高見四津山神社
四津山は標高197m、比高100mの小川町の北東部に聳える独立嶺である。この山は社としてよりも嘗ての高見城跡としての意味合いが強く、四津山の頂上に築かれ、北は荒川流域一帯、南は市野川筋を一望できる要害の地に位置する。山頂部全体を城郭化しており、南北約174m・東西54mに広がり、北から三ノ郭・ニノ郭・本丸が並ぶ。本丸は山稜最高部であり、現在は四津山神社が建っている。四津山の東側麓には市野川が流れ、、その川筋には「旧鎌倉街道上道」が走り、戦国時代、松山城と鉢形城の中間にあって、街道を扼する要衝の役割を負っていたと推測される。
所在地 埼玉県比企郡小川町高見1125
御祭神 火之迦具土神
社 格 不明
例 祭 4月24日 春季例大祭
埼玉県道184号本田小川線を小川町方向に進み、能増交差点手前1㎞程手前に四津山神社入口と刻まれた標石が建てられているので、そこから2km程西へ走って行くと、ふれあい四津山デイサービスセンターの先に四津山神社の入口がある。駐車スペースはないが、退避エリアの空間が入口近くにあるのでそこに駐車し参拝を開始する。
県道沿いにある四津山の入口
四津山神社は火遇突智命を始め十七神を祭神として、御神体は勝軍地蔵とある。古来より火防の神とされて信仰厚く、信者は関八州に及ぶという。宝暦9年(1759)に山麓の明王寺の住職、権大僧都法印祐慶師の代に古来より境内に祀られていた寺の氏神である愛宕神社を、山頂に遷座して以来、重誉師を始め時の住職は御神体を奉じて山に登り、神事を執行されてきたといい、明治に入り神仏分離により山麓の高見、能増の村社十一社を愛宕神社に合祀して、山の地名より四津山神社と改称したということだ。
四津山東側の麓にある正面参道。ここから山頂の道程が意外と長く続く。
鳥居の手前にある四津山神社再建記念碑 一の鳥居
鳥居を過ぎて暫く歩くと石段にかわり、そこには標識で「犬走り跡」と書かれていて、おそらく城跡の遺構が残っているのだろうが、そちらの散策をする余裕もないので、真っ直ぐ石段を上る。すると今度は右側に曲がるので、素直に道通りに歩く。時間はそれほどではないが、思っていたよりも結構きつい。
曲がった先にあるやや広い空間。山頂の案内板で後になって知ったことだが、高見城跡の「腰郭」といわれた所。そこには不動明王(写真左)と大黒天(同右)の石碑がある。なにか一種異様な雰囲気。そのすぐ左手には四津山神社まで一挙に上る急勾配な石段が何十段とあり、愕然として気持ちが滅入る。石段を上るが途中2,3回と休み、登り切るとやっと山頂にたどり着く。四津山神社の入口から散策すること正味20分ぐらいだろうか。体力と気力との闘いの参拝だ。
山頂に鎮座する四津山神社
「比企郡神社誌」には四津山神社について以下の記述がある。
比企郡神社誌
御社名 四津山神社
御由緒 往古明王寺境内に有りしが宝暦九巳卯年三月二十四日山越に安座す、明治四十年四月三十日付大字小字竹の鼻 村社辺取神社。字山越無格社阿夫利神社。字四津山無格社疱瘡神社 字上の前無格社尺司社。字六所無格社六所社。字山越無格社渉問神社。字日丸無格社天津神社。字四津山無格社八雲神社。字無格社熊野神社。大字能増字八幡村社八幡神社。字町場無格社菅原神社を地名により四津山神社と改称す。
県指定史跡 四ツ山城跡
小川町大字高見字四ツ山一一二五ほか
平成十五年三月十八日県指定
四ツ山城跡は、周囲から一際高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川流域一帯、南は市野川流域を一望できる要害の地に築かれています。市野川筋にはいわゆる鎌倉街道上道が走り、戦国時代には鉢形城(寄居町)と松山城(吉見町)の間にあって、交通路を押さえる重要な役割を果たしていたと考えられます。
城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本廓と北に連なる三つの主要な廓によって構成され、それぞれ土塁と堀切によって画されています。
文明十二年(1480)の太田道灌書状写に「高見」「高見在陣衆」とあることから、このころに城が整備された可能性があります。長享二年(1488)に山内・扇谷両上杉氏の対立により激戦が繰り広げられた高見山合戦は、この麓の高見・今市付近で行われたと考えられています。
また、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」は、長享元年に没した増田四郎重富の居城と伝えています。「関八州古戦録」によると、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による関東平定の際に鉢形城主北条氏邦の家人が籠ったものの、戦わずして鉢形城へ逃げたといいます
案内板より引用
拝殿上部に掲げてある「四津山神社」の社号額
きつい登山道から解放され山頂に到着すると、やや広めな空間が広がる。天候は晴天とは言えなかったが、それでも山頂からの眺望は素晴らしく、しばし時間を忘れてしまった。
山頂から東側の奈良梨地区の丘陵地の稜線を撮影。