北下砂氷川神社及び丸貫熊野神社
・所在地 埼玉県比企郡吉見町北下砂11
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧村社
・例 祭 7月14・15日
大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、「ふれあい広場」の交差点を左折する。この交差点周辺は「吉見町 ふれあい広場」という広い競技場やイベントホールである「フレサ吉見」、道路の向かい側にはコンビニエンスもあり、分かりやすい。交差点を左折すると埼玉県道271号今泉東松山線に合流し、東行すると吉見運動公園に行きつくが、その手前で道路が上り坂になる手前の十字路を右折し、150m程進むと右側にこんもりとした社叢が見え、手前にある鳥居も目視できる。
駐車スペースはない。周囲はほとんどが畑なので、進行車両等の邪魔にならないような場所に停めて急ぎ参拝を行った。
参道正面(写真左)鳥居までの参道は、未舗装で、その先に鳥居がある(同右)
北下砂氷川神社が鎮座する場所は竜渕寺という寺院の北側で、「新編武蔵風土記稿」ではこの社は竜渕寺持ちと記載されている。また地図で確認すると、鎮座地は、北下砂地区の最北部で、北側に位置する今泉地区とは社に接する東西に伸びた田畑の畔にて区切られているようだ。
鳥居の先の参道を撮影
当社は、松山城落城後に当地に土着した関根兵部左衛門(慶長2年1597年没)が慶長2年(1597)に勧請、下砂村(現在の上下砂・古名・丸貫)の鎮守として崇敬されていたというが、見た目社も小規模で、境内周辺もこの時期でかなり草が生い茂げっていた為、やや寂れた印象はぬぐえない。
拝 殿
氷川神社 吉見町北下砂一一(北下砂字宮ノ町)
北下砂の地は荒川と市野川の間の低地にある。もと下砂村の内であったが、正保から元禄年間(一六四四-一七〇四)に分村した。地名は北部にあることによって北の字を冠した。
氏子の関根彰一郎家は、名主を務めた旧家で、松山城落城後に当地に土着したと伝えている。「天正庚寅松山合戦図」には、北曲輪の守備に関根将監・関根伝衛門の二人の名が見え、関根家とのかかわりをうかがわせる。
また、関根家所蔵の「関根系記」によると、関根根元屋敷開祖兵部左衛門は慶長八年(一六〇三)に没し、金剛院に葬られた。
一方、社伝によれば、当社は慶長二年(一五九七)に創建し、初めは下砂村(現在の上下砂・古名・丸貫の範囲)の鎮守として崇敬されていたが、分村後は北下砂村の鎮守になったという。当社の創建に関根兵部左衛門がかかわっていたことは想像するに難くない。
『風土記稿』北下砂村の項には「氷川社 村の鎮守なり、竜淵寺持」とある。これに見える竜淵寺は氷川山と号する真言宗の寺院で、開基はこちらも関根兵部左衛門であると伝えている。
明治四年に村社となり、同四十五年には字大根町の無格社弁天社を合祀した。
「埼玉の神社」より引用
社殿は東向き。高台の上に鎮座している。盛り土か、古墳かは資料不足で不明。
東側には標高22m程の微高地から下る位置に鎮座しており、鎮座地の標高は15mとやや低めだが、東側以外の周囲の田圃地域よりはいくらか高い場所にあると思われる。
北下砂氷川神社 遠景
北下砂氷川神社の創建に関わった「関根氏」に関しての資料を記載する。
・風土記稿北下砂村条
「龍淵寺の開基関根兵部左衛門は村民なり、慶長二年死す。村内に一族八人あり、祖先は松山の士なりと云ふ」との記載がある。
・龍淵寺
暦応二年銘の板碑があり、暦応年間(1338年~1342年)以前の関根氏開基であろうか。
・関根氏系記
「関根根元屋敷開祖兵部左衛門・法名流光長秀信士・慶長八年七月十一日入墓所金剛院。二代目関根理右衛門」
【丸貫熊野神社】
・所在地 埼玉県比企郡吉見町丸貫339
・ご祭神 熊野権現(推定)
・社 格 旧村社
・例 祭 不明
丸貫熊野神社は北下砂氷川神社からの道路を南下して700m程進むと、右側に地域の火の見櫓や丸貫集会所と共に社の鳥居や広い境内が見える。旧丸貫村(吉見町丸貫)鎮守。社殿は北下砂氷川神社同様に東側の荒川土手を向いていて、荒川を祈りの対象としているような位置関係となっているようにも見える。
広大な境内で、駐車スペースは十分に確保されていて、集会所近郊に車を停めてから参拝を行う。
丸貫熊野神社 社号標柱
一の鳥居 二の鳥居
参道先の境内を望む。
鎮座地は盛り土によってか、自然堤防的なものによるものか、正面社殿及び右側の境内社・荒神社が鎮座するL字状の場所のみ高台となっている。
丸貫熊野神社は広い境内であるのも関わらず、手入れが行き届いている。境内にはゲートボール場のような広場もあり、地域住民の方々がこの社をずっと大切に守ってきたことが分かる。
社殿手前で右側に鎮座する境内社・荒神社(写真左)と、その左側にある石祠(同右)
拝 殿
熊野神社 吉見町丸貫三三九(丸貫字十二所)
当社は、紀伊国に鎮座する熊野十二所権現(熊野大社)を勧請したことに始まると伝えられる。このため、鎮座地もこれにちなみ十二所という小名で呼ばれている。当地一帯は、「秋葉家文書」によると、元亀年間(一五七〇-七三)に秋葉新左衛門元矩により開発された。秋葉新左衛門元矩は、初め古河公方足利晴氏に仕えたが、弘治二年(一五五六)に晴氏が北条氏政に敗れたのを機に、北条氏の幕について当地を領した。当社は、戦国末期から江戸初期にかけて村の開発が秋葉家を中心に進められる中で、勧請された。
別当は当社の南側にあった真言宗の雨竜山西蓮寺である。現在、寛永年間(一六二四-四四)をはじめとする同寺法印墓石が残る。西蓮寺は、当社勧請まもなく建立され、今泉村の金剛寺の末寺に加わった。
江戸期の神社運営は、秋葉新左衛門元矩の裔が代々丸貫村の名主を務めたことから、この家を筆頭に村の重立の手により行われた。祭祀法楽は、西蓮寺住僧が行った。
享和二年(一八〇二)の「熊埜三社大権現」社号額がある。揮毫は当地で生まれ、比企郡滑川村興長寺で得度し、加賀国大乗寺二十九世となり、名僧といわれた愚禅和尚である。
明治期に入ると、別当西蓮寺は廃され、現在、往時の名残として辰堂と呼ばれる観音堂だけが残る。
「埼玉の神社」より引用
○愚禅和尚
比企郡羽尾村の須沢家の養子になり、近くの興長禅寺の癡天愚(ちてんぐ)和尚により剃髪後、延享3年(1746)長州功山寺に赴き修行。宝暦11年(1761)武州忍領龍光禅廓会首職、翌12年(1762)には村に戻り興長寺20世住職となる。寛政元年(1789)大乗寺43世貫主に推戴された後、文化5年(1808)熊谷宿原島の福王寺を開基し、「観音構式」の校訂や「仏道事引草序」の著述を行う。板石塔婆や石塔、山門碑など各地に多くの筆跡を残している。また、雨や水にかかわる数々の逸話が残されている。日照りが続き「雨乞い」の祈祷を頼みに来る者が多く、和尚が祈祷をするとたちまちに豪雨が降ってくるといわれる程霊験あらたかで、頼みに行く者は帰りに降られてもよいように雨具を用意するようになったといわれていた。また、「龍」の字を得意とし、この軸を掛けるとたちまち雨を呼ぶということから「雨乞いの龍」といわれ「火伏せのお守り」として掲げていた家もあり、現在も大切に残されている。文政12年3月1日97歳で没す。
「熊谷デジタルミュージアム・熊谷の偉人の部屋」より引用
丸貫熊野神社境内にある観音堂(写真左)で、別名辰堂とも呼ばれている。元は熊野神社別当の真言宗雨竜山西連寺の堂であったが、明治維新の廃仏毀釈により廃寺になり堂のみが残ったと言う。観音堂の隣には立派な法印墓石群(同右)が並ぶ。
丸貫熊野神社は、古河公方足利晴氏に仕えていた秋葉新左衛門元矩が、当地を元亀年間(1570-73)に開発、熊野十二所権現(熊野大社)を勧請したという。調べてみると「秋葉氏」は同じ「あきば」でも「秋庭」であったようだ。風土記稿丸貫村条には稲荷社に関する記述があり、そこには以下の事が記されている。
・風土記稿丸貫村条
「稲荷社、名主広助が持。広助・秋庭氏なり、故に秋庭稲荷と唱ふ」
他にも
・秋庭文書
「この村は往古ただ下砂村とのみ号せり。三ヶ村の郷長秋庭新左衛門元矩の草創なり、元矩は古河晴氏に仕へ則ち弘治二年古河破るゞに及び、北条氏政の幕下につき、田中左京亮縁者なるにより武州横見郷を領地し引退く]
・秋庭家墓地
「秋庭仲祖・慧勝院遠行善久居士・藤姓備中守元重嫡・俗名秋庭新左衛門尉元矩・寛永九年四月十八日、覚性院元寿妙政大姉・田中左京亮女・元和七年八月十七日」
丸貫熊野神社境内南側にあるお地蔵様等も仲良く並ぶ。