古社への誘い 神社散策記

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埼玉古墳群の謎(12)祟りとおさき伝説

 丸墓山古墳と二子山古墳の関係を考えるうえで一つ重要なポイントがある。丸墓山古墳は直径105mの円墳であり二子山古墳の長さには及ばないが、高さが約19mあり他の古墳に比べてもかなり突出している。しかもこの墳頂部は戦国時代の石田三成による忍城攻めの際に12m削られたため、当初はもっと高かったと思われる。
 この丸墓山古墳の墳頂から東側から南側方向を見ると稲荷山古墳や二子山古墳が一望に臨め、この2大古墳を見下ろす形となる。この丸墓山古墳と二子山古墳はほぼ同時に築造されたものという。またこの古墳は生前中から築造されている可能性が高いことから、間違いなく(獲)加多支鹵大王は築造中の二つの古墳を見ているはずだ。
 丸墓山古墳からは何度も言うが稲荷山古墳と二子山古墳はおろか小崎沼や埼玉地域全体を見通せる絶好の位置に築造されている。この埼玉古墳群は稲荷山古墳→二子山古墳→鉄砲山古墳のラインが埼玉一族の正統な継承ラインで軸線上に築造されているように思われるが、丸墓山古墳はその軸線からは西側に外れている。しかし外見的に見ても丸墓山古墳のほうが他の古墳よりはるかに目立ち、一種ランドマークのような目印的な存在となっているように思える。

      
                      丸墓山古墳から見る稲荷山古墳
 この稲荷山古墳は埼玉地域、のちには武蔵国の地に一大勢力を築き上げた(獲)加多支鹵大王の先代にあたる大王の輝けるモニュメントである。もし仮に丸墓山古墳と二子山古墳の埋葬者が違うのであれば、このような二子山古墳の埋葬者である埼玉古墳群中最大の大王である(獲)加多支鹵大王が丸墓山古墳の築造を許すだろうか。心ある人ならこう思うに違いない。「偉大な先代の眠る陵のすぐ近くにこのような巨大な山(?)を築くとはなんという無礼。祟られても知らないぞ。」と。

 現代でも「言霊信仰」や「祟り」という日本古来の考え方は日本人の心の中(又はDA)に浸透していている。この「言霊信仰」や「祟り」は
「八百万の神」などと言われるように日本の神道などもアニミズム的な思想的背景を持ち、森羅万象に神を見る縄文時代以前から発生した原始的な考え方から枝別れした日本人が持つ一種の宗教観(*宗教に代わる言葉が見いだせないので敢えて書かせて頂いた)の一つで、言霊に関して言えば結婚式や葬式には言ってはいけない言葉(忌み言葉)は、霊というものがあるかないかではなく、多くの日本人が今でも信じているものである。例えば明日は運動会だということでみんなで準備に盛り上がっているときに、誰かが「明日は雨が降るだろう」といったとする。その時は、せっかくみんなが楽しみにしているのに水を差すいやなことを言う奴だ、という程度のものかもしれない。ところが、翌日本当に土砂降りの雨が思いがけなく降ったりすると、「おまえがあんな事を言ったからこんな天気になった」と冗談まじりにでも非難する者が大体出てくる。全く因果関係がないことなのに我々の心の中では、「誰かが縁起でもないことを言ったからそれが現実のものとなった」という思考回路が自動的に働いてしまう。
 「祟り」は神仏や霊魂などの超自然的存在が人間に災いを与えることで、後に祟りの対象が非業の最期を遂げた特定人物を対象に「怨霊信仰」と転化する。ただ日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り」が転訛したものといわれる。流行り病い、飢饉、天災、その他の災厄そのものが神の顕現であり、それを畏れ鎮めて封印し、祀り上げたものが神社祭祀の始まりとの説がある。ちなみにこの「怨霊信仰」は通説において、平安時代以降に成立したものと言われているが、古代日本のアニミズム信仰から神道への成り立ちを考えると「祟り」は遥か昔、縄文時代以前から日本人の中にあったものである。今でも「○○様の祟りだ」とか諺にも「触らぬ神に祟りなし」とちゃんとこの信仰は日本の土壌に根付いている。
 このように科学が進歩した現代でもこのような言霊信仰や祟りは生活の中に入り込んでいて、ましてや時代は6世紀。政治と祭祀が分離していない政治学的に未熟な時代においては言霊信仰や祟りを恐れる考え方は現代よりも遥かに顕著ではなかっただろうか。
 

 
前章において(獲)加多支鹵大王は女性であると述べた。
 またこの女王は3世紀の耶馬壱国の卑弥呼とその政治的なスタンスが同じではないかと考えた。実際の政務全般は実弟が行う卑弥呼に対して、(獲)加多支鹵大王には近い親族である乎獲居臣が行う。祭祀面でいうと魏志倭人伝では卑弥呼は
鬼道に事(つか)へ、能(よ)く衆を惑わす、つまり呪術(占いか)を行い、民衆を従わせるカリスマ性のある存在だったに対して、最初(獲)加多支鹵大王にも同じ能力があったかどうかの確証がなく、課題事項であった。しかし最近実はこの武蔵の女王も祭祀的な能力があったのではないかと思える事項を発見したので報告する。
 まず埋葬や祭祀の儀式が行われたのではないかと思われる「造出し」についてだ。この造り出しの性格については埋葬主体説、祭壇説などがあるが、後者が有力と思われる。造り出しはこの世における死者の霊の依代となる家形埴輪を置き、その霊に供物を捧げ、奉仕する儀礼がおこなわれる神聖な場であった。また、その行為を周囲の人々に見せるようになったために出現したと考えられる。造り出しの埴輪配列は古墳時代の葬送儀礼を考える上で重要な情報を与えてくれるものと考えられる。なにより古代日本人にとって祭祀とは「神や祖先を祭ること、儀式」であり、大型祭祀施設である古墳はなにより祖先崇拝の一大モニュメントであった。
 その古墳において神聖の場である「造出し」がこの埼玉古墳群のほとんどの古墳(愛宕山古墳は造出しがないといわれているが本格的な発掘調査をしていない現在詳細は不明で、今は何とも言えない)、そして全て同じ方角に存在するということは非常に重要だ。
 

 
埼玉古墳群の南東には小埼沼がある。現在は広い田畑の一角にポツンと樹木が生い茂り、その中に「武蔵小埼沼」と彫られた石碑があるだけだが、かつて『万葉集』に詠まれ、利根川と荒川の氾濫によって水路が発達し、船着場があったであろうと推測され、弥生、古墳時代の37世紀頃までは十分に陸地化されず、現在の東京都心部は武蔵野台地付近以外は内海の一部ではなかったかと考えられる。
 この地には今では小さな祠の宇賀神社がポツンと鎮座しているが、当社の創始についての言い伝えに、
 「いつのころかこの村に、おさきという娘がいた。ある時おさきが、かんざしを沼に落とし、これを拾おうとして葦で目を突いたあげく、沼にはまって死んでしまったため、村人たちは、おさきの霊を小祠に祀った」
 「おさきという娘が、ある年日照りが続き百姓が嘆くのを見て、雨を願い自ら沼に身を投じたところ、にわかに雨が降り地を潤し百姓たちはおおいに助かり、石祠を立て霊を祀った」
とあり、このことから見て当初は霊力の強い神霊を祀ったものが時代が下がるに従いこの地が水田地帯であるところから農耕神としての稲荷信仰と神使のミサキ狐の信仰が習合し現在の祭神宇賀御魂神が祀られたと考えられる。
 この「当初は霊力の強い神霊を祭ったもの」とは一体何であろうか。宇賀神社の言い伝え
にはおさきという女性が自らを犠牲にして神に生贄を捧げて祈願したという人柱の伝説であろう。この言い伝えも尾ひれがついて今に至ったとみることができ、本来の伝承とは違った形で伝承されたものではないだろうか。

 

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埼玉古墳群の謎(11)(獲)加多支鹵大王とは


                    埼玉古墳群最大の古墳二子山古墳の案内板
二子山古墳は前方後円墳(仁徳陵型の設計)。6世紀前半に築造されたと推定されている。周濠は台形で二重、内堀は復元。 主軸長 138m  後円部径 70m 高さ 13.0m  前方部幅 90m 高さ 14.9m。武蔵国(埼玉・東京・神奈川の一部)最大の前方後円墳だ。この古墳の周濠から円筒埴輪が大量に出土したが、それらは鴻巣市の生出塚窯(おいねつか)と東松山市の桜山埴輪窯で製造されたものだという。寄居町末野遺跡からさきたま古墳群の中の山古墳で使われている埴輪もここから供給されていたことが分かっており、平和時の文化交流なのか、埼玉古墳群の王権の勢力範囲なのか意見が分かれるところだ。

 さて稲荷山古墳に話は戻るが、この古墳出土の鉄剣には色々なヒントが隠されている。そのヒントの鍵を握る人物は乎獲居臣ではなく、実は(獲)加多支鹵大王なのではないだろうか。通説では(獲)加多支鹵大王は大和政権の雄略天皇と言われてきた。しかし、今までの考察の過程の中でこの埼玉古墳群の被葬者たちは大和政権とは全く関係のない、一地方豪族ではないかという、結論に達した。そして乎獲居臣が仕えた(獲)加多支鹵大王にはもっと奥の深い真相が隠されている、という事実を発見してしまった。そしてそのヒントはこの稲荷山古墳の経文鉄剣にハッキリと記されている。

其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

 ここで問題を提起したい一文とはこの「左治天下」の部分だ。この「左治天下」の基本的な解釈として天下を治めることを補佐するという意味であるのが一般的であるし、その解釈自体には異論はない。ただ「左治天下」の言葉を用いるに至った直接の原因はどのような経緯だったかについて考察してみると、ここには興味深い“裏の歴史”を知ることとなる。
 この「左治天下」の四文字は明らかにはこの銘文製造に携わった人たちのオリジナルである。漢字を使用している文化圏で5,6世紀以前にこの「佐治天下」を使用した歴史書は全くないからだ。但しこの四文字を「佐治」+「天下」と分けると状況はガラリと変わってくる。まず「佐治」に関していうと、原本は他にある。中国の歴史書で3世紀後半に陳寿が書いた「三国志」である。
この三国志では、魏書第30巻烏丸鮮卑 東夷伝倭人条、略して魏志倭人伝の中の一文にこのように記述されている。
 
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐暦年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居処宮室楼観城柵嚴設常有人持兵守衛
 ここでは全文の解釈はあえて省くが、邪馬(壱)国の女王である卑弥呼の男弟が卑弥呼に代わって政治を行っていて、それに対して「佐治」という表現方法が初めて使われていて、稲荷山鉄剣の経文の真の原本がここに存在する。
 それに対して「天下」は古代中国ではその地の皇帝が主宰し、一定の普遍的な秩序原理に支配されている空間であり、下の中心にあるのが中国王朝の直接支配する地域で、「夏」「華」「中夏」「中華」「中国」などと呼ばれる。その周囲には「四方」「夷」などといった中国王朝とは区別される地域があるが、これらの地域もいずれは中国の皇帝の主宰する秩序原理に組み入れられる存在として認識されていた。俗にいう「中華思想」である。
 日本では中国王朝に対して倭国王または倭王と称していたが、国内に対しては少なくとも古墳時代には「治天地」という言葉が使用されているように、倭国の内では「中国世界とは異なる独自の小規模の天下」概念が発生していたと思われる。つまり埼玉地方という一地方の中の「天下」の概念がそこには存在していたことになる。
 つまりこの「佐治」そして「天下」の一文の意味を理解していた知識人が武蔵国埼玉の地にいて、それを参考にして経文鉄剣の「佐治+天下」という四文字を経文の中に入れたと考える。
 「佐治」の当事者「乎獲居臣」に対して、「佐治」を受ける「(獲)加多支鹵大王」の関係はいかなるものか。魏志倭人伝での卑弥呼とその男弟との関係が類似していたからこそ、鉄剣の経文に「佐治天下」と明記したわけであるから、まず最初に魏志倭人伝の卑弥呼がどのように記載されていたかを考えればいい。

・ 魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の年はすでに壮年期をすでに過ぎて結婚もしていなかったようだ。
卑弥呼すでに長大夫婿(ふせい)なく
・ 呪術(占いか)を行い、多くの人がその占いを信じていた。
鬼道に事(つか)へ、能(よ)く衆を惑わす
・ 女王となってから彼女を見た者は少なく、1000人の女を召使いとして近侍させている。ただ男が一人だけいて、飲食を給仕し、彼女の命令を伝えるため居所に出入りをしていた。
(王となりしより以来、見るある者少なく、卑千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入りす。)
・ 卑弥呼は一族の共立によって擁立された。そして卑弥呼の死後もその一族は継続して統治していた。
(乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼といふ。中略、卑弥呼の宗女壱与(いよ)年十三なるを立てて王となし)

 卑弥呼の時代と、稲荷山古墳の被葬者には、約2世紀の隔たりがある。卑弥呼が生きていた時代は弥生時代後期から終末期であり、埼玉古墳群は古墳時代の中期から後期にあたり、古墳時代一概には政治形態や時代状況等相違する点は考慮しなければならない。
 通説によれば、弥生時代後期から古墳時代の歴史的な推移を一言でいうと小規模な殻を形成するな地域国家から現在でいう都道府県単位の大規模な単位の殻とする初期国家を形成していった時代と言われる。共同生活社会が「むら」から「くに」へ発展していき、地域の豪族たちが連合でつくった国が5世紀頃に九州地方から東北地方南部まで支配していった強制力のない緩やかな連合国家というイメージがそこにはある。
 また弥生時代からの小区画水田は依然として作り続けられているが、古墳時代の水田は東西・南北を軸線にして長方形の大型水田が、一部の地域に出現するようになり、水田耕作の技術の向上もこの時期に見られる。
 弥生時代と古墳時代の大きな相違点は勿論古墳だ。弥生時代は初期においては支石墓、甕棺墓、石棺墓等規模の小さい墓が主流だったが、時代が下るにつれ大型集落が小型集落を従え、集落内で首長層が力を持ってきたと考えられて、首長層は墳丘墓に葬られるようになった。このことは身分差の出現を意味する。弥生時代後期になると墓制の地域差が顕著となっていく。 近畿周辺では方形低墳丘墓がつくられ、山陰(出雲)から北陸にかけては四隅突出墳丘墓が、瀬戸内地方では大型墳丘墓がそれぞれ営まれた。それでも35m~80mの規模であり、大型古墳が出現する時代への基本形ともいわれている。
 古墳時代は文字通り古墳の築造が盛んに行われた時代であり、各地域が挙って地域特有の古墳を築造し、勢力を誇示した時代と言われている。特に古墳時代中期は飛躍的に墳丘が大型化した時代で、巨大な前方後円墳が 数多く造られるようになり、畿内堺市の大山古墳や大阪府羽曳野市誉田にある誉田山古墳は全長400mを超える大古墳であり、この地域に大きな勢力が存在していたことが窺える。一方他地域に目を転じると、岡山県には全長360mの造山古墳、286mの作山古墳を始め、群馬県太田市にある全長210mの太田天神山古墳や宮崎県西都市の全長178mの女狭穂塚古墳等、畿内地方と遜色ない規模を有する古墳も登場している。
 さらに国単位の規模、古墳の大型化もさることながら、古墳時代の4,5世紀には中国、朝鮮半島との交易(もしくは戦争)によって中国側から儒教、漢字や仏教が、また朝鮮半島からは鉄、須恵器や土師器等の文化の伝来もあり、このことから200年の時代の推移は国内の集権化と外来文化の吸収によって生活上の利便性も上がった時代でもあった。

 さてこのような時代状況の違いを前置きを致したうえで「佐治」について考えてみたい。魏志倭人伝では女王である卑弥呼が邪馬台(壱)国の盟主としてトップとして君臨しているが、その実質は男弟が政務全般を取り仕切り、ナンバーツーとして祭礼以外の諸事を纏めていて、これを三国志の著者である陳寿は「佐治」と認識して記述しているし、稲荷山鉄剣経文を手掛けた埼玉の知識人の共通の常識だったと考えられる。
 

 つまり、「佐治天下」の受け手側である(獲)加多支鹵大王は実は
女性の王者であることだ。またこの女王は独身者である、ということも。少なくとも魏志倭人伝に唯一ある「佐治」の解釈から稲荷山鉄剣経文の意味を素直に読むと、自然とこのような結論に至る。勿論完全に卑弥呼の時代と稲荷山古墳の経文鉄剣の時代において主要人物の完全な合致があったとは思えない。些細な齟齬等はあったはずである。(例えば卑弥呼の男弟に対して、稲荷山古墳の乎獲居臣が(獲)加多支鹵大王の実弟であったかどうか。卑弥呼が鬼道に仕えていた事項と、(獲)加多支鹵大王も同じ能力があったかどうか)大略において両方とも似たような環境だった、という前提条件の合致があったから、少なくとも稲荷山古墳の経文鉄剣の時代に「佐治」を使用したと考えるほうが自然である。
 次に乎獲居臣と女王である(獲)加多支鹵大王との関係はどうであったか。少なくとも乎獲居臣は金錯銘鉄剣を下賜された実績と名声を兼ね揃えた埼玉地方、いや関東地方でも隋一の実力者だ。当時の時代状況から考えると、まず埼玉古墳群の被葬者の近親者であることは間違いない。ならば二つの選択が考えられる。
① (獲)加多支鹵大王の父である前代の王の母方の親族、もしくは腹違いの兄弟の母方の親族。
② (獲)加多支鹵大王の兄弟の奥方の親族。

 ①、②どちらの場合でも、共通している点は埼玉古墳群の被葬者を支える有力豪族の氏のリーダーも兼ねる、という点である。埼玉古墳群が築造された5,6世紀は大和において
政権の豪族層は、氏(ウジ)と呼ばれる組織を形成していた。ウジの組織は5世紀末以降多くの史料から確認できる。広範に整備されるのは6世紀のことである。ウジは血縁関係ないし血縁意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団であったが、同時にヤマト政権の政治組織という性格をもっていたという。ウジは、大王との間に隷属・奉仕の関係を結び、それを前提にして氏のリーダーは大和政権における一定の政治的地位や官職・職務に就く資格と、それを世襲する権利を与えられた。またその出自や政治的地位・官職の高下・職務内容の違いに応じて姓(カバネ)を賜与され、部民(べみん)の管掌を認められたのである。
 つまり乎獲居臣も、トモとしての「杖刀人」集団を率いる伴造であったと考えるのは妥当なところだ。

 そして女王である(獲)加多支鹵大王が埋葬された古墳こそ武蔵国内最大であり、埼玉古墳群の中央に位置する二子山古墳
なのだ。ズバリ言うが埼玉古墳群はこの二子山古墳を守るため造られた古墳群であり、その為だけに約150年間延々と築造されてきた。

 ただこの二子山古墳は大きさは138mで全国的にも中型古墳に属する。大きさも日本全国では97位。関東地方においてでも17位と何故か中途半端な大きさだ。埼玉古墳群の大王は生前から陵墓を築造し、その築造する際に関東地方近郊の大型古墳を参考、模擬し、より見栄えの良い古墳を造ったのではないか、という仮説を立てたのに対して、実際は見栄えを良くするどころかあまりも平凡な規模であり、また古墳一面には葺石もない、何となく殺風景な古墳である。

 しかしこの二子山古墳築造には大きな裏があり、それは丸墓山古墳としっかりリンクする。表向きにはだれも解らないように、巧妙に、である。

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長浜久保皇大神社及び長浜丹生神社

 武蔵国賀美郡は式内社が4座あったというが、その中の長浜地区の小さなエリアには式内社と比定されている論社が2社存在している。長幡部神社と皇大神社である。この2社は神流川に沿って南北に鎮座していて、元々は神流川を神として祀っていた社なのではないかと考えられられる。というのも皇大神社が鎮座する長浜字久保の「久保」は「窪」が原語であると考えられ、蛇行していた神流川の曲がりくねった跡が窪地となり、後代その地に人々が暮らしていく過程でその地域の特徴である「窪」が「久保」と改名されたと現時点では筆者は推測する。
所在地   埼玉県児玉郡上里町長浜494
御祭神   大日女貴命(天照皇大御神)
社  挌   旧村社
例  祭   10月19日 秋祭り  3月19日 例大祭

        
 長浜久保皇大神社は、埼玉県児玉郡上里町と神川町との境である長浜地区久保に鎮座している。非常に狭くコンパクトに纏まった社という印象。駐車スペースはあるにはあるが、神社の境内にある集会所の手前にあり、そこに停めると後々写真撮影時に困ったことになるので、社殿とそこに沿ってある道路の間に多少のスペースがあるのでそこに駐車して参拝を行った。
  
  元々は神明社と呼称していた。かつては当地に稲荷社(一説にはこの稲荷社こそ式内社とも言う)が祀られていたというが、いつのころか長幡部神社(式内社)に合祀され、その後に神明社が祀られ、明治期に皇大神社となったという。
 当社も明治41年に長幡部神社(式内社)に合祀されたが、社殿等はそのまま残され、大東亜戦争後に当地に遷座され皇大神社として復したという。

                     
                            長浜久保皇大神社社殿
            
                              社殿内部
 上里町長浜にはこの皇大神社と同名の社が近隣に鎮座しているが、久保の皇大神社が街道沿いにある関係から式内社の論社と思われるが確信はない。武蔵国にあって北部賀美郡の式内社の比定が非常に難しいのは、過去度々発生した自然災害による社の消滅や古文書の紛失、または社自体の移動、それに後世の執拗に合祀を繰り返した結果ではないかと考えられる。
           
                            境内にある境内社



丹生神社
所在地    埼玉県児玉郡上里町長浜1294
御祭神    埴山比売神 少名彦命 菅原道真
社  挌    無各社
例  祭    3月19日(近くの日曜日) 春祭り
                
 丹生神社は長幡部神社の西側約500mの場所に鎮座していて、目の前には神流川の土手が見える。案内板から明治41年長幡部神社の境内社に移転したが、昭和22年近隣の氏子の希望により旧地のこの場所に遷されたという。
 
      社殿の手前右側にある案内板                     社    殿
           
                         社殿の右側にある境内社
境内社というよりもその手前にある石段に注目した。どう見ても古墳の石棺にしか見えない。上里町では、古墳時代の人が住んだ住居跡や村が発見されている。特に古墳時代後半の6世紀の村の跡(集落跡)が見つかっていて、このほかにも、帯刀や神保原・長浜・七本木・大御堂には、豪族の墓である古墳が数多く造られている。この石段も嘗てあった古墳の名残りだったのだろうか。


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長幡部神社

 長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は,JR八高線群馬藤岡駅の東南東約2.5kmの田園地帯の中に鎮座する。
創立年は不詳。「延喜式」所載の武蔵国賀美郡の「長幡部神社」だと考えられているが,天正年間(1573-1591)の兵火によって古記録が失われている。伝承では,神流川の洪水のため天永年間(1110-1112)に現在地に遷したという。
 祭神の天羽槌雄命は機織の神である。昭和初期まで「丹生様」「長幡五社宮」などとも呼ばれていた。
所在地   埼玉県児玉郡上里町長浜1370
御祭神   天羽槌雄命 埴山姫命、『巡礼旧神祠記』岡象女命
        『武藏国式内四十四座神社命附』姫大神、『神社覈録』比咩大神、『地理志料』大根王
社  挌   延喜内式内社 旧村社
例  祭   10月19日 例大祭

      
 長幡部神社は当初は神流川沿岸の西的場に鎮座していたという。藤武橋の東詰下流の、水天宮と刻まれた石碑が旧地との説もある。平安期の洪水(1110年)で社地が流失し現在地に遷座した。天正年間に滝川一益の戦乱の際に兵火にかかり、社殿及び古文書のことごとくを焼失した。
           
                        長幡部神社正面鳥居
 この社は神流川西岸に鎮座している。神流川は群馬県及び埼玉県を流れる利根川水系烏川の第2支流であり一般河川である。群馬・長野・埼玉3県の県境、三国山に源を発し、流域面積407.0km2、幹線流路延長87.4km、平均河床勾配は1/20と、利根川上流の支川の中では比較的急峻である。神流川流域は群馬県の南西部に位置し、狭隘な地形を縫うように流下する神流川に沿って集落が点在している。流域には関東一の鍾乳洞である不二洞、太古の恐竜の足跡の化石、三波石峡など観光資源が多い。
 神流川という名前も神秘的な名だ。武蔵20余郡の北の果て、「上」の国から流れる川の意と言われ、昔は感納川、甘奈川ともかかれることがあるそうだ。神(カム)の川という意味で、古くはカミノ川と呼ばれ、やがて神名川と変わり、そして、字が変化して神流川になったといわれている。

        鳥居の左側にある案内板                  右側にある社号標石 
長幡部神社    上里町大字長浜字長幡前1370
神流川流域に位置する古代の賀美郡内には、『延喜式』神明帳に登載されている神社として、当社「長幡部神社」と「今城青坂稲実神社」「今木青坂稲実荒御魂神社」「今城青八坂池上神社」の四社がある。これらは、いずれもこの地に進出してきた渡来系氏族が奉斎した神社として考えられている。長幡部は機織りの技術を持った集団が祀った神社を社名で表したと考えられる。
            
                            覆堂形式の社殿
            
                              内部撮影
 祭神は,大根命,姫大神,罔象女命の三説がある。昭和初期まで「丹生様」「長幡五社宮」などとも呼ばれていた。なお,当社を「延喜式」の今城青八坂稻實神社〈いまきあをやさかいなみのじんじゃ〉に比定する説,今城青八坂稻實荒御魂神社〈いまきあをやさかいなみあらみたまのじんじゃ〉に比定する説,今城青坂稻實池上神社〈いまきあをさかいなみのいけがみのじんじゃ〉に比定する説がある。いずれも同じ武蔵国賀美郡の神社である。現在の祭神は,天羽槌雄命,埴山姫命,菅原道真,倉稲魂命,建御名方命,大日孁貴命である。
            
                           境内社 稲荷社等
     大正二年(1913)に稲荷神社(海老ケ窪),諏訪神社(中長),皇大神社(柳町)を合祀した。

 長幡部神社を含む賀美郡の4座はいづれも渡来系氏族によって信仰されたものと思われる。この社名の長幡部は紡織集団(幡部)を示し、他の3座の今城は稲作集団を示していると思われる。
 この帰化系氏族集団の一つ「東漢氏」は、「記紀」によると応神天皇の20年(289年と言われている)9月に渡来したと記されている。

「倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り」

 
また『新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・ 高)およびその子孫、桑原氏、佐太氏等を連れてきたとある。「坂上系図」は『新撰姓氏録』第23巻を引用し、七姓について以下のように説明している。
 
 誉田天皇
諡応神の御世、本国の乱を避けて、母並びに妻子、母弟・遷興徳、七姓の漢人等を率ゐて帰化す。七姓は第一段古記、段光公字畠等、一に云ふ員姓是、高向村主、高向史、高向調使、評首、民使主首等の祖なり。次に李姓。是、刑部史の祖なり。次に皂郭姓。是、坂合部首、佐大首等の祖なり。次に朱姓。是、小市佐、秦、宜等の祖なり。次に多姓。是、檜前調使等の祖なり。次に皀姓。是、大和国宇太郡佐波多村主長幡部等の祖なり。次に高姓。是、檜前村主の祖なり。

 桧前(ひのくま)氏は『続日本紀』光仁条は、東漢の後裔である坂上苅田麻呂の奏上をこう記されている。
 「檜前忌寸(いみき)の一族をもって、大和国高市(たけち)郡の郡司に任命しているそもそもの由来は、彼らの先祖の阿知使主(あちのおみ)が、軽嶋豊明宮に天下を治められた応神天皇の御世に、朝鮮から17県の人民を率いて帰化し、天皇の詔があって、高市郡檜前村の地を賜り居を定めたことによります。およそ高市郡内には檜前忌寸の一族と17県の人民が全土いたるところに居住しており・・・」
 

 檜前舎人や檜前君を称した人々は、後の史からみて上総(かずさ)国 海郡や上野(こうずけ)国 佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国に点定している。
 例えば武蔵国賀美郡 の檜前舎人直 中加麿の存在がそれを物語る。賀美郡の対岸 利根川に面して上野国 佐位郡(現伊勢崎市)があり、上野国那波郡の檜前公は、後に上毛野 朝臣(かみつけの あそん)になったことが確認され、佐位郡の檜前君老刀自も、上毛野一族となったことがわかる。またそのとなり那波郡に一例の檜前氏が確認できるので、檜前氏はこの北武蔵に一大根拠地を持っていたことになる。

 東京都浅草にはあの有名な金龍山浅草寺(せんそうじ)があるがすぐ隣には浅草神社が鎮座している。この浅草神社の御祭神は土師真中知(はじのあたいなかとも]、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)で、この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになったという。合祀で徳川家康、大国主命を祀っている。社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。ただこの伝承はかなりの無理があるように見え、仏教普及の方便として流布したものと考えられる。
 では事実はいかなる経緯があったのだろうか。ヒントは土師氏と桧前氏だ。土師氏は有名な野見宿禰の後裔とされ出雲臣系である(天穂日命→建比良鳥命→野見宿禰)し、桧前氏は続日本後紀では武蔵国の「桧前舎人」は土師氏と祖を同じくしとある。檜熊浜成と武成も桧前氏と同族かもしれないし、土師真中知とも同族、もしくはかなり近い親戚関係であった可能性が高い。つまりこの浅草神社の伝承からある時期土師氏と桧前氏は同族関係にあったと推測される。

 長幡部に関して文献上の長幡部氏には、皇別氏族と渡来系氏族が見られる。『新撰姓氏録』逸文の阿智王条では、長幡部の祖は帰化した「七姓漢人」のうち皀(こう)姓で、末裔に佐波多村主(さはたのすぐり)がいると記されている。また皇別氏族として『古事記』開化天皇段によれば、日子坐王(開化天皇第3皇子)の子・神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖とし、(三野国之本巣国造・長幡部連之祖)つまり美濃の本巣国造と同族であるという。
 常陸国、現茨城県常陸太田市に同名の長幡部神社が鎮座している。式内社で、旧社格は郷社。御祭神は綺日女命(かむはたひめのみこと)、多弖命(たてのみこと)。当社の創建について、『常陸国風土記』久慈郡条には「長幡部の社」に関する記事が載る。これによると、珠売美万命(すめみまのみこと)が天から降臨した際に綺日女命が従い、日向から美濃に至ったという。そして崇神天皇の御世に長幡部の遠祖・多弖命が美濃から久慈に遷り、機殿を建てて初めて織ったと伝えている。、『常陸国風土記』の記述からは皇別氏族として長幡部の由緒が記されていて、渡来系の逸話が見えてこない。

 賀美郡の長幡部神社は元々は渡来系氏族である長幡部氏が桧前氏と共に賀美郡に移住し、その地域の守護神として祀った社であろう。御祭神の天羽槌雄命や罔象女神 、埴安姫命等はその系統に入ると思われる。しかしある時期、少なくも天正年間に滝川一益の戦乱の際に兵火にかかり、社殿及び古文書のことごとくを焼失した1582年以降に茨城県常陸太田市の長幡部神社が賀美郡に同名の社を造ったのではないだろうか。この祭神の姫大神は綺日女命とも言われていて、また大根王は多弖命との説(多弖命の文字が、多尼命の誤字で、「おおね」に通じる)もある。常陸国長幡部神社の平成祭データには以下の記述がある。

 長幡とは絁の名にて之れを織作るものを長幡部と云い、以前の倭文織よりも美しく丈夫であったので、後に及ぶまで神調として奉った。即ち御祭神の子孫がその遠祖を祭ったのが当社である。今関東一円に広がる名声高き機業は実にわが御祭神の流れを伝えるものと云えます。

 ここではハッキリと倭文織と織り方の区別がされて、関東一円の織物の源流がこの常陸国長幡部にあることが記されている。上記の真偽の程はともかく、織物の伝播とともに長幡部という名前もその御祭神もこの地に移った可能性もあるのではないだろうか。
 

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五明天神社

 五明天神社は上里サービスエリアの南西側に鎮座している。
 「いまき」が「今来」で新米の者、つまり渡来系氏族をあらわし、渡来系氏族が当地に高度な稲作技術を導入し「稲魂」をまつる神社を建立したのが「稲実」であろうとされている。御神体である神代石(高さ67cm、太さ13.5cmの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれているという。
所在地   埼玉県児玉郡上里町五明871
御祭神   稚産靈神 豊宇気毘売神 大山祇命 日本武尊
社  挌   旧指定村社
例  祭   10月19日 秋祭り

       
 創立年代不明。旧社格は村社。從來村の鎭守にして當村内大輻寺持なりしを、維新の際、神職の受持となり、往古より圓形の神代石に古文を以て刻したる者傳來し居りしが、文學に疎く之を解する事を得ざりしが、今日に至り漸く延喜式内今城青坂稲實神社と明瞭し、且亦境内を今城林と云ひ傳來りしを、天正年中(1573~92)神流川合戦の際瀧川一益此地に陣を転し、大に勝利ありしを以て転陣林と称し來たれり。
                                                   昭和27年神社明細帳
             
                           正面一の鳥居
 
 一の鳥居から真っ直ぐ参道を進むと五明集会所があり、そこを左に90度曲がると二の鳥居がある(写真左)。その二の鳥居の向かって右側に案内板(同右)がある。

天神社  所在地 児玉郡上里町五明871
 天神社の祭神は稚産霊神、豊受氣毘売神、大山祇命、日本武尊の四神である。
 当社の創立年代は不明であるが、延喜5年(905)に藤原時平らが勅を受けて編集した廷喜式神明帳に載る賀美郡(児玉郡)四社の一つ今城青八坂稲実神社であると伝えられているので、かなり古い社であると思われる。なお、御神体である神代石(高さ67cm、太さ約13.5cmの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれている。
 現在ある社殿は享保7年(1722)の再建で、天保年間(1830~44に書かれた中岩満次郎道純の祈願書が残されている。
 明治10年に白山神社を、同42年に丹生神社を若宮より遷し合祀した。
 また、境内神社として諏訪神社、稲荷神社、八坂神社、市杵島神社が祀られている。
 なお、当社には神楽が伝承されていたが、現在は中断されている。
 昭和60年3月 埼玉県 上里町
                                                        案内板より引用
          
 現在の境内は決して広くはないが一の鳥居から集会所までにある程度の空間もあり、往時はかなりの大きな社だったろうと推測できる。また社全体が綺麗に整備もされ、参拝の時期も新緑が広がる季節でもあってゆっくり参拝を楽しむことができた。居心地の良い雰囲気の社。

             
       参道の途中右側には貴船大神、大己貴命、素戔嗚命、国嶽霊神等の石碑群が並ぶ。
          
                             拝    殿
            
                         本殿裏には丹生社あり。 

       社殿手前左側には神楽殿                 社殿の右側には境内社
                               諏訪神社・稲荷神社・八坂神社・市杵島神社等が並ぶ。

 『明細帳』に「創立不詳、本社ハ延喜式内当国四十四座ノ一ニシテ今城青八坂稲実神社ナリト云伝フ」
と載せられている。また、当社に伝わる文書から、天保三年(1832)に上州新田郡の岩松満次郎が、同家の家紋である中黒紋の付いた幕と高張提灯を今城青八坂稲実大明神(当社)に寄付したことが知られる。今城青八坂稲実神社の社名は、稲霊を賛美した名称で、稲作信仰に基づくものであるとされる。ただし、児玉郡内には式内社の今城青八坂稲実神社に比定される神社が当社を含めて六社あり、定かでない。
 『風土記稿』五明村の項には、「丹生社・天神社 以上ニ社を村の鎮守とす、大福寺持なり」とある。
 明治初年の神仏分離により大福寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。また、明治四十一年には丹生社を合祀した。
                                           埼玉の神社・埼玉県神社庁より引用

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