古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野巻椋神社

所在地    埼玉県秩父郡皆野町皆野野巻363   
主祭神    猿田彦大神 
(合祀)    菅原道眞 金山彦命 建御名方命 大日霊貴尊 建御名方命 建御名方命
社  格     式内社 旧村社

社  紋    五七桐
例  祭    10月15日

        
  埼玉県秩父郡皆野町に鎮座する。皆野町椋神社から埼玉県道43号皆野荒川線に移り、荒川を越え皆野橋のT字路の交差点を右折し、埼玉県道44号秩父児玉線を300m位北上すると大渕交差点となるのでそれを左折する。この道は埼玉県道37号皆野両神荒川線で、道なりに約1、5km位進むと約赤平川の支流前のT字路があるのでそこを右折すると左側に椋神社がある。
 ちなみに車で来ると、社の裏側へ回り込む形になるので、車を止めて、表に回って参拝を開始する。
           
      
 椋神社裏にあった昭和16年に建てられた社号標 奥にある建物の前に駐車
            
                表に回った先に鳥居があり参拝を開始する。
            
                             拝  殿
          
                              本  殿

 
                 拝殿の右側にある陽石        社殿の左側にある境内社の鳥居と境内社群
  野巻椋神社の創立年月等は不詳だが、口碑によると、野巻(牧)は奈良・平安の頃に牧の駒を奉りし地から付けられたと伝えられている。名に、カリホシバ(刈干場)、クツウチバ(沓打場)、カジヤ(鍛冶屋)、マキハラ(牧原)などが現在も残っているようだ。
 また、当社の創建については、秩父氏が牧場の守り神として奉斎したものではないかとも考えられているようで、当時は『武蔵志』の”倉宮”や鎮座地の字名等から”くらのみや”明神等と呼ばれていたと思われる。

 区域外にも当社への強い信仰があり、隣村の秩父市吉田久長(旧久長村)には遥拝所があったと云われ、古くは、そこに繁っている松の木に鈴を懸け、当地との間の川が増水し参詣できない時には、これを振ってそこに祀られている石宮から当社を拝んだとのことだ。

          
 山間に鎮座する野巻椋神社から見る武甲山。現在山頂は削り取られ創建当時の面影こそないが、それでも美しいことには変わりない。





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皆野椋神社

 皆野町は埼玉県の西北、秩父郡の東北に位置し、秩父市の北に接する町で、秩父盆地の入り口にあたる。東経139度5分、北緯36度4分で、東は東秩父村に、北は長瀞町と本庄市に、南・西は秩父市にそれぞれ接している。
 町の中央を荒川が東流し、その右岸の川岸段丘に町が帯状に開けている。
 気象は内陸性気候を示し、冬季は北西の季節風が強く、乾燥した晴天が続き降雨量、積雪とも比較的少ない。夏季は高温多湿で気温の年格差が著しい。
 町の産業は、商工業が主で地理的条件等から商業は、郡北部地区商域圏の中心である。工業は、精密機械製造業が中心であり、農業は、農道整備や施設整備事業等を実施し、ぶどう・しめじ・しいたけを中心とした観光農業が脚光を浴びている。


所在地 埼玉県秩父郡皆野町皆野238   
主祭神 猿田彦大神・八意思命 ・大己貴命
社 格 延喜式内小社(論社) 旧村社
社 紋 三銀杏

例 祭 4月7、8日 祈年祭 718日 八坂神社例祭 10月7、8日 例大祭 他
        
 皆野町皆野に鎮座する。国道140号彩甲斐街道を皆野方向に向かい、大塚交差点手前の十字路を右折しそのまま直進し、秩父鉄道の踏切を越えると正面に椋神社の大きな朱色の鳥居がある。鳥居の左側には駐車場もあるので、そこに停車し参拝を行った。
 もと、椋宮(倉宮)明神と称し、元慶5年(881年)円福寺を建立した真言僧源仁僧都が深く当社を崇敬したという。また秩父別当熊谷重能は厚く当社を尊信し、寿永元年(1182年)この地に居を定めたという。
       
            皆野椋神社 木製の両部鳥居である二の鳥居
 
       二の鳥居の左脇には           皆野椋神社の案内板もあり。
猿田彦大神の名が刻まれた石祠等が祀られている。

 椋神社 御由緒  皆野町皆野二三八
 ◇蓑山を信仰の象徴として里の各所に祀る氏神の総鎮守
 椋神社は延喜式に記載されている秩父郡内二社のうちの一社で、同名の神社は当社を含めて郡内に五社ある。
 社記に、景行天皇四十年日本武尊が知知夫国を巡見した折、この地に至り御矛を立て猿田彦命・大己貴命・ 
八意思兼命を鎮祭したことを創祀としている。
 古くは「椋宮」・「倉宮」とよばれ、元慶五年(八八一)円福寺を開いた源仁僧都が当社を篤く崇敬し別当を務める処となった。その後秩父庄司畠山重能・重忠親子が崇敬し、鉢形北条氏の臣用土新左衛門、江戸期には阿部豊後守、松平下総守らが崇敬した。
 明治初年神仏分離によって寺の管理を離れ、村社に列せられ、明治四〇年(一九〇七)近郷の二七社を合祀した。なかでも蓑山(587メートル)に鎮座する蓑山神社は椋神社の奥宮としてそのままに鎮座し、昭和四〇年代頃まで養蚕守護の信仰を集めるほか、雨乞いのご利益もあらたかな神社としてこの地方に生活する人びとから農耕の神として位置づけられている。
 例祭一〇月八日に奉納される獅子舞は埼玉県指定無形民俗文化財で「雨乞いザサラ」とも呼ばれ、一二頭もの獅子が舞う姿は賑やかであると共に迫力がある。獅子舞は用土氏の頃に始められたと伝えられ、その頭は「重箱獅子」と呼ばれる古い作風にみられる長方形の箱型をなし、桃山期作として町指定民俗文化財に登録されている。
 ◇ご祭神 猿田彦命・大己貴命・ 八意思兼命(以下略)
                                      案内板より引用
 

         
                                                          拝 殿                                 
           拝殿に掲げてある扁額              拝殿内部            
        
           境内に設置されてある「皆野椋神社の獅子舞」案内板

埼玉県指定民俗文化財 皆野椋神社の獅子舞
 明治一五年の大火で記録類が焼失し、詳しい縁起はわかりませんが、児玉町小平の石神神社獅子舞の起源に、「元禄十二年皆野に伝わる獅子頭が小平に分けられ……」と伝えられています。これが皆野椋神社獅子舞に関する、最も古い記録です。
  獅子頭は塗獅子で、狛犬型、龍頭型とがあり、髪は栗毛のたてがみで、大狂い、女獅子、小狂いの三頭を一組として四組一二頭あります。
演目は一八庭で、神前に子どもたちの舞うお神楽三拍子に始まり、ひきま、わせ、おく、弓掛り、まり掛り、みいれ、ひょうたんまわし、幣掛り、竿掛り、花掛り、お神楽ざさら、輪掛り、橋渡り、下妻、宿割、天狗拍子で終わります。三頭の獅子の足が腰鼓にあわせてぴたりぴたりときまるのが特徴で、師匠ざさらといわれる「宿割」はその特色を最もよく表しています。
  一日の行事の中ほど、中入りには二人立ちの大神楽獅子二頭が勇壮に舞い、道化たちがからみます。また、演目の最終には一二頭の獅子に、中立四人が加わり、一六人ざさらともいわれる天狗拍子が舞われます。
 古くは上郷組、下郷組とに分れ、交代で九曲ずつを受持って演じていました。また、今は行われていませんが、椋神社と土京遥拝所の間にご神幸に供奉した道中または行列といわれた儀式は荘重なものでした。
 実施期日 一〇月七日 土京遥拝所 一〇月八日 椋神社
                                      案内板より引用                                                                                                                                
          
                       本  殿               

        
                                      神楽殿 
                 
 社伝によると、日本武尊東夷征伐のおり、当地を通過される時、御矛を立て、祭神・猿田彦命・八意思金命・大己貴命の三柱の神を拝し給うたのが、当社の創祀。猿田彦命は、日本武尊の巡視をご案内した神。八意思金命は、知知夫国造の祖神。大己貴命は、国土経営の神である。
 元来は椋宮(倉宮:くらのみや)と称された古社で式内社・椋神社の論社の一つ。
        
                 本殿の後方に境内社が少々狭い空間にズラッと並んでいる。

 産泰大神・愛宕大神・秋葉之大神・八幡大神・山之神大神・諏訪大神・摂社末社之大神・駒形大神・金刀比羅大神・秩父彦之大神・伏見稲荷大神・太宰府天満宮・祖霊社・八坂大神等 
         
                 社殿の右手には護国神社もある。これがまた立派な佇まいだ。        
        
                       また本殿の右側には石祠が所狭しと並んでいる。
        一部だが、社号や祭神名が記された木の札が掛けられている。


 高良玉垂大神、天児屋根神社、斎主大神、神明大神、菊理姫大神、事解男大神、雷電大神、善女龍王大神、句句馳智大神、河菜姫大神、埴山姫大神等。


       
                       二の鳥居左側にある石神社や猿田彦大神の石碑

 皆野椋神社の主祭神のトップである「猿田彦」は、『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神である。
 猿田彦の特徴はその異様な容姿にある。鼻の長さ7(あた)、背の高さ7(さか)、口赤く、眼は八咫鏡(やたのかがみ)のように輝いていたという。「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とする説がある。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神だったとする説もある。
 天孫降臨の際に道案内をしたということから、後世、道の神・旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られていて、この場合、妻とされる天宇受売神とともに祀られるのが通例である。
 猿田彦命を祭神とする神社は全国に二千余社を数え、交通安全の守護神として警視庁にも祀られている。        

          
                専用駐車場から見える武甲山

 皆野町椋神社の西側は荒川が流れ、その台地上にこの社が鎮座しているのが来てみると良く分かる。また武甲山がよく見える位置にあるのも何か印象的だった。椋神社にとっても武甲山は
蓑山と共に神聖の山の対象だったのだろうか、とふと感慨にふけってしまった。



                                                          

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永明寺古墳

 永明寺古墳は東北自動車道のすぐ東側、稲荷塚の鷲宮神社から埼玉用水路に沿って西に向かった所、地形的には利根川が群馬側に張り出して蛇行した所にあり、村君古墳群内にある前方後円墳である。
 この古墳は、羽生市で最大の前方後円墳(埼玉県羽生市村君)で、全長78m、高さ7mで埼玉県下で10番目の大きさを誇る。真言宗・永明寺の境内にあり、前方部に文殊堂、後円部に薬師堂が祀られている。1931年に薬師堂の床下を発掘、緑泥片岩等を用いた石室から衝角付冑、挂甲小札、直刀片、鏃、金製耳輪などが出土したらしい。

所在地
     埼玉県羽生市下村君字谷田
区  分     埼玉県選定重要遺跡 羽生市指定史跡
築造年代        6世紀初頭(推定) 埋葬者不詳


     
地図リンク
永明寺と永明寺古墳
 永明寺は、真言宗豊山派・堤の延命寺の末寺で、五台山薬師院と号する。永明寺古墳は古墳時代後半に作られたもので、高さ七m、全長七十三mの前方後円墳である。
 前方部には文殊堂、後円部には薬師堂がある。昭和六年に薬師堂の下を発掘したところ、大きな石を敷いた石室が見つかり、中から直刀、やじり、金製の耳輪などが出土した。
 市内にはほかに毘沙門塚古墳など二十三の古墳があるが、規模、保存状態の点で市内の代表的古墳である。
ま た、薬師堂には貞治六年(1366)に修造された高さ八十五センチ、台座六十センチの県指定重要文化財である木造薬師如来像が安置されている。『細い螺髪、丸い顔立ちとおだやかな衣文につつまれた体躯など、一見平安末期の定朝様の流れがこの時代にも生き続けていたことの証明となる遺品である。』といわれている。
                                                                           埼玉県   昭和五十五年三月
                            
                               境内案内板より引用

      
       永明寺正面の真浄門の手前左側に永明寺古墳の石碑があり、その門の先に古墳がある。

         
                境内からの様子。案内板の奥にあるこんもりとした山が全て永明寺古墳

 永寺古墳は現在の地形では利根川を見下ろす台地の上に築造されている。古代この利根川は幾度と氾濫を繰り返し、現在の流路になったといわれるが、それにしてもあまりにも利根川に近すぎる。築造当時それほど近くなかったかもしれないとの見解があるかもしれないが、それでも大きな?を感じてしまった。また台地上にたてられたといっても標高17m、水田からの比高は僅かに2mで、主軸はほぼ東西に向いている。利根川の氾濫がおこった場合、その濁流を横正面から直接受けてしまっただろう。河川の氾濫地域の真っ只中に古墳を造る、この永明寺古墳の埋葬者はどのような考えでこの地域に古墳を造ったのだろうか
 自分が生まれ育ったこの地でこの先も眠りたい、という観念的な考えは解らない訳ではないが、それだけではないはずだ。時の為政者たちは重要な現実問題の一つの解決策の一つとして古墳築造を行ったと考えたほうが自然だ。それは羽生市にある永明寺古墳が属する村君古墳群のほかにも多くの古墳群が現存しているが、それらの立地条件をみてもある程度判明できる。
   新郷古墳群 (羽生市上新郷、利根川南岸1㎞弱の自然堤防上に分布に存在)
   今泉古墳群 (羽生市今泉、利根川南岸1.5kmに存在。4基の古墳中熊野塚古墳のみ現存)
   尾崎古墳群 (羽生市尾崎、利根川南岸に存在、河川の氾濫などでかなりの数の古墳が埋没)
   羽生古墳群 (羽生市羽生、羽生駅北側に存在、毘沙門山古墳が有名)
   小松古墳群 (羽生市小松、地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没)
   村君古墳群
 埼玉県の東部は関東平野のほぼ中央部に位置し利根川や中川にそって上流から妻沼低地、加須低地、中川低地と続き、低地に囲まれるように大宮台地が大きな島状にあり、 このうち羽生市がある地帯は加須低地と言われ、利根川中流域の低地のひとつとして南の大宮台地と北の館林台地の間に位置している。
 この加須低地の場合、ほかの低地とは少々違う点があり、ひとつは自然堤防と思われる微高地の地表のすぐ下からしばしばローム層が発見されることで、低地の浅い部分の地下にローム層が存在することは一般では考えられないことらしい。。しかもなぜか微高地の下にローム層があり、後背湿地の下からは見つからない。ふつう自然堤防と後背湿地の構造的な違いは表層部付近だけであり、地下はともに厚い沖積層が続くものらしい。
 
もうひとつは背湿地と思われる部分の一部では軟弱な泥炭質の層が著しく厚いことで、代表的なのは羽生市三田ヶ谷付近(現在さいたま水族館がある付近)で、泥炭質の層が10mもあるという。

 つまりこういうことだ加須低地のすぐ下には台地が隠れている(埋没台地という)ということだ。それも古墳時代前後の。加須低地は沈んだ台地の上にできた特殊な低地だったというのだ。前出の小松古墳は地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没していることがわかり、また行田の埼玉古墳群や高山古墳なども本来台地の上につくられたものが、2.3mの沖積層(古墳が築かれた後に堆積した土砂)で埋まっていることが明らかとなったという
         

 このような古墳築造のためには、巨大なる労働力と経済力と政治力を必要とすることはおよそ疑いがないところだ。しかもこの自然災害の氾濫地帯で、造ったとしてもすぐ破壊され、埋没してしまうことが解っているのになぜこれほどの「一大労働力」を動員する必要があるのか。悩みながら考え続けた今現在の筆者の結論は以下の通りだ。

 
1 平時において古墳はそこに眠っている為政者の鎮魂と祭祀のための施設
 2 利根川等の河川の氾濫が発生した場合(自然災害)、防災施設としての堤防的な施設

 3
 人為的に緩急な事態が発生した場合の要塞的な施設

 「
平和時における鎮魂と祭祀」施設と「自然災害に対する堤防的な防御施設」「人為的な交戦状態に陥った場合の防御施設」は共有するものだろうか。
 「自然災害に対する堤防的な防御施設」に関しては
古墳群の配置
状況を考えるとあり得ると思う。が「人為的な交戦状態に陥った場合の防御施設」はどうであろうか。常々古墳や古墳群地形条件を見ていると、古墳の要塞のような防御施設という一面を考えずにはいられない
 関東地方古墳は近畿地方比べて規模は小さい事実は否定できないが、
鹿島古墳群のように小さな古墳でも集めれば少人員を分散して隠すことができ、防御的な役割は十分に役に立つ。
 良い例が埼玉古墳群だ。埼玉古墳群のような100mクラス級古墳を9基密集して造り、二重の周濠で固め、周濠は基本的には空堀だったらしいが地盤は軟弱な泥炭質の層で水はすぐ溜まり、地下には潜らない為、忽ち水濠に変貌する。また埼玉古墳群9基の中に丸墓山古墳がある。この古墳だけ円墳なのだが何故丸墓山古墳だけ円墳なのか今もって謎とされている。しかしこの古墳は高さが19mあり、「防御施設」として考えた場合十分な「見張り台」的な役割を伴うことができる。現に石田三成の忍城攻防戦においてこの古墳は本陣として立派に機能していたことを考えると従来の古墳の見方も少し様相が異なって見えてくる。
 さてこの
ように見張り的な機能も充実している古墳群は立派な要塞に変貌するのではないだろうか。これを防御施設と言わずして何といえばいいのだろうかと思うのだが、このような考え方は飛躍しすぎであろうか。
          
                  羽生市永明寺の銀杏 羽生市指定天然記念樹
 

 永明寺のイチョウ       天然記念物  羽生市指定

イチョウは古生代末に出現し、生きた化石といわれており、進化の過程がたどれたり、先祖返りが見られるなど学術的に貴重な植物です。中国原産で、観音像の渡来とともに日本に持ち込まれたとする説があります。雄雌に分かれる植物で、この樹は雌株ですが、珍しく大きく成長しています。高さ37.5m、目通りの周囲は4.85m、根回りは7.7mもあります。推定樹齢は500年を超えるものと思われます。
                                                          案内板より引用                                                      

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古櫃神社

 古櫃神社が鎮座する深谷市新戒は「新開」とも書き、鎌倉右府の時(源頼朝の時代)、秦河勝の末、新開荒次郎忠氏が、この地に要害を築き、祖神大荒明神を勧請し、伝来の武器を刀櫃に入れ社の下に納めたものという。旧称「明神宮」または「新開神社」という。
 新開氏は秦河勝の後裔といわれ、もとは信濃国が本領で同国佐久郡および近江国新開荘が所領地とされる。佐久を本貫地とするこの新開氏の一派は武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し、古櫃神社を創建した。信濃国佐久郡の内友荘田口郷に新開大明神が祭られたとき、松皮菱を紋とし、同様に移住先の古櫃神社の神紋も同じ松皮菱であるという。

 佐久郡
新戒地名と開荒次郎忠氏が繋がっていてしかもそれらは秦河勝、つまり古代朝鮮新羅系渡来人一族である秦氏とも繋がっている。歴史とはこのように深いものなのか、感慨深いものがあった。

所在地  埼玉県深谷市新戒300
御祭神  大荒明神(大荒彦命)
社  挌  旧村社
例  祭    11月15日 秋祭り  11月23日  新嘗祭
 

    
  古櫃神社は国道17号バイパス線を深谷方向に進み、深谷署前交差点を右折し、そのまままっすぐ進み、小山川を越え新戒交差点を右折し(この道は埼玉県道45号本庄妻沼線)約1km位で到着する。進路方向に対して右側にあり、駐車場もその道路上に数台駐車スペースがある。ただ社殿は南向きなので、駐車場は社殿正面の真逆に位置するため、いったん回るようにしなければ参拝できない。といってもそれ程大きい社ではないので苦にはならないが。
 
    
       古櫃神社 一の鳥居と社号標               一の鳥居の左隣にある案内板
古櫃神社(新戒)
  全国で唯一の社名をもつ当社は、新戒の鎌倉街道北側に鎮座している。
創建は鎌倉期秦河勝の裔で、新開荒次郎忠氏が肥沃な当地に館を構え、祖神の大荒明神を勧請し、伝来の社器を櫃に入れて社の下に納め、館の守護神としたことによると伝える。
新開荒次郎忠氏は鎌倉時代丹党の旗頭で、源頼朝の重臣なり。
 永禄年中深谷上杉氏に属す。深谷上杉氏は北条氏に協和しており、北条氏が滅ぶと新開氏も深谷上杉氏とともに滅んだが、四国に移った一族は阿南市牛牧城主となり、地域発展に貢献し、城跡には新開神社がある。
 年間の祭事は、春・秋の祭りなどあり、五穀豊穣と奉賽の祭りが行われ、七月の八坂祭は特に盛大に行われ、市内最大の神輿を渡御して健康を祈る
 
     
                   参道から見た拝殿と両側にある銀杏の大木
 拝殿の両側にある銀杏はどちらも深谷市指定保存樹木第13号(左側)、14号(右側)で、どちらも平成二年十月二十日に指定されている。
         
                              拝    殿
         
                              本    殿
 
              
輿庫                         手前、奥共に猿田彦大神
   
      境内社 左側不詳                      稲荷社                  大杉神社
        右側八坂神社             
        
                             浅間神社
祭神 木花佐久夜毘売命
由緒

  
源頼朝の富士の巻狩のころ、新開荒次郎忠氏は、駿河の富士山に向かって当地に丘を築き、富士浅間神社を祀って武運長久を祈ってのち、参向したという。明治初年より明治20年頃まで、富士講の盛んだった時代があった。当事3月3日の大祭には、社殿は御篭りと称して参篭する者で溢れたため、富士講先達たちにより篭り堂が建設されたほか、数々の奉納があった。

 この古櫃神社は全国的に見ても唯一の名「古櫃」を使用した神社で、名前の由来も新開荒次郎忠氏が、この地に要害を築き、祖神大荒明神を勧請し、伝来の武器を刀櫃に入れ社の下に納めたものと言われているが、真相は違うところにあるのではないだろうか。というのも境内社 浅間神社の石垣の中に奇妙な石碑があるのだ。
 
 この石碑の築造年代は不詳だが、石碑表面の研磨状態等、一見したところ新しく感じた。この石碑には中央に4文字しっかりとした字体で彫られている。1文字目は上部が欠けているので判別できない。また書体が3文字目、4文字目の部首が「しめすへん」でそれぞれ「神」、「社」の篆書体のようにも見える。そして一番難しいのが2文字目だ。
 そこで都合がいいことは承知の上で、この石碑がこの神社の境内にあることから単純に「こひつ(びつ)じんじゃ」と書かれていると仮定した。そしてこの4文字を現代書体で書くとおおよそこのようになると推定した。以下の通りだ。

 ・ ①古 +②羊 +③神 +④社



 新開荒次郎忠氏の祖先神である秦河勝6世紀後半から7世紀半ばにかけて聖徳太子の側近として大和朝廷で活動した秦氏出身の豪族と言われている。そして秦河勝の子孫は信濃国の佐久地方に東国の根拠地を置いてその一派がこの新戒にも移住したというが、その移住ルートは間違いなく東山道だろう。

 対して羊一族といえば多胡羊太夫だが、この人物(人物ではない説もあるがここでは人物としてあえて詮索しない)は養老5年=721年までは生存していた、と言われている。埼玉名字辞典では「羊」について以下の記述をしている。

羊 ヒツジ 中国では北方の羊を飼う異民族を蕃(えびす)、胡(えびす)、羌(えびす)と称し、あごのたれさがった肉、転じて胡髯(あごひげ)と云い、羌(ひつじ)、羊(ひつじ)はその蔑称である。大和朝廷は中華思想により大ノ国(百済、伽耶地方)の渡来人を蕃、羊と蔑称した。オオ条参照。大ノ国の胡(えびす)居住地を大胡(おおご)、多胡(おおご)と称し、タコとも読んだ。百済(くだら)も管羅(くだら、かんら)と称し、甘楽(かんら)、甘良(かんら)と読んだ。上野国多胡郡池村(多野郡吉井町)の多胡碑に「和銅四年三月九日、弁官、上野国に符し、片岡郡緑野郡甘良郡并せて三郡の内三百戸を郡となし、羊に給して多胡郡と成す。左中弁正五位下多治比真人、太政官二品穂積親王、左大臣正二位石上尊(麻呂)、右大臣正二位藤原尊(不比等)」とあり。多胡郡百済庄は吉井町池、片山、長根、神保附近一帯を称し、羊は和銅より数百年前から居住していた百済人を指す。また、和銅四年より五十数年後の天平神護二年五月紀に「上野国に在る新羅人子午足等一百九十三人に、姓を吉井連と賜ふ」とあり。新羅人も入植していた。上毛古墳綜覧に多胡郡黒熊村字塔ノ峰(吉井町)より「羊子三」とへら書した古代の瓦が出土したという。群馬県古城塁址の研究に「黒熊村の延命寺の地域は伝説に羊太夫の臣黒熊太郎の古跡なり」と見ゆ。また、甘楽郡天引村(甘楽町)の天引城は羊太夫の砦と伝へる。緑野郡上落合村(藤岡市)七輿山宗永寺は羊太夫家臣長尾宗永の居所で、羊太夫の死後その婦妾七人が宗永に救助を求めて輿中で自害し、のち墳墓を七輿山宗永寺としたと伝へる。

 少なくとも秦一族が佐久を東国の本拠地として領有していた時期と、羊一族が多胡地方に生活の基盤を構築した時期はそれほど変わらないように感じる。そして秦一族は東山道を通して幡羅郡新戒に移住する。そしてそのルートの途中に多胡が存在し、加えて古櫃神社の境内の片隅にある「古羊(?)神社」の石碑。偶然として関連性がないと断言することはいささか早計なことではあるまいか。


 

 

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湯殿神社

 湯殿神社が鎮座する西別府には7世紀以前の古代古墳時代からその地域にとって重要な祭祀施設が存在していた。西別府祭祀遺跡は湯殿神社の北側の裏湧き水があった場所で行われた祭祀に関連する遺跡で、出土遺物は、土師器・須恵器・土師質土器、当時の高級食器である緑釉陶器や灰釉陶器などの土器のほか、隣接する西別府廃寺に使われた軒丸瓦・軒平瓦などが確認されて、その他にも馬形や櫛形などの滑石製模造品が数多く発見された。
 またこの湯殿神社を取り囲むように南から西方向で発見された幡羅遺跡や
、真南にある幡羅郡衙(郡の役所)跡である西別府遺跡、南東近郊で発見された西別府廃寺等、祭祀・古代寺院・郡衙の跡がそろって確認されている遺跡は全国でも例が少なく、注目されている。なお、出土遺物は、平成23年に県指定文化財に指定された。

 ところで湯殿神社の北北東には別府沼公園があり、
古くから深谷市と熊谷市の境界にあった、自然の湧き水を源流とする「別府沼」を中心に作られた公園で、東西に約1kmもある細長い公園で、北側にはゴミ処理場である「大里広域市町村圏組合 熊谷衛生センター」、東側には別府小学校、南側には別府中学校がある。

 現在では近郊の人々にとっては憩いの場所となってはいるが、古代は湧水と沼地の多い起伏に富んだ鬱蒼とした複雑な地形だったのではないかと想像を膨らましてくれる、そんな空間の中に湯殿神社は静かに鎮座しているのだ。
     所在地  熊谷市西別府1577
   御祭神  
大山祇神(おおやまつみのかみ) 大山を司る神、山の神の総元締の山神
   社  挌  旧村社
   例  祭  不明


       
  湯殿神社は籠原駅から行くと埼玉県道276号新堀尾島線を北上して行くと右側に別府沼公園が見えて来るので、反対側の西駐車場に車を置いて公園南西に鎮座する湯殿神社に向かった。但し別府沼公園の西駐車場から湯殿神社は参拝ルートとしては丁度神社の奥からのスタートとなるので、回り込んで行くしかなく、暑い中での参拝は少々きつかった。
  
  社殿から少し離れた東側にある社号標  
  参道入口には「史跡 西別府祭祀遺跡」と
                                      記された柱が立っていた。
 西別府祭祀施設

 熊谷市西別府にある湯殿神社の北側に位置し、幡羅遺跡の北東に隣接しています。現在、湧水はほとんどありませんが、古代は滾々と水の湧く場所で、神聖視されていました。
 幡羅遺跡が出現する7世紀後半には、加工のし易い滑石製模造品を使った祭祀が行われ、その後も呪術的な記号や願文を記した墨書土器が出土することから、少なくとも11世紀までは湧水点での祭祀が行われていたと考えられます。
 祭祀に関する遺物は、7世紀の段階には石製模倣品、それ以降は墨書土器が出土しています。墨書土器には人名などを記したものの他、呪術的な特殊記号や願文などがみられ、祭祀行為が行われていたことを窺うことができます。
 
各地で調査されている古代の祭祀跡からは、木製の斎串や人形などが出土する例が多くありますが、現在のところ、西別府祭祀遺跡からの出土はありません。しかし、今後の調査で、これらの木製祭祀具が出土するかも知れません。

 西別府廃寺
 
  熊谷市西別府にあり、幡羅遺跡の東に隣接しています。多量の瓦と基壇建物跡、区画溝などが確認され、古代寺院跡であることが分かりました。出土した瓦から、8世紀初頭の建立と考えられます。9世紀後半までは寺院として存続していたことが分かっています。また、周辺から出土した遺物から、11世紀までは宗教活動が行われていたと思われます。
 郡家に隣接して古代寺院が造営される事例は多く、郡司が深く関与した寺院と考えられています。

          
                          拝  殿 
          
                        拝殿内部撮影
     
  拝殿手前左側にある末社  拝殿右側にある合祀記念碑     社殿右側奥にある石碑

 末社には
三峯神社、日枝神社、八坂神社、琴平神社、天神社の五社が祀られて、合祀記念碑には裏面に湯殿神社、諏訪神社、雷電神社、冨士嶽太神の名が記され、明治四十二年十月五日に合祀されたとある。写真右側の石碑には國常立尊・圀狭槌尊・豊斟渟尊の3柱が斜めに彫られている。
               
         社殿左奥にある富士嶽太神と
食行霊神、左下には小御嶽太神もある。
    
  社殿の奥にある石碑の近くには「西別府 祭祀遺跡」と書かれた案内板があり、その先には
神社裏の堀へ下りる階段があり、そこにはまた「祭祀遺跡出土場所」と記された石柱が立てられている(写真左側)。     別府沼公園側に続く裏参道に鎮座する水神の石祠があり(同右側側面には寛文十一年辛亥九月吉日と刻まれているので1671年に建立されたことが分かる。
               
    水神の石祠の先にある不思議な石柱。何かのご神体か?祭祀施設の一部なのだろうか。
      
 神社から別府沼公園側に行く間には写真左のような遊歩道があり御手洗池と書かれた湧水の源泉池もあるようだ。但しこの御手洗池の湧水量は近年極端に少なくなっているという。

  この西別府地区は、別府沼公園の存在でもわかる通り、古来より沼地が多く、また地形的にも利根川、荒川の間にあり、河川の氾濫地域であったはずである。であるにも拘らず、ここに鎮座している神社は山岳信仰の「湯殿神社」。どう考えても地形と祭神には矛盾を感じる。
 埼玉県には不思議と「殿」が最後尾に着く地名が多く存在する。通澱、十澱、蔵澱、頭澱、井澱、水澱等だ。特に
河川(荒川水系)の近傍、しかもこの地名は熊谷市と坂戸市周辺に特に多いという。「湯殿神社」の本社は出羽三山の一つである「湯殿山神社」と説明する書物等多数存在しているし、自分も「湯殿神社」はこの系統の神社と疑わずにいたが、考えてみるとこの「湯殿神社」には「山」と書かれていない。「湯殿山神社」と同系統と考える理由は何一つないのだ。
 またこの「湯殿神社」の北には「近殿神社」が鎮座しているし、
一方でこれらの地名の周辺には、古代の製鉄遺跡や金属の精錬を生業とする人々が信仰した神社も多く分布している。ちなみに湯殿神社の「湯」に関してだが、埼玉名字辞典ではこのように説明している。

 
 
遊座・湯座(ゆざ)
 金属が熱に溶けた状態を湯(ゆえ)と云う。鍛冶師湯座(ゆえ)の集落を遊佐と称す


  筆者の個人的な意見としてこの社は「湯殿山神社」とは関係のない、むしろ河川に関係した社ではないかと考えている。ただあくまで仮説である。この社には何の説明版もなくこのことに関して説明できる資料もない。どなたかこの矛盾をうまく説明してくれる方はいないだろうか。

 




  
    

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