古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

宿根瀧宮神社

 深谷上杉家は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつで、山内上杉家の上杉憲顕の実子である上杉憲英が庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。憲英・憲光父子は、幕府から奥州管領に任じられた。
 戦国時期の深谷上杉家には、4人の宿老がいて、「岡谷加賀守清英」「秋元越中守景朝」「井草左衛門尉」「矢井伊勢守重家」という。
 鎮守府将軍源経基の子孫と伝える宿老筆頭の岡谷加賀守香丹は深谷城北辺の守りとして延徳3年(1491)に築いた皿沼城を子の清英にゆずってこの曲田城(まがったじょう)に隠居した。岡谷家譜によると、香丹は城内に僧自明和尚を招いて皎心寺を開いたといい、寺は曹洞宗で岡谷山と号しているのだが、この「岡谷山」は寺を建立した岡谷加賀守香丹からきていると思われる。
 この曲田城は現在の深谷市谷之地域で、宿根地域のすぐ北側に接していて、「埼玉の神社」によると、この地は岡谷加賀守香丹が当地の開拓に尽くし、明応5年(14966月、当地一帯が大干ばつに襲われた際には、香丹は直ちに領民に水利の向上を督励し、水源地として当社の辺りを選定し、広さ百余坪、深さ一丈余りにわたって掘ったところ、水が殊のほか湧きだし、耕地を潤したため、この湧水地に社殿を建て、瀧宮神社と命名したという。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市宿根1
              
・ご祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
              
・社 格 旧宿根村鎮守・旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 11日 春祭り 410日 秋祭り 113
                   
大祓 1224
 深谷市街地から旧岡部町方向に国道17号線を進行、丁度東西方向に流れる同国道が、旧中山道と交わり、再度分離する「宿根」交差点の北側に宿根瀧宮神社は鎮座している。因みに、この社の住所は宿根一。この宿根地域の北側にありながら、中山道という重要街道沿いに鎮座していることから、地域の中心地となる場所に位置する社ともいえよう。
        
                  宿根瀧宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「宿根村」の解説
 宿之根などとも記す。櫛挽台地北端、上唐沢川左岸に位置し、東は萱場村、西は岡部村(現岡部町)。深谷領に所属(風土記稿)。村内を中山道が通る。もと宿根新田が別村であったが、元禄(一六八八―一七〇四)以降に宿根村に高入れされた。田園簿によれば、宿之根村は田方二四石余・畑方二〇五石余、野銭永八九五文、宿之根新田は畑のみ一〇一石、野銭永一貫二五〇文で、両村とも幕府領。
        
            すっきりと整備されている参道、及び境内
             
                             境内入口付近に聳え立つご神木
     ご神木の近くに「宿根総鎮守 龍宮神社御由緒」の掲示板が設置されている。
               残念ながら撮影できなかった。
        
       参道右側に設置されている「宿根総鎮守 瀧宮神社社殿造営記念碑」
 宿根総鎮守 瀧宮神社社殿造営記念碑
 当神社は、今を遡る五ニ〇年前の明応五年六月(一四九六年)、大旱ばつ時にこの地を掘りしとき、湧水激しく田畑潤し、領民大いに喜び、神様のお恵みとして明応七年社殿を建て、瀧宮神社と奉称して鎮座された。このときより今日に至るまで、宿根地域の守護神・心のよりどころとして先人より護り継がれてきた
 明治五年に建立された前社殿は一四四年を経過、老朽化甚だしく、再建が近年の心願であった。よってこのたび地域住民のご安泰を願い、ご神恩に感謝申し上げ、益々のご加護あらんことを祈念して、平成二十六年十一月に社殿造営委員会を確立し、新社殿造営の運びとなった。
 ここに、趣意に賛同する多くの皆様から多大なるご奉賛を賜り、社殿新築および末社と参道の整備を行い、遷御をもって完成をみた。
 本事業にご奉賛賜った皆様に感謝の誠を表し、記念碑にご芳名を刻して後世に伝える。
 平成二十八年(二〇一六)十二月吉日(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 瀧宮神社  深谷市宿根一(宿根字東通)
 宿根は、櫛引台地の北端部にあたり、その地名は「スキのネ」の転訛といわれ、「スキ」は石混じりの土、「ネ」は台地の意だという。
 当社の裏手には、昭和六十一年まで一〇〇坪ほどの湧水を利用した溜池があり、御手洗(みたらし)池あるいは、ひょうたん池と呼ばれていた。この湧水は、地内に点在する小由(こよし)・鮒林(ふなばやし)・大古端(おおふるはた)の湧水地と共に当地一帯に広がる十八町歩の水田を潤す水源であった。
 創建は、この湧水とかかわりがあり、社名の瀧宮も、これにちなんで名付けられたものである。
社伝によると、当地は応永二十三年(一四一六)関東管領上杉憲房の所領となり、後にその重臣岡谷加賀守香丹の治めるところとなった。香丹は、延徳三年(一四九一)に隠居し、長子清英にその跡を譲ったが、その後も身を費やして当地の開拓に尽くした。明応五年(一四九六)六月、当地一帯が大干ばつに襲われるや、香丹は直ちに領民に水利の向上を督励した。水源地には、現在当社のある辺りを選定し、広さ百余坪、深さ一丈余りにわたって掘ったところ、水が殊のほか湧き出し、耕地を潤した。歓喜した領民は、明応七年(一四九八)妻沼の聖天宮の神をこの遊水地に勧請したという。
 ちなみに、聖天宮は古代、利根川右岸に広がっていた女沼に坐す水神を祀っていたという伝承がある。
                                                                     「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿の手前で左側に祀られている          拝殿左側に祀られている
       八坂神社の石祠                       
富士浅間神社の石祠

     社殿の奥に設置されている       掲示板の奥には規模は縮小されているが、
    「宿根瀧宮神社の池の由来」の案内板      地域の耕地を潤した池が今でもある。

 宿根山神社の項でも載せているが、この宿根地域は『郡村誌』に「水利不便にして時々旱に苦しむ」とあるように、水利の整備されるまでは旱損の地で、雨乞いが重要な行事とされていたという。昭和三十年ごろまでは、日照りになると、群馬県の榛名神社から「お水」を頂いて来て、当社の神前に供え、雨乞い祈願を行っていたとの事だ。
 宿根瀧宮神社の池の由来
 深谷上杉氏四宿老の一人、岡谷加賀野守源香丹が、皿沼城から曲田城へ移り住んだ明応五年(一四九六)六月の大旱魃の時、貯水池を掘ったところ現在のこの場所よりまさに滝のごとく水が湧き出てきたので、この不思議な様を見て神様のお恵みお導きとして、社殿を建て瀧宮神社と奉称しておまつりしました。
 尚、古文書によれば当時の池の大きさは百坪余り(三百三十平方m)深さ丈余り(三m三㎝)と記されています。以上の事から名の由来の池を保護し、先人の遺徳を残すものです。
 二○○七年 七月 宿根自治会 記
                                      案内板より引用

        
            社殿右側に並列して祀られている石祠四基
          左から
天手長男神社・古峰神社・菅原神社・稲荷神社

 この末社の祭事に関して、728日に行われる八坂神社のお祇園は、子供が中心となって行う祭りで、幣束を先頭に、神輿が村内を巡行し、無病息災を祈る。また、1119日の天手長男神社の火防祈願は、弘化三年(一八四六)の本庄宿大火の際に当地も類焼したのを機に、火防の神で有名な寄居町小園の壱岐天手長男神社を勧請して始められた祭事と伝えている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内記念碑・案内板」等

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宿根山神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市宿根8262
             
・ご祭神 大山祇神
             
・社 格 旧宿根村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 410日 厄神除け 71日 八坂祭 727
 JR高崎線の南側を走る市道沿いに約3kmにも渡って続く「コスモス街道」。その街道と、埼玉県道265号寄居岡部深谷線が交わる「成徳高校(東)」交差点を県道沿いに南西方向にして550m程進むと、進行方向右側に宿根山神社が見えてくる。
        
                  宿根山神社正面
 宿根地域は上唐沢川左岸の台地に位置する。地域名は「スキのネ」の転訛で、「スキ」は小石と砂混じりの土、「ネ」は岡・台地の意という。『郡村誌』にも「地味黄色淡黒鬆(しょう)土にして或いは砂礫を錯(まじ)ゆる者あり」と記している。
 かつて宿根は、本村である宿根地区と新田である中通地区の二つの村組(むらぐみ)に分かれる。このうち、中通地区の一八〇戸が当社の氏子である。
 
     すっきりと整備された参道       境内に設置されている「山神社改築記念碑」
 山神社改築記念碑
 当社の創立は享保十四年(一七二九)に山の神(大山祇神)を祀る社として崇られた。当時の社地は現在地より西南方に二・五キロメートル程離れた畑地の一画にあり明治十四年に従来の社地から当所に遷座された。
 その後社殿は長い歳月を経て破損甚だしく今度伊勢皇大神宮御鎮座二千年を記念し敬神の念厚い氏子崇敬者多数の寄進により大改修を行なう。
 平成八年十月二十七日復元竣工遷座祭が厳かに斎行された。
 茲に山神社改築記念碑を建立し概要を記して後世に伝う。(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 山神社(やまのかみ)  深谷市宿根八二六-二(旧宿根字拾三墳)
 氏子所蔵の享保十六年(一七三一)「山神社取極メ議定書」には、当社の創建について次のようにある。
 宿根村と宿根新田の人々は、猪・山犬による被害から逃れるために山の神の奉斎を切望していたが、当時新規の寺社祭礼等が禁じられていたため、念願かなわずにいた。折しも享保十四年(一七二九)櫛引野原の検地が行われたことから、役人に山の神の奉斎を願い出たところ、期せずして社地の選定が認められた。早速、本村と新田が相談の上、古来より小名を「山の神通り」と称する地の一画に社地を定め、祠を建立して山の神を祀った。
 別当は真言宗正応寺であった。当社と正応寺との関係については、氏子所蔵の「山之神社地面伐木についての一件(閏五月五日)」の中で「神体入替神酒灯明法楽正応寺二而相勤諸懸り等モ正応寺ゟ(より)差出」と記されている。また、弘化三年(一八四六)に類焼した正応寺を再建するため、同寺持ちの山の神社地面の松雑木等を伐採し普請木として充てたことも述べられている。
 明治初年の神仏分離により当社は正応寺の手を離れ、明治七年に村社となった。次いで、十四年には従来の社地から当所に遷座した。
 旧社地は現在地から西南方に二・五キロメートルほど離れた畑地の一画にあり「奥の院」と呼ばれて雑木林の中に今も小さな祠が残されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 また、享保十六年の「山神社取極メ議定書」では、当社境内地について氏子の間で取り決めがなされ、「右の場所雑木出来候ても上木の儀は申すに及ばず枝葉下草等にても修復祭礼の入用の外隈りに(みだりに)刈り取り苅り取り申さず候定」とある。これは、新田開発による燃料や肥料の需要増大に伴う濫伐から当社境内を保護することを目的としたものであろう。
        
                    本 殿
 当地は『郡村誌』に「水利不便にして時々旱に苦しむ」とあるように、水利の整備されるまでは旱損の地で、雨乞いが重要な行事とされていた。昭和三十年代に行った雨乞いは、群馬県の榛名神社から頂いた「お水」を神前に供え、境内の立木の頂に梵天を立て、氏子一同で太鼓をたたきながら雨雲の到来を祈った。この時は、暫くして雨が降り、お湿り祝いをしたという。
 
   本殿の左側奥には遙拝所の石碑と             本殿の右側奥に祀られている
    八坂社の石祠が祀られている。            弁財天・天神社の石祠
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内記念碑文」等
                  

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伊勢方八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市伊勢方316
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧伊勢方村鎮守・旧村社
             
・例祭等 四方拝 11日 春祭り 410日 祇園祭 72728
                  
秋祭り 113日 大祓 1225
 普済寺愛宕神社から一旦北上し、国道17号線に戻る。「普済寺」交差点を右折し、深谷市街地方向に東行すること1.2㎞程、旧中山道が宿根地域で合流する変則的な十字路を左折する。その後、850m程北上した丁字路を左折すると、周囲は伊勢方地域集落となり、暫く進むと、その正面方向に伊勢方八幡神社が見えてくる。地図を確認すると、埼玉県立深谷高校の北西部にあたる。
        
              伊勢方集落の中央に鎮座する鎮守様
『日本歴史地名大系』 「伊勢方村」の解説
 小山川と上唐沢(かみからさわ)川とに挟まれた沖積低地に位置し、東は谷野(やの)村、西から南は岡部村(現岡部町)。岡部領に所属(風土記稿)。戦国期に深谷上杉氏の支配下に入り、上杉氏は深谷城築城の頃、当地に仮城を築いて居住したという。この城は伊勢方城あるいは曲田(まがつた)城・谷之(やの)城ともよばれ、後年上杉氏の重臣岡谷香丹が皿沼城(上敷免地内)を長子清英に譲って曲田城に退老、天文四年(一五三五)城内に皎心寺(谷之地内)を創建したという(「重修岡谷家譜」群馬県館林市立図書館蔵)。
        
               伊勢方八幡神社 正面一の鳥居
       
              鳥居の左側に設置されている案内板
 伊勢方八幡神社は、1186年(文治2年)、岡部忠澄が八幡大菩薩を勧請して創建したのだと伝えられる。室町時代には、深谷上杉氏が深谷城を築城する際、この地に仮城を築いたとも伝えられ、この仮城は字田中あたりで、今でもその地は「元屋敷」と呼ばれている。この仮城に、守り神として千形神社が祀られている。伊勢方の地名は、伊勢神宮の御師との関連からともいわれ、江戸時代には、岡部藩の安部氏が八幡大明神像を安置して信仰し、以後伊勢方村の鎮守として村人から信仰されたという。
 その後、明治五年に村社となり、大正十一年に社殿を再建した。近年では、昭和四十八年に伊勢の御遷宮を記念して社殿の修復を行っている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 伊勢方村』
八幡 村の守なり、岡部六請なりと云、村持、
壘跡 村の北三反許の處を云、今は陸田となれり、相傳ふ古へ上杉氏深谷城築立の頃、當所假城を構て居住ありしより上杉假城と云、

 八幡神社  深谷市伊勢方三一六(伊勢方字堀南)
 伊勢方の地名についての伝えは特にないが、恐らく伊勢の御師にかかわるものであろう。

当地は、室町中期、上杉氏が深谷城を築城したころ、その仮城を構えて居住した所であると伝えられる。元の伊勢方の集落は、この仮城のあった字田中の辺りといわれており、今にその地を「元屋敷」と呼んでいる。
 当時の伊勢方の戸数は八戸、鎮守は現在当社の境内社となっている鹿島神社であった。氏子はこの鹿島神社を、隣村の大塚島にある鹿島大神社にかかわる社であると語っている。『大里郡神社誌』鹿島大神社の項には「元の氏子田中村(伊勢方の小名田中のこと)に鹿島塚と称する地ありて、昔鹿島(大)神社の御神体を埋め奉りし地と伝ふ」と記している。いつごろ伊勢方の集落が南方の現在地に移って来たかは不明であるが、この移住により鎮守が鹿島神社から当社八幡神社に移ったことが考えられる。
 社記によると、当社の創建は文治二年( 一一八六)のことで、岡部六弥太忠澄が平家追討の戦を終え、領地普済寺に帰るとすぐに、領内西谷(後の伊勢方村)に八幡大菩薩を勧請したという。
 その後、江戸期に入るまで当社の事歴は明らかでなく、元文二年(一七三七)に至り御霊代(みたましろ)を調整して神霊を奉斎した記事が載せられている。内陣には、この時に納められたと思われる同年記銘の騎乗の八幡大菩薩像が安置されている。
 この時、奇しくも神体は消失を免れ、氏子の邸宅に安泰であったことを伝えている。社殿の再興は天保九年に行われ、この時の棟札には「当領主岡部之城主安部摂津守殿」「遷宮導師歓喜山円通密院弘賢」の名が見える。
『風土記稿』は「八幡社 村の鎮守なり、岡部六弥太勧請なりと云、村持」と載せている。
明治五年に村社となり、大正十一年に社殿を再建した。近年では、昭和四十八年に伊勢の御遷宮を記念して社殿の修復を行っている。 
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      社殿奥に祀られている八坂社       八坂社の左側奥に祀られている浅間神社
        
             社殿の奥で、道路側に祀られている天神社(左側)・鹿島社(同右)。
        
            社の北側で、道路を挟んだ場所にある公会堂
  この公会堂は、昭和九年まで阿弥陀堂があり、古くから村の集会の場となっていたという。
         どこか懐かしさを感じられる、昭和の香りが漂う建物である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」等

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普済寺愛宕神社

 深谷市(旧岡部町)普済寺地域は、櫛挽(くしびき)台地から利根川沖積低地への漸移地帯に位置し、『日本歴史地名大系』での 「普済寺村」の解説によれば、東は岡部村で、村の中央を中山道が通っている。また、「風土記稿」にはもと岡部村に含まれ、のち分村した時に曹洞宗普済寺の寺号を村名とした。
『新編武蔵風土記稿 普済寺村』
「古へは岡部村に属せしが、後年代詳ならず分村せしとき、村内にある寺號をもて村名となせりと云」
 なお、地域名「普済寺」は、当地にある普済寺の寺伝によると建久二年(一一九一)に岡部六弥太忠澄が栄朝を招請して創建、忠澄の法号を寺名にしたとされている。
        
             
・所在地 埼玉県深谷市普済寺1536
             ・ご祭神 火産霊命
             ・社 格 旧村社(明治59月村社申立済)
             ・例祭等 夏祭り 724
 国道17号線を深谷市街地を越えて、旧岡部市街地方向に進み、「普済寺」交差点を左折、そのままJR高崎線に達する「学校通り踏切」の手前で進行方向右手に普済寺愛宕神社は鎮座している。愛宕神社の基壇部となっている古墳は、愛宕山古墳または前原愛宕山古墳と呼ばれ、137m・高さ5.5mの方墳というが、塚の可能性もあるという。古墳時代末期(七世紀末頃)の築造と考えられている。
 この古墳は、1983年(昭和58年)920日付けで岡部町(当時)指定史跡に指定。2006年(平成18年)11 - (旧)深谷市、岡部町、川本町、花園町が合併し、新たに深谷市となり、同日市の指定史跡となった。
        
                 普済寺愛宕神社正面
        
           鳥居・社号標柱の右側に設置されている案内板
          普済寺愛宕神社の案内板は深谷市と合併前の旧岡部町時代のもので、
                            文字は薄れほとんど読めない状態。
 愛宕神社
 創立年代は不明であるが、岡部六弥太忠澄の信仰厚く、火防の神として崇敬されたと伝えられている。当社周辺は、往古より火難が多く、住民はこれに苦しみ、広大な山林中唯一の大塚上に愛宕明神を勧請し、火産霊命を祀ったと伝えられている。
 江戸時代にはいると、岡部藩主安部氏は当社を火防の守護神として崇敬し、陰暦七月二十四日は家来に至るまで、肉食・魚食を禁じ、氏子中においても、この日精進祭という神事を行った。
 また、当社が祀られている大塚は、愛宕神社古墳と呼ばれ、町指定文化財となっている。本古墳は、一辺三七メートルの方形をなし、高さ五メートル五○センチを測る。葺石、埴輪の有無は不明であるが、形態からして、古墳時代末期(七世紀末頃)の築造と考えられる。本古墳は、方墳という特殊な形態を有しているが、この形態の古墳は関東地方においても数少ないものである。
 平成三年三月 埼玉県 岡部町
                                      案内板より引用
        
          一の鳥居のすぐ先にある朱色を基調とした二の鳥居
        
       参道右側にある「愛宕神社再建奉納記念碑」と「狛犬奉納記念碑」
 愛宕神社再建奉納記念碑
 当社の創立年代は不詳であるが、岡部六弥太忠澄の信仰厚く火防の神として崇敬されたと伝承されている。従前当社周辺は火災による被害が多く、氏子はこれに苦しみ、普済寺の郷豊かで自然の中でも唯一の此の大塚上に愛宕大明神を勧請し、火産霊命を鎮座された。
「敬神愛郷」いにしえより建立された社殿は、長い年月を経て、雨風を凌ぎ老朽化したため、此度愛宕神社建設委員会を設立し、本殿・拝殿を改築する運びとなり、平成二十五年三月十五日に本殿遷座祭並びに竣工奉祝祭が厳粛なうちに斎行された。大神様の限りない大御心と、愛宕神社にお寄せ戴く氏子の皆様のひとりひとりのお心が一つになり、此の社殿改築事業を進める事が出来た。
 折りしも本年伊勢神宮に於いては、第六十二回式年遷宮が斎行され、同年に当社再建が行われる事は幾重にも喜ばしく、茲に当社の歴史・伝統を後世に伝え、又、本事業にご協力御奉賛賜る多くの氏子・崇敬者・工事関係者各位の御芳名を記し、感謝の誠を捧げ此の記念碑を建立する。
(以下略)
                                                                       奉納紀年碑文より引用
            
              石段上に鎮座する普済寺愛宕神社
             冒頭に説明した通り、古墳の墳頂上に社殿は建つ。 
  石段の途中に祀られている境内社・石祠群    左側三基の石祠は不明。右側は皇大神宮
       
                    拝 殿
 愛宕神社  岡部町普済寺一五三六(普済寺字前原)
 当地は、弘化四年(一八四七)の『普済寺縁起』に「岡部の原といえる所は、彼(かの)六弥太と云し武士の旧跡なりと。近代合戦に数万の軍兵討死の有し所にて、人馬の骨をもって塚に築今に古墳余多侍りき」とある。更に、これは宗祇の「なきを問、おかべの原の古塚に秋のしるしの松かせそふく」を載せている。古くから、当地の広野には、多くの古墳が点在し、格別の風情があったのであろう。
 当社が村の鎮守となったのは、江戸初期のことで、中山道沿いに居住していた本村の人々が、南側の岡部野原と呼ばれる雑木林を開墾して新田を開き、火防の神である愛宕大神を祀ったのである。愛宕大神を祀った理由は、本村の家並みがかつて火災に見舞われたことから、分村した人々も村の火防のために、この神を鎮祭したのであると伝える。ちなみに、当社境内には、元禄年間(一六八八〜一七〇四)に建立した庚申塔があり、これには「武刕(州)半沢郡新田村」とあることから、このころには、既に本村から移住した新田村(前廓)の人々の営みがあったことがうかがえる。
 鎮座地は『普済寺縁起』に載る古墳の一つである愛宕塚古墳(古墳後期の方墳)にある。ここは、日ごろから神社景観を保護しようとする氏子の熱意により、適宜(てきぎ)、植林が施されているため、現在、形の良い社(もり)が形成されている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
        
                  社殿からの眺め
 普済寺愛宕神社の夏祭りは724日に行われ、俗に「愛宕精進」と呼ばれる。精進とは、祭事の前に心身を浄めて行いを慎み、肉食を避けて菜食をする事である。
 祭りの起こりは、当社の氏子が村を開発した当初、火災や疫病にならぬように、ひたすら愛宕大明神に祈りを捧げたことに始まる。これには、不浄であるとの理由から女衆は一切参加できないのが例であったという。
        
        境内にある如意輪観音や青面金剛・二十二夜待塔・庚申塔等



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」
    「境内案内板・記念碑文」等
 

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青山氷川神社

 青山氷川神社の創建は、社記によると、永享元年(1429)で、当初、三峰大明神と号したと伝える。三峰神社の本社が秩父にあり修験寺院が別当と勤めていた点や、秩父・当地周辺から鉱山が採掘されていた点などから、当社が三峰大明神として創建したのに修験者が関与していなのではないかとも推測されている。長期にわたり三峰大明神と称してきたが、享保10年(1725)に氷川社と改称し、現在に至っている。
 かつて社の境内には、子供六人が抱えるほどの杉の大木があり、神社の目印として村人に親しまれていたが、落雷により枯死してしまった。それでも境内は山の斜面のために樹木も多く、青山全域の総鎮守にふさわしい社の景観を呈していて、また、氏子の方々もこの青山全域の総鎮守としての意識は強く、地内の人々の心の拠り所として崇敬の念は厚い。
 ご祭神は健速素戔嗚尊・奇稲田姫尊・大己貴命で、氏子の間では農耕の神として信仰が厚く、「有難い神様」と崇敬している。そのためか、毎年三月十五日に行われる祈年祭は通称を「田起こし」といい、農業が主体であったころは、氏子の各戸ではこの日に変わり物を作って祝ったものであり、豊作を祈る予祝の祭りでもある。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡小川町青山1312
            
・ご祭神 健速素戔嗚尊 奇稲田姫尊 大己貴命
            
・社 格 旧青山村総鎮守
            
・例祭等 元旦祭 祈年祭 315日 例大祭1015
                          
新穀感謝祭(新嘗祭) 1123
 青山愛宕太神社から埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、「青山陸橋(西)」交差点を左折する。その後、小川郵便局の先にある信号を斜め左方向に進路変更し、更に500m程進むと、進行方向左手に青山氷川神社の鳥居が見えてくる。
        
                  
青山氷川神社正面
『日本歴史地名大系』 「青山村」の解説
 槻川を挟んで小川村の南に位置し、南は日影村(現玉川村)。玉川領に属した(風土記稿)。田園簿では田高二五五石余・畑高二二〇石余、ほかに紙舟役永一貫三〇〇文が課せられ、幕府領。元禄郷帳では高七二四石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本四氏の相給、ほかに円城寺領があった。「風土記稿」成立時にも同じく旗本四氏の相給。検地は寛文八年(一六六八)に行われた(同書)。文化一四年(一八一七)には高七二〇石余、反別は一〇四町九反余、家数二二〇・人数一千一四、うち一〇八軒で紙漉を行っており、前出紙舟役のほかに紙売出役銭一〇二文を納めていた(「村書之控」横川家文書)。
        
             鳥居を過ぎたすぐ左側にある「芭蕉碑」
        
            参道右側に設置されている緑泥石片岩のベンチ
 この境内に置かれている石板は「
緑泥石片岩」であり、元々は、神社入口の用水路に架かる橋として使われていたものである。昭和58年頃の道路拡張工事に伴い、今ある場所に移して、ベンチとして利用されているという。
        
             境内に設置されている社の森の案内板
 小川町指定天然記念物  青山氷川神社の森
 昭和六三年二月一四日指定
 氷川神社內   氷川神社内
 氷川神社
 氷川神社の森は、北向きの斜面の山裾から山腹にかけて広がる、照葉樹林「ふるさとの森」です。この神社林の中にはヤブツバキ・シラカシ・クスノキ・ケヤキの大木や、シロダモ・アラカシ・アオキ等も多く生育しています。参道の入り口にあるヤブツバキは、照葉樹林を象徴する木ですが、樹高八・四メートル、幹の周囲一・七一メートルの大樹で、県内でも珍しいものです。このような大木を保ってきた森は、学術的にも大変価値の高いものです。
 森の中のひときわ大きなクスノキは、樹高ニ六メートル、胸高直径一・二九メートル、最大周囲三・四八メートル、枝張り南北一九・ニメートル、東西二四・九メートルを測ります。
 平成四年二月一日 
 小川町教育委員会
                                      案内板より引用
 
        趣のある手水舎           手水舎の先に祀られている天神社
        
             社への石段がかなり急勾配で、所々苔むしているので気をつけて登る。

石段を登り終えたすぐ左手にある稲荷社の石祠    稲荷社の反対側に祀られている氏神
       
                    拝 殿   
 氷川神社(みょうじんさま)  小川町青山一三一二(青山字根木)
 青山は、外秩父山地一角、小川盆地のほぼ中央に位置する。地名の青山は、鉄を産する地から名付けられたとする説がある。『地誌青山村』には「鉱山 村ノ南方鉱山、往古何年頃ナリシカ採掘セシコトアリシモ中絶シアリシガ維新ノ後更ニ採掘ヲ試ミタレトモ十分ノ結果ニ至ラズ中途ニシテ廃絶ス今ハ只試掘痕ノ存スルノミ」と載る。また、地内には、鍛冶の神として崇められた愛宕神社(当社に合祀)がかつてあり、その裏山を「神名」という。神名は、俗に「鉄穴」であるということから、やはり採掘とかかわりがある。当地一帯は、外秩父山地を抖擻した修験者が活躍している。各地の鉱山が、山間の知識を十分に蓄積した修験者により発見されていることから、当地の鉱山も在地修験とかかわりがあったことと考えられる。
 当社の創建は、社記によると、永享元年(一四二九)で、当初、三峰大明神と号したと伝える。三峰大明神を祀る本社、すなわち現在の三峰神社は、秩父山塊にある標高一一〇〇メートルの大滝村三峰に鎮座している。江戸期は、京都聖護院直末、天台宗本山派修験で、別当観音院が支配している。三峰大明神の勧請は、恐らく在地修験により行われたのであろう。
 三峰大明神の史料としては、寛文八年(一六六八)の『武州比企郡青山村御縄打水帳』があり、「田九畝拾八歩 三峰大明神」と記されている。この江戸初期の史料は、比較的早期の三峰信仰を知る上で貴重なものである。
 当社の社家である土岐家には、修験関係の許状、補任状が残る。この内、古いものでは、正徳元年(一七一一)の大常院の「袈裟着用許状」、次いで享保九年(一七二四)の青山坊の「僧都補任状」、泉蔵院の「袈裟、貝緒両緒着用許状」などがある。浄学院と号した土岐家に、これら坊・院の許状があるということは、恐らく当社の別当が次々と退転したことを示しているのであろう。
 この中で、当社は、享保十年に、社号を「三峰」から「氷川」へ変更している。これは、かつて三峰大明神を祀っていた大常院が退転し、その後、恐らく青山坊か泉蔵院が当社の祭祀に当たるに及び、新たに氷川大明神を勧請したのであろう。これらは、氷川神社とかかわりのある修験であったかもしれない。
 土岐家、すなわち浄学院の許状は、宝暦七年(一七五七)以降のものが残されている。浄学院は、本山派修験で、青岩山と号し、西戸村山本坊配下であった。また『風土記稿』には、氷川社の別当が浄学院であることを載せている。浄学院は、明治初年の神仏分離に際し、復飾して神職となった。
                                  「埼玉の神社」より引用
     
           社殿の奥にひときわ高く聳え立つクスノキのご神木(写真左・右)
       
                  石段上からの眺め 
             因みに石段の向かって右側にある建物は神楽殿 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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