古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

皆谷天児安神社


皆谷天児安神社が鎮座する皆谷地区は東秩父村西部に位置し、北で坂本、東で御堂、南で白石、西で皆野町三沢と隣接する。ちなみに皆谷は「かいや」と読む。槻川上流域の山間部にあたり、小字として皆谷・新田・山口・森ノ脇・大切・朝日根・小安戸・八重蔵・湯ノ木が挙げられる。
 皆谷天児安神社の御祭神である天児屋根命は春日権現春日大明神とも言われていて、岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、古事記には中臣連の祖となったとある。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられている。
 
皆谷天児安神社の創祀は不明と言われているが、天児屋根命を祖神とする中臣氏の一族が嘗てこの奥深い東秩父の地にいたということだろうか。
所在地   埼玉県秩父郡東秩父村皆谷87
御祭神   天児屋根命 
社  格   旧村社 
例  祭   11月上旬
  

        
 皆谷天児安神社は大内沢神社から東秩父村役場方向に進み、途中落合橋の交差点を右折する。埼玉県道294号坂本寄居線から県道11号熊谷小川秩父線に路線は変わり、その道を南方向約5㎞程進むと、右側に皆谷集落農業センターがあり、その向かい側の山の中腹に皆谷天児安神社は鎮座している。駐車スペースは県道を挟んで反対側に皆谷集落農業センター側に若干あり、そこに停め参拝を行う。
        
                 皆谷集落農業センター側から撮影
 
天児安神社由緒には「永禄年間、松山城主上田宗調の家臣関口帯刀丞は松山落城の後、皆谷村に居住して農に帰し、鬼子母社(当社)を祭り、金二十両を貴信す」と記述されている。東松山史話に「永禄四年秋九月、上杉謙信松山城を攻撃す。関口等の将士搦手口を守る、其の軍勢は僅か三千余人なり。天正十八年四月十一日豊臣軍の総攻撃を受け、城主上田朝広は小田原籠城に加わる。朝広は七月三十一日松山城下にたどりつくが、我が居城は既に人手に渡り、城に残した幼子又二郎は、鉢形攻めの途中、山田伊賀守の計らいで安戸の浄蓮寺へ落ちていたので、幼子の守役関口忠左衛門の御堂館に亡命し、そこで又二郎を関口氏の養子にして、上田を絶家させて余生を終った」と。また吉見町史には「上田憲定は小田原落城後、逃れて東秩父村の浄蓮寺に一時身を潜めたが、やがてこの地に土着し、家臣関口氏がここにいたので、その養子となり関口の姓を名乗ったという。その後曹洞宗光官寺を建立し、境内に鬼子母神社を建てた。これが当社の創建であるといわれている。
 この中で書かれている鬼子母神は小田原城陥落後、一時浄蓮寺に匿われていたときに、その寺で祀っていた運慶作と伝えられている一尺一寸の鬼子母神像を持っていき、光官寺の境内に神社を創建した際にその守り神としたという。
 その後明治の世になり、神仏分離によって当社は光官寺から離れ、隣接地に境内を設け、天児安神社と社号を改めたとのことだ。
            
                     勾配の急な石階段上に社は鎮座している。
 参拝時期は初夏を思わせるような5月上旬。雲一つないような晴天の日で、カメラの画像も強い日差しの関係でややぼやけてしまった。また勾配が急なため、30段ほどしかない石段だが、結構きつく感じた。
            
                          石段の途中より社殿を撮影
 
 東秩父村は周囲を緑豊かな外秩父の山々に囲まれ、市街地の中央に槻川により形成した幅が狭く、細長い低位段丘や谷底平地が続いていてその流域沿いに街が形成されている山村地域である。その地形上の関係からかほとんどの社は山の中腹に鎮座している。平野部に鎮座する社とは違う趣のある参拝を味わえたような気分だ。


 

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