大内沢神社
広域行政においても秩父地域ではなく、隣接する比企郡の自治体とともに比企広域市町村圏組合を構成し、比企圏域に属しているという。
所在地 埼玉県秩父郡東秩父村大内沢681
御祭神 玉祖命(天明玉命)
社 格 旧村社
例 祭 不詳
筆者が在住する熊谷市から東秩父村大内沢神社に行くルートは二通りあり、一つは熊谷市から国道140号線で寄居町へ行き、荒川を南下し鉢形城から埼玉県道294号坂本寄居線で東秩父村へ行くルートと、埼玉県道11号熊谷小川秩父線で小川町方面から東秩父村に行くルートだが、今回は寄居町に所用があったためそちらの方向から南下して東秩父村に行った。大内神社はその県道294号線沿いに鎮座していることと、赤い神橋が目印になるため、探すことはさほど難しい社ではない。駐車スペースも神社前バス停の比較的広い駐車スペースが確保されているため、そこに停めて参拝を行った。
県道沿いに鎮座する大内沢神社
神橋を渡るとその先に石段があり、石段の右側には社号標がある。
この東秩父村には不思議な伝承が残っている。「新編武蔵風土記稿」巻之二百五十三(秩父郡之八)に以下の記述があり引用する。
山田村 恒持明神社
上郷西新木にあり、 本山修験、大宮郷今宮坊配下松本院持、 本地十一面観音、 村の鎮守にて例祭正月二十日、 扉内に縦横一尺許の石あり、 石面に、勅定日本武尊高斯野社恒望王と鐫せり、 当村縁起曰、人皇五十代、桓武天皇の皇子、一品式部卿葛原親王の御子、高見王世を早く去り玉ひしかば、御子高望恒望の御兄弟を、親王の猶子として養ひ玉ひしに、高望王は正四位下大蔵卿上総介に任ぜられ、始て平姓を賜ふ、 恒望王は従上四品太宰権帥にて、任国太宰府下り玉ひしに、有職廉直にして、却て世の謗を受け、竟に讒人叡聞を掠けるに依て、恒望王故なくして解官せられ、武蔵国に左遷せ玉ふ、 然るに延暦の頃までは、武蔵国曠野多くして、山に寄たる所ならでは、黎民居を安じがたければ、此君も比企・秩父両郡に摂まれたる山里に、間居の地を卜し玉ひける、 その殿上の所を、武蔵の大内とぞ称しけるまゝ、今その遺名を大内沢村と呼べり、 平城天皇の大同元丙戌の冬、恒望王罪なく左遷のこと、叡慮に知し召ければ、配所の縁に因て武蔵権守に補せられ、従上四品は故の如く復し玉ふ、この大内沢より山田の郷に官舎を移し玉ふ、 されば官位田の地を恒望庄とぞ称しけるに、御諱字を憚て恒用と書けるに、後世俚俗誤て恒持と書訛りぬ、 恒望王逝去し玉ひし時、延暦十二癸酉の年より大同元丙戌の年まで、十四年の間給仕し奉りぬ、 村長邑夫挙りて、其徳功を仰ぎ、遺命の由る所あれば、尊骸を大内沢に便りたる清地に舁送り、埋葬し奉りて後、その所に一宇の寺を建て、御堂と称しけるが、数多の星霜を経るがうち、御堂も破壊して村名にのみ残れり、 恒持庄は大内沢・御堂・安戸・皆谷・白石・奥沢・坂元・定峯・栃谷・山田・大野原・黒谷・皆野・田野・三沢等すべて十五ヶ村にて、惣鎮守と仰ぎ奉りしに、一千年にも及びぬれば、その氏人の伝へきく声も遥に響き、山彦の谷も幽に成行て、神前の燈も漸にかゝげて(中略)
石段が終わり参道を進む途中に聳え立つ杉の御神木
新編武蔵風土記稿によれば平安時代初期、桓武天皇の曽孫であり、初めて平氏を賜った高望王には恒望王(つねもちおう)という弟王がいたという。兄の高望王が東国にくだられた同時期に、恒望王は大宰権帥という役職につかれて遠く九州の任地に赴かれたが、あまりに清廉潔白な性質がわざわいして讒言にあって武蔵国に左遷され、彼は今の東秩父村大内沢に住んだ。平城天皇の大同元年(806年)に、恒望王の罪は讒言によるものであることがわかって、もとの官位にもどり、配所が武蔵野の一隅であったので武蔵権守になられ、大内沢より秩父山田へ移られたということである。
もとより高望王は寛平元年(889年)5月13日、宇多天皇の 勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し平高望と名乗るように桓武平氏の祖として大変有名な人物であるが、その弟王の存在など聞いたこともないし、現にいかなる歴史書にも、またどの系図にも全く出てこない正体不明の人物なのである。
大内沢神社社殿
社殿の手前左側に稲荷社 社殿内部
この「恒望王伝説」も「貴種流離譚」と言われる一種の伝承・伝説の一類型に属するものだろう。残念ながら歴史学的にも信憑性が薄いとされ、この「恒望王伝説」の古伝も上記の内容にはいささか疑念を禁じ得ないものがある。大体恒望王と高望王が兄弟と記述しておきながら、それぞれ活躍した年代が延暦年代~大同年間(790年~809年)、寛平年間(890年)と違う。時系列が全く違うのは決定的だ。
大内沢神社本殿内部
社殿の右側奥に存在する境内社 手前琴平神社 琴平神社の左隣には大黒天の石碑
ところで天皇貴種ではないのであれば恒望王とは何者だろう。断言はできないが東秩父村近郊にそのヒントはある。比企郡滑川町羽尾に鎮座する堀の内羽尾神社の御祭神の一柱の名がそれである。
藤原恒儀だ。
藤原恒儀は、「藤原」姓を称しているが特定不明の人物である。案内板等ではこの人物は青鳥判官と称し、隣地東松山市の青鳥にある青鳥城蹟の城主で、天長六年(829年)九月二十日に卒した人と伝えられている。新編武蔵風土記稿にはこの藤原恒儀はこの地に在住していた在地豪族であり、卒して後に産土神とした、とも書かれている。
恒望王の活躍時期が延暦年間から大同年間(790年~809年以降)であり、809年に武蔵権守になったというのだから暫くは存命だったのだろう。藤原恒儀の亡くなった829年と年代的に重複するし、活動地域も近郊であることから、この二人は同一人物の可能性も捨てきれない。
社前には槻川の支流大内川が流れ中々風情のある佇まいである。
どの国の歴史にも、勝者によって自らの正当性・正統性を主張するために編纂された歴史である正史(せいし)に対して、公認されない歴史書と言われる敗者側の悲しい歴史を稗史(はいし)という。
昔から戦いに勝利した側が、その土地、国を治める正当性を主張しつつ歴史を編纂してきたことは常識だ。この勝てば官軍の歴史が「正史」であり、現在の教科書も残念ながらこの「正史」の通念を踏襲しているのが現状だ。恒望王伝説を、所謂皇国史観的な天皇中心主義の歴史形態から考えようとすること自体が間違いであって、中央の歴史書には載らないその地方独自の歴史にも目を向ける必要があるのではないだろうか。この恒望王伝説も、所謂皇国史観的な天皇中心主義の歴史形態から考えようとすること自体が間違いであって、中央の歴史書には載らないその地方独自の歴史にも目を向ける必要があるのではなかろうか。