古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

円墳大塚古墳

 埼玉県指定史跡 円墳大塚古墳
 昭和33320日指定
 所在地 皆野町大字皆野毛無塚95
 秩父地方の古墳は、現在のところ古墳時代後期になってから築造されたと考えられている。大部分は小規模な円墳が集まって、一つの群を構成している。大塚古墳は、秩父地方に現存している 古墳の中では大規模なもので、直径約33m、高さ約7mである。
 墳丘は円礫の葺石で覆われ、周囲には幅約4m、深さ約1mの周溝がめぐっている。
 石室は横穴式で、南南西の方向に開口している。
 羨道(せんどう 玄室といわれる棺が埋葬される主体部への通路)の入口である羨門付近は破壊されている可能性があるが、玄室の入口にあたる玄門は東側の門柱、冠石、框石(しきみいし)が良好な状態で残されている。
 玄室は胴張り両袖式で、床にくらべて天井が狭いドーム状に構築されている。
 石材は、天井と奥壁には巨大な磐石、側壁には下部に大型の割石を縦に、上部では小型の割石を小口積みに、いずれも秩父の地域性を反映して片岩が用いられ、積み石の間隙部には小石や石綿が充填されている。また、床にはこぶし大の川原石が敷き込まれている。
 江戸時代にはすでに石室は開口しており、副葬品は発見されていない。また、埴輪も確認されていないが、石室の形から7世紀の第2四半期に築造されたものと推定される。(以下略)
                                    現地案内板より引用

        
             
所在地 埼玉県秩父郡皆野町大字皆野95
             ・規 模 円墳(直径約33m、高さ約7m 横穴式石室 全長7.8m)
             ・築 造 古墳時代後期(7世紀前半)
             ・指 定 埼玉県指定史跡 昭和33320
 黒谷聖神社から国道140号彩甲斐街道を北上し、「木毛」交差点を左斜め方向に進路変更すする。因みにこの道路は埼玉県道206号皆野停車場線、又の名称を「上原通り」ともいい、150m程進むと、進行方向右手に「円墳大塚古墳」の石製の看板や古墳の全貌が道路沿いでありながらもハッキリと見えてくる。
 駐車場はあるようなのだが、今回は国道140号線沿いで、「木毛」交差点のすぐ北側にあるコンビニエンスの駐車場をお借りしてから徒歩にて古墳散策に赴いた。
       
                   「上原通り」沿いにある円墳大塚古墳。
 円墳大塚古墳は、秩父市との行政境に近く、埼玉県西部の簑山西麓、荒川右岸の低位段丘最上段に築造された大型円墳である形状は円墳。付近には、中の芝古墳や内出古墳群など数基の古墳が残っている。墳丘は、直径約30m、高さ約5mで、墳頂には小祠が祭られている。円礫の葺石で覆われており、墳丘をほぼ一周していて、更に、深さ約1m、幅約4mの周溝が確認された。石室は横穴式で、南南西の方向に開口し、胴張両袖型で、側壁は片岩の小口積みが用いられ、当地方の特徴が現れている。
 この地域に多数みられた古墳群のうちの一つで秩父地方最大の切石古墳である。

    正面に設置されている石碑          石碑の右方向にある案内板
        
                                  円墳大塚古墳正面
 
   石室開口部は墳丘の階段上り口左側にあり、     墳頂部に祀られている石祠
          南南西方向に開口している。        だれを祀っているのであろうか。
        
                            県道から円墳大塚古墳の眺め    
 この古墳は当地では昔から知られていたようで、『新編武蔵国風土記稿』にはこの古墳について「氷ノ雨塚」として紹介されているほか、その当時すでに開口していた石室の内部が記述されている。
『新編武蔵風土記稿 皆野村』 
氷ノ雨塚五ヶ所 
此類近村に數多あり、其一は腰にあり、周回凡二十間、高さ三間半許、上には荊棘茂生す、土人これを大塚と呼、里正一郎右衛門が祖父、一郎右衛門貴高が幼少の頃、其中に入りしと云、物語に六疊じきほどの穴にて、上も下も四面ともに總て岩石にて、甃して僅に身を容るゝばかりの入口ありと云、その後は社きて入るものなしと、其二は大濱にあり、周囲五間、高さ一丈許、其二は大京にあり、大さ前に同じ、

 ところで、前項「飯塚・招木古墳群」における89号古墳は『新編武蔵風土記稿 寺尾村』によると、嘗て「氷雨塚」と呼ばれていて、この両古墳は「氷雨」を共有している。また、互いに荒川の対岸に位置しながらも距離的には決して遠くはない。余談ではあるが、秩父には「氷雨塚」「氷ノ雨塚」と呼ばれていた古墳が数多く存在している

『新編武蔵風土記稿 大淵村』
塚 土人氷ノ雨塚と唱ふ、郡中所々にあり、村民周次が畠の中にあり、此塚中は沖にして、入口六尺、幅も六尺許、奥行は二間、石を以て疊上げ、上に大石を三枚許亘せり、昔此穴の中より古刀出たりしが、皆折れたりとぞ、其折れたるを此塚に埋めしと云、村民彌市右衛門が畠の中にも、前の塚と同じき塚ありしが、先年崩れ取りしと云、其崩せし時古刀四本を得たり、今に所持す、

『新編武蔵風土記稿 久那村』
氷ノ雨塚 荒川の北岸字釜林にあり、地形南東北に荒川の流れ廻り、西方陸田にて石を疊みて界とす、南北二町、東西一町半許、此間に塚三ヶ所あり、(中略)何れも塚上に松雑木たてり、見捨地なり、土人云往古岩田伊勢なる者、此邊に住居せしよし、實詳まらねど、上田能村小名殿間に住せし頃、故ありて北條家より所を拂はれ當村に來りとも云へば、その年代は推て知べし、村民龍五郎が家伊勢が末なりとて、今に此地を持てり、村中岩田を氏とするもの多し、

『新編武蔵風土記稿 寺尾村』
氷雨塚 小名飯塚と云へる所に、高三尺より七尺に至るの石塚數ヶ所あり、其内二つは沖あり、入口高七尺、幅六尺奥行八尺許、石にてつみ立たる塚なり、(中略)此塚を土人氷雨塚と唱へ來れり、村民持、

『新編武蔵風土記稿 小柱村』
塚 里正庄左衛門が屋敷の内にあり、土人是を氷の雨塚と云、此塚うつろにて幅五尺、奥行八尺五寸三分、皆石を以て疊み、上は大石三枚ほど亘せり、此塚の傍に大天白の社を勧請せり、いかなる故にや、此塚の有る所には、すべて大天白の社を勧請すと云、塚の高さ一丈三尺許、

        
                    大渕古墳   
        大淵熊野神社から埼玉県道皆野両神荒川線を南下し、暫く進むと
              進行方向左手に封土は失われて石室のみが露出している古墳である。
             ・所在地 埼玉県秩父郡皆野町大渕

『新編武蔵風土記稿 小柱村』には、これらの古墳の上には「大天白社」が祀られているとの記述がされていて、興味深いことではあるが、これを証明する術は現在筆者には持ち合わせていない。実際「氷雨塚」という名称も、古墳築造当時に命名されたものとは考えにくく、後世に命名されたものと考えられ、そのいわれは、今猶分からないというのが現状である。


 筆者の妄想の類の考察を一つ紹介。秩父のシンボル的な存在として「武甲山」がある。この武甲山の山名の由来として、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征されたおり、雁坂峠の頂上から秩父の山並みを眺め、武人のように堂々とそびえ立つ山の名をたずねたところ、里人はその名を「秩父が嶽(たけ)」と答え、すると日本武尊はさっそくその山に登り、天の神・地の神をまつられたという。そしてその時、着用していた御自身の甲(かぶと)を岩室(いわむろ)に納めたので、その後この山を「武甲山(ぶこうさん)」と呼ぶようになったという。

 一方、『古事記』に載る日本武尊の伝説では、日本武尊は伊吹山の神の怒りに触れ、祟りとして「大氷雨」を浴びせられたことで失神し、それが原因で病死する語りとなっている。つまり「日本武尊」に関する伝承・伝説を知る者にとっては「氷雨」がどのような意味をもつか、当然知っている事であろう。
 但し日本武尊が登山されて武具・甲冑を岩蔵に納め、東征の成功を祈ったところから山名が「武甲山」になったという伝説は、元禄時代の頃から秩父の人々に伝承され定着したこともあり、この伝承・伝説の歴史自体は決して古くはない。

 この「氷雨」を「
日本武尊」伝説が秩父地方で定着をした際に、飛び火的に発生した事項ではなかったか、とも考えた次第であるが、あくまで推測である。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「皆野町HPWikipedia」「現地案内板」等
  

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飯塚・招木古墳群


        
            ・名 称  埼玉県指定史跡「飯塚・招木古墳群」
            ・所在地  埼玉県秩父市寺尾226 他。
            ・時代区分 古墳時代終末期(7世紀後半〜8世紀前半)
 飯塚・招木古墳群(いいづか・まねきこふんぐん)は、埼玉県秩父市寺尾にある群集墳で、荒川左 岸の寺尾地域の河岸段丘上、飯塚地区に73基、招木地区に53基の古墳が展開する秩父地方最大の群集墳である。径527m、高さ14mの円墳で構成されるが、方墳が存在する可能性もあるという。 

 国道140号彩甲斐街道を皆野町から黒谷聖神社方向に南下し、「和銅大橋前」交差点を右折し、そこから500m程進んだ道路の周囲がこの古墳群となるのだが、秩父地方最大の群集墳に通じる道路ゆえか、この道路自体「招木古墳通り」と名づけられている。
        
          招木古墳通り沿いにある89号古墳。嘗て「氷雨塚」と呼ばれていたという。
1977年(昭和52年)和銅大橋の架設による秩父市道38号線(現、秩父市道幹線8号、通称招木古墳通り)の新設に伴い、路線にかかる招木地区の古墳7基の発掘調査が行われた。その内の1基である89号古墳が市道脇に移築復元されていて、石室は玄室の控え積みを強固にし、周列石を23列巡らす児玉地方でよく見られる築造方法がとられている。
この89号古墳は『新編武蔵風土記稿 寺尾村』によると、嘗て「氷雨塚」と呼ばれていた。
「氷雨塚 小名飯塚と云へる所に、高三尺より七尺に至るの石塚數カ所あり、其内二つは沖なり、入口高七尺、幅六尺奥行八尺許、石にてつみ立たる塚なり、又一ヶ所は四尺に四尺五寸の口にて、奥行四尺五寸許、是も石にてつみ立たるのにて、何れも上は大石二三枚を亘せり、此二つは口罅缺して、中も能く見えたり、其餘數多の塚は中のさまは知れず、此塚を土人氷雨塚と唱へ來れり、村民持、下同じ、」
この89号古墳には埴輪が出土せず、副葬品も乏しいことから7世紀後半から8世紀前半にかけ、郷戸主層が築造した古墳群であるとみられている。
        
                            89号古墳前に設置されている案内板
 古墳復元について
 復元古墳名 飯塚招木古墳群89号墳
 古墳原位置 秩父市大字寺尾三四五番地
 復元現地の北、約30米市道上
 復元試行  昭和56128日〜同57330
 一、発掘復元の事情一飯塚市招木地区は国道への連絡がきわめて不便で、この地に道路を敷設することは地区発展にきわめて重要でした。しかし、たまたま古墳群所在地のため発掘調査を必要としたものです。
発掘調査に当り文化財保護と鎮魂の立場より後日復旧の希望があり、今回実現をみたものであります。
 二、復元古墳の規模・構造一復元された89号墳は市道道路敷にあった七基中の一基で、長・短径約11米、高2.5米、玄室長2.6米、羨道長2.4米、石材は羨道部は俗称真石、玄室部は砂岩室の平石を用い持送り式、棺床礫を床にしき、閉塞施設は真石を積み上げています。
 三、出土品一人骨片・土師・須恵器片・蔵骨器・鉄鏃・刀子等・僅かであります。
 四、仕様一復元は原形を目標とし、破壊部分は推定復元を行なった。この復元古墳によりこの地の古墳の携帯・構造の大体を把握することが出来ます。この地の古墳は七世紀から八世紀初頭営造と推定されます。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                       89号墳の近くにも古墳群の碑が建っている。

 この古墳群は、幸いにも近代の開発の影響が少なく、群集墳の様子を最もよく残している日本でも数少ない重要な遺跡である。古墳はすべて円墳で一二四基が確認されている。荒川の左岸段丘上に分布し、墳丘の裾部が重なり接し合う状態はまさに蜂の巣穴のような密集ぶりである。耕作地としうる平地に乏(とぼ)しく、現在でも人口の少ないこの地域にかくも大規模な群集墳が営まれたのは不思議な感じさえする。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」「記念碑文」等

 

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寺尾諏訪神社

 秩父市寺尾地域は、現在の行政区域において南北7㎞程、東西1.2㎞で、蛇行しながら北東方向に流れる荒川にて東側の境として、南西方向から北東方向に斜めに伸びた長い地域である。「秩父誌」によると、寺尾という地域名は、地内に七堂伽藍を有する名刹があり、この寺の前後に村落をなしていたのがこの地名の由来といわれている。
 この地域北方には、「飯塚・招木古墳群」があり、荒川左岸の寺尾地域の河岸段丘上、飯塚地区に73基、招木地区に53基の古墳が展開する秩父地方最大の群集墳である。径527m、高さ14mの円墳で構成されるが、方墳が存在する可能性もあるという。
 秩父地方でも早くから開発されていた地域の一つであったのであろう。
        
             
・所在地 埼玉県秩父市寺尾1907
             
・ご祭神 建御名方神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 元旦祭 稲荷祭 2月第2日曜日 例大祭 4月第4日曜日
                  
秋祭り 9月第3日曜日 大祓・焼却祭 大晦日
 中蒔田椋神社から国道299号線を南方向に1.2㎞程進むと、進行方向左側下方に寺尾諏訪神社が丁度背を向けているような姿で見えてくる。そのため、一旦社を通り過ぎて回り込むように進み、「JAちちぶ農業協同組合 秩父西支店」がある路地を曲がり、どうにか社の正面にたどり着くことができた
 社は斜面上の丘陵地面を背にして、東向きの日当たりの良い場所に鎮座。正面から見る境内は、社殿の回りを覆う社叢林といい、石段上に鎮座する社の姿といい、その景観は大変見ごたえがある。
             
                   寺尾諏訪神社 社号標柱
『日本歴史地名大系』 「寺尾村」の解説
 大宮郷の北西に位置し、村域は荒川左岸に沿って南北に長く展開する。南は別所村。東は荒川を境に大野原村など。北西は蒔田村、南西は田村郷。秩父巡礼道は対岸の大宮郷から梁場(やなば)渡を経て村内に入り、小鹿坂(おがさか)峠を越え、田村郷へと向かった。
 往古、地内に七堂伽藍を有する名刹があり、この寺の前後に村落をなしていたのが地名の由来と伝える(秩父志)。縄文時代前期・中期の岩陰遺跡がある。現島根県大田市南八幡宮蔵の大永二年(一五二二)銘の経筒に「寺尾住海□(秀カ)」などとの陰刻がある。田園簿に村名がみえ、高四六二石余・此永九二貫四一九文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高七五三石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復し(「風土記稿」など)、幕末の改革組合村々取調書では旗本三氏の相給。天明六年(一七八六)の秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田二七町八反余、畑一七三町一反余で、用水は村内の溜井や渓流から取水。「風土記稿」によると農耕の合間に男は薪とり、女は養蚕や機織などをしていた。

 
 社号標柱の先には境内に続く長い参道があり、途中に木製の重厚感ある一の鳥居が見えてくる(写真左)。一の鳥居を過ぎて200m程ある参道(同右)の先に二の鳥居、及び境内が見える。
        
                         長い参道の先に見える石製の二の鳥居
 境内は程よく日光を一身に浴び、また石段上に鎮座する社殿、それを覆う社叢林との景観が眩いばかりに美しく感じた。 周辺の手入れも行き届いている様子。
       
                              境内から石段上の社殿を見る。

石段の手前で左側に嶋名鰐が巻かれ祀られている   石段手前で右側には社の案内板あり。
      所謂磐座であろうか。
 諏訪神社 御由緒  秩父市寺尾一九〇七
 ◇寺尾は日当たりの良い土地
 寺尾は長尾根丘陵の東側の山麓に開けた農業地帯である。『秩父志』には「此村日ノ照ラスコト早ク...日照尾ト称へシヲ、後二寺尾ノ字ヲ書シ...」と載っている。
 社記に「当社の創建は後三条天皇延久三年(一〇七一)とし、「天正十八年(一五九〇)時の領主鉢形城北条氏邦敗北し、家臣この地に落居して農を営み当社を再興」とある。社蔵文書の中に次の札があり、再建の年代や社僧等が知られる。
「慶安三寅年造立ノ本社去ル明和戌年極年晦日ニ炎上イタシ候ニ付此度地主村役人氏子中寄合ノ砌取極仕是迠ノ通り社僧観音寺領御頼置等ニ而世話人相立御営造立出来仕候為後日氏子中立ち合い書残置申候以上 明和四亥年五日」
 明治五年(一九〇八)に村社となり、同四十一年(一九〇八)には舞台谷の寺尾大神社、永田の諏訪神社、塩谷の諏訪神社を合祀している。境社の稲荷社は天明三年(一七八三)、蚕影社は同七年(一七八七)、泰社は明治七年(一八七四)の勧請である。(以下略)
                                      案内板より引用

       
                                 石段下からの眺め
       
                    拝 殿
 案内板には「天正十八年(一五九〇)時の領主鉢形城北条氏邦敗北し、家臣この地に落居して農を営み当社を再興」とあるのだが、「秩父志」には「寺尾村、此村の内永田と云う所あり、今に南方に土手並門の跡ありて、土手の下涅跡は田となれり。鉢形城家士の内に寺尾彦三郎なる者あり。此地つづき一丁ばかり北に寺尾明神の祠を有せり」との記述がる。
 秩父誌に載せられている「寺尾彦三郎」という人物は、おそらくこの寺尾村出身の人物であろう。武蔵七党・丹党出身かもしれない。また鉢形城家士であったというのだが、案内板にも天正
18年の小田原の役以降に土着した人物は鉢形城家臣であったという。この両者は同人物であったのであろうか。

   拝殿向拝部、木鼻部等の精巧な彫刻      拝殿に掲げてある扁額にも精巧な彫刻が
                               施されている。
       
                    本 殿

      社殿の左側に祀られている境内社・稲荷社(写真左・石段上写真は右側)
  社殿右側に祀られている境内社・合祀社     その手前に設置されている境内碑
 境内碑
 昭和五十年一月氏子の総意により社殿改修を議決し本殿並びに拜殿を銅板葺とし玉垣 末社を改造しなを境内の排水整備をなすことになり其資金とし社有林及び氏子崇敬者の志納金を以ってこれに充て工事を秩父市山田坂本才一郎に土木工事を当所引間又吉に依頼し同年十一月着工し抑年二月完成を見た次第であります
 ここに面目を新たにし神社の興隆と発展を祈念して記念碑を建立し永く後世に傳えんとするものであります
 昭和五十一丙辰年四月吉日(以下略)
     
                境内にある「拝殿改造碑」とご神木(写真左・右)
        
                              社殿から見た境内の一風景
     写真中央は神楽殿か。右側には武甲山が見える。秩父には欠かせない聖なる山だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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伊古田五所神社

 椋神社(むくじんじゃ)は、「延喜式神名帳」に掲載された武蔵国秩父郡の式内社である。
 総本社といえる秩父市下吉田地域に鎮座する椋神社の旧社格は県社。元は井椋(いくら)五所大明神と号しており「いくらじんじゃ」が本来の呼称である。近世になり地元以外から「むくじんじゃ」と読まれることが多くなり現在の呼称になったという。
 現在「椋神社」と号する社は、秩父郡に五社あり、明治政府はいずれの神社にも式内社と称することを許したという。
 ・椋神社(埼玉県秩父市下吉田)
 ・椋神社(埼玉県秩父郡皆野町皆野)
 ・椋神社(埼玉県秩父郡皆野町野巻)
 ・椋神社(埼玉県秩父市蒔田)
 ・椋神社(埼玉県秩父市蒔田)
 伊古田地域に鎮座する五所神社は、口碑に「その昔、当社は椋神社と呼ばれていた」とあり、社頭にも「椋神社」の社号額を掲げるところから、往時はこの社名を称していて、秩父市下吉田の椋神社を分霊したと言われている。
        
              
・所在地 埼玉県秩父市伊古田598
              
・ご祭神 猿田彦命 経津主命 武甕槌命 天児屋根命 姫大神
              
・社 格 旧伊古田村鎮守
              
・例祭等 例大祭(春祭り) 44日 秋祭り 927
                   
大祓 12月大晦
 太田熊野神社の南側で東西に流れる道路を西行し、「太田」交差点を左折、埼玉県道270号吉田久長秩父線に合流後、1㎞程進んだ先のY字路を右方向に進路をとる。荒川水系赤平川の支流である長森川に沿って続く道路を900m程進むと、進行方向左手に伊古田五所神社の赤い鳥居が見えてくる。
        
              道路沿いに鎮座する伊古田五所神社
『日本歴史地名大系 』「伊古田村」の解説
 品沢村の西方、赤平川支流の長森川流域に開ける。西は下吉田村(現吉田町)、北は太田村。田園簿には井古田村とみえ、高一二七石余・二五貫四五四文とある。田園簿では幕府領、同領のまま幕末に至る。「風土記稿」によると家数五〇、男は農業の合間に山で薪をとり、女は白絹・木綿を織っていた。産物は絹・煙草・大豆・干柿などで、「郡村誌」は特産として繭・生糸などをあげる。鎮守は御所明神社、ほか七社を祀り、曹洞宗大林寺ほか二寺・三堂があった(風土記稿)。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 伊古田村』
 御所明神社 村の中程にあり、祭神大日靈尊、例祭二月・八月廿七日、神司吉田家の配下、船橋某が持なり、村内鎭守、
 天滿天神社 稻荷社 諏訪社 疱瘡神社 天狗社


 五所神社  秩父市伊古田五九八(伊古田字十王殿)
 鎮座地伊古田は、荒川水系赤平川の支流である伊古田川流域に位置する山間の村である。
 創建については、その資料を欠くため、明らかにできないが、口碑に「その昔、当社は椋神社と呼ばれていた」とあり、社頭にも「椋神社」の社号額を掲げるところから、往時はこの社名で呼ばれていたことは明らかである。
 現在「椋神社」と号する社は、秩父郡に五社あり、このうち吉田町下吉田に鎮座する社は古社と伝え、「井椋五社大明神」と号していたことが『風土記稿』に見え、祭神を猿田彦大神、武甕槌命、経津主神、天児屋根命、姫大神の五柱としている。
 当社は、吉田町鎮座の椋神社をこの地に分霊したことに始まると思われ、「五所」という社名も、この五柱の祭神からきたものであろう。なお、『明細帳』では祭神を、久々能知命・大産霊命・金山彦命・埴山姫命・弥津波能売命に代えているが、これは、鎮座地の小名を十王殿と呼ぶことから、明治期の明和帳書き上げの折、冥府で亡者を裁く、十三と神導の幽世の神話と結び付けた結果と思われる。
 造営記録では、寛政九己\丁歳四月八日の本殿再建棟札があり、これには当地祀官船崎相模守と秩父大宮秩父神社祀官の宮前丹後守の名が見える。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                    神楽殿
 行事に関しては、元旦祭・春祭り(44日)・秋祭り(927日)・大祓(12月大晦日)の計4回執り行われている。
 春祭りが大祭で、市内太田の熊野神社の神楽師を招いて神楽殿で春神楽を奏するのが習わしである。現在の神楽殿は昭和43年の造営であるが、それ以前は毎年各戸から繩一房と筵一枚集めて、材木を組んで舞台を掛けたという。
 この神楽は、氏子から「太田の太々」の名で親しまれ、神楽舞の中でも大黒様やヒョットコの踊りはほかの神楽では見られない楽しさがあるという。
 
     社殿左側に祀られている境内社      社殿右側には境内社・天神社が祀られている。
       疱瘡社・稲荷社
 残念ながら、諏訪社・熊野社及び八坂社の石祠があるとされる場所は,よくわからなかった。
        
 当社は吉田町鎮座の椋神社の分社と思われるが、本社と同様に「稲の神」として祀られたものと推察され、古くから「明神様」あるいは石棒(16㎝位)を祀っていることから「マラ明神」と称されて伊古田の鎮守として厚く信仰されているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
  

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田村神社


        
             
・所在地 埼玉県秩父市田村977
             
・ご祭神 天神七柱と地神五柱の尊 禰都波能売神
             
・社 格
             ・例祭等 元旦祭 11日 祈年祭 2月建国記念日前の日曜日
                  例大祭 4月第2日曜日 秋祭り 10月第1日曜日 
                  大祓い 
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 上蒔田椋神社から国道299号線を1㎞程西行し、「大寶山圓福寺」の社号標柱が見える丁字路を左折、200m先にある丁字路をまた左折する。「天龍橋」を越えた正面には上記寺院の立派な山門があるのだが、寺院の駐車場付近から右側を見ると、小高い山と共に一対の幟旗ポールが小さいながらも見えてくる。駐車場の手前にある路地を山方向に進路をとると、道幅の狭い道路の先に田村神社の正面鳥居が見えてくる。
        
                                   大寶山圓福寺正面
 正面に見えるのは大寶山圓福禅寺山門で、平成18328日に市指定有形文化財(建造物)に指定されている。この寺は、応安6年(1373)創建と伝えられ、秩父を代表する古刹である。元禄8年(1695)の火災の後、山門は享保16年(1731)に再建された。
 山門の規模は、正面7.9m、側面5m、高さ11.9mで、両側面に反りを持たせた梁(はり)の下に間柱(まばしら)を立て、横の力に強さを持たせている。また、天明7年(1787)、高辻中納言菅原胤長(たねなが)の「東關禪林」(とうかんぜんりん)の勅額が掲げられるという。
        
          大寶山圓福寺の駐車場手前の路地から社方向を撮影
 社は、鳥居正面入り口も国道から奥に入った場所にあり、更に小高い山の中腹で、鬱蒼とした森の中に鎮座している。目立つことなく、ひっそりと地元住民を見守って来たという第一印象。
        
                  田村神社正面鳥居   
  周辺には社号標柱もなく、よく見ると鳥居の社号額には「諏訪神社」と表記されている。

 正面の鳥居に一礼し、参拝を開始する。山の中腹に社は鎮座しているので山道を登ることは覚悟していた(写真左)ので、このジグザグに曲がりながらの石段を登ることは想定範囲内だが(同右)、それでも息は上がる。
 
  ジグザグの石段を登ると二の鳥居に到着        二の鳥居から参道は真っ直ぐ社殿に向かう
『日本歴史地名大系』 「田村郷」の解説
 寺尾村の南西方丘陵地にあり、北東は蒔田村、北は品沢村、南西は長留村(現小鹿野町)。丘陵谷間を流れる蒔田川の上流域に田畑が開ける。寺尾村とは小鹿坂(おがさか)峠越で結ばれる。地名の起りは往古、田村権守という者が住していたためと伝える(風土記稿)。田園簿には高二五三石余・五〇貫七六八文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高三〇一石余、享保一八年(一七三三)幕府領に復し(「風土記稿」など)、幕末の改革組合取調書によると旗本牧野領。

『新編武蔵風土記稿 田村郷』に「村名の起こり往古田村權守と云へるもの、此所に居住せしより唱へけるにや、今尚邸跡あり、又禪宗にて白崖一派の道場と稱するあり、末に載す、是を田村派と云へり、郷の唱村の字の重なるを避ての故ならんか、御打入以前は北條家の分國なるよし、されば田村權守の領せし地なるや」「屋敷跡 圓福寺の前なる大門平にあり、土人相傳へて田村權守なるもの住居せし所なりと云ふ、事跡詳かならず」と記されていて、田村の村名由来の一説に紹介されている「田村權守」という人物の正体が現在でもハッキリと分かっていないようだ。
        
                            ひっそりと静まり返った境内
 鳥居正面附近の目立たず、ひっそりと佇むという第一印象とうって変わって、この境内一帯には、鬱蒼とした木々に囲まれ神聖な雰囲気を醸し出していて、我々一般市民が住む世界とは一線を画しているような別次元の空間がそこにある。まさに「隠れ家的な社」。

    参道左側に設置されている案内板          右側には手水舎がある。
 田村神社  御由緒  秩父市田村九七七
 ◇拝殿の格天井には氏子の家紋が飾られている。
 鎮座地田村は、荒川の支流である薪田川を遡り左岸の丘陵部にあり秩父市の中央部と小鹿野町の間に開ける農業地帯である。地名の起こりを『風土記稿』では「村名の起り往古田村権守と云へるもの、此処に居住せしより唱えけるにや今尚邸跡あり」とし、『秩父志』では「田村郷ハ武光庄ニ属ス、此村名義文字ノ如ク往古ヨリ田多卜云意ヨリ田村ト称へシナルベシ」としている。
 当社は集落の南に位置する諏訪山の中腹にあり、社記は「文安三年(一四四六)勧請」としているが、口碑には「天文年中(一五三二~一五五五)の創立」ともいう。
 明治四十二年(一九〇九)二月、合計三十二社を字諏訪山無格社諏訪神社本殿へ合祀の上、社号は地名大字に基き田村神社と改称した。
 なお、本殿に安置されている石棒は、天明二年(一七八二)八月に氏子の宮田喜兵衛が地から発掘したものである。
 ◇御祭神
 ・天神七柱と地神五柱の尊
 ・禰都波能売神(以下略)
                                      案内板より引用

 田村神社の御祭神の一柱である「禰都波能売神」は「みづはのめのかみ」と読み、『古事記』では同名、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命等とも表記され、淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。 
        
                    拝 殿
 明治422月、諏訪神社社掌宮下正作は『合祀願』の中で、字諏訪山之社・森下八社・鬼ヶ沢五社・駒沢六社・水神沢五社・諏訪平五社の計32社の社名をあげ、「右神社義は崇敬上設備の完全期し度候に付同町字諏訪山無格社諏訪神社本殿へ合祀の上、社号は地名大字に基づき田村神社と改称し度跡建物の義は売却の上保存資金として蓄積致し度候間此段奉願上候」と記している。この時、社名は直ちに決定をみたが、村社をどこにするかは話し合いがつかず、入札で当社に決まった。合祀後は、社前に合祀社名を掲げるなど神職は気をつかったが、各耕地では、残ったお堂などで従来からの日待が続けられ、問題は起こらなかったという。
 
      拝殿に掲げてある扁額        社殿の右側に祀られている境内社・八坂社
        
                社殿から二の鳥居を望む。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「秩父市HP
    「Wikipedia「境内案内板」等

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