今泉氷川神社
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧村社
・例 祭 7月14・15日
今泉氷川神社は大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、「ふれあい広場」の交差点を左折する。交差点を左折すると埼玉県道271号今泉東松山線に合流し、東行すると吉見運動公園に行きつくが、その手前で信号のある十字路を左折すると、すぐ正面左側に、遠目からでも今泉氷川神社の鳥居が目視できる。
駐車場も完備していて、広く舗装もされている。休憩も兼ねてゆっくりと参拝を行った。
今泉氷川神社 正面鳥居
鎮座地の今泉地域は、荒川右岸の自然堤防及び低地に位置する。度重なる荒川の氾濫に悩まされてきた当地の人々が、川を鎮める神として武蔵国一の宮の氷川神社の分霊を永仁5年(1297)勧請したという。明治4年村社に列格、明治45年弁天社を合祀している。
参道の先には社殿が鎮座する。
境内は集会所と広場も並列されている。多くはないものの古木もよく残り、日頃から神域として整然としている印象を受ける。奉納品などからも、今泉村の鎮守として崇敬を集めていたことが伺われる。
拝 殿
氷川神社 吉見町今泉一一九九(今泉字竹ノ町)
口碑によれば、当社は、永仁五年(一二九七)に武蔵国一の宮の氷川神社(大宮市鎮座)の分霊を勧請したものであるという。鎮座地の今泉は、荒川右岸の自然堤防及び低地に位置し、度々水害を被ってきたことから川を鎮める神として氷川神社を祀ったものと思われる。
江戸時代、当社の祭祀に当たったのは、真言宗の遍照寺であった。遍照寺は氷川山と号し、当社の南二〇〇メートルほどの所にあったが、神仏分離の後は廃寺となり、今では墓地と観音堂に名残をとどめるばかりである。『風土記稿』では、当社のほかに村内の神社として、東光寺持ちの弁天社、南学院持ちの稲荷社、長福寺持ちの八王子社の名が見える。東光寺は天台宗、南学院は修験、長福寺は真言宗の寺院で、いずれも村内にあったが、神仏分離によって廃寺になった。また、これらの諸社のうち、弁天社は明治四十五年六月に当社に合祀された。
当社は、更に、文久二年(一八六二)には本殿、慶応三年(一八六七)には拝殿が造営されたと伝えられ、明治四年に村社となった。境内は、集落の北端近くにあり、樹齢三〇〇年以上といわれる本殿裏の神木の杉に、歴史の古さが感じられる。当社の境内には、本殿と拝殿の造営に伴って奉納されたと思われる手水鉢が一基ずつあるが、そのうち慶応銘のものは手水鉢には珍しく猫足である。
「埼玉の神社」より引用
社殿に掲げている扁額 本 殿
参道右側には石祠あり
左から大神宮 三峯大権現 (坂?)田大明