古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

奈良神社

 東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)は、古代に造られた官道の一つ。当初東山道の 本道の一部として開通し、のちに支路となった道であり、上野国・下野国から武蔵国を南北方向に通って武蔵国の国府に至る幅12m程の直線道路であった。現在のどこのルートを走っていたかハッキリ分かっていないが、国道409号線ではなかったかと言われている。本来武蔵国は相模国と隣接し、東海道に編入されるべき国であったが、地形上の制約等の理由により、近江国を起点に美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国(当時はまだ出羽国はなかった)と本州の内陸国が属する東山道に属することになった。このため、道としての東山道にもこれらの国々から大きく外れたところにある武蔵国の国府を結ぶ必要が生じた。
 
普通官道は地理的制約から特定の国の国府を通れない場合、支道を出して対処するのが定石であり(例*東海道の甲斐国・山陽道の美作国)、武蔵国の場合も上野国府と下野国府との間で本道を曲げて、上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国府に至るルートが設置された。
 
その結果、上野国府~新田駅(上野国)~武蔵国府~足利駅(下野国)~下野国府というルートが採用されることになり、新田駅~足利駅間は直進ではなく南北にわたってY字形に突き出る格好となった。この突き出した部分が東山道武蔵路である。
 
幡羅郡の延喜式内社は4社で、そのうち東山道武蔵路に接している、あるいはその近隣に鎮座している式内社、及びその論社は数社にのぼる。以下の社がそれに当たる。
  大我井神社  (式内論社)
  白髪神社    (式内論社)
  東別府神社  (式内論社)
  奈良神社    (式内社)
  久保島大神社 (式内論社)

 また大我井神社のすぐ西側には妻沼聖天山歓喜院がある。高野山準別格本山であり、関東八十八大師八十八番・関東三十三観音第十六番・幡羅新四国第十三番でもあるが、元々は式内社白髪神社の社地内に斎藤実盛が聖天宮を勧請したものであったとされる。

 東山道武蔵路に沿って式内社が鎮座していることは、このルートがいかに武蔵国にとって重要な道であったかを如実に証明しているのではないだろうか。
    
地図リンク
所在地    埼玉県熊谷市中奈良1969

主祭神    奈良別命
        
(合祀)火産靈命 建御名方命 大国主命 大日霊貴命 彦火火出見命
                木花咲耶姫命 素盞嗚命 豊宇気毘売命
社   格        旧村社  延喜式神名帳 武蔵国 播羅郡鎮座 
例   祭    4月15日 春の例祭
由   緒       慶雲2年(705〉陸奥国の蝦夷反乱に際して神威を発揮
                  
和銅4年境内から湧泉あり、田地六百余町を拓く
                  
嘉祥3年(850)官社
                  
中世円藏坊修験の監下
                  
天正18年(1590)小田原落城によつて摩尼山長慶寺の配下となる
                       
明治7年2月村社
                  明治42年「奈良神社」と改称

  奈良神社は国道407号を妻沼方面へ、中奈良交差点を左折するとすぐ右側に一の鳥居がある。周りが田畑に囲まれた参道をまっすぐ進むとその先にこんもりとした鎮守の森が広がり、手前の朱色の鳥居を抜けるとその中に社がある。
              
                                                    拝殿前の二の鳥居
       
                   鳥居の扁額には「奈良之神社」と書かれている

奈良神社

 長慶寺に隣接して鎮座する。
仁徳天皇の頃に下野国造となっていた奈良別命(豊鍬入彦命の4世の孫)が任を終えて、当地を開拓。奈良郷を築いたとされる。この奈良別命を祀った。
中世熊野信仰の拡大にともなって、この地にも奈良神社と熊野権現の2社が鎮座しており、その後熊野権現を本社とし奈良神社を合祀したという。しかし関東管領両上杉氏の兵火によって社運は傾き、当社を保護していた忍城主成田氏も小田原氏滅亡後に移転し、近世期は長慶寺の支配下となった。
当社の東北500mの地点に、「和銅四年 奈良神社涌泉旧蹟」の石碑がある
           
                           拝    殿
     
            拝殿の扁額にも「奈良之神社」と表記
                   

延喜式内社 奈良神社の由来
御祭神 
奈良別命

奈良別命の由緒

「奈良別命は、垂神天皇の皇子豊城入彦命(上ッ毛野国、下ッ毛野国の祖)の四世の孫に当たり、仁徳天皇の御代に下野国の国造りに任じられ、武蔵野の沃野に分けはいり、その徳によって荒地を開き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた。そのため、郷民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。と国造本記に記されてあります。

  当社の東北一キロのところにある横塚山と呼称される前方後円墳が奈良別命の墓ともされるが真相は不明だ。
 
                        横塚山古墳全景                  横塚山古墳南側にある案内板

熊谷市指定文化財史跡
横塚山古墳
 横塚山古墳は、古墳の形態として代表的な前方後円墳であり、長軸は東西方向を向いています。墳丘は、一部消滅して現在では全長30m、後円部最大径22.5m、前方部先端幅12m、高さは後円部で3.2m前方部で2.5mです。
 妻沼バイパスの工事に伴って、昭和46年と51年の二度にわたり墳丘部が調査され、周溝の一部が確認されています。この周溝により、墳丘は本来東西40mの長さであったと推定されます。周溝の幅は、後円部南側で5.8mです。本古墳の造られた年代は、周溝内から出土した円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪によると五世紀末と考えられます。しかし、埋葬施設が調査されておらず不明な点が多く明確ではありません。本古墳の周囲は、現在、水田になっていて、他に古墳は見られませんが、付近で埴輪片や土器片が採集されます。かつては、付近に数多くの古墳があり、横塚山古墳を中心とした古墳群があったことが考えられます。                                                                                                                                                                                   熊谷市教育委員会
                                                      
                                                                                                                           
  ところで奈良神社の祭神である奈良別命は下野国一ノ宮宇都宮下都賀郡野木町の祭神である豊城入彦命の4世の孫と言われている。宇都宮二荒山神社の由緒は神社本庁では奈良別命に関して次のような記述がある。

由緒
  主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東国治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服しました。その御子孫も東国にひろく繁栄され、四世の孫奈良別王が、第十六代仁徳天皇の御代に下野の国造となられて、国を治めるに当たり、命の偉業を偲び、御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて、国土開拓の神、大物主命・事代主命を祀られました。その後承和5年(838)に現在地の臼ヶ峰に還座されました。以来、平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ源義家公、源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。
  古くは、延喜式内社名神大、当国一之宮、明治になって国幣中社に列せされ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ、篤く崇められてきております。宇都宮の町も、お宮を中心に発展してきたので、町の名も社号をそのまま頂いてきており、市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ、二荒の杜を中心に栄えてきた」と謳われています。

                                                                                 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁  
        奈良神社 境内社                   堅牢墜神(堅牢地神か)の石柱

  大田原市南金丸にある那須氏ゆかりの古社である那須神社(正式名称は那須総社金丸八幡宮 那須神社)や下都賀郡野木町の野木神社(旧郷社)も奈良別命が創建したという。また佐野市奈良淵町の町名の由来は「佐野は早くから大和朝廷の支配下にあり、豊城入彦命の東征後、奈良別王は下野国造としてこの地を統治し、奈良渕の地名はこれに因んだものという説」もあり下野国との関係が大変深い人物だったようだ。しかしこれ以上のことは全く不明で、それ以上にこの人物を祭っている下野国の神社が自分が調べた限り全くない、というのもなにか恣意的なものを感じる。

 その奈良別命が下野国国造としての任期が終了した後、たまたまなのか当地へ分け入り、なぜか開拓し、しかも横塚山古墳の推定埋葬者でも分かるとおりそこで生涯を終えたという。土民らが、その恩に感じ、徳を慕って奈良神社を創立した、とホームページ等では紹介されているわけだが

  ① 奈良別命は国造本紀(先代旧事本紀)によると毛野国が上野国、下野国に別れた時の、下野国最初の国造として登場している。ましてや豊城入彦命の4世の孫という立派な肩書きだ。創建したと言われている野木神社、宇都宮二荒山神社、那須神社は下野国の地形上それぞれ栃木県南部、中央部、北部の主要地点を抑える要衝で、この位置に神社をつくることはすなわち下野国の南北線を完全に握ること、つまり東山道の掌握になり戦略的にも利に叶うことだ。自分は改めてこの人物の並々ならぬ統治能力の高さ感じた。

 しかしこの人物を祀る下野国の神社がないということもまた事実で、大変不思議だ。また下野国の一ノ宮宇都宮二荒山神社や那須神社、野木神社も創建者である奈良別命よりもよりも豊城入彦命、坂上田村麻呂や那須与一のことが詳細に記述されている。中には創建者である奈良別命の名前すら伏せられているケースもある。

 ② 日本書紀では、崇神天皇の皇子の豊城入彦命が東国統治を命じられ、上毛野国造や下毛野国造などの祖先になったという
また、その孫の彦狭嶋王が景行天皇朝に東山道十五国都督に任じられ、その子御諸別王も引き続き、善政を行ったという。旧事本紀によると、仁徳天皇朝に豊城入彦命の4世孫の奈良別が下毛国造に任じられたというところから、代々下毛野君(しもつけぬのきみ)が国造を世襲したと言われる。ということは逆に言うと奈良別命は下野国国造として一生涯この地から外に出なかった、ということになると思われる。
 
この下野国国造 奈良別命に関しては別項を設けて改めて考えたい。

  ③ ところで先代旧事本記でも埼玉県の奈良神社の由来記では、

  「仁徳天皇の御代に下野国の国造りに任じられ、武蔵野の沃野に分けはいり、その徳によって荒地を開き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた。そのため、郷民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。」                        
                                            国造本記/慶雲二年/文武天皇の御代の記述

  とあり、「下野国の国造に任命され」、「武蔵野に地に分け入り、開墾した」と書かれてはいるが、決して「下野国の任期が終了し、当地に入って、開拓した。」つまりこの地に立ち寄ったとは全く書かれていないのである。

  ④ 延喜式内社 奈良神社は「なら」神社と言うが鳥居・拝殿の額には「奈良之神社」であり、読み方は「ならの」神社である。一般的に「なら」神社では固有名詞であるので、祭神も一人が対象になると思われるがそれに対して「ならの」神社は形式名詞なので祭神も一人である理由はないと思われる。

 つまり、下野国の国造奈良別命は下野国から出ることはなかったが、その兄弟の一族、親戚の一族か、または奈良別一族、その後裔の人物が武蔵国、幡羅郡に分け入り、開墾したならばその推理は十分あり得るわけで、だからこそ「奈良之神社」であり、奈良別一族の人物がその一族の開祖である「奈良別命」を祀った、ということは十分にありうる。

     
                         奈良神社 本殿

  そして、ここで一つの大きな問題に直面した。「奈良別一族が幡羅郡に分け入り、開墾した」とはどういうことだろうか。言葉の表現方法は違えども、「幡羅郡に侵入し、この地を下野国の勢力範囲にした」ということではないだろうか。

 幡羅郡は利根川をはさんで上毛野国と接していて、文化的にも経済的にも上毛野国の影響下に長期間あったと推測される。何よりの証拠はあの東日本最大の古墳、群馬県太田市にある太田天神山神社の存在だ。関東の王者という名に恥じない主軸長210mの巨大前方後円墳で、この古墳が営まれた五世紀前半頃の同じ世代の倭国王や倭国内の有力首長たちの古墳の中では、おそらく五本の指の中に入る大規模なものであったことは疑いなかろう。
 この規模だけに影響する領域も両毛地域という東西の広さのみならず南北にもその広がりがあったろうと思われる。太田市は上野国全体で見た場合東に偏っている。だからこそ関東の王者はここに古墳を築造しなければならない理由があったと考えるのが妥当ではないか。この地は上野と下野のちょうど中間に位置し各方面への街道や水路が集中している。また南北においても、これはあくまで推測の域でしかないが、東山道武蔵路の原型はその大田天神山古墳の埋葬者、もしくは毛野国の王者が創建したのではないかと最近思っている。そもそも毛野国の王者が眠っている場所から真南10kmもない場所に幡羅郡は存在する。幡羅郡は武蔵国口の玄関なのだから。

 根拠のない勝手な想像を許して頂ければ、上野国の勢力範囲のこの重要な地に下野国の勢力が侵攻したとしたらその後どうなることが起こるか.....     





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熊野大神社

所在地      埼玉県深谷市東方1708
主祭神      伊弉冉命
           
事解男命
         
 速玉男命
         
社  格       旧郷社

創建年代     社伝では、延長五年(927)この地に枇杷の木を棟木にして小社を建て、上野国碓井
                       郡  熊野
本宮より奉遷し東方と号す
る、とある。
延喜式神名帳  白髪神社 武蔵国 播羅郡鎮座
例  祭        10月15日 秋季例大祭

               
地図リンク
 熊野大神社は高崎線深谷駅から国道17号で熊谷方向に進み、東方交差点を左折する。そして左側にコンビニエンスがある次の交差点を左折するとすぐに右側に熊野大神社の鳥居が見える。駐車場は、境内の右側にあり、自動車は駐車可能だ。
                     
                     
                     

 
十二代景行天皇御代日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のときに当地を通り、里人に「東の方は何れに当れるや」とたづねたという。醍醐天皇の御代に至り、この地に枇杷の木を棟木として小社を建てて、日本武尊の故事により東方村と名づけられたという。
          
                    熊野大神社 本殿 深谷市指定文化財

由 緒
 古くより小さな社があり、東方という地名もこの社から生まれました。天文(1532~55)の頃、深谷上杉三宿老、皿沼城主岡谷加賀守清英がこの地方を領し、熊野大神社を深く崇拝し、社領を寄進し、今でも熊野免という年貢を免除した土地があります。同じく三宿老の一人、上野台領主秋元但馬守景朝、その子越中守長朝は、当社が上野台の館の東北にあたっているので、城の守りとして崇敬し、天正年間(1573~92)に当社の社殿を造り、現在本殿正面の桁に家紋が彫刻されてあります。天正18年(1590)徳川家康、江戸入城後、松平丹波守康長が東方城主となりましたが、当社を信仰、社領を免除しています。
                                                                                                                                                     全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

 この社は平野部の街中にある神社としては比較的境内は広く、ゆっくりと散策できる。また、多くの境内社もあり見所も多い。
                 

             
                          熊野大神社の静かな佇まい
  由緒書きには、「延長五年に(中略)上野國碓氷郡の熊野本宮より奉遷し(後略)」とある。つまり現在の群馬県と長野県の境にある「熊野神社」からの勧請と考えるのが妥当な話だ。すると不思議な疑問が出てくる。この社は「武蔵國 幡羅郡 延喜式内社 白髭神社」の比定社らしいが、この白髭神社との繋がりはどう考えればいいのだろうか。本当に白髭神社と比定されるのだろうか?
                       
熊野大神社
 深谷市東方1708-1
 当地は古くから開かれた土地であり、地内は家型埴輪が出土した古墳期の森末古墳、奈良期から平安期にかけての堂明様遺跡などが知られています。当社の創建について、社記に-延長5年(西暦927年)この地に枇杷の木を棟木にして小祠を建て上野国碓氷郡熊野本宮より奉遷し東方村と号す-とあります。
 御祭神は伊邪那美命・速玉男命・事解男命の三柱です。
 現在の本殿は上野台の領主萩元但馬守景朝、その子秋元越中守長朝が、当社が館の東北にあたっている事から城の守り神として崇敬し、天正年間(西暦1573年から92年)に当社に社殿を寄進したものであり、本殿正面の桁に秋元家の家紋の彫刻が施されております。
 文政2年と平成11年の大修理を経て今日にいたっております。本殿は昭和34年11月3日に深谷市の指定文化財に指定されました。
 中仙道から一の鳥居をくぐって約300mの参道に入ると両側に奉納された三十九基の石灯籠が続き二の鳥居を過ぎ四百五十二本の玉垣に囲まれた境内地に進むと右側に樹齢350年のご神木の大欅がそびえています。
 三の鳥居をくぐり本殿西側を進むと、氏子の皆様に献木していただいた450本のヅツジ林があります、更に歩くと北に上毛三山を一望出来る大パノラマが開けます。
 主な祭事は春の大祭(4月15日)・秋の例大祭(10月15日)です。
 幡羅小学校児童による浦安の舞いの奉納・入木節の奉納など次代を担う人々の参加は心強いものがあります。又、初詣は年ごとに参拝者が増えており大変な賑わいです、大晦日に「おたきあげ」の火を囲んで甘酒を戴きながら新年を祝う人々の輪は、平和のありがたさを実感させる美しい光景です。元旦は社務所で初釜を催しております、気取らない茶席です新年はぜひおいで下さい。
 当社の氏子数は850戸、また崇敬者は2000人位です。
                                                                                                                                                   平成15年 9月 宮司 栗原時雄社頭掲示板より

                           
 境内には、樹齢350年のご神木の大欅がこの社を守るかのようにそびえている。神木とは、古神道における神籬(ひもろぎ)としての木や森をさし、神体のこと。また依り代・神域・結界の意味も同時に内包する木々であり、日本人は四季折々の自然に対して畏敬の念を抱き、そこに神様を信仰するようになった。今なお暮らしの中にあるご神木が「日本人の心」によって守られている。どんなに文化、文明が進もうとも、日本人としての先史時代から頑なに続く遺伝子は絶えることはない。大切にしたいものだ。

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楡山神社

 楡山神社が鎮座する武蔵国幡羅郡は、江戸時代の新編武蔵風土記稿によれば、今の深谷市東部(旧幡羅村、明戸村)、熊谷市北西部(旧別府村、三尻村、玉井村、奈良村、大幡村の一部)、妻沼町全域とされる。
 
 武蔵国の利根川と荒川に挟まれ、東の埼玉郡に続く幡羅郡は、『和名抄』によれば七郷一余戸という北武蔵最大規模の郡であり、また交通の要衝であった。郡の中心部分は、郡の南西部の台地地帯で、櫛引台地と荒川扇状地とが織り重なる地帯である。中でも台地の北側、郡衙跡の確認された深谷市東方・熊谷市西別府を中心に、西の深谷市原郷から、東の熊谷市中奈良あたりまでが、中心地帯だったと思われ、中奈良では、和銅年間に大量の涌泉があり六百余町の壮大な水田を造成させたといい(文徳実録)、西別府祭祀遺跡からは近年まで湧き水が確認され、隣接の別府沼を形成して付近の広大な水田の水源となっていた歴史があり、深谷市原郷根岸沼は今は地名のみ残るがこれも数十年前まで湧き水が確認され、別府沼と同様のことが想定されている。これらの水源は荒川の伏流水である。

 郡衙跡(幡羅遺跡-はらいせき-)は2001年に発見された新しい遺跡で、保存状態がよく規模も大きく、全国の郡衙跡のなかでも非常に貴重なものであるとされる。郡衙跡の東に隣接する西別府廃寺跡とともに、7~11世紀にかけての幡羅郡の歴史を知る重要な史跡である。

所在地  深谷市原郷336
主祭神  伊邪那美命
社  格     旧県社
社  紋     八咫鏡と八咫烏
例  祭     10月20日 例大祭
由  緒     孝昭天皇御代の創立   
平安期幡羅太郎再興
                
康平年間(1058~65源義家奥州征伐の時勝戦を祈願
                 
正徳年中熊野山正徳院能詮寺を建立社僧が神事を修す
                 
天保 8年(1837)正徳院焼失
                 
明治 5年郷社     明治40年 4月 2日神饌幣帛料供進神社指定
        大正12年 7月 2日県社

     

  楡山神社は埼玉県深谷市にあり、深谷駅の北東 2kmほど,埼玉県道127号深谷飯塚線を北上するとすぐ右側に位置する。個人的に親族が深谷市高畑地区に住んでおり、行き帰りには神社を見ることも多く、その際には何度か参拝も行なっており他の神社より親近感がある。
  孝昭天皇の頃に鎮座したというが創建不明。 延喜式内社。境内は東向き。辺り一帯に楡の木が繁茂していたということで、社名の由来と なっている。また境内付近には古墳が散在しており15基ほどを木の本古墳群と総称、楡山神社周辺から南東へほぼ道路沿いに分布しており、観察は比較的容易である。


 東の入口の一の鳥居横につい近年まで大楡の神木(樹齡約600年・県天然記念物)があったが、今は切り株のみで近くには表札がある。
   
         楡山神社正面参道                     楡山神社の大楡

楡山神社大ニレ
                                                                                        埼玉県指定天然記念物
                                                       昭和二四年二月二二日指定
 楡山神社の御神木となっている古木で、目通り約三・六メートル、樹高約一○メートル、樹齢は約六○○年と推定されています。
 ニレは、山地性の落葉樹で、ハルニレとアキニレがありますが、この木はハルニレです。ハルニレは、皮を剥ぐと脂状にぬるぬるするところから別名ヤニレともいいます。樹皮からは繊維が採れ、縄などが作られました。北海道から本州の山地に自生していますが、この木は関東地方の平野部にあるという点で貴重です。
 楡山神社は、平安時代につくられた「延喜式神名帳」に記載される古社で、幡羅郡の総鎮守です。
「楡山」の由来は、昔からこの地方一帯に、ニレの木が繁っていたことによるといわれています。

                                                     平成六年三月 埼玉県教育委員会
                
                   参道の右側、方位では北側に神楽殿がある
           
                        拝殿前の二の鳥居から撮影
           
           
                          拝殿 明治43年再建
 楡山神社は嘗て幡羅郡総鎮守」、「幡羅郡總社あるいは幡羅大神とも呼ばれていたという。幡羅郡は、中世までは「はらぐん」「はらのこおり」と読まれた。当地が
幡羅郡幡羅郷の中心部であったことから「原ノ郷」「原之郷」の村名となったという。
 江戸時代には、
愛宕神社(原郷)を「小鎮守」と呼び、楡山神社を「大鎮守」との俗称もあった。瑠璃光寺を別当とし、「楡山神社」の社名の他に「楡山熊野社」(新編武蔵国風土記稿)、「熊野三社大権現」(扁額)などの呼称もあった。
 明治五年、旧入間県八大区
を代表する「郷社」に制定される。八大区の範囲は、旧幡羅郡全域、旧大里郡荒川以北、旧榛沢郡の大半(深谷・藤沢・武川・花園・用土・寄居・大寄の一部)に渡り、深谷熊谷妻沼寄居の四市街地を含む。のち郷社は複数となり、大正12年には「県社」に昇格。
           
 本殿 
春日造、欅桧楡材、造営年不詳。明治以前は屋根は桧皮葺で千木と鰹木があり、柱などに葵の紋金具があったという。

 楡山神社が鎮座する幡羅郡は、元来「原」であったが、その後「幡羅」に改められた。713年(和同6年)5月、畿内七道諸国郡郷名には「好字」を用いることが命じられた。またこの命令を反映したものと見られる『延喜式』民部省式の規定にも郡や里の名には「二字」の「嘉名」をつけることが決められていた。これらの制度を受け、奈良時代以降は「幡」・「羅」の雅な漢字を当て「幡羅郡」と称したものと見られる。『和名抄』に「ハラ」とあように、古代においては読みは「はたら」ではなく、元来通り「はら」であった。郡衙跡(後述)から出土した平安時代初期頃のものと見られる遺物には「原郡」の表記も見られ、奥州多賀城跡から出土した木簡(後述)に見られる通り正式には「幡羅」の表記となっていたものの、なお郡域では「原」の字を用いたこともあったようである。中世以後、漢字表記に引かれる形で「はたら」の読みが広がり、明治時代以後は完全に「はたら」となり現在の地名の読み方に至っている。
『楡山神社由緒』より
【御祭神】
 伊邪那美命。一柱。
 夫の伊邪那岐命と共に、国土や山川草木の神々をお生みになった神。「国生み」の神。
 末子に火産霊神をお生みになって後、鎮火の法を教え諭した神。
【鎮座地】
 埼玉県深谷市大字原郷三三六番地。
 旧埼玉県大里郡幡羅村大字原郷。
 旧武蔵国幡羅郡幡羅郷原ノ郷村。
 古くは幡羅ノ郡(はらのごほり)といっていたのを、近世に漢字を改めて原郷としたという。
【御社名の由来と御神木・御神紋】
 御社名の由来は、御神域一帯に楡の木が多かったことによる。正面大鳥居の脇の楡の古木一本は、代々御神木と崇められ、樹齢一千年ともいい、現在は埼玉県の文化財(天然記念物)に指定されている。
 当社の御神紋の「八咫烏」は、初代神武天皇の東征の際、南紀の熊野から、翼の大きさ八尺余りの道案内で、大和に入ったという故事から、当社が熊野権現といわれた時代に定まったものといわれる。
【御創立と沿革】
 五代孝昭天皇の御代の御鎮座という言い伝えがあった。
 大字原郷全域から東隣の大字東方の西部にかけて分布する木之本古墳群(木之本は小字名)は、奈良時代ごろのものといわれ、古くからひらけた土地であることをうかがわせる。現在の末社の天満天神社(富士浅間神社)や知知夫神社も、後世の創祀ではあるが、古墳の塚上に祀られていたものである。かつては境内の森の奥にも塚があり、「里人不入の地」といわれた。
 延喜年間(平安時代)、醍醐天皇の御代に朝廷の法規などをまとめた書「延喜式」の「神名帳」の巻に、「武蔵国幡羅郡四座」のうちの一社「楡山神社」とある。すなわち朝廷より幣帛を賜った古社であり、「延喜式内社」といわれる。
 旧原ノ郷村は、平安時代中期の北武蔵の武将・幡羅太郎道宗の再興になる地域である。神社の南西に史跡「幡羅太郎館址」がある。当時から幡羅郡の総鎮守、幡羅郡總社といわれ、御社名を幡羅大神ともいった。
 康平年間(1058~1065)、源義家の奥州征伐の時、幡羅太郎道宗の長男の成田助高は、当社に立ち寄って戦勝を祈願したという。成田家は後に行田の忍城主となっていったが、当社は成田家代々の崇敬が篤かったという。
 徳川時代には、旧社家の没落と共に別当天台宗東学院の管理する所となり、熊野三社大権現と称したこともあった。当時より節分の日の年越祭は盛大であり、「権現様の豆撒」などともいわれた。
 明治に入り、御社名を楡山神社にもどす。明治五年、旧入間県八大区の郷社に制定される。大正一二年県社に昇格。
 大正二年、中絶していた年越祭を再興。戦中戦後の一時期は中断していたが、戦後に神職氏子の努力によって復興させ、毎年節分当日は巨万の賽客で賑わい、追儺の神事や花火(戦前は「おだまき」と称した地域伝来の花火)などの行事が夜遅くまで続く』

本殿の周囲には、幾つかの境内社が鎮座している。
  
        招魂社と知々夫神社            八坂神社               大雷神社
  
         
        手長神社              大物主神社             天満天神社
            
                              荒神社 
 元々は根岸にあった荒神社をこちらに移転したもので、同社境内にあった諏訪神社と春日神社が合祀されている。火産霊命、奥津比古命、奥津比売命の三柱を主祭神とし、他に御穂須々美命、天津児屋根命、斎主命、武甕槌命、比売命が祀られているとのこと。春日四神が春日神社の祭神であると見ると、御穂須々美命が諏訪神社の祭神と言うことになるのだろうか。聞き覚えの無い名前だったので調べてみると、建御名方命の妹にあたる神様であるようだ。
 また、石燈籠には享和三癸亥歳九月吉日との文字が刻まれており、1803年に奉納されたもの。
           
      荒神社近くのの中の道には、「楡山」と刻印された旧拝殿の鬼瓦と説明書がある。
              
               寒神社(道祖神)                          伊奈利神社  

           

  武蔵国北部最大の郡である幡羅郡は、地形上でも要衝の地と言われている。その根拠は一体なんだろうか。その理由の一つは東山道武蔵路ではないかと考えている。

 ■■■東山道武蔵路■■■

  古代に造られた官道の一つ。当初東山道の本道の一部として開通し、のちに支路となった道であり、上野国・下野国から武蔵国を南北方向に通って武蔵国の国府に至る幅12m程の直線道路であった。

 奥州多賀城跡から出土した木簡に「武蔵国幡羅郡米五斗、部領使□□刑部古□□、大同四年(809年)十□月」とあり、刑部氏の何らかの関連があったような記述が存在する。刑部は第19代允恭天皇の后の忍坂大坂姫の御名代部として設置された部民。また延喜式内社の白髪神社は、郡衙近くに存在し、白髪部の関与が想定されるという説があるそうだ。


                        
                      楡山神社西側、楡山神社前交差点付近にある鳥居

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菅谷神社

  鎌形八幡神社から北東方向、約3km嵐山町内には菅谷神社がある。この神社で注目したいところは、祭神に「畠山重忠」が祀られているということだ。嵐山町は歴史上有名な人物を2名輩出していていて、平安末期から鎌倉時代にかけて日本史に名をとどめた坂東武者ゆかりの地でもある。
 嵐山地方は鎌倉街道上道上の交通の要衝で、中世に比企地方が光彩を放ったのは、当時の幹線道路である鎌倉街道上道(かみつみち)によるところが大きいといわれている。この道は比企郡内を縦貫していて、南下すれば武蔵国府、さらに進めば鎌倉、逆に北上すれば、児玉、藤岡から信州または越後へ達することが出来た。つまり、比企は当時の交通の要衝に発展したということになり、戦国時代に城郭が多数築かれた理由も、この鎌倉街道を監視または支配するためであったと考えられている。

 そういう意味で、嵐山町に源義仲、畠山重忠という歴史的に見ても重要な人物を同時期に2名も輩出したことの意味は大変大きい。埼玉県民はこのことをどのくらい知っているのだろうか。

所在地    埼玉県埼玉県比企郡嵐山町菅谷608 
主祭神     大山咋命 保食命亦名稲倉魂命 素盞鳴尊 市杵島姫大神 畠山重忠命
社   格  旧村社 
例   祭   10月17日
                 

 菅谷神社は埼玉県道69号深谷嵐山線を嵐山方向に進み、国道254号と接する1つ手前の交差点を左折すると、右側約100m位先に社が鎮座する。入口の手前に若干車が駐車できるスペースがあったのでそこに駐車し、参拝を行った。地理的には武蔵嵐山駅の南方向、菅谷小学校の北西に位置している。 
 
               菅谷神社の入口付近を撮影                            境内に建つ鳥居
                                      畠山重忠の舘,菅谷館の北方にある。              
                      
由   緒
  祭神 大山咋命 保食命 菅原朝臣道真公命 須佐之男命 畠山重忠命
  由緒 本社大山咋命は元日枝神社なり是は畠山重忠年十七才にして治承四年十月武蔵国長井の渡しの頼朝の御陣所に参し頼朝公に属して先鋒の将となり各地の戦争に大に軍功あって此の菅谷の地を賜り依て此に新城を築き居住となし武運長久の守護神として近江国日吉山に鎮座なす(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社此の御分霊は日本国中即ち三府弐拾県の内に五百社之あり其の一社の内の御分社)日吉山王権現の御分霊を畠山重忠請願に依建久元年九月十九日に奉遷勧請す故に日吉山王大権現と称せしを明治四年神社取調の節村社に列せられ社号を日枝神社と改称す是より本社境内に須賀神社及秩父神社の二社ありしを以て左に列記す須佐之男命は須賀神社と称して創立不詳なれども本村成立と同時に勧請せしものと伝う

         
                         参道の風景 社殿から撮影
             
嵐山町菅谷神社社叢ふるさとの森
 平成四年三月三十日指定
 身近な緑が姿を消しつつあるなかで、埼玉らしい豊かな緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、四季折々の風情に富んだ菅谷神社の杜が「ふるさとの森」に指定されました。
 この神社は、源頼朝公に菅谷の地を賜った畠山重忠公が、武運長久の守護神として近江国日吉山の日吉山王権現の御分霊を請願して建久元年(一一九○年)に、日吉山王大権現として奉還勧請し、明治期になって日枝神社、さらには、菅谷神社と改称されたものです。
 社の周囲はスギ林で、四季をとおして人々の憩いの場として親しまれていますが、この中でもひときわ大きなスギの御神木は、町の保護樹木にも指定されています

                                                                                             拝 殿
            
                                本 殿
                          

  当社は畠山重忠が、武運長久の守護神として建久元年(1190年)に近江の日枝神社から勧進し「日吉山王大権現」と称していた。明治4年に村社に列格すると、日枝神社、さらには菅谷神社と名称変更したという。

                     
     
          神社向い側に菅谷公園があり、その中の池に厳島神社が祀られている。


               

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鎌形八幡神社

 嵐山町は埼玉県中央部に位置する人口約2万人の町である。町の中央部と北部には東松山台地が広がる。北東部は比企丘陵の西端部に位置し、南部は岩殿丘陵の北端に位置する。西部は外秩父山地の外縁となっており、南北に八王子構造線が貫いている。日本の国蝶オオムラサキが生息する地としても有名である。また1928年(昭和3年)に、本多静六が当地を訪れ景観を眺めたところ、京都の嵐山(あらしやま)の風景によく似ていることから、武蔵嵐山と命名され評判になり、多くの観光客が訪れている。町は比企丘陵の一角にあり,自然の美しさを四季折々に見ることが出来き、槻川や都機川は絶好の釣り場や川遊びの場になっている。又,菅谷館跡を始めとして多くの文化財や伝説も残されている町でもある。
 嵐山町の大蔵地区には木曽義仲(1154~1184)の父源義賢の館跡とされる埼玉県指定史跡大蔵館跡があり、土塁の跡が残されている。義賢は畠山重忠の曽祖父重綱の子である重隆の婿となったが、久寿2年(1155)8月、鎌倉を拠点に関東の制覇を目指していた源義朝の長子義平(頼朝の兄)に急襲されて、ともに討ち取られてしまった。義仲はこのとき2歳だったが、畠山重能、斉藤実盛の計らいによって信濃へ逃げのびることが出来た。
 この義仲は成人すると、武力を蓄えて平氏打倒に立ちあがり、倶梨伽羅峠の合戦に勝利し、京都から平氏を追い出すことに成功するが占領軍の乱暴狼藉によって、後白河法皇の怒りを買い、源頼朝の派遣した追討軍によって、近江国(滋賀県)粟津原で戦死した。享年31。太く、短く一直線に生きた人生といってよい。


 鎌形八幡宮には義仲産湯の清水が今も枯れずに湧き出して、いまも水が湧き出ている
    
所在地      埼玉県埼玉県比企郡嵐山町鎌形1993
主祭神      誉田別尊 比売大神  神功皇后  
社  格      旧郷社 
創  祀      坂上田村麻呂
創  建      延暦年間 (782~806年)

                          

  鎌形八幡神社は、平安時代初期の延暦年間に、坂上田村麻呂が、九州の宇佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると伝えられている。所在地は都幾川の左岸、神社は延歴年間の創建と言うから歴史は古い。決して参拝客は多くないが境内は綺麗に整備されている。
 源義賢、義仲、義高三代に関する伝説がこの地には多く、源氏の氏神として仰がれていたといい、また、武門武将の神として仰がれ、「源頼朝及び尼御前の信仰ことのほか篤く」と、縁起の中にある。なお、「木曽義仲産湯の清水」や、嵐山町指定文化財の二枚の懸仏、徳川歴代将軍の御朱印状他多数の文書等が保存されている。

 また鎌形という名の由来として、鎌倉の鶴岡八幡宮に社殿が似ているから鎌倉の形・・・鎌形となったともいう
                                            一の鳥居から社殿方向を撮影                               
 

 町指定有形文化財 工芸品
 貞和の懸仏
 指定 昭和三十六年八月三十一日   所在 大字鎌形 鎌形八幡神社
 時代 貞和四年(一三四八) 南北朝時代 大きさ 直径約十七センチメートル
 懸仏は建物の内側(内陣)にかけて、礼拝の対象などにしたもので、立体的な尊像や吊り懸けるための金具が設けられている。本来は御正体といい、神仏習合により神の本地として各種の仏が表現されることか多い。
 この懸仏は、県内に所在する仏のなかで最も古い紀年銘をもち、中央には阿弥陀坐像が鋳出されている。
 大工兼泰の懸仏は、東京国立博物館にもあり、大きさや紀年銘が一致し、ともに渋河の文字が刻まれていて、関連性が指摘されている。
 平成九年三月 嵐山町教育委員会

 鎌形八幡神社
 鎌形八幡神社は、平安時代初期、延暦年間に坂上田村麻呂が九州の字佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると言い伝えられている。武門、武将の神として仰がれ「源頼朝及び尼御前の信仰ことのほか厚く」と縁起の中にもある。
 源義賢、義仲、義高三代に関する伝説がこの地には多く、源氏の氏神として仰がれていたという。
 また、嵐山町指定文化財である懸仏が二枚保存されている。
 安元二年(一一七六年)の銘がある懸仏は径十八センチメートルで、中央に阿彌陀座像が鋳出されていて、「奉納八幡宮宝前 安元二丙申天八月之吉 清水冠者源義高」と陰刻されている。(但し、源義高は安元二年には生まれていない) もう一つの貞和四年(一三四八年)の銘がある懸仏は、径十七センチメートルで、薬師座像が鋳出されていて、「渋河閑坊 貞和二戊二子七月日施主大工兼泰」と刻まれている。
 その他、木曽義仲産湯の清水や、徳川幕府歴代将軍の御朱印状などの多数の文書がある。
 埼玉県 昭和五十五年三月
                                   それぞれ案内板より引用

                                                        二の鳥居
        
                                         神 門
           
 
  
                  総門を越えると神秘的な空間が広がる。

   木曽義仲の父は帯刀先生義賢で、鎌形の隣の鎌倉街道上道の通っていた大蔵に館を構えていた。当時、義賢の父、源為義と長男義朝は敵対関係にあって、義賢の関東下向も義朝の勢力削減を狙った戦略だった。しかし義賢は義仲(駒王丸)が2歳の時に義賢の甥の悪源太義平に討たれてしまう。その時、駒王丸は母、小枝御前と共に畠山重能、斉藤実盛らの温情により助けられ信州の木曽に逃れた。
 鎌形八幡神社にある木曽義仲産湯の清水は、義賢がこの地に下屋敷をもうけて小枝御前に生ませた駒王丸の産湯の清水なのである。社殿前の階段を下りた所にあり今も御手洗槽の竹筒から清らかな水が零れている。また竹筒の根本の石垣の上には「木曽義仲産湯の清水」の石碑が立っている
  
                 手水社(写真左)とその奥にあるの義仲産湯の清水(同右)

          
                   
拝殿兼本殿覆屋
           嵐山町指定建造物の本殿は覆屋の中なので見られず。
 
      拝殿に掲げてある扁額        拝殿前面には精巧な彫刻が施されている。
        
                             拝殿付近に設置されている案内板

嵐山町指定建築物 鎌形八幡神社本殿
指定 昭和六十年十二月一日
所在 嵐山町大字鎌形八幡神社
時代 時代
正面の建物は拝殿を兼ねた覆屋であり、本殿はその中に納められている。
本殿は、簡素な一間社流造りで、装飾的な彫刻は、正面扉両脇・脇障子・蟇股・向拝木鼻・向拝蟇股などに限られている。彩色もこの彫刻部分にのみ施されている。
本殿の建立年代は、棟札に「奉再建立正八幡宮御神殿于時寛延ニ己巳暦三月朔日遷宮」とあり、「寛延二年(一七四九)である。しかし、新材がかなり含まれ、何度かの修理を経ているものと考えられる。いっぽう、身舎部分に付けられた墓股、頭貫の木鼻などの形状は、簡素な整ったものであり、古式を踏襲したものか、あるいは棟札の年代よりもさらに古いものではないかと思われる。
昭和六十二年三月 嵐山町教育委員会
案内板より引用


 嵐山町大蔵には源義賢の墓や屋敷あとと伝えられている場所(大蔵神社)もある。源義仲の父である源義賢はもともとは上野国を本拠としていたが、源義朝と内訌があり、久寿2年(1155)源義朝長子の当時15歳であった悪源太義平によって大蔵の地で討たれている。
 のちに征夷大将軍ともなった悲劇の武将である木曽義仲は義賢が大蔵館に移り住んだ仁平年間(1153)に鎌形館で産まれたと伝えられており、鎌形の清水を産湯としたとされている。
 木曽義仲長子の清水冠者義高は源頼朝の婿であったが、元暦元年(1184)に入間河原で殺された、とされている。 

 哀愁を帯びた静かな社。 源氏3代の悲劇を公表できないためかなんとなく、人目を忍ぶような雰囲気がこの一体には漂う。                                                      
   境内社・左から瀬戸神社、八坂神社       境内社・左から山の神、天満社
      
               拝殿覆屋の傍らに聳え立つご神木              
 
       境内社・日和瀬神社          手水舎の手前に鎮座する金毘羅社
 
          境内参道左側に並んで鎮座する護国社(写真左・右)
          
 不思議な感動がそこには確かにあった総門をくぐった瞬間から何か異次元に入り込んだような不思議な世界がこの社には確かに存在していた。
 決して知名度がある神社ではない。郷社ではあるが参拝客も例祭以外訪れる人もそう多くはないはずだ。それでいて境内はちゃんと整備されている。何百年の歳月により時の権力者によって変貌していく神社が多いのに対して、この神社にはそれがあんまり感じない。
 
 この奥ゆかしさと素朴さのあるこの鎌形八幡神社がなんとなく好きになったようだ。

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