持田劔神社
持田村は忍城持田口の西にあり、龜甲庄と唱ふ、持田は暇借の文字にして、古は糯田と書しといへり、(中略) 又岩松文書文永三年岩松家本領所の注文、武蔵の處に糯田鄕と載せ、及び応永十一年岩松右京大夫が所領注文にも、同鄕を出したれば、新田家より岩松へ相續せしと見ゆ、持田と書改しも古きことにや、持田氏の系譜に、持田左馬助忠久は生国武藏の人にて、深谷の上杉則盛に仕ふ、其子右馬助忠吉も上杉に仕へしが、上杉没落の後菅沼小大膳に仕ふとみえたり、是當所の産にて、在名を氏に唱へしならん、又成田分限帳に永五貫文持田右馬助、永五十一貫文持田長門と載、是等も忠久が一族なるべし、
この持田氏は元々出雲の大国主命の部下あり、本拠地は今の島根県に当たる。大和朝廷に下った後、平安時代初期、征夷大将軍の坂上田村麿の蝦夷討伐を目的とする東方遠征に持田氏も従軍した。その際に築城した各国の柵に兵士を残していった。本隊に残った持田氏は出雲に戻り、出雲に土着して地方豪族として尼子や松平等に仕えて明治維新を向かえているが、各地域に残された一部の氏族、特に、静岡県の持田氏、埼玉県行田市の持田氏等はこの時生まれたといい、現在でも埼玉県や島根県には持田姓は数多く存在する。
*寛政呈譜
「持田左馬助忠久(武蔵国深谷の上杉則盛につかへ、某年死す。年七十二.。法名道龍)―右馬助忠吉(上杉家につかへ、没落のゝち菅沼小大膳定利につかふ。慶長七年十二月めされて東照宮につかへたてまつり、武蔵国忍城の番をつとむ。寛永十年死す。年六十四.。法名蒼河)―五左衛門忠重(寛永十年父が遺跡を継、忍城の番をつとめ、十七年めされて江戸に来り御宝蔵番となり、子孫相継て御家人たり)。家紋、丸に蔦」
・所在地 埼玉県行田市持田5937
・ご祭神 日本武尊
・社 格 旧持田村中組鎮守・旧村社
・例祭等 春祭り 4月17日 夏祭り 8月19日 秋祭り 9月9日
地図 https://www.google.com/maps/@36.1388825,139.436117,17z?hl=ja&entry=ttu
小敷田春日神社から忍川を挟んで直線で400m程南東方向に鎮座している持田劔神社。行政上、小敷田と持田両地域は忍川が地域境となっている。秩父鉄道が東西に流れているその北部にあり、周囲一帯民家が立ち並び、綺麗に整備されている道路沿いに社は佇んでいる。
持田劔神社正面
鳥居の上部笠石、貫石等が欠けて、柱のみしかなく、また両側の灯篭も左側片方が崩れている。嘗ての大震災の影響であろうか。その正面鳥居や燈篭のインパクトが強く残ってしまったためか、どことなく境内もやや管理が行き届いていない様子に見えてしまった。思うに人間の自己脳内印象操作とは恐ろしい。
境内の様子
『日本歴史地名大系 』「持田村」の解説
北は忍川、東は忍城に接し、北部を熊谷行田道が東西に通じる。地下一メートルに条里遺構や古墳時代後期の集落遺跡が埋没しているとみられる。中世は糯田(もちだ)郷に含まれた。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に譜代侍として持田右馬之助(永五〇貫文)らがみえる。かれらは当地出身の武士という(風土記稿)。村内には宝蔵(ほうぞう)寺に延応二年(一二四〇)阿種子・宝治二年(一二四八)弥陀一尊種子、また正覚寺に寛元二年(一二四四)荘厳体弥陀一尊種子と、三基の板碑が残る。一五世紀後半の成田氏の忍築城に際して囲込まれた城地の五分の三は当村の地といい(郡村誌)、また持田・谷之郷(やのごう)入会の地であったともいう(風土記稿)。
寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末まで変わらず。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高三千七〇九石余。田園簿によると高三千七七一石余、反別は田方三一五町八反余・畑方二一町五反余。
参道右側に雄々しく聳え立つ大木(写真左・右)。
『新編武蔵風土記稿』には持田村の歴史や地形上の特徴として「持田村は忍城持田口の西にあり、龜甲庄と唱ふ、持田は暇借の文字にして、古は糯田と書しといへり(中略)、東は下忍村、南は鎌塚村、及び大里郡佐谷田村にて、西は大井・小舗田・戸出の三村、北は皿尾・中里・上村なり、東西卅二町、南北廿三町の大村なれば、村内を私に上中下の三組に分ちて沙汰せりと云、又東南の方に小字前谷と呼ぶ處あり、中古開きし新田にて、本村の外民家四十聚住す、故に土人こヽを私には前谷村と唱へり、當村も御入國の後より忍城附の村にして」と、嘗ては「龜甲庄」と称し、また「持田」の地名由来を「あまり肥えていない田に植える「モチダ」(糯田)の転化」と解説している。
拝 殿
持田劔神社の鎮座する地は、文明年中に築城されたという忍城の持田口の西にあたる。社記によれば、当社は日本武尊東征の折、当地で剣を杖にしてしばらく休息されたことから尊の威徳を偲ぶ村人が宝剣を神体に社を建てたことに始まるという日本武尊伝説があり、行田市内には同様の伝説が斎条劔神社、中江袋劔神社にも残されている。
新編武蔵風土記稿によると、江戸時代には、剱宮と称し、持田村中組の鎮守で、長福寺を別当寺としていたという。
境内に設置されている記念碑
剣神社改築記念碑
当社は古くから剣宮と称しお剣様の呼び名で氏子(上持田、中持田)から親しまれ字竹の花に鎮守として祀られて来ました
境内左方に稲荷、 浅間、大天白と、右方に塞神を祀した社であります
社記によれば当社は日本武尊東征の折、当地で剣を杖にしてしばらく休息されたことから尊の威徳を偲ぶ村人が宝剣をご神体に社を建てたと伝えられています
この由緒ある社殿も建立以来幾度か修築を重ね風雪に耐えて参りましたが、この間各所に腐食が甚だしく神社総代相集い改築構想を協議しその実施を進める機運が昂まり建設委員氏子二百四拾六名もの賛意が得られ浄財拠出によって、平成四年五月一日神社改築が発足しこの度その竣工をみたのであります
時代の幾多変遷にもかかわらず今に続く清新な神社崇数の思慕を伺い知ることが出来ます
神社改築を機として氏子中ますます隆盛を念願してやみません(以下略)
記念碑より引用
拝殿左側に祀られている境内社・三社 本 殿
左から稲荷社・浅間社・大天白社
御大典記念碑
邨社劍神社為武蔵國埼玉郡持田村中區鎮守雖創建不
詳祀日本武尊配之以草薙劍者也臨雄川之清流老杉森
鬱本殿享保二十一年脩之拜殿寶暦八年所造營至今葢
二百年漸来廃頽區民胥謀醵出工費撤其覆屋改銅板別
移舊拜殿為社務所及其竣工也輪奐更加美境地一新○
實大正十四年六月也今茲昭和三年十一月舉
即位之大典大廟參拜之某等欲効敬神之誠建碑于社前
来請文余亦與于工事者焉以不文可辭哉即叙其来歴繫
以銘銘曰(以下略)
『新編武蔵風土記稿 埼玉郡』において、持田村は「亀甲荘」と称していた。不思議な名称である。加えて、亀甲荘の該当する範囲は持田村一村のみの限定区域。持田と亀甲の深い関係が想像できよう。
「亀甲」は「亀の甲羅」を表し、古代中国では、亀の甲羅を用いて占いを行う“亀ト(きぼく)”による政策決定や意思決定が盛んに行われていた時代もあった(後にこれが甲骨文字と呼ばれるようになった)。
日本列島には中国大陸または朝鮮半島から持ち込まれたとみられ、『三国志』「東夷伝倭人条」(魏志倭人伝)の倭人の占術に関する記述として、「其の俗挙事往来に、云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て凶を占う」とあり、文献史料から日本列島における太占(ふとまに)=骨卜(こつぼく)は弥生時代には行われていた事が知られている。
日本列島の遺跡から出土する卜骨は、多くは鹿・猪の肩甲骨で、稀にイルカや野兎の例もあるそうであり、古代中国での亀の甲羅(卜甲)を用いる亀卜よりも、日本では鹿の獣骨(卜骨)を用いる骨卜が主流であったようだ。
社殿付近からの一風景
日本では古来から「鶴は千年、亀は万年」という言葉があるように、「亀甲文様」は長寿吉兆をもたらす縁起の良さと、その格式の高さで、国内外問わず多くの人に愛されていた。
また能楽では蛇体の女が鱗の衣装を用いていて、鱗紋を亀甲(きっこう)といったりしている。
また「亀甲」をいうと、「亀甲紋」を連想するケースもあるが、この紋は、長寿のシンボルである「亀」の甲羅をモチーフにした紋で、正六角形の中に他の紋を組み合わせて複紋として用いることが多く、亀甲紋は、様々な家紋の中でも特別なものとして扱われており、名門武家の紋としても用いられている。
また、神社の神紋としても多く用いられていて、有名なものとしては出雲大社、その他にも厳島神社や櫛田神社などが挙げられている。
埼玉県、及び島根県には「持田」姓が多い。また出雲大社の神紋は「亀甲紋」。持田村は嘗て「亀甲祥」と称していたこと。これらは何を意味しているのであろうか。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「寛政呈譜」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「名字由来ネット」
「埼玉苗字辞典」「境内記念碑文・案内板」等