円墳大塚古墳
昭和33年3月20日指定
所在地 皆野町大字皆野毛無塚95
秩父地方の古墳は、現在のところ古墳時代後期になってから築造されたと考えられている。大部分は小規模な円墳が集まって、一つの群を構成している。大塚古墳は、秩父地方に現存している 古墳の中では大規模なもので、直径約33m、高さ約7mである。
墳丘は円礫の葺石で覆われ、周囲には幅約4m、深さ約1mの周溝がめぐっている。
石室は横穴式で、南南西の方向に開口している。
羨道(せんどう 玄室といわれる棺が埋葬される主体部への通路)の入口である羨門付近は破壊されている可能性があるが、玄室の入口にあたる玄門は東側の門柱、冠石、框石(しきみいし)が良好な状態で残されている。
玄室は胴張り両袖式で、床にくらべて天井が狭いドーム状に構築されている。
石材は、天井と奥壁には巨大な磐石、側壁には下部に大型の割石を縦に、上部では小型の割石を小口積みに、いずれも秩父の地域性を反映して片岩が用いられ、積み石の間隙部には小石や石綿が充填されている。また、床にはこぶし大の川原石が敷き込まれている。
江戸時代にはすでに石室は開口しており、副葬品は発見されていない。また、埴輪も確認されていないが、石室の形から7世紀の第2四半期に築造されたものと推定される。(以下略)
現地案内板より引用
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町大字皆野95
・規 模 円墳(直径約33m、高さ約7m 横穴式石室 全長7.8m)
・築 造 古墳時代後期(7世紀前半)
・指 定 埼玉県指定史跡 昭和33年3月20日
黒谷聖神社から国道140号彩甲斐街道を北上し、「木毛」交差点を左斜め方向に進路変更すする。因みにこの道路は埼玉県道206号皆野停車場線、又の名称を「上原通り」ともいい、150m程進むと、進行方向右手に「円墳大塚古墳」の石製の看板や古墳の全貌が道路沿いでありながらもハッキリと見えてくる。
駐車場はあるようなのだが、今回は国道140号線沿いで、「木毛」交差点のすぐ北側にあるコンビニエンスの駐車場をお借りしてから徒歩にて古墳散策に赴いた。
「上原通り」沿いにある円墳大塚古墳。
円墳大塚古墳は、秩父市との行政境に近く、埼玉県西部の簑山西麓、荒川右岸の低位段丘最上段に築造された大型円墳である。形状は円墳。付近には、中の芝古墳や内出古墳群など数基の古墳が残っている。墳丘は、直径約30m、高さ約5mで、墳頂には小祠が祭られている。円礫の葺石で覆われており、墳丘をほぼ一周していて、更に、深さ約1m、幅約4mの周溝が確認された。石室は横穴式で、南南西の方向に開口し、胴張両袖型で、側壁は片岩の小口積みが用いられ、当地方の特徴が現れている。
この地域に多数みられた古墳群のうちの一つで秩父地方最大の切石古墳である。
正面に設置されている石碑 石碑の右方向にある案内板
円墳大塚古墳正面
石室開口部は墳丘の階段上り口左側にあり、 墳頂部に祀られている石祠
南南西方向に開口している。 だれを祀っているのであろうか。
県道から円墳大塚古墳の眺め
この古墳は当地では昔から知られていたようで、『新編武蔵国風土記稿』にはこの古墳について「氷ノ雨塚」として紹介されているほか、その当時すでに開口していた石室の内部が記述されている。
『新編武蔵風土記稿 皆野村』
氷ノ雨塚五ヶ所 此類近村に數多あり、其一は腰にあり、周回凡二十間、高さ三間半許、上には荊棘茂生す、土人これを大塚と呼、里正一郎右衛門が祖父、一郎右衛門貴高が幼少の頃、其中に入りしと云、物語に六疊じきほどの穴にて、上も下も四面ともに總て岩石にて、甃して僅に身を容るゝばかりの入口ありと云、その後は社きて入るものなしと、其二は大濱にあり、周囲五間、高さ一丈許、其二は大京にあり、大さ前に同じ、
ところで、前項「飯塚・招木古墳群」における89号古墳は『新編武蔵風土記稿 寺尾村』によると、嘗て「氷雨塚」と呼ばれていて、この両古墳は「氷雨」を共有している。また、互いに荒川の対岸に位置しながらも距離的には決して遠くはない。余談ではあるが、秩父には「氷雨塚」「氷ノ雨塚」と呼ばれていた古墳が数多く存在している。
『新編武蔵風土記稿 大淵村』
塚 土人氷ノ雨塚と唱ふ、郡中所々にあり、村民周次が畠の中にあり、此塚中は沖にして、入口六尺、幅も六尺許、奥行は二間、石を以て疊上げ、上に大石を三枚許亘せり、昔此穴の中より古刀出たりしが、皆折れたりとぞ、其折れたるを此塚に埋めしと云、村民彌市右衛門が畠の中にも、前の塚と同じき塚ありしが、先年崩れ取りしと云、其崩せし時古刀四本を得たり、今に所持す、
『新編武蔵風土記稿 久那村』
氷ノ雨塚 荒川の北岸字釜林にあり、地形南東北に荒川の流れ廻り、西方陸田にて石を疊みて界とす、南北二町、東西一町半許、此間に塚三ヶ所あり、(中略)何れも塚上に松雑木たてり、見捨地なり、土人云往古岩田伊勢なる者、此邊に住居せしよし、實詳まらねど、上田能村小名殿間に住せし頃、故ありて北條家より所を拂はれ當村に來りとも云へば、その年代は推て知べし、村民龍五郎が家伊勢が末なりとて、今に此地を持てり、村中岩田を氏とするもの多し、
『新編武蔵風土記稿 寺尾村』
氷雨塚 小名飯塚と云へる所に、高三尺より七尺に至るの石塚數ヶ所あり、其内二つは沖あり、入口高七尺、幅六尺奥行八尺許、石にてつみ立たる塚なり、(中略)此塚を土人氷雨塚と唱へ來れり、村民持、
『新編武蔵風土記稿 小柱村』
塚 里正庄左衛門が屋敷の内にあり、土人是を氷の雨塚と云、此塚うつろにて幅五尺、奥行八尺五寸三分、皆石を以て疊み、上は大石三枚ほど亘せり、此塚の傍に大天白の社を勧請せり、いかなる故にや、此塚の有る所には、すべて大天白の社を勧請すと云、塚の高さ一丈三尺許、
大渕古墳
大淵熊野神社から埼玉県道皆野両神荒川線を南下し、暫く進むと
進行方向左手に封土は失われて石室のみが露出している古墳である。
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町大渕
『新編武蔵風土記稿 小柱村』には、これらの古墳の上には「大天白社」が祀られているとの記述がされていて、興味深いことではあるが、これを証明する術は現在筆者には持ち合わせていない。実際「氷雨塚」という名称も、古墳築造当時に命名されたものとは考えにくく、後世に命名されたものと考えられ、そのいわれは、今猶分からないというのが現状である。
筆者の妄想の類の考察を一つ紹介。秩父のシンボル的な存在として「武甲山」がある。この武甲山の山名の由来として、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征されたおり、雁坂峠の頂上から秩父の山並みを眺め、武人のように堂々とそびえ立つ山の名をたずねたところ、里人はその名を「秩父が嶽(たけ)」と答え、すると日本武尊はさっそくその山に登り、天の神・地の神をまつられたという。そしてその時、着用していた御自身の甲(かぶと)を岩室(いわむろ)に納めたので、その後この山を「武甲山(ぶこうさん)」と呼ぶようになったという。
一方、『古事記』に載る日本武尊の伝説では、日本武尊は伊吹山の神の怒りに触れ、祟りとして「大氷雨」を浴びせられたことで失神し、それが原因で病死する語りとなっている。つまり「日本武尊」に関する伝承・伝説を知る者にとっては「氷雨」がどのような意味をもつか、当然知っている事であろう。
但し日本武尊が登山されて武具・甲冑を岩蔵に納め、東征の成功を祈ったところから山名が「武甲山」になったという伝説は、元禄時代の頃から秩父の人々に伝承され定着したこともあり、この伝承・伝説の歴史自体は決して古くはない。
この「氷雨」を「日本武尊」伝説が秩父地方で定着をした際に、飛び火的に発生した事項ではなかったか、とも考えた次第であるが、あくまで推測である。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「皆野町HP」「Wikipedia」「現地案内板」等