古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

菖蒲神社

 菖蒲神社が鎮座する旧菖蒲町は人口2万2679(1995)。元荒川,星川,見沼代用水などが北西から南東に流れ,自然堤防と後背湿地に水田が広がる。中心集落の菖蒲は星川東岸の自然堤防上にあり,江戸時代は2・7の日の六斎市が立ち,米,農具,木綿などの取引でにぎわった。自然堤防上ではナシ栽培が盛んであったが,近年は〈埼玉ダナー〉で知られるイチゴの産地でもある。平成22年の大合併で栗橋町や鷲宮町と共に久喜市に編入された。

所在地  埼玉県久喜市菖蒲町菖蒲552
御祭神  袋田大明神(奇稲田姫命) 鷲宮大明神(武蝦夷鳥命) 久伊豆大明神(大己貴命)
社  挌  旧村社
例  祭    毎年1月15日 左義長(三毬杖) *小正月に行われる火祭りの行事
 

       
 菖蒲神社は埼玉県久喜市菖蒲町、埼玉県道12号川越栗橋線の菖蒲宮本交差点の角に鎮座する。但し交差点付近には駐車スペースがない為、車で社に向かうためには交差点の手前のT字路を右折しなければならないのでそこは注意が必要だ。
 古くは袋神社、袋明神社とも呼ばれ、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)を御祭神とする神社。現在の御祭神は袋田大明神、鷲宮大明神、久伊豆大明神の三神で、五穀豊穣、厄除、病気平癒に霊験あらたかとかいうらしい。
           
                   菖蒲神社の入口である二の鳥居から境内を撮影
           
                  二の鳥居の先、左側にある菖蒲神社の案内板

菖蒲神社                  所在地 南埼玉郡菖蒲町大字菖蒲

 菖蒲神社は、古くは袋田者、袋田明神社とも呼ばれ、奇稲田姫命を祭神とする神社で、境内は東西二十五間(約45m)南北四十三間(約77m)で、面積は1,715坪を有していた。
  現在の祭神は袋田大明神、鷲宮大明神(武夷鳥命)、久伊豆大明神(大己貴命)の三神で、五穀豊穣、厄除、病気平癒に霊験あらたかという。御神体は銅鏡で、本地薬師の像が彫られており、裏に寛文九年(1669)九月の銘がみられる。
 新編武蔵風土記稿には末社として稲荷天神合社、雷電社、大黒天金毘羅秋葉聖徳太子合社があり、ほかに村内には稲荷社(村民持)、愛宕社(慈眼院持)、若宮八幡社、三所権現社があったと記されている。毎年一月十五日には、注連飾やお札を持ちより左義長が行われる。左義長は「どんど焼き」ともいわれ、長い竹数本を立て、門松や書初めなどを焼き、その火で焼いたモチを食べると一年間の病が除かれるというものである。
 なお、三月下旬から五月下旬までの二、七の日には、鳥居前の通りに植木市が立ち賑っている。
 菖蒲町教育委員会
                                                                                                               案内板より引用

 また鳥居を入った右側の境内の一角は、休憩所が設けられていて、その前に、菖蒲神社の絵馬の説明書きの案内板あった。
           

菖蒲町指定有形民俗文化財 菖蒲神社絵馬 六面

 指定年月日 平成四年三月二十三日 所在地 菖蒲町大字菖蒲五五二 所有者 菖蒲神社
 菖蒲神社は、「新編武蔵風土記稿」によれば、「袋田明神社 祭神は稲田姫命と伝」とあります。
 同社には現在六面の大絵馬が残されています。三面一組の「百人一首」や、町内で唯一の「飾馬」、幕末の狩野派の絵師伊白榮厚の描いた「鞍馬山」などです。
 「百人一首」は、天明八年(一七八八)五月、平沢喜兵衛ほか百名の伊勢大々御神楽講中によって奉納されています。三面に百枚の絵札を描く、ほかに例を見ない珍しい絵馬で、百人の奉納者が一首ずつ奉納するという形式をとったものです。絵師は藤原守直、細工人は辻幸八とあるほか、執筆が道祖土負栄とあります。
 「鞍馬山」は、画題としては珍しいものではありませんが、細工人斉藤八五郎により荘厳な大型の絵馬に仕上げられ、絵師伊白榮厚が下絵を描き川原塚白泉が彩色するという大掛かりな作品となっています。伊白榮厚は、上新選久伊豆神社・台久伊豆神社など町内に六面の作品を残していますが、「狩野」を名乗るのはこの絵馬だけです。裏書には、天保九年(一八三八)、穀屋茂吉など十六人の証人と思われる人々の名前が墨書されています。
 天明八年(一七八八)八月吉日奉納の「飾馬」は、中央の白馬と左右に配された黒馬が三頭向かい合う構図で描かれたもので、町内に唯一残された絵馬らしい絵馬です。嘉永五年(一八五二)五月の「神宮皇后」と合わせて、江戸中期以降見沼通船で栄えた町の様子を伝える資料として貴重です。
 菖蒲町教育委員会
                                                       案内板より引用

 休憩所の並びには県指定天然記念物の樹齢300年と言われる「野田フジ」があり、大正天皇の即位にちなみ「君万歳の藤」と名付けられた。根周りは約9mで、4月末~5月はじめのゴールデンウィークの頃の開花時期にはみごとな花をさかせるという。残念ながら今回は9月の参拝だったので見ることができなかったが、次回にはその見事な藤を見てみたい。
           
               「埼玉県指定天然記念物菖蒲のフジ」の明記された標石

 二の鳥居の正面には社殿がある。開放的な社の雰囲気は大変気持ちよく、街中にある神社としては比較的境内は広く、ゆっくりと散策できる。
           
                             拝    殿
 
           
                             本   殿 

 本殿の左側には境内社が並んでいる。
 
             八雲神社                八雲神社の並びには大黒社稲荷社・聖徳社・                                                                                            庚申社・琴平社・八雲神社がある。

  菖蒲神社が鎮座する久喜市菖蒲町地区は名前こそ「菖蒲=あやめ」と可憐な印象を与え、菖蒲町新堀にある菖蒲城址は現在あやめ園として毎年6月上旬から中旬にかけて35,000株の花菖蒲が見所を迎えるほど名前通りの「あやめの町」として有名な地域だ。ただこの地域の歴史をひも解いてみると利根川、荒川等の河川に囲まれた氾濫原の地形ゆえに昔から鎌倉幕府等、時の為政者たちが開発を進められた地域であり、長年の周辺の河川の氾濫により形成された自然堤防から外れた加須低地の中の埋没ローム台地上にあるため当時の開発に携わった多くの人々の苦労も並大抵ではなかったと想像される。

 また社から県道12号を南下すると菖蒲町字陣屋には菖蒲城址がある。
            
 現在は城址の遺構は全く残っていない。ただ一面の水田の中に「菖蒲城址あやめ園」があり、そのなかににぽつんと残る城址の標石と江戸時代にこの辺りを治めた旗本内藤氏の陣屋門が存在するだけだ。ただ築造当時は北・西・南に深い湿地帯となっていて、この地形を利用して対上杉氏に備えていたらしい。(但し埼玉郡に所属する古墳や神社、城のほとんどは沼地や湿地帯の微高地に築造されている。ある意味埼玉県東部の地形上の宿命なのだろう)
 その名前の由来として室町時代には古河公方足利成氏の家臣金田式部則綱が、対立する関東管領上杉氏に対する最前線として構えた際に城の完成した日が菖蒲の節句だったので、その名がついた説や、享徳4年(1455年)6月、足利成氏が室町幕府および管領上杉氏との抗争の過程で、鎌倉より古河へと転戦する際に「武州少府」に一時逗留した旨の記述があり、この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説もある。
 天正18年(1590)小田原の役では、秀吉方に攻められ周辺の城とともに落城。その後廃城となり、江戸時代に入ると旗本内藤氏が陣屋を構えた。なお初代内藤正成は徳川16神将の一人に数えられる。


 菖蒲神社を調べていく途中、気になったことがある。菖蒲町地区を含むこの久喜市には「久喜断層」が存在している、ということだ。この久喜断層は元荒川構造帯という久喜断層から綾瀬川断層の間の沈降地形のことをいうそうだ。2005年から実施された産業総合研究所の久喜断層調査では、断層帯での地下水成分の違いが見られるものの活断層の可能性は低いと考えられる。
       

 また綾瀬川断層は活断層であるが地震の発生確率は低いと考えられている。しかしこの断層の北西延長には西埼玉地震(S6.M=6.9)を引き起こした深谷断層があり東京湾方向の断層と連動しマグニチュード8級地震を懸念する研究者もいる。

 滝宮神社の項でも述べたことだが、日本は地震大国であり、火山大国でもある。埼玉県はこのような自然被害は他県に比べると少ない県と言われているが、それでも日頃の防災意識は必要だ。筆者の自宅には熊谷市の洪水ハザード、地震ハザードを貼り付けており、非常時の対策を万全とは言えないが行っている。東日本大震災の教訓を学び、その対策や備えを日頃から各家庭のレベルでも行わなければいけない、そういう時期が来てしまったのかもしれない。寂しい限りだ。


                  

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知形神社

 知形神社の鎮座地は「田中」で、古来より交通の要衝と言われていた。それ故か吉田東伍の『大日本地名辞書』には、「延喜式幡羅郡田中神社はこれなるべし。然るに近世この村 榛沢郡の所管なりしかば、三ヶ尻の田中天神を以て式内に擬せるも、村名にも後世まで存するを想へば、此なる知形明神ぞ式内ならん云々」とあり、幡羅郡の延喜式内社・田中神社に比定している。さて真相はどうであろうか。

所在地   埼玉県深谷市田中612-1
御祭神   彦火瓊瓊杵尊、思兼命  (合祀)菊理姫神 伊弉諾尊 伊弉册尊
社  挌   旧村社
例  祭   10月15日 秋祭り


       
地図リンク
 国道140号線秩父街道から武川交差点で県道69号深谷嵐山線を南下すると、応正寺の西側に知形神社が鎮座している。境内の殆どはゲートボール場になっており、日中は地域のコミュニティの場としてこの神社が存在していているようだ。
 境内周囲には木々が茂り、社殿左側には沢山の末社が纏められている。無形民俗文化財指定の「知形囃子」が奉納される神社として知られている。
 
                             社号標                                           境内の様子 鳥居の形式は明神鳥居
                              
  例祭では、享保年間から氏子により始められたと伝わる、無形民俗文化財指定・知形囃子が奏されている。

知形囃子(昭和三十七年十二月二十五日指定)
 享保九年(1794年)頃知形神社の氏子により受け継がれたものである。毎年七月十五日夏祭りに十一の廊を神輿の渡御の先導になって奏でられたもので知形の囃子、馬鹿囃子、街道下り三曲よりなっている。秩父囃子の源流といわれ、よく似ている.
                                                                                                                     案内板より引用
          
                             拝   殿
 拝殿の向かって左側に境内社がある。
          
 左手前から八坂神社、諏訪神社、琴平宮、雷電神社、見目神社、(?)、手長神社、稲荷神社、八幡神社、荒川神社、金山神社、天満宮、愛宕神社。
 また反対側には御神木の幹に2つ石祠があったが、カメラの容量の関係で撮影できなかった。


 歴史学者、民俗学者で有名な柳田國男の著書「定本 柳田國男集」によると、「ちかた」とは、門神、門を守護する神のことであるという。古語拾遺に「豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門を守衛らしむ。是並、太玉命の子也」とある。深谷市の智形神社の祭神(配祀)が天太玉命であるというのは、このことと関連するのだろう。また天太玉命は、主神の瓊瓊杵命が天降ったときの伴の五柱の神の一柱でもある。

 川本町田中の地は、東西に熊谷と秩父、南北に深谷と嵐山を結び、さらに荒川水流を臨む交通の要所という。この地に知形神社が鎮座しているということは、何か深い意味があることなのだろうが現状それ以上の考察は不明だ。


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本田春日神社、大天白神社

所在地   埼玉県深谷市本田2025
社  格   旧村社 
祭  神   武甕槌命、経津主命
由  緒   天平20年第四十五代聖武天皇の御代748年の昔より
        下本田の鎮守として氏子の信仰の篤い神社。
例  祭   10月15日 秋祭



地図リンク
 春日神社は埼玉県道69号線を嵐山方向へと進み、本畠駐在所交差点を左折、そこから約1km先に鎮座する。
  
     社号標柱 参拝日平成24年4月25日         社殿や境内社も良く手入れされている。

                    拝   殿
 
                                         本     殿
     拝殿も本殿も比較的新しい。つい最近再建したのではないのか。

  ちなみに本田春日神社は天平20年(748)に河内国の枚岡神社を勧請したものといい、古くは「枚岡神社」と称したという。奈良遷都のとき、藤原氏は氏神として同神社を奈良春日山にまつって春日神社としたことから、当社も「春日神社」と改称したという。

 
       左より鹿島神宮、稲荷大明神、社日神社                                    八坂神社
  
         天満天神社(右)と天満自在天神碑                      合祀社、左から古峯神社、八幡神社
                                                                               雷電神社、山之神社、冨士浅間神社
 
  この社は、道路沿いから一本細い路地に入った場所に鎮座していた。決して目立たない位置にありながら、境内はきちんと整備されていて居心地の良い空間がこの一帯に存在していた。このような地域に根付いた社が、これからも地方の文化財として後世に長く伝えてもらいたいと参拝中感じさせてくれる、趣のある良い神社だった。


 川本春日神社からほぼ真東に約1km程、また鹿島古墳群の南東約400mほどの場所に大天白神社がある。残念ながらこの社に案内は無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明だ。

大天白神社
地図リンク


                   拝   殿
        
               拝殿内にある本殿                                       合祀社  詳細不明

 祭神は北に荒川、西に吉野川が流れていることから水神なり河川神なりであるのではないか。すると瀬織津姫命など祓戸神あたりと推測される。


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鹿島古墳群

 鹿島古墳群は荒川に沿って南北約300m、東西約1200mの範囲に100基以上の古墳で構成された荒川右岸最大の古墳群である。ほとんど円墳で構成されているが、鹿島73号墳のみ方墳である。西側吉野川沿いの台支群、中央の鹿島支群、東側の枚方支群の3つの支群に分けられる。昭和47年に54基が県の史跡に指定された。平成5年古墳公園を建設する「保存整備基本構想」が策定された。

 
6世紀後半に築造が開始され、7世紀前半に全盛となり、8世紀初頭まで継続されたと推定される。

       
地図リンク
 所在地 大里郡川本町鹿島

 荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。
 現存する古墳五十六基は、小円墳がほとんどで荒川に近い古墳には埴輪を持っているものがある。
 昭和四十五年に圃場整備事業に伴い県教育委員会により二十七基の古墳が発掘調査されている。主体部は荒川系の河原石を用いた若干胴の張る横穴式石室で玄室には棺座を設けたものも見られた。天井、奥壁は緑泥片岩を使用していた。玄室と羨道の比は、二対一となり三十センチメートル(漢尺)の定尺となるものが認められている。
 出土遺物には、玉類が少なく、鉄鏃、直刀、刀子、耳環などが多く出土している。
 古墳の年代は奈良時代初期の住居跡の上に古墳が構築されているものがあり、七世紀初頭から八世紀初頭にかけてつくられたものと推定される。
 古墳の埋葬者は、在地において先進的な役割を果たした豪族であろうと思われる。
 荒川旧流域を代表する最も保存の良い古墳群で、埼玉県古墳文化の地域研究の上で貴重なものである。昭和四十七年三月二十日、県の史跡として指定されている。

 平成十一年九月 埼玉県

 この古墳群は、いまから約1400年前に築かれた川本周辺の有力者の墳墓で荒川右岸段丘上に東西約1キロわたって帯状に分布している。古墳は径10m~30m程の円墳で、荒川よりに密集して分布し、大水によって流された古墳も数多くあったと伝えられている。


 現在、県指定地の中には56基の円墳が保存され、指定地南側で発掘された27基の古墳やすでに失われた古墳をあわせると100基を越す大古墳群であったと推定される。埴輪が立てられた古墳は少なく、7世紀を中心に8世紀初頭に至るまで次ぎから次ぎに築造された古墳時代最終末の古墳群と考えられている。  この古墳群は7世紀から8世紀にかけて・・というのが定説だったけれど、最近では6世紀中頃にさかのぼるとされた。2000(平成12)年新しく古墳が発見され、30年ぶりに発掘調査が行われ、年代が6世紀中頃まで遡ることが分かったのである。
           
 鹿島古墳群は、荒川右岸の河岸段丘上に東西約一キロに渡って帯状に分布しています。古墳は径十メートル~三十メートル程の円墳で、荒川よりに密集して分布し、大水によって流された古墳も数多くあったと伝えられています。
 現在、県指定地の中には五十六基の円墳が保存され、指定地南側で発掘された二十七基の古墳やすでに失われた古墳を合わせると百基を越す大古墳群であったと推定されます。埴輪が立てられた古墳は少なく、七世紀を中心に八世紀初頭に至るまで次から次に築造された古墳時代最終末の古墳群と考えられています。
 川本町には、鹿島古墳群のほかにも箱崎古墳群・塚原古墳群島が分布し、合計二百基近い古墳が確認されています。また、奈良時代には周辺に古代寺院や集落遺跡が発見され、古墳時代から奈良時代にかけて、この地域(男衾群)の中心地として栄えていたようです。
 鹿島古墳群は、この地域の歴史を代表する貴重な遺跡として、昭和四十七年に埼玉県指定史跡に指定され、現在広く活用していただくために古墳公園として整備を進めています。

     埼玉県教育委員会
     川本町教育委員会
 


       
 古墳とは今から千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓で、土を高く盛り上げて、その内部に遺骸を埋葬する場所が設けられています。
 古墳の形は、平面形から前方後円墳や円墳、方墳などと様々な形がありますが、鹿島古墳群は円墳だけで構成されています。この様に小さな円墳が密集する古墳群を特に「群集墳」と呼び、鹿島古墳群はその規模から県内を代表する群集墳です。
 鹿島古墳群では、遺骸を埋葬する施設として荒川の河原石を積み上げた長さ四メートル、幅二メートル前後の楕円形の石室が築かれています。また、出入りできる入り口が設けられ、こうした石室を横穴式石室と呼びます。この石室には遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬されました。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土しています。
 また、墳丘の表面は河原石で飾られており、築造された当時は草や木に覆われた現在のイメージとは異なった、白く輝く荘厳な姿であったようです。

     埼玉県教育委員会
     川本町教育委員会


  鹿島古墳群は、今を遡ること千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓という。ではその豪族はどのような氏族だったのだろう。今までの古墳の調査により以下のことがわかっている。

 1 この古墳群は少なくとも6世紀中頃~8世紀初頭まで一貫して同じ敷地内に建造されている。
 2 古墳の形態が変わっておらず、全て円墳なこと。大きさも径10m~30mくらいで、古墳には葺石を敷き詰めている。
 3 古墳の周りに埴輪等など立てられた形跡のあるものが極端に少なく、逆に太刀などの武器具が多く出土している。
 

 鹿島古墳群は荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び 河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。この分布は何を物語っているか。およそ約200年間という長きに渡る統治期間は、一地方豪族とは言え古墳時代から奈良時代にかけて、この地域(男衾群)の中心地として栄えていたことが推測される。また、奈良時代には周辺に古代寺院や集落遺跡が発見されていることでも、この勢力の大きさを推し量ることができるのではないだろうか。
 またこの古墳の石室の内部には、遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬された。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土している。従って、武装集団として割拠していたとも想像できるのである。

 鹿島古墳群が築造された当時の地形上の状況も考慮しなければならない。この地域は平野部と台地との境界に位置していて、北側、東側は平野部、西側、南側は台地である。北側は荒川が天然の境界線となっており、その先には田中神社や三ヶ尻八幡神社のような式内社が鎮座している。この神社の祭神はそれぞれ武御雷神、ホムタワケ神(応神天皇)だが本来の祭神は違っていたのではないか。出雲乃伊波比神社の項でもいったように元は出雲族の一族ではなかったかと考えるが詳しいところは不明だ。
 

 



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虚空蔵山古墳

所在地    埼玉県行田市小見104
区  分    埼玉県選定重要遺跡
埋葬者    不明
築造年代   6世紀後半(推定)


地図リンク
 小見真観寺古墳から県道を挟んで北側に虚空蔵山古墳がある。
 墳長50mほどの前方後円墳だったと見られているが、ほとんど削平されてしまい、現在は前方部の一部分のみが残っている。近年、後円部と周溝の一部が確認され、 周溝内から笑い顔の女性の埴輪・馬形埴輪・ 太刀形埴輪の破片が発掘された。

 

虚空蔵山古墳

 虚空蔵山古墳は、小見古墳群に属する前方後円墳で小見真観寺古墳の北西に隣接して位置しています。
 残念ながら現在は前方部の墳丘の一部が残るのみですが、平成20年の発掘調査で、後円部と周溝の一部が県道の東側で確認され、推定墳長約60mの前方後円墳であったことが明らかになりました。周溝内からは大きな乳房を持つ笑い顔の女性の人物埴輪、馬形埴輪、太刀形埴輪、円筒埴輪などの破片が出土しています。
 埴輪の形態から小見真観寺古墳に先行して6世紀後半に築かれた古墳であると思われます。
 なお、現存する墳丘は東西26m、南北19m、高さ約3m、墳頂には名前の由来となった虚空蔵菩薩がまつられています。
                                          行田市教育委員会掲示より引用

 尚、この古墳の埋葬主体部は、巨大な緑泥片岩の板石を使用した横穴式石室があったとされ、現在真観寺境内の樹木の下付近にある。

                      
 虚空蔵山古墳は小見真観寺古墳とほぼ隣接して築造されている。前出した真名板高山古墳は小見真観寺古墳と同じ東西に主軸をもつ古墳で、築造年代がほぼ同じ。この6世紀後半は埼玉古墳は鉄砲山古墳(全長109m)、真名板古墳(全長127m)、小見真観寺古墳(やや遅れて7世紀初頭、112m)とこの狭い行田地域は大型古墳の建設ラッシュ時期でもあった。虚空蔵山古墳は小見真観寺古墳より埴輪の形態から小見真観寺古墳に先行して6世紀後半に築かれた古墳であると思われることから親子の関係があったのかもしれない。少なくとも、状況的にこれらの古墳を築造した埋葬者たちは埼玉古墳群を生で見ていただろうし、そして意識して意図的に古墳を造った、と考えていいと思う。ただしその埋葬者が埼玉古墳群の埋葬者たちとどのような関係にあったかは残念ながら推測のみで不明である。

    

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