古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

栄鷲神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市栄2167
              
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              
・社 格 旧大曾村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭(大杉囃子) 415
 麦倉八坂神社から利根川に沿って走る埼玉県道368号飯積向古河線を程東行する。進行方向右手には利根川の土手が延々と続き、対して左手は民家が点々と見える以外は長閑な田畑風景が広がる里風景を眺めながら、1.2㎞程行った先の十字路を左折し、北上する。暫く進むと進行方向右手前方に、田畑風景の中にポツンとこんもりとした栄鷲神社の社叢林が見えてくる。
 正面鳥居の向かい側に専用駐車スペースあり。
        
                  
栄鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「大曾村(おおぞむら)」の解説
 利根川左岸に位置し、東は前谷村と飯積村の飛地高野新田、南は利根川を隔てて弥兵衛村(現大利根町)。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一一月七日条に、当日入洛した将軍源頼朝の随兵としてみえる大曾四郎を当地出身の武士とする説(風土記稿)がある。田園簿では水損場と記され、田高七五石余・畑高六二石余であるが、明和九年(一七七二)七八石余が高入れされており、新田が開発されていた(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)。
        
             社は標高12m程の低地上に鎮座している。
      水害を避けるためなのだろうかか、小高い盛り土の上に建てられている。
 加須市栄地域は、明治98月に嘗ての前谷村と大曽村が合併したときに定められた名称であり、現在の「栄東」は旧前谷村、「栄西」が旧大曽村にあたり、旧大曾村鎮守であった栄鷲神社は別名栄西鷲神社とも称していて、万治九年に北葛飾郡鷲宮村(現鷲宮町)の鷲宮神社から勧請し、宝暦一四年に社殿を再建したと伝えている。
        
         鳥居の右側に設置されている「渡良瀨川重助裏護岸工之図」
 加須市指定文化財 渡良瀨川重助裏護岸工之図
 種番号 歴史資料第四号
 指定年月日 昭和五十六年三月九日
 管理者 栄西・鷲神社
 縦九一・三センチ、横一三六・五センチ。露月樓穣窓の筆になる絵馬である。現在の旧川が「く」の字形にまがった地点における護岸工事を描いたもので、右下の紅白の内務省旗をかかげたところで二人の監督官と三十人の工夫が土俵・石・その他の資材を積んだ舟を左右に動かして水制工事を進めている。河道には通運丸・高瀬舟・渡舟が描かれ、小段を石で強化した堤防上の馬踏には道が通じ通行人が描かれ、堤防に膚接して並ぶ農家のたたずまいにも注目に値するものがあり、遠景に富士山を配して方角を表わしている。写実的筆致で保存状態も良い(以下略)
                                      案内板より引用

 当地は古くから水場で村人は最近まで洪水に苦しめられていた。拝殿に掲げる明治一八年の「渡良瀬川字重助裏護岸工事之図」を見ると、何百人もの人夫が護岸工事に携わり、帆掛け船や外輸船の姿もあることから、これが大工事であったことと、当時の水害がいかに大きなものであったかを知ることができよう。
       
                    拝 殿
 鷲神社(みょうじんさま)  北川辺町栄二一六七(栄字西沼田耕地)
 栄の地は南に利根川が流れ、集落部は東西に分かれている。これは明治九年、大曾村・前谷村二ヶ村が合併した経緯による。
 当社は大曾分に鎮座し、社記は、この地が再開発される江戸初期、万治九年に北葛飾郡鷲宮村(現鷲宮町)の鷲宮神社から勧請し、宝暦一四年に社殿を再建したと伝えている。また一説に大曾の地は度重なる出水により荒地となっていたものを、足利からこの地に隠棲した多田某が草分けとなって開拓し、元和元年古河領(現横山町)雀宮神社を勧請して鷲神社を称したとも伝えている。なお、『風土記稿』には万治二年の勧請で、万松寺持と記している。
 万松寺は慶長元年の開基で、境内の老松に大鷲が飛来したことを伝え大鷲山大曾院と号し、曹洞宗である。
 明治五年に村社となり、同一六年には本殿・拝殿の改築を行い、近くは昭和三三年に氏子一同の寄進により改築を行っている。
 祭神は天穂日命と武夷鳥命の二柱である。境内には旧村内から集められたと思われる弁財天・稲荷社・天満宮の石祠と大杉大明神石祠が祀られている。 

 神仏分離により、万松寺の手を離れた当社は、大字飯積の本山派修験金剛院が服飾して神職となって奉仕し、今日に至っている。
 *平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えず記載する。
                                  「埼玉の神社」より引用
 例祭は四月一五日。例祭前日をイバン(宵祭り)と呼び、疫神除けとして拝殿に集まり、御神酒を飲みながら過ごす習慣が昭和二四年ころまで行われていたという。
一五日当日は午前中に祭典が執行され、午後一時ころから神輿がでる。神輿は氏子の青壮年や篤信家に担がれ氏子中を回る。神幸にはお囃子が付き、笛・太鼓・鼓・鉦の音に合わせ一四、五曲囃される。道中「サギリ」「ヤギリ」と呼ぶ曲があり、俗に『大杉囃子』と呼ばれている。神輿は氏子の各家の玄関口に仮安置され、お供えがあげられ、囃子が行われたという。
 
拝殿左側には正一位稲荷神社・伊勢太々御神楽碑    拝殿右側に祀られている石祠二基
         の石祠・石碑あり               天満宮・大杉大明神
 旧別当万松寺境内には薬師堂がある。この縁日は四月八日で、近郷からの参詣客でにぎわっていた。薬師堂には井戸があり、昔、老婆が重い眼病にかかり苦しんでいたため、薬師を熱心に信仰したところ、ある晩、薬師の井戸水で目を洗えば治ると夢に出て、翌日僧侶から水を分けてもらい目を洗ったところ、立ち所に治り、以来眼病の霊水として広く知られるところになり、薬師堂はにぎわったと伝えている。
 当地は、度重なる水害で古い記録類に欠けるが、嘉永元年銘のある当社にかかわるといわれる随身画像軸が、萩原家に保管されているという。
        
                   栄鷲神社遠景


【栄八幡宮】
        
              ・所在地 埼玉県加須市栄3324
              ・ご祭神 誉田別命(推定)
              ・社格・例祭等 不詳
 栄鷲神社から南東方向で、直線距離にして350m程に栄八幡宮が鎮座している。
 但し、「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」にも解説等全くなく、残念ながら、創立年代・由緒等不明である。
        
                   栄八幡宮正面
 
   拝殿手前左側にある「青面金剛像」     青面金剛像」の右側に並ぶ菩薩像等


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
   

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小野袋鷲神社


        
               
・所在地 埼玉県加須市小野袋518
               ・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
               ・社 格 旧小野袋村鎮守
               ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015日 新嘗祭 1123
 小野袋八幡神社の東側に北西から南東方向に通る市道162号線は通称「わたらせ通り」といわれていて、起点は、板倉町の行政界である柳生字下宿24906地先で、終点は県道佐野古河線に合流する柏戸交差点までの3㎞程の市道である。
 この「わたらせ通り」を東武日光線「柳生」駅方向に進行し、「小野袋」交差点を右折、200m程進んだ十字路を左折する。一面広がる田畑風景を愛でながら300m程進むと左手に小野袋鷲神社とすっかり葉を枯らしたイチョウの大木が2本見えてくる。
 東側並びには小野袋集会所があり、駐車スペースはあるようなのだが、今回正面鳥居の南側にある車道とは別の路駐可能な空間があり、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                  小野袋鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「小野袋村」の解説
 柏戸村の西にあり、北は渡良瀬川を隔てて下野国都賀(つが)郡下宮村(現栃木県藤岡町)、間の川跡を境に上野国邑楽郡海老瀬村(現群馬県板倉町)。「袋」に低地・低湿地の意もあることから、村名は蛇行した河川の湾曲した低地に位置したことに由来するという。田園簿では水損場と記され、田高一四二石余・畑高三一六石余、宝暦一一年(一七六一)には前々古新田改出高九二石余が加わり高五五二石余となる。同年の反別は田方三二町五反余・畑方六九町四反余(「村鑑帳」田口家文書)、安政三年(一八五六)には下田三二町三反余・下々田二反余、中畑一四町八反余・下畑四〇町九反余・下々畑一町二反余、屋敷三町九反余・葭畑五反余(「辰年貢割付状」同文書)。
        
       小野袋鷲神社は天正八年の創立と伝え、鷲宮町の鷲宮神社から分霊したという。
        
           正面の鳥居左側にある「
愛染明王像塔」の案内板
 加須市指定有形文化財 愛染明王像塔
   昭和五六年三月 指定
 像容は通形で、右に「造立者為妙色増長民屋豊穣」左には「寛政五丑十一月吉日願主当村中」と彫られている。
 この愛染明王像塔は二十六夜待供養のために造立されたものである。塔頂に笠付きであった痕跡をのこしている。愛染明王を刻むものは全国的にみてもその分布がかなり限られており、独尊として造立されたのは江戸時代中期に始まって文政頃に終わっているようである。愛染明王像塔の独尊としての希少価値と、二十六夜待の講中が小野袋にあったことを伝えるものとして重要である。
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
 鷲神社  北川辺町小野袋五一八(小野袋字中通)
 小野袋は、北川辺町の最北で、栃木県藤岡町の下宮、群馬県板倉町の間々田に接する。長禄三年古河公方足利成氏と上杉教房両軍の戦場とまり、当社の西には、この時の戦死者を葬ったと伝える御檀塚(おだんづか)が残る。御檀塚にかかわる言い伝えに「小野袋の集落が滅びる時には御檀塚を掘ってみろ」がある。
 鷲神社は、天正八年の創立と伝え、鷲宮町の鷲宮神社から分霊したとされ、寛保元年社殿再建、宝暦一四年拝殿再建と伝えるが、昭和五八年火災により焼失したため、現在社歴に関する記録は失われてしまった。なお、社殿は昭和五九年に再建されている。
『風土記稿』には、「鷲明神社 村の鎮守なり、来福寺持」とあり、真言宗豊山派薬王院来福寺が江戸時代は管理していたことがわかる。祭神は天穂日命・武夷鳥命である。社殿は入母屋造り瓦葺き平入りで、内陣には白幣を祀る。
 境内は一九一坪で、戦前まで境内南に二畝ほどの神田があり、当番が耕地に当たり、取れた米で九月一五日の大祭に供える甘酒を作っていた。また、境内には、明治の神仏分離の際、村内から集められたといわれる庚申塔四基と町指定文化財の愛染明王像がある。
 *平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
             
境内西端に並ぶ庚申塔と愛染明王像塔
          左から二番目が愛染明王像塔で、それ以外は庚申塔
 当社の祭りは、元旦祭・春祭り・秋祭り・新嘗祭の四回で、このほか、七月と一二月に人形を焼く大祓が行われる。
 元旦祭は、一日に早朝氏子が参集し、祭典のあと御神酒を頂き、神礼を受ける。
春祭りは、旧暦三月一五日に行っていたが、現在は新暦の四月一五日である。祭典は総代・区長の参列により行われる。
 秋祭りは、旧暦九月一五日であったが、現在は新暦の一〇月一五日である。一四日に当番が掃除を行う。昔はこの日の夜、当番が神社にお籠りをしたといわれ、一五日朝、氏子が赤飯・里芋の煮っころがしを神社に持参し、お籠りをした者がこれを頂く。一五日は朝、幟を立て、祭典を行う。戦前までは、神田でとれた米で当番が甘酒を作り参拝者に配ったことにより、この祭りを「甘酒祭り」とも呼んだ。この日の午後には、拝殿にお囃子の道具や幟を並べ、次の当番に道具確認の上、申し送りをした。これが済むと、区長が酒五升、現当番が各自で祭礼料理を持ち寄り、次の当番の者に振る舞うという。
 新嘗祭は、一一月二三日であり、総代・区長の参列により祭典が行われる。
        
                          長閑な田畑風景が広がる小野袋地域


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

 

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小野袋八幡神社

 加須市小野袋。この地域名に「袋」が付く場合、低地・低湿地の意もあることから、村名は蛇行した河川の湾曲した低地に位置し、堤防決壊や越水が起こった場合に浸水しやすい土地のことを表すという。
 俗に「災害地名(さいがいちめい)」とは、現地で起こった自然災害が由来とされる地名のことであるのだが、過去の災害の経験を後世に伝える史料のひとつとしてしばしば評価される。特に、古来の地名には、その土地の特徴や大災害の歴史が秘められていることが多いとの事だ。
 但し、災害を思い起こさせる地名は、現代では良しとされないため、明るい意味の文字を用いた地名に変更されたケースも少なからず存在するし、また、物理的な実体を持つものではないゆえに、先人の経験を正確に伝えているとは言い難い場合があるため、その取扱には繊細な注意が必要であるとする意見も現実にはある。
 日本は火山や地震等の自然災害の頻発国である。災害が起きてから自然と生活環境を考えるのではなく、日頃から自分の暮らす地域の地名、土地柄および過去の災害などに注意を払うことで、突発的な災害に対応するための策を講じるきっかけになると考えられる。
 日頃の防災意識として、「土地の名前がもつ意味」を時には深く考えることも必要ではなかろうか。
        
             
・所在地 埼玉県加須市小野袋1653
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 春祭り 324日 夏祭り 715日 十五夜祭り 旧915
 鎮座地である小野袋地域は、旧北川辺町の最北部で、嘗ての武蔵・下野国両国境沿いに位置する。栃木県道群馬県道埼玉県道茨城県道9号・佐野古河線沿いにある「道の駅かぞわたらせ」から北西方向で直線距離500m程の谷田川右岸に小野袋八幡神社は鎮座している。 
        
                                                      小野袋八幡神社正面
 
       
            入り口付近にある青面金剛像                  朱色が基調な両部鳥居の二の鳥居
        
                    拝 殿
 八幡神社  北川辺町小野袋一六五三(小野袋字八幡前)
 鎮座地である小野袋は、下野・武蔵両国境沿いに位置する。
 当社の創立は『明細帳』に「天正年間ノ創立ニシテ誉田別命ヲ祭ル寛永六年二至リ社殿ヲ再建ス村内上耕地ハ同社ヲシテ鎮守ト称ス」とある。また、口碑には「天正年間、豊後国の宇佐八幡から分霊を受けて、谷田川を隔て対岸の現在の板倉町大字峰に祀ったのが始まりであり、その後水害により当地に社殿が流れ着きこの地に祀るようになった」とあり、旧社地と思われる「宇佐下」の地名が今に残る。
 社殿造営の変遷は『八幡宮改築記念碑』に「神社造営は名主小衛門の発心と戒含寺住職淳澄の指導に依り延宝五年九月奉造となる爾来三百年氏子を守護し、又氏子の奉仕管理に依り永続せるも木造建物の命数尽き大東亜戦終戦後の混乱に加えて経済的変化と思想の激動期を迎え再建も困難なりしが鎮守の荒廃も著しく有志相諮り氏子の協讃を得て昭和三十五年度より耕地収入の全部と個人の寄附に依り改築に努力せり。以来四年間氏子の崇高なる敬神と郷土関係者の協力に依り改築竣工す」とある。内陣には三九センチメートルの騎乗の八幡明神像を安置する。
 神仏分離以前の別当は真言宗八幡山瑠璃光院戒含寺が務めたが、明治期に廃寺となっている。旧寺地は当社境内の南東の一角に当たり、境内には法印権大僧都淳澄の墓石が残る。
 *平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                   「埼玉の神社」を引用
 
  社殿左側に祀られている境内社・浅間社       社殿右側奥に祀られている
勝軍地蔵や石碑
 この勝軍地蔵は昭和5939日指定の加須市有形民俗文化財で、その右隣に並ぶ石碑は榛名神社・稲荷大明神。
             
             境内に設置されている「八幡宮改築記念」
 八幡宮改築記念
 神社造営は名主小衛門の発心と戒含寺住職淳澄の指導に依り延宝五年(1677)九月奉造となる。
 爾来三百年氏子を守護し又氏子の奉仕管理に依り永続せるも木造建物の命数尽き、大東亜戦終戦後の混乱に加えて経済的変化と思想の激動期を迎え再建も困難なりしが鎮守の荒廃も著しく、有志相諮り氏子の協讃を得て昭和三十五年(1960)度より耕地収入の全部と個人の寄附に依り改築に努力せり。以来四年間氏子の崇高なる敬神と郷土関係者の協力に依り改築竣工す。
                                     記念碑文より引用

 記念碑に載せられている「名主小衛門」は地元の旧家である田口家である。
 この地域には、開発当時より今に至るまで代々居住している旧家がいて、それぞれ田口家・岡田家・飯島家といい、この旧家が中心として地域の行事等を仕切っていた。
「埼玉の神社」によると、当地の行事は、主に村の旧家の人たちによって行われる旧暦915日の「十五夜の祭り」は別名「本家祭り」ともいうが、その代表的な行事であるという。
 この行事は、旧家である田口家三軒・岡田家・飯島家の当主五人だけが祭典に参加するのを習わしとしている。田口家三軒のうち二件はそれぞれの屋号を「本家」「オカシラ」と呼び、もう一軒は本家の位牌があることから本家から隠居をして分かれた家であると思われる。このうち本家の田口直哉家が、かつて名主を務めた家柄である。また、岡田家・飯島家も屋号を「本家」と呼び、それぞれ村の開発にかかわった家柄であると思われる。
       
                        小野袋八幡神社の並びに建つ「藤畑集会所」
 本家祭りは共同体としての村社会を再確認する場であると共に、旧家である五人が氏神の祭祀権を有し、村の開発にかかわった先祖を偲び、共同体の目的を想起させる役割をも果たしている。このような行事は古い祭りの祖型を残すものとして貴重であり、これと似た性格の行事は近隣の「柳生地域」の本家祭りも同様な形態をしているので興味深い。       
 
     「藤畑集会所」の南側にある戒含寺       戒含寺の前に「木造阿弥陀如来坐像」の案内板                                            
 加須市指定有形文化財 木造阿弥陀如来坐像
 昭和五三年三月 指定
 寄木造り・彫眼・白毫肉髻共に木製嵌入・像高二四センチメートル
 通肩の納衣を着け、上品下生印を結ぶ阿弥陀像である。頭部螺髪は彫出しであるが浅い。
面部は前後二枚矧合わせ、彫りは秀れている。体躯部は前後三枚の矧合わせで、手先・裾先は別に寄せている。体躯部に内刳は見られない。衣文部は全体的に彫りが甘いが秀れた面部などの彫りから推して江戸時代以前の作と考えられる。手首先、特に右手印相は後補のものと思われる。
 平成二四年三月
                                       案内板より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内記念碑文」等

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柳生鷲神社

 前項「麦倉鷲神社」の北側裏手には、廃川となった「合の川の河川跡」があることは解説した。この合の川は利根川の旧流路の一つで、現在は廃川となっていて、利根川が埼玉県加須市飯積地域で北へ分流し、加須市と群馬県邑楽郡板倉町の境界(旧武蔵国埼玉郡と上野国邑楽郡の境界)を東へ流れる。その後麦倉鷲神社付近で北方向に流路が変わり、板倉町下五箇で谷田川に合流するのだが、流路が北方向に変わるその右岸一帯はほぼ柳生地域にあたり、柳生鷲神社はその地域北側の河川跡の東側に鎮座している。
 この柳生鷲神社は、麦倉鷲神社同様に嘗て存在していた河川に隣接した地に鎮座していて、共に現在「天穂日命」を主祭神として祀っているのだが、地形的な特徴を鑑みると、本来は水田を守り、度重なる河川の氾濫を防ぐ水神を祀るための社ではなかったかと漠然と考察している次第だ。
        
              
・所在地 埼玉県加須市柳生2378
              
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              
・社 格 旧柳生村鎮守・旧村社
              
・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
「北川辺西小学校前歩道橋」交差点から北西方向に走る埼玉県道415号柳生停車場線に分岐するY字路を左斜め方向に進行する。この道路は「合の川の河川跡」に沿った道であるのだが、道幅が狭いので、周囲の道路状況に注意しながら北方向に600m程進む。その後「久保山集会所」がある方向に左折するのだが、左手には旧河川の堤防が一面に見え、如何にも河川沿いを連想させる風景が広がる。「久保山集会所」から直線方向にて400m程北側に柳生鷲神社は境内を巨木・老木に囲まれている中、静かに鎮座している。
        
                  柳生鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「柳生村」の解説
 東は小野袋村の西に位置し、北西は間の川跡を隔てて上野国邑楽(おうら)郡下五箇(しもごか)村・海老瀬(えびせ)村(現群馬県板倉町)。柳の茂った原野を元亀年中(一五七〇〜七三)開発したという。日光道中から中山道へ通ずる脇往還は、村内で海老瀬村に至る道と麦倉村へ通じる道の二条に分れた(風土記稿)。
 検地は寛永六年(一六二九)関東郡代伊奈忠治、寛文五年(一六六五)下総古河藩が行った(風土記稿)。田園簿では水損場と記され、田高三一九石余・畑高四七〇石余であるが、明和九年(一七七二)には一四六石余が高入れされており、新田が開発されていた(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)。
『新編武藏風土記稿 埼玉郡柳生村』
「往昔は柳樹多く茂りたる原野なりしを、元龜年中開發して一村となせし故、かく村名を唱へりと云(中略)日光道中より中山道への脇往還かゝる、村内にて二條となり、一條は上州板倉道と號し、麦倉村へ出づ、一條は同國飯野道と唱へ、邑樂郡海老瀬村へ達す」
「間ノ川 村の北西国境にあり、此川當村の地先より川上の方は今川蹟となりて陸田等を開けり、又東の方小野袋村によりし方より川下は、水流通じて田間の惡水等落合ひ、川幅も七十間に至れり、こゝに板橋を架して對岸海老瀬村に達す、是前に云飯野道なり、川にそひて堤あり」
 

   鳥居の左側に設置されている案内板    鳥居・社号標柱の右側にある「鷲明神社記恩碑」
        
                               東向きの広々とした境内
 案内板によると、柳生鷲神社の創建は天正15年(1587915日で、鷲ノ宮に鎮座する鷲宮神社より勧請したという。現在の社殿は昭和2410月新築・竣工されたもので、内陣には神像・神輿が奉安されているという。また柳生薬師堂は、鷲神社内にあり、もと鷲山宝蔵院東光寺の薬師堂にて薬師如来が安置されている。鷲神社二隣接していた東光寺は、天正13年(1585)の草創で、開山は恵雄和尚で、寛文七年(166735日寂した。なお、宝蔵院は明治6年(1873)神仏分離により廃寺となったという。
鷲明神社記恩碑」は読みづらい箇所が多数あり、全体の解説はできないが、「水旱疾疫」「水患凶」と読める所もあり、嘗て利根川及びその支流が乱流するこの地域に生きた人々が苦労しながらも、「神明之徳人心自正協力相助克堪」と記しているように、協力・相助しながら必死に耐えてきた歴史を克明に記録した碑文なのであろう。
        
                                     二の鳥居
        
                    拝 殿
 鷲神社(みょうじんさま)  北川辺町柳生二三七八(柳生字中耕地)
 柳生の地は、往昔乱流する利根川の河岸に柳の木が多く茂っていたことからその名が付けられた。柳生の開発は元亀年中と伝えられ、村人は水害に悩みながら少しずつ田畑を広げたという。口碑によると、当地の草分けは三三戸で、現在本家祭りを続けている人たちの先祖であると伝える。
 当社の創建は、『風土記稿』によると天正一五年九月一五日で、鷲ノ宮に鎮座する鷲宮神社より勧請したという。
 祭神は、天穂日命と武夷鳥命である。内陣には、木造の神像を安置している。
 別当は幕末までは真言宗鷲山宝光院東光寺で、天正一三年の開基である。また、鷲宮神社の神主も幕末まで当社の神楽修行を務め、毎年三月一五日には春神楽を奉奏した。
 本殿は一間社流造りである。社殿の造営については二枚の棟札が現存しており、建築年代を知ることができる。一枚は享保一一年九月一九日に本地堂を宝光院行誉法印の代の再建、一枚は、宝暦三年九月一五日に拝殿を同院の快舜法印の代の再建のものである。
 明治に入り、神仏分離により宝光院は廃され、当社に神職を置くようになった。また「デイノ権 現様」と称される十二所権現社も、この時代に合祀された。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
   社殿左側奥に祀られている合祀社         社殿奥に祀られている石碑・石祠等
      左から愛宕社・浅間社        左から小御嶽山・〇・大杉大明神・天神社
       
                       社殿右側に祀られている境内社。台山社・三峰社
     
                   拝殿右側手前にあるカヤのご神木(写真左・右)
   このカヤの巨木は、加須市保存樹木(指定番号94号、幹回270㎝)に指定されている。
 柳生鷲神社の境内には、カヤの巨木の他、ケヤキ(指定番号88号号、幹回280㎝)・エノキ(指定番号90号、幹回280㎝)・エノキ(指定番号91号、幹回370㎝)・イチョウ(指定番号92号、幹回340㎝)・イチョウ(指定番号93号、幹回340㎝)等が参道両脇に聳え立つ。その姿は正に圧巻である。

 因みに、このご神木の根元には「祝鷲神社基金 金貳百圓也 石島本家」と刻まれている石碑がある。
 この石島家は、『新編武蔵風土記稿 柳生村』にも「舊家者才次郎 石島氏にて當村の名主をつとむ、先祖石嶋主水助は小山小四郎に仕ふ、天正十年北條家より佐野修理太夫宗綱をして、下野國榎本の城主藤岡山城守を攻るの時、小四郎藤岡に加勢し、後詰の勢を出して、小田原の人數を追崩せり、其時主水助もしたがひて功あり。又傳ふ天正十一年七月十一日、小田原勢打向ひし時、小四郎敗北せしかば、主水助小四郎に従ひ、郡内大越村へ落ち、其後又當村に移り住せりと云、(中略)されどこの傳ふることゝ、後に載せたる文書と事蹟合せず、按に小山氏天正の始は藤岡氏に與みし、後天正の末に至り、却て小田原に與みして藤岡を責し頃、主水助も小山氏に従ひ功ありしかば、後にのせたる天正十八年庚寅の感狀を賜はりしものなるべし(以下略)」との記載がある旧家である。

     社殿の右側隣にある薬師堂        薬師堂の手前に並ぶ普門品供養・庚申・
                              大乗妙典供養塔
        
                   境内の様子
 ところで、柳生地域には独自の風習が存在しており、開発の早いちくが祭祀執行の要をなし、更にこの中に「本家祭り」を行う集団が存在することである。本家祭りは、一般に先祖祭りとも称し、柳生村開発当初からの草分けの子孫が一月一五日に行う祭りである。これは村の本家格の家より構成され、現在は転出等により二五戸になっている。
 この祭りの特徴は、子孫に祭祀執行の権利があるとともに、伝承の義務を有していること、また他の氏子にの参加は排除され、閉鎖性も強いということである。
 但し、このような祭りにおいては個人がどのように進行するかはあまり意味を持たない。重要なのは、開発当初からの運命共同体としての意識を持つことであり、この場に参加することに意義があるのであろう。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia
    「境内案内板・石碑文」等

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麦倉鷲神社

 
        
              
・所在地 埼玉県加須市麦倉124
              
・ご祭神 天穂日命
              
・社 格 旧麦倉村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 211日 春祭り 43日 夏祭り 77
                   
お日待 1015日 新嘗祭 1123
「道の駅 おおとね」から埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、利根川に架かっている「埼玉大橋」を越え、1.5㎞程北上した「北川辺消防署前」交差点を左折する。その後、同県道369号麦倉川俣停車場線を西行すること1㎞程にて「加須市立北川辺西小学校」に到達し、そこから県道沿いに進むと、進行方向右手に麦倉鷲神社の一の鳥居が見えてくる。
        
                  麦倉鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「麦倉村」の解説
 利根川左岸に位置し、東は大曾村・柳生村、南は利根川を限り、北は間の川跡を隔て上野国邑楽郡下五箇(しもごか)村(現群馬県板倉町)。田園簿によれば田高六二一石余・畑高七九六石余。宝暦一一年(一七六一)前々古新田改出の二〇五石余が新たに加わり高一千六二三石余となる(「村鑑帳」小室家文書)。反別は寛文四年(一六六四)に田方一〇三町二反余・畑方一六八町六反余(「麦倉村検地帳」同文書)。宝暦元年立野たての新開畑五町三反余が検地をうけ、前掲村鑑帳では田方一〇三町三反余・畑方一七四町九反余となっており、江戸時代を通して畑方の開発が促進された(同文書)。
        
                          南北に100m程続く比較的長い参道
「埼玉の神社」によれば、麦倉の地は明応年間(1492年〜1501年)のころに開拓が行われた所であり、当地の領主である石川氏の館を倚井館と称し、その跡地である今の北川辺西小学校には記念碑が建てられている。
 領主石川氏は、俊重の代に羽生城主木戸氏と争い、永禄11年に敗れるが、残った家臣は天正年中この地に入り開拓に努めた。その一人「鳥海多津儀」は、旧領主が延徳二年に勧請したと伝える当社の神主となり、麦倉の安泰と村民の安穏を祈り、以来同家は当社の社家となったという。
『新編武蔵風土記稿 麦倉村』
「當村明應の頃開闢して、石川權頭義俊と云人居城を構へ則領主として住せしが、羽生の城主木戸相模守と合戦に及び、石川焼打にせられ、利を失てより一村悉く廢地となれり。其時石川義俊の家臣に鳥海丹後と云もの、城中を遁れいで、野州に立退き、彼が子孫慶長の頃、又當村に来り再び開發せりと云」
 また麦倉鷲神社の創建は、当地が開発された時期と同じく、明応のころ勧請された村鎮守であると記されている。
「鷲明神社 村の鎭守なり、當社は明應の頃勸請する所なりと云」
「南光院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、元弘山と號す、本尊不動を安ず、當院は延元の頃開て其後廢せしを、明應の頃再び建立せしと云、及傳と云僧を祖とす、俗稱を石川主膳と云、石川權頭義俊が一族なり」
         
                     拝 殿
           拝殿中央部には鷲神社らしく鷲の図柄が描かれている。
    因みに拝殿の手前で、参道を横切る道があるのだが、この道は上州板倉からの旧街道という。

 鷲神社  北川辺町麦倉一二四(麦倉字本村)
 麦倉の地は明応のころに開拓が行われた所である。領主の石川氏の館を倚井館と称し、その跡地である今の北川辺西小学校には記念碑が建てられている。
 領主石川氏は、俊重の代に羽生城主木戸氏と争い、永禄一一年に敗れるが、残った家臣は天正年中この地に入り開拓に努めた。その一人鳥海多津儀は、旧領主が延徳二年に勧請したと伝える当社の神主となり、麦倉の安泰と村民の安穏を祈る。以来同家は当社の社家となる。
『風土記稿』によると、鷲明神は明応のころ勧請された村鎮守であると記され、また、神主鳥海家については、丹波の代で京都吉田家の支配を受けるようになり、その先祖は石川俊重の臣で多津儀という者が神主になったとあり、麦倉の地に残る口碑と一致する。
 鳥海家は神社脇に居を構え、大正一〇年ごろまで神職を務めていたが、その後昭和三〇年代の末に焼失してしまった。鳥海家の後には、上田金助が神職となり、今は武良が跡を継いでいる。
 当社の合祀は早く、明治五年に耕地中の神社を合わせたといわれるが、今日確認できるものは筑道の熊野神社(権現様)、本田上耕地の愛宕社の二社で、これらは終戦後それぞれの元地に戻っている。
 祭神は天穂日命で、一間社流造りの本殿には正徳二年七月七日付の京都吉田家からの幣帛が納められている。
平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している
                                                                    「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」に記載されている麦倉地区の領主であった石川氏は、俊重の代に羽生城主木戸氏と争い、永禄一一年に敗れているのだが、その敗れた原因を「時期的に丁度とうもろこしの伸びたころで、敵が隠れるには好都合だったために敗れてしまった」との由緒が残されており、石川家と一部の氏子はとうもろこしを作らないといわれている。
        
                              社殿から参道方向を撮影

 ところで、麦倉鷲神社の北側裏手には、廃川となった「合の川の跡」があり、グーグルマップ等の地図にもこの流路跡はしっかりと確認することができる。この合の川は、利根川の旧流路の一つで、現在は廃川となっている。合の川は、利根川が埼玉県加須市飯積で北へ分流した流れで、加須市と群馬県邑楽郡板倉町の境界(旧武蔵国埼玉郡と上野国邑楽郡の境界)を東へ流れ、板倉町下五箇で谷田川が合流した後、加須市小野袋へ至って旧渡良瀬川へ合流していて、古代には利根川の本流が流れたとする説もある。
 元和7年(1621年)に新川通が新たな利根川本流河道として、加須市佐波(飯積から下流へ2km)から旗井(久喜市栗橋の北1km)までを開削し、渡良瀬川に接続し、これに伴い、合の川への利根川分流水量は増水時を除けば僅かとなる。その後、天保9年(1838年)に流頭が締め切られ、廃川となった。旧渡良瀬川へ至る下流部は谷田川へ譲った。
『新編武蔵風土記稿』
「利根川 新利根川なり、もと利根の流は飯積村の地先より佐波村の方へ流れしに、水路不便なれば寛永十九年伊奈備前守奉り、新たに當村の地さきより新川を掘割、かの飯積村の本流に通ぜしよし、元の流れは古利根川と呼び、土人此川を新利根川と唱へり、夫より二里餘を東流し、新古の二流合してより、此名は唱ずしてたゞ利根川と呼べり」

 合の川は人工的に締め切られた経緯から、流路内の比較的水深のあった場所は池沼として残り、流路跡に散在している。その他の流路跡の土地利用としては主に水田などの農地として利用されている。流路跡のほぼ中央部には谷田川へと至る水路が所在している。また、流路跡の両岸には当時の堤防が残されており、堤防上は道路などとして利用されているという。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等


 
  

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