古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

埼玉古墳群 (7)

 埼玉古墳群の中央部に位置している二子山古墳は武蔵国最大138mの前方後円墳である。名前の由来は、前方部と後円部という二つの山が連結したような形からついたもので、「観音寺山(かんのんじやま)」とも呼ばれていた。墳丘は二重の堀に囲まれており、それを含めた長さは南北240m以上になる。現在、内側の堀には水がたまっているが、古墳築造当時は水はなかったと考えられている。埋葬施設は発掘調査されておらず詳しいことは不明だが、墳丘周囲の調査で出土した埴輪から、5世紀末から6世紀初頭前後に造られたと推定されている。これは稲荷山古墳に続く時期にあたり、稲荷山古墳とは、墳丘の向きが同じ、またともに、中堤の西側に「造出し(つくりだし)」と呼ばれる四角い土壇(どだん)をもつなどの共通点がある。つまり位置、時期とともに、両者の連続性がうかがわれる。これは丸墓山古墳以外の他の8基の前方後円墳にも共通することで、逆に言うと二子山古墳と丸墓山古墳には何故か直接的な連続性、共通性を感じない。また丸墓山古墳の後に築造された愛宕山古墳との関係にも同様にも言えることだ。そう、唯一丸墓山古墳だけ気高く孤高を持する感がある。

        
                        埼玉古墳群最大の古墳 二子山古墳

 少し話は横道にそれてしまうが重要な項目なので少々おつきあい願いたい。それは古墳である祭祀施設は一般的に大王の在位中に造られるものか、それとも没後に次代の大王、またはそれ以降の一族によって造られるものなのか、という問題だ。
 何故この問題を取りあげたかというと、大仙陵古墳のような大型古墳は墳長がおよそ486m、前方部は幅305m、高さ約33m。後円部は直径245m、高さ約35mで、三重の濠の外周は2.718m、その内側の面積は464,124平方mでとてつもなく巨大な古墳だ。この巨大な築造すると、人員は 一日最大2.000人従事して、工期 に15年8ヶ月要するという試算もあると言う。
 もちろんこれほどの古墳を造り上げる大王の権力の大きさは想像を超えるものだったろうが、その反面、どんなに頑強で、尚且つ強靭な精神力を持っていたとしても人の「死」は平等に、そして必ず訪れる。ましてや古墳時代の衛生、医療、食生活環境は現代とは比べ物にならないくらい悪かったはずだし、当時の平均寿命も短かったと思われる。
 ある統計によると15歳以上に達した者の平均死亡年齢の時代変遷は、古人骨より推定すると以下の年齢となるという。 
 (参考資料)各年代の平均寿命の推移
   ・ 縄文時代  男31.1歳/女31.3歳
   ・ 弥生時代  男30.0歳/女29.2歳
   ・ 古墳時代  男30.5歳/女34.5歳
   ・ 室町時代  男35.8歳/女36.7歳
   ・ 江戸時代  男43.9歳/女40.9歳
 
 
この数値が直ちに古墳時代の大王の寿命に直結するとは限らない。大王の食生活や衣食住は一般民衆より格段良かったろう。しかしそれは大王の寿命が長いとする理由にもならない。
 自然災害や人為的な災害は老若男女問わず襲い掛かる。またそのような不幸はいつ、何時起こるか予想もつかない。だからこそこのような大型古墳を築造するためにはそれらの天災、人災等をある程度予想して少なくとも在位中に設計、築造しなければならないことは自明の理だと筆者は思うのだが、それでも現在のところこの論争は専門家の中でも解決できていない。
 古代倭国で、何十万個ある古墳はその埋葬者は特定されていないケースがほとんどだが、このうち埋葬者の推定できる数少ない古墳で、尚且つ唯一生前に築造されたことが解っている古墳が一基だけある。北九州最大の古墳で、筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市)だ。
 
この古墳は東西を主軸にして、後円部が東にあるが、その北東部分に〈別区〉と呼ばれる広場状の区画がある。風土記逸文に石人と石猪が裁判の光景を再現していたとあり、磐井の政権が司法機関を備えていた可能性が指摘される。墓からは、大量の石人石馬が発掘され、被葬者の勢力の大きさを示しているという。また生前から造営されていたお墓のことを「寿陵」と言い、中国では古来より、生前にお墓を建てることは長寿を授かる縁起の良いこととされていた。岩戸山古墳について「筑後国風土記逸文」にはこのような記述がある。

 筑後國風土記曰、上妻縣々南二里、有筑紫君磐井之墳墓。高七丈、周六十丈。墓田南北各六十丈、東西各卌丈。石人・石盾各六十枚、交陣成行、周匝四面。當東北角、有一別區。号曰衙頭<衙頭、政所也>。其中有一石人、縦容立地。号曰解部。前有一人、形伏地。号曰偸人<生爲偸猪、仍擬決罪>。側有石猪四頭、号贓物<贓物、盗物也>。彼處亦有石馬三疋・石殿三間・石蔵二間。古老伝云、「當雄大迹天皇(継体)之世、筑紫君磐井、豪強暴虐、不偃皇風。平生之時、預造此墓。

 また日本書紀巻11 仁徳天皇(大鷦鷯天皇)の項には陵墓について以下の記述がある。
 六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河內石津原、以定陵地。丁酉、始築陵
 魏志倭人伝には卑弥呼の死後、次のような記述がある。この記述からは死後築造が窺える。
 卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立 

 
上記の記述以外では古墳が生前からの築造なのか、死後築造なのか残念ながら解っていない。さすがに約1600年前の事柄ゆえに頼るべき文献も史料もない。そこでここは奈良時代に編纂された日本の神話や古代の 歴史を伝えている重要な歴史書である「日本書紀」の記述を参考資料として紹介する。
 ありがたいことにこの「日本書紀」には神武天皇からの各天皇の崩御から埋葬までの要した期間、及びその施行者までがちゃんと記載されている。「日本書紀」は完全に漢文で書かれており、天皇家の歴史に重点を置いている。そこでここでは、「日本書紀」の記述を参考に神武天皇から開化天皇までの崩御年代と埋葬年代を見ていただきたい。(字数の関係で本来は清寧天皇まで表を作ったのを公表できないのが残念)

天皇名 崩御年度埋葬年度施行者 埋葬場所

 神武天皇


神武76年春3


翌年秋9


次の天皇


畝傍山の東北


 綏靖天皇


綏靖33年夏5


翌年冬10


  〃


倭の桃花鳥田丘


 安寧天皇


安寧38年冬12


翌年秋8


  〃


畝傍山の南の窪地


 懿徳天皇


懿徳34年秋9


翌年冬10


  〃


畝傍山の南の谷


 孝昭天皇


孝昭83年秋8


孝安38年秋8


  〃


掖上博多山上


 孝安天皇


孝安102年春正月


同年9


  〃


玉手丘(御所市)


 孝霊天皇


孝霊76年春2


孝元6年秋9


  〃


片丘馬坂


 孝元天皇


孝元57年秋9


開化5年春2


  〃


剣池の丘の上


 開化天皇


開化60年夏4


同年10


(記述なし)


 

              
              *日本書紀による各天皇の没年、埋葬年度、及び埋葬の施行者
 神武天皇から清寧天皇までの各天皇の崩御年と埋葬年に平均10ヶ月の空白期間がある。これは古代日本で行われていた殯(もがり)という葬儀儀礼があり、またこのことは古墳の築造にも少なからず関係している。

殯(もがり)
 日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。

 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。貴人は3年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ。「死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外庶人卜日而 及葬置屍船上陸地牽之」とあり、また、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 高麗」(後の高麗王朝のことではなく高句麗のこと)には、死者は屋内に於て殯し、3年を経て、吉日を択(えら)んで葬る、父母夫の喪は3年服す「死者殯於屋内 經三年 擇吉日而葬 居父母及夫之喪 服皆三年 兄弟三月 初終哭泣 葬則鼓舞作樂以送之 埋訖 悉取死者生時服玩車馬置於墓側 會葬者爭取而去」とある。これらの記録から、倭国・高句麗とも、貴人は3年間殯にしたことが窺える。なお、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬した。長い殯の期間は大規模な殯の整備に必要だったとも考えられる。
 また施行者の項目を見るとほとんど次代の天皇が埋葬の施主となっている。このことから死後殯の期間中に墳墓が完成し、その後埋葬したかのような印象だが事はそんなに簡単なことではない。日本書紀の引用を信じるならば200m以上の古墳は崇神天皇から允恭天皇まで、途中反正天皇は除くが総数10名にも上る。年代も3世紀半頃から5世紀前半までの約200年間で、しかもこの時期に集中して築造されている。
 このように調べると調べるだけ謎が多くなる。少ない資料の中、以下の仮説を導き出した。

 ・ 小さな古墳に関しては基本的には殯の関係もあり、また前代の意志に沿って、また臣下との合議に基づき次代の大王が墳墓を築造し、埋葬する。
 ・ ただし、大型古墳を築造する場合は、殯の期間を念頭において、前代の在位中に前代の考えに基づき設計、築造される。

 上記の仮説に沿った場合、埼玉古墳群の9基の墳墓、特に稲荷山古墳、丸墓山古墳、二子山古墳、そして鉄砲山古墳の4基に関しては各古墳に埋葬されている大王の在位中にこの古墳を築造したと推測される。

 

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下恩田諏訪神社


        
              ・所在地 熊谷市下恩田576
              ・御祭神 建御名方神
              ・社 挌 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 220日 例祭 411日 新嘗祭 1126
                   ささら獅子舞 727   
 下恩田諏訪神社は熊谷市南方部、下恩田地域に鎮座する旧村社。南市田神社から西方向1㎞強の位置にあり、一面の田園風景が広がる中にポツンと静かに佇んでいる。県立養護施設おお里の交差点を南側方向に右折し、200m程も走ると右側に諏訪神社のこんもりとした社叢が見えてくる。鳥居の周りにはそれなりの駐車スペースがあり、そこに車を停めて急ぎ参拝を開始。
            
                             下恩田諏訪神社社叢
            
                                         正面には鳥居・社号標
 
        鳥居の先には2か所の神橋あり           1番目の神橋のすぐ先に2番目の神橋がある。
            
 この下恩田諏訪神社は神社内の配置が大変面白い。それ程大きな社ではないにも関わらず、2重の神橋が社殿を守るように造られている。思うにこの下恩田地区は昔西側に流れる和田吉野川の氾濫による被害が多かったのだろう。和田吉野川は名前通り、和田川と吉野川を合わせた名称であり、丁度下恩田地区でこの二つの河川は合流する。平地の神社であり、その対策としてこの神橋が造られたのではないだろうか。
               
                                 拝 殿
               
                                 本 殿
 この社殿は新しく造られたのだろう。素朴の風合いながら拝殿、幣殿、本殿並列の権現造りとなっている。 なお下恩田諏訪神社の由緒等は案内板もなく残念ながら不明。
                      
                         諏訪神社「ささら舞」の標柱
                         社の正面入り口左側にあり。
諏訪神社の獅子舞
 諏訪神社は、古い歴史を持っています。現在の社殿は、明治30年に再建されたもので、当時の下恩田の氏子45戸が一丸となり、資材の運搬、参道の改修、社殿敷地の土盛りなど一切が人力の奉仕によってできました。当時としては近郷のなかでも珍しい立派な社殿でした
明治44年の神社令によって、中恩田、上恩田の神社を合祀し、ここに三恩田の合社が出来上がりました。このことは社殿前に現存している記念碑に記されています。
伝説によると昔、下恩田地内に恐ろしい疫病が発生しました。そのため、獅子舞いを行ない、村外れに大へいそくを立て、これを一人が刀で切り倒し、その時立ち会った村人は一斉に逃げ帰り、病魔を追い払ったといいます。それ以後、獅子舞は、豊年を祈るとともに悪魔祓いの行事として親しまれ、年に一度おこなわれています。
獅子舞は、江戸時代後期頃から始まったと伝えられています。毎年旧暦の727日(今の99日頃)が例祭でした。
獅子舞は、村人達にとって老いも若きも唯一の楽しい郷土芸術で、親戚近在より多数の見物参詣人がくり出して来ました。境内の杉林の中まで売店と人で埋められ、それはそれは賑やかなものでした。

                                             「熊谷デジタルミュージアム情報」より引用
 
    二番目の神橋を渡ってすぐ右側に境内社                    境内社
           祭神等の詳細は不明              左から春日神社・天満天神宮・三峯神社
 
    左から秋葉山神社・金山大権現              石祠は不明。その隣は若宮八幡宮
            不明、水速女大神
  石祠に記してある秋葉山神社は静岡県浜松市天竜区春野 町領家の赤石山脈の南端に位置する、標高866mの秋葉山の山頂付近にある神社で、社挌は旧県社で現在は別表神社。日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約800社)、秋葉大権現および秋葉寺の殆どについて、その事実上の起源となった神社である。
 現在の祭神は火之迦具土大神で伊邪那岐・伊邪那美二柱の神の御子で火の主宰神である。だが江戸時代以前は三尺坊大権現および観世音菩薩で、人々はこれらを事実上ひとつの神として秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山(あきはさん)などと呼んだ。古くは霊雲院(りょううんいん)や岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)などの呼び名があったという。俗にいう神仏習合形態の神だ。
 創建時期には諸説があり、701年(大宝元年)に奈良時代の高僧である行基が寺として開いたとも言われるが、社伝では最初に堂が建ったのが709年(和同2年)とされている。「秋葉」の名の由来は、大同年間に時の嵯峨天皇から寺に賜った和歌の中に「秋葉の山に色つくて見え」とあったことから秋葉寺と呼ばれるようになった、と社伝に謳われる。
 但し現在は祭神または本尊であった三尺坊大権現の由来も「定かではない」と言う他はなく、今後の更なる史料の発掘および研究が待たれているという謎の神である。

 
また金山神社(かなやまじんじゃ、きんざんじんじゃ)は、日本各地に鎮座する神社で、金山彦神、金山毘売神等、金属および鉱山とその関連業、古代鍛冶集団を連想する神を祀るものが多い。
                                                                                     社殿からの一風景
 何故この平地に位置する恩田地区にこの山岳信仰、鍛冶集団等を推測する神々が石祠とはいえ、祀られているのだろうか。なんとなく不思議な疑問を感じた参拝となった。
                                                                                                       

                                                                                           

  
 


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高本高城神社

 熊谷市高本地区は、南市田神社が鎮座する中曽根地区の南部に位置し、和田吉野川がすぐ南側に流れている。相上地区のすぐ北側で吉見神社にも近く、大里郡の河川を通じて南北の交易が盛んだったろうと推測される。この高本地区内の大里中学校の南側に高本高城神社は鎮座する。
 この社の規模は大変小さいが延喜式式内社論社となっている。

        
               ・所在地 埼玉県熊谷市高本562
               ・御祭神 高皇産靈尊
               ・社 挌 延喜式内社論社 旧村社
               ・例 祭 例祭 410
 高本高城神社は南市田神社の南方に位置する。大里中学校を右手に見る道を真っ直ぐ進み、しばらくすると右側に一面の田園風景の中にこんもりとした高城神社の社叢が見えてくる。但し専用駐車場も駐車スペースもないので路上駐車し急いで参拝を行った。
        
                                            道路沿いにある高城神社社号標                    
 高本高城神社の正面は東西方向に向いているが、境内の鳥居、社殿は南北方向に造られている。それ故参道に対して横を向いている配置となっている。但し基本的に神社の参道から社殿は真っ直ぐ正面に向くことは良くないといわれているので、決して構図的には悪いわけではない。
                          
                          参道から境内方向を撮影
               
                                 鳥居の正面を撮影。奥行きがないので撮影しづらい。
                             
                                          高本高城神社 拝殿
 高本高城神社の旧社地は本村の北方であったが、村民居住の後の方に当るので、今の地(本村巽の方)に遷座すると云う。また、安政2年(1855年)神職、徳永某古鈴一個を境内より掘出した。青黒の銅にて古色を帯び、片面先邪志国、片面高城神社とあると云う。
            
                           高本高城神社の扁額

 「式内社調査報告」では所在地を「大里郡大里村高本」としており、地図に表示された場所は現在「保健センター」の近く(相上に鎮座する吉見神社の丁度川を挟んで反対側)であり、土手に石碑が建っている。昭和45年に河川改修のため現在地に遷座された。
            
                                         拝殿左側にある境内社
 写真左側から瀧祭神社、水神宮、天神宮、天満宮、牛頭天王等。この瀧祭神社は武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の大里郡沼黒村と吉所敷村に記された滝祭社であり、共に旧村社。祭神が瀬織津姫であるところから境内にあるこの石祠の御祭神も瀬織津姫であろう。


 旧大里町、現在熊谷市高本地区の高本高城神社は旧高本村の村社だが、新編武蔵風土記稿によれば、江戸時代後期の時点で、大里郡高本村の村社は御霊明神社だった。現在は御霊明神社は存在しないので、高城神社に合祀されているのかもしれない。
 御霊明神社は鎌倉権五郎景政を祀っていた。戦さで片目になったとの伝承がある平安時代の武士である。近隣の東松山市の正代御霊神社、熊谷市上奈良の豊布都神社(旧称は御霊社)も鎌倉権五郎景政を祀っている。
 鎌倉権五郎景政は平安後期の平氏の武将。奥羽で起きた戦乱「後三年の役」(1083-87)に源義家にしたがって出陣する。16歳だった。このとき戦場で片目を射抜かれるが、それをものともせず奮闘したことで知られる実在した坂東武者だ。この景政の武勇伝が産鉄民と結びついて、鎌倉権五郎は産鉄民が祀る神になったという。俗にいう御霊信仰である。では何故この御霊信仰が鎌倉権五郎景政と結びつくのだろうか。
               
                   境内社の並びにある板碑
              周囲をコンクリートで補強されている。  
 本来の御霊信仰とは、〈御霊〉は〈みたま〉で霊魂を畏敬した表現であり、特にそれが信仰の対象となったのは,個人や社会にたたり,災禍をもたらす死者(亡者)の霊魂(怨霊)の働きを鎮め慰めることによって,その威力をかりてたたり,災禍を避けようとしたのに発している。この信仰は,奈良時代の末から平安時代の初期にかけてひろまり,以後,さまざまな形をとりながら現代にいたるまで祖霊への信仰と並んで日本人の信仰体系の基本をなしてきた。
 奈良時代の末から平安時代の初期にかけては,あいつぐ政変の中で非運にして生命を失う皇族・豪族が続出したが,人々は(天変地異)や疫病流行などをその怨霊によるものと考え,彼らを〈御霊神(ごりようじん)〉としてまつりだした。〈御霊会(ごりようえ)〉と呼ばれる神仏習合的な神事の発生である。

 御霊会の初見は清和天皇の時代,863年5月20日に平安京(京都)の神泉苑で執行されたもので,そのとき御霊神とされたのは崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王),伊予親王(桓武天皇皇子),藤原夫人(伊予親王母),橘逸勢(たちばなのはやなり),文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)らであったが,やがてこれに藤原広嗣が加えられるなどして〈六所御霊(ろくしよごりよう)〉と総称された。さらにのちには吉備大臣(吉備真備(きびのまきび)),火雷神(火雷天神)が加わって〈八所御霊〉となり,京都の上御霊・下御霊の両社に祭神としてまつられるにいたった。この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でもとくに名高く,京都御所の産土神(うぶすながみ)として重要視された。
 
 八坂神社の梢園祭(ぎおんまつり)もその本質はあくまでも御霊信仰にあり,本来の名称は〈梢園御霊会〉(略して梢園会)であって,社伝では869年(貞観11)に天下に悪疫が流行したので人々は祭神の牛頭天王(ごずてんのう)のたたりとみてこれを恐れ,同年6月7日,全国の国数に応じた66本の鉾を立てて神祭を修め,同月14日には神輿を神泉苑に入れて御霊会を営んだのが起りであるという。
 また,903年(延喜3)に九州の大宰府で死んだ菅原道真の怨霊(菅霊(かんれい))を鎮めまつる信仰も,御霊信仰や雷神信仰と結びつきながら天神信仰として独自の発達を遂げ,京都の北野社(北野天満宮)をはじめとする各地の天神社を生んだ。

 ところで鎌倉権五郎景政は、平安時代後期の関東平氏の一族であり、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏とともに鎌倉武士団を率い、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事した。鎌倉坂ノ下に御霊神社はこの鎌倉権五郎景政を祀る古社であり、 相模の国に数多くある御霊神社の一つと考えられている。
 この社は元々鎌倉党の5氏(大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉)の祖霊を祀る神社であり、五霊神社といったものがいつの間に、語韻が似ていることから御霊神社になったとも云われている。また鎌倉党の祖である鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)を祀ることから、権五郎神社ともいわれ、「ごんごろうさま:ごんごりょうさま」「ごんごろうじんじゃ:ごんごりょうじんじゃ」がいつの間にか、「ごりょうじんじゃ」になったとも云われている。不思議と京風の怨霊信仰の形態や風習は伝わっていないことは、鎌倉景政が怨霊になったとか、非業の最期を遂げた等、書かれていないことからも明らかだ。

 国学者である柳田国男は山に住む神の目が一つであることを指摘している。何より片目であることが重要な事で、山童(やまわらわ)の目も河童とちがって一つであり、それは「目一つ坊」でも「目一つ五郎」でも変わらず、東日本では片目の木像が多く残されているという。
 この木像は景政伝説と関係していることが多く、眼病平癒を祈願する御霊信仰と結びついていただけではない。景政の主人が源義家(八幡太郎)だったために、さらには八幡信仰へとつながり、のちに上杉謙信までが景政の後裔と名乗ることになる。史実では後三年の役の戦いによって片目になってしまっただけなのだが、この片目であることが神寵と結びつく隠れた理由があったのではないかと国男は考えていた。
 「めっかち」という言葉がある。片目を意味する元来差別用語だったらしいが、この言葉の意味は非常に深い。最初の「め」は言わずもがな「目」のことだが、では「かち」とは何をさしているのだろう。それはほかならぬ「鍛冶」のことだ。鍛冶は火と水の工芸で、かつては目を痛める職業でもあった。日本全国に鎌倉景政や、雷(いかずち)、さらには天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祭る神社が広がっているのは、おそらく鍛冶職人(たたら集団)の分布と関係していると国男は見ていた。一目小僧や目一つ五郎は、そうした神の零落した姿である。


 一つ目神の追求から、国男は次に別系統の神社への連想を紡ぎだしている。野州(下野と上野)には一目を損じた垂仁天皇の皇子、池速別命(いこはやわけのみこと)を祭った神社が多い。ほかに柿本人麿を祭る「人丸神社(大明神)」も多く、人麿がこの地で手負いとなって逃げるときにキビ畑で目を傷つけたという言い伝えが残っている。だが、野州の「人丸神社」はそもそも柿本人麿を祭った社ではなく、「一目(ひとめ)神社」の転訛(てんか)ではないかと国男は疑っている。
 さらに九州には日向(ひゅうが〔現宮崎県〕)などに多くの「生目(いきめ)神社」が残っており、ここでは日向景清(かげきよ〔すなわち平景清、別名、悪七兵衛景清〕が祭られている。盲目となったと伝えられる平家の猛将、景清を祭る神社も、眼病の平癒祈願と関係している。

 つまり、このような神社はすべて一つ目神信仰がのちの御霊信仰と結びついて発達を遂げたもので、ここには神主を神へのいけにえとしてささげた古代の儀式が、一つ目神自体を祭る信仰へと変わり、さらにはそれが一つ目の御霊を祭る信仰へと推移した経過がたどられている。
            
                                      高本高城神社 遠景

 また鎌倉権五郎景政の「五郎」にも意味がある。この「五郎」は御霊の音が似ているために「五郎」→「御霊」と転化したのではないかとの説だ。ウィキドペディア「御霊信仰」には以下の記述がある。

 (中略)鎌倉権五郎神社や鹿児島県大隅半島から宮崎県南部にみられるやごろうどん祭りなどの例が挙げられる。全国にある五郎塚などと称する塚(五輪塔や石などで塚が築いてある場合)は、御霊塚の転訛であるとされている。これも御霊信仰の一つである。柳田国男は、曽我兄弟の墓が各地に散在している点について「御霊の墓が曾我物語の伝播によって曾我五郎の墓になったのではないか」という説を出している。

 玉本高城神社の参拝記録を淡々と書くつもりが、御霊信仰、鎌倉権五郎景政とあらぬ方向にまで発展してしまったが、想定外の事項を考えることもまた一興であり、楽しいものだ。

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中曽根南市田神社

  中曽根南市田神社の北側50m位に東西に流れる通殿川(づうどの)は延長3.7km、流域面積 7.9km2の荒川水系の一級河川。河川管理上の起点は熊谷市中曽根~小泉に設けられていて、起点から県道257号線に沿って南下し、熊谷市津田で和田吉野川の左岸へ合流する。地元の人々は通殿川を[づうどの]ではなく、[つうどの]や[づどの]と呼んでいる。[づどの]とは頭殿の読みであり、通殿と同じく中世の地頭領を意味する言葉で、近世には官位名として使われた。例えば掃部頭殿(かもんのかみとの)や頭殿(かうのとの)である。
 この通殿川の周辺地域には、不思議と頭殿や通殿といった地名が多く存在し、また社も意外に多く分布している。

 現在の流路や周辺の地形から推測すると、通殿川は近世以前は荒川の派川だったと思われる。荒川が氾濫したさいの洪水流が、村岡付近から流れ込むことによって、次第に通殿川の流路が形成されたのだろう。村岡よりも上流の荒川右岸には、近世になるまで堤防は無かった。この荒川は寛永年間(1630年頃)の瀬替えによって、熊谷市久下から大里町玉作の方へ向かって新水路が開削され(開削ではないとする説もある)、和田吉野川へ繋ぎ替えられたわけだが、それ以前から荒川と和田吉野川は、通殿川を経由して繋がっていたといえる。
 すぐ南側には郷社吉見神社が鎮座する相上地区もあり、そういう意味からも南市田神社が鎮座する中曽根地区は、大里郡と吉見郡とを河川を通じて繋ぐ重要な地だったのかもしれない。

                             
              ・所在地 埼玉県熊谷市中曽根140
              ・御祭神 瀬織津姫命
              ・社 挌 旧中曽根村鎮守・旧村社
              ・例 祭 祈年祭 221日 春季例祭 4月中旬 
                   秋季例祭 10月中旬 新嘗祭 11月23日
  中曽根南市田神社は国道17号、佐谷田(南)交差点を右折すると埼玉県道257号冑山熊谷線となり、その道路を南下し久下橋を過ぎて最初の信号を右折する。市田小学校が左側前方に見える交差点を左折し道なりに真っ直ぐ進むと左側にJA市川があり、そこの駐車場の左側奥に南市田神社は鎮座している。
 また専用駐車場はなく、隣接する「JA市川」の駐車場を借りて参拝を行った。
                       
                         社号標柱から正面の参道を撮影
            
                               一の鳥居
 
     一の鳥居と二の鳥居の間にある神橋                   二の鳥居
            
                *(2022年3月参拝時)新しく案内板が設置されていたようだ。
 南市田神社
 市町村合併が明治二十二年(一八八九)に実施され、市田村が誕生した。このことにともない中曽根、小泉、屈戸、手島、沼黒、吉所敷、天水、津田新田に鎮座していた各社を遷座統合して明治四十三年(一九一〇)に市田村の中心的な社として創建された。社地は、中曽根の村社であった五社神社の境内が選ばれた。中曽根地区は市田村の行政的な中心地であった。
 社名の「南市田」は、荒川対岸の熊谷市久下に「北市田」の小名があり、これに対して南にある市田の一を表して、神社名がつけられた。(以下略)
                                                            案内板より引用

                 
       二の鳥居の先、右側にある神楽殿                 厳かな雰囲気のある境内                
                                                                         拝 殿
 南市田神社 大里村中曾根一五〇
 明治二十二年、中曾根・小泉・屈戸・手島・沼黒・吉所敷・津田新田・高本・上恩田・中恩田・下思田の一一か村を合併し、市田村が誕生した。村名は『和名抄』に見える市田郡にちなむものであった。
 当社は、明治四十三年にこれら旧村の内の中曾根・小泉・屈戸・手島・沼黒・吉所敷・津田新田に鎮座していた各社を遷座統合し、市田村の中心的な社として創建された。社地については、中曾根の村社であった五社神社の境内地が選ばれた。これは、中曾根地区に市田村の役場が置かれ、行政的な中心地であったことによるものである。社名の「南市田」は、荒川対岸の熊谷市久下に北市田の小名があり、これに対して南にある市田の意を表している。ちなみに、この「北市田」は、江戸初期の荒川開削以前は市田村と陸続きであったという。
 遷座統合によって、氏子数は増したものの、境内地の広さは三三五坪と従来のままであった。このため、例祭などの執行に支障を来すようになり、ついに大正二年に境内の西側の田畑三五五坪を整地し、新たな境内として編入し、総面積は六九〇坪に広められた。更に同三年には社殿を中央に移し、名実ともに地域の中心的な社としての体裁を整えた。なお、統合の中心となった五社神社については『風土記稿』に「村の鎮守なり、金胎寺持」と載る。金胎寺は当社東側にある真言宗の寺院で、名主茂右衛門の先祖によって開基されたと伝える。
                                                       「埼玉の神社」より引用

 
                         
                                本 殿
  南市田神社が鎮座する熊谷市中曽根地区は平安時代中期に編集された和名抄には大里郡市田郷を載せ、「以知多」と訓じていて地名としての歴史は古い。南市田神社はその名の通り、市田村(明治22年に誕生)の南半分の村々にあった神社を合祀した神社ではなかろうか。南市田神社に祀られている瀬織津姫も、その時に遷座されたのだと思われる。
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の大里郡沼黒村と吉所敷村に記された滝祭社は、共に村社であり、祭神が瀬織津姫である。

 一方中曽根村の村社だった五社神社には、久々能知命、火御産需命、埴山比古命、金山比古命、弥都波売命という、五行の神(木・火・土・金・水を司る神々)が祀られていた。この五行とは陰陽道での宇宙を構成する要素である。なお、下恩田の諏訪神社に末社として金山大権現(明治23年に秋葉山神社と合祀して建立、再興か?)が祀られているが、その祭神は金属を司る金山比古命である。さらに小泉村の村社だった八尾明神社の祭神は、八ツ尾の大蛇だとの伝承があった。
            
                                                社殿の左奥にある末社群             
 この末社群は左から不明、天満宮、八坂神社、八坂神社、牛頭天王宮、不明、不明。特に左側の石祠は三つ星の神紋があるが、もしかしたらミカ星(天津甕星)かもしれない。勝手な妄想だが。 
            
                                                 中曽根南市田神社 社殿からの眺め
 ところで中曽根南市田神社の祭神である瀬織津姫(せおりつひめ)は、大祓詞(おおはらえのことば)に登場する神だが、「古事記」にも『日本書紀』にもその名前が掲載されていない。大祓詞では、瀬織津姫の名前は、後半の「遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神 大海原に持出でなむ」という部分に出てくる(「比売」は「姫」の万葉仮名的表記)。
            
 「大祓詞」の内容をごく簡単にまとめると、「神々が、世の中にある罪や穢れを、遠く山の上まで行って集めてきて、川の流れに流してやると、瀬織津姫が大海原の底にいる神様にまでリレーのバトンのように渡していって根の国(あの世、黄泉の国)に送りかえしてくれる。罪や穢れがなくなってこの世が清くなる。」という意味であり、瀬織津姫は日本の神道の「お祓い」や「祓え」の考え方をつかさどる重要な役割を果たす女神である。俗にいう祓戸四柱神と言われる神々だ。
・ 瀬織津姫、山中から流れ出る速川の瀬に坐し、人々の罪穢れを海原まで流してくださる神。
・ 速開津姫(はやあきつひめ)河と海とが合わさる所に坐し、罪穢れを呑み込んでしまう神。 
・ 気吹戸主(いぶきどぬし)海原まで流された罪穢れを、根の国の底の国まで吹き払って下さる神。
・ 速佐須良姫(はやさすらひめ)根の国の底の国に坐し、気吹戸主神が根の国の底の国まで吹き払った罪穢れを流失させる神。

 瀬織津姫命は、祓神や水神として知られているが、瀧の神・河の神でもある。その証拠に瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多い。

 また変わったところではこの瀬織津姫は桜の神とも言われる。
 昔「桜の木の下には死体が沢山埋まっている」と聞いたことがある。桜の木の妖気に似た美しさの源は埋められた死体の養分からできている、とよく表現されるようだ。


 話の本筋から少々脱線した所もあるが、とにかく謎の多い神である。

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行田桜町久伊豆神社

所在地   埼玉県行田市桜町2-20-35
主祭神   大己貴命、事代主命
社  格   旧村社  
例  祭   秋祭り9月18・19日

       
地図リンク
 久伊豆神社は東行田駅の北約100m、埼玉県道7号佐野行田線に面して鎮座している。
 創立は文明年中(1469-1487)とされているが、一説に応永年中(1394-1428)に成田家時が武運長久を祈ったのに始まるともいう。成田顕泰が忍城鬼門の守護神として隣接する長久寺と共に創建したという。旧村社。明治42年に町内の26社を合祀、さらに昭和30年に楯場にあった赤飯稲荷神社が摂社として合祀されている。
          
                        県道沿いにある一の鳥居
          
              一の鳥居を越えてすぐ右側にある久伊豆神社の案内板
久伊豆神社    
 
所在地 行田市桜町
 
久伊豆神社の祭神は、素盞嗚尊の子大己貴命である。
 創立は文明年中(1469-1487)で、成田下総守顯泰が忍城築城に際し、城の鬼門の守護神として当神社を祀り、隣接する長久寺を別当とした。これに合わせ、城の裏鬼門の守護神として城の南西大宮口に、やはり久伊豆神社をおいている。
 境内には15m四方の枝張りを有する藤があり、市指定天然記念物となっている。
 この藤は、境内にある赤飯稲荷を合祀する際に、市内若小玉にある「紫藤庵の野田藤」を根分けして植えたものである。野田藤は、日本原産の藤であるが、花房が1.5mもあるのは珍しい。
 なお、本社には市指定書籍の勝海舟書「大幟」原本も保存されている。
                                                    境内案内板より引用
 
              二の鳥居                 二の鳥居を過ぎると左側に神楽殿がある。
  
 神楽殿の向かい側、参道の右側には15m四方の枝張りを有する市指定文化財である九尺藤(写真左)、また近くには案内板(同右)もある。境内にある赤飯稲荷神社を合祀する際に植えたものだ。但し藤の見頃である4月の下旬から5月の上旬にもう一回参拝に来たいと正直思った。

市指定文化財 
九尺藤    昭和39年1月31日指定

 原木は長野字林の堀口和三郎方にあり、往時忍藩主より藤の肥料として搾粕二俵の下賜があったと言われています。その後、若小玉の内田牧之助方に移植され、久伊豆神社が村内合社となるに及んでその苗を譲り受け境内に移植したものです。
 目通り1.3m。
                                                      行田市教育委員会
                                                      案内板より引用
             
                              拝   殿
           
                              本   殿
 
 本殿の手前にある赤飯伊奈利大神等の石祠群      同じく本殿の奥にひっそり鎮座する稲荷社等

  また社殿の南側隣には摂社として赤飯(せきはん)伊奈利大社が鎮座 している。摂社の定義は通常、本社の 境内外にわたって配置され、多くは本社の祭神の妃神・御子神・荒魂(あらみたま),また地主 神など縁故の深い神を祀っている小規模神社の呼称であり、大宮氷川神社内に存在する門客人神社や、玉敷神社の宮目神社のような配置形態だが、この久伊豆神社に対する赤飯伊奈利大社のそれは、摂社というよりはむしろ並立神社といっても良いような立派な赤飯伊奈利大社の規模だ。
           
               摂社赤飯伊奈利大社の鳥居とその左側にある社号標
           
摂社赤飯伊奈利大社の御祭神は宇迦之御魂神。本殿真下の地下に御神体が安置してあり、真っ暗の中を参拝するという胎内参拝の儀というのがあるそうだ。
           
                              拝殿内部
 赤飯伊奈利大社の鳥居の左側には「勝海舟閣下書記念」の石碑があり、勝海舟が書いた「大幟原本」がこの社にあった。長さ10m、幅1.2m。書かれた経緯は、従来の幟は汚損し、明治維新により神号も改正されたので、明治17年11月氏子総代三氏が中心となり、東京大伝馬町の松雲堂主人の紹介で、前海軍郷参議正四位勝安芳公に依頼して書かれたものだということだ。現在は行田市郷土博物館に寄託している。ちなみにこの勝海舟書 大幟原本は市指定有形文化財となっている。

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