古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

皿尾久伊豆神社大雷神社合殿

久伊豆雷電合社
 村の鎮守とす。縁起に文治44月成田五郎長景、伊豆国三嶋社を勧請せし所なる由記したり。成田五郎は承久の乱にも出し人にて、東鑑に見ゆ。されど久伊豆は郡中騎西町場に大社ありて、近郷是を勧請するもの多し。当社も恐くは其類ならん。社に永禄2年左衛門三郎と云ものの寄附せし鰐口を掛く。其図下に出す。此余天正5年中村丹波守守吉が寄附したる鰐口ありしが、何の頃か失ひしと云。社人、青木主殿。入間郡塚越村、住吉神職勝雅楽が配下なり。
・八幡社  村民持
・神明社
・天神社
・駒形明神社 以上三社 泉蔵院持                   新編武蔵風土記稿より引用
        
             
・所在地 埼玉県行田市皿尾393
             ・ご祭神 事代主命・別雷命
             ・社 格 旧村社 旧皿尾村鎮守  創建 文治4年(1188年)
             ・例 祭 例大祭 728
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.14366,139.4384419,16z?hl=ja&entry=ttu

 行田市皿尾地区に鎮座する久伊豆神社大雷神社合殿は国道125号線を行田市街地方向に進み、「行田市役所入口」交差点を左折する。埼玉県道303号弥藤吾行田線に変わり、その道を道なりに進む。途中忍川手前付近でY字路を左方向に進み、忍川を越えてから暫く直進すると正面の細い道の先が社の参道入口になっていて、その先に鳥居が見える。
        
               皿尾
久伊豆神社大雷神社合殿正面
「ふるさと館皿尾センター」が鳥居をくぐった先にあるのだが、神様の通る道を乗用車でくぐるのは失礼かと思い、鳥居手前に僅かに駐車できるスペースに停めて、急ぎ参拝を行った。
 鳥居手前には神橋がある。皿尾地域は荒川の分流である星川、旧忍川の間にあり、豊富な湧き水により古代から水田稲作が盛んにおこなわれていたという。
        
                    参道を撮影
 
西方向に参道が伸びるが途中で北に折れ曲がり社殿に至る。正面にはふるさと館皿尾センターが見える。因みにふるさと館皿尾センター手前には「皿尾城」の石碑あり。
        
          ふるさと館皿尾センター入口手前にある木製の二の鳥居
            参道からは直角に入るような配置となっている。
 
    参道途中にある手水舎(写真左)。手水舎脇にちょっとおしゃれな花手水を鑑賞(同右)

 「皿尾」という地名『埼玉県地名誌』には次のように記している。「皿尾の皿(サラ)は乾いたところないし製陶地を意味する。したがって皿尾とは陶器を製造した平坦地の意となろうか。この地が製陶に適した土地であることについては、「武蔵国郡村誌」の皿尾村の条に「地味、薄黒埴を帯ぶ」と記しているのは注目すべきである。
 
「埴を帯ぶ」と記した埴は粘土、赤土の称で、上代土器をつくる必要欠くべからざるものとされていたものである(中略)」
 また『埼玉県の地名』には「古墳時代の集落遺跡」があったと記しており、これらを踏まえると、皿尾村はまさに「製陶地」だったのではなかろうか。
                 
                     拝 殿
 皿尾地区西側近郊には池上・小敷田遺跡が存在する。池上・小敷田遺跡は、熊谷市と行田市にまたがる遺跡で、秩父山地に発する荒川が関東平野に流れ出て形成した荒川扇状地の扇端付近に立地し、荒川から扇状に分流する星川と忍川の間の低地部に位置する、
 これらの遺跡は妻沼低地の自然堤防上に立地する弥生時代中期中葉から江戸時代までの複合遺跡である。池上遺跡では環濠集落、小敷田遺跡では関東地方で最古段階の方形周溝墓が見つかっており、関東地方における水稲農耕集落の定着を証明した弥生時代中期中葉の遺跡として学史的にも有名である。出土遺物には、在地の土器や石器、土偶などの他に北陸地方の小松式や東北地方南部の南御山Ⅱ式、北信地方の栗林式などの外来系土器が発掘されている。
 
 久伊豆神社・大雷神社並列にて表記された扁額          拝殿内部

 皿尾
久伊豆神社大雷神社合殿の社宝として直径七寸四分の鰐口がある。永禄二年(1559)十一月三日、左衛門三郎奉納とある。
市指定有形文化財 久伊豆神社大雷神社合殿の鰐口
 鰐口とは、寺院や神社の拝殿の軒先に吊り下げられ、参詣者が綱を振って打ち鳴らす鈴です。偏平な円形状で、上部には吊るすための耳が2つあり、下部は細長く開口しています。この鰐口は、直径20.5センチメートル、厚さ8センチメートルの偏平形で、全体に緑青(錆)に被われていますが、特に損傷はありません。同じ規型で前後両面の雌型を作り鋳造したもので、耳は前後各面に一箇ずつ鋳出されています。湯口は上部中央にあり、目は突出し、先端部はそぎあげられています。撞座(つきざ)には簡略化された蓮子が8個(中心に1個、周囲に7個)表出されています。撞座から外側に向かって内区、外区に区分され、その外区の右側には「奉掛鰐口」の銘文が刻まれ、「鰐口」の下に続く銘文の痕跡があります。左側には「永禄二年十一月三日願主右衛門三郎」の銘文が刻まれ、月日の横に小文字で「鋳物師田井」と鋳物師名が刻まれています。
 久伊豆神社の所在する皿尾には、かつて皿尾城(掻上城)が所在し、上杉謙信が忍城攻めの拠点とした事で知られていますが、この鰐口は、永禄二年(1559
)の紀年銘を持ち、伝来も「新記」などにより明確であり、地域の歴史を反映する貴重な資料です。 
                                   行田市HPよりより
引用

 
    久伊豆神社大雷神社合殿境内社        久伊豆神社大雷神社合殿神輿庫
       
                拝殿手前・左側にある春日杉。
          御神木の春日杉から蛇が出ると雷雨になると言われている。
        
                                   拝殿からの一風景
 皿尾久伊豆神社大雷神社合殿は、皿尾を拠点としていた成田五郎長景が伊豆国三嶋社を勧請して文治4年(1188)に久伊豆社として創建したと伝えられている。三島神社のご祭神が事代主命でもあり、本来久伊豆神社のご祭神が大己貴命である矛盾は上記の件で納得できる。
 大雷神社が合祀された時期は不詳だが、新編武蔵風土記稿には久伊豆雷電合社と記載されており、江戸時代後期には合祀されていたようだ。明治6年村社に列格、明治41年に皿尾字駒形の伊駒神社(駒形明神社)、皿尾字仲ノ在家神明社、皿尾字仲ノ在家天神社を合祀している。
        

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斎条劔神社

         
               ・所在地 埼玉県行田市斎条1255
              ・ご祭神 日本武尊
              ・社 格 旧斎条村鎮守・旧村社 
              ・例 祭 春祭り 416日 夏祭り 726日(天王様も併せる)
                                     秋祭り 1016日(お日待とも称す)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1776464,139.4485394,15z?hl=ja&entry=ttu
 斎条劔神社は国道125号行田バイパスを羽生方面に進み、途中「総合運動公園前」の交差点を左折し、埼玉県道199号行田市停車場酒巻線を利根川方面に道なりに進む。埼玉県道199号線は行田市街地外れの和田地域から南河原地域の犬塚までの路線であるが、車幅が狭く屈曲している地点も多くあり、安全運転に努める必要性がある。行田市消防署分署を越えると前方右方向にこんもりとした社叢が見える。そこが斎条劔神社であり、社叢の西側で県道沿いに南北に広がる駐車スペースがあり、そこに車を停めて参拝を行った。
 社殿周辺は斎条古墳群と呼ばれる古墳群となっていて、この劔神社は斎条1号墳という古墳群を代表する円墳上に祀られている。
        
                   斎条劔神社正面
        
                       拝 殿             
  斎条村 第十一冊-頁六十七
  村の鎮守なり。(新編武蔵風土記稿より引用)

 当地は西条とも書き、条里制水田に由来した地名である。社記によれば景行天皇の御代御諸別王が勅命を奉じ、父彦狭島王に代わり東国都督となる。この時、王は当地開拓の祖である日本式尊の霊を、水陸の要にある当地を選んで、東国鎮護の神として祀る。更に、康平5年には八幡太郎義家が安倍氏を征伐するに当たり、社前に馬を休めた。これにちなんで八幡社を併せて祀る。また、応永年中忍城主成田左京亮家が神威を崇め神田を寄進する。更に、徳川家康が江戸に入り、社領十石境内数町を除地する。
 古老の話によれば、当社には愛染明王像が祀られていたが、神仏分離の折、宝泉寺に移されたという。往時この像を納めていたと思われる箱の裏書きには「元禄六癸酉杷919日 明治2己巳年529日改」とあり、神璽箱の裏書きには「明治2己巳年529日御改 忍藩岡村覚太郎様 民政社寺御掛立会清水圭太郎様 名主萎澤六左衛門 同見習千五郎 組頭 松岡平六 大次郎 又三郎 反次郎 吾十」とある。このほか釈迦如来像を安置している。
 幕末まで真言宗金剛山阿弥陀院宝泉寺が別当を務めていた。
 明治4年に村社となり、同43年には字大道の八坂社、白幡の諏訪杜・天神社、江川の雷電社、北反戸の浅間社、新田の熊野社、八幡の八幡社・矢矧社を合祀した。    
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                      本 殿
 
        社殿左側に鎮座する               境内社・八幡社
 浅間・雷・天満・矢矧・熊野・諏訪の各境内社    本殿と隣接するように鎮座している
   拝殿の左側に鎮座する境内社・八坂神社     拝殿と八坂神社の間にある石碑(?)
                          表面が削られているように見える。
   
 社殿周辺は斎条古墳群と呼ばれる古墳群となっていて、この劔神社は斎条1号墳という古墳群を代表する円墳上に祀られている。
 斎条古墳群は利根川の堤防を北方約1キロにのぞむ標高20m程の微高地に築造された。中心となる古墳は、剣神社の鎮座する直径40m、高さ3mの剣神社古墳と呼ばれる埴輪を持つ古墳で、斎条1号墳とも呼ばれ、円墳と推定されている。この古墳の周辺には8基の古墳跡が確認されている。昭和36年(1961年)水田下から埴輪が発見されたのを契機に斎条5号墳の発掘調査が行われた。
 斎条古墳群の存在する行田市斎条は、加須低地に位置していて、この加須低地は関東造盆地運動により、利根川からの河川堆積物を受けて徐々に沈降しているため、古墳群の墳丘自体も沈降している。
 近郊には酒巻地区があり、関東造盆地運動により沈降した「酒巻古墳群」も存在する。
       
              田園地帯に囲まれて静かに佇む社。
        
                   斎条劔神社遠景                            
 
 

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矢那瀬八幡神社


        
              ・所在地 埼玉県秩父郡矢那瀬566
              ・ご祭神 
誉田別命
              ・社 格 旧矢那瀬村下郷鎮守
              ・例祭等 
春祭り(315日に近い日曜日)
                   秋祭り(
1015日に近い日曜日)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1339985,139.1492805,16z?hl=ja&entry=ttu
 矢那瀬八幡神社は国道140号線を長瀞町方面に進み、波久礼駅前交差点を越えて暫く進む。進路が南北方向から東西方向に変わり、右側に河岸段丘が広がる地点で、国道に並走する秩父鉄道の踏切を渡る。この道は道幅は狭いが、嘗て秩父往還道でもあり、道なりに真っ直ぐ進むと矢那瀬八幡神社に到着する。

 矢那瀬地域は
東へ向かって流れて来た荒川が急激に南へと流路を変える地点であり、断崖絶壁が荒川に迫っていて、かつては破崩(はぐれ)や端崩とも呼ばれており、ここは崖崩れが多発し、古くから秩父往還における最大の難所であった。山が渓谷に迫る狭隘かつ急峻な地形で、徒歩は最短距離である左岸側の川縁の道を通り、荷物は馬では通行不能なため、竿舟を用いて舟運で運搬するか、現在の八高線荒川橋梁のやや下流側の地点にある「子持瀬の渡し」で荒川の対岸に渡り、奥武蔵北部の釜伏峠や粥新田峠(かゆにたとうげ)の峠道を迂回して曽根坂峠から大野原へ至っていたという。(Wikipedia参照)
        
                  矢那瀬八幡神社正面                    
        
          
神社の入り口にある除隊記念の碑。砲弾が置かれている。
 
  入口を過ぎると開放感のある空間が広がる   拝殿右側には社務所があり、案内板も設置。

八幡神社 御由来    長瀞町矢那瀬五六六
◇猪俣氏虎ヶ岡城の鎮守として祀られた
 矢那瀬の地は上郷・下郷に分かれ、この社は下郷の鎮守とされている。秩父郡の極端で、大里郡と交堺する地である。
 
荒川の両岸には山が迫り川幅は狭まり、流れは矢が飛ぶような瀬となることから「矢な瀬」と称したという。また、魚を獲る簗(やな)を構える適地のために地名となったともいう。
 
当社東方の後背部山上には、児玉郡猪俣に土着した猪俣小平六範綱(又は則家とも)が出城として虎ヶ岡城を築き、当社はその鎮守として武運長久を祈る処となったという。虎ヶ岡城から尾根伝いに大槻峠・陣見山へと抜ける道は児玉郡との境をなし要地でもあった。
 『新編武蔵風土記稿』は、当社を「八幡社大月にあり、村の下郷の鎮守、村持、例祭八月十五日、無年貢地、槻杉の叢林なり」と記載している。
 明治28年(18951210日矢那瀬に大火が起こり、当神社の類焼をもって鎮火へと向かい、住民の家は焼失を免れ、住民らはこの御神徳に感謝し同32年(1899)欅材を主材とした立派な社殿を再建し盛大な遷座祭を行ったと語り継がれている(中略)
                                       案内板より引用
        
                      拝 殿
        
                綺麗に彫刻された向拝部の鶴等
 
                拝殿木鼻部位の彫刻(写真左・右)
 妙見信仰は北極星や北斗七星を神格化した信仰である。古代、中近東の遊牧民や漁民に信仰された北極星や北斗七星への信仰は、やがて中国に伝わり天文道や道教と混じり合い仏教に取り入れられて妙見菩薩への信仰となり、中国、朝鮮からの渡来人により日本に伝わったといわれる。
 秩父神社の社伝によると、平良文は朱雀天皇の承平元年(九三八)、甥平将門と力を合わせ、上野国群馬郡府中花園村(群馬県群馬郡群馬町)の染谷川のほとりで、兄常陸大掾国香と合戦(別伝には良文と将門の合戦とある)したが、良文の軍は次第に苦戦に陥り、ついに主従七騎になってしまった。そのうえ良文も落馬して絶対絶命の窮地に追込まれた時に、突然雲中より現われた童形の「羊妙見菩薩」の加勢によって勝利を得た。そこでこの妙見を祀る七星山息災寺を尋ねると、七仏薬師が安置され、その主尊が羊妙見菩薩だったので、これを奉持し、妙見のしるしである月と星の紋を家紋とするようになった。
          
                      本  殿                     
秩父七妙見」とは、「秩父志」によれば、江戸末期に武蔵国秩父郡の総鎮守である秩父妙見の分社を、郡境の交通の要所七ヶ所に攘災の守り神として配置したのが始まりとされ、妙見神社を北極星として、七妙見を北斗七星に見立てて、考えられたと思われる。
 以下の場所に配置されていて、埼玉県南北に分断する平野部から台地部の境界線上に位置している。
 第1所:小鹿野町藤倉
 2所:皆野町金沢
 3所:長瀞町矢那瀨
 4所:東秩父村安戸
 5所:都幾川村大野〔現 ときがわ町大野〕
 6所:名栗村上名栗〔現飯能市上名栗〕
 7所:飯能市北川
 この 7 カ所の妙見社は「秩父七妙見」と称され、秩父妙見宮(現 秩父神社)の鬼門にあたる箇所に置かれたといわれていて、矢那瀬地区にもその妙見社が存在していたという。『新編武蔵風土記稿』矢那瀬村、末野村にはそれに該当する記述はないが、「秩父誌」にはこのように記載されている。
「秩父誌」
矢那瀨妙見ノ社ハ今ハ榛澤郡末野村ノ境内ニ入リ属ス、往古ハ此末野村ノ内ノ境川ト云。秩父郡ノ郡境トス、此ノ妙見神祠ハ秩父七所妙見ノ四個所ニテ、大宮町妙見神ヲ郡境
ノ村々七所ニ遷請シ奉ル所ナリト云フ。往昔ハ矢那瀨村ノ総鎮守ナリシガ今ハ末野村ノ総鎮守トナリテ、初穂此村ヨリ献ジ祀ルト云

 現在末野神社に合祀されているようだが、嘗て参拝した時にもそれらしい社・石祠も確認できず、明治四十二年に末野神社に合祀となった字関口の無格社天御中主神社がこれにあたると推測するホームページの記載もあったが、それを裏付ける資料等もなかった。
『新編武蔵風土記稿』金尾村には白鬚神社境内に「妙見社」の存在が記載されているが、これも判明できていない。今後の検討課題である。
 
   社殿奥に鎮座する境内社 八坂神社       八坂神社隣には武尊山大神の石碑

 国道140号線は嘗て秩父往還道とも呼ばれ、その中で、寄居町末野地区から矢那瀬地区の間に存在する秩父鉄道「波久礼」駅は荒川が東西から南北に直角方向に蛇行する断崖絶壁部の南端に位置する駅名である。「波久礼」、姥宮神社の鎮座する「風布」にも感じた優美でありながらどこか神秘的な響きを以前から抱いていた。
 秩父地方は武蔵国の成立に先立ち知知夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)が置かれ、独自の行政機構を維持した時期もあったといわれている。更に周囲が山脈に囲まれているため、外界とは峠を通じてゆるやかにつながる中山間地域として、独自の風土・歴史・文化が形づくられてきた。
 秩父地域における東の玄関口ともいえる矢那瀬・末野地区の中間点に位置する「波久礼」はまさに自然の要害地である。この名前由来として解説本で多いのは、嘗てこの地は「破崩(はぐれ)」や「端崩」とも呼ばれていた。東へ向かって流れて来た荒川が急激に南へと流路を変える地点であり、断崖絶壁が荒川に迫っていて、崖崩れが多発し、古くから秩父往還における最大の難所であったことから上記の名前になったという。山が渓谷に迫る狭隘かつ急峻な地形で、徒歩は最短距離である左岸側の川縁の道を通り、荷物は馬では通行不能なため、竿舟を用いて舟運で運搬するか、現在の八高線荒川橋梁のやや下流側の地点にある「子持瀬の渡し」で荒川の対岸に渡り、奥武蔵北部の釜伏峠や粥新田峠(かゆにたとうげ)の峠道を迂回して曽根坂峠から大野原へ至っていたという。(Wikipedia参照)
        
           陽光が差し込み、開放感ある矢那瀬八幡神社境内
                 
 秩父鉄道は明治32年(1899)に創立され、波久礼駅は明治3641日に開業された。波久礼から先の路線延長の進展は困難で、周辺の地形が崩れやすく、岩盤が荒川に直下に臨む断崖絶壁だったが、波久礼駅~金崎駅(現在の秩父駅)間の工事を終え、営業を開始したのは昭和44年(1911)。この区間の工事がいかに大変だったのかが分かるであろう。先人の方々の苦労があって、今我々は苦労なく長瀞・秩父地域に行くことができる。感謝の念にたえない。
「波久礼」は今でこそ「木造駅舎が今でも存在するレトロな雰囲気の漂う懐かしい駅」として駅周辺にもその独特な余韻が漂い、昭和の時代にタイムスリップしたような高度成長時期に青春を謳歌した我々には、少しのほろ苦さと嫌みのない歴史を感じさせてくれる貴重な地域である。秩父鉄道の各駅には「波久礼駅」の他にも数多く懐かしさを感じさせてくれる雰囲気のある駅が多く存在する。筆者は秩父鉄道が好きで、パレオSL蒸気機関車にも2度程乗っているし、休みの日には、SLを含む列車の写真撮影を、他の鉄道ファンと共に沿線上の空き地で待って、激写することを今でも楽しみの一つとして行っている。因みに知り合いの中では「秩父鉄道」とは言わず、「チチテツ」と愛称で呼び合っている。

 現代社会はとかく「グローバル社会」と騒がれ、国境を取り外して、地球全体として一つの共同体意識を持つ事を「是」とした国際社会の流れがあり、自然と個性やナショナリズムを否定する風潮が闊歩する中、このような個性あふれる駅等のような存在が未だ日本にはあり、その貴重な遺産をこれからの人々にも受け継がれることを切に願いたい。やはり「個性」が尊重されてでの「グローバル化」ではなかろうかと、神社参拝とは違う事項ではあるが、筆者は最近ふと思った次第だ。

     

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簗瀬神社

 秩父郡野上郷矢那瀬地区は大きく蛇行して流れる荒川沿いの河岸段丘に位置する集落で、地名は荒川の流れの速さを「矢の瀬」と表現したことに因むともいわれている。かつて荒川に沿って秩父往還道が走り、矢那瀬集落には宿駅が置かれていた。
 同時に
このあたりは県内屈指の養蚕地帯でもあったという。
【新選武蔵風土記稿】秩父郡之六 矢那瀬村
 
産物は烟草(今でいうタバコ)・絹を第一とし、農隙には男は薪を採、女は絹太織を製して資用に給せり、御打以来御料所にて、明暦元年伊奈半十郎検地し、貢税を定む。
 
秩父一帯では江戸期から養蚕が盛んだったが、後年単に生糸を産するだけでなく、絹織物の生産までを行うようになり、秩父銘仙の産地となったという。 
        
             ・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町矢那瀬1380
             ・ご祭神 日本武尊 天之狭霧神
             ・社 格 不明
             ・例祭等 春祭り 315日 秋祭り 1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1329869,139.1415987,18z?hl=ja&entry=ttu  
 簗瀬神社は国道140号線を長瀞町方面に進み、波久礼駅前交差点を越えて暫く進むと右側に緑色の屋根のあるディサービスセンターがあり、そこのT字路を右折するとほぼ正面に
簗瀬神社の鳥居と社が見える。左隣に矢那瀬集落農業センターがあり、そこの駐車スペースを利用して参拝を行った。
        
                              簗瀬神社正面
       
                            鳥居の左側に設置されている案内板             
         
                     拝  殿
            拝殿は東西の割拝殿という極めて珍しい形式のもの 

 簗瀬神社御由来   長瀞町矢那瀬
1380
 ◇
割拝殿が関東では珍しい
 矢那瀬の地は
上郷・下郷に分かれ、当社は上郷の鎮守として祀られる。
 御祭神は日本武尊で尊の徳を称える里の人が弘安年中(12781288)に祀ると伝える。矢那瀬の地は北の大月山と南の金尾山が荒川岸まで迫り、また複雑な地形が濃霧を発生させる交通の難所であるため、正安年中(12991302)に天之狭霧神を併せ祀り「霧明神」とも「霧の宮」とも称した。
 元禄3年(1690)の棟札には「毘沙門天宮」と記され、社蔵されている。一間社流れ造の本殿は室町期の風を残すともいわれ、とりわけ拝殿は東西の割拝殿という極めて珍しい形式のもので、群馬県片品鎮座の武尊神社に同形式の拝殿がある。武尊神社の拝殿は同族や集落によって東西に分かれ祭祀を行う宮座によって生じた形式であることから、当社も古くは同様の祭祀組織のあったことが想像される。
 なお字北久保の地蔵堂には、室町時代の特徴を示す埼玉県指定有形文化財考古資料の「石幢」がある。                                   案内板より引用
 
   一間社流れ造の本殿(写真左・右)。その造りは室町期の風を残すともいわれている。
    
板張りの覆屋内には本殿を中心に左側に稲荷社、右側に三社神社が鎮座している。
         
 本殿の礎石・束石の周りのみならず、社殿の参道や階段等には緑泥石片岩が綺麗に敷き詰められている。この緑泥石片岩は三波川結晶片岩の薄く剥がれやすい特徴(片理:へんり)を利用してつくられており、樋口駅から北西約1500mのところに石材を採掘した「板石塔婆石材採掘遺跡」がある。ここの石材は「秩父青石」と呼ばれ、関東一帯で石皿や石斧、板碑として古くから使われてきたという。
       
                書家、
菅谷幽峯書きの             拝殿右側に鎮座する境内社
                  天手長男神の石碑

 
簗瀬神社の御祭神は日本武尊と共に正安年中(12991302天之狭霧神(あまのさぎりのかき)が祀られている。日本武尊は宝登山神社の御祭神でもあり、秩父地域にも白鳥伝説等ゆかりのある神であるが、天之狭霧神はあまりメジャーな神ではないので、改めて調べてみた。
天之狭霧神
古事記にのみ登場する神で、古事記ではイザナギとイザナミの孫にあたり、サギリとは霧のことで、霧に宿る神とされる。
【古事記 原文】
 此大山津見神、野椎神二神、因山野持別而、生神名、天之狹土神、(訓土云豆知。下效此)次國之狹土神、次天之狹霧神、次國之狹霧神、次天之闇戸神、次國之闇戸神、次大戸惑子神、(訓惑云麻刀比。下效此)次大戸惑女神。自天之狹土神至大戸惑女神、八神。
【現代語訳】
 
この大山津見(おおやまつみ)神と野椎(のづち)神の二柱の神が、山と野を分け持って、生んだ神の名は、天之狭土(あめのさづち)神、次に国之狭土(くにのさづち)神、次に天之狭霧(あめのさぎり)神、次に国之狭霧(くにのさぎり)神、次に天之闇戸(あめのくらど)神、次に国之闇戸(くにのくらど)神、次に大戸惑子(おおとまとひこ)神、次に大戸惑女(おおとまとひめ)神。天之狭土神より大戸惑女神まで合わせて八柱の神である。
                  
・古事記ではイザナギとイザナミの子とされる山の神「大山津見神」と野の神「鹿屋野比売神」との間に以下の四対八柱の神を生んでいて、その中の一柱である。
 父神である大山津見神縫い関して神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、は「大いなる山の神」という意味となる。その山と野の神である大山津見神と野椎神の二神が、山野に関係する8柱で対をなす4組の神々を生む。
・天之狭霧神、国之狭霧神は、それぞれ、あめのさぎりの神、くにのさぎりの神と読む。本居宣長は「さぎり」の「さ」を「坂」、「ぎり」を「限り」とし、これを「境界の神」としているが、ここでも「さ」を一般的な接頭辞として「霧の神」と取るのが妥当だと思われる。
*「狭霧」は現代でもそのまま使われる言葉(接頭辞「さ」+「霧」)
*話がややこしくなるが、
出雲の大国主の子孫の系譜に天狭霧神(アマノサギリ神)がいて、遠津待根神(女神)の親神として名前が挙がっている。これがイザナギとイザナミの孫として生まれた天之狭霧神かどうかは解明されていない。

 古来から矢那瀬地区周辺は山と川が複雑な地形をなしているため、濃霧がしばしば生じ、見通しが悪く、交通の難所の一つに数えられる程であったことから、災難除けとして正安年間に天之狭霧神を当社に併せ祀り、霧明神社と称したと伝えられる。
 

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野上下郷瀧野神社

 瀧野神社 御由緒 長瀞町野上下郷一二一八
 ◇荒川の滝にかかわる伝説の社
 『新編武蔵風土記稿』に「往古この所荒川の流れに、両岸岩にて狭まりし所、川瀬の中に巨岩ありて瀧となりしが、何頃にや洪水の時、此の岩破れ今は瀧なけれども、今に小名に唱ふ、瀧野社例祭九月二十九日、小名瀧上の鎮守なり、此社往古荒川の北岸にありしを、今の地に移せしと云、神職柳若狭吉田家の配下なり」と記載する。
 御祭神は日本武尊で秩父に足を踏み入れた尊の徳を称え奉斎したと伝えている。
 境には熊野神社も祀られ「おくまんさま」と呼びならわし、安産の御神徳が高いとして多くの参拝を得ている。安産を願うものは「安産帯」を受け、社頭から「底抜けのひしゃく」を借り受け、願いが成就したあかつきには「お礼」として新たな「底抜けひしゃく」と借り受けたものと合わせ納めお礼参りをしている。
 なお寛保二年(一七四二)関東各地に大洪水をもたらした水位を示した埼玉県指定史跡「寛保洪水位磨崖標」が長瀞第二小学校裏の岩肌にある。当時七月二十七日から四日間降り続いた雨の水位は十八メートルにもおよびこの付近一帯は水没したという。           
                                    境内案内板より引用

       
             ・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷1218
             ・ご祭神 日本武尊
             ・社 格 旧小字瀧上鎮守
             ・例祭等 春祭り 3月15日 秋祭り 10月15日 
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1341891,139.1217504,16z?hl=ja&entry=ttu       
 野上下郷瀧野神社は国道140号を長瀞町報告に進み、秩父鉄道「樋口駅」過ぎの集会所に車を停めて参拝を行う。社まで適当な駐車スペースがない事。またコミュニティ集会所から西へ道路沿いお歩道を歩いて進めば、一本目のT字路右側に野上下郷瀧野神社が見えるからだ。
               
               正面社号標から撮影。急勾配の階段なのがここからでも分かる。
           
 この階段は段数こそあまりないが、振り返るのが怖いほど急勾配で、見ただけでも参拝する気持ちが落ち込む程。このような階段は初めてであるし、日頃から運動不足気味な自分にとって、この社の階段は神から与えてくれた「運動と疲労」という贈り物であろうと感謝している次第だ。中央に設置されている手すりを使用して、勢いのまま休まずに踏破できたのは良かったが、帰路も同じルートかと思うと、明日以降の筋肉痛が心配だ。
*後で知ったことが、熊野神社へのコースは緩やかな道があり、そこならば道程が少し長いだけで、それほど心配する必要もなかった。
               
 階段を登り、鳥居を過ぎると真近かに社殿が目視できる。山の斜面に社を鎮座させている関係上、構造的には、社殿や境内社等並列している配置となっている。
        
                     拝 殿   
 武蔵七党は
平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称で、その中の丹党安保氏の系列(一派)に岩田氏、白鳥氏が主に秩父郡白鳥庄を領有していた。長瀞町野上下郷に鎮座する瀧野神社は『新編武蔵風土記稿』によると、この地は秩父郡白鳥庄に属していた。
・「秩父志」「白鳥庄、属村十一.下田野、井戸、岩田、野上郷、藤谷淵、金崎、金沢、日野沢、野巻、大淵」
 この武蔵七党の活動開始時期はあくまで平安時代後期であり、それ以前に記述されている文書等にこの武士集団は関与していないことから、律令制度時期に活動した集団はどのような一派だったろうか。
 
     
       参道左側にある神楽殿          拝殿手前に設置されている案内板
 
   三笠山・御嶽皇・八海山各大神の石碑           境内社 
                      左から琴平神社・白山神社・天神社・諏訪神社
        
  
社殿東側で勾配の緩やかな参道を下がるように進と、左側に「熊野三社大神」が鎮座する。
   
        熊野三社大神              
熊野三社大神の扁額
        
                         熊野三社大神の並びには社務所がある。
 秩父郡岩田村は承平三年太政官符に「秩父郡石田牧」と見えるところから、岩田は嘗て「イシダ」と称していたという。近郊の大里郡には小園壹岐天手長男神社が鎮座しているが、この社も嘗ては「石田神社」と称していた。
大里郡神社誌 「男衾郡小園村壹岐天手長男神社は、文久年中の文書に、園明王壹岐石田神社と称し、往古壹岐国一の宮より勧請す」
 この壹岐天手長男神社は壱岐島内に同名の社が総本社として鎮座している。
壹岐国石田郡石田郷(和名抄に伊之太と註す)
 この「石田」という地名は古代から日本海を中心とした集団として文書等に記載がある。
日本書紀垂仁天皇三十四年条 「天皇、山背苅幡戸辺を娶りて、三男を生む。五十日足彦命、是の子石田君の始祖也」
古代氏族系譜集成 「垂仁天皇―五十日足彦命―忍健別命―佐太別命(石田君祖、佐渡国雑太郡石田郷住)
 このように武蔵七党活動以前から、ある集団が九州から畿内、その後東国に移動して、移住した地に岩田、石田と命名したと考える。武蔵国北部には壱岐島由来であろう天手長男神社が多く鎮座している例もあり、岩田(石田)の地名の淵源は古く、そして集団としての活動範囲も広範囲であるといえるのではなかろうか。
                       
                                階段から眼下の風景を撮影
            
                      何故このような急勾配な斜面上に鎮座したのか

 秩父鉄道樋口駅の北側にある「長瀞第二小学校」の裏を登った山腹に「寛保洪水位磨崖標」がある。これは「寛保二年水害」の時に荒川の水位がここまで上がったことを後の世に示すために、当時の村人が刻んだもので、この「寛保二年水害」とは1742年(寛保2年)の旧暦7月から8月にかけて日本本州中央部を襲った大水害で、江戸時代以降埼玉県を襲った数々の水害の中でも、最も甚だしい災害である。 
 当時の記録によれば旧暦727日から4日間豪雨が続き、81日の水位が18mも上昇してここまで達し、付近が水没したとの事ことを地元の四方田弥兵衛・滝上市右衛門が刻んだものである。(県指定史跡)
 因みにこの石碑に刻まれた水位は現在の河床から約24mにもなり、現在の人家の一階は完全に水没する水位であり、ここから2km程度下流の破久札の峡谷で、家や流木などでせき止められて、上流域では水位が60尺、メートル換算だと約198mにもなったという。
 野上下郷付近は秩父盆地に降った雨が集まる、盆地唯一の水の出口で、両側に山が迫り、荒川の清流がV字谷を刻んでいる。上流は秩父盆地、下流は寄居町の荒川扇状地で川幅は広く、盆地の出口である野上下郷付近だけが急激に川幅が狭くなり、寛保二年水害でこの地域が荒川最大水位に達したのは、この地形が原因だといわれている。
 こうした洪水の記録を後世に絶やさずにつないでいくことが大切であり、樋口駅近郊に鎮座する瀧野神社にも水に関する地名や由緒が案内板等に残されている。

岩田神楽とは
 岩田神楽は秩父地方の主流をなす秩父神社の流れを受ける。大正3(1914)の冬、耕地総出の薪山仕事の時に「岩田でもダイダイをやってみようではないか。」との話がまとまり、神楽主任浅見幸三郎、中村楠五郎両氏を師匠として約1ヶ月間、蚕室を借りて伝授を受け、2月の天神祭に初舞を奉奏、めでたく岩田神楽が発足したと言われる。神楽の道具衣装もよく保存されている。2月と11月の大祭、315日頃の滝野神社の春祭等に奉奏する。


    

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