古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

今城青坂稲実池上神社

  今城青坂稲実池上神社が鎮座する児玉郡上里町は、古代律令時代武蔵国賀美郡と言われた。賀美郡,美しい名称だ。賀美郡は武蔵国の最北端に位置し、東南は児玉郡、西北は利根川を挟んで上野国に接している。おおむね現児玉郡上里町、神川町の地域で、『和名抄』は「上」と訓じている。ちなみにこの「かみ」は、当初武蔵国が東山道に属していたとき、畿内にもっとも近い郡であったことによるとする説があるそうだが真相は不明だ。
 賀美郡は現在の上里町全域と神川町北部が行政区域に相当され、その郡内には式内社が4社存在していたという。地形的にも上野国と利根川、神流川という2大河川を通じて接している関係から、上毛野国の影響下に長期間あったと推測される。また賀美郡は上古代から地理的に恵まれたようで遺跡から出土した様々な土器の豊富さから、当時としては、比較的豊かな生活を送っていたことがうかがえる。

 この地域は不思議なことに縄文時代、弥生時代の遺物が数多く出土しているが、何故か縄文人、弥生人が生活をしていた住居の跡は見つかっていない。古墳時代後期(六世紀)になると、上里町全域に大規模な集落が営まれ、上里町の数々の古墳はこの頃造営された。この地域の古墳は、小さい古墳がまとまって作られているのが特徴である。

所在地     埼玉県児玉郡上里町忍保225
主祭神     気吹戸主命  (合祀)豊受姫命
社  格      旧県社
例  祭          9月29日 例大祭
由  緒     和銅4年(711)創立
          正慶年中(1332~34)新田義貞造営
          大永年中(1521~28)齋藤盛光造営
          天正10年(1582)神流川合戦で社殿焼失
          同年川窪與左衛門尉信俊再造
          元禄年中(1688~1704)同氏の孫信貞丹州に転領となり以後頽破
          明治32年2月7日県社

                        
明治40年1月12日神饌幣帛料供進神社指定
                     
地図リンク
  神保原駅からは約2キロ北上の地に鎮座する。さすがに埼玉県最北部に位置する場所なので周りは田園風景ばかり。すぐ北は烏川なので氾濫があったらどうなるのだろうと変なところを心配してしまった。(事実元禄7年の大洪水で社殿を流失。本殿だけをかろうじて水中から引き上げ、地盤を高くして改めて鎮座させた、との記録もある。)
  この地域は過去において現在ののどかな田園風景とは別の顔を持っており、有名な神流川の戦い(1582年6月18日~19日)では、織田信長の家臣である厩橋(うまやばし、前橋の古称)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との戦いにより社殿を焼失した。その後天正19年(1591)に川窪信俊が社殿を再建し、神田が寄進された、とのことだ。

 
         一ノ鳥居 手前にある橋は御神田橋                         二の鳥居の手前にある掲示板

池上神社(社頭掲示板より
  所在地 上里町忍保225
  池上神社は、和銅年間(708~715)の創立で、延喜式内社武蔵国44座の一つで、延喜式内神名帳には、今城青坂稲実池上神社と記されている。
  忍保庄の神社と伝えられ、祭神は伊吹戸主神と豊受姫命で、古くは善台寺において別当を兼務し神事を司っていた。
  正慶年中(1332-34)には新田義貞、大永年中(1521-28)には斉藤盛光の崇敬が篤く、神殿の修復が行われたといわれている。
  また、天正10年(1582)、織田信長の家臣である厩橋(群馬県前橋市)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との神流川合戦の際に社頭を焼失し、その後、川□信俊により再建されたと伝得られ、現在の社殿は明治12年に改築されたものである。
  なお、当神社には明治初期に始まった、「忍保の神楽」と呼ばれる神楽の一座がある。
                                                                      昭和61年3月埼玉県 上里町                                                            

                      
                                                          二の鳥居と扁額
                      
                                                    拝 殿  南側に鎮座
                                    洪水対策で地盤基礎部分が高くなっている。
                      
                                                               本   殿
 本殿は土塁等で土盛りをし、拝殿の基礎部分より高くして洪水対策をしているようでもあり、元々あった古墳上に本殿を造ったようにも見える。


 今城青坂稲実池上神社の祭神である伊吹戸主命は祓戸四神のひとつで、速開津媛命の飲み込んだ禍事・罪・穢れを確認して根の国・底の国に息吹を放つ神である。ところで祓戸大神の四神とはどのようなの神であろうか。
 この神々は記紀神話に登場せず、大祓詞にその名が記されるその名の通り、穢れを祓ってくれる神様だ。

【祓戸大神】
 祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神である。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味である。
 神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになる。
 なお、この時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生しているが、これらは祓戸大神には含めない。「祓詞」ではこの祓戸大神に対し「諸諸の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へ」と祈っている。

『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。

・ 
瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
・ 
速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
・ 
気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
・ 
速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

 速開都比売を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。
        
                  今城青坂稲実池上神社 拝殿と本殿

 祓戸大神の4神の役割には順番があり、① 世の諸々の過事と罪、穢れを瀬織津比売が川に洗い流して→② 速開都比売が河口で受け取って海底に沈めて→③ 気吹戸主海底から根の国・底の国に禍事・罪・穢れを送り込んで→④ 速佐須良比売穢れ等全て一網打尽に浄化し、世の中をリセット(再生)する、という一連のプログラムを実行することによって常に世の中の秩序、道徳等が守られるというものらしい。
 祓戸の大神のうち三神が生命を育む女神であり、川は飲み水、海は生命の根源として、また、呼吸は人間に不可欠なものであり、霊界はこの世を裏で支える存在として、それぞれが私たちにとって大切なものだ。まさしく人間だけでなく、地球上の生命にとっても根源的なご神徳を備えた神々が祓戸の大神で、いわば自然の自浄作用のようなものを具現化した神なのではないだろうか。

 ところでこの祓戸大神の神性、神格は世界中の神話で登場する洪水伝説に似ていると感じるのはいささか飛躍した考えだろうか。


 『延喜式』「神名帳」武蔵國賀美郡四座の三座、「今城青八坂稲実神社」「今城青坂稲実荒御魂(いまきのあおさかいなのみのあらみたま)神社」「今城青坂稲実池上神社」の一座に比定されている。この三座について吉田東伍は『大日本地名辞書』のなかで次のように述べている。

 「社号に因りて之を考ふるに、一神を三霊に分かちたるにて、青と云ふは地名なるべし、即ち後世アホに訛りアボとも転りたる者とす。八坂は弥栄にて(坂とのみあるは栄なり)稲の実成に係けたる語とする。されば青の弥栄稲実の神なり。また其の荒御魂を本祠に分かちて祭る者一所、又特に池上に祭る者一所、合三所なりし也。而も其今城の名を負ふは詳らかならず。今木は山城國、大和國には地名にもあり。又新墓(ニヒハカ)を今城と云ふことあり。又新帰、新米の蕃人異族を今来と云へりとも想はる」

 
今城青八坂稲実神社は現在は埼玉県児玉郡神川村元阿保の地にある。この阿保は青に通じる。そして阿保から西南へ五キロ行くと金鑽神社がある。金山彦命を祀る金鑽神社が銅や鉄の精錬と関係があることはまぎれもない。金鑽神社の東には金屋集落があり、鋳物業をしていた家が今もあるそうだ。今城青八坂稲実神社もまた、銅や鉄の採鉱冶金に関係のある人たちの神社ではなかったろうか。賀美郡一帯にさかえた武蔵国造一族のうち、檜前舎人直の勢力がもっとも抜きんでていたというのは、大和国の檜前の廬入(いおいり)宮に仕えていた舎人の後であることを思わせる。
 近年、神川町大字元阿保字新堀北の金糞遺跡から、金属精錬工房跡が発掘されている。

 

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登由宇気神社

所在地  熊谷市村岡851-1
祭  神  豊受媛神(とようけびめ) [別称]豊宇気毘売神
社  格  旧村社
例  祭  不明

                    
地図リンク
  国道407号線を熊谷方面に北上すると右側にリサイクルショップが見え、その脇の細い道(407号線に面して社号標石が建てられている)を300m程東へ走って行くと北側に登由宇気神社がある。登由宇気神とは豊受媛命の別名で、古事記には「豊宇気」と表記してある。

登由宇気神【とゆうけのかみ】
  日本神話にみえる神の名で伊勢神宮外宮(豊受(とゆけ)大神宮)の祭神。豊宇気毘売(とようけびめ)神とも。トヨ(ユ)は美称,ウケもしくはケは食物の意,すなわちこの神は内宮の天照大神(あまてらすおおかみ)に仕える食物神(倉稲魂うかのみたま))である。平安期に成立した《止由来宮儀式帳》に縁起譚がみえる。雄略朝にアマテラスが神託を下し,丹波国比治の真奈井に座すトユウケノ大神を御饌都(みけつ)神として欲したため遷座させたという。
 
 
国道から右折すると道幅は車一台分程しかない程細い道だがそれは仕方がない。駐車場は神社の少し先に若干の駐車スペースがあったのでそちらに置くことができた。
                    
                                            一の鳥居から撮影 南向き社殿
 
      鳥居の左側にある立派な神社社号標石                                     二の鳥居
                   
                            拝   殿
         
                            本   殿
登由宇気神社は祭神が豊受媛神で女神であるにも関わらず、鰹木は7本で奇数、千木は外削ぎであり、どちらも本来は男神対象であるが中には例外があるという。

 神社建築の例としては、出雲大社を始めとした出雲諸社は、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしており、他の神社でもこれに倣うことが多い。また鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の社に見られる。一方、伊勢神宮の場合、内宮の祭神、天照大神・外宮の祭神取豊受大神とともに主祭神が女神であるにもかかわらず、内宮では千木・鰹木が内削ぎ10本、外宮は外削ぎ9本である。同様に、別宮では、例えば内宮別宮の月讀宮・外宮別宮の月夜見宮は主祭神はともに同じ祭神である月讀命(外宮別宮は「月夜見尊」と表記している)と男神であるが、祭神の男女を問わず内宮別宮は内削ぎで偶数の鰹木、外宮別宮は外削ぎで奇数の鰹木であり、摂社・末社・所管社も同様である。この理由には諸説あり、外宮の祭神が本来男神的性格を帯びていたとする説もある。
 
                       金比羅神社                                                       菅原神社
 
            金毘羅神社                        厩戸命の碑

        八坂神社
 これらの境内社群は社殿の左側に鎮座している。案内板もあり丁寧で判りやすい。

 登由宇気神社の鎮座する地は熊谷市村岡という地名だが、この「村岡」は元々「村」+「岡」との組み合わせで本来の地名は「村」だったようだ。では「村」の意味はどのようなものだったのか。

村 ムラ 梁書・百済伝に「邑を檐魯(たんろ)と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し」と見ゆ。百済のクは「大きな」、ダラは檐魯で邑・郡県・国の意味。百済は大邑・大国と云い、大国主命は大国の主(首長)で百済渡来集団の首領である。新羅では州・郡・県・村は良民による自然部落によって形成されたもので、それが基準となって行政区画に編入され、村には村長がいた。一方、郷・所・部曲(かきべ)は人為的に設けられた特殊区画であって、国家または王公貴族のために従事していた。鍛冶集落の別所・別府や、和名抄の郷はこれに当る。続日本紀・霊亀元年条に陸奥国閉村(岩手県閉伊郡)、宝亀七年条に出羽国志波村(岩手県紫波郡)とあり、今日の数十戸の村では無く、数千戸の郡域を村と称していた。辰韓は十二国からなり、その一つに新羅があった。新羅国に「閼川の楊山村、突山の高?村、觜山の珍支村、茂山の大樹村、金山の加利村、明活山の高耶村」があり、六村のかれらが推戴したのが紀元前五十七年に即位した新羅第一代王の朴赫居世(パク・ヒョクコセ)である。新羅本紀に朴赫居世は高?村の村長蘇伐都利に育てられ十三歳で即位したとあり。古代朝鮮語の山は村(今日の郡県)と同じ意味。村は大和朝廷が勃興する以前から羊族と混血した蝦夷(えみし)や渡来人が居住していた集落を称し、村姓の村井・村岡・村上・村田・村山等の氏族は神代の時代に渡来した末裔である。大ノ国は韓半島南部の百済・加耶・新羅地方を指し、大(お)は阿(お)ノ国で、渡来集団阿部族村姓は阿部氏の上陸した山陰地方、及び本拠地の毛野国・常陸国・越後国・奥州に多く存す。

 日本では奈良時代、律令制における地方行政の最下位の単位として、郡の下に里(り、さと)が設置された。里は50戸を一つの単位とし、里ごとに里長を置いた。 715年に里を郷に改称し、郷の下にいくつかの里を置く郷里制に改めたが、後に里が廃され郷のみとなった。 715年にこれが郷(ごう、さと)と改められ、郷の下に新たに2~3の里が設定された。しかし、この里はすぐに廃止されたため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになった。

 中世・近世と郷の下には更に小さな単位である村(惣村)が発生して郷村制が形成されていった。これに伴い律令制の郷に限らず一定のまとまりをもつ数村を合わせて「○○郷」と呼ぶことがある。この惣村とは、中世初期(平安時代後期~鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司、郷司、保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する「名」(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。
 
しかし、鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めた。そうした中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていった。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになった。(中世当時も惣村・惣という用語が使用されていた。)

 
つまり、古代律令制度下では「村」は存在していなかった、ということとなるがそうすると次の一文との矛盾が生じてくる。

続日本紀巻第七
 丁丑。陸奥蝦夷第三等邑良志別君宇蘇弥奈等言。親族死亡子孫數人。常恐被狄徒抄略乎。請於
香河村。造建郡家。爲編戸民。永保安堵。又蝦夷須賀君古麻比留等言。先祖以來。貢獻昆布。常採此地。年時不闕。今國府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。請於閇村。便建郡家。同百姓。共率親族。永不闕貢。並許之。



続日本紀巻三十四
 五月戊子。出羽國志波村賊叛逆。与國相戰。官軍不利。發下総下野常陸等國騎兵伐之。

 
続日本紀は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。日本書紀に続く六国史の第二にあたる。菅原真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成っている。勅撰史書という国家によって編集された正史であり、少なくとも797年時点で「村」は存在していたということとなる。上記の説明からもわかるように、「村」は時の朝廷が勃興する以前から自発的に発生していた集落名であったということになる。

 地域名である「村岡」一つにしても奥が深く、興味をより一層掻き立てる思いを今しみじみと感じさせてくれた不思議な充実感があった。





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佐間天神社

  行田市佐間に鎮座する佐間天神社の創建は忍城主の成田氏が忍城築城の折、谷郷、春日社、西を城の没沢の取入口とし、天神坊を出口としたと伝えられている。その天神坊を慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請し、佐間村の鎮守となっていた。
 天正19年(1590年)石田三成による忍城水攻めの際の佐間口を守った正木丹波守利英が死闘を繰り広げた場所でもあり、こんp佐間天神社付近に正木丹波守の屋敷があったとする説もある。
 その後享保五年十二月(一七二〇)京都の唯一神道、吉田殿より「正一位天満天神」の神格を与えられ、文化十年八月二十五日(一八〇〇)本殿が再建された。本殿に安置される天神座像は春日の作と伝えられている。
 又、境内の欅の樹齢は行田市教育委員会の推定によると四〇〇年とされている。

所在地   埼玉県行田市佐間1-10-6

主祭神   菅原道真公
社  格   旧佐間村鎮守 行田八幡神社の兼務社
例  祭   例大祭9月25日   八坂祭7月中旬の土・日
                                                                                                                                      
地図リンク
 佐間天神社は、秩父鉄道行田駅から南に徒歩15分、車ならば埼玉県道77号行田蓮田線を鴻巣方面に向かうと2,3分足らずで到着する。但し社は県道77号線から一本脇に入った道沿いにあり、周囲を見回してもこれといった駐車場はないのですぐ東側にある水上公園に駐車し参拝を行った。

佐間天神社

  佐間天神社の創建は忍城主の成田氏が忍城築城の折、谷郷、春日社、西を城の没沢の取入口とし、天神坊を出口としたと伝えられている。その天神坊を慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請した。今から500年前のことである。享保5年12月(1720)京都の唯一神道、吉田殿より「正一位天満天神」の神格を与えられた。その後、文化10年8月25日(1800)本殿が再建された。本殿に安置される天神座像は春日の作と伝えられている。又、境内の欅の樹齢は行田市教育委員会の推定によると400年とされている。
佐間天神社には学問の神様、菅原道真公が祭神として祀られている。以前は慈眼山安養院が神護神であったが、その様子は今でも白山社、伊奈利社、厳島、明 神・・・等の合祀社が多く両部神道の名残を留めている。神門は安政3年(1850)の大火で類焼したがここで火が止まった為、火防の門と呼ばれた。
明治22年、佐間村、成田町、行田町が合併し忍町となり、妙音寺にあった温知学校を廃止し、天神社社務所に佐間学校が開校した。正式には忍学校第三教場と言われた。大正4年3月、行田尋常小学校第三校舎(現在の新町会館)が新築されるまでここに存在したのである。

天神社の行事
・大祓式(6月30日、12月31日)
・八坂祭(7月中旬の土、日)
・例大祭(9月25日)
・新嘗祭(11月23日)
・勧学祭(12月初旬)
・元旦祭(1月1日)
・初天神祭(2月25日)
・初午祭(3月第1午の日)
特に八坂祭、元旦祭は大いににぎわいを見せている。この様に、古い歴史を持つ天神社は佐間地区の鎮守として広く人々から信仰されている。
                                                                                                           境内掲示より引用


        
 水城公園の東南角に佐間天神社が建つ。1491年の忍城築城の際、出口の守護神として勧請されたもの。写真は神門。1850年の市内大火の時、ここで火が止まったので「火防の門」と呼ばれる
             
                            佐間口の案内板
  
佐間天神社社殿は南向き故に神門に対して横向き              神楽殿
           に鎮座している。 
                        
                              拝   殿
 1720年に京都神道吉田家より正一位の神格を与えられた格式高い神社。写真の拝殿は1800年の再建。境内には神楽殿、社務所のほか、伊奈利神社、白山、厳島、明神社などの末社が鎮座している。
         
                                                     名称           佐間天神社のケヤキ                                                
                                                     名称の典拠  なし
                                                     樹種           ケヤキ
                         樹高           30m
                         目通り幹囲   5.0m
                         推定樹齢     400年以上
                         所在地の地名 埼玉県行田市佐間1丁目
                         行田市指定天然記念物(1964年1月31日指定)

欅群(けやきぐん)             
 
天神社は、享保5年(1720)12月京都の吉田家より神位を与えられ、正一位天満天神と称するようになった、との記録がある行田市佐間地区の鎮守です。
  祭神は学問の神様として信仰されている菅原道真です。その天神社境内に9本の巨木が群生するこの欅群は、いずれも樹齢400年以上と推定される古木群です。樹高は高いもので30m、目通り幹周は最大のもので5.0mを計ります。落雷のため幹に空洞があるものがありますが、樹勢は旺盛で、枝張りもよく繁茂していて、神域の風致を保っています。また、秋には美しい紅葉が見られます。
                                                                              平成23年          行田市教育委員会                                                                              
  
 
  社殿の奥には境内社や石碑が立っている。
 
          境内社 三峯神社             石碑群。石碑の奥には水上公園が隣接する。
           
                          境内社 伊奈利神社

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小埼沼 宇賀神社

 さきたま古墳群から東へ2.5Km、川里町との境界付近に小埼沼は位置している。小埼沼の北500mには旧忍川が流れ、現在あたり一面には水田が広がりのどかな田園風景が続くが、かつてこの周辺は沼の多い湿地で、旧忍川の対岸には昭和50年代まで、小針沼(別名:埼玉沼)と呼ばれる広大な沼が存在していたらしい。
 約6000年前の縄文時代この辺りは縄文海進の関係でこの地方まで東京湾が入り込んでいたといわれる。その後の関東造盆地運動により陸地が上がり、海域が後進して現在の関東平野ができたらしい。が元々荒川、利根川、多摩川、入間川などの河川が狭い東京湾に集中して排出されたため、陸地も湿地帯が広域に広がっていたと思われ、また弥生、古墳時代の3~7世紀頃までは十分に陸地化されず、現在の東京都心部は武蔵野台地付近以外は内海の一部ではなかったかと考えられる。
 現在の河川の流路は江戸時代、徳川家康の江戸転封により、人工的に流路を変えたもので、これを瀬替えという。利根川は元々東京湾に流れていたものを、鬼怒川の流路を利用し合流させ太平洋に瀬替えした。また利根川と同じく大宮台地の右側を流れていた荒川を、埼玉県の熊谷でせき止め、比企丘陵から流れてくる和田吉野川や市野川の河道に移したことにより、入間川と合流させることによって、台風で大水が発生した場合、荒川中流域である吉見地方でわざと氾濫させ、下流域の江戸の町を水害から守ったと言われその結果、江戸時代の江戸の町は大きな台風がきても意外と安全な場所となったといわれている。

 それ故に、瀬替えする前の古墳時代の河川の流路がどのような経路だったか断片的でほとんど解っていないのが実情である。そのな中小埼沼は、上代の東京湾の入江の名残りともいわれ、「埼玉の津」万葉集の遺跡とされている。
所在地       埼玉県行田市埼玉2636
区  分       埼玉県指定記念物 旧跡
指定年月日        昭和36年9月1日


                
 かつて『万葉集』に詠まれ、利根川と荒川の氾濫によって水路が発達し、船着場があったであろうと推測される「小埼沼」は、埼玉県行田市の東南部、埼玉古墳群より東方2~3kmの場所に存在する。現在は広い田畑の一角にポツンと樹木が生い茂り、その中に「武蔵小埼沼」と彫られた石碑がある。
 
田んぼと畑が広がる中に、小埼沼だけ林になって              現地に着くとすぐ左側に案内板がある。
                        存在する。
       
尾崎沼神社(宇賀神社)
在地  行田市埼玉2739
祭神    宇賀御魂神(倉稲魂神) 

 当社の創始についての言い伝えに、「いつのころかこの村に、おさきという娘がいた。ある時おさきが、かんざしを沼に落とし、これを拾おうとして葦で目を突いたあげく、沼にはまって死んでしまったため、村人たちは、おさきの霊を小祠に祀った」また「おさきという娘が、ある年日照りが続き百姓が嘆くのを見て、雨を願い自ら沼に身を投じたところ、にわかに雨が降り地を潤し百姓たちはおおいに助かり、石祠を立て霊を祀った」とある。このことから見て当初は霊力の強い神霊を祀ったものが時代が下がるに従いこの地が水田地帯であるところから農耕神としての稲荷信仰と神使のミサキ狐の信仰が習合し現在の祭神宇賀御魂神が祀られたと考えられる。

  また一方ではこのような伝説も残っている。この付近に住む、おさきという娘が沼で遊んでいた時に、葦が目に刺さり、それが原因で片方の目が見えなくなってしまったそうだ。その後、沼には片目のドジョウが棲みつき、水辺には片葉の葦が茂るようになってしまったと言い伝えがある。小埼沼の西側には、片原(地元の人はカタラと呼んでいます)という地名があるが、それも片目の伝説と関係があるのだろうか。
 行田市には似たような伝承が他にもあり、例えば埼玉県伝説集成中には行田市谷郷の春日神社に関して、”春日様は幼少の時、芋の葉で目をつかれ片目を傷つけた。そのため谷郷の人の片目は細い”と記されている。


 まりこれらの伝承の真相は、古代ある時期において、鍛冶師、タタラ師などの古代鍛冶産鉄集団が移住して来たことを意味するのではないか。これらの集団は職業病として片目になることが多く、天目一箇神(天津麻羅)などの信仰があるという。
 古代鍛冶集団と片目伝説については別項を設けて改めて述べたいと思う。

        
                    林の中にある「武蔵小崎沼」石碑
 宝暦3年(1753年)忍城主阿部正允(まさちか)によって建てられた万葉歌碑であり、正面に「武蔵小埼沼」の文字、側面にこの碑を建てた目的をあらわした文章、裏面に小埼沼と埼玉の津の万葉歌2首が万葉がなで彫られている。碑文では武蔵小埼沼はここだと断定しており、そのことを後世に残すことが、この碑を建てた理由だったようだ。


 「埼玉の  津に居る船の  風をいたみ  綱は絶ゆとも  言な絶えそね」(さきたまの  つにおるふねの  かぜをいたみ  つなはたゆとも  ことなたえそね)
 
歌の意味は、津は船着場・河岸のことであり、埼玉の津に帆を降ろしている船が、激しい風のために綱が切れても、大切なあの人からの便りが絶えないように、と考えられている。冷たい北よりの季節風にゆさぶられる船の風景と、男女のゆれ動く恋の感情とを重ね合わせて詠み込んだ歌で、東歌(あずまうた)の中の相聞歌(そうもんか)に分類されるもの。

 「埼玉の  小埼の沼に  鴨ぞ翼きる  己が尾に  零り置ける霜を  掃ふとにあらし」(さきたまの  おさきのぬまに  かもぞはねきる  おのがおに  ふりおけるしもを  はらうとにあらし)
 
この歌は、埼玉の小埼沼にいる鴨がはばたいて、自分の尾に降り積もった霜を掃っている寒い冬の早朝の風景を歌ったもので、この歌は、上の句が五・七・七、下の句も五・七・七の繰り返す形式で旋頭歌(せどうか)と呼ばれている。作者は、常陸国(ひたちのくに:今の茨城県)の下級役人であった高橋虫麻呂(むしまろ)と言われている。
                   

小埼沼史跡保存碑 碑陰: 大正14 和歌が3首(藤原定家、橘仲遠、よみ人しらず) 碑陰:子爵松平忠壽題 

小埼沼史蹟保存碑
  埼玉県知事從四位勲三等齋藤守圀題
小埼沼は著名の古沼にして往昔水波渺茫舟船の輻輳せしこと古人の詠歌に依りて明なり爾後千有餘年の閒陵谷幾多の變遷あり寶暦三年秋忍城主阿部侯此名蹟の湮滅せんことを憂へ碑石を建てゝ其跡を傳ふ爾来茲に百七十餘年遺跡益荒廢せんとするに方り本縣之か保存の要を師事せられ郷人亦意を此に致し胥謀りて保存會を組織し柵を繞らし坳地を浚渫し樹木を植ゑて舊跡を昭にす縣村其資を補助し青年團員工を賛て工事成るに及び記念碑建設の企あり文を余に需む思ふに滄桑の變窮りなし史蹟保存の途は永久に之を繼承せさるへからず郷人此史跡を修理保存し永く懷古の資たらしむるもの實に愛郷の至情に廢せすんはあらす余大に此擧を美とし茲江來由を叙し古歌を録して以て後代に傳ふ
  さし暮る洲崎に立たる埼玉之津に居る船も氷閉しつつ        藤原定家
  山鳥之小崎の池の秋の月さてや鏡をかけて澄むらん         橘 仲遠
  埼玉之崎の池にさし暮る洲崎に咲く花はあやめにまさる杜若かな  讀人不知
 皇紀二千五百八十五年大正十四歳七月
      埼玉縣北埼玉郡長從七位黒澤秀雄撰并書
                                                埼玉県 行田市 埼玉 3165
        

 ところで万葉集に詠まれた小埼沼の候補地として、この行田市埼玉の場所のほかに、羽生市尾崎(利根川右岸)、岩槻市尾ヶ崎新田(綾瀬川左岸)が挙げられる。「オザキ」という何気ない地域名にも関わらず、調べてみると歴史的にもかなり奥深い何かが隠されているようにも感じる。
 
 また周囲には水神社(写真左側)や弁財天(同右側)などの石碑もあり、ここでも水、沼地に関係した神々が祀られている。伝説は抜きにしても確かに、小埼沼の周辺には神秘的な雰囲気が未だに残っている。


 



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岡部神社、岡部六弥太忠澄之墓、岡廼宮神社

 埼玉県旧岡部町、現深谷市岡部地区は、深谷市と本庄市に挟まれ、荒川北岸に広がる櫛挽(くしびき)台地上を占める。緑緑豊かな田園が広がる農業地帯で、ブロッコリーやトウモロコシが特産品だ。伝統の地場産業は「お漬物」が有名で、数十年前岡部地区に近い高校に通っていた当時、部活動で周辺をランニングするとお漬物の匂いが辺りから漂っていた事を今でも思い出す。地域のシンボルは、一年を通じて利用客でにぎわう「道の駅おかべ」と、「コスモス街道」で、このコスモス街道は長さは4㎞にも及び、秋の風物詩にもなっている。
 律令時代この一帯は榛沢郡と呼ばれていた郡域で、古くは榛沢郡岡村)は榛沢郡郡衙跡が発見され、旧榛沢郡の中心であったことが判明した地域である。古墳時代から開けていた所で、郡衙周辺には四十塚古墳群熊野古墳群白山古墳群が分布している。

 また平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて岡部町を代表する武将として猪俣党の岡部六弥太忠澄がおり、町名にもなっている。
 ちなみに岡部町に榛沢の地名が残っていて(榛沢、榛沢新田、後榛沢)、『和名抄』は「伴(波牟)佐波」と訓じている。

所在地    埼玉県深谷市岡部705

主祭神    伊弉諾尊 伊弉冉命 (合祀)大山祇命 建御名方命
創  建    弘仁(こうにん)年間(810~24年)
社  格    不明        
        3月17日

地図リンク
 国道17号を岡部駅方向に進み、その手前岡部北交差点のそばに岡部神社の鳥居があり、その鳥居の奥の参道の突き当り左側に岡部神社が鎮座している。この参道は結構長い。残念ながら駐車スペースは無いので、南側の曹洞宗源勝寺の駐車場をお借りして参拝を行った。
 ちなみに岡部神社北下の地は、岡部六弥太忠澄が館を構えた地で、「古城」「本屋敷」などの小字名が残っている。ここから南方の当社まで、幅八間の参道があったという。六弥太忠澄が一の谷の戦功の報賽に社前に植えたといわれる杉は、「鉢杉」と呼ばれて周囲一丈八尺余、高百尺以上の老木となった。
 江戸時代の宝永2年(1705)、岡部城の城主となった安部摂津守以来、代々の城主の崇敬があった。明治の居城返還に際し、城主より金馬簾・陣太鼓・保良貝などが奉納された。鎮座地の小字「上」は、もとは「城上」といっていたのが省かれたものである。
 旧称は「聖天宮」(聖天様)といい、本殿には歓喜天の本像が安置されている。

 
   国道沿いにある両部鳥居形式の一の鳥居       一の鳥居のすぐ後ろに二の鳥居がある
 
岡部神社
 沿革 
 従来は聖天宮と称されており、本殿には歓喜天の木像が安置されている。明治十二(1879)年、岡部神社と改称し、現在に至る。祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊という。
 岡部六弥太忠澄の祈願所とも言われ、寿永年間(1182-1183)、忠澄は一の谷の戦功を感謝し、記念に杉を植栽したと伝えられている。
 後に、徳川家康の関東入国とともに、岡部の地を領地とした岡部藩主安部氏は、当社を崇拝し、代々祈願所として、毎年三月十七日の例祭には参拝した。
 祈願者は近郷より集まり、縁結び、家内安全、五穀豊穣、夜盗除等を祈願した。昭和二十年代以前の夏祭りには、神輿が出てたいへん賑やかなものであったと言う。
 この神輿は、町指定文化財となっており、現在は、神社境内の倉庫(神輿やどり)に保管されている。神輿は、大中小と三種類あり、いずれも四角形、木製無地で、鉄の金具がつき、屋根は銅板ぶきとなっている。このうち最も大きなものは、屋根の中央に鳳凰がつき、屋根下の欄間四方に、鶴、ひばり、昇り龍等の彫刻が繊細に施され、四隅に獅子二頭ずつが彫刻されており、たいへん豪華なつくりとなっている。
 平成三年三月
                                                      
案内板より引用

                   岡部神社拝殿

拝殿右側、北方向にあたる方向に多くの境内社が存在する。
 
             
八坂神社             左から諏訪稲荷神社額部分に「富士」と彫

                            られた石祠、そして社日
 
  馬頭観世音菩薩、三申、二十二夜待塔等

諏訪稲荷大明神
 神社は昔安部藩主陣屋内現在中山栄太郎様屋敷内東郵便局西方に鎮座ましせり。藩主代々二万参千石の安泰と領民の健康、五穀豊穣を祈願?氏神稲荷様なり時の流れにより大正年間当社に合祀。現在に至る。

 昭和四十九年壱月吉日

 
 深谷市の「遺跡 データベース」を見ると岡部地区は先史時代から人々が生活していた数多くの遺跡が存在する。約1万4千年前の後期旧石器時代の遺跡である白草遺跡があり、多数の細石刃や彫刻刀形石器が出土している。縄文時代になると、台地上に数多くの遺跡が出現し、土器を用いて定住するようになる。それに対して弥生時代の遺跡が意外と少なく、縄文時代からいきなり古墳時代に移行したような歴史的な流れがある。
 また榛沢郡の郡衙跡とされる中宿遺跡では郡衙の倉庫が復元されているのに郡庁(郡衙の庁舎)の比定資料が存在しない。榛沢郡は律令時代以前から隣接する幡羅郡と共に豊かな米穀産地で、従事人口も多かったはずであったであろう。
古墳は築造当時の地域の豊かさの目安の一つとなるが、古墳の数、規模において榛沢郡内の古墳は幡羅軍郡のそれと遜色ないか、むしろ古墳の単体規模において優っていたと思われる。それが時代が下ると豊かさの形勢は逆転してしまう。例えば幡羅郡は延喜式神名帳において式内社が4社を数えているに対して、榛沢郡には式内社が全く存在しない。
 東山道武蔵路の開通によって幡羅郡内にその路線が組み込まれたことで幡羅郡の存在が時の権力者にとって大きくクローズアップされたことは大きいだろう。


 この岡部神社の近くに「岡部六弥太忠澄の墓」と言われる墓所がある。墓は、普済寺地区の一角にあり、残りの良い五輪塔が3基並んでいる。このうち最も大きいものが六弥太のものとされている。六弥太の墓石を煎じて飲むと子宝に恵まれるという伝承があり、このため五輪塔が一部削られ変形している。岡部六弥太墓は埼玉県指定史跡に指定されている。

岡部六弥太忠澄之墓
 
地図リンク
 
岡部六弥太忠澄の墓は岡部神社から北西方向、国道17号線を岡部駅交差点手前で右折すると左側に見えてくる。岡部六弥太忠澄は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将で御家人。先祖は武蔵七党の一つである猪俣党の庶流で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が岡部の地 に館を構えたのを機に岡部氏と称するようになった。忠澄は、忠綱から数え三代目にあたり、保元の乱で源義 朝に仕え、平治の乱では源義平の下で軍功をあげた十七騎の雄将として知られている。また治 承・寿永の乱の際には、源頼朝・源義経にも仕え源氏方につき出兵して、特に一の谷の戦いで、平家方の名将として名高い平忠度を打ち取る軍功を上げた。この場面は「平家物語」にも登場している

 
岡部六弥太忠澄の墓
 岡部六弥太忠澄は、武蔵七党のひとつ猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に居住し、岡部氏と称した。
 忠澄は忠綱の孫にあたる。源義朝の家人として、保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、保元・平治物語、源平盛衰記に書かれており、特に待賢門の戦いでは、熊谷次郎直実、斎藤別当実盛、猪俣小平六等源氏十七騎の一人として勇名をはせた。その後、源氏の没落により岡部にいたが治承四(1180)年、頼朝の挙兵とともに出陣し、はじめ木曽義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では平氏の名将平忠度を討ち、一躍名を挙げた。恩賞として、荘園五ヶ所及び伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の際の譜代の家人三一三人の中にも六弥太の名が見える。忠澄は武勇に優れているだけでなく、情深く、自分の領地のうち一番景色のよい清心寺(現深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。
 現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が六基並んで建っているが(県指定史跡)、北側の三基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ一・八メートル)、向かって右側が父行忠の墓、左側が夫人玉の井の墓といわれている。
 六弥太の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳が出るようになるという迷信が伝わっており、このため現在、六弥太の五輪塔は削られ変形している。
 平成三年三月
                                                      案内板より引用

  

 忠度を討ち取った忠澄であったが、忠度の死を惜しみ、その霊を慰めるために所領の岡部原に五輪の塔を建立した。その後、五輪の塔は慶安2年(1649年)に、清心寺(深谷上杉氏家臣岡谷清英創建)に移築された。


岡廼宮神社
 
地図リンク
 埼玉県道259号線と国道17号線が交差する岡部駅入口交差点から17号線を西へ向かって行くとその内に岡廼宮神社が見えて来る。雨覆屋根の付いた鳥居に鳥居に掛けられた額には「聖天宮」の文字が刻まれている 。岡部神社と同じ系統の神社だろうか。
 
岡廼宮神社

沿革 大正十(1920)年、諏訪神社、久呂多神社、稲荷神社を合祀し、岡上神社を岡廼宮神社と改称した。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命という。江戸時代の初め、村の鎮守であった聖天社は建物の腐朽甚だしかったが、池田三郎左衛門貞長という武士により改築された。貞長は、高崎城主安藤右京進にお預けの身となった徳川忠長(徳川家光の弟)の側近であったが、何者かの讒言にあい側近役の地位を追われ、岡村に蟄居していた。忠長は、自害する前に、讒言に惑わされ貞長を追放したことを後悔し、「自分の死後、菩提を弔うように」との遺命を貞長に下した。この遺命により、貞長は岡村に全昌寺を建立し、また当社も改築した。落成すると貞長は、神前において主君の後を追い切腹した。
 また当社では、獅子舞いが行われており、町指定文化財になっている。獅子舞いの構成は、法眼、女獅子、男獅子の三人と、花笠、笛方、歌方等からなり、舞手は、袴にワラ草履、腰に小太鼓をつけて打ちながら舞う。江戸時代から伝承されている貴重な無形文化財である。

                                                                                                                     
岡上屋台囃子
 深谷市無形民俗文化財
 平成17年10月1日 指定
由来
 旧岡村に古来より伝承されている屋台囃子、時代を遡ること十八世紀末、天明・寛政年間と伝えられている。昔は、毎年のように日照と悪疫に悩まされた里人たちが、雨乞いと病疫消除を祈願するため時の領主や役人に嘆願し、中山道岡村の入り口にある丘陵地に八坂神社を勧請し、祠を建立し、お囃子を奉納したことに始まったと伝えられている。
 囃子の構成は、大太鼓1・小太鼓3・摺鉦3~4・笛3~4・外につづみ2・三味線1(囃子の曲目により演奏する)。次に囃子の技名は、ぶっつけ・切返し・転がし・ぶっきり等。次に笛の曲目は1.旧ばやし・2.新ばやし・3.靜門・4.通りばやし・5.夜神楽・6.ひょっとこ囃子の曲目がある。特に、岡上・岡下には屋台があり祭りを行っていた。
 また、岡上は、熊谷市の本町三丁目・四丁目に頼まれて、教えに行ったりしていた。
 現在もなお、八坂神社の夏祭りに演奏し、昔ながらのお囃子を継承しながら、屋台を中心とした保存会が発足されており、伝統文化を後世に伝えるために努力している。
 これは、江戸時代から伝承されている貴重な無形文化財である。

  
                    一の鳥居より撮影                                                            殿
 
                                              殿
 
岡廼宮神社決して大きな社ではないが、拝殿には色塗りされた通称岡の聖天さまの龍が彫刻されていた。制作年は新しいようで、小ぶりだが気品がある。龍は聖天信仰の一つの信仰形態と言われているし、その流れだろうか。また本殿も壁には美しい彫刻があり、暫しの時間見入っていた。この社には全体的に品を感じた。

 
          正一位稲荷大明神            三郎左衛門稲荷神社と秋葉神社                   石    祠

 




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