古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上寺山八咫神社

 
        
             
・所在地 埼玉県川越市上寺山4983
             
・ご祭神 素盞嗚命
             
・社 格 旧上中下寺山村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 422日 まんぐり 714
                  
秋祭り(お日待)・獅子舞 1015
 鯨井春日神社から埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を東行し、入間川を渡り、同県道160号川越北環状線と交わる「上寺山」交差点を左折、その後450m程進んだ路地を左折した後暫し西行すると、その突き当たりで、入間川堤防が目の前の静かな場所に、上寺山八咫神社は鎮座している
        
                 上寺山八咫神社正面
 川越市上寺山地域は市北部で、平均標高16m程の入間川右岸低地に位置している。『新編武蔵風土記稿 上寺山村』項において「陸田少く水田多し、用水は小ヶ谷村より入間川を引て灌ぐ」と載せているように、地域内の大部分は田畑となっているのだが、埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線周辺、及び以北には宅地化もされている地域でもある。
『寺山』という地名由来として、上記『風土記稿」によれば、天文年間(153255)頃に寺山佐渡守宗友が住していたと伝え、村名の起源ともいうが、同書は続けて「然れども其邸跡今何れの所なりや傳らず」とも載せていて、風土記稿編者にもその真偽の程は定かではないような記述となっている。
        
       鳥居の手前で、参道左側に建つ「村社八咫神社神籬聖趾」の石碑
 八咫神社の創建年代等は不詳であるが、当初は現社殿より入間川寄りの西北に鎮座していて、大正59月堤塘改修の為現社地に遷座した。小名八ツ口に鎮座していた関係で「八口神社」と称していて、このことから、出雲神話にでてくる八岐大蛇を素戔嗚尊が退治したように、八岐大蛇を入間川に見立てて、毎年氾濫する入間川を和める為、神を祀ったものであろう。信仰は氏子のみ成らず当地を治める松平伊豆守や松平大和守等の領主らの篤い保護を受け、また上中下寺山三ヶ村の鎮守として崇敬されていた。当社に奉納される「まんぐり」「上寺山の獅子舞」は川越市無形民俗文化財に指定されているという。
        
        境内は堤防が目の前にあるためか、境内は静まり返っている。
        
     参道途中にある市指定文化財である「まんぐり」「上寺山の獅子舞」の案内板
 まんぐり 
 市指定・無形民俗文化財
 七月第二日曜日(昔は七月十四日)に行われる。青竹に麦わらを束ねて巻き、これに大天狗・小天狗と呼ばれる幣束と五色の小さな幣串を飾ったボンテンを作る。
 そして、フセギの青竹二本・法螺貝・ボンテンの順で行列を組み村回りした後、入間川に飛び込んで水をかけ祈禱する。ボンテンは八咫神社境内にある石尊さまに納められる。大山信仰を基にした夏祈禱の行事である。
 昭和四十七年二月八日指定
 上寺山の獅子舞 
 市指定・無形民俗文化財
 十月第三土曜日(昔は十月二十二日)に行われる。大獅子・女獅子・中獅子の三頭の獅子を山の神(仲立ち)が先導する。これらは男子が、ささらっこは女子が演じる。曲目は、竿掛りを含み、「仲立ちの舞」「十二切の舞」などがある。途中誉め言葉がかかるのも特徴である。
 起源は不明であるが、秋元侯が藩主であった頃、竹姫の眼病平癒のために、二十一日間獅子舞を奉納して祈願したところ、たちどころに直ったため、葵の御紋の入った麻幕を下賜されたとの伝承が残されている。
 平成四年八月七日指定

 当地に伝承されている「マングリ」と「獅子舞」の運営には、年行事が当たる。年行事は親年行事(40歳位)・中年行事(25歳位)・少年行事(15歳位)に分かれ、それぞれ二名ほどが務める。村ではこの年齢層を若い衆と呼び、任期は1年で、交替はマングリの日に行う。また、年行事の仲間入りについても、この日に行うとの事だ。
 マングリは、疫病除けの行事である。これは梵天と呼ばれる数本の幣束を差した藁束に長い竹竿を通し、村を祓うものである。梵天の本体は長さ二尺六寸、直径は一尺ほどの藁束で、これに大天狗・小天狗という大きな幣束を二本立て、更に五色の小さな御幣を氏子数本分差し込んである。マングリの行事では、この梵天を担いで若い衆が八咫神社を出発し、県道沿いに村を下り、道々練ってから村境の川の中にこれを立てて祈祷する。さらにこれを八咫神社に持ち帰って境内の石尊様に納める。なお、梵天に差してある五色の御幣は疫病除けとして各家庭に配られる。
 獅子舞については、特別に歴史的な伝承ではなく氏子はササラ獅子と呼んでいる。獅子は大獅子・女獅子・中獅子の三頭で、獅子舞は1014日のお日待の日に行われる。古くは、1022日の八咫神社の例祭に併せて行っていたが、農作業と川越祭りの影響で変更されたという。
       
            参道途中には日露戦〇記念碑等の石碑が建つ
     写真では一番左側にみえる石灯篭が「まんぐり」行事で登場する石尊大権現
       
                    拝 殿
 八咫神社(やつくちさま)  川越市上寺山四九八-三(上寺山字寺山)
 当社は現在入間川東岸に鎮座しているが、大正二年堤防拡幅工事前までは当地から三〇〇メートル西北の堤外に鎮座していた。古くは、社名も現在の八咫神社ではなく、八口社と称していた。 また、小字名に八ツロがあり、おそらくここが元の鎮座地かと思われる。この八ツ口というのは出雲神話の中にある素盞嗚命が退治した頭尾八つに分かれた八岐大蛇からきており、出雲の簸川を大蛇に見立てたのと同様にこの八ツロは毎年氾濫する入間川であった。社の創立も、この洪水と八ツ口の地名にかかわるもので、入間川を和めるために神を祀ったものである。
 祭神は、素盞鳴命で、神仏習合時代に本地であった准胝観音を安置している。
 現存する棟札写しのうちの一枚は永禄一二年のもので「奉修造八口大明神祈念所」とあり、別当財泉院と書かれているが、現社殿の棟札である天保三年のものには、別当が「八口山林蔵院長久寺」と記されており、祀職に変遷があったことをうかがわせる。
『風土記稿』によると林蔵院は、本山派修験で、神仏分離により廃寺となっている。次いで同四年現社名に改称しており、これは神仏分離の影響と思われるが、口碑には、神社の杜に、もと鳥か多く棲んでいたことからこれを八咫烏と考え、社名に八咫をつけたという。 

                                  「埼玉の神社」より引用
 
          本 殿                本殿内部
        
             本殿奥に祀られている境内社四社合殿
             神明社・八坂神社・稲荷神社・姥神社
        
                                   社殿からの眺め

 ところで当地は江戸期、入間郡に属していて、『入間郡史 山田村上寺山 八咫神社』には次の一文が載っている。
八咫神社 村の北部にありて入間川の堤に接す。 境内広く、雑木大に繁茂せり。 素盞鳴尊、日本武尊、鵬建角見命を祭る。 天平勝宝年中に社祠を建てたりと伝ふ。 思ふに此較的古社ならん。 八坂社、稲荷姥神祠等の末社あり。 今は指定村社也。 或は八咫神社を以て延喜式神名帳に所謂国謂地祇社に当てんとするものあり。 可なる所以を知らず」
 この項では、ご祭神が「素盞鳴尊、日本武尊、鵬建角見命」の三柱となっている。素盞鳴尊、日本武尊」の二柱は有名な神様であるが、当初「鵬建角見命」はどのような神なのか皆目見当がつかなかった。そこで、調べてみると「賀茂建角身命」であることが判明した。
「鵬建角見命」は「賀茂建角身命」(カモタケツヌミノミコト/カモタケツノミノミコト)で別名「鴨建角身命」ともいい、この神は賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られている。
『新撰姓氏録』によると、鵬建角見命(賀茂建角身命)は神魂命(かみむすびのみこと)の孫であり、神武東征の際、八咫烏に化身して神武天皇を先導したとされていて、別名「八咫烏」「八咫烏鴨武角身命(やたからすかもたけつのみのみこと)」という。まさにこの社の名称にピッタリ符合する神様だと合点がいった次第である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市HP
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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石原町愛宕八坂神社


        
            
・所在地 埼玉県川越市石原町2646
            
・ご祭神 軻遇突智命 素戔嗚尊
            
・例祭等 元朝祭 稲荷講 43日 例祭 72223
 川越市石原町地域は旧川越城下町の西側にあり、入間川と新河岸川との間の低地帯に立地している。現在新河岸川により市街地から切り離されたようになっているが、現在の一丁目は川越城下の入口に当たっていたため江戸時代より街道に沿って旅籠屋が軒を連ね、裏町は箱屋などの職人町でもあったという。
 途中までの経路は入間川左岸に鎮座する鯨井春日神社を参照。埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を東行し、途中入間川に架かる「雁見橋」を渡り、そのまま川越市内方向に進む。1㎞程進行した先にある「石原町(北)」交差点を右折、その後、川越児玉往還道を南東方向に450m程進んだ十字路を更に右折したそのほぼ東側に「石原町公民館」があり、その公民館南側に隣接した高台上部に石原町愛宕八坂神社は鎮座している。
        
              塚上に鎮座する
石原町愛宕八坂神社
 石原町愛宕八坂神社の祭神は、往時愛宕大権現と牛頭天王であったが、明治初年の神仏分離により祭神名を軻遇突智命・素戔嗚尊と改めた。
 当社の氏子区域は、現在の石原町一丁目・二丁目であるが、本来の氏子区域は旧小久保町と川越高沢町からなっていた。
また、当社は愛宕八坂神社となっているが、八坂神社が旧地に現存しているため、氏子としては現在も愛宕神社だけと意識し、旧来の火防の神として信仰しているという。
        
                    拝 殿
 愛宕八坂神社  川越市石原町二-六四-六(小久保字石原町)
 石原町は、川越市街北西部の町はずれに位置し、新河岸川により市街地から切り離されたようになっているが、現在の一丁目は川越城下の入口に当たっていたため江戸時代より街道に沿って旅籠屋が軒を連ね、裏町は箱屋などの職人町でもあった。
 新河岸川に架かる高沢橋は、城下入口の固めでもあり、これを囲むように寺社が集まっている。当社はその中の一つ天台宗高沢山妙智院観音寺内に鎮座し愛宕大権現と称していたが、安永九年の大火を機に町内中央部南側中程にある星野家に移して町の火防の神として祀り、翌一〇年袋町(現一丁目)の牛頭天王を当社の合殿とし、社号を愛宕大権現牛頭天王合殿とした。その後、当社は渡辺家を経て柊稲荷の境内へと移った。往時の祭りは、本殿を本通りに引き出し、お仮屋を設けて祭りを行い、町内中央の田んぼに舞台を掛け、老袋の太夫が石原へ婿に来ていたのを幸いに老袋の万作芝居が演じられたという。
 明治二年、神仏分離により社号を愛宕八坂神社と改称する。昭和六年、当時の総代岸仲次郎により土地が寄進され、現在地に移転した。
 なお、八坂神社は現在も旧地に残り近隣者によって祀られており、近年、同神社からは延享三年、大沢太郎左衛門の奉納による牛頭天王縁起絵巻一巻が発見され、市の有形文化財に指定されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
 当社の旧鎮座地である観音寺には、県指定無形文化財となっている「ササラ獅子舞」が現在隔年である41718日の両日で行われている。この獅子舞の歴史は、慶長12年(1607)に災魔降伏・国利民福を祈って舞われたのが始まりと伝えている。記録によると、この年の閏四月から大干となり、暑気烈しく病気で倒れる者が多かったことから、この獅子舞に込める当時の人々の祈りは、切実なものがあったと思われる。
 藩主酒井忠勝は、寛永43月の例祭に城内でこの舞の最中、幕府から十万石加増の沙汰があり、代々観音を深く信仰していたとことも相まって、この獅子舞を好み、寛永11年(1634)若狭国小浜に国替えになった際に、雌雄2頭とその舞手を関東組として引き連れ、彼地に現在も続く雲浜獅子舞を残している。
             
       社に隣接している石原公民館との境に聳え立つイチョウのご神木

 
一方、一頭となった石原は、自然中絶の憂き目にあったが、宝永6年(1709)高沢町の井上家から同家の番頭が彫った雌雄二頭の獅子頭の奉納があり、舞は太田ヶ谷(現鶴ヶ島市太田ヶ谷)に習い再興された。これにちなんで今でも井上家で一庭舞われ、町内回りには鶴ヶ島市の方を向いて舞われているという。
 この獅子舞は、一人獅子舞の系統で成人男性が演じる。曲目は12切という12の部分からなり、先獅子(雄)中獅子(雌)後獅子(雄)の3頭が軍配を持った天童に誘導され、笛太鼓に合わせたササラッコ(花笠を付けた少女4人)のささらの伴奏で舞う。なかでも、2頭の雄がかみあいを繰り返しながら雌を争う場面は、最も特色ある場面である。


参考資料「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」等
     

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安比奈新田八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市安比奈新田287
             
・ご祭神 誉田別尊 神功皇后 比賣神
             
・社 格 旧安比奈新田村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 祈年祭 414日 例祭(秋祭り) 1014
 川越市安比奈新田、この「安比奈」は「あいな」と読み、なかなか個性的な地名である。この地域名は、かつて的場村と柏原村(現狭山市)とに挟まれた(間 あいだ)からきた名という。
 途中までの経路は的場若宮八幡神社を参照。この社から埼玉県道
114号川越越生線に一旦戻り、南西方向に進路を取り、「的場上」交差点をそのまま直進、同県道260号鯨井佐山線に線路変更となるのだが、750m程進んだ信号機のある十字路を右折する。道幅の狭い昔ながらの道路の両側には民家が並ぶ中、すぐ先に見える丁字路を右折すると安比奈公民館、その並びに安比奈新田八幡神社が見えてくる。
        
                
安比奈新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「安比奈(あいな)新田」の解説
入間郡増形(ますがた)村の北、入間川左岸低地に立地。高麗郡に属する。村名は的場村と柏原村(現狭山市)とに挟まれた小村に由来するという(風土記稿)。寛永年中(一六二四―四四)に川越藩主松平信綱が新田取立てを行った際に郡奉行の三浦十右衛門と三芳与左衛門の下屋敷が置かれた頃に開発され、当時本百姓一三・名主一・寺院一・神社一があったという(霞ヶ関の史誌)。
        
                 趣のある静かな境内
        
                 参道右側にある手水舎
 手水舎の水面には数種類の華やかな花が活けてある。日頃世知がない忙しい毎日に追われている筆者にとって、心癒される一瞬である。このような洒落た気持ちを常日頃から持ち合わせたいものである。
          
           境内社・稲荷神社             境内社・八坂神社
        
 
                                      拝 殿
 八幡神社  川越市安比奈新田二三(安比奈新田字宮久保)
 当社は、慶安元年九月に豊前国の宇佐八幡宮から、当時開墾された安比奈新田の鎮守として勧請した社である。祭神は誉田別尊・神功皇后・比賣神の三柱で、内陣に高さ三五センチメートルの八幡神座像を安置している。この神像は胡粉彩色の木像で、神社の創建当時からあるものといわれている。
 当社には五枚の棟札が現存しており、その中では享保一四年の「奉再造八幡宮成就所」とあるものが最も古い。現在の本殿は千鳥破風、向拝の付いた一間社流造りで、棟札から安政四年八月に建造されたものであることが知られる。
 境内は杉・松などの混淆林に囲まれ、社殿の周りには末社として八坂神社・稲荷神社・浅間神社・天満天神社・御嶽神社の五社がある。このうち、稲荷神社においては毎年三月一〇日に祭典が行われているが、ほかの末社については行われていない。
 また、かつて境内には観音堂があり、集会や祭典後の直会の会場などとしても利用されていたが、大正六年に社務所兼公会堂の建設のため、境外に移転した。
 なお、安比奈新田には寺院がなかったため、江戸時代には笠幡の延命寺が当社の別当であった。神仏分離の後は、笠幡の尾崎神社の社家である伊藤家が祀職として奉仕している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
  社殿左側奥に祀られている浅間・御嶽社   社殿右側奥に祀れている天神社

 安比奈新田地域は柏原と的場両村の間に開かれたことから「あひな」と称したという。口碑によれば、昔は「安比奈千軒」といわれるほど家数も多く、繁盛した村であったが、入間川の氾濫で家が流されたため、家数の減少をみたという。
また、この地域は、
入間川北岸に開かれた農業地帯で、かつては氏子のほとんどが養蚕を主体とした農家であった。戦後、養蚕が振るわなくなってからは、作物も米や野菜が中心となり、高度経済成長期以降は兼業へと変化していった。また、近年、団地や住宅地の造成が進み、他地域からの転入者が相次いだため、明治4年にはわずか36戸、戦前でも65戸しかなかった住民は昭和53年には200戸近くにまで増加したという。
        
                  社殿からの一風景
社の西側に隣接して
安比奈公民館があるのだが、そこの西側端にはお地蔵様や供養塔、馬頭観音等がある。
         
            馬頭観音(左)    月待供養塔(左)、他の二基は
        秩父西国坂東巡拝供養塔(右)     お地蔵様 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等 
   

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的場八坂神社

 中世において、武蔵国を代表する豪族の一派に「河越氏」がいた。河越氏は平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国で勢力を張った豪族で、坂東八平氏秩父氏の嫡流であり、河越館(現埼玉県川越市上戸)を拠点として国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職」(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)を継承し、武蔵国の在庁筆頭格として武蔵七党などの中小武士団や国人を取りまとめていた。
 因みに、河越氏の発祥地は『吾妻鑑文治二年条』に「新日吉領武蔵国河肥庄地頭云々」と見え、高麗郡上戸村(川越市)の山王社及び常楽寺附近といい、今の入間郡河越宿は太田道灌の築城後に河越と呼んだそうだが、『新編武蔵風土記稿 高麗郡的場村(川越市)』には「此地は當國の名蹟三芳野の里にて、今も小名に三芳野とよべる所あり、又三芳野塚も遺れり、元より此邊之村里すべて三芳野郷の唱あり、(中略)三芳野塚 村の艮に當り、陸田の中にあり、匝三四十間、高さ三間餘、塚上には雑木生茂れり、是ぞ三芳野鄕の基本にして、今川越の城中に鎭座せる、三芳野天神の舊地なりと云」。
 また『同風土記稿 上ハ戸村』には「もと川越三芳野里と云るは、この上ハ戸・的場村等をさして云、山王社 大廣院持、當社は上ハ戸・鯨井・的場の三村、惣鎮守にして、(中略)西に續きて丸山と云るは、砦の跡なりと云、此所は草木生茂りて、土手堀切等の跡あり。又當社の古鐘、今川越の養寿院にあり、何故に移せしやその來由を傳へず、銘文の略に曰、武藏國河肥庄新日吉山王宮、奉鑄推鐘一口・大檀那平朝臣経重、文應元年云々」「常樂寺 川越山と號す、(中略)土人此寺を稱して三芳野道場と云、川越城の舊跡なり、」「大廣院 本山修驗、日吉山と號す、日吉山王の別當なり、(中略)【回國雑記】に河越と云る所に至り、最勝院(大広院先祖)と云山伏の所に、一夜宿りて、此所に常樂寺と云る時宗の道場はべる云々」として、
坂東八平氏秩父氏の嫡流である河越氏は「三芳野里河肥庄的場村」に居住して河越氏を称したという。
 さて事実は如何なものであろうか。

        
             ・所在地 埼玉県川越市的場1874
             ・ご祭神 須佐之男命
             ・社 格 旧的場村下組鎮守
             ・例祭等 例祭(天王様) 415
 的場若宮八幡神社から埼玉県道114号川越越生線を再度的場駅方向に進み、「的場」交差点をそのまま直進、JR川越線の「的場県道踏切」の手前で、進行方向右手に的場八坂神社は鎮座している。
 踏切手前には、社に隣接している「的場下組自治会館」に通じる道幅の狭い路地があり、そこから自治会館へ入り込み、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                  的場八坂神社正面
 的場地域は川越市西部の入間川と小畦川に挟まれた所で、当社の鎮座する下組は、地域の中でも古墳等の遺跡も多数あり、古くから開けたところとされている地でもある。的場八坂神社の創建年代等は詳らかではないが、旧名主加藤家の屋敷鎮守であった牛頭天王社を、的場村下組の鎮守として祀ったといい、現存する最古の棟札が、貞享二年であることから江戸初期にはすでに鎮座していたものと思われる。その後、明治年間に糠塚の上に祀られていた稲荷社を、明治期当社に合祀している。
        
                                    境内の様子
    参道両側に並ぶ桜の木々の青葉が引き立ち、交通量の多い県道沿いに鎮座している
                 にも関わらず、落ち着いた境内の雰囲気にマッチしている。
        
                    拝 殿
 八坂神社  川越市的場一八七四(的場字下宿)
 的場は川越市西部の入間川と小畦川に挟まれた所で、数多くの遺跡や古墳が点在する。中でも当社の鎮座する下組は、的場の中でも古くから開けたところとされ、的場三十塚または糠塚と呼ばれる古墳が見られる。
 当社は、本来隣接する旧名主加藤家の屋敷鎮守であった牛頭天王社を、字の鎮守として祀ったものとされる。当社創建を示す記録はないが、戦前、氏子が調べた際、三三〇年前になるといわれ、現存する最古の棟札が、貞享二年であることから江戸初期にはすでに鎮座していたものと思われる。このほか、安永八年、文化元年、明治一五年の再建の棟札が現存する。
祭神は須佐之男命である。本来、当社は牛頭天王と称していたが、明治二年の神仏分離により社号を八坂神社と改めた。
 境内社の稲荷社は、糠塚の上に祀られていた稲荷社を、明治期当社に合祀したものである。社般もその時に移したものであるが、跡地には、この稲荷社を古くから祀ってきた一二、三軒により新たに社殿が造営され、跡宮稲荷と称して現在も祭りを続けている。
                                   「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 的場村』には加藤氏に関して以下の説明文を載せている。
「舊家者八三郎 加藤を氏とす、天正の頃より累世里正たり、是村草創五軒の百姓と云る其一なり、鞍・鐙・槍等先祖より傳來の品持せり、七右衛門も亦その一軒なりといへり、其餘の三軒は今つまびらかならず、」
 
   拝殿前に設置されている社の案内板                        本 殿 
 当社の祭りは、『新編武蔵風土記稿』に「天王社 例祭六月十五日」と載せているように、長く615日に祭りが行われていた。その後、大正期に入り、祭りが春蚕の上がりと時期を同じくするため、415日に変記された。
 氏子はこの祭りを「天王様」と呼び、大正期までは法城寺に保管されている獅子でササラ獅子が奉納されていたが、現在ではその伝承者もいなくなっている。また、この祭りの際には、神楽が下組の南・東・北・西の順に神職の先導で練り歩き、最後に入間川の中に入って揉んだというが、戦後、神輿の行列が地域の交通の妨げになるという事で通行許可が下りなくなり、現在では古い朱塗りの女神輿と明治2312月に造られた白木の男神輿が社務所前に飾られるだけとなっている。
 
        拝殿の左側に祀られている境内社・糠塚稲荷神社(写真左・右)
        
                境内右側隅にある薬師堂
 当社では、91日に境内の薬師様と初雁塚上に祀られている浅間神社の祭りが境内で行われている。薬師様は現在の霞が関北から出土したものといわれ、明治期当社の境内に移されたものである。現在は、旧神職家の吉田家が薬師様を保管し、祭り当日堂内に祀るとの事だ。
        
                       社殿より参道方向を望む。
 下組の曹洞宗的場山三芳院法城寺境内には、三芳野天神社が祀られ、神体は一寸八分の金の天神様で、白檀で作られた渡唐天神像の腹籠(はらご)もりとなっているという。祭日は425日(以前は225日)で、神職が出向して八坂神社役員の参列により祭典を行っている。なお、廓町の三芳野神社はこの社から文明五年に勧請したものであるという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」「境内案内板」等

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的場若宮八幡神社

『伊勢物語』とは、平安時代に成立した日本の歌物語で、別名『在五が物語』『在五中将』『在五中将の日記』。和歌を中心とし,それにちなんだ短編約125話からなる。平安時代初期に実在した貴族である在原業平を思わせる男を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語でもある。主人公の名は明記されず、多くが「むかし、男(ありけり)」の冒頭句を持つことでも知られ、作者不詳。
 この『伊勢物語』は、『竹取物語』と並ぶ創成期の仮名文学の代表作で、また現存する日本の歌物語中最古の作品であり、後世への影響力の大きさでは同じ歌物語の『大和物語』を上回り、『源氏物語』と双璧をなすとも言われる。
この『伊勢物語』第十段には「みよし野の里」が登場する。
「むかし、をとこ、武蔵の国までまどひありきけり。さてその国に在る女をよばひけり。父はこと人にあはせむといひけるを、母なんあてなる人に心つけたりける。父はなほびとにて、母なん藤原なりける。さてなんあてなる人にと思ひける。このむこがねによみておこせたりける。住む所なむ入間の郡、みよし野の里なりける(以下略)」
この入間の郡「みよし野の里」の遺跡について、いくつかの意見があり、一説として、『新編武蔵風土記稿』では、川越市上戸(うわど)・的場(まとば)両地域あたりという。
『新編武蔵風土記稿 的場村』
 相傳ふ昔大道寺駿河守この隣里上戸の城に在し時、是邊に弓・銃等の的場ありしと、今も楢的場と云ものあり、故に村名とせりと云、又此地は當國の名蹟三芳野の里にて、今も小名に三芳野とよべる所あり、又三芳野塚も遺れり、元より此邊之村里すべて三芳野郷の唱あり、

        
             
・所在地 埼玉県川越市的場529
             ・ご祭神 誉田別尊
             ・社 格 旧的場上組鎮守
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 秋祭り(お日待) 1015
 JR川越線的場駅から南方向に走る埼玉県道114号川越越生線を900m程南行すると「若宮八幡神社入口」の立看板がある丁字路があり、そこを左折、そこから道なりに300m程進むと正面やや左側に的場若宮八幡神社が見えてくる。
        
                 的場若宮八幡神社正面
        規模は決して大きくはないが、コンパクトに纏まったような社   
『日本歴史地名大系 』「的場村」の解説
 笠幡(かさはた)村の東、入間川と小畔(こあぜ)川に挟まれた低地および台地に立地。高麗郡に属した。牛塚古墳群と三芳野塚・初雁塚などとよばれた古墳があり、とくに三芳野塚の存在は当地が「伊勢物語」に記された「みよしのの里」に比定される根拠とされる。村名は戦国時代に隣村上戸に拠った大道寺氏の的場があり、後まで的塚が残されたことに由来するという(風土記稿)。小田原衆所領役帳に江戸衆の山中内匠助の所領として「七拾八貫五百五拾八文 川越的場」とみえる。
        
         道路沿いに設置されている「的場八幡神社本殿」の案内板
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 的場村』
 八幡社 法城寺の持、
 法城寺 的場山と號す、曹洞宗、鯨井村長福寺末、此寺往古三芳野塚の傍にありて、三芳野山寶常寺と唱へしに、何の頃よりか山號を改め、寺號を書替しと云、起立の年詳ならず、中興開山撫州舜道、正保三年七月廿五日寂す、開基は神山七左衛門なり、寛文八年九月四日歿す、本尊は正觀音を安ず、緣起の略に曰、法成寺者、則三芳野天神・若宮八幡宮兩宮之別當、而古代三芳野塚麓有之、幾年歷事不審、上戸大道寺家落城之時及廃壊事久、略本寺長福寺三世、撫州和當寺中興、則今開山也、此時神山七左衛門開基成建立、其時三芳野塚之天神宮境内移、寺地四段四畝二歩、天神宮地一段二畝、若宮八幡宮地五畝六歩、到今御除地也、當所本名三芳野也、大道寺家上戸居城之頃、當地弓鐡炮武術之稽古場也、故里人皆的場云、依之後的場村成、三芳野塚麓池有、天神御手洗是三芳野初雁池也、謂雁此國初來、池上三度飛回初鳴云傳、又此池常櫻花水底浮故、是櫻池共云傳也、

 八幡神社  川越市的場五二九(的場字若宮)
 
的場は入間川の西岸に位置し、村名は昔大道寺駿河守が隣村の上戸の城にある時、弓や銃の的場をこの地に設けたことに由来する。この村は水田が少なく、陸田のほかに粟・稗・麦などの雑穀を栽培していた。また、ここは上・中・下と分かれ、当社の氏子はこのうち上に当たる。上はほかよりやや土地が高く、通称新開といわれ、中・下より後から開けた所である。これは水の便からきており、中・下が早く開けたのは、当社前方五〇〇メートルほどの所にある蟹淵という冬でも枯れない泉を灌漑用として利用できたからである。
 当社の創立は、口碑によると氏子窪田家の屋敷神であったものが、いつのころか現在地に移転され、村を守護する社になったという。窪田家については、現在資料はなく村における往時の位置は定かではないが、村の開発にかかわった家であったと思われる。
『風土記稿』によると、江戸期は曹洞宗的場山法城寺が別当を務めていた。
 明治に入り神仏分離のため、当社は法城寺の管理を離れたが、神仏習合時代の影響は明治末期まで続き、一〇月一五日のお日待の時には寺から獅子が三頭繰り出し当社でササラを行った。また、現在でも社務所には観音像のほか四体の仏像が祀られており古くからの姿をとどめている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 昔からの氏子参拝作法は、神社の裏手から山榊の小枝を取って来て拝殿正面で一拝し、更に末社に参拝し、次に本殿裏の壁に榊を差し込んでトントントンと三回たたくものであるという。
 氏子区域は、的場上組と一丁目の一部である。この地域は嘗て養蚕と畑作を中心とする農業地帯であったが、昭和48年頃から急激にサラリーマンの増加をみた所で、以前は氏子数は900戸程であったが、このうち祭典費を納めている昔からの住民は500戸位である。
 霞が関公民館の文化祭での書道展や短歌俳句の文化展や盆栽展・農産物品評会等が地域住民の結びつけを強め、氏子の目は社の慣習的な祭りから公民館が企画する祭りへと関心が移行したことにもよる。
 
         本 殿                本殿内部
 的場八幡神社本殿  
 市指定・建造物
 この地の開発にかかわった窪田家の屋敷神を現在地に移し、村を守護する社にしたのがはじまりといい、江戸期は法城寺が別当をつとめていました。
 本殿は小型の一間社流造で覆屋内の石造基壇上にたち、屋根は木瓦葺とし、千鳥破風、軒唐破風を付けます。精巧で複雑な架構と余すところ無く埋めつくされtら彫刻が見所となっています。とくに圧巻は身舎側壁と正面の扉・脇壁にはめ込まれた彫刻です。扉に花鳥、脇壁に鯉の滝のぼり、左側面に神功皇后と赤ん坊(応神天皇)をだく武内宿彌、右側面に司馬温公の甕割、背面に波・松・鷹の丸彫彫刻をはめ込んでいます。いずれも壁面から飛び出た肉厚の彫刻で、人物や事物が大きく彫られています。これらの彫刻は補助的に建築に付加して装飾するという程度をこえ、建築の壁面を借りて彫刻を作品として展示するかのようです。背面は神社本殿の壁面としては高さに比べて幅がかなり広く、彫刻の寸法が建築に先行した可能性も考えられます。
 造営年代を直接示す棟札などの史料はありませんが、基壇に嘉永五年(一八五二)八月吉日の刻銘があり、本殿の造営年代も同じころと思われます。
                                    境内案内板より引用
 
       
                  境内社・稲荷神社 
 社の祭りに関して、春祭りは春祈祷との呼ばれる豊作祈願祭で、大正期までは巫女が拝殿前で春神楽を舞った。時期的にも霜が降りなくなるので、夏作が始まり養蚕の準備も行われる。
 秋祭りはお日待とも呼ばれる豊作感謝祭であり、氏子の家では親類を招き、けんちん汁・赤飯・うどんを作って豊作を祝った。祭典後の直会は、古くから生姜に味噌をつけて肴とし、酒を飲むもので、この行事が終了するとこの地では本格的な稲刈りが始まるという。
 また古くから地域住民が行われている行事には、211日の春日待・43日のお犬講(宝登山講)があり、女衆は「おしら講」を行っていた。
        
                   境内の一風景


参考資料「
新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉県の不思議事典」  
    Wikipedia」「境内案内板」等
             

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