古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

猪俣二柱神社及び猪俣の108燈

 猪俣党(いのまたとう)とは、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町 の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団である。武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す 横山党の一族である。小野孝泰(小野篁の7代後の子孫)という人物が朝廷の牧場「小野牧」の別当兼武蔵守として、武蔵国へ下向・赴任してきた。小野孝泰の子の一人、武蔵権守「義孝」が「横山」(東京都八王子市)に館を構え「横山」と称した。そして「横山党」を創設した。
 小野孝泰の子の一人、武蔵介「時資」が「猪俣」(埼玉県児玉郡美里町)に館を構え「猪俣」と称した。その子「時範」は「猪俣党」を創設した。武蔵七党の2つ「横山党」と「猪俣党」は同じ時期に誕生した。同族で、「小野妹子」、「小野篁(たかむら)」の子孫である。猪俣氏の他にも人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏などの一族が存在し、近隣に勢力を広げた。
 美里町猪俣地区に鎮座する猪俣二柱神社は伊邪那岐命・伊邪那美命を主祭神とする社で、正円寺の西側、山腹寄りに所在し、猪俣氏代々が尊崇したと伝わっている。

       
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町猪俣2145
             ・御祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命
             ・社 挌 旧猪俣村鎮守 旧村社
             ・例祭等 例祭日 415日・1015
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1484768,139.1808087,16z?entry=ttu
  
 猪俣二柱神社は国道254号線を寄居方面に北上すると「猪俣の百八燈」の案内標識が右側にあり、その手前の細い道を右折すると猪俣氏墓所が所在する真言宗高台院が見え、そのまま道なりに進むと、左側に真言宗猪俣山正円寺があり、またその入り口には二柱神社の鳥居もある。
 社が鎮座する場所は地形上鐘撞堂山(標高305m)から北に派生する尾根の麓上にあり、社とはいえ北から南東の広角度を関東平野が広がっていて遮る物も無く、物見の砦としては絶好の立地条件ともいえる。
           
       高台院からの道を道なりに進むと一の鳥居があり、その正面には正円寺が見える。
           
                        猪俣二柱神社 二の鳥居
 
         鳥居に掲げてある社号額                    鳥居周辺に案内板あり

○二柱神社 御由緒    美里町猪俣二一四五
□御縁起

 猪俣は、武蔵七党の一つである猪俣党の本拠地であったことで知られる。猪俣党は、横山党の祖である武蔵介小野義隆の弟横山時資をその祖とし、那賀郡・榛沢郡に勢力を広げたとされ、とりわけ、猪俣小平六は保元の乱(一一五六)や平治の乱(一一五九)では源義朝に従って武功を上げ、のち源頼朝に従って一ノ谷の合戦(一一八四)で平盛俊を討ったことで名高い。地内には、この小平六の居館と伝えられる平安時代の館跡や、室町時代にその子孫が築いた山城の猪借俣城などがあるほか、猪俣党にかかわる旧跡が多い。
『児玉郡誌』によれば、当社は、古老の口碑に猪俣氏が代々崇敬した社であると伝え、永禄六年(一五六三)天正十六年(一五八八)の二口の鰐口が伝来するという。しかし、永禄六年の鰐口は江時代に別当であった正円寺に現存するが、天正十六年の鰐目は現存せず、代わりに当社に元禄十五年(一七〇二)の鰐口及び寛政三年(一七九一)の棟札が現存する。また、当社は江時代の『風土記稿』猪俣村の項に「聖天社二宇村の鎮守なり、正円寺の持云々」とあるように、元来は聖天社と称したが、神仏分離後に二柱神社と社号を改めた。
 御神前に野菜(二又大根)が供えられる事がある。これは江戸時代、聖天信仰が盛んに行なわれた事で、聖天様は二又大根が大好物であることに由来する。当二柱神社も聖天様として沢山の参拝者があったと言われている。
                                                            案内板より引用

         
                                拝 殿
 猪俣二柱神社が鎮座する箕郷町猪俣地区は、『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸時代「猪俣村」と呼ばれ、「大沢郷松久庄鉢形領に属す。江戸よりの行程22里、民戸250、南は円良田村、北は中里・甘糟の2村、西は大仏・湯本の2村にて、東は榛沢郡用土村なり。東西14町、南北20町、村内に江戸より信濃国への脇往還かかれり。当村は当国七党の内、猪俣党の住せし地にして、天正年中まで子孫猪俣能登守所領せし事、其家の譜及(「秩父通志」)等に見えたり。小名、小栗、宿、宮前、栃木保、湯脇、野中、東川原」とある。
 現在、猪俣の地には猪俣姓はないというが、猪俣五衆と呼ばれる岡本、占部、小沢、立川、根岸の姓は残っているという。
 
    拝殿に「二柱神社」と書かれている扁額                   本 殿
            
                          社殿の左側に並ぶ境内社
 境内社(写真右)は伊勢大神社、豊受大神社、愛宕神社、八幡神社、稲荷神社、八坂神社、山神社、諏訪神社、雷電神社、琴平神社、天神社等
                   
                      社殿の右奥、山の斜面上にある境内社            
           
                       拝殿前から二の鳥居方向を撮影
二柱神社
大字猪俣にあり、伊邪那岐命・伊邪那美命を祭神とする。創建の年代は明らかではないが、猪俣氏代々の崇敬した社と伝えられ古くは聖天宮と称した。当社に伝えられている二つの鰐口は、町の指定文化財であってその一つ「永禄の鰐口」と呼ばれるものは、永禄6年(1563)10月に信州佐久郡野沢郷薬師寺に寄進され、さらに永禄12年(1569)7月に同郷八幡宮に再寄進されたものを、天正10年(1582)小田原城主北条氏直から信州内山城の防備を命じられた猪俣邦憲が持ち帰ったものといわれている。もう一つ「天正の鰐口」と呼ばれるものは、天正16年(1588)に鋳造されたもので、同年4月猪俣邦憲が戦勝祈願のため奉納したものである。当社の社務は、江戸時代以降正円寺が兼帯したということからこの鰐口を「正円寺の鰐口」ともいう。
                                                          美里町史より引用

猪俣の108燈
 二柱神社の北側にこんもりとある小高い山、堂前山というらしいが、8月15日に「猪俣の108燈」と呼ばれる伝統行事が行われる。「猪俣の百八燈」は400年以上続く盆祭りの行事で、堂前山の尾根に築かれた百八基の塚に火をともす幻想的な行事だ。地元:猪俣地区では、平安から鎌倉時代にかけて武蔵国で勢力をはせた武蔵七党のひとつ猪俣党の頭領:猪俣小平六範綱及びその一族の霊を慰めるためと伝えられている。範綱は猪俣党の宗家で、始祖である時範から数えて5代目の子孫にあたり、小平六と称して剛勇無双とうたわれ、早くから源氏に仕え、保元の乱、平治の乱で勇壮華麗な戦いで活躍し、一ノ谷では源義経のもとで激闘の末、平家の猛将:越中前司盛俊を討ち取り勇名をはせ、更に壇ノ浦に転戦して手柄を立てた人物だ。
 この猪俣の百八燈は、各地で行われる盆の百八燈行事の中でも百八の塚を築いたその上で火を焚く点が異色であり、亡魂を慰めるという趣意と相まって塚信仰の様相をよく示している。
           
猪俣の百八燈
 この行事は、8月15日に村はずれの丘の上に築かれた108基の塚に百八の灯をともす盛大な行事である。地元では武蔵七党のひとつ、猪俣党の棟梁・猪俣小平六範綱とその一族の霊を慰めるための行事と伝えられている。
 この行事は、猪俣地区内の満6歳から満18歳までの青少年が、親方・次親方・後見・若衆組・子供組に分かれて行事の一切を取りしきり、大人の介入がないのが特色である。この行事の準備は、道こさえ・草刈り・塚築き・人別集めなどがあるが、いずれも親方の指示に従って子供たちが行う。
 15日の夕刻、寄せ太鼓の音が鳴るとともに一同が高台院へ集合し、猪俣氏の霊に拝礼後、笛・太鼓の拍子に合わせた提灯行列が塚のある堂前山へと向かい、百八の塚に火を点火する。
 猪俣の百八燈は、各地で行われる盆の百八燈行事の中でも百八の塚を築いたその上で火を焚く点が異色であり、亡魂を慰めるという趣意と相まって塚信仰の様相をよく示しているといえる。
昭和62年1月8日指定 
重要無形民俗文化財
                                                            案内板より引用
            
                    
  
                     猪俣の百八燈が行われる麓から見た堂前山
 この「猪俣党」は当初から源氏と協力関係にあり、「前九年の役」、「後三年の役」や「源平合戦」に従軍している。「保元物語」には猪俣党の岡部六弥太忠隆、酒匂三郎らとともに源義朝に従ったという記述があり、これが義朝の十六騎の記述となり、さらに平治の乱でも源義平の十七騎のなかに「猪俣小平六範綱」の名前が見受けられる。その後源頼朝の挙兵にも従い、「一ノ谷の合戦」で源義経配下で平盛俊を討ち取り武勲を挙げ、鎌倉幕府では御家人となった。
                   
                       二柱神社に隣接した正円寺の案内板
 時代は下って戦国時代、「猪俣党」は小田原の北条勢力下に組み入れられ、北条の家臣として「猪俣党」の末裔「猪俣邦憲」が登場する。「猪俣邦憲」は上州「沼田城代」として、近くに位置する真田側の「名胡桃城」を奪取して、豊臣秀吉の小田原征伐の口実を作った人物だ。(*名胡桃城の奪取が結果的に小田原征伐の口実を与えたことについて、多くの史書で邦憲を「手柄だけを目的とする傲慢で思慮が足りない田舎武士」と虚仮下ろされている。それに対して近年では同時期に氏邦が秀吉に誼を通じていた宇都宮に侵攻していることなどから、邦憲の単独行動ではなく「反秀吉派」の氏政か氏邦の指令があったともいわれている。)

 「猪俣党」はまさにこの猪俣の地で生まれ、育って名を馳せたということだ。そしてこれら猪俣一族の霊を慰める為に行なわれたのが「猪俣の百八燈」ということで、この地域に根付いた由緒ある伝統行事であり、大切な文化遺産である。後世に残してもらいたいものだ。

 

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関浅間神社

             
                    ・所在地   埼玉県児玉郡美里町関1947
                   ・ご祭神   木花咲邪比売命
                   ・社 挌    旧指定村社 阿那志村鎮守
                   ・例祭等   祈年祭 3月29日 大祓式 7月31日 例祭1010
      地図  
https://www.google.co.jp/maps/@36.1896854,139.1945209,16z?entry=ttu

 関浅間神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、山崎山、諏訪山の丘陵地の間を越えた関集会所のすぐ先の交差点を左折すると左側にこの社の鳥居が見えてくる。もっともその交差点には「指定村社 浅間神社」と表記された社号標柱があり、見た目だけは分かりやすい社である。
 駐車場は残念ながら無く、鳥居の前の参道が丁度車一台分くらい置くことができるスペースがあり、そこに停めて参拝を行った。 
            
                      諏訪山丘陵地の一隅に位置する鳥居
            
                                                      鳥居の右側手前にある案内板
 浅間神社 御由緒    美里町関一九四七
 □御縁起(歴史)
 当社の鎮座する川輪は、山崎山丘陵から広がる農村地帯で大字関の小字である。川輪は武蔵七党猪俣党川勾(かわわ)氏の本貫地といわれている。江戸時代は旗本安藤氏の知行地であった。
 祭神は木花咲邪比売命である。境内社には稲荷神社・八幡神社が祀られ、江戸時代末には同字の下浅間神社を本社に合祀した。
 川輪の住民は、大字関の鎮守児玉神社の氏子であるとともに、字川輪の鎮守浅間神社の氏子でもある。
 社伝によると、浅間神社の創建年代は不詳であるが、永正年間(1504-21年)に鉢形城主北条氏邦が当社を深く信仰し、社殿を再興し広大な社地を寄付したという。慶長18年(1613)の大火により社殿が灰燼に帰したが、後に村民により社殿が再建された。
 当社は浅間山の丘陵に鎮座する。江戸時代からの富士浅間信仰に基づき、地元川輪のみならず近郷近在の崇敬を仰いだ。特に雨乞いに霊験あらたかといわれ、社殿には雨乞い祈願の絵馬も奉納されている。境内地には、干ばつ時にも枯渇したことがないとされる池も現存している。
 川輪に伝承されている神楽は、通称「川輪の神楽」と呼ばれる。明治十五年に本庄市諏訪の神楽師より伝授されたとされ、以来官幣中社金鑚神社神楽に統率されたという。
                                                            案内板より引用

 
 鳥居を過ぎてから登り斜面の参道を進む。 
意外と拝殿までのルートが思った以上に長く(写真左・右)、ほの暗い参道を延々と進むその時間は心寂しく、ハイキング気分とは到底いかないものだった。 
            
                       
参道の途中には池。案内板による干ばつ用であろうか。 
            
    
          長い参道をしばらく進むと浅間神社の明るく開けた空間が広がる。
            
                                  拝 殿
 
   拝殿向拝紅梁に掲げてある「富士山」の額                  本 殿              
            
                          浅間神社社殿改修記念碑
 浅間神社社殿改修記念碑
 浅間神社は字川輪の鎮守であり。御祭神に木花咲邪比売命をお祀りしています。社伝によりますと創建年代は不詳ですが、永正年間(1504-21)に鉢形城主北条氏邦が深く信仰し、社殿を再興したといわれています。
 当社は江戸時代から富士浅間信仰に基づき、地元川輪だけでなく近在近郷の人々から広く崇敬されていました。特に雨乞いに霊験あらたかといわれています。当社の社殿は、今から106年前の明治33年に建設された後、昭和から平成の時代と、幾度かの営繕工事を重ねてまいりました。しかし、老朽化が急速に進み、改修工事を実施せざるを得ない状況となりました。
 そこで、平成18年5月6日に氏子総会を開催して協議したところ、出席者各位の賛同を得て、社殿改修の浄財を募り、改修工事の運びとなった次第です。改修総工事費は、553万5千円であり、平成18年10月9日に着工し、平成18年12月10日に完成しました。此処に改修工事の旨を石碑に刻み、後世に伝えるものであります。
                                                          
                                                                                                 境内石碑から引用
          
              
       社殿の左側の奥にある境内社(写真左・右) 
                神楽殿                    社殿脇にある「昇格参宮記念碑」 
            境内の一角に祀られている石灯篭と、その並びに聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)

 浅間神社
 大字関にあり、木花咲邪比売命を祀る。創建の年代等不明であるが、伝えによれば永正年中(1504-1521)北条氏邦が深く当社を信仰し、社殿を再興し広大な社地を寄進したといわれるが、慶長18年(1613)火災にあい文書等すべて烏有に帰したという。 
                                                         「美里町史」より引用                                                                                                                

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鷺山古墳

  本庄市下浅見地区には小字「鷺山」という地区がある。この鷺山は児玉丘陵のほぼ中央、早稲田大学本庄キャンパスの西隣に位置する小高い丘がその発祥としている。
 児玉丘陵は旧児玉町(2006年1月より本庄市)東部から、本庄市南部に広がる丘陵である。児玉丘陵は三つの丘陵から成っていて、中心になるのは東西二つの丘陵である。西半分は生野(なまの)丘陵、東半分が浅見丘陵と呼ばれる部分で、100ヘクタールほどの面積を有する。生野丘陵はゴルフ場、浅見丘陵は早稲田大学本庄キャンパスとなっている。両丘陵は独立しており、間の平地には水田が広がっている。
 この水田の中にある小さな丘陵が鷺山である。面積は3.4ヘクタールほどしかないような小高い丘で、明治時代に郷土誌を著した河田羆は鷺山について「高さ44尺、共和村下浅見の南にあり、水田間に孤立し、鷺鳥多く集まるを以て此の名あり」と記している。高さ44尺(およそ13m)は周りの水田からの高さを表したものである。
所在地    埼玉県本庄市下浅見鷺山
区  分    埼玉県県指定史跡 
古墳規模   全長約60m、後方部幅約37m、同高約5.4m、前方部最大幅約30m  
埋葬者    不明
築造年代   4世紀前半?


            
 大久保山丘陵と生野山丘陵との中間にある小さな独立丘陵上にある全長60mの前方後方墳。但し埼玉県の文化財マップの遺跡詳細情報では前方後円墳と記載されている。
 古墳を時期区分する場合に用いられる分類名称で表現すると古式古墳(古墳時代初期の古墳)という。日本列島には500基ほどの前方後方墳が存在するらしいが、こと東日本に関していうと、東日本の前期古墳の多くは前方後方墳だということが分かってきている。特に下野国は100mを越える前方後方墳の数が4基、西隣の上野国にも2基存在し、どちらも築造年代は古墳時代前半で、大型の前方後円墳の出現前に築造されている。
 撮影時期が8月のため草木が丘陵地辺りを覆っているため、前方部も後方部も古墳なのかどうかも実見した第一印象はまったくしない。県内最古の前方後方墳で重要な古墳と思われるが説明等の案内板の類は一切無いのは寂しい。
            
                            鷺山古墳の標識
 鷺山古墳は東西方向におよそ150m、南北方向に500mほどの周囲の水田面から比高差7mで「く」の字形の小高い丘の頂点に築かれており、後方部の墳丘の頂点に標高84.42mの三角点がある。 鷺山古墳の全長は約60m、後方部の墳丘の高さは5.4m、後方部の一辺が37m、くびれ部の幅11mで前方部につながる。後方部は、厳密に方形ではなく、隅の部分が切り落とされたプランを呈している。
 前方部は初期古墳独特の墳丘が低いばち型(扇状にひらく形)で、10.5mまで後方部に対して74度でひらき、35度に屈曲しながら13mほど外側にひらく。前方部前面の最大幅は、30mである。前方部の盛土は後方部に近い部分が高くされ、標高80.3mであった。前方部全面の扇形に広がる部分は一段低くなっている。周溝がほぼ全周すると考えられ、幅は4.3m、深さ1mほどである。
 前方部と後方部をつなぐくびれ部の西側の周溝から焼成前底部穿孔の二重口縁壺が出土した。口縁部直径25cm、口縁部下端18cm、胴部の最大径が28.5cm、器高34cmで焼成後に赤彩されている。口縁部の「縁帯」の幅は8cmをはかり、直径1.8cmほどの円形の透かし孔が6対計12個あけられている。底部は6.4cmで焼成前に予めあけられた孔となっている。 そのほか、完形品の碗型土器、二重口縁壺の口縁部破片や、東海地方独特のS字状口縁台付甕の胴部と脚部をつなぐ部分の出土など初期古墳の特色を示す遺物が出土している。二重口縁の壺型土器と碗型土器は葬送儀礼の際に用いられ、墳丘に置かれたものが転落して周溝から発見されたと考えられる。
                                                  ウィキドペディアより引用
 

         
         標識の側面にはこの古墳の概要が書かれていて案内板も兼ねているようだ。

史跡 鷺山古墳
 この古墳は、一辺が約37メートルの後方部と撥型に開く前方部によって構成される。

 全長60メートルの前方後方墳である。この古墳からは、底部穿孔の壺形土器等が出土しており、4世紀前半の築造と推定される埼玉県内最古の古墳と考えることができる。
                                                     案内板説明文より引用
           
                  別角度から見てもわかるかどうか判別しない。
 標識の前には使用しているのかどうかも解らないトラクターが無造作に置かれている。数日後に再来訪した時も同様だった。遺跡整備にお金をかけながら、現状はあまり良くない状況だ。
 埼玉県内最古級の古墳でもあり、県の記念物・史跡に指定されている文化財でもある。もう少し整備等に力を注いでもらいたい、と正直感じた。

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長坂聖天塚古墳

 長坂聖天塚古墳は埼玉県児玉郡美里町関に所在する5世紀前半の円墳である。諏訪山丘陵の西の裾の小台地に独立して築造されていて、昭和49年の発掘調査では、武蔵国内でも珍しい墳頂から6つの主体部が発掘され、多くの副葬品が出土した。また墳丘東側からは幅4m、深さ0.5mの周溝が検出された。
 第1主体部から出土した
方格規矩鏡は直径22.5cmの大型品で、出土鏡としては県内最大である。これらの出土品は一括して昭和51年3月30日付けで県指定有形文化財に指定された。墳丘から出土した土師器から、5世紀前半の築造と推定されている。
 県内では初期古墳の代表的なもので、この地方の古墳発生を知るうえで重要な古墳として位置づけられている。
所在地     埼玉県児玉郡美里町2044-1
区  分     諏訪山古墳群 県指定有形文化財
古墳規模    直径60m  高さ4.5mの円墳
埋葬者     不明
築造年代    5世紀前半

       
 長坂聖天塚古墳は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、山崎山、諏訪山両丘陵地の間を越えた最初の信号を左折すると左側に見えてくる。この古墳は分類上諏訪山古墳群に属しているようだが、諏訪山丘陵上に多数存在する古墳本群からは、やや離れた西裾部に独立して築かれているようにも見える。写真でも分かるように、道路に面して古墳であるため、道路沿いはまず削平されたものと考えられる。
          
 江戸時代には墳頂上に聖天社が祀られていたことから聖天塚と呼ばれ、道路の拡張のため昭和49年に発掘調査を行ったところ、粘土槨3基、木棺直葬3基、菱雲文縁方格規矩鏡などが見つかり県の指定史跡の指定を受けた。
          
 長坂聖天塚古墳
 美里町周辺の丘陵には、多数の古墳が見られる。山崎山丘陵の西裾には諏訪山古墳群があり、長坂聖天塚古墳はその一つである。昭和49年に発掘調査を行ない、次のような事実を確認した。
墳丘は、自然の丘を整形し、1mほど盛り土をして墳頂部をつくり。あわせて高さ4.5m、直径50mの規模にした円墳である。埋葬施設は、粘土槨三、木棺直葬三の六か所がある。仿製方格規距鏡が出土した粘土槨は長さ7m、幅0.7mもあった。
 遺物は、仿製方格規距鏡、獣形鏡、鉄製の刀子・直刀片、ガラス製小玉、滑石製の勾玉・刀子・有孔円板・臼玉などで、これらから古墳の築造年代は、五世紀前半と考えられている。
 鏡をはじめとする優秀な副葬品は、この古墳の被葬者が志戸川流域を支配した権力者であったことを推定させる。
 県内では初期古墳の代表的なもので、この地方の古墳の発生を知る上で重要である。
                                                                                                   埼玉県教育委員会掲示より引用
           
 この古墳の被葬者は一体どのような人物だったろう。 少なくとも志戸川流域の統治に成功し、権力をもつに至った氏族の"長"であるのは確かだろう。ただ、六基の埋葬施設を備えた多榔墓は、武蔵国内でも珍しい。埋葬された六人は、代々の盟主なのか、それとも一家六人同時期に埋葬されたか、謎とされている。いずれにしても、千五百余年前のこのあたりの繋栄ぶりを伝える遺構であることは間違いない。本庄市下浅見地区にある鷺山古墳(築造年代3世紀末~4世紀初頭)との関係も含めてこの地域は非常に魅力的だ。

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阿那志河輪神社

 河輪神社は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山に鎮座している。「河輪」という一風変わった地名の語源は曲流を意味し、志戸川の曲がりくねっている内側にある低地を意味しているという。
 嘗てこの河輪地域には河匂(かわわ)氏という豪族がこの一帯を領有していたという。河匂氏は武蔵七党の猪俣党の流れを汲む豪族で、小野篁の末裔を称す横山党の一族である。この河匂氏は児玉郡の古郡と阿那志の間にある川輪に住んだことから河匂と名乗ったと云われている。
 美里町にある諏訪山の河輪神社の社伝によると武蔵七党の一つ猪俣党河匂氏の本貫地として、河匂七郎、河匂左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行ったという。 

        
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町阿那志1663
             ・御祭神 淤迦美神 (相殿)健御名方命 八坂刀売命
             ・社 挌 旧阿那志村鎮守 武蔵国式外社
             ・例祭等 祈年祭 225日 例祭 45日 秋祭り 1015
                  新嘗祭 1125日 師走大祓 1225
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1859014,139.1928848,15z?entry=ttu 
  阿那志河輪神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、山崎山、諏訪山の丘陵地の間を越えた関集会所のすぐ先のT字路交差点を左折する。その後長坂聖天塚古墳付Y字路字路になるので、そこを左折し、そのまま道なりに500m程進むと、再度Y字路になるので、そこを左折すると200m程で左側に阿那志河輪神社の鳥居が見えてくる。
 残念ながら駐車スペースが見当たらないので、鳥居から北東方向に伸びる農道に路駐をして、急ぎ参拝を行った。因みに北東方向に伸びる農道の先に社の参道らしい標柱が見える。もしかしたら嘗ての参道の名残りかもしれない。
            
           正面 諏訪山の麓から平野部にかけて河輪神社の参道は伸びている。
 河輪神社は一説によると『日本三代実録』に「清和天皇の貞観17年(875)12月5日、武蔵国正六位上河輪神に従五位下を授く」と記されているが、この河輪神が阿那志河輪神社という説もある。ただ横浜市都筑区川和町に鎮座する川和八幡神社も同じ武蔵国にあり、神社を祀る場所の字名を河輪森といい、ここも古くから河輪神社と主張していて、現在どちらが真の河輪神社であるか検討の余地はある。
 河輪神社は武蔵国の多くの神社の中にあって、俗にいう「式外社(しきげしゃ)」と言われている。この式外社というのは、平安時代編集された延喜式神名帳に記された全国の神社の意味を持つ「延喜式内社」または単に「内社」と言われる社に洩れた神社で、当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社といい、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社等が含まれるという。
           
                         諏訪山の麓付近に建つ鳥居
     
 河輪神社一の鳥居を過ぎると、拝殿まで登り斜面の参道(写真左)が伸びている。標高113mの頂上まで石段を登ることになる(同右)。登り詰めると鮮やかな赤い社殿の河輪神社に到着する。写真を見ると明るそうに見えるが、これは冬時期で、一体の森の葉が落ちているため、光が差し込んでいるが、新緑のシーズンとなると、この参道は昼間でもほの暗くなる。ともかく第一印象とても武蔵国の由緒ある式外社とは思えないのが正直な感想である。
           
              やっと社殿が見えてくる。社殿は諏訪山の山頂部にあたる。
 河輪神社が鎮座する諏訪山は美里町と寄居町の境界にあるが、独立した山ではなく、埼玉県道75号線を境にして北は山崎山丘陵、そして南側に諏訪山丘陵が広がり、その標高の一番高い場所が諏訪山と呼ばれている。
           
                    朱色ではなく赤が基調の河輪神社拝殿正面
 境内は意外と広く、社務所や神楽殿などもあり、登り斜面の参道を進む際に感じた心寂しい印象とは対照的な趣のある北向きの社。だがその神聖な静寂とは別に、すぐ南側にはゴルフ場が広がる。同じ面でもこの人工的な緑はなにか異質でもあるが、逆に考えると古(いにしえ)の文化遺産と現代社会の風景の微妙なコントラストを直接的に感じることができる貴重な体験も同時に味わうことができた。
              
                                案内板
河輪神社 御由緒   美里町阿那志一六六三
□御縁起(歴史)

  当社は『三代実録』に記載されている「河曲神社」と想定され、いわゆる国史現在社と考えられる。鎮座地は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山である社伝によると、延暦20年(801年)坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当社に祈願したというその後、武蔵七党の猪俣党河勾氏(かわわ)の本貫地として、河勾七郎・河勾左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行った。次いで、慶長年間(1596-1614年)には地頭安藤彦四郎が信州の諏訪神を合祀し、別当光勝寺を祈願所としてより諏訪神社と改称したという。以後、江戸時代は諏訪神社と称した
当社は雨乞いに霊験あらたかといい、干ばつ時には代官が近在近郷の官吏を従えて祈雨祭を実施し、旗本安藤氏より褒賞されている。明治十九年には、社号を旧名に復すとして社号改称願が県令に提出され、同二十八年に河輪神社に改称した。また、同三十三年と三十五年には郷社昇格願も提出されている。
  主祭神は淤迦美神で、合殿の神に健御名方命と八坂刀賣命が祀られている。境内社は、三和神社・二柱神社・若宮八幡神社をはじめ、明治四十年に字新井より移転した北向五社の一つである北向神社、字天神に祀られていた赤城神社・妙義神社・榛名神社・天手長男神社、同四十一年に字横手の御嶽神社、字塚田の富士仙元社を移転した

                                                            案内板より引用
 
 拝殿正面上部に飾られていた神社名を記した額             境内にある神楽殿
  拝殿上部に飾られている額には神社の正式名
   「国史現在社河輪神社」と書かれている。

 ここに記されている「国史現在社」とは、10世紀の初頭にまとめられた《延喜式》には,全国で2861の神社,3132座の神名が記載されているが,そこに見える神社を後世式内社、また単に内社といい、式内社以外に六国史に名が記されている神社が391社あり,式外社であるが六国史にその名前が見られる神社のことを特にそれらを「国史現在社」といい、式内社に次ぐとされた。
 (但し式内社以外に六国史に名が記されている神社のほとんどが式内社であるため、通常は式外社として言われているようだ。)
 
                    社殿の奥にある境内社(写真左、右) 
 河輪神社周辺には河輪神社古墳群が存在している。埼玉県の遺跡マップによると、諏訪山古墳群は帆立貝型古墳1基と12基の円墳で構成される。箱式石棺を主体とする古いもの間あるが大半は横穴式石室を主体としない古墳群。諏訪山は住人達の墓域であったのであり、古くから継続的に営まれた神聖な場所であったのだろう。
        
               河輪神社社殿の左側にある径30mの円墳である河輪神社古墳

 諏訪山古墳群は諏訪山の稜線に沿って南西-北東に細長く広がっている。河輪神社古墳は諏訪山古墳群の中では、諏訪山古墳、諏訪山古墳2号墳に次ぐ規模の古墳。墳頂には「八海神社 御嶽神社 三笠神社」と刻まれた石碑が建てられている。この古墳は手入れがされていて、山中の古墳としては抜群に管理が行き届いていて、周囲を散策することができる。
 ちなみに諏訪山古墳は河輪神社から南西方向の諏訪山の屋根をたどるとある。径39m、後円部径30m、同高4m、前方部幅18m、同高1mの帆立型前方後円墳。旧岡部町と美里町の境界に位置し、舗装されていない道路によって後円部が分断され半壊状態となっている。年代的には埴輪の特徴などから5世紀終末期と推定される。近隣には長坂・河輪の両聖天塚があり、その有力首長の流れを受け継ぐ古墳であるかどうかは現在はっきりわかっていないという。 
       
             境内にある御神木               参道の途中にあった立派な杉
                                      境内にある御神木より立派なため撮影

 河匂氏は武蔵七党の猪俣党の流れを汲む豪族で、児玉郡の古郡と阿那志の間にある川輪に住んだことから河匂と名乗ったといわれている。この河匂氏の始祖は小野篁であるが、何故武蔵国北部に土着した横山党の一派でしかない河匂氏の信奉した河輪神社が武蔵国の式外社、または国史現在社として中央の正史に名を連ねているのだろうか。真にもって不思議な社だ。
 


 

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