古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

持田劔神社

『新編武蔵風土記稿 持田村』
 持田村は忍城持田口の西にあり、龜甲庄と唱ふ、持田は暇借の文字にして、古は糯田と書しといへり、(中略)
 又岩松文書文永三年岩松家本領所の注文、武蔵の處に糯田鄕と載せ、及び応永十一年岩松右京大夫が所領注文にも、同鄕を出したれば、新田家より岩松へ相續せしと見ゆ、持田と書改しも古きことにや、持田氏の系譜に、持田左馬助忠久は生国武藏の人にて、深谷の上杉則盛に仕ふ、其子右馬助忠吉も上杉に仕へしが、上杉没落の後菅沼小大膳に仕ふとみえたり、是當所の産にて、在名を氏に唱へしならん、又成田分限帳に永五貫文持田右馬助、永五十一貫文持田長門と載、是等も忠久が一族なるべし、

 この持田氏は元々出雲の大国主命の部下あり、本拠地は今の島根県に当たる。大和朝廷に下った後、平安時代初期、征夷大将軍の坂上田村麿の蝦夷討伐を目的とする東方遠征に持田氏も従軍した。その際に築城した各国の柵に兵士を残していった。本隊に残った持田氏は出雲に戻り、出雲に土着して地方豪族として尼子や松平等に仕えて明治維新を向かえているが、各地域に残された一部の氏族、特に、静岡県の持田氏、埼玉県行田市の持田氏等はこの時生まれたといい、現在でも埼玉県や島根県には持田姓は数多く存在する。
*寛政呈譜
「持田左馬助忠久(武蔵国深谷の上杉則盛につかへ、某年死す。年七十二
.。法名道龍)―右馬助忠吉(上杉家につかへ、没落のゝち菅沼小大膳定利につかふ。慶長七年十二月めされて東照宮につかへたてまつり、武蔵国忍城の番をつとむ。寛永十年死す。年六十四.。法名蒼河)―五左衛門忠重(寛永十年父が遺跡を継、忍城の番をつとめ、十七年めされて江戸に来り御宝蔵番となり、子孫相継て御家人たり)。家紋、丸に蔦」

        
              
・所在地 埼玉県行田市持田5937
              
・ご祭神 日本武尊
              
・社 格 旧持田村中組鎮守・旧村社
              
・例祭等 春祭り 417日 夏祭り 819日 秋祭り 99
   
地図 https://www.google.com/maps/@36.1388825,139.436117,17z?hl=ja&entry=ttu
 小敷田春日神社から忍川を挟んで直線で400m程南東方向に鎮座している持田劔神社。行政上、小敷田と持田両地域は忍川が地域境となっている。秩父鉄道が東西に流れているその北部にあり、周囲一帯民家が立ち並び、綺麗に整備されている道路沿いに社は佇んでいる。
        
                                 
持田劔神社正面
 鳥居の上部笠石、貫石等が欠けて、柱のみしかなく、また両側の灯篭も左側片方が崩れている。嘗ての大震災の影響であろうか。その正面鳥居や燈篭のインパクトが強く残ってしまったためか、どことなく境内もやや管理が行き届いていない様子に見えてしまった。思うに人間の自己脳内印象操作とは恐ろしい。
        
                   境内の様子
『日本歴史地名大系 』「持田村」の解説
 北は忍川、東は忍城に接し、北部を熊谷行田道が東西に通じる。地下一メートルに条里遺構や古墳時代後期の集落遺跡が埋没しているとみられる。中世は糯田(もちだ)郷に含まれた。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に譜代侍として持田右馬之助(永五〇貫文)らがみえる。かれらは当地出身の武士という(風土記稿)。村内には宝蔵(ほうぞう)寺に延応二年(一二四〇)阿種子・宝治二年(一二四八)弥陀一尊種子、また正覚寺に寛元二年(一二四四)荘厳体弥陀一尊種子と、三基の板碑が残る。一五世紀後半の成田氏の忍築城に際して囲込まれた城地の五分の三は当村の地といい(郡村誌)、また持田・谷之郷(やのごう)入会の地であったともいう(風土記稿)。
寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末まで変わらず。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高三千七〇九石余。田園簿によると高三千七七一石余、反別は田方三一五町八反余・畑方二一町五反余。
       
           参道右側に雄々しく聳え立つ大木(写真左・右)。
『新編武蔵風土記稿』には持田村の歴史や地形上の特徴として持田村は忍城持田口の西にあり、龜甲庄と唱ふ、持田は暇借の文字にして、古は糯田と書しといへり(中略)、東は下忍村、南は鎌塚村、及び大里郡佐谷田村にて、西は大井・小舗田・戸出の三村、北は皿尾・中里・上村なり、東西卅二町、南北廿三町の大村なれば、村内を私に上中下の三組に分ちて沙汰せりと云、又東南の方に小字前谷と呼ぶ處あり、中古開きし新田にて、本村の外民家四十聚住す、故に土人こヽを私には前谷村と唱へり、當村も御入國の後より忍城附の村にして」と、嘗ては「龜甲庄」と称し、また「持田」の地名由来を「あまり肥えていない田に植える「モチダ」(糯田)の転化」と解説している。
        
                    拝 殿
 持田劔神社の鎮座する地は、文明年中に築城されたという忍城の持田口の西にあたる。社記によれば、当社は日本武尊東征の折、当地で剣を杖にしてしばらく休息されたことから尊の威徳を偲ぶ村人が宝剣を神体に社を建てたことに始まるという日本武尊伝説があり、行田市内には同様の伝説が斎条劔神社、中江袋劔神社にも残されている。
 新編武蔵風土記稿によると、江戸時代には、剱宮と称し、持田村中組の鎮守で、長福寺を別当寺としていたという。

        
               境内に設置されている記念碑
 剣神社改築記念碑
 当社は古くから剣宮と称しお剣様の呼び名で氏子(上持田、中持田)から親しまれ字竹の花に鎮守として祀られて来ました
 境内左方に稲荷、 浅間、大天白と、右方に塞神を祀した社であります
 社記によれば当社は日本武尊東征の折、当地で剣を杖にしてしばらく休息されたことから尊の威徳を偲ぶ村人が宝剣をご神体に社を建てたと伝えられています
 この由緒ある社殿も建立以来幾度か修築を重ね風雪に耐えて参りましたが、この間各所に腐食が甚だしく神社総代相集い改築構想を協議しその実施を進める機運が昂まり建設委員氏子二百四拾六名もの賛意が得られ浄財拠出によって、平成四年五月一日神社改築が発足しこの度その竣工をみたのであります
 時代の幾多変遷にもかかわらず今に続く清新な神社崇数の思慕を伺い知ることが出来ます
 神社改築を機として氏子中ますます隆盛を念願してやみません(以下略)
                                      記念碑より引用

 
  拝殿左側に祀られている境内社・三社            本 殿
      左から稲荷社・浅間社・大天白社
       
                                  御大典記念碑
          邨社劍神社為武蔵國埼玉郡持田村中區鎮守雖創建不
          詳祀日本武尊配之以草薙劍者也臨雄川之清流老杉森
          鬱本殿享保二十一年脩之拜殿寶暦八年所造營至今葢
          二百年漸来廃頽區民胥謀醵出工費撤其覆屋改銅板別
          移舊拜殿為社務所及其竣工也輪奐更加美境地一新○
            實大正十四年六月也今茲昭和三年十一月舉
          即位之大典大廟參拜之某等欲効敬神之誠建碑于社前
          来請文余亦與于工事者焉以不文可辭哉即叙其来歴繫
                  
以銘銘曰(以下略)

『新編武蔵風土記稿 埼玉郡』において、持田村は「亀甲荘」と称していた。不思議な名称である。加えて、亀甲荘の該当する範囲は持田村一村のみの限定区域。持田と亀甲の深い関係が想像できよう。
「亀甲」は「亀の甲羅」を表し、古代中国では、亀の甲羅を用いて占いを行う“亀ト(きぼく)”による政策決定や意思決定が盛んに行われていた時代もあった(後にこれが甲骨文字と呼ばれるようになった)。
 日本列島には中国大陸または朝鮮半島から持ち込まれたとみられ、『三国志』「東夷伝倭人条」(魏志倭人伝)の倭人の占術に関する記述として、「其の俗挙事往来に、云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て凶を占う」とあり、文献史料から日本列島における太占(ふとまに)=骨卜(こつぼく)は弥生時代には行われていた事が知られている。
 日本列島の遺跡から出土する卜骨は、多くは鹿・猪の肩甲骨で、稀にイルカや野兎の例もあるそうであり、古代中国での亀の甲羅(卜甲)を用いる亀卜よりも、日本では鹿の獣骨(卜骨)を用いる骨卜が主流であったようだ。
       
                               社殿付近からの一風景 
 日本では古来から「鶴は千年、亀は万年」という言葉があるように、「亀甲文様」は長寿吉兆をもたらす縁起の良さと、その格式の高さで、国内外問わず多くの人に愛されていた。
 また能楽では蛇体の女が鱗の衣装を用いていて、鱗紋を亀甲(きっこう)といったりしている。
また「亀甲」をいうと、「亀甲紋」を連想するケースもあるが、この紋は、長寿のシンボルである「亀」の甲羅をモチーフにした紋で、正六角形の中に他の紋を組み合わせて複紋として用いることが多く、亀甲紋は、様々な家紋の中でも特別なものとして扱われており、名門武家の紋としても用いられている。
 また、神社の神紋としても多く用いられていて、有名なものとしては出雲大社、その他にも厳島神社や櫛田神社などが挙げられている。

 埼玉県、及び島根県には「持田」姓が多い。また出雲大社の神紋は「亀甲紋」。持田村は嘗て「亀甲祥」と称していたこと。これらは何を意味しているのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「寛政呈譜」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「名字由来ネット」
    「埼玉苗字辞典」「境内記念碑文・案内板」等
           



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西ノ谷久伊豆神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市西ノ谷1141
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧西谷村鎮守(推定)
             
・例祭等 例大祭 415
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0974608,139.5782791,17z?hl=ja&entry=ttu
 鴻茎久伊豆神社が鎮座する場所から一旦国道122号線「鴻茎立山」交差点に戻り、国道に合流後北西方向に進む。この地域は旧騎西町内で、国道左手には多くの工業団地が立ち並んでいて、通称「騎西藤の台工業団地」という。この工業団地の整備に関しては、生産活動及び周辺に及ぼす影響を考慮し、適正かつ合理的に土地利用を図り、質の優れた良好な地区環境の形成保持をするために、公共緑地及び民有緑地を十分に確保し自然と調和のとれた工業地の形成を図っているようで、事実団地内には多くの緑地や公園も整備されている。
 国道を700m程進んだ「西ノ谷」交差点を左折し、その後150m程進んだ最初の十字路を右折すると、西ノ谷久伊豆神社の鳥居及びその社の境内一帯が進行方向右手に見えてくる。
 後日地図を確認すると、騎西藤の台工業団地の北西部に位置しているようだ。
 社の東側に隣接して「西ノ谷十二区集会所」があり、そこの駐車スペースに停めてから参拝を開始する
        
                 西ノ谷久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「西谷村」の解説
 備前堀川を挟んで騎西町場(きさいまちば)の南、上崎村・下崎村の東に続く埋没台地の東端に位置する。田園簿によると田高・畑高ともに一〇二石余、川越藩領。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一九九石余、反別は田方・畑方とも一一町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに四七石余があった。
『新編武蔵風土記稿 西谷村』において、村名の由来として「當村の地形低くして、鴻茎村の方高ければ、其西の谷と云へる意にてかく名づくるよし、今その地形を見るにさもあらんと思はる」と当時の風土記稿編者の認識として記されていたようだ。
        
               鳥居の右側に設置されている案内板
        
                参道から二の鳥居を望む。
 埼玉県加須市に鎮座する玉敷神社がかつて「久伊豆明神」と称しており、総本社とされている。祭神は大己貴命。埼玉県の元荒川流域を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。
 加須市には、旧騎西町に鎮座する久伊豆神社の総本社とされる玉敷神社を含め、市内7社あるうちの1社で、玉敷神社に最も近い社。
        
                    二の鳥居
       
       二の鳥居の先で、参道右側に聳え立つケヤキの大木(写真左・右)
        加須市保存樹木(ケヤキ・幹回り245.173㎝)で、指定番号 30
        
               参道左側に祀られている石碑二基。
 左側には「青龍大日大聖不動明王」、右側の石碑の中央部には「開聞覺明靈神」と刻印されている。
      
   石碑二基の並びは、解読不明の石碑(写真左)と青面金剛の庚申塔(同右)が建つ。
 庚申塔基壇部の一対の彫刻が興味を引く。火を起こしているのか、それとも笛を吹いているのか。
日本では各地に石造の庚申塔が多数遺り、そこには「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像と共に青面金剛像が表されている例が多いのだが、この像はそれに該当しない。不思議な像である。
        
                                                              拝殿兼本殿覆屋 
 久伊豆神社 例大祭 四月十五日
 当社は大己貴命を主祭神とし、福徳を授ける神として崇敬され、くいず神社とも呼ばれる。
 当社の由来は不詳であるが、一説には加藤家の先祖が祀った神を、いつの頃からか村人が敬うようになったという。加藤家の先祖は北条氏の家臣であったが、小田原落城後、当地に住みついたと伝えられる。宝暦六年(一七五六)に社殿を再建した棟札があったことから、その創建はかなり古いものと思われる。
 拝殿は入母屋造りで、明治四十一年に合祀した八幡神社と大六天社が祀られている。
 境内には享保八年 (一七二三)銘の庚申塔がある。これは一つの顔と、八本の腕を刻む、 特異な青面金剛像となっている。
                             正面鳥居右側にある案内板より引用
『新編武蔵風土記稿 西戸村』には案内板に記されている「加藤氏」に関して詳しい記載がある。原文にて紹介する。
 當家者次郎左衛門
 加藤を氏とす、先祖は源左衛門と稱し、小田原北條家に仕へしが、北條家滅亡の時討死す、よりてその甥源次郎をして、源左衛門が娘福の後見すべき旨、氏政より文書を與へられしかば、源次郎福を伴ひて民間に跡か隱し、夫より當村に來り住せり、其後寛永九年八十餘にして卒す、福その跡を相續し、夫より連綿して今の次郎左衛門に至れりと云、その所藏の文書左の如し、
 今度上總行之砌、於殿太田源五郎越度割、其方伯父賀藤源左衛門見討死候、誠忠節不淺候、於氏政感悦候、然間一跡福可相續、然共只今爲幼少間福成人之上、相當之者妻一跡可相續條、其間者源次郎可有手代者也、仍如件
 永禄十年丁卯九月十日 氏政(花押)
           賀藤源左衛門息女
            
           
賀藤源次郎殿
        
                                     
拝殿覆屋内部
 
 西ノ谷十二区集会所の南側には「いぼとり地蔵」というお地蔵様がポツンと祀られている(写真左・右)。
 町指定有形民俗文化財 いぼとり地蔵
 この地蔵は、いぼとりに効用があることから「いぼとり地蔵」とよばれ、信仰されている。
 像容は、半跏像(左足を垂れ下げた形)で、京都壬生寺(みぶでら) 地蔵の系統を受け継ぐものと考えられる。
 銘文から、享保(きょうほう)三年(一七一八)に長谷川弥市という鋳物師(いもじ)の手によって造られたことがわかる。
 また、衣の部分が鋭く刻まれていることなどから、原型は木製であったらしく、原型の作者も相当な仏師であったことがうかがえる。
 加須市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                            拝殿覆屋から境内を望む。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須インターネット博物館」
    Wikipedia」「境内案内板」等

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鴻茎久伊豆神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市鴻茎3991
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧鴻茎村鎮守・旧村社
             
・例祭等 大祭 410
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0920274,139.5836529,18.5z?hl=ja&entry=ttu.
「モラージュ菖蒲」から国道122号線を旧騎西町方向に3.5㎞程進む。「鴻茎立山」交差点を右折し、すぐ先の右斜め方向に進む路地へ移動し、暫く道なりに進行すると、左手に鴻茎久伊豆神社が見えてくる。実のところ、国道122号線沿いに社は鎮座していて、交差点手前からでも目視できるのだが、どうやら社は国道から背を向けているような配置となっているようで、社の正面にたどり着くためには、国道から一旦回り込むような進路となる。
 周辺には適当な駐車スペースはない。隣には集会所、又は社務所らしい建物があり、そこの道路面にある適度な空間に停めてから参拝を行った。
        
                 鴻茎久伊豆神社正面
 1889年(明治22年)41日、町村制施行に伴い、北埼玉郡騎西町・外川村・下崎村が合併し、騎西町が発足する。同時に、田ケ谷村・種足村・高柳村と共に鴻茎村も誕生している。鴻茎村は、芋茎・牛重・根古屋を併せて成立したが、当初、合併案に鴻茎村、芋茎村、戸室村、中ノ目村の四村が反対した。そこで、戸室村、中ノ目村の二村を種足に組みかえて、騎西町への合併に反対していた根古屋村と、水深村への合併を反対していた牛重村を合併し鴻茎村が誕生した。
 その後1943年(昭和18年)41日北埼玉郡騎西町・田ヶ谷村・種足村・鴻茎村・高柳村が合併し、騎西町となったが、一旦1946年(昭和21年)51日には分離。昭和29101日、騎西町、田ケ谷村、種足村、鴻茎村、高柳村の14村の合併案が出され、再び騎西町が誕生する。但し、高柳村では加須町との合併を望む意見が出たため、高柳村を除いた一町三村が合併して新しい騎西町が誕生した。高柳村はその後、昭和30320日に騎西町と合併する。
 2010年(平成22年)323日、加須市・北埼玉郡騎西町・北川辺町・大利根町と合併し、新たに加須市となり、現在に至っている。
        
                                  境内の様子
『日本歴史地名大系 』「鴻茎村」の解説
 村の北部は騎西町場に連なる埋没台地に、南部は見沼代用水左岸の自然堤防上に立地する。北東は備前堀川を隔てて根古屋(ねごや)村など。村内を岩槻、菖蒲(現久喜市)から忍(現行田市)・羽生へ抜ける往還が通る。「鴻ヶ茎」とも書いた(風土記稿)。鴻茎のクキは小高い所、丘などの意で、利根川の乱流した低湿地の自然堤防・埋没台地上にあるのでこの名が生じたという(埼玉県地名誌)。
「風土記稿」によれば村内に享保一五年(一七三〇)に築造した利根川除騎西領本囲の堤があるという。芋茎医王(いもぐきいおう)寺蔵薬師如来坐像の弘治二年(一五五六)五月付修理墨書銘に「武州鴻茎郷戸塚村医王寺」とみえる。田園簿によると田高七八四石余・畑高二七五石余、川越藩領。
 当地「鴻茎」は「こうぐき」と読む。前回参拝した「割目久伊豆神社」の地域名「割目」と同様に、中々個性的な名称である。『日本歴史地名大系 』での由来説明では、「鴻茎のクキは小高い所、丘などの意で、利根川の乱流した低湿地の自然堤防・埋没台地上にあるのでこの名が生じたという」として、地形上の理由がこの地域名となったとの事である。
 また別説では、鴻茎は古くは鴻ヶ茎と言い、「くき」から出た地名で、燃料採取地を意味する地名で、「久木」や「久喜」とも書いたともいう。

 なお、正面に一対の灯篭があり、その傍らに「力石」があるのが見える。向かって左側の石には「享保三年(一七一八)」銘の力石である。右側の石は大きさはむしろ大きいが、刻印はされていないように見える。
 
   左側の灯篭の外側脇にある力石         右側の灯篭の手前側にある大石
「享保三年(一七一八)」銘が刻印されている。  一見刻印がされていないように見える。
        
        鳥居を過ぎた参道の左手に並んで祀られている庚申塔、石碑群
        
                    拝 殿
        
             拝殿の左側前方に設置されている案内板
 久伊豆神社  大祭 四月十日
 当社は大己貴命を主祭神とし、福徳を授ける神として崇敬される。慶長七年(一六〇二)の騎西・大英寺の寺領帳に「久いつまへ」と記されていることから、創建は江戸期以前と思われる。
 古くは地内にあった安養寺(現在は廃寺)の管理となっていたが、慶応元年(一八六五)銘の手洗石 に「寿昌寺」の名を刻むことから、いつの頃からか同寺の管理に移ったものと思われる。明治四十年には地内に鎮座した九社を合祀している。
 また、江戸時代には境内にあった池の水を氏子が桶で掻い出し、泥を投げつけ合って「雨乞い」をしたという。
 なお、久伊豆神社は元荒川流域に多く分布する神社であるが、当地では「くいず神社」と呼んでいる(以下略)
                                      案内板より引用
 
 社殿左側隅には石碑が四基あり、社殿側から「日露戦没記念碑」(写真左)、「敷石記念碑」、「大東亜戦争記念碑」(同右)、「久伊豆神社 大鳥居記念碑」が建っている。
        
                   境内の一風景
 国道沿いに鎮座し、また社の北側には民家が立て並んでいるにも関わらず、境内は静かな雰囲気に包まれている。お社には不思議な消音効果装置が設置されているのであろうかと、ふと神妙な面持ちで考えてしまう今回の参拝であった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須インターネット博物館」「埼玉県地名辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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割目久伊豆神社

『日本歴史地名大系』 「割目村」の解説
 北は今鉾(いまぼこ)村、東・南・西は中曾根村(なかぞねむら・現久喜市)など。「風土記稿」に「往古此地ハ中曾根村ノ内ニ割込テアリシ故村名ニ負セシ由」とあり、中曾根村と一村であったという。騎西領に所属(同書)。
 田園簿によると田高一〇四石余・畑高七九石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二八〇石余、反別は田方一五町余・畑方一七町余、新開高一一二石余、反別は田方六町余・畑方六町八反余。

        
              
・所在地 埼玉県加須市割目491-1
              
・ご祭神 大己貴命(推定)
              
・社 格 旧割目村鎮守・旧村社
              
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0800015,139.6286684,18z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県加須市南東部で、久喜市に隣接した場所に「割目」という地域がある。 因みに「割目」と書いて「わりめ」と読む。これは, 『角川日本地名大辞典11埼玉』において、旧割目村は中曾根村内に割込んでいたので付けられた名であるという説明が載っている。
 また『新編武蔵風土記稿』にも同様の記述がある。
『新編武蔵風土記稿 割目村』
「割目村は江戸よりの行程及鄕庄の名前村に同じ、村名の起り往古、此地は中曾根村の内に割込てありし故、村名に負せし由、其頃は未だ一村に分れず、其後分鄕せし時かく名づくと云、されど正保の改にも一村と載せたれば、分鄕せしはいと古きことなるべし(中略)東西十八町、南北二町許、細く長き村なり、これ中曾根村の内に割込てありしを分村せし故、かくの如き地形となりしなるべし」
        
                 割目久伊豆神社正面
 今回の参拝は、久喜市菖蒲地区にある大型ショッピングモールである「モラージュ菖蒲」に急遽買い物を頼まれ、そのモールに行く途中に偶々出くわした社である。全く予想もしていなかった場所であったのだが、これも神様からの新しい出会いの賜物と、ありがたく参拝させて頂いた。
 モラージュ菖蒲から南北に通じる埼玉県道12号川越栗橋線を北上する。県道は途中から東西方向に進路が変わるのだが、500m程過ぎた十字路を左折し、その突当たりの丁字路の右側に割目久伊豆神社の鳥居が見えてくる。
 駐車スペースは周囲にはない様子なので、路駐して急ぎ参拝を行う。
 
  参道を進むと右側に祀られている境内社       境内社の左側奥にある力石2基
 大黒様と狐の置物が置かれているのが印象的
 この力石は、どちらも天保11年(1840)に奉納されたもので、写真左の力石は「六十五貫目」、右側は「四十二貫目」と刻印されている。1貫=3.75㎏であるので、現代の重さ(g)に直すと、それぞれ左244㎏、右158㎏となる。どちらにしてもかなりの重さである。
 
   参道右側には「改築記念」がある。     「改築記念」の脇にある大木の幹部分と石祠
                    改築記念
            當久伊豆神社境内ニ一老杉在 居〇一丈六尺
            有餘長サ九拾尺只空洞有ヲ惜ム時二大正拾壹
            年三月拾五日霹靂一〇忽チ落雷洞内ニ火ヲ發
            シテ炎々夕リ消化ニ努ムル事二晝夜ニ及ブ
            雖効無ク遂ニ認可ヲ得テ伐木スルニ至ル 〇
             而社殿之頗廢其極ニ達ス以故為記念當字〇〇
            故中野茂右衛門氏改築之議ヲ提出スル〇〇ヲ
            讃同於是大正拾貳年拾壹月拾壹日起ニ茲ニ落
               成ヲ告グ擧式ニ際シ建碑為記念

                 大正拾三年拾月拾五日
                   井上喜三郎謹書
 この改築記念の碑には、大正時代にあった落雷が、当時社のご神木であったであろう大杉に直撃し倒木してしまった事、同時にその被害が社殿にまで及ぼしたことが記されている。写真右側にあるように境内には大木の幹部分しか残されていないものが残されているが、近くに石祠も設置されているところから、もしかしたら記念の碑に出てくる大杉であったのかもしれない。
 但し、この改築記念の碑には、社に関する由来等の記載はなく、また資料等確認しても同様で、創建等は全く不明。『新編武蔵風土記稿』においても「久伊豆社 村の鎭守なり、村民持」としか書かれていない。
       
                                      拝 殿

 拝殿手前左側に鎮座する「正一位諏方大明神」          本 殿
       
                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「角川日本地名大辞典11埼玉」
    「境内石碑文」等 

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北小浜八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市睦町2749
             
・ご祭神 誉田別命 
             
・社 格 旧小浜村鎮守・旧村社
             
・例祭等 名越祭(北小浜の獅子舞) 731
                  前夜祭 914日 大祭 915
   
地図 https://www.google.com/maps/@36.1285138,139.6052398,18z?hl=ja&entry=ttu
 三俣諏訪神社から埼玉県道38号加須鴻巣線を東行する。「加須市役所入口」交差点より同県道411号加須停車場線、更に「睦町」交差点で同県道152号加須幸手線と名称変更となるが、引き続き東方向に進む。「睦町」交差点から350m程先にある「加須市昭和歩道橋」が見える十字路を左折すると、進行方向左側に北小浜八幡神社の鳥居や社号標が見えてくる。
 社の正面入り口を通り過ぎた最初の丁字路を左折すると、「加須市三俣第三区集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
        
                 北小浜八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「小浜村」の解説
 三俣村の東に位置し、北は手子堀(てこぼり)川、南は会の川を境とする。羽生領に所属(風土記稿)。田園簿によれば田高六〇一石余・畑高三七五石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領と旗本四家の相給。宝暦一三年(一七六三)以前に二七石余が久喜藩領となる(文久三年「米津家由緒書」学習院大学史料館蔵児玉氏収集資料など)。同年一部が下総佐倉藩領となり(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)、同藩領は幕末まで続く(同調帳など)。「風土記稿」成立時は旗本松平領・佐倉藩領・川越藩領。
 北小浜地域は、旧利根川である会ノ川左岸の自然堤防上に位置していて、標高が12m13m程の低地帯であるのだが、社が鎮座している場所は、標高が14.5m程で、周囲よりも若干高い場所にある。写真を見るとより理解できるのだが、社の入口には石段があり、そこの場所が既に周囲より高い事を示している
「埼玉の神社」によれば、「北小浜」という地域名は、「当地が水の多い所であり、小さな浜のような地域であった」とその由来が記載されているが、どちらにしても地形上の名称であったのであろう。
 この地域は現在県道沿いに市街地が形成されていて、社のすぐ南側は民家が集中しているのに対して、北側は長閑な農耕地が広がっていて、社自体の存在が、その市街地との南北の境界線のような位置にある。
 
  道路沿いに設置されている社号標柱      道路から若干奥に石製の一の鳥居が立つ。
  「北小浜の獅子舞」の案内柱もある。
 北小浜八幡社は、寛文11年(1671)に創建、小浜村の鎮守として祀られ、また当地は小浜村と称されていた周辺で一番の高地だという。明治5年村社に列格している。
『新編武藏風土記稿 小濱村』
 八幡社 
 村の鎭守なり、寬文十一年造立する處なり、〇雷電社〇稻荷社二宇〇辨天社 以上地藏院持
 地藏院
 新義眞言宗、南篠崎村普門寺末、能惠山長命寺と號す本尊大日を安ず、元は地藏堂なりしを、今の里正市十郎が祖先、八左衛門と云るもの一寺となせりと、彼は延寶七年十二月十四日死せり、開山榮賀延寶三年七月廿四日寂す、地藏堂

        
                        一の鳥居から100m程の長い参道が続く。
  すぐ南側(写真左側)には住宅街に面しているのにも関わらず、参道周辺は至って静か。
   参道の両側には緑豊かな社叢林が生い茂り、落ち着いた雰囲気も醸し出している。
        
      参道を進むと、二の鳥居手前に突如行く手を遮る鳥居が一基建っている。
     今まで何百社と参拝をしてきたが、このような配置の参道は見たことがない。
        何かしらの由緒があるのであろうが、調べても分からなかった。
        
           二の鳥居の手前に祀られている境内社・八坂神社
                八坂神社の左側には「社殿再建紀念之碑」がある。
                「社殿再建紀念之碑」
      八幡宮は我が國古來崇敬最も厚き神にして靈威また極めて高く坐せり欽
      明天皇の朝應神天皇即ち譽田別命の神靈を宇佐に奉祀し清和天皇の御代
      更に男山に勧請して石清水八幡宮と稱し奉る源頼朝の幕府を鎌倉に開く
      や又その氏神として鶴が岡に社殿を造營せり爾来國中到る處其の祠を設
      く此の埼玉縣北埼玉郡三俣村大字北小濱の地に八幡社を造立し奉れるは
      實に徳川幕府の諸制度完備したる寛文十一年の事に属す其の後享保五年
      更に社殿を荘嚴し明治五年村社に列格も同四十年嚴嶋社雷電社稻荷社を
      合せて市杵嶋姫命別雷命倉稻魂命を配祀す村民常に善く之を奉じて敬神
      崇祖共同和樂の美風を成せり大正八年に至り社殿の改築を企つるや氏子
      等同心協力して震災の影響を排し十三年の秋終に神殿拜殿等悉く成る誠
      に神は人の敬に依りて威を増し人は神の徳に依りて運を添ふるものと謂
        ふべし乃ち茲に其の事業を石に誌して其の精神を後に傳へむとす
                         國學院大學敎授河野省三撰文并書及篆額
        
              二の鳥居を過ぎた先に鎮座する拝殿
 
        参道右側にある手水舎          同左側に設置されている石碑等
        
                                      拝 殿
 八幡社 加須市睦町二-七-四九(北小浜字堂前)
 当地は会ノ川(旧利根川)左岸の自然堤防上に位置する。北小浜の地名は当地が水の多い所であり、小さな浜のような地域であったことに由来する。当社の鎮座する堂前という耕地の地名は、現在の地蔵院の前身であった地蔵堂の前の耕地というところより起こったという。社地は当地区でも一番の高地である。
 当社の創立は『風土記稿』に「八幡社村の鎮守なり、寛文十一年造立する処なり、雷電社 稲荷社二字 弁天社、以上地蔵院持」と記され、『明細帳』には「往古々利根川堤ニシテ現今境内トナリ、八幡社ノ公称アルハ享保五年十二月十九日ナリ、明治五年中村社ニ申立済、同四十年三月二十九日上知林九畝廿壱歩境内編入許可、同年七月十三日字堂前無格社雷電社、同稲荷社二社、字尾前同厳島社ヲ合祀ス」と記す。明治四〇年に三社が合祀されたが、その後、旧民子に災難が相次いだためこれらは旧地に戻されたという。境内社として明治元年創立の三峰社がある。
 大正一三年覆屋・拝殿が建立されるが、昭和二二年のキャサリン台風により社殿が半壊し、修復を行う。この時、神像も被害を受けたため、新たに八幡神像を浅草(東京都)の神具店より手に入れて祀る。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
境内に設置された「北小浜の獅子舞」の案内板          本 殿
 加須市指定無形民俗文化財
 北小浜の獅子舞   昭和三一年九月指定
 寛文一〇年(一六七〇)に八幡神社の創立により、五穀豊穣、商売繁盛、悪魔降伏を祈って獅子舞を行ったのが始まりといい伝えられている。
 毎年七月一一日北小浜一円を行列を組んでまわり、七月三一日の名越祭は、社殿前から北に向かい葛西用水に架かる橋から形代を流す。
 九月一五日の秋祭には、社殿前で「初庭」「中庭」「末庭」の舞を奉納する。道中は提灯を先頭に笛・獅子が続き道中囃子を奏でる。
 構成人数は獅子三・笛四・提灯四・世話人三の計一四人である。
 平成二四年三月  加須市教育委員会
                                      案内板より引用

 
        社殿右側に祀られている石碑等(写真左・右)。詳細は不明。
        
                                 社殿からの景観
 ところで、加須市では市内に点在する屋敷林等の貴重な緑の保全のため、所有者と協議の上、次に掲げる基準により「保存樹木」及び「保存樹林」として指定しているとの事だ。
・樹形が良く、地上1.5mの位置の幹周が2.5m以上のもの
・健全に生育しているもの
・地域住民に親しまれ、自由に観賞できるもの
 北小浜八幡神社には、その「保存樹木」が、二の鳥居手前に屹立しているものを含めると4本指定を受けている。すべてがイチョウの大木である。
       
               指定樹木が聳え立つ参道の様子(写真左・右)
 加須市において、保存樹木等の指定に関する要綱が定められており、この要綱においてでは、豊かな自然が市民にとってかけがえのないものであることから、保存すべき樹木及び樹林等を指定することにより、自然の保護及び緑化の推進に資することを目的とする、との事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須市HP」「埼玉の神社」
    「境内掲示板・石碑文」等

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