古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

永田八幡神社

 深谷市旧花園町は荒川中流域左岸に位置しており、町の殆どがなだらかな櫛引台地上にあり、辺り一面のどかな田園風景が続く地域である。豊榮神社が鎮座する黒田地区の東側は永田地区で、荒川扇状地に位置するこの地域には豊かな湧き水が多く存在している。かつて6つの湧水池があり、柳出井池・代次郎池・弁天池・宮下の池・中清水池・清水池等という。いずれも永田地区の水田を潤してきた湧水池で、前述の「永田地区湧水池池下図」によると、その受益面積はあわせて19.8haにも達した。現在でも水が湧き出し、水辺空間として最もよく整備されているのが柳出井池である。
 永田八幡神社が鎮座する「永田」地区は慶長9年名主野辺文書に「長田村」と記載されている。つまり「長田」が本来の地名であり、後代において「永田」に変わったとみられる。
 和名抄に長田郷を奈加多、奈加太(ナカタ)と訓じている。ナカタの元は「中田」といい、その転訛、つまり、本来の発音がなまった変化形である。この「中田」にしても、基本形は「中」であり、「中+田」、つまり本来は「中」が発展して「中田(仲田)」「永田(長田)」、または「長井」「中井(中居)」「中村」「中山」「長尾」「中野」「長野」等と称したという。
所在地   埼玉県深谷市永田664
御祭神   誉田別命(推定)
社  挌   旧村社
例  祭   4月15日 春祭り、永田神代神楽

       
 永田八幡神社は黒田豊榮神社から140号バイパスに戻り、黒田交差点を過ぎて秩父鉄道の高架橋を越えると左側に永田八幡神社の社叢が見えてくる。但しバイパスから見える社叢は2か所あり、手前南側のは長楽寺である。ちなみにこの長楽寺と永田八幡神社は南北に隣接しているような配置となっている。
  南側にある正面参道はあぜ道となっていて車での走行はできないようなので、北側、つまり神社の後ろ側から入って境内に車を停めて参拝を行った。(参拝日平成26年1月)
  境内には数多くの境内社や合祀社があったが詳細等は調べても解らなかったので、今回写真の紹介はなしとした。
           
                        永田八幡神社正面一の鳥居
           
                  一の鳥居を過ぎて、手水舎の奥にある御神木
 調べてみると永田八幡神社が鎮座するこの地の字名は「中居(ナカイ)」という。「永田」と「中居」。この地は「中」の関連する地である。
 
      社殿の手前で右側にある神楽殿              神楽殿の並びにある案内板

 永田の神代神楽   所在地  花園町大字永田地内
 永田の神代神楽は、この八幡神社に古くから伝わるものといわれ、口伝によるとその起源は約百五十年前頃までさかのぼるという。
 当初の形態については記録が残っていないために詳らかではないが、概ね氏子衆による里神楽に近いものであったと思われる。しかし明治時代になると、明治十五年(1882年)に演劇取締令が公布され、里神楽が禁止されたために一時的に衰退したものが、児玉郡神川村の金讃神社に伝わる神代神楽十三組のうちの一組、金讃神楽長島組として再興し、以後金讃神楽永田組として継承され、現代に至っている。
 神楽は全部で25座(曲)が伝承されているが、現在上演が可能なものはそのうち11座である。
 神楽は毎年四月十五日の八幡神社の春祭の際に境内神楽殿で上演される。
 現在は保存団体として金讃神楽長島組が保存伝承にあたっている。
 昭和五十二年、この神楽を町指定無形文化財に指定した。
 昭和六十二年三月     深谷市教育委員会
                                                             案内板より引用
           
                             拝    殿

        拝殿向背部等の見事な彫刻                    本    殿

 
 冒頭で紹介したが、この永田地区、またはその周辺には多数の湧水があり、永田八幡神社の境内にも「宮下の池」という湧水池がある。
                 
                             宮下の池
 永田八幡神社の裏手から西側に通じる道路があり、そこを道なりに進むと、十字路にぶつかる。十字路の左側向かい側に小さい公園があり、ここはかつて永田の弁天池「代次郎池」という大きな湧水池があったところで、公園の一角にはその由来を記した記念碑が建てられている。

 この道をさらに道なりにしばらく進み、右手にある民家が途切れはじめ、道路の左側も水田風景が広がり、その中の一角にポツンと「柳出井池」という小さな湧水池が見えてくる。この八幡神社から柳出井池までの東西に走る道は、道路を境界線として、その左手に広がる水田地帯が、小さな段丘崖であるらしい。この崖下に位置する左手の水田地帯には、かつて6つの湧水池があったという。
            
                              柳出井池
 池に接した東側の空き地には、5基の石碑が一列に並んでいる。道祖神や大黒天・庚申塔・水神等。この永田の地域の人々が祈りを込めて造立したものだ。この碑の中に水神があるが、もちろんこの柳出井池を指すものであろう。この地に代々住んでいる人々にとってかけがえのない水源だったはずだ。柳出井池を水源として水田耕作をしていた人々が、この池の神に水の恵みを感謝し、豊かな水が末代まで湧き出るように祈って造立したものであろうことは容易に考えられる。







拍手[1回]


柴八幡神社

  熊谷市の元江南町地区には、「柴」という一風変わった地区が存在している。この「柴」地区の近隣には有名な「塩古墳群」がある「塩」地区もある。
 この「柴」という地域は、旧江南町役場の位置する場所から旧川本町に至る、東西に細長い地域で、『新編武蔵風土記稿 柴村』には「東西二八町・南北三町」と記載され、現在の行政区画にも昔の名残が反映されている極端に東西が長い地域である。
 ところで、地名辞典などによると「柴(シバ)」は千燥地、地力のやせた土地焼畑のことなどの説明が見え、江戸時代の地誌に記述された「柴村」の説明に通づる部分が多く、妥当なところと思われる。因みに地誌には「桑、麦に適さず、時々干燥のため作物が育たない」とある。
 また、嘗て柴村は「篠場庄」に属していたことが、江戸時代に編纂された地理誌である『新編武蔵風土記稿』から知ることができ、この「篠場(シノバ)」から「柴(シバ)」へ移り変わったかもしれない。                                                                       
 
            
                     ・所在地 埼玉県熊谷市柴164 
                     ・ご祭神 誉田別命
                     ・社 格 旧柴村鎮守・旧村社
                     ・例祭等 4月第2日曜日・春の日待ち、10月第2日曜日・秋の日待ち   
        

 柴八幡神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方面に進み、延喜内式社田中神社を右手に見ながら道なりに真っ直ぐ進む。押切橋を越え、江南台地の上り斜面を進むと右手に飯玉神社があり、その先の千代交差点から約500m位先を右折すると道路沿いで右側にこの社は鎮座している。残念ながら専用駐車場はなく、路上駐車して急遽参拝を行った。
          
                                   柴八幡神社正面                  境内参道の両側には大杉が聳え立つ。
                              
                            柴八幡j神社参道
 社の規模はさほど大きくはないが、木々に囲まれた静かな佇まいでどことなく神聖な雰囲気。参道の両側には荒川の川石を使用したのだろうか、この造りは洪水対策の物としか考えられない。参道の先の社殿もやはり高く積み上げている。荒川は以前この社の近隣に流れていたのだろうか。
 
        参道の途中、左側にある案内板              案内板の並びにある境内社
                                           天満天神社、大山祇神社
 八幡神社  所在地 熊谷市 柴
 本社の祭神は誉田別命で御母君は三韓征伐で有名な神功皇后である。
 本殿は大破風流造向拝付杉材屋根板葺で末社が二社合祀されている。
 いい伝えによると、この柴八幡神社の創立は、後鳥羽天皇建久年中といい、鎌倉を中心に関東各地に建立された八幡社の一つである。
 明治維新までは、現在地から西方300メートルに位置し、数百年を経た松、杉の老樹生い茂り、かつ、八幡免と称する神領が数多くあったと伝えられている。
 戦前は武神として武運長久を祈願する出征兵士家族の八幡八社詣で賑わった。
 例祭は、春の日待ちが四月の第二日曜日、秋の日待ちが十月の第二日曜日である。(以下略)
                                                            案内板より引用

             
                                    拝  殿
 八幡神社 江南町柴(柴字西)
 県の「ふるさと歩道」にも指定されている当社の杜は、老杉が緑豊かなる樹叢を形成しており、散策する人々の憩いの場として親しまれている。

 鎮座地は、村の西外れにあったが、享保年間(一七一六-三六)、村人の参詣の便に供するため村の中央の現在地に移された。その跡地は、いまだに「元八幡」と呼ばれて大切に保存されでいる。
 創建は、社伝によると後鳥羽天皇の御代、建久年間(一一九〇-九九)で、鎌倉の鶴岡八幡宮を本社として関東各地に建立された八幡社の内の一社であるといわれる。
 しかし、戦国末期、当地に土着して以来、江戸期を通じて代々名主を務めた信濃国の豪族小笠原氏の後裔「柴家」の存在を考えると、当社は同家の祀った神社であった可能性もある。
 本殿は、朱塗りの一間社流造りで、間口二尺、奥行四尺ほどのこぢんまりとしたものである。造営は、内陣墨書によると、宝暦三年(一七五三)三月で、御正領春野原村の大工、長瀬喜兵衛の手により行われた。
 なお、社蔵の「一万度御抜大麻」には、三日市大夫次郎の名前があることから、当時武蔵国を中心に神札を配布していた伊勢神宮の御師の勢力が当村まで及んでいたことがわかる。
                                                       「埼玉の神社」より引用
 
                                   
                                    本  殿
  柴八幡神社が鎮座する熊谷市旧江南町は熊谷市と荒川を挟んで南側に位置し、荒川によって創り出された台地と沃野からなる江南地区は豊かな自然に恵まれ、旧石器時代や縄文時代の遺跡や遺物が多く発掘されていて、武蔵国にあって早くから発達していた地域の一つであった。埼玉県北部の代表的な古式古墳群(古墳時代前期群集墳)である塩古墳群を始め、塩古墳群の数キロ東部には20基以上の円墳からなる野原古墳群があり、そこからは男女1対の踊る埴輪(東京国立博物館蔵)が出土した。江南地域には合わせて90基以上の古墳が現存している。
 柴八幡神社は明治維新までは、現在地から西方300mに位置していたという。その地域は字名で寺内と言われているが、この地には
嘗て8世紀半ばに創建され、10世紀後半まで存続したと推定されている古代寺院の遺跡がある。寺内古代寺院跡と言われる。平成3年9月より平成4年12月にかけて、埼玉県江南町教育委員会および江南町千代(せんだい)遺跡群発掘調査会によって調査された。この寺内古代寺院の正式名称(法号)は解っていないが、「花寺」と墨書された土器が出土していることから、通称で「花寺」と呼ばれている。
 この寺院跡は調査の結果、東辺約170m、西辺約200m、北辺約570mの溝(上面幅6m、深さ1.2m)に区画され、国分寺に匹敵する非常に大規模な寺院跡であることが確認された。
            
                             静かな境内の一風景
 この寺院の創建に関わる氏族が壬生吉志氏である。壬生吉志氏は、推古天皇の六〇七年に定められた皇室の皇子皇女養育のための壬生部の管理をしていて、古代男衾郡の開発にあたり郡長官となっていた。
 古代氏族系譜集成に「孝元天皇―大彦命―波多武日子命―建忍日子命―勝目命―知香子―白猪―日鷹(雄略九年紀、難波吉士)―万里―山麻呂(安閑二年紀、難波吉士)―鳥養―葛麻呂(推古十五年二月、為壬生部、壬生吉士)―諸手―富足―老―鷲麻呂(正六位上、男衾郡大領)―糟万呂(外従七位上、郡主政)―松蔭(外正八位下、延暦十二年四月、補軍団大毅)―福正(外従八位上、男衾郡大領、男衾郡榎津郷戸主)―継成(三田領主。弟眞成)―貞継(三田領主)―貞盛(谷保県主。延喜十五年多摩郡栗原郷に住す)」と記述され、また類聚三代格という書物にも承和八年(841)、武蔵国男衾郡榎津郷に住む壬生吉志福正という人が息子二人の生涯納める調と庸という税をまとめて納めたいと申請し、許可されたという記事があり、また同12年(845)に武蔵国分寺の七重塔再建を申し出て認められている。
 壬生吉士福正は仏教に対し深い信仰心を持っていたかどうかは不明で、ある意味政治的なパフォーマンスとも考えられるが、少なくとも七重塔再建費用や二人の税金を納める費用以上の資産を持ち合わせていた人物であったことは書物等の記述で明らかだ。福正と同時期に存在したことが確認されている寺内古代寺院跡は、寺内古代寺院の建立に深く関わりがあったと推測することができる。

 しかし、この「柴」地域に嘗て、武蔵国国分寺に匹敵するといわれた寺内遺跡、通称花寺が存在していたことは正直言って驚きだ。だからこそ社の散策はやめられないことでもあるのだが。

拍手[5回]


大塚熊野神社

 熊谷市・大塚地域は、熊谷市北東部に位置する。東・南で下川上、西で上川上、北で上中条・行田市南河原に隣接する。埼玉県道303号弥藤吾行田線が西端を縦断、埼玉県道178号北河原熊谷線が横断するが、鉄道や国道は通過していない。現在では、『熊谷スポーツ文化公園』が大塚地域西端を南北に縦断している埼玉県道303号弥藤吾行田線を挟んで東側に隣接していて、場所確認として分かりやすい。
 もとは江戸期より存在した大塚村であった。中条古墳群のひとつである大塚古墳が地名の起源と言われている。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市大塚365
             ・御祭神 熊野夫須美命 速玉男命 家都御子神
             ・社 挌 旧大塚村鎮守・旧村社
             ・例祭等 不明
 大塚熊野神社は熊谷スポーツ公園の東側にあり、国道17号バイパスを熊谷方面に進み、途中肥塚交差点を左折、其のまま真っ直ぐ1km程行くと右手に赤城神社のあるT字路の交差点になるので、そこを右折しそのまま道なりに5分位進むと大塚熊野神社に到着する。ただ社号標石がある正面ではないので、今回は社号標の撮影はできず、一の鳥居から参拝を行った。
 
           大塚熊野神社一の鳥居                  そのすぐ先にある二の鳥居
            
                   大塚熊野神社は大塚古墳の墳頂に鎮座している。
 大塚古墳    熊谷市指定文化財
 指定年月日  昭和三十四年十一月三日
 所 在 地    熊谷市大字大塚
 大塚古墳は、古墳時代後期(七世紀前半)につくられた円墳で当地を支配していた豪族の墓であろうと推定されています。
 墳丘は、直径約五九m、高さ一・二mの基壇上に直径約三五m高さ四m以上の円丘がのった形です。全体で、五・二m以上の高さになると考えられます。
 現存する墳丘は、北西部分のみ残存していて、墳丘全体の約四分の一が残っている状態です。
 二度にわたる発掘調査により、埋葬施設は、奥室・前室をもつ複室構造の胴張型横穴式石室であることが確認されています。
 石室内から、鉄製小札・鉄鏃・金銅製鞘尻金具・勾玉のほか、金箔装漆塗木棺の破片が出土し、西側の基壇上からは、須恵器の甕が列をなして出土しました。
                                                             案内板より引用
           
      案内板の手前には大塚古墳の石室、天井部に使用されたものと思われる石材がある。
 
   古墳の頂上、また大塚熊野神社に通じる参道           参道の途中にある境内社
  ちなみに境内社は宇賀神社と豊蚕神社、塞神社、三峰社、榛名社、天神社の六社が存在するそうだ。
           
                   大塚古墳墳頂に鎮座する大塚熊野神社拝殿
 熊野神社  熊谷市大塚二六六(大塚字杉戸田)
 大塚の地名は、その地内に大きな古墳があることに由来する。この古墳は、七世紀初頭に造られたもので、その出土品から当地を支配していた豪族の墓であろうと推定されている。直径五九メートル、高さ一・二メートルの基壇上に、直径三五メートル、高さ四メートルの半円が載った形をとる市内最大の円墳で、中には横穴式石室が築かれている。当社は、この墳丘上にあり、古墳の下には江戸時代に別当であった龍昌寺がある。以前は、周りに民家などがなかったのでかなり遠方からでもその堂々とした社を見ることができたが、近年では墳丘の周囲にも建物が増えたため、参道の正面からでもその全容が見られないのは残念である。
 祭神は、熊野夫須美命・速玉男命・家都御子神のいわゆる熊野三神である。『風土記稿』の記述から、当社は江戸時代には既に大塚の鎮守として祀られていたことが知られるが、創建の年代は明らかでなく、古墳の被葬者との関係も分かっていない。
 神仏分離の後は、明治五年に村社になり、同四十二年十二月(『明細傾』では四十一年)には地内に鎮座していた猿田彦神社・宇賀神社・豊蚕神社・塞神社の四社を合祀した。ただし、宇賀神社は現在も旧地に社殿が残っており、毎年四月に農事組合の人々が中心になって祭りを行っている。
                                                       「埼玉の神社」より引用

        
                                              西側道路沿いから大塚熊野神社を撮影。
                                中央石燈籠そばの石には猿田彦大神の文字が彫られている。

拍手[1回]


上川上伊弉諾神社

  大里郡神社誌には「上川上村熊野社神職宮田氏の系図に依れば、建長四年宗尊親王・鎌倉下向、征夷大将軍に任ぜられ、北条高宗の隙を伺い、文永十年潜かに御帰洛に及べり。当時、宮田太郎貞時・親王に供奉したりしが、後帰国するや北条高宗を恐れ、武蔵国崎玉郡川上郷鎮座熊野三社は代々平家崇敬の神なりとの由緒によりて、当社の社守となると有り。下総国香取郡佐原城主義連の後胤・常陸茨城竹原宮田郷の住人宮田太郎貞明・文永年中宗尊親王に御供し上洛後、帰国して川上郷に住するに及び、熊野三社は平家代々崇敬の神なり、吾身は平氏の後胤なりとて、之に奉仕せりと爾来世襲神職として奉仕すること二十二代宮田浪江に至る」とある。但し文永十年の執権は北条時宗であり、北条高宗なる人物が存在していたかどうかは不明だ。
 ここに記されている武蔵国崎玉郡川上郷鎮座熊野三社とは、当社上川上伊弉諾神社と隣村の下川上の熊野社、大塚の熊野社の三社が総称して「熊野三所権現」と呼ばれているという。

                 
              ・所在地 埼玉県熊谷市上川上36
              ・ご祭神 伊弉諾命 伊弉冉命
              ・社 挌 旧上川上村鎮守・旧村社
              ・例祭等 祈年祭 327日 例祭 88日 新嘗祭 1127
                     *例祭日は大里郡神社誌を参照
  上川上伊弉諾神社は国道17号バイパスを熊谷方面に向かい、上之交差点を左折し約1km行くと十字路となるので、そこを右折するとすぐ右側にこの社の社叢が見える。大体熊谷陸上競技場の南側で、上之村(大雷)神社の北側に位置している社だ。
 社の東側には十二所集会所があり、そこには駐車スペースも確保されていて、そこに停めて参拝を行った。
             
                               上川上伊弉諾神社正面
 
    鳥居近くには如意輪観音石像       社号標柱の前には石祠・庚申塔が並ぶ。
      と
石塔が祀られている。              石祠は詳細不明
                綺麗に整備されている鳥居周辺         参道の右側には集会所があり、先にはまた神橋
           
                                                      神橋とその先には社殿がある。 
                         社殿の周りにはこんもりとした社叢が社を囲むかのように一面に広がる。
 
        神橋を渡るとすぐ右手側に稲荷社と石祠            稲荷社の並びにある石碑群
 
                    石碑群の奥にある琴平社                                      石碑群の反対側には神興庫
           
                                                                      拝 殿
           
                               本  殿
           
 伊弉諾神社  熊谷市上川上三六
 当社の創建は、中世、紀伊国熊野三所権現を勧請したことによると伝える。この伝承に基づくものであろうか、当社と隣村の下川上の熊野社、大塚の熊野社の三社が総称して「熊野三所権現」と呼ばれる。「宮田氏家系図」によると、鎌倉期、征夷大将軍に任じられた宗尊親王が執権である北条氏の隙を見て密かに帰京したことから、この供をした平家ゆかりの宮田太郎貞明は、北条氏の追及を恐れてこの地に逃れ、当社の宮守りになった。この宮田家は『風土記稿』に「神職宮田丹波吉田家の配下なり」と載り、明治初期まで二二代にわたり当社の祭祀に専念した。その後、親類に当たる茂木家がこれを継ぎ、現在に至っている。 
 本殿には、享保九年(一七二四)銘の金幣のほかに、嘉永三年(一八五〇)の棟札が納められており、これには「奉再興大隅流唯一権現作御宮一宇敬御造営」とあり、番匠に当村の稲村徳次郎・大嶋夏五郎の名が見られる。また、拝殿に掛かる嘉永五年(一八五二)の「勧進相撲」の絵馬は、当社修築の際に江戸の二所ケ関部屋の力士を当地に招いて行った相撲興行を記念して奉納されたもので、見物人の生き生きとした姿が描かれており興味深い。なお、この翌年の安政二年(一八五五)には、神祇管領から「伊弉諾神社熊野大権現」の幣帛を受けている。
                                                       「埼玉の神社」より引用

  ここに記されている「大隅流」とは神社仏閣などの楼閣建築を飾る装飾彫刻でいわゆる「宮彫」といい、安土桃山時代から欄間などで見られるようになり、江戸前期で確立されたものである。大隅流は平之内大隅守がおこした流派で、幕府御用として、日光東照宮や湯島の聖堂などの造営にあたった。宮彫として流派を完成させたのはこの大隅流が最初であり、完成された宮彫の原点ともいう。
  また上川上伊弉諾神社には上記「相撲絵馬2枚」(昭和45年11月3日指定)の他に「黒馬図」も昭和31年11月3日に熊谷市に有形文化財の指定を受けている。
 
                    本殿左奥にある八幡社                   同じく右奥には竈社


                          
                             社殿右側にある御神木

拍手[4回]


麦倉八坂神社

 旧埼玉県北埼玉郡北川辺町は埼玉県北東端部にかつて存在していた町で、人口は2010年時点で約1万3000人。この北川辺町は埼玉県で唯一町全体が利根川の左岸に位置し、地形上、西側の群馬県とは陸続きで、北側の栃木県とは渡瀬遊水地を、また東側の茨城県とは渡良瀬川を通じて接している。
 この地域は、渡良瀬川と利根川の合流地点西側にあり、別名「水輪のまち」とも言われ、国土交通省が認定している「水の郷百選」に指定されている。ちなみに「水の郷」とは水環境保全の重要性について広く国民にPRし、水を守り、水を活かした地域づくりを推進するため、地域固有の水をめぐる歴史・文化や優れた水環境の保持・保全に 努め、水と人との密接なつながりを形成し、水を活かしたまちづくりに優れた成果を上げている107地域のことをいう。
 この旧北川辺町麦倉地区には麦倉八坂神社が鎮座している。
所在地   埼玉県加須市麦倉2552
御祭神   素戔嗚命
社  挌   旧村社
例  祭   不明

        
 麦倉八坂神社は「道の駅 おおとね」から埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、利根川に架かっている埼玉大橋を越えると左手側にこの社の社叢が見えてくる。ちなみにこの「麦倉」という地名の由来は、、『新編武蔵風土記稿』によれば明応年間(1492~1500)で、古河公方足利成氏の家臣石川権頭義俊がこの地に陣屋を構えたという。その末裔が、代々この陣屋に住み百人余名の武士が詰めていたと伝わる。それ以前はこの地を倚井(よりい)と呼んでいたが、明応元年(1492)に麦倉と呼ぶようになったという。
           
                           八坂神社正面参道
            
                              二の鳥居

 社殿の手前左側には多数の石祠とその中央には巨大な古木が存在する。写真左側には勝軍地蔵と青面金剛の石祠があり、巨木を挟んでその並びには(写真右)また青面金剛の石祠と出羽三山石碑、そして伊勢太廟参拝碑があり、この伊勢太廟参拝碑は加須市有形文化財(昭和57年12月7日)に指定されている。
                  
            
                              拝    殿
 
         拝殿に掲げてある「八坂神社」の額                  本    殿
            
鈴木弘覚翁碑
 鈴木弘覚、三重県三重郡菰野町に生まれ、長ずるに及んで京都に遊び、頼山陽・支峰・広瀬淡窓に学んで勤王の志士と交わり、尊皇攘夷をはかり、追われました。後に栃木県の庚申山にこもり、戒行に専念していましたが、縁あって北川辺(旧利島村内野)の薬師堂に住みました。道場を開いて青少年に手習を教え、特に養蚕を奨励し、実習地を設け、桑を栽培したり、優良な種子を配布して農事改良に一生を尽くした。明治26年12月23日病没、享年72歳。同28年11月村民相謀って詳伝を刻んだ記念碑を建て、その遺徳を敬慕しました。書は明治の書家渡辺沙鴎である。
           
                             八坂神社遠景

拍手[0回]