古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

皆野町国神神社

 皆野町は、埼玉県の西北、秩父郡の東北に位置し、東は東秩父村に、北は長瀞町と本庄市に、南・西は秩父市にそれぞれ接している。面積は63.61km2。標高は町の中心街で海抜160m、最も高い城峯山頂で1,038mと、町の大部分は林野で占められている。四方を山々に囲まれた秩父盆地の一角に位置し、町の中央を荒川が東流し、その右岸の川岸段丘を中心に市街地が形成されている。
 皆野町の歴史は意外に古く、町の中央を流れる荒川流域に多くある遺跡の発掘調査によって、古代人の集落等が確認されたり、古墳が各地に点在することなどから、遠い時代から先住民や豪族が居住していたことがうかがえる。国の名勝・天然記念物に指定されている「紅簾片岩」の露頭などの文化財も多く、自然・歴史・文化に触れることのできる、魅力を秘めた町である
 また調べて初めて解ったことだが、、埼玉を代表する民謡「秩父音頭」発祥の地がこの皆野町で、毎年8月14日には、秩父音頭まつりが盛大に開催されている。「合歓の盆」とも呼ばれ,“流し踊りコンクール”には 皆野町内だけでなく 県内各地からの多数のグループが参加して, 多数の観客を集めているという。

 皆野町国神地区は荒川左岸に位置していて、丁度皆野町の中央部に位置し、古来から交通の要衝として多くの歴史を語る数々の遺跡がある。その荒川と日野沢川が合流する河岸段丘上に国神神社が鎮座している。
所在地    埼玉県秩父郡皆野町国神709
御祭神    大物主神 他二十社合祀
社  挌    不明
例  祭      十月十日 国神神社獅子舞 

       
 皆野国神神社は国道140号を長瀞町から皆野町方向に進み、荒川を渡り切った親鼻橋交差点を右折すると埼玉県道37号皆野両神線となり、その道を荒川沿いに進むと栗谷瀬橋側道橋を通って荒川を渡る。その道を約300m位進むと埼玉県道44号秩父児玉線に分岐する国神交差点にぶつかり、その北側角地に国神神社は鎮座する。国神交差点の脇に専用駐車場があり、そこに数台停められるスペースがあるので、そこに車を停めて参拝を行った。
           
              県道交差点にある専用駐車場から皆野国神神社正面を撮影
       
 皆野国神神社一の鳥居の先に銀杏の大木があり、黄葉の時期とも重なり、参道には銀杏の落ち葉が一面に広がっていた。近郊には「国神の大銀杏」と呼ばれる樹齢700年程の老大木があり、その大きさは埼玉県では第9位、埼玉県のイチョウでは第4位の巨木という。埼玉県の指定天然記念物をうけている。
 境内は決して広くはないが、どこか懐かしさを感じ、気持ちを落ち着かせてくれる優しい社だ。
           
                              拝    殿
 参道を進むと石段があり、そこを登ると正面には社殿がある。その石段の向かって右側には案内板があり、その案内板によると、かつては金毘羅社、琴平神社と称し、創建は不詳だが天正年間(1573~1592年)に北条の家臣、多比良丹波守忠平が此の地を領地としていた時に、武運長久を祈願して大物主神を勧請したと伝えられている。1907年(明治40年)に金崎上郷の各社を合祀して、社号を国神神社に改称したという。

     正面石段の手前右側にある案内板         拝殿上部に飾られている社号の書かれた額

国神神社 由緒
 元、琴平神社(それ以前は金毘羅社)と称した。
 古記録は備わっておらず、創立年代は不詳であるが、天正年間(1580年頃)北条の家臣、多比良丹波守忠平(たひらたんばのかみただひら)がこの地を領地としていた時、武運長久を祈願して大物主命を勧請したと伝えられる。
 本社伝来の古刀には「奉納金比羅宮平治元年三月(1159)施主」と刻印があり、その他、古代石器、古鏡等もほぞんされている。
 明治40年7月、金崎上郷の各社を合祀して、社號を國神神社と改称した。(中略)御社殿造営当時の「金比羅坂」は秩父新道で、秩父盆地のシルクロードであった。その影響を受けて、装飾を多用し彫刻も立派なものが造られた。秩父新道沿いの名所で彫刻を眺めて悦に浸った人々も少なくなかったと思われる。
 元は金毘羅社であり、四国の金毘羅大権現の縁起や道中記などの彫刻が多いとされる。(中略)
                                                            
案内板より引用
        
                       拝殿向背部の素晴らしい彫刻              
        
   拝殿のそこ彼処にある究極的な匠の技にただ溜息と感動を覚えるのは自分だけではないと思う。

 御祭神である大物主神(おおものぬし)は日本神話に登場する神であり、有名なな三輪山の大神神社の神格であり、また三輪山の別名、御諸山にいた蛇体の神ともいう。さらに水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。
 このように国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。記紀の崇神天皇の条では、国に疫病をもたらす祟り神として登場する。崇神天皇は、大物主神の子孫意富多々泥古を探して祀らせることによって、大物主神の祟りを鎮めたという。
    


日本書紀 巻第五 崇神天皇紀 

 この天皇(崇神天皇)の御世に疫病多に起りて、人民尽きなむとしき。ここに天皇愁へ歎きたまひて、神牀(カムトコ)に坐しし夜、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)御夢に顕れて曰りたまはく、「こは我が御心なり。かれ、意富多々泥古を以ちて、我が前を祭らしめたまはば、神の気起らず、国も安平くあらむ」とのりたまひき。ここを以ちて駅使(ハユマヅカヒ)を四方に班ちて、意富多々泥古(オホタタネコ)といふ人を求めたまひし時、河内(カフチ)の美努村(ミノノムラ)にその人を見得て貢進りき。ここに天皇、「汝は誰が子ぞ」と問ひ賜へば、答へて曰さく、「僕は大物主大神(オホモノヌシノオホカミ)、陶津耳命(スヱツミミノミコト)の女、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)を娶して生みましし子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕 意富多々泥古(オホタタネコ)ぞ」
                                        
                     

 この記述をみると、当時この大物主神は天照大神と対等に並び祭られていたという。俗にいう天神地祇という概念だ。天神地祇とは天神(天津神)、つまり、征服者側が信奉している神に対して地祇、その土地に代々祀られていた神(国津神)で、そのパワーバランスで国土の統一を図る考え方だ。しかし、崇神天皇紀では疫病が流行し国が乱れたのは地祇の神である大物主の意志であり、この間天照大神の力で国の乱れを抑えたという記述は全く見られずこの大神はまったく沈黙している。天照大神は天津系の最高神であるはずであるにも関わらず、一方の神の力に屈服されたような書きようだ。この時期にパワーバランスが乱れた一つの証拠であり、地祇のみを祀らざるをえない状況に陥ったことになる。ここで考えられることは、崇神天皇が収めていた土地は、元々地祇(大物主神)を祀っていた場所であり、さらに天皇の領土以上に大物主神を祀る大勢力が隣接して存在しているのではないか、ということだ。

 考えてみると当たり前のことで、崇神天皇の始祖である神武天皇は元々九州出身の外来者であり、長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地に宮を築き、即位する。その即位とて順調だったわけではない。最初生駒山の方から大和に入ろうとしたが、そこで大和の長髄彦の激しい抵抗に合い、進路を阻まれ、このとき、神武天皇の長兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は傷を負い、それが元で亡くなったり、その後熊野方向に迂回する際には、暴風雨に遭い、少しも前に進むことが出来ず、この状態を嘆き、次男の稲飯命(いなひのみこと)は海に入って亡くなってしまう。最終的に土地の豪族の協力を得て、長髄彦の勢力に勝利(古事記と日本書紀の記述の違いがあるがここでは省略する)し、橿原の地の一区画に宮を築いた(造らせていただいた、という言葉のほうが正しいかもしれないが)という苦労続きの連続だった。だからこそ神武天皇は自身の出身神である天照大神と共に地祇である大物主神をも祀ったといえるのであり、後代崇神天皇もその故事に倣ったといえるのではないだろうか。
            

 
大物主神とは一体何者だろうか。大物主神の「物」とは万物に宿る霊を意味するという。すべての物の背後に霊あるいは魂の存在を認めた古代人の世界観をストレートに、また簡潔に表わした神名であり、あらゆる神々の主神であるという説もあるが、その詳細まで解明した説はなかなかないのが今の現状だ。

 大物主神の別名も多数あり(大物主櫛甕玉尊、賀茂別雷大神、日本大国魂大神、事解之男尊、大国主神、大己貴命、八千戈神、顕国玉神等)、その神挌も同様だ。『出雲国造神賀詞』では大物櫛甕玉といい、大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるという。また同書には「皇御孫命(スメミマノミコト)の近き守り神」とあり、『日本書紀』には高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)が大物主神に対して「宜しく八十萬神をひきいて、ひたぶるに皇孫の為に護り奉れ」と皇孫側近の神になれと命令していて、ここでは皇室に対して格下の守護神としての性格も持ち合わせている。現在では金毘羅神社や大神神社、三輪神社、美和神社のように全国に御祭神としている社も多く、国土生成をはじめ、医薬の神、酒造りの神、男女の結びつきや、死にまつわることなど、目に見えない運命など様々なこと(幽事 かくりごと)を司る神とされていて、多種多様な神である。

 話は変わるが、平安時代に活躍した陰陽師安倍晴明は大物主神を祀っている三輪山を眺めながら、こうつぶやいたという。
 ここには我が国において、文字や数字や楽や舞や風習行事の中にそのすべてを象徴として隠し、その本性は記紀においても隠された〝知恵と魔術の神〟が封印されている。

 大物主神を祀る奈良県桜井市にある大神神社は、日本で最古の神社の1つと言われている。  三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されているほどその淵源は深い。

                
                        社殿の左側にある御神木か
            
                       その大木の根元にある3基の石祠

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久保田横見神社

 吉見町は埼玉県中部、比企(ひき)郡にある町で、比企丘陵の東端吉見丘陵から荒川低地に位置し、北から東にかけて荒川、南に市野川が流れる穀倉地帯だ。この町は東西で地形上の区分がはっきりしていて、比企丘陵の東に位置する吉見丘陵地と、荒川沿いに発達する荒川低地に大きく区分される。
 特に田甲・黒岩・和名・久米田地区付近を境に、西部は山地・丘陵地、台地が発達し、東部側ははん濫平野、旧河道が多く見受けられ、旧河道に沿って自然堤防が発達していることがわかる。また、旧河道が自然堤防の間に認められ、荒川低地が荒川のはん濫などにより形成されたことがうかがえる。
 律令時代には横見郡があり、大略において現在の吉見町と同じ区域であったらしい。武蔵国にあっては早くから開発が進んでいた地域で、国指定史跡の吉見百穴(6世紀末〜7世紀の横穴墓群)や松山城跡、国指定天然記念物の吉見百穴ヒカリゴケ発生地、吉見観音(かんのん)として知られる安楽寺など史跡や文化財が多い.。 
                                   
                    ・所在地 埼玉県比企郡吉見町久保田117
                    ・ご祭神 素戔嗚尊 櫛稲田姫命 宇迦之御魂神
                    ・社 挌 旧村社
                    ・例祭等 例祭 109
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0354843,139.4456725,17z?hl=ja&entry=ttu                           

久保田横見神社は埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線を吉見町町役場方向に進み、町役場を越えて埼玉県道27号東松山鴻巣線と合流する吉見町役場前交差点を右折しそこから約400m位行った十字路を左折すると右側に社叢が見えてくる。
 久保田横見神社の東側と南側には現在ではコンクリート舗装された横見川が流れており、この社の四方半分が川岸近くにに建てられている地形となっている。社殿の石段の高さを見ると、コンクリート舗装されていなかった古代において、度々水害の被害を受けたであろうことは十分に推測でき、この久保田の地に延喜式内社であり、旧郷社である御所横見神社と同名の横見神社が鎮座する理由もまさにそこにある。
 ちなみに駐車スペースはどこを探しても見つからず、社殿北側の道路脇に路駐し急ぎ参拝を行った。
            
                             正面参道と一の鳥居
            
           参道始発点にある社号標・指定文化建造物「横見神社本殿」の碑(写真左)。
                 参道も比較的長く、途中振り返って撮影した(写真右)
     
 「新編武蔵風土記稿」によれば、横見神社は旧八ヶ村(久保田・上細谷・下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井)の鎮守であった。また、慶長17年(1612年)夏の洪水で、吉見町大字御所地内の横見神社がこの地に流れた為に祀られたと伝えられている。 境内には稲荷社・八坂社・天神社・八幡社・熊野社があり、覆殿内にある本殿が、町指定の建造物である。
 但し1953年(昭和28年)に編纂された「武蔵国郡村誌」では建長年間(1249年~1255年)の洪水の際に漂流し本村に着いたと書かれている。「慶長」と「建長」は一字違いで、編集時のミスとも思ったが、「建長」の洪水は時期も「~年代」という曖昧な記述であり、まして「口碑」、つまり言い伝えという書き方になっているのに対して、「慶長」時の洪水は「~17年」、「夏」と年代も時期もハッキリと書かれている。結論から言うと洪水で御所横見神社は「建長」時と「慶長」時、少なくとも2回は押し流されたことになろう。
 吉見町は地形上、荒川中流域にあり、西側比企丘陵地を除く一帯は平野部が広がり、その東側に荒川が町の東側を南東方向に流れている。護岸工事が発達した現代と比べ、嘗ては荒川や吉見町の西側に流れる荒川支流の市野川の氾濫による水害は度々起こったであろう。昔の人々の苦労が偲ばれる。
                         
                                  拝 殿
 この久保田横見神社は元々「飯玉氷川明神社」といい、歴とした氷川系神社であり、祭神も氷川系の素戔嗚尊、櫛稲田姫命に飯玉神社系の宇迦之御魂神(保食神)の三柱が並立して祀られている。
 久保田村
 飯玉明神社
 當村及び上下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井等の八村の鎮守なり、神體は石劔なり、當社は元御所村なりしが、水災に逢て漂着せしを、取上て爰に祀とて、此地そのかみ愛宕社地なりしが、今は衰て却て末社となれし、無量寺持、
 末社愛宕社

                                                              『新編武蔵風土記稿』より引用

             
                                    本 殿
                吉見町町指定文化財で安永五年(一七七六年)建立。
 横見神社本殿
『新編武蔵風土記稿』によれば、横見神社は旧八ヶ村(久保田・上細谷・下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井)の鎮守であった。また、慶長17年(1612年)夏の洪水で、吉見町大字御所地内の横見神社がこの地に流れた為に祀られたと伝えられている。 境内には稲荷社・八坂社・天神社・八幡社・熊野社があり、覆殿(おおいでん)内にある本殿が、町指定の建造物である。本殿の大きさは表41寸、妻37寸、向拝45寸で、彫刻や飾り金具を多用して建立されている。
                                                     「吉見町公式HP」より引用

         
 社殿の左側並びには境内社が鎮座する。八幡神社、天神社合祀社(写真左側)。その右側にある八坂神社、稲荷神社(同右側)。
                                    境内に鎮座する愛宕神社(写真左・右)          
 社殿の右側にある一見古墳と思わせる高台の上に鎮座する愛宕神社。元々この久保田鎮守社であったというが、建長年間に御所横見神社のご神体である石剣がこの地に漂着したものを住民たちが祀り、愛宕神社は摂社として今に至っているという。

 

 

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金尾白髪神社

 金上无(こん・じょうがん)は新羅系渡来人で、鉱業に関する鉱山技術者として時の朝廷から招かれ、日下部宿禰老や津島朝臣堅石と共に、秩父に視察に出かけ「黒谷」地区で「銅山」を発見し、その自然銅の塊は朝廷に送られた。時の元明天皇(在位707年~715年)は大いに喜ばれ年号を慶雲から和銅と改め鋳銭司長官多治比真人三宅麻呂と朝鮮半島からの鉱山技師を派遣し和銅採掘に従事させたという。その時の朝廷の喜びはいかばかりであったろう。金上无は和銅献上時点では無位であったにもかかわらず、一躍他の2人と共に、従5位以下に叙せられたことからも伺がわせることができ,同時にいかにその貢献度が高かったかということを示す事実と考えられる。

 この寄居町金尾地区は金上无の手により和銅(にぎあかがね)を発見した秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であるし、更にまた金尾地域の荒川を隔てて東側には末野遺跡という古墳時代から窯で焼成された堅い土器(須恵器)を生産していた窯跡が発掘されている。この末野遺跡には須恵器生産に関連する窯跡群の他、須恵器を生産する工房の跡や材料の粘土を採掘した跡に加え、鉄生産の行っていた痕跡も残している。「埼玉の神社」によると、当地に入植した渡来系氏族の関与があったとの指摘もあり、ますますこの地域の興味は尽きない。
所在地   埼玉県大里郡寄居町金尾256-1
御祭神   猿田彦命・大己貴命・保食命・菅原道真公
社  挌   旧村社
例  祭   10月19日 例大祭

       
 金尾白髪神社は国道140号線を寄居町から長瀞町方向に進み、波久礼駅手前の駅前交差点を左折し、寄居大橋を渡るとすぐ右側に鎮座している。但し駐車スペースはこのルートにはないので、寄居大橋を渡り切ってT字路にぶつかり、そこを右折するとすぐ右側に社に通じる道があり、社務所あたりに停めることができる。境内右側はすぐ下に荒川が流れ、参拝も初秋期ということもあり、四季の移り変わりをそこはかとなく感じさせてくれる趣のある社である。
          
                           正面一の鳥居
           
                           参道から見た神門

  参道左側にある白髪神社獅子舞の案内板     獅子舞案内板の向かい側にある白髪神社由来碑

町指定文化財 白髪神社獅子舞
 指定  昭和五十八年一月一日
 所在  寄居町大字金尾 白髪神社内
 この行事がいつ始まったか明らかではないが、現存している獅子頭が、文久二年(一八六二年)に奉納されたという記録があり、それ以前からこの行事が始まっていたことが分かる。
 この獅子舞は、古来より十月十九日の大祭のつけ祭りとして奉納されたものと言われている。
 獅子舞の内容は、四方固め・剣の舞・奉納神楽の神事舞・まり遊び・のみとり及びひょっとこの道化舞の六座である。
 かね・笛・太鼓の囃しに口上が加わり、ときに静かに、また勇壮に、ユーモアもまじえた、古き良き、むら祭りにふさわしい素朴なものである。
平成十一年三月   寄居町教育委員会
                                                        

白髪神社由来
 むらの鎮守、白髪神社は、第二十二代清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)を祀り、猿田彦命・大己貴命・保食命・菅原道真公の四柱の御神が合祀されて居ります。清寧天皇は行田市稲荷山古墳の鉄剣で知られる雄略天皇の第三子にあたります。 
 『日本書紀』によりますと天皇は生まれながらにして白髪で有られたことから、白髪の名が冠せられ、長じては民をことさら慈しまれ、又、幼少の頃より獅子舞に興ぜられたと言い伝えられています。
 故に、在位(四八○~四八四)中の徳が慕われ、古くは戦国の武将北条氏邦公(?~一五九七年)、要害山城主金尾弥兵衛の祈願所とされ、五穀豊穣・家内安全・長寿の神として、氏子をはじめ、広く信者の崇敬を集めて居ります。(以下中略)
                                                             案内板より引用
             
                          石段を登ると神門がある。
             
                              拝    殿

 境内は比較的広く、開放感がある。社殿の向かい側には「金尾山」と題する漢詩が彫られた石碑があり(写真左)、社殿の向かって右側には「日露戦没記念碑」を含む石碑群があり、その中に浅間大神、水速女命と彫られている石碑(同右)がある。
 この水速女命(みずはやのめ)は伊耶那美火之迦具土(かぐつち)を生んでやけどして伏せていた時の尿から誕生した神で、通説によれば別名「岡象女神」とも言い、日本神話に登場する代表的な水の神であるが、水速女命は岡象女神とはまったく別の神である説もあるそうだ。

境内社 金毘羅神社(写真左)と八坂神社(同右)         社殿の左側奥にある境内社
           
                      殿蔵の渡しの由来が書かれた案内板
           
 寄居町金屋地区は、荒川扇状地の先端部にあたり、丁度この地域を起点として東側に平地が深谷、熊谷両市方向へ扇状に広がる。この扇状地の特性は.低地に比べ水はけがよく,地盤も安定しており,土地として利用価値が高い地域である。また,場所によっては水を得るのが容易であるため,古くから農地として利用されてきた。

 しかし,扇状地はもともと河川が氾濫を繰り返して形成された地形であり,また,山地から平地へ勾配が急変化する場所であることから,大雨が発生した際に洪水氾濫が起こる危険性の非常に高い地域でもある。実際,記録だけでも1742 年(寛保2 年),1859 年(安政6 年),1910 年(明治43 年),1947 年(昭和22 年)などに大洪水を起こした.特に寛保2 年の洪水は,最大の洪水と考えられており,埼玉県長瀞町樋口(地点2)には,当時の高水位を示した寛保洪水位磨崖標(標高約128m)がある。
 この洪水は下流側で数多くの決壊を発生させ,熊谷市大麻生においては,延長約1100m の破堤が生じたという。殿蔵の渡しの案内板にも洪水に関しての記述があり、当時の悲惨さが案内板を通して垣間見られる。

 ところで金尾白髪神社の「金尾」地区の頭につく「金」という名前にも気になることがある。金尾地区は前出秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であることや、荒川を挟んで隣村末野には、奈良期、多くの須恵器や国分寺瓦を製造した末野窯群が存在していることは何を意味するのだろうか。律令時代以前から秩父地域の交通は荒川の河岸段丘上の狭まれた一本の線が武蔵国平野部に通じる主道であったろうことから推測されることは、この黒谷から末野までのルートには共通する文化圏が存在していたのではないか、ということだ。
 黒谷の和同塊を発見した人物の一人は「金上无」という。「金上无」と「金尾」、この「金」が共通する両者には何かしらの関連性があるのだろうか。

 

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岩田白鳥神社

 秩父一帯に勢力を拡大していた武蔵七党のひとつ丹党の一族に白鳥氏があった。丹経房の弟行房が白鳥に館を構えて白鳥七郎と名乗ったのが始まりである。『七党系図』では行房の子白鳥七郎二郎基政の孫にあたる政家が白鳥四郎を名乗ったともいう。白鳥氏の嫡流はその後岩田氏に代わり、以後の白鳥氏は傍流として存続する。この白鳥氏や岩田氏は同族の藤矢渕氏や井戸氏らと長瀞一帯を領有していたという。
所在地    埼玉県秩父郡長瀞町岩田1881
御祭神    菅原道真公・日本武尊・埴山姫命
社  挌    旧村社
例  祭    2月25日 例大祭

        
 岩田白鳥神社は荒川の右岸、埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を長瀞方向に進み、岩田地区の山の西麓の道路沿いに鎮座している。地形的にみると長瀞地区は荒川が真北方向に流れていて岩田地区は荒川が屈曲する先端地にあり、南に秩父の平野を睥睨することができる要害の地にある為、社の南側には室町時代から戦国時代には天神山城が存在していた。
 その関係でこの岩田白鳥神社は荒川に対して直角方向に向いていて、丁度西向きの社殿となっている。
 県道を挟んで反対側に集会所らしき建物があり、そこに若干のスペースがあったので、そこに車を停めて参拝を行った。
           

    道路沿いで鳥居の右側にある案内板             白鳥神社と書かれている扁額

白鳥神社    所在地 秩父郡長瀞町大字岩田
 白鳥神社の祭神は、菅原道真公、日本武尊、埴山姫命で、例大祭は毎年二月二十五日である。
 神社の起源は、元慶年中(八七七~八八五)に岩田(白鳥)武信が勧請し、白鳥天神宮と称し祀ったのが始まりといわれ、後の北条氏邦はこの白鳥大明神を厚く崇敬していたので近くにある根古屋城を天神山城に改めたと伝えられている。
 その後、明治三年に白鳥天神宮は、天満天神社となり、さらに明治九年七月八日に白鳥神社と改称した。この時村社に列挌され、明治四十年五月八日、丹生大神社、思金神社、八幡神社を合祀して現在に至っている。
 また、社地は、始め椿の森と称されていたが、宝永二年(一七〇五年)の冬から毎年伐採され、同六年の春にはすべて伐採されて、跡地には杉苗が値付けた。現在する一部の老杉は、当時の物であるといわれている。
 昭和五十七年三月     長瀞町
                                                             案内板より引用
             
                             拝    殿
 白鳥神社の南方部には、室町時代から戦国期に築造された天神山城が山道を通じて存在していた。この天神山城は、戦国時代(天文年間1532-55)、土豪の藤田重利の築城という。本来は後北条家に対抗していた関東管領上杉氏の重臣で、最盛期には、上杉家四家老の一と呼ばれている。榛沢、幡羅、男衾の三郡を領していて、天神山城も対後北条家対策の本拠地的な城であった。
 後に藤田氏は後北条氏に降伏し、北条氏邦をここに迎え、氏邦は「秩父新太郎」と名乗った。この北条氏邦は岩田白鳥神社への崇敬が厚く、それまで「根古屋城」といったこの城を「天神山城」と改名して武運長久を祈ったと伝えられる。この天神山城は筆頭家老・岩田義幸が城を守ったが、永禄三年(
1560)鉢形城に移転し、天正十八年(1590)小田原の役で落城したとされる。

 藤田氏は「藤田系城郭」という独特の築城方式に長けた一族であり、現在でも城郭研究者の間では有名な「埋もれた名城」で、花園城や花園御嶽城、岩田天神山城等の標高200m程度の山に大規模な堀切や、横堀と土塁の組み合わせを巧みに利用した山城を多数築城した。
           
                              拝殿内部
           
                               神楽殿

 
社殿の右側に境内社、稲荷社とその左側に石神       社殿と神楽殿の間にある2柱の石神

 社殿の両側にある石神(磐座)は社殿が勧請される前からの地主神だったのだろうか。石神信仰は岩石に宿る霊を表現していて、縄文以来の自然の物に神様が宿るというアニミズム的な信仰がこの地にもあった証ではなかろうか。


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古里兵執神社

嵐山町は埼玉県中央部に位置する南北に長い町である。その北端部の古里地区は熊谷市、深谷市、寄居町に接していて、埼玉県道11号熊谷小川秩父線と同県道69号深谷嵐山線が交差する場所として、熊谷、深谷、寄居・小川、嵐山方面へ行く交通の分岐点でもあり、利便性のある地域である。
 地形的にみると、古里地域やこの地域の南部で手白神社が鎮座する吉田地域は比企丘陵内にあり、滑川がその地域から南東方向に流れている。この地域の滑川は上流部で川幅も小さいが、谷幅(川の両側の水田を含む範囲)が広く、両側は山に囲まれているが沖積台地と言われる標高の高い平坦な地も多い所でもある。
 この古里地域のなだらかな丘陵地の一角に兵執神社は鎮座している。
所在地    埼玉県比企郡嵐山町古里766
御祭神    武甕槌命
社  格    旧村社
例  祭    10月18、19日 例大祭(兵執神社獅子舞)

       
 古里兵執神社は埼玉県道11号熊谷小川寄居線を小川町方向に進み、古里交差点を右折、そこから約200m位でY字路にあたり、Y字路の角付近に兵執神社の社号標石があり、そこをまっすぐ進み、丘の中腹付近に兵執神社が道路沿いで右側に鎮座している。ちなみに「兵執」と書いて「へとり」と読む。社殿の丘の下で、参道に向かって右側には社務所があり、そこには駐車スペースがあったので、そこに停めて丘の下の社号標石から参拝を行った。
            
                   
           
  埼玉県道69号深谷小川線とのY字路の間にある社号標石(写真最上部)、そこから真っ直ぐ進むと一の鳥居(同中央)があり、そこをまた丘を登るように進んでいくと境内(同下部)になる。境内までの参道がまた変に気持ちが良く、急ではなく、長さもそこそこの勾配のある参道を歩くと何となくハイキング気分にさせてくれるものだ。
            

町指定
 民俗文化財   兵執神社獅子舞

  指定  昭和三十七年九月一日
  所在  兵執神社 嵐山町大字古里字中内出七六六
  時代  江戸時代

 毎年十月十八、十九日(近年はこれに近い土曜日、日曜日)の秋季例大祭に疫病除けや豊作を祝い古里の氏子によって獅子舞が奉納されています。
 子の獅子舞は,太鼓に文政年間(一八一八年頃)の記載があったことなどから江戸時代にはすでに舞われていたと考えられます。
 獅子舞の役は、順に(一)万灯【一番上に榊と花、その下に灯籠、その下に竹ヒゴに花がつけられ、水引が下がった柱状のもの  二、三十人】 (二)法螺貝【一人】 (三)金棒つき【二人】(四)先連【柏木を打つ 一人】(五)棒司い【獅子が舞を奉納する前に庭を清め、四方を固める 四人】(六)花笠っ子【獅子の演目中にササラと称する竹製の楽器を擦り合わせる 四人】(七)仲立ち【ひょっとこ 一人】(八)獅子【ホウガン(男獅子)・女獅子・男獅子 三人】(九)笛吹役者【十人】で構成され、棒使い・獅子役に限っては小学生からはじめ、満八歳で交代になるそうです。
  奉納は、はじめに社務所前庭で初庭を舞い、次に役の順番で列を整え街道下りをして前の道路まで降り、神社参道の鳥居をくぐり社殿に向かいます。社殿の西庭では二の庭を舞い、東庭では三の庭を舞います。
演目には、初庭で舞う堂浄古根古・女獅子かくし、二の庭で舞う場均し・隠平掛り・花掛り・三の庭で舞う駆け出し、神楽があります。
                                                             案内板より引用 
 
           参道の左側には天神社               天神社の奥には駒形大神の石碑
 

 参道の右側には左側から八坂社、愛宕社が並び(写真左)、八坂社、愛宕社の参道の向かい側にも境内社がある(同右)。左から白山神社・小女郎神社、日枝神社、山神社、そして八幡神社。そして八幡神社の奥にポツンと明敵大神社の石碑があるが今回写真の紹介は省略。
           

    境内社の散策が終了し、参道に戻ると、また一段高い場所があり、その上に社殿が見えてくる。
                       
                             拝殿覆堂

            拝殿内部                      社殿の右奥にある鎌倉稲荷
 この滑川の源流域の沖積地を見下ろす大字古里の丘陵上には、古里古墳群が点在している。6世紀後半を中心に築造された古墳群で、当時は78基の円墳が存在したとされて言われているが現在は52基の存在が確認されている。この古里古墳群は10カ所の支群に分かれていて、埴輪をもつ6世紀代の古墳から横穴式石室をもつ7世紀代の古墳へと年代の幅がある。石室の石材にはこの地域の基盤を構成する凝灰岩の切石が用いられている。岩根沢には町内唯一の横穴墓も発掘されている。その東端は埼玉県道11号線に沿って塩古墳群と隣接しているようで、その関係が注目されている。
           
                       古里兵執神社 参道の風景

 今回参拝した古里兵執神社は、まさに平地を見下ろす丘陵地の一角に鎮座する社で、古里地区を一望できる要衝の地にある。社からこの風景を見ているうちに、ふと近郊に存在する古墳群の埋葬者たちは、どのような感慨をもって今の風景を眺めているのだろうかと、何となく思いに耽った面持ちとなった。



                                                                                                  



 

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