古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

御正新田雷電神社

 雷電神社が鎮座している熊谷市御正新田は市の行政区の名杯で、旧江南町の東部に当り、熊谷市の樋春(ひはる)・成沢(なりさわ)と並んでいる。「御正」と書いて「みしょう」と読む。
 この地域はかつて春原荘(しゅんのはらしょう)と呼ぼれ、鎌倉時代にさかのぼる由緒を伝えている。この御正とは、御荘のことではないかと考えられ、荘は、平安時代から戦国時代末まで全国につくられ、主に有力な寺社、貴族に属し、私的な領地、領民としておおやけの政治支配から独立して直接領主や地頭の支配下に置かれていた。近隣にも春原荘のほかに畠山荘(旧川本町)、篠場荘(旧川本町・旧江南町)、小泉荘(旧大里町)がある。
 群馬県世良田(現尾島町)に長楽寺という古刹があり、新田義貞をはじめとする、新田家の菩提寺であるが、本寺につたわる「長楽寺文書」と、新田家の家臣であった岩松家につたわる「正木文書」は、鎌倉、室町時代の北武蔵にかかわりの深い貴重な古文書です。この文書には、万吉(まげち、熊谷市)、小泉(大里町)などに加え、春原の名もみえる。当時、この地域は、新田家の領地から菩提寺の長楽寺へ寄進されたうえ、代官の岩松氏が当地へ派遣され、万吉内に在住していたことがわかる。
 「御正」とは、新田家から長楽寺の御料所として寄進された土地のうやまった言い方であろうと推測できる。旧江南町の場合は、御正村(領)とも呼ばれていたようだ。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市御正新田438
             ・御祭神 別雷命
             ・社 挌 旧御正新田村鎮守・旧村社
             ・例 祭 祈年祭 2月21日 例祭 10月19日 新嘗祭 11月26日
  御正新田雷電神社は埼玉県道47号深谷東松山線を北上し、押切橋交差点を右折する。埼玉県道81号熊谷寄居線に変わり、この道を真っ直ぐ進む。渡唐神社を右手に過ぎてから成沢交差点と御正新田交差点の間で、81号線の南側にひっそりと鎮座している。社叢は決して広くなく、北側には広場、南側は民家があり、その間の細長い空間にこの社はある。
            
                          御正新田雷電神社正面
当社の創建は、村の開発が進められる中で行われた。口碑によると、慶長年間に干ばつがこの地を襲い、村人は困窮した。このため、京都の加茂別雷神社(上賀茂神社)に降雨を祈願したところ、たちどころに神威が現れた。歓喜した村人は、元和元年に同社に代参を立て、分霊を奉戴して帰郷し、この地に奉斎したという。
                         
                                                       一の鳥居から境内を撮影
            
                          拝殿右側手前にある合祀社
                                   左から天神社・白山社・山神社
                  
                                    拝  殿
 雷電神社
 当地の開発は慶長年間(一五九六-一六一五)から始められ、元和二年(一六一六)には伊奈忠政により検地が行われた。しかし、不便な地であるため、新規の農民はなかなか寄りつかず、寛永年間(一六二四-四四)にようやく農民が定住するようになって村として成立をみたという。開発の中心となったのは、坂田六兵衛という人物で、地内にある真言宗浄安寺はこの坂田氏による開基と伝え、山号も坂田山と号している。
 当社の創建は、村の開発が進められる中で行われた。口碑によると、慶長年間には旱ばつがこの地を襲い、村人は困窮した。このため、京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)に降雨を祈願したところ、たちどころに神威が現れた。歓喜した村人は、元和元年に同社に代参を立て、分霊を奉戴して帰郷し、この地に奉斎したという。この時の創建には当然、坂田六兵筏もかかわったものであろう。
『風土記稿』には「雷電社 村の鎮守、村持」とある。明治七年に村社となり、同四十年には字上原の山神社と字北内手の粟島神社、翌四十一年には字大坂の白山神社と字天神山の笹稲荷社をそれぞれ合祀した。
                                                        「埼玉の神社」より引用
『大里郡神社誌』
「傳説に本社は人皇百九代御水尾院御宇元和元乙卯年奉觀請者也と云ふ 慶長年中旱魃の被害甚だしく農民大に憂ひ京都加茂神社に雷雨を祈りて大に御徳あり依て元和元年京都に代參を立て御分靈を奉歳して歸鄕し此の地に奉斎せりと云ふ」

 この社の役瓦には雷の文字や左三つ巴紋が浮き彫りにされている。
 ちなみに瓦に関しては、軒瓦・袖瓦など特殊な部分を葺く瓦を役瓦といい、鬼瓦は厄除けと装飾を目的とした役瓦の一種のようだ。鬼瓦は鬼の顔を彫刻したもの、蓮の華をあらわしたもの、家紋や福の神がついたものなどがあるが、役瓦に対して一般の部分を葺く瓦を 地瓦というそうだ。
               
                      拝殿上部の緻密な彫刻が見事である。
           
             拝殿の左側にある八坂社                拝殿右側には粟島社          
                    
                             社殿からの一風景
 『新編武蔵風土記稿』には「雷電社 村の鎮守、村持」とある。明治7年に村社となり、同40年には字上原の山神社と字北内手の粟島神社、翌41年には字大坂の白山神社と字天神山の笹稲荷社をそれぞれ合祀したということだ。

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新堀新田八幡神社


        
                      ・所在地 埼玉県熊谷市新堀新田236
                ・ご祭神 品陀和氣命                                                                     ・社 挌  旧村社
                ・例祭等 祈年祭 3月26日 例祭 10月15日 新嘗祭 12月8日
 JR籠原駅南口から駅前通りを南方向に進み、最初の交差点を左折し、奈良用水がある十字路を右折しすぐ左側方向に新堀新田八幡神社がある。
 「新堀新田集落センター」の隣、また「埼玉県立熊谷西高校」の近隣で、北側に鎮座している。集落センターの前には駐車禁止の看板が立てられていたが、神社の南側に駐車スペースがあったのでそこに停め参拝を行った。
            
                                                      
新堀新田八幡神社正面
            
                                     社の正面右側にある「社殿再建記念碑」
社殿再建記念碑
當八幡神社は昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾颱風の余波を蒙り本殿外宇及び拝殿に大災害を受け氏子一同驚愕と悲嘆の極に達した。このままに放置することは一刻と雖も忍びざるところ即日對策を協議した結果満場一致社殿の再建をなすこととし直ちに建築委員会を組織した。抑々當社は明治三十三年五月當時の氏子三十一戸総代根岸悌三郎根岸傳次郎柿沼久作建築委員代表石丸茂十郎棟梁柿沼百太郎各氏の努力と氏子の協力に依り本殿外宇は間口二間奥行二間半木造茅葺又拝殿は間口八尺奥行六尺木造瓦葺にて造営され氏子の尊崇の中心として今日に及んだ。たまたま昭和二十九年旧三尻村が熊谷市合併に際し字所有の新堀新田字赤土二二ノ一外二筆山林一反九畝十一歩は市の財産となったのを地元市議会議員浅見一郎湯本春吉両氏の盡力により上記の土地無償拂下げを熊谷市長に嘆願し一方市議会にも折衝した結果格別の温情を以て金壹封を當字に交付された。この意義ある金圓の處分に付き区長は区民に諮ったところ満場一致これが社殿の建築資金に充てることにした。更に昭和三十五年二月宮司及び主任総代神社本廰に封し社殿建築資材として立木伐採許可申請をなしたるところ許可を得直ちに起工又工事に要する人夫は総て氏子総意の勤労奉仕に依り茲に芽出たく竣工を見るに至った次第である。
昭和三十五年十一月十五日
                                                 「社殿再建記念碑」より引用
                 
                                                         新堀新田八幡神社鳥居
 
      社殿の北側には多くの境内社があるが、その多くは由緒等が解らない。(写真左・同右)
            
                                                       境内社で唯一解った稲荷神社
               宝暦(1751~1764)建立のレリーフ状のお狐様の石祠がユニークで何か可愛らしい。
                          
                                                                        拝  殿
                           
                                                          本殿覆屋
  新堀新田八幡神社の鎮座するこの地域は明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳で旧高旧領取調帳と言われるが、旗本領37村の中に「新堀村」と「新堀新田村」が分かれて明記されている。しかしこの二つの地区は南北に隣接している位置関係であることや、類似した名称から元々は一つであった可能性が高く、本来の地名は「新堀」であったと推測する。  
 この「新堀(にいぼり)」の名前の由来は、「新しい堀」から出ているという。「堀」は用水のことで、昔は「堀村」といわれていた。今から約400年前慶長時代に「奈良堰用水」が新しく作られ、「新堀村」と改められた。 明治22年、久保島、高柳、玉井、新堀の4か村が合併して玉井村となり、昭和16年4月10日、玉井村は熊谷市に合併し、新堀は大字名となったという。

 話は少しずれるが、東京都荒川区に日暮里という地名がある。元々この地域は、「新堀(村)」と呼ばれていたらしい。但し、いつからかは不明で、室町時代にはそう呼ばれていたらしく、太田道灌の家臣の新堀玄蕃がこの地に住んでいたことに由来する説もある。当時は盗賊などの外敵や獣の襲来に備え、堀(溝)を掘って集落を作ったことはたやすく想像される。ただし、史料上では既に1448年(文安5年)の熊野神領豊嶋年貢目録に「につぽり妙円」との記載がある。「日暮里」になったのは江戸時代からで、桜やツツジが美しく「一日中過ごしても飽きない里」という意味で「日暮らしの里」と呼ばれたことに由来する。
                                               
                                              社殿左側で、道路沿いに聳えたつ御神木
  新堀地区内にはJR籠原駅があるが、籠原という地名は「カゴは険しいという意で、アップダウンの激しい原野という意でつけられた地名」であるという。この駅名の由来も新堀と関連しているふしがある。以下の記述がそれを物語っている。
 当時の地名を玉井村新堀と称していたため『新堀』(にいぼり)としたかったが、すでに東北本線に日暮里駅があり、文字はともかく、耳で聞く場合、間違う恐れが多分にあるということで決定できなかった。種々、検討した結果、駅の北東部、旧中山道沿いの『信楽』という茶店のあたりに新堀小字籠原という地名があり、これを駅名にしてはどうかということで、ようやく『籠原』に決定したという。
                                                           
(日本国有鉄道高崎鉄道管理局運転史編纂委員会 1987より引用)
一地方の片田舎の歴史とはいえ、筆者にとってはかけがえのない故郷である。昨今の平成の大合併によって古くからの由緒ある地名が失われてしまい、古くからの由来をしのぶ事が出来ない理解不能な地名に変わる事が現実に起こっている。自分達の住む地区がその昔どのような地名で呼ばれていたか、何故そのような地名になったかを記録に残すことは後世に残す遺産として非常に重要ではないだろうか。 最近の神社散策の中でふとそのようなことを思った次第である。

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大麻生大榮神社

所在地    埼玉県熊谷市大字大麻生字西河原454
主祭神    菅原道真公、そして日本武尊、他14柱
社  格    旧村社        
由  緒    
旧五社稲荷神社が境内に存在していた。大正2年中郷地区の八荒神社
        
と駒形神社、西河原の浅間神社と天神社、そして武体の天神社を合祀して
        
現在の大榮神社として改称する。
        
大正3年10月7日、神饌幣帛料共進神社に指定。
例  祭       4月  例大祭 
       
 埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、三尻農協前交差点のY字路を左折する。国道140号バイパス、いわゆる彩甲斐街道を抜け、国道140号(秩父往還道)の交差点を左折し300m程進むと左側に大榮神社が鎮座している。神社の隣に社務所があり、駐車場スペースがあったのでそこに停め参拝をする。熊谷では珍しい神明造りの社である。
           
 現在の社殿は決して古くはなく、昭和3年に改築したものらしい。その際に、神明風の社殿にしたようだ。深谷市高島に鎮座する、生品神社に似ている。また河川の洪水対策として石垣による基礎を高くしているのがわかる。ちなみに石垣として使用した石は、荒川の自然石とのこと。
   
 参道を進むと左側には石碑(写真左)があり、左から小御岳神社、御岳神社、白山大権現が祀られている。またその奥には合祀社(写真右)もあり、左から産泰神社、浅間神社、駒形神社、 天神社、五社稲荷神社、八荒神社が鎮座する。
           
                              拝    殿
           
                              本    殿
             
 社殿の左側を通ると、すぐ先に弓場跡と彫られている立派な石組があった。熊谷市玉井地区には玉井大神社が鎮座しているが、そこでは「オビシャ」と言われる神事があり、元々は弓を射てその年の豊凶を占う神事だったようだ。またここ大麻生から西に3km程行った深谷市菅沼に鎮座する菅沼天神社には「天神社的場の儀と言われる神事があり、これらは偶々偶然だったのか、それとも何かしら関連性があるのだろうか、現時点では不明だ。

 また弓矢跡の奥の囲いの中には立派な御神木がある。
  何百年も何千年も生き続ける大木の傍らに立つと、太古の日本人の姿を見るような気がして、つかの間、タイプトリップした気分になるときがある。この巨樹、巨木は何百年も前からこの地に存在して、戦争も嵐も大水も、苦しみも悲しみも喜びも、すべてを目にしてきたのだ。何も言わず、ただ静かに屹立する孤高の姿、その圧倒的な存在感を前にして、畏怖と尊敬の念を抱かない日本人はまずいないだろう。
 この御神木と言われる巨樹、巨木は社にとって象徴的存在であり、また地域のシンボルとして人々の心のよりどころでもあり、未来永劫保全すべき文化遺産ではあるまいか。


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久保島大神社


                                
                     ・所在地 埼玉県熊谷市久保島471
                     ・主祭神 大山祇神 伊弉諾命 伊弉册命
                     ・社 格 旧久保島村鎮守・旧村社
                     例 祭 不明
 東別府神社から南方向に向かうと高崎線の籠原貨物ターミナルの踏切があり、その南西側に久保島大神社
が鎮座している。延喜式内社楡山神社の論社ではあるが由緒等不詳である。一の鳥居の右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
            
                                                       村社・久保島大神社の社号標
        
                                                          正面一の鳥居 
                                                       すぐ先に二の鳥居が見える。
            
                                             一の鳥居を越えるとすぐ先に二の鳥居あり
                  
                                         二の鳥居前左側にある両部鳥居の由来案内板
 久保島大神社鳥居の由来
  所在地 熊谷市久保島471-2
 平成16年12月解体した際に、柱のほぞから願主と大工の名前とともに、嘉永2己酉年(1849)4月吉日の建立を示す墨書が発見されました。
 建立以来156年ぶりに立て替えられた鳥居は、明神鳥居の中でも両部鳥居と呼ばれ、笠木が反り返っている曲線構造です。柱は転びと言われ少し斜めになっており、補助の控柱で支えているのが特徴外です。
 世界遺産で知られる厳島神社の鳥居と同じ型で、熊谷市内でも木造鳥居として極めて重要です。
平成17年4月15日
                                                            案内板より引用
            
                                拝 殿
 久保島大神社  熊谷市久保島四七一
 かつて、熊谷市近辺には八島八河原といって、「島」と「河原」の字のつく地名が八か所ずつあった。当社の鎮座する久保島もその一つで、江戸時代までは窪島とも書かれ、古くは東西二村に分かれていたという。(久保島を東西二村に数えなければ「八島」にならない)
『風土記稿』久保島村の項に、「村の鎮守」として、山神社と神明社の二社が挙げられているのも、このように村が東西に分かれていたころの名残で、観照院が別当を務める山神社は西久保島の鎮守、大光院が別当を務める神明社は東久保島の鎮守であった。このうち、山神社については『延喜式』に見える楡山神社であるとの伝え(『風土記稿』はこれを疑問視し、「楡山神社は原ノ郷にある熊野社ならん」としている)もあり、延享三年(一七四六)には極位を受け、正一位山神大権現と称した。なお、この時の宗源祝詞には、瓜と夕顔の種を播くことの許しを乞う一節が見え、興味深い。
 明治に入ると、どんな理由からか、地内にあった尊乗院持ちの聖天社が二柱神社と改称して村社になり、山神社・神明社は共に無格社にとどまった。しかし、明治四十二年、政令により、一村社とすべく、無格社ながら規模が最も大きい山神社に、二柱神社及び神明社をはじめとする無格社七社をそれらの境内社と共に合祀し、山神社を村社に昇格の上、改称して、ここに久保島大神社が誕生したのである。
                                                       「埼玉の神社」より引用                   

             
                                  本  殿
『新編武蔵風土記稿 久保島村』
 山神社 村の鎭守なり、當社は【延喜式】内楡山神社なりなどいへど疑ふべし、楡山神社は原ノ郷にある熊野社ならん、見るべし。別當観照院 天台宗、埼玉郡上中條村常光院末、阿彌陀寺と號す、開山榮順正保三年十月寂せり、本尊阿彌陀、
 神明社 是も村の鎮守なり 別當大光寺 同末、明珠山願成院と號す、開山秀海寂年を傳へず、本尊薬師、

 江戸時代には山神社或いは山神大権現と称しており、御祭神は大山祇神と伊弉諾尊、伊弉冉尊。他に橘姫命と倉稲魂命、建御名方命、誉田別命、大日霊貴尊、素盞嗚尊、大雷神、軻遇突智命、天手長男神が祀られているのだそうだ。
 
            拝殿の横の庚申塔                     境内社 稲荷社と三峰社

 久保島大神社が鎮座する「久保島」という地名の語源は「窪+地」つまり、乱流河道の中に取り残された低地の中にある微高地という意味である。このような地形の形成の最大の要因は元荒川にあった。この元荒川は埼玉県熊谷市佐谷田を管理起点とし、おおむね南東へ向かって流れ、行田市、吹上町、鴻巣市、川里町、菖蒲町、桶川市、蓮田市、白岡町、岩槻市を経由して、最後は越谷市中島で中川の右岸へ合流する現在では静かな河川であるが、江戸時代以前は荒川本流として文字通り「荒ぶる川」、として悪名高く、古くから洪水による災害が発生している。荒川は、名前の由来「荒ぶる川」のとおり、大変な暴れ川だった。
                    
                           境内に聳え立つご神木
     
 この荒川は、水源から河口に達する距離が短く勾配も急で、特に峻嶺な水源地帯は多雨・多雪地帯であることから、古くから洪水による災害が発生している。特に熊谷市の付近は、荒川扇状地の扇端部であり、荒川の河床勾配は急激に緩やかになるので、土砂の堆積作用が顕著となり、近世以前には多くの派川が形成されていたと思われる。寛永6年(1629)の荒川の瀬替えによって、荒川が熊谷市久下付近で締め切られるまでは、名前が示すとおり、元荒川は荒川の本流であり、そして近世以前の荒川は利根川の支流だった。
 荒川と利根川は長い間、埼玉内部の平野地を蜘蛛の巣のように乱流して流れていて、洪水などの度に自然に流路を変えていた為、開発も極端に遅れたろう。特に元荒川と古利根川の間の地域はその苦労が思いやられる。
            
                 
 「久保島」という島が付く地名の由緒を辿って、結果的に「荒川」の歴史というかなり脱線気味な考察となってしまったが、それもまた一興だ。ただ知ってもらいたい。地名一つを調べるとそこには何百年という歴史があり、その淵源は大変深いものなのだ。また我々はその事実を素直に理解し、それを未来に託す義務があることも忘れてはならない。



                    

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須影愛宕神社、須影諏訪神社

 京都府京都市右京区にある愛宕神社は全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在 は「愛宕さん」とも呼ばれる。火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。
 有名なところでは、天正10年(1582年)5月、明智光秀は戦勝祈願のために愛宕神社に参蘢し、本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため御神籤を引き、3度の凶の後、4度目に吉を引いたという。翌日、同神社で連歌の会(愛宕百韻)を催したが、その冒頭に詠んだ歌「時は今 あめが下しる 五月哉」は光秀の決意を秘めたものとされる。
 羽生市にも愛宕神社が数社存在し、この須影地区にも小規模ながら鎮座している。

所在地   埼玉県羽生市須影495付近
御祭神   火之迦具土神(かぐつち)(推定) ※[別記]火産霊神(ほむすびのみこと)   
社  挌   不明

        
 須影八幡神社から南へ歩いて行くと、須影公民館の南西で、羽生警察署 須影駐在所の西側に愛宕神社がある。こんもりとした小山の上にある本当に小さな社だ。一見古墳と思われるような印象を持つが、ネット等で調べても古墳ではないようで、おそらくこの塚は人工に盛ったものと思われる。思うにあたり一面の砂丘を利用し、土を盛ったようだ。
            
                愛宕神社正面。この社は一面の砂丘が非常に印象的。
 『風土記稿』には「(須影)八幡社 村の鎮守なり、慶安2年8月24日社領19石5斗余と賜ふ、別当真言宗蓮華寺」とある。別当最期の住職潮元は、安政4年から慶応元年まで8年の歳月を費やして、今日の本殿と拝殿を造営している。
(中略)
明治4年に村社となり、同40年には村内の白山社、愛宕社を合祀する。ただし愛宕社は災厄を恐れる旧氏子の要請により返還されて今はない。

 と書かれている。この愛宕社は村内と記載されている所から見てもこの須影愛宕神社ではないか、と思うがどうだろうか。

 
 須影愛宕神社の鎮座する須影地区一帯には「会の川」という河川が流れていた。この会の川は延長約18Kmの中川水系の普通河川で、羽生市上川俣付近を起点とし、旧忍領と旧羽生領の境界に沿って南下し、羽生市砂山で流路を東へ変えてからは、羽生市と加須市の境界に沿って流れる。最後は加須市南篠崎と大利根町北大桑の境界で、葛西用水路の右岸へ合流する。
 この会の川流域には日本でも大変珍しい内陸の河畔砂丘が存在する。会の川の流路に沿って自然堤防が発達しているが、その上には赤城おろし(冬の季節風)によって運ばれた砂が堆積し、砂丘を形成している。その中でも最も大きいのが、幅最大300m、延長3kmの志多見砂丘で、一部が埼玉県の自然環境保全地域に指定されている。
             
 近世以前の会の川は利根川の派川だったので、かつては相当な川幅と水量があったと思われ、しかもかなり老朽化した河川だったようで、沿線には広範囲に氾濫跡の自然堤防と内陸砂丘(自然堤防の上に砂が堆積した河畔砂丘)が分布している。利根川の土砂運搬作用と堆積作用、それと季節風によって形成された地形である。それらは羽生市と加須市の境界を流れる付近で顕著であり、特に内陸砂丘は羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見にかけて広範囲に分布している。

 この羽生市上岩瀬、砂山、加須市志多見地区の河畔砂丘は何時形成されたのだろうか。資料等の見解によると鎌倉時代にできたといわれている。というのも春日部市の浜川戸砂丘の砂の下から平安時代終わりの土器が出土しているのに対し、砂丘の上からは弘安6年(1283)と記された板石塔婆が出土している。
 したがって平安時代末から鎌倉時代前半に限定される可能性が高いといえる。しかしなぜ限られた時期に河畔砂丘が形成されたのかは今現在、正直なところ不明のようだ。

 須影愛宕神社は社自体は非常に小さい規模であるが、河畔砂丘という全国でも珍しい地形の上に鎮座していることを考慮して、今回特別に掲載した次第だ。


 須影愛宕神社の東側には須影諏訪神社が鎮座している。須影愛宕神社と同じ小高い山の頂上に祠の本殿がある。
所在地    埼玉県羽生市須影
御祭神    建御名方命(たけみなかた)(推定)
社挌、例祭 不明
             
 須影諏訪神社は小高い丘の上に鎮座しているので一見古墳か?と思ったが、須影愛宕神社同様、おそらく人口に盛ったものと思われる。小さな祠が山頂付近にあるだけなので案内板もなく、故に由緒等は不明。

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