中条大塚古墳
さきたま古墳群の時代、熊谷市域はいわばさきたま王権の傘下にあったと云思われる。市域からは荒川を介して石材や窯場で造られた埴輪や鉄製品などが運ばれたようだ。将軍山古墳出土の大形円筒埴輪の一部は、熊谷市千代所在の権現坂埴輪窯跡群で造られ運ばれたと思われる。
中条中島遺跡の南方に位置する「中条大塚古墳」は発掘調査により 7 世紀代の横穴式石室を持つ円墳と判っている。盗掘のため少数遺物だけの発見であったが、「桂甲小札」という鎧の部品と金銅製の鞘尻金具(金銅製の「頭椎大刀」の一部)という豪華な武具が副葬されていたことが判っており、さきたま王権の一担を占めた人物と想像されていて、古墳時代の間、中条地域に一定の勢力を保っていたと推定されている。
・名 称 大塚古墳
・所在地 埼玉県熊谷市大字大塚365
・規 模 基壇 直径59m、円丘 直径35m
・築 造 古墳時代後期(7世紀前半)
・指 定 熊谷市指定史跡 昭和34年〔1959〕11月3日指定
中条大塚古墳がある大塚地域は、現在熊谷市北部地区東部にある中条地域に属しているが、区域内の字(大字)は、上中条・今井・小曽根・大塚で、全域が旧北埼玉郡中条村の区域である。
因みに、この「中条」という地名は、古代の条里制(じょうりせい)によるものと推測される。条里制とは、大化の改新後布かれたもので、土地を区画するのに、縦区画の方向を里、横区画の方向を条とし、北から南へ一条、二条…と数えた。この条が地名となり現在に残ったものと考えられる。また平安時代末、藤原姓日野氏流の中条常光が上中条に館を構え中条氏を名乗った。中条氏からは鎌倉幕府初代評定衆中条家長などが輩出され、室町幕府でも奉公衆に取り立てられたが、戦国時代に入り松平氏宗家第4代松平親忠に敗れるなどし衰退したという。
大塚熊野神社正面社号標柱
中条大塚古墳は、7世紀初頭に造られた当地を支配していた豪族の墓で、直径59m、高さ1.2mの基壇上に、直径35m、高さ4mの半円の墳丘が乗った円墳らしいのだが、今では北西部分のみ残存していて、墳丘全体の約4分の1が残っている状態という。2度にわたる発掘調査により、埋葬施設は、奥室・前室をもつ複室構造の胴張型横穴式石室であることが確認されている。墳頂には大塚村の村社の「大塚熊野神社」が鎮座している。
参道に沿って進むと基壇部に到着する。
中条大塚古墳は「中条古墳群」に属している。この古墳群は、上中条地区の中条支群(上中条支群)、大塚地区の大塚支群、今井地区の今井支群で構成されており、かつては前方後円墳2基、方墳2基、円墳32基、円墳と見られる古墳3基の計39基が数えられたが、その多くは開墾などにより破壊され、半壊した墳丘を留めるもの2基(小曽根神社古墳と中条大塚古墳)以外は、墳丘が削平されたもの28基、消滅したもの9基という状態にある。
参道右側で基壇部近くにある巨石
石室の天井石であったものであろうか
大塚古墳の案内板(詳細は大塚熊野神社を参照)
古来より、「中条」という地域は、利根川と荒川という両大河川が最も接近する一帯に立地し、両大河川、及びその支流沿いに生まれた多くの微高地は生活に農耕に適しており、西側の台地を巡った伏流水が豊富に噴井する扇端部にも位置することから水利にも恵まれたようだ。このような環境があったことが、弥生時代来数多くの集落をつくり出したと考えられ、中条中島遺跡をはじめ、一本木前・根絡・池上・北島・前中西・諏訪木遺跡などからの古墳時代へ続く集落が確認されている。
南西部より撮影
その後、5世紀中頃から7世紀前半頃まで「中条古墳群」が約 2×3 ㎞の広い範囲に造られる。上中条支群にあった鹿那祇東古墳(かなぎひがしこふん)から、国の重要文化財に指定されている埴輪「短甲の武人」や、「馬形埴輪」が出土した。今井支群の鎧塚古墳(よろいづかこふん)出土の土器群は熊谷市の有形文化財に指定され、大塚支群に属する大塚古墳(おおつかこふん)は熊谷市指定史跡となっており、古代から歴史的資料に富んでいる地でもある。
さきたま古墳群から中条までの約8㎞圏内には盟主に相当する大型古墳は他になく、中条古墳群内にも大型の前方後円墳は見当たらないことから、さきたまの王に従属していたと思われる。
中条古墳群の周辺では横塚山古墳(上奈良)、とやま古墳(行田市)が稲荷山古墳の出現とほぼ同時期とされることから、妻沼低地の一定の開発の進展が地域の政治力に安定と結合をもたらし、その象徴としてさきたま 王権の確立と古墳群の出現に至ったとする考えもある。
参考資料「熊谷市立江南文化財センター・中条古墳群、中条中島遺跡の製鉄遺構HP」
「熊谷デジタルミュージアムHP」「熊谷市 中条公民館HP」「Wikipedia」等