楼門の東側にある神楽殿  
          全体が朱の建物に対してこの建物だけ黒を基調としていて特別な雰囲気だ。


                    拝殿 本殿 どちらも国指定重要文化財
 平成の大修復のため参拝できず、脇からの撮影にとどまる。
本殿は春日造りの形体だが、内部が2階建てで神座はその2階部分にある「貫前造り」と呼ばれる独特な構造だという。

由緒  
一之宮貫前神社
  上野国一宮、元国幣中社、一之宮貫前神社、群馬県富岡市一ノ宮鎮座。

 「一番はじめは一ノ宮」と古くからわらべ歌にうたわれている通り、一之宮貫前神社は上野国の一宮で、経津主神と姫大神を祀り、開運、治安、農耕、機織、縁結び、安産の神として県内はもとより、遠近の人々に信仰され親しまれている。
神社は、鏑川の清流に臨み北に妙義、南に稲含、秩父の連山、西に神津荒船の連山を仰ぐ景勝の地にあり、小高い丘陵を登り、見上げるような丹塗の大鳥居をくぐり、北斜面の下り参道をおりて参詣するという全国でも珍らしい形態を持ち総漆塗極彩色の社殿が鬱蒼と繁った杜に囲まれ巧に配置散在する様は、恰も日光の東照宮を見るような華かなもので、小日光と呼ばれている。
御祭神
 
経津主神、姫大神。
 経津主神は磐筒男、磐筒女二神の御子で、天孫瓊瓊杵尊がわが国においでになる前に天祖の命令で武甕槌命と共に出雲国(島根県)の大国主命と協議して、天孫のためにその国土を奉らしめた剛毅な神で、一名斎主命ともいい建国の祖神である。
 姫大神は祭神不詳で、恐らく綾女庄(一ノ宮地方の古称)の養蚕機織の守護神と考えられる。
由緒
 社伝によれば、碓氷郡東横野村鷺宮に物部姓磯部氏が奉斎、次で、南方鏑川沿岸に至り蓬ケ丘綾女谷に居を定めお祀りしたのが安閑天皇元年3月15日である、天武天皇白鳳2年3月15日初度の奉幣があり、清和天皇の貞観元年に宸筆の額を賜り、神位の昇る毎に書き改めて今に残っているものに正一位勲五等抜鉾神社とあり、即ち勅額で楽翁公の集古十種に記されている。
醍醐天皇の御代、延喜の制には名神大社に列し、上野国一ノ宮として朝野の崇敬を衆め、武家時代に至って、武家、地方豪族が格別に崇拝して数々の献品をなし、奥方連中からも奉納品等があって女神様の信仰も篤かったことが知られる。
明治4年国幣中社に列格、昭和21年、社格制度の廃止により一之宮貫前神社と称し現在に至る。
この間御修理に御下賜金、皇族方の御寄進或は御親拝(昭和9年)皇族方の御参拝等御神威彌彌高く農耕、殖産、開運の神として神徳四方に遍く一朝国家有事の際は賽者踵を接する。
社殿と境内
 現在の社殿は徳川三代将軍家光の命により改築したもので、寛永12年(約330年前)の造営である。元祿11年、五代将軍綱吉が大修理をした、江戸初期の総漆塗精巧華麗な建造物というだけでなく、その構造が、いわゆる貫前造と称する特異な点から重要文化財(旧国宝)に指定されている。
拝殿、楼門及び東西両廻廊は同時代の建築である、実に徳川家の抱え大工が日光廟という世界的美術建造物を完成する道程の中にあるものといえる。
境内は約26000坪、北斜面の森林で、本殿裏に樹令約1200年の杉の御神木があり、一名藤太杉とも云う、その昔、藤原秀郷(俵藤太秀郷)が戦勝祈願をこめて年令の数即ち36本を植えたと称するもので、現在はこの御神木一本だけが残っている。
西の門内は式年遷宮祭の御仮殿敷地、東の門内は往時神仏習合時代の僧堂敷地で、観音堂跡、三重塔跡、鐘楼跡等がある、不明門内にある鳥居は勅額鳥居と称え昔は遥か南方正面田島字鳥居の地にあったと伝えている。
宝物
 総て四百点余、鏡、武具をはじめとして、御神衣、古文書、神楽面等古来の崇敬信仰を語るに足る諸品を蔵している。
鏡、百数十面、奈良、平安、鎌倉、室町、吉野、桃山、江戸の各時代を通じて大観し得るものとして金工美術上珍重されている、内重文に指定されているものは次の通り。
白銅月宮鑑、唐鏡、約2000年位前の作。
約360年程前文禄3年頃小幡竹千代の乳母奉納
梅雀文様銅鏡、約760年前、鎌倉時代
竹虎文様銅鏡、約500年前、室町時代
御神衣、六十余領残存、元和9年以来遷宮毎に新調奉納
                                      全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

    
 一之宮貫前神社は、社伝によれば、碓氷郡に物部姓の磯部氏が奉斎し、その南方の鏑川沿岸を至って蓬ケ丘綾女谷に定め祀られたとある。
 古くは貫前神社、鎌倉時代から江戸時代にかけては、抜鉾神社、明治以降は現在の貫前神社と称している。本来「抜鉾」「貫前」は別神と考えられている。
抜鉾神は、男神・経津主神で、物部氏の系統をひく祭神で、群馬、碓氷、甘楽郡の西上州を中心に栄えた物部氏の氏神となった。一族は同時に鏑川流域の最高峰・稲含山の雷神を信仰していたという。
 貫前神は女神で、多野郡から甘楽郡の鏑川沿岸にいた帰化人が氏神としてまつっていたとされる。この神は農業と機織り、水源の神として厚く信仰されたという。総門より下り参道になっており、参道を下った低地に社殿が位置している。
 また現在は「一之宮貫前神社」という名で呼ばれているが、一部の歴史書によれば「抜鋒神社」という名前も見られる。これは祭神である経津主神の他、姫大神(比売大神)も祭神として2柱をお祀りしているためであり1神1社説、2神2社説等がある。
 延長五年(西暦927年)に編纂された「延喜式神名帳」によると貫前神社は上野国式内12社中の筆頭として「一之宮」を冠ぜられた。時代は下り戦国時代、西上野は上杉・武田・北條の各氏が激戦を繰り広げる場所で、支配者がたびたび変わる地域だったが、格式高く、武神である経津主神を祀っている貫前神社は各氏から庇護を受けたという。
 江戸時代に入ると徳川家の庇護を受け、三代家光や五代綱吉の時代に社殿の再建や改修が行われ、現在、国指定重要文化財である本殿、拝殿、楼門はこのときに作られたものとされている。


 また御本殿内部、左手には摂社抜鉾若御子神社がひっそりと鎮座する。上野国の国内神名帳にその名があり、この社殿は(1828年)の建立という。
               
                          摂社抜鉾若御子神社

 また神楽殿の南側には不明門と勅額鳥居がある。
      

不明門
 
普段は開門しないことから「不明門」(あかずのもん)ともいわれている。朱雀天皇の時代の勅使参向の折に建てられたと伝わる。現在では春秋の「御戸開祭」と「流鏑馬神事」で1年に3回開かれる。
勅使鳥居
 清和天皇御染筆の額が掲げられていたことから勅額鳥居といわれる。この鳥居も両部鳥居で現在は有栖川宮幟仁親王の額が掲げられている。

 また貫前神社社殿の西側には広い空間があり、そこには仮殿跡地と末社群が存在する。この末社群には二十二末社という合祀社があり、その二十二末社とは、①竈,②菅原,③沓脱,④速玉男,⑤粟島,⑥春日⑦奇八玉,⑧諏訪,⑨八幡,⑩事解男,⑪咲前,⑫浅間、⑬高?,⑭少彦名,⑮長田,⑯伊邪那岐,⑰八坂,⑱白山比咩、⑲熊野,⑳水分,?熱田,?扣各神社で、上野領地内に祀られていた各社を、寛永十二年の御造営の時にまとめたものらしい。
                

一之宮貫前神社には樹齢1000年の巨木がある。本殿から階段を登り右側の広場にあり、幹は数本の枝幹が成長して重なり合った奇異な形をしている。樹高15メートル根回り4メートル。
                
                   富岡市指定天然記念物「貫前神社のスダジイ」

  貫前神社が鎮座する富岡市周辺は、「毛野」の勢力範囲、特に大型古墳が集中している当時の中心地である利根川周辺(太田、高崎、藤岡)から完全に西側にずれている。これは何を物語っているのだろうか。10世紀の醍醐天皇の時代、『延喜式』のなかの『神名帳』に記載され、唯一の名神大で上野国一之宮として崇敬をあつめていた社であり、少なくともその年代、あるいはその少し前までは上野国の中心的存在だったろうとは想像できる。ではそれ以前はどこが中心だっただろうか。5世紀から7世紀の古墳時代、あれだけ栄えていた「毛野国」だ。上野国の中心、もしくは利根川北部の平野部付近にやしろを構えていたに違いない。
  前橋市にある赤城神社は式内社であり名神大の社格があり、上野国の二之宮である。伝承では、本来、一之宮であったが、財の君である、貫前の女神を他国へ渡してはならないと、女神に一之宮を譲ったという。さらに、赤城神が絹機を織っていたが、絹笳が不足したが、貫前の女神から借りて織り上げたとも言う。ここでいう「財の君」はまず貫前神社の祭神である姫大神であり、「他国へ渡してはならない」との他国とは信濃の建御名方刀美神であるという。別の伝承もあり、群馬県で有名な三つの神社、赤城神社、榛名神社、貫前神社、実は、この三つの神様が、三姉妹であった、という伝承が残っている。それにまつわるお話が、「一ノ宮伝承」で、上記「三姉妹」の女神様たちが、高天原の神々に対して、本職であるところの「織物」を献上することとなった。三姉妹はそれぞれ織物を織ったのだが、当時「一ノ宮」であった「赤城神社」の「姫大神」さまは、材料が不足していたため、約束の織物を作成することができそうになかった。そこで、赤城神社の姫大神さまは貫前神社の姫大神さまから 「材料」を借りて、約束の織物をつくることができたという。その時の功績に基づいて「これからは貫前神社が上野の国の一ノ宮とする」と決められた、というものらしい。
  また赤城神社の祭神は、赤城大明神、大己貴命、豊城入彦命等であるが、豊城入彦命は毛野氏(上毛野氏・下毛野氏)の祖先として古事記に記されており、前橋市にある大室古墳群もしくは総社二子山古墳は、この豊城入彦命の陵墓であったという伝説が残っている。なお、大室古墳群や二子山古墳等、豊城命の陵墓と伝説が残る古墳の年代は概ね5~6世紀で、日本書紀の年代に諸説ありと言っても、少し遅すぎる感じは否めないが、豊城入彦命を祖先とする一族の墓ならば大丈夫か、とも考えた。

 では、いつから「一ノ宮」の地位が変わったのか。
 それは正確には分からない。だが貫前神社の祭神である経津主神を物部氏である磯部一族が氏神の経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置するここに社を定めた、ことこそ最大の理由ではないかと考察する。貫前神社の鎮座する富岡市は、東山道の信濃方面に通じる要衝の地であり、毛野君の始祖にあたる豊城入彦命が実在したかは別として、天津系の一族が東山道経由で毛野国へ進出した事項は事実あったと考えている。当時の地形で考えるならば、毛野国へは、河川が多く渡河が不便な東海道より東山道のほうが便利で、協力する出雲物部一族も信濃国にはたくさん存在する。貫前神社は毛野国進出の最初の根拠地であり、その時の最大の功労者である磯部氏の氏神である経津主神を香取神宮から勧進したのではないか、と現時点では考える。


                              
      一の鳥居から見る秩父連峰の稜線 1,500年以上の歴史の経過はあっても風景は変わらない。


 

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