表稲荷神社
養父が主君・上杉定正に殺害された後も扇谷上杉氏に仕え、永正の乱で敗れた成田顕泰に替わって岩槻城主になったとされる。ただし、資家の拠点は河越付近であり、岩槻城に入ったのは古河公方家臣の渋江氏や別の系統の太田氏(道灌子孫)とする説もあり、その場合資家の系統が岩槻城主となるのは次代の資頼からとする見方もある。
養父ゆかりの武蔵国比企郡表地域に「養竹院」を建立して養父の冥福を祈っている。表稲荷神社は養竹院の鬼門除けとして奉斎され、後に表村の鎮守として祀られ、鰐口も奉納されるなど信仰を集めたという。
・所在地 埼玉県比企郡川島町表20
・ご祭神 稲荷神(推定)
・社 格 旧表村鎮守 旧村社
・例祭等 不明
牛ヶ谷戸諏訪社沿いに通る県道74号線を南下し、「山ヶ谷戸」交差点のY字路を右方向に進む。埼玉県道12号川越栗橋線合流後「ホンダエアポート」との看板のある手押し信号付き十字路を左折し、170m程進んだT字路をまた左方向に進む。住宅地が周囲を囲むその道路の突当たりに表稲荷神社がひっそりと鎮座している。
表稲荷神社正面
杉林の社叢林に包まれてひっそりと鎮座する社
『日本歴史地名大系』 「表村」の解説
山ヶ谷戸村の南に位置し、集落は自然堤防上に発達。地内には養竹院・広徳寺などの古刹がある。中世には三尾谷郷のうちであったと思われ、「風土記稿」によると天正一九年(一五九一)養竹院に高一〇石の朱印地が与えられた際、朱印状には「三保谷郷ノ内十石」とあったという。近世にも三保谷郷九ヵ村の一。田園簿では田高九七石余・畑高三六石余・野高一五石余、川越藩領。ほかに養竹院領高一〇石・光徳(広徳)寺領高五石。
境内は決して広くはないが、日々の手入れはされているようだ。
『新編武蔵風土記稿 表村』
稻荷社 村の鎭守なり、古棟札二枚あり、一は天文廿三年二月九日とあり、一は天正十一年癸未卯月廿一日と記し、施主等の名あまた載せたり、小社といへども古き勸請なること知べし、
稲荷神社 川島町表二〇(表字道内)
杉林に包まれてひっそりと鎮座する当社は、社記によれば、天文十一年(一五四二)四月二十一日に下総国成田(現千葉県成田市)の住人某が、常陸国(現茨城県)筑波山麓にある某稲荷大神の分霊を持ち来り、養竹院の東北隅に祀ったことに始まるという。その後、天正十一年(一五八三)四月二十一日に、現在の境内地に移され、養竹院の鬼門除けの神として奉斎されてきた。
更に、宝永八年(一七一一)三月三日には草葺の覆屋が造立され、次いで天保二年(一八三一)三月には拝殿が再建されるなど、次第に設備も整い、諸願成就の神として、多くの人々からも信仰されるようになっていった。『風土記稿』に、「稲荷社村の鎮守なり、古棟札二枚あり、一は天文廿三年(一五五四)二月九日とあり、一は天正十一年癸未卯月廿一日と記し、施主などの名あまた載せたり、小社といへども古き勧請なること知べし」とあるのも、そのように信仰が盛んになっていったことの表れであろう。
神仏分離の後は、養竹院との関係はなくなったが、村社として、住民からは前にも増して厚く信仰されるようになった。しかし、社殿の老朽化が激しくなったため、昭和二十三年には境内の樹木を伐採し、拝殿と幣殿を改築した。そのため、一時は、樹木が少なく、寂しい境内になっていたが、氏子の植樹の成果が実り、杜が復興しつつある。
「埼玉の神社」より引用
拝 殿
表稲荷神社の南西で直線距離にして100m程には禅宗臨済派の寺院である養竹院(ようちくいん)がある。寺伝によれば、太田道灌の甥で養子となっていた岩付城の太田資家が明応年間に養父の追福のために別の伯父である円覚寺前住職の叔悦禅懌(道灌の実弟にあたる)を開山に迎えて道灌の陣屋跡に建立したと伝えられている。また、院名は開基である資家の法名に由来するとされ、資家及びその嫡男資頼の墓も同院にある。
境内の一風景
表村 養竹院 禪宗臨濟派、鐮倉圓覺寺末、常樂山と號す、天正十九年十一月寺領の御朱印を賜ふ、其文に三保谷鄕の內十石とあり、寺傳に云、當寺の境內は古へ太田備中守資長入道道灌の陣屋なり、其子信濃守資家明應の頃、父道灌追福のため、伯父叔悅禪師を開山として建立すと、禪師は天文四年七月十六日示寂す、開基資家は大永二年正月十六日卒し、法名を養竹院義芳道永と號す、今の院號は資家が謚號にとりしこと知べし、今按るに此寺傳少く誤まれるにや、信濃守資家は道灌が子にあらで姪なり、又此資家が法謚を以て院名にとれば、恐くは資家が菩提の爲に建しなるべし、今本尊藥師を本堂に安じ、傍に太田氏の位牌ををき、資淸以來六人の法謚命日を記す、自得院殿實慶道眞庵主、□□□二月朔日、太田備中守資淸、香月院殿春苑道灌庵主、文明十八年丙午七月二十六日、同左衞門太夫資長、養竹院殿義芳道永庵主、大永二年壬午正月十六日、同信濃守資家、壽仙院殿智樂道可庵主、天文五年丙午四月廿日、同美濃守資賴、智正院殿嶽雲道端庵主天正十九年卯月九月八日、同美濃守資正入道三樂齋、瑞瓊院殿靈顏道鷲庵主、寬永二十年癸未十一月十日、同安房守資武とあり、又寺傳に資武が時、家衰へ流浪して北越に赴き、夫より四代左兵衞資政がとき、河內國へ移り、今彼國に子孫ありと云、(中略)
『新編武蔵風土記稿』より引用
ただし、近年の研究では、太田資家を祖とする「岩付太田氏」が岩付城を本拠としたのは、資家没後の大永4年(1524年)の事と考えられており、養竹院周辺が資家時代から資頼時代初期(岩付城攻略まで)の同氏の拠点であった可能性が高いと考えられている。
岩付太田氏の没落後の、天正19年(1591年)に徳川家康から朱印地10石が与えられ、孫の徳川家光は寛永年間に鷹狩の際に養竹院に立ち寄って朱印地10石と境内地として1万坪を与えたとされている。開山を描いた「叔悦禅師頂相」は埼玉県の重要文化財となっている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
