古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

久保島大神社


                                
                     ・所在地 埼玉県熊谷市久保島471
                     ・主祭神 大山祇神 伊弉諾命 伊弉册命
                     ・社 格 旧久保島村鎮守・旧村社
                     例 祭 不明
 東別府神社から南方向に向かうと高崎線の籠原貨物ターミナルの踏切があり、その南西側に久保島大神社
が鎮座している。延喜式内社楡山神社の論社ではあるが由緒等不詳である。一の鳥居の右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
            
                                                       村社・久保島大神社の社号標
        
                                                          正面一の鳥居 
                                                       すぐ先に二の鳥居が見える。
            
                                             一の鳥居を越えるとすぐ先に二の鳥居あり
                  
                                         二の鳥居前左側にある両部鳥居の由来案内板
 久保島大神社鳥居の由来
  所在地 熊谷市久保島471-2
 平成16年12月解体した際に、柱のほぞから願主と大工の名前とともに、嘉永2己酉年(1849)4月吉日の建立を示す墨書が発見されました。
 建立以来156年ぶりに立て替えられた鳥居は、明神鳥居の中でも両部鳥居と呼ばれ、笠木が反り返っている曲線構造です。柱は転びと言われ少し斜めになっており、補助の控柱で支えているのが特徴外です。
 世界遺産で知られる厳島神社の鳥居と同じ型で、熊谷市内でも木造鳥居として極めて重要です。
平成17年4月15日
                                                            案内板より引用
            
                                拝 殿
 久保島大神社  熊谷市久保島四七一
 かつて、熊谷市近辺には八島八河原といって、「島」と「河原」の字のつく地名が八か所ずつあった。当社の鎮座する久保島もその一つで、江戸時代までは窪島とも書かれ、古くは東西二村に分かれていたという。(久保島を東西二村に数えなければ「八島」にならない)
『風土記稿』久保島村の項に、「村の鎮守」として、山神社と神明社の二社が挙げられているのも、このように村が東西に分かれていたころの名残で、観照院が別当を務める山神社は西久保島の鎮守、大光院が別当を務める神明社は東久保島の鎮守であった。このうち、山神社については『延喜式』に見える楡山神社であるとの伝え(『風土記稿』はこれを疑問視し、「楡山神社は原ノ郷にある熊野社ならん」としている)もあり、延享三年(一七四六)には極位を受け、正一位山神大権現と称した。なお、この時の宗源祝詞には、瓜と夕顔の種を播くことの許しを乞う一節が見え、興味深い。
 明治に入ると、どんな理由からか、地内にあった尊乗院持ちの聖天社が二柱神社と改称して村社になり、山神社・神明社は共に無格社にとどまった。しかし、明治四十二年、政令により、一村社とすべく、無格社ながら規模が最も大きい山神社に、二柱神社及び神明社をはじめとする無格社七社をそれらの境内社と共に合祀し、山神社を村社に昇格の上、改称して、ここに久保島大神社が誕生したのである。
                                                       「埼玉の神社」より引用                   

             
                                  本  殿
『新編武蔵風土記稿 久保島村』
 山神社 村の鎭守なり、當社は【延喜式】内楡山神社なりなどいへど疑ふべし、楡山神社は原ノ郷にある熊野社ならん、見るべし。別當観照院 天台宗、埼玉郡上中條村常光院末、阿彌陀寺と號す、開山榮順正保三年十月寂せり、本尊阿彌陀、
 神明社 是も村の鎮守なり 別當大光寺 同末、明珠山願成院と號す、開山秀海寂年を傳へず、本尊薬師、

 江戸時代には山神社或いは山神大権現と称しており、御祭神は大山祇神と伊弉諾尊、伊弉冉尊。他に橘姫命と倉稲魂命、建御名方命、誉田別命、大日霊貴尊、素盞嗚尊、大雷神、軻遇突智命、天手長男神が祀られているのだそうだ。
 
            拝殿の横の庚申塔                     境内社 稲荷社と三峰社

 久保島大神社が鎮座する「久保島」という地名の語源は「窪+地」つまり、乱流河道の中に取り残された低地の中にある微高地という意味である。このような地形の形成の最大の要因は元荒川にあった。この元荒川は埼玉県熊谷市佐谷田を管理起点とし、おおむね南東へ向かって流れ、行田市、吹上町、鴻巣市、川里町、菖蒲町、桶川市、蓮田市、白岡町、岩槻市を経由して、最後は越谷市中島で中川の右岸へ合流する現在では静かな河川であるが、江戸時代以前は荒川本流として文字通り「荒ぶる川」、として悪名高く、古くから洪水による災害が発生している。荒川は、名前の由来「荒ぶる川」のとおり、大変な暴れ川だった。
                    
                           境内に聳え立つご神木
     
 この荒川は、水源から河口に達する距離が短く勾配も急で、特に峻嶺な水源地帯は多雨・多雪地帯であることから、古くから洪水による災害が発生している。特に熊谷市の付近は、荒川扇状地の扇端部であり、荒川の河床勾配は急激に緩やかになるので、土砂の堆積作用が顕著となり、近世以前には多くの派川が形成されていたと思われる。寛永6年(1629)の荒川の瀬替えによって、荒川が熊谷市久下付近で締め切られるまでは、名前が示すとおり、元荒川は荒川の本流であり、そして近世以前の荒川は利根川の支流だった。
 荒川と利根川は長い間、埼玉内部の平野地を蜘蛛の巣のように乱流して流れていて、洪水などの度に自然に流路を変えていた為、開発も極端に遅れたろう。特に元荒川と古利根川の間の地域はその苦労が思いやられる。
            
                 
 「久保島」という島が付く地名の由緒を辿って、結果的に「荒川」の歴史というかなり脱線気味な考察となってしまったが、それもまた一興だ。ただ知ってもらいたい。地名一つを調べるとそこには何百年という歴史があり、その淵源は大変深いものなのだ。また我々はその事実を素直に理解し、それを未来に託す義務があることも忘れてはならない。



                    

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埼玉古墳群(10) 稲荷山古墳の被葬者は

 稲荷山古墳は大山陵古墳と墳形が類似していることが指摘されている。大仙陵古墳を4分の1に縮小すると稲荷山古墳の形に近くなる。また埼玉古墳群の二子山古墳や鉄砲山古墳も大きさは異なるものの稲荷山古墳と同じ墳形をしており、やはり大仙陵古墳をモデルとした墳形と見られている。
 従来の説では、このことから古代ヤマト朝廷が5世紀末には東方へ勢力を伸ばした一つの証拠と解釈され、その結果畿内中心の統一権力と、その他地方への波及という単純な図式でここでも多くの考古学者から賛同され、継受されているのが今日の現状である。


       
  埼玉古墳群の古墳では二子山古墳、稲荷山古墳に次ぐ大きさ109mの前方後円墳である鉄砲山古墳
                          築造推定年代は6世紀後半。


 前章までのおさらいで何度も確認するが、この埼玉古墳群は築造時期も遅く、不思議にも他地域における古墳形態のなかの発生期にあたる初期小古墳が存在せず、いきなり稲荷山古墳という大型古墳が出現している。いわゆる論理的思考法の基本である「起承転結」の概念のひとつである「起」句がこの古墳群には存在しないことであり、このことはすなわちその勢力は埼玉郡内の元々の土着の勢力ではなく、既に大形前方後円墳を築造するだけの力を持った勢力が外部からやってきたのでではないかと考えた。
 その後
埼玉の津を領有し、周囲との交易にて莫大な富を得た埼玉古墳群の大王は生前から陵墓を築造し、その築造する際に関東地方近郊の大型古墳を参考、模擬し、より見栄えの良い古墳を造ったのではないか、という次なる仮説を立てた。では現実に参考とした古墳は果たしてあったのだろうか。またあったとしたらどの古墳だったのだろうか。

 その前に一つだけ確認したい事項がある。埼玉古墳群の最初の古墳である稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文には、乎獲居「臣」(おわけのおみ)は「杖刀人の首」であり、また「吾、天下を左治する」と書かれている。この「杖刀人の首」と「吾、天下を左治する」とは具体的にどのような意味があるだろうか。

・ 杖刀人の首は「刀を杖にする人」で、要するに門を守る守護であり、武人のことであり、大王のもとで軍事を担当する意味。「首」というのはその長という意味。つまり軍事担当の最高司令官といったところか。

・ 「吾、天下を左治する」というのは、王が幼少や女帝である時に、大王に変わって成務をとる意味で、後代
「摂政」という言葉に置き換えられ、大体大王の近親者(叔父、義父)やそれに準ずる皇族がその任に就くことが多いらしい。内政担当の最高長官。

 つまり、乎獲居「臣」は「杖刀人の首」、「佐治天下」という2種類の銘文の言葉から、内政、軍事を総括する大王の次の地位、いわば「ナンバー2」としてこの一族を統括していた人物であるといえる。

 この金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)は鉄剣銘文の中でも115文字と大変文字数が多く、これらは5世紀前後のの情報を知るための貴重な第一級的な史料であるし、全国でも他に6例しか存在しない珍しい剣だ。ちなみに稲荷山古墳出土の鉄剣以外の6例は以下の通りだ。

 ・ 稲荷台1号墳出土「王賜」銘鉄剣            千葉県市原市稲荷台古墳群から出土
 ・ 江田船山古墳出土の鉄刀          熊本県玉名郡和水町江田船山古墳より出土
 ・ 
岡田山1号墳出土の鉄刀                      島根県松江市岡田山1号墳より出土
 ・ 
箕谷2号墳出土の鉄刀                 兵庫県養父市箕谷2号墳より出土
 ・ 
中国から伝来の中平刀                         奈良県天理市東大寺山古墳から出土      
 ・ 七支刀
                      奈良県天理市石上神宮に保存

 古墳時代には主に古墳の発掘、調査によってこれまでに多くの鉄製の刀、剣の出土、発見が報告されているが、上記の銘文の入った刀、剣はいたって少ないのが現状である。これから先もこの傾向は基本的に変わらないと思う。考えてみると当たり前のことで、刀や剣は当時成人男性で自らの身分を証明する為に身に着けていたいわば日常生活品で、製造数も基本的に多数であったろう。それに対して経文鉄剣はある意味名誉勲章の類のもので、儀礼や祭祀等、特別な行事に使用するか、個人的に大事な場所に保管するかどちらかである。地方の首長すらめったに所持することができないもので、日本全国を見ても大変珍しい鉄剣を何故乎獲居「臣」は獲加多支鹵大王から下賜されたか、という問いにほとんどの歴史学者は沈黙している。

  この乎獲居「臣」は余程大王の信任が厚かったと見えて、稲荷山古墳の後円部第一主体礫槨より、経文鉄剣や豊富な副葬品をもって葬られており、一族の中でも大王並みかそれに準ずるかなりの実力者であった可能性が高いとみることができよう。
 また先ほどから乎獲居臣の臣に「 」をつけているがこれにも意味がある。この銘文鉄剣には乎獲居「臣」の祖先八代の系譜を記しているが、乎獲居「臣」の父(カサハヨ)と祖父(ハテヒ)には、ヒコ・スクネ・ワケなどのカバネ的尊称がつかないのに対して、乎獲居の「臣」は姓(かばね)の一つで、姓の中では「連」と並んで高位に位置していた。5世紀当時の姓制度の中で臣下の中でも最高位に位置している「臣」を何故乎獲居臣が名乗ることができたのか、このことは非常に意味が重いと考える。

  つまり考えられることは次の通りだ。この乎獲居「臣」はこの銘文鉄剣を受け取るに値する大きな業績を自らの智謀と政略、戦略によって一代で挙げたということではないだろうか。しかしこの事業は想像を絶する困難の連続だったのだろう。乎獲居「臣」は一身を擲ってこの難事業をやり遂げた。そうでなければこの経文鉄剣を下賜される絶対的な理由とはならない。考えられる以下の項目が経文鉄剣を下賜された特別な理由だったのではないかと現時点で推測する。

① 「埼玉の津」を実効的に支配し、埼玉郡にまでその勢力範囲を広げた。
② その前後におそらくこの地を支配していたであろう古参の大勢力との戦いに勝利した。
③ 「埼玉の津」の経済的利点、文化の広がりを最大限に利用し、武蔵国の覇者となり、関東一の大勢力を築き上げた。
④ 自分を引き立ててくれた恩人であり、苦労を共にした王の墓を埼玉郡の稲荷山の地に築いた。 

 経文鉄剣の記された年代である辛亥年(471年)は、項目①から項目④までの事業を完全に達成した記念塔として現在の大王である(獲)加多支鹵大王から下賜された名誉ある勲章だったのではなかろうか。




 ところで通説において乎獲居臣の家は代々は埼玉から中央のヤマトに出仕し、代々天皇家に杖刀人の首として仕えていたが、乎獲居臣は獲加多支鹵大王である雄略天皇の役所が斯鬼宮にあったとき治天下を補佐し、役目を終え埼玉に帰り、そのときのことを記念し鉄剣をつくった、と大方の歴史学者から解釈され、稲荷山古墳の被葬者は経文鉄剣の所有者である乎獲居臣と同一人物であると見られている。
 しかし『日本書紀』雄略天皇の項とこの経文鉄剣の内容、さらに稲荷山古墳の出土状況を考えると幾つかの矛盾が生じてくる。以下の点だ。

① 『日本書紀』雄略天皇の項には、この天皇を補佐する「乎獲居」という人物がいたという記録が全く存在せず、ましてや経文鉄剣の下賜についての記載もない。そもそも関東の埼玉を根拠地とする地方豪族が、代々杖刀人の首としてヤマトに出仕し、しかも天皇の治天下を補佐する身分となりうることができるか、という基本的な問題にだれも理論的に証明した書物等がない。奈良時代に道嶋宿禰嶋足という陸奥在地の豪族の中で唯一中央官僚として立身し、官位は正五位上・近衛中将に上り詰めた人物がいたが、この人物は奈良時代当時余程珍ったようで「続日本記」等に記載されている。このようにたとえ優秀な人物であったとしても中央出身者でない人物が中央に出仕し、更に立身出世することは非常に難しい時代であったし、もし出来たならばこのことを記載しないという事はまずありえないことだ。しかし同じ『日本書紀』でも安閑天皇の項において「武蔵国造の乱」の当事者である笠原直使主や笠原小杵の名前やこの内乱の顛末が簡単ではあるが記載されている。
 歴史学者等、このような問題に誰も見向きもしないのは不自然ではないだろうか。
② 雄略天皇が即位し政務を行った宮は、「近畿の泊瀬朝倉宮」であり、皇子時代「大泊瀬幼武尊」と呼ばれたように、「泊瀬の朝倉」は幼少時代から慣れ親しんだ場所で「宮」とする根拠として適当であるが、経文鉄剣に出てくる「斯鬼宮」とは実は同一地域ではない。大和国穴師西方は三輪山の西北、巻向駅の東方の地域は「磯城」(しき)の比定地なのだが、この地は朝倉の比定地である三地域は三輪山の南であり、朝倉の比定地と磯城の比定地には地理的に大きな隔たりがある。このように「磯城宮」と「朝倉宮」は明らかに別地である。したがって、「斯鬼宮」にいた「獲加多支鹵大王」を「朝倉宮」にいた「大泊瀬稚武皇子」、つまり雄略天皇に当てるのはまったく根拠のない説で、この二人は別人物だったこととなる。
③ 稲荷山古墳で経文鉄剣が発見された後円部第一主体礫槨とすぐ近くにあ第二主体る粘土郭はどちらも後円部の中央からややずれたところにある。中央にこの古墳の真の主体部が有り、真の被葬者がいたと考えられている為、稲荷山古墳は乎獲居臣の墓とは到底考えられない。

 このように「日本書紀」の記述をあまりに盲信しすぎて①から③の矛盾に対して明確な回答ができない現在の定説、通説に対して事実はもっと単純で明快ではなかったか。それはからこの稲荷山古墳の真の被葬者は乎獲居臣ではなく埼玉古墳群の大王という事である、ということだ。また稲荷山古墳内の墓の配列から経文鉄剣を乎獲居臣に与えた人物は、遠い近畿の雄略天皇ではなく、「佐治天下」の言葉通り、距離的にも常に乎獲居臣が傍にいて支え続けていた埼玉古墳群の大王と考えたほうが自然ではないかと思われる。
 たしかに「古事記」「日本書紀」は古代日本史を語る上においても、日本人としての精神的な拠り所としても第一級資料であることは間違いない。但し記紀等の中央の書物は中央の「目」から見た主観の歴史が反映され、おのずと「地方」軽視の風潮にともすると陥りやすい。少なくとも埼玉古墳群の経文鉄剣の内容や、稲荷山古墳の石室の配置状況から推測される当時の埼玉地方には古代大和中心の世界、「日本書紀」の記述とは全く違う世界、違う空気を感じずにはいられないのは自分ひとりだけなのだろうか。

 稲荷山古墳出土の鉄剣を調べていくと当時の状況が少なからず解ってきた。さらに上記の事項を参考に時空列で物事を纏めると実はもう一つの事実に必然的に突き当る。稲荷山古墳の真の被葬者は(獲)加多支鹵大王でも乎獲居臣でもない。そう、(獲)加多支鹵大王の前代にあたる大王にあたる人物の他該当する人物はいない。



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埼玉古墳群(9) 関東地方の古墳状況


      

      
            埼玉古墳群では5番目、6世紀初めから中期に築造された瓦塚古墳

 参考だが埼玉古墳群、稲荷山古墳が築造された同じ時期(5世紀中頃から6世紀初頭)に造られたといわれる関東地方の古墳状況を県単位に調べてみた。考えてみれば当たり前のことで、6世紀「埼玉の津」を中継地点として利根川流域の地方や東京湾沿岸に広がりを持つ同一文化圏の形成から見ても、交易を通じて埼玉古墳群の文化が与えた影響もあれば、逆に埼玉古墳群が影響を受けた地方も当然存在したであろう。ちなみに埼玉県、東京都は埼玉古墳群(3)を参照。

茨城県

舟塚山古墳 茨城県石岡市北根本前方後円墳186m 5世紀後半 
愛宕山古墳  〃  水戸市愛宕町前方後円墳 137m 6世紀初頭 
葦間山古墳  〃  筑西市徳持前方後円墳 141m 6世紀初頭 
 

 茨城県は神話の時代では日高見国とも言われ、常陸国風土記では「常世(極楽)の国」と謳われ、倭武天皇伝説の地である為か、古墳も豊富に存在している。5世紀後半に築造された茨城県石岡市北根本にある舟塚山古墳は全長186mで、関東では太田天神山古墳に次ぐ規模の大きさを誇り、しかも二子山古墳と同時期、又はその前期にあたる。この古墳は国造本紀に初代茨城国造として記録されている「筑紫刀禰」の古墳と言われていて、「筑紫」は狭義では現在の福岡県を示し、広義では九州全体を示す。九州は大陸の文化や技術を最も早く受け、古代から多くの豪族が出ている。常陸風土記にも九州とのつながりを示す内容が多くみられることから筑紫刀禰は九州出身の豪族だったかもしれない。ちなみにこの石岡市は奈良時代に常陸の国の国府がおかれ、常陸の国の中心であり、常陸風土記に登場する「茨城郡」の中心地ともいう。
 また舟塚山古墳築造の前後には5世紀前半には梵天山古墳(全長152m)、6世紀初頭には愛宕山古墳(全長136,5m)と古墳築造は群馬県に次いで盛んな地域だ。

栃木県

塚山古墳栃木県宇都宮市西川田町 前方後円墳 98m 5世紀後半 
笹塚古墳  〃  宇都宮市東金町 前方後円墳 100m 5世紀中頃 
琵琶塚古墳  〃  小山市飯塚前方後円墳 123m 6世紀前半 
摩利支天塚古墳   〃  小山市飯塚 前方後円墳 120m 6世紀初
 

 栃木県は茨城県より小粒な古墳が多い。栃木市にある吾妻古墳が全長128mで県内最大の前方後円墳だが6世紀後半の築造で当時はまだ出現してない。小山市は国分寺などが所在する下野国の中心的地域であったらしく5世紀後半から6世紀前半に築造された摩利支天塚古墳(全長120m)、琵琶塚古墳(全長123m)という栃木県では規模の大きい古墳が100m位の近さに存在し、両者は同形同大で、主軸も一緒ということから両者の連続性がうかがわれる。また栃木県の古墳の最大の特徴は前方後方墳が多いということだ。中でも足利市にある藤本観音山古墳は全長117mの前方後方墳で、栃木県で最大、東国では前橋八幡山古墳に次いで2位、全国でも5位の規模を誇る。4世紀後半に築造と推定されていて、西南西へ直線4kmくらいの所に太田天神山古墳がある。

千葉県

内裏塚古墳 千葉県富津市二間塚 前方後円墳 144m 5世紀中頃 
弁天山古墳   〃  富津市小久保 前方後円墳 88m5世紀後半

 千葉県は関東地方の南東部に位置する県で、『房総三国』、すなわち律令制以来の下総国の大半、上総国、安房国3ヶ国から成り立つ県である。古来より、海上交通を通じて発達し、東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多く、1990年(平成2年)時点で8665基の古墳と横穴が4083基が県内で確認されている。このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では74番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、南関東で最大規模を誇る。
 
6世紀後半になると、畿内では前方後円墳は姿を消し、古墳は小型化し、7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では、成田市にある印旛沼周辺地域の下総台地上にある龍角寺古墳群のように7世紀初めまで前方後円墳が築造されていた。この古墳群では岩屋古墳(7世紀前半~中頃、方墳、一辺78m)が有名だ。

 また神奈川県は律令制において相模国と呼ばれていた。弥生時代の遺跡は少なく、小規模で質も劣る。これは、弥生文化の進出が遅れたことを示すものと考えられる。また古墳も概ね小規模(神奈川県海老名市の瓢箪塚古墳、4世紀末~5世紀初頭 全長75mの前方後円墳等)で、出現は畿内に1世紀以上後れた4世紀の中頃ないし後半とされる。

 しかし何と言っても関東地方における古墳の密集地帯は群馬県である。東国(東海・甲信・関東地方)では圧倒的な質と量を誇り、昭和10年の全県域の調査により8,423基の古墳の存在が明らかになり、全体では1万基以上が作られたと想定されている。
 下に掲示した図は群馬県主要古墳を地域別、年代別にまとめた図である。この主要古墳の変遷図を見ると大まかな勢力の移行が読み取れる。
          
                         群馬県主要古墳の変遷図
  この古墳変遷図を見ると、最初に出現した王者は前橋市朝倉の八幡山古墳の埋葬者だ。同時期に元島名将軍塚古墳と藤本観音山古墳の埋葬者も勢力を得るが、後が続かす衰退。この時期の古墳は3基ともなぜか前方後方墳で、それ以降は前方後円墳となる。八幡山古墳→前橋天神山古墳と続いた後、この勢力は力を弱めたようで、その後の古墳は規模が小さくなる。

 その後盟主権を得たのが、距離的には前橋市朝倉に近い倉賀野大鶴巻古墳(全長122m)と浅間山古墳(全長172m)の佐野町、倉賀野町地方で、少し遅れて群馬県東部の太田市で勢力を持つ朝子塚古墳(全長123m)や宝泉茶臼山古墳(全長168m)の豪族である。4世紀末、5世紀初頭はこの勢力が東西を二分していたと思われる。佐野町、倉賀野町地方は浅間山古墳後、何故か5世紀初頭に古墳築造がストップする時期があり、藤岡市の白石稲荷山古墳(全長175m)や岩鼻二子山古墳(全長115m)の地域に新たな勢力が誕生する何かがあったのかもしれない。

 それに対して太田市の勢力は益々力を持ってついに太田天神山古墳の王者に至るとその絶頂期を迎える。太田市近郊の伊勢崎市に御富士山古墳(全長125m)があり、共に5世紀中頃の築造であること、この2基の古墳のみ長持形石棺が確認されていることから、この2基の古墳は親密な関係があったと思われる。

 太田市の勢力は太田天神山古墳の埋葬された王者の後、急速に衰退し、その後古墳の勢力図は群馬県中央部と、西部藤岡市に分散し、古墳の規模も6世紀初頭の藤岡市上落合所在の七興山古墳(145m)を最後にせいぜい100mクラスの古墳に縮小されていく。但しこれは各地方共通の事項であり、外見は縮小されたが、内部石室や装飾品、副葬品は逆に豊富で豪華になる。

 このように5世紀半頃から6世紀初頭、二子山古墳が築造される以前の時期に存在していた関東地方の古墳はまさに大型古墳築造の絶頂期にあたっていた。もちろん各地方の豪族は古墳の規模の大きさによって己の力の象徴を誇り、競い合った時期だったのだろう。しかし二子山古墳築造時期はそのピークをすでに経過していた。上記群馬県の主要古墳の変遷図でも5世紀中頃築造の太田天神山古墳までは各地方は大きさを競い合っていたが、その後は1,2の例外はあれ、大半は100m以下の小、中規模な古墳が占めている。

 但し埼玉古墳群は、そもそも築造した経緯が違ったのではないかと考える。行田市周辺は他の地域に比べて築造開始時期が遅く、何の基盤も無い当地に、突如として畿内に匹敵する100mクラスの中型、大型前方後円墳が出現した。そのことは非常に重要な点である。つまりこの古墳群の王者たちは既に大型古墳を築造するノウハウを持っていた他地域の豪族であり、武蔵国出身の豪族ではなかったのではないかという事だ。元々は他地域の有力豪族が、王墓を選定する際にあらゆる条件をクリアしたこの地を終の棲家として選んだのではないだろうか。そしてそのヒントは埼玉古墳群近郊に存在する内陸の交易地「埼玉の津」ではなかったか。
 埼玉古墳群の王者にとってこの「埼玉の津」は多くの物資や文化が行き交いしていた水上交通の要衝の地だが、その一方で様々な極秘の情報を入手することが出来る政治的にも重要な地でもあったろう。その近郊に埼玉古墳群を築造することは交易から出る利益という内政面もさることながら、対外的には自身の権力の大きさをアピールできる一大モニュメントでもあった。前出したが埼玉古墳群の築造年代は5世紀末からで古墳時代では各地に比べても比較的遅れて出現した実力者だ。各地の前方後円墳を参考に模擬し、より見栄え良く、自分自身の、そして一族の繁栄の象徴としての古墳を大々的に築造する、それは他の地域ではすでに過ぎ去った過去のことだったことではあるが埼玉古墳群の王者にとってはどうしても避けて通れない、そして必然性のあることだったのではないだろうか。


 

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須影愛宕神社、須影諏訪神社

 京都府京都市右京区にある愛宕神社は全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在 は「愛宕さん」とも呼ばれる。火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。
 有名なところでは、天正10年(1582年)5月、明智光秀は戦勝祈願のために愛宕神社に参蘢し、本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため御神籤を引き、3度の凶の後、4度目に吉を引いたという。翌日、同神社で連歌の会(愛宕百韻)を催したが、その冒頭に詠んだ歌「時は今 あめが下しる 五月哉」は光秀の決意を秘めたものとされる。
 羽生市にも愛宕神社が数社存在し、この須影地区にも小規模ながら鎮座している。

所在地   埼玉県羽生市須影495付近
御祭神   火之迦具土神(かぐつち)(推定) ※[別記]火産霊神(ほむすびのみこと)   
社  挌   不明

        
 須影八幡神社から南へ歩いて行くと、須影公民館の南西で、羽生警察署 須影駐在所の西側に愛宕神社がある。こんもりとした小山の上にある本当に小さな社だ。一見古墳と思われるような印象を持つが、ネット等で調べても古墳ではないようで、おそらくこの塚は人工に盛ったものと思われる。思うにあたり一面の砂丘を利用し、土を盛ったようだ。
            
                愛宕神社正面。この社は一面の砂丘が非常に印象的。
 『風土記稿』には「(須影)八幡社 村の鎮守なり、慶安2年8月24日社領19石5斗余と賜ふ、別当真言宗蓮華寺」とある。別当最期の住職潮元は、安政4年から慶応元年まで8年の歳月を費やして、今日の本殿と拝殿を造営している。
(中略)
明治4年に村社となり、同40年には村内の白山社、愛宕社を合祀する。ただし愛宕社は災厄を恐れる旧氏子の要請により返還されて今はない。

 と書かれている。この愛宕社は村内と記載されている所から見てもこの須影愛宕神社ではないか、と思うがどうだろうか。

 
 須影愛宕神社の鎮座する須影地区一帯には「会の川」という河川が流れていた。この会の川は延長約18Kmの中川水系の普通河川で、羽生市上川俣付近を起点とし、旧忍領と旧羽生領の境界に沿って南下し、羽生市砂山で流路を東へ変えてからは、羽生市と加須市の境界に沿って流れる。最後は加須市南篠崎と大利根町北大桑の境界で、葛西用水路の右岸へ合流する。
 この会の川流域には日本でも大変珍しい内陸の河畔砂丘が存在する。会の川の流路に沿って自然堤防が発達しているが、その上には赤城おろし(冬の季節風)によって運ばれた砂が堆積し、砂丘を形成している。その中でも最も大きいのが、幅最大300m、延長3kmの志多見砂丘で、一部が埼玉県の自然環境保全地域に指定されている。
             
 近世以前の会の川は利根川の派川だったので、かつては相当な川幅と水量があったと思われ、しかもかなり老朽化した河川だったようで、沿線には広範囲に氾濫跡の自然堤防と内陸砂丘(自然堤防の上に砂が堆積した河畔砂丘)が分布している。利根川の土砂運搬作用と堆積作用、それと季節風によって形成された地形である。それらは羽生市と加須市の境界を流れる付近で顕著であり、特に内陸砂丘は羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見にかけて広範囲に分布している。

 この羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見地区の河畔砂丘は何時形成されたのだろうか。資料等の見解によると鎌倉時代にできたといわれている。というのも春日部市の浜川戸砂丘の砂の下から平安時代終わりの土器が出土しているのに対し、砂丘の上からは弘安6年(1283)と記された板石塔婆が出土している。
 したがって平安時代末から鎌倉時代前半に限定される可能性が高いといえる。しかしなぜ限られた時期に河畔砂丘が形成されたのかは今現在、正直なところ不明のようだ。

 須影愛宕神社は社自体は非常に小さい規模であるが、河畔砂丘という全国でも珍しい地形の上に鎮座していることを考慮して、今回特別に掲載した次第だ。


 須影愛宕神社の東側には須影諏訪神社が鎮座している。須影愛宕神社と同じ小高い山の頂上に祠の本殿がある。
所在地    埼玉県羽生市須影
御祭神    建御名方命(たけみなかた)(推定)
社挌、例祭 不明
             
 須影諏訪神社は小高い丘の上に鎮座しているので一見古墳か?と思ったが、須影愛宕神社同様、おそらく人口に盛ったものと思われる。小さな祠が山頂付近にあるだけなので案内板もなく、故に由緒等は不明。

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小松三神社

 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・ 平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って 累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。
 嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。ただ重盛は温厚・誠実な人柄で後白河院の信任も厚く、『平家物語』において平氏一門の良識派的な存在とされていることも、その人柄が後世に伝わっていたことによると思われる。
  清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。享年41歳。し、歴史のイフが許されるとして重盛が長生きしていたとしたら、平氏の歴史は違った形で存続していたのかも知れない。 重盛の死の2年後には父清盛が、さらに4年後には壇ノ浦にて平家は急転直下に滅亡することになる。
 ちなみに重盛は六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣と称された。

 羽生市小松地区は元々平氏の荘園があったとされ、それ所以か小松三神社は承安年間(1171~1175)小松内大臣重盛が当社に熊野白山両権現を勧請したのが始まりという。

所在地   埼玉県羽生市小松280
御祭神   伊弉諾命,伊弉冉命,小松大明神(小松内府平重盛公)
社  挌   旧郷社
例  祭   7月15日夏季例祭・7月31日大祓祭(輪くぐり)・11月23日献穀祭

       
 
 小松三神社は国道125号行田バイパスを東に進み、国道122号と合流する前の小松交差点を左折し、約500m北上すると左側に赤い立派な鳥居が見えてくる。よく見ると東向きの鳥居から真っ直ぐ進む道があり、南側に松林があるところから、この鳥居の前の道は嘗ては社の参道だったのだろう。
 鳥居の脇に駐車場があり、そこに停めて参拝を行った。
         
鳥居の先、右側には「郷社 小松神社」の古い社号標があり(写真左)、神社の北側には弁財天が祀られている。(写真右)
           
                 鳥居の扁額には「小松三神社」と表記されている。
    
 案内板によると、小松神社は、熊野白山合社と小松大明神を合わせて、小松三神社と呼ばれていたそうだ。新編武蔵風土記稿では、「羽生領七十二ヶ村の鎮守となり」と書かれ、この地方では信仰を集めていたらしい。
           
           
                              拝   殿
           
                              本殿覆屋
           
          本殿覆屋の中の本殿は、白山神社(左側)、熊野神社(右側)が並んで鎮座

 今を遡り、景行天皇の代(55年)日本武尊が東征の途次小祠を建立し、伊弉諾命・伊弉冉命に二柱を祀ったと言われ、承安年間(1171〜75)の小松内府・平重盛が没し埋葬地の目印に銀杏が植えられ、脇に小松大明神として祀られ、この時代に社殿が創建されたと伝えられている。
 天文5年(1536年)に、羽生城主・木戸忠朝と館林城主・広田直繁が奉納した「三宝荒神」が鎮座している。
 慶安元年(1648年)羽生領72町ヶ村の総鎮守となり、家内安全、商売繁盛、交通安全祈願まで多くの氏子から崇められている。
 また「新編武蔵風土記稿」小松村の項には「熊野白山合社 羽生領七十二ヶ村の鎮守なり、社領二十石は慶安元年七月十一日賜へり、勧請の年代を伝へされど、古は大社にて、宝蓮坊・安養坊・善林坊・宝珠坊・不動坊・山本坊・明見坊等の供僧ありしと云伝へ 以下略 末社 小松明神 重盛をまつりし社と云う、と記述されている。
           
                      社殿の北側に鎮座する小松大明神
 本殿内にある白山神社、熊野神社、そして小松大明神の三社で小松三社と称した。小松三神社内にある小松大明神の由来として、重盛が治承3年(1179)に没し、重臣の筑後守貞能は出家し、追善の為に小松寺を造営、遺骨は重盛が日ごろから崇拝し、自らが勧請した熊野白山両権現のそばに埋葬され、目印として銀杏を植え、脇に小松大明神が建立された。なお、小松と称する所は、当地に限らず下総・加賀・出羽の国々にもあり、それぞれに小松寺が建立されているが、これは小松内府重盛の霊を慰めるために造営されたものといわれる。
                 
                   小松大明神の脇にある小松三神社の銀杏
 平凡社「埼玉県の地名」によると、天和2年(1682)に鋳造されたと伝える銅鐘の銘文の写しが神社に残っているらしい。それには次のようなことが記されているという。
 承安年間(1171~75)、小松内府平重盛(たいらのしげもり)が当地に熊野・白山両権現を勧請、本地仏として阿弥陀如来・十一面観音を安置した。重盛没後、重臣筑後守平貞能が出家して小松寺を建立。重盛の遺骨は両権現のそばに埋葬して、目印のためにイチョウを植えたという。真偽の程は定かでないが、幹の太さといい、かなりの年代物の巨木であることは確かだ。

 小松三神社は嘗て羽生領72町ヶ村の総鎮守だった故に上記の弁天社他、境内には浅間社、日枝社、
伊奈利社等、多数の境内社、合祀社が存在する。
 
 
 

 羽生市を含む埼玉県の東部は、関東平野のほぼ中央部に位置し、利根川や中川にそって上流から妻沼低地、加須低地、中川低地と続き、低地に囲まれるように大宮台地が大きな島状にある。このうち加須低地は、利根川中流域の低地のひとつとして南の大宮台地と北の館林台地の間に位置している。
 ところが加須低地の場合、ほかの低地とは少々違う点があり、 ひとつは自然堤防と思われる微高地の地表のすぐ下からしばしばローム層が発見されることだ。通常低地の浅い部分の地下にローム層が存在することは一般では考えられないことで、しかもなぜか微高地の下にローム層があり、後背湿地の下からは見つからない。ふつう自然堤防と後背湿地の構造的な違いは表層部付近だけであり、地下はともに厚い沖積層が続くものといわれている。
 もうひとつは後背湿地と思われる部分の一部では軟弱な泥炭質の層が著しく厚いことだ。代表的なのは羽生市三田ヶ谷付近(現在さいたま水族館がある付近)で、泥炭質の層が10mもある。水はけが悪くぬかるため、縦横に溝を掘った堀上田と呼ばれるこの地域独特な田んぼがかつてはあちこちで見られた。

 さらに、昭和54(1979)年、羽生市小松では地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没していることが調査の結果判明した。また行田の埼玉古墳群や真名板高山古墳なども本来台地の上につくられたものが、2、3mの沖積層(古墳が築かれた後に堆積した土砂)で埋まっていることが明らかとなった。
  これらのことから、加須低地のすぐ下には台地が隠れている(俗に埋没台地という)ことが分かり、加須低地は沈んだ台地の上にできた特殊な低地だった。埋没台地の存在は加須低地を特長づけるもので、台地性微高地や谷地性低湿地は加須低地の特異な地形という。

 
 小松三神社周辺には嘗て小松古墳群が存在していたという。が、この利根川の乱流、氾濫による土砂の堆積と、関東造盆地運動と言われる沈降により現在は埋没古墳となり、地下2,3m掘らなければ発見できないという。実際にこの古墳の存在は、下水道工事で偶然発見されたのだ。小松埋没古墳は、完全に埋没しており、その形態が前方後円墳なのか円墳なのかもわかっていない。石室は地表から1.2mのところにあり、床面までは3mという深さだった。小松1号墳と命名、発掘調査が実施された。
 

  • 小松1号墳
    • 標高17.9m、地表下1.2mから主体部が発見された。主として角閃石安山岩を用いて構築され、奥壁まで胴張りがある複室構造の横穴式石室で、ほぼ南向きに開口している。石室の規模全長4.68m、高さ2m。床面には拳大の河原石が敷き詰められている。
    • 大刀2、鉄鏃2、瑪瑙製勾玉1、水晶製切子玉7、碧玉製管玉1、ガラス製丸玉6、滑石製臼玉1、ガラス製小玉121、耳環6が出土。このほか骨、歯、赤色顔料が確認されている。遺物は平成25年3月26日付けで羽生市有形文化財(考古資料)に指定された。

 石室の構造、副葬品の検討から7世紀前半の築造とみられる。

 古墳を埋めてしまう力が河川にはある。事実、真名板高山古墳は現状90.5mの中型古墳だが、築造当時は127mの埼玉地方でも二子山古墳に次ぐ大型古墳で、周囲には深さ2メートルもの二重堀が張り巡らされたのである。河川は大いなる災いを齎す破壊者でもあり、また平和時であれば人々に恵みをもたらす幸福の使者でもあった。

 それ故に河川を制する者は、土地をも制することが可能となる。埼玉古墳群の王者のように。



 


 

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