古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

血洗島 諏訪神社

 諏訪神社は血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も、参拝したと伝えれれている。
 現在の拝殿は、大正五年(1916)渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に額づいた。
 そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。
 栄一が奨励したこの獅子舞は、現在も大事に受け継がれている。
 境内には、栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
 なお、村民は栄一への報恩のため、建立した喜寿の碑が境内にある。
                                                      案内板より引用
所在地  埼玉県深谷市血洗島117-6
御祭神  建御名方命
社  挌  旧村社
例  祭  不明


      
 諏訪神社は下手計鹿島神社の西約1km、車で5分位の場所に鎮座している。日本の近代経済国家の基に多大な力を発揮し日本資本主義の父といわれ、銀行や企業の設立、国際親善、社会福祉等に尽力した渋沢栄一氏の生家が近くにあり、幼き日の氏もこの境内で遊び、獅子舞を踊ったという。
 1916年に造営した社殿は、氏の喜寿を記念して寄進によって建て替えられたものだそうで、開放感ある社の雰囲気、また参道も綺麗に整備され、鹿島神社等周辺の神社とまた違った別世界の空間がそこにはあった。
         
                    整備の行き届いた諏訪神社 参道
         
           
                                                           拝   殿
                   
                            本   殿

 諏訪神社の創建年代は明かでない。『大里郡神社誌』には、以下の伝説が記載されている。
  ・ ヤマトタケルノミコトが東征凱旋の時にこの地を通過し、社前に記念の植樹をした。
  ・ 平安中期の平将門の乱に源経基が竹の幌に布陣した際に、この神社で先勝祈願を行った。
  ・ 源平合戦の折り、岡部六弥太忠澄が戦勝祈願を行い、戦功を奏した。
 また慶長19年(1614)、この地は岡部領となり、領主安部摂津守は代々諏訪神社を武の神として崇敬し、正月には武運長久を祈願したといわれている。

 社殿の左側にある開放的な社叢とは全く異なったこの社の古の雰囲気のある空間があった。 写真左側の2社は境内社か、写真右側は末社だろうがどちらも詳細不明。


 諏訪神社は渋沢栄一氏の喜寿を記念して寄進によって建て替えられたものだから、ことさら氏の偉業を称える記述が多い。渋沢青渕翁喜寿碑や手水舎近くにある案内板も同様である。郷土の英雄に対して誇りをも持つ気持ちは大変素晴らしいことだが、純粋に神社参拝を行い、由緒等を真剣に学ぶ者にとってはそれが時として大きな壁になる時もある。難しいことだ。


 ところで諏訪神社が鎮座するこの血洗島という一風変わった地名の由来を調べてみると定説はなく、以下の諸説があるようだ。

 1  赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという。
 2  八幡太郎義家の家臣が、戦いで切り落とされた片腕を洗ったところからその名がついた。
 3  「血洗」(けっせん)は当て字で、アイヌ語の「ケシ、ケセン、ケッセン」(岸、末端、しものはずれ、尻などの意)など、東北・北海道に気仙(ケセン)沼・厚岸(あつケシ)などと共通する同意語で、その地が利根川の洪水による氾濫原であることから、もとは「地洗」(ちあらい)、「地荒」(ちあら)だったのが「地」の字がいつの間にか「血」となった。


 いずれも想像の域を越えないものであるが、気になる説として赤城の山霊をあげたい。「戦場ヶ原神戦譚」と呼ばれる伝説があり、神代の昔、下野の国(栃木県)の男体山の神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地の問題(中禅寺湖の領有権)で戦った。男体山の神は大蛇、赤城山の神は大百足に姿を変えて戦場ヶ原で戦った」という神話の中での戦いというが、これを神話上の空想の話とみるかどうかで展開が大きく変わる。
  筆者はこの話はある史実を遠い過去の神話に脚色したものである、と睨んでいるがどう思われるであろうか。

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    鹿島神社

     下手計地区に鎮座する鹿島神社は中瀬神社の南西方向にあり、下手計の鎮守の社である。当社の創建については。二つの経緯が考えられる。まず、第一は、当地に隣接する中瀬の地は、利根川に臨み、かって鎌倉古道である北越街道の通路に当たる渡船場があり、また利根川の舟運にかかわる河岸場が置かれていたことから、古くから要衝であったことがわかる。このような背景から、利根川の舟運にかかわる村人が、日ごろから航海安全の神として信仰する常陸国一ノ宮の鹿島神宮の神を当地に分霊したとする説である。
     第二は、かって隣村の大塚島に鎮座する鹿島大神社の社領であったと伝える下手計・沖・戸森・内ヶ島・田中(伊勢方の小字)などの村々などには「鹿島社」が祀られている。このことから、当社は往時、この鹿島大神社から分霊を受けたとする説である。
     いずれにせよ、鎌倉公方足利基氏御教書に、貞治二年(1363年)に安保信濃入道所領の跡、下手計の地を岩松直国に与えるとあるところから、この時期既に上下に分村していたことがわかり、社の創建もこの時代までさかのぼるのであろうか。
                                             「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より
    所在地  埼玉県深谷市下手計1143
    御祭神  武甕槌尊
    社  挌  旧村社
    例  祭  11月15日 秋祭り


           
     鹿島神社は中瀬神社から群馬・埼玉県道14号伊勢崎深谷線に戻り南下し、下手計交差点を右折すると約500m位で右側に鹿島神社の社号標石が見えてくる。駐車場は鳥居を潜ると社の広い空間があり、車両の轍の様子から可能とは思ったが、やはりここは思い直して社号標石の近くに車を停めて参拝を行った。 
     
                             鹿島神社の参道の様子
                               鳥居は鹿島鳥居
              
           参道右手側に枯れた御神木の欅があり、歴史を感じさせてくれる威圧感があった。
              
    鹿島神社
     創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀬牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(1810)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
                                              昭和六十年三月 深谷上杉顕彰会
                                                           案内板より引用
                          
                                 拝   殿 
              拝殿には渋沢栄一が揮毫になる「鹿島神社」の扁額が掲げられている。
                          
                      黒が基調の重厚感のある鹿島神社 本殿

     
           社殿の裏手には三峯講社                  本殿裏にある香取神社
                         
                                  神楽殿 
              
                          鹿島神社の右隣にある八坂神社
                      
                   八坂神社の奥に手計不動尊。奥に見えるのは納札所           
        
               

    藍香尾高翁頌徳碑について
     尾高惇忠を敬慕する有志によって建てられたこの碑の除幕式は、明治四十二年(1909)四月十八日に挙行されました。
     おりから桜花満開の当日、澁澤栄一はじめ穂積陳重、阪谷芳郎、島田埼玉県知事など、建設協賛者である名士多数が臨席されました。その際、尾高惇忠の伝記「藍香翁伝」が参列者一同に配布されたのです。
     碑の高さは役四・五メートル、幅は役一・九メートル、まさに北関東における名碑の一つです。石碑の上部の題字は、澁澤栄一が最も尊敬する最後の将軍、徳川慶喜によるものです。碑文は三島毅、書は日下部東作、碑面に文字を刻む細工は東京の石工・吉川黄雲がそれぞれ当たりました。
     郷土の宝物であるこの名碑を大切にし、藍香翁はじめ先人の遺徳を偲び、共に感激を新たにいたしましょう。
                                                          平成十七年十月
                                                           案内板より引用
     

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    中瀬神社

     
    所在地  深谷市中瀬650
    御祭神  市杵嶋姫命 外十四柱
           又は弁才天、十五童子
    社  挌  旧村社
    由  緒
     当社は、古くは十五社大明神と称し、吉祥寺の持であった。祭神は弁才天と、その眷属である十五童子を祀っている。弁才天は古代インドの神話に出てくる神で、河を神格化し豊穣をもたらす神である。十五童子は、後世、弁才天を弁財天とも書き、福徳の神と信じられるようになった時、その神徳を表現したものである。才天が水辺や池中の小島に祀られている例が多いのは、
      河の神格化の考えが残っているためであり、当社の場合も、文亀年間(1501-04)、河田義光による開発と共に、利根川辺りに祀られたと考えられる。
     大正二年に村内の神社を合祀し、社名を中瀬神社と改めた。
                                             「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より
    例  祭  11月23日 新嘗祭


            
     中瀬神社は群馬・埼玉県道14号伊勢崎深谷線の上武大橋(南)交差点を右折した中瀬地区内にある。ただ上武大橋(南)交差点を右折し真っ直ぐな道であるわけではないので注意は必要だ。交差点から真東方向に約1km弱位にこの社は鎮座していると考えてくれれば良いと思う。駐車場は一の鳥居の右側に駐車スペースがあり、そこに停め参拝を行った。
                
               
                                  拝   殿   
                
                               拝殿の奥にある本殿
     本殿は深谷市の文化財に指定されており、木造銅板葺平屋建で「天保十一年(1840)五月一日上棟 宮大工河田主計千豊」の書付が有るという。残念ながら現在覆い屋があり見ることはできない。

     この社が鎮座する中瀬地区はすぐ北に利根川があり、過去何度も洪水による被害を受けたであろうことは想像に難くない。社殿の基礎が数十センチ高く積まれているのも洪水対策用に造られたものだろう。のどかな田園風景の陰に隠れている歴史の別の一面も感じずにいられない。
                 
     

     中瀬神社の創立年代は不詳だが、古く中瀬村の鎮守と崇め、弁財天と十五童子がまつられた。元は「十五社大神社」(十五社様)の名で、字西原に鎮座していたが、大正2年に現在地に遷された。社宝の十五童子木像は、もとは十五社神社の神体だったという。
     明治41年、村長及び氏子惣代が、忠魂碑と征露記念碑の揮毫御礼のために、乃木大将邸を訪問した折りに、静子令夫人から寄贈された硯箱を、宝物として保存する。
     
     祭神である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)

     日本神話に登場する水の神で、『古事記』では市寸島比売命、『日本書紀』では市杵嶋姫命(さよりびめのみこと)とされており、スサノオの剣から生まれた五男三女神(うち、三女神宗像三女神という)の一柱とされている。市杵島姫命は天照大神の子で、皇孫邇邇芸命が降臨に際し、養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されている。後に仏教の弁才天と習合し、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えられている。



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    桜沢八幡大神社

     寄居町は埼玉県の北西部、都心から70km圏に位置している。荒川の中流域で長瀞のすぐ下流に位置し、 その左岸に街が発達する。古く秩父往還の街道筋にあり、秩父の山間部と荒川下流の平野部とを結ぶ物資輸送の拠点であり、また宿場町として栄えた。
     街の対岸にはかつて鉢形城があり、古くから地の利を生かした要害の地でもあり、城下町であった。 現在でも国道140号・国道254号及びJR八高線・東武東上線・秩父鉄道が接続する交通の要衝地となっている。この国道の合流地点に桜沢八幡大神社は鎮座している。

    所在地   埼玉県大里郡寄居町桜沢3827
    御祭神   天照大神  誉田別命
    社  挌   不詳
    例  祭   10月15日


          
     桜沢八幡大神社は寄居警察署の東側に位置し、国道140号線、254号線、県道62号線の合流地点傍に鎮座している。背後に戦国時代の山城があったという鐘撞堂山を配し、その山脈の稜線上に社が形成されている。ちなみに鐘撞堂山には名前の由来があって、戦国時代に寄居鉢形城の出城があったところで、敵の来襲を知らせるため鐘を撞いたことから鐘撞堂山と名付けられたと言われている。
     桜沢八幡大神社の社殿に通じる参道の全ては石段であり、また社殿も神楽殿も境内も綺麗に整備されている。駐車場は一の鳥居のすぐ右側に比較的広い駐車場もあり、そこに駐車して参拝を行った。
             
                   国道254号線沿線上にある桜沢八幡大神社の鳥居
             
             
                                拝   殿
             
                                本   殿
     桜沢八幡大神社の祭神は品陀和気命(応神天皇)で、新編武蔵風土記稿による八幡大神社の由緒はこのように記述されている。

    (桜澤村)八幡社
     村の鎮守なり、山崎八幡と云、猪俣党山崎三郎左衛門尉・小野光氏の霊を祀れり。由て此神号ありと近郷山崎村は此光氏の奮蹟にや、福泉寺の持。                 
                                                   新編武蔵風土記稿より引用


     
    拝殿の手前にある神楽殿。神楽殿は石段下に配置          境内社  詳細不明 
     され、拝殿に正面を向いているように見える。

               

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    宗像神社

     九州福岡県宗像市に鎮座している宗像大社は式内社(名神大社)で、旧 社格は 官幣大社。日本各地に七千余ある 宗像神社、厳島神社、および 宗像三女神を祀る神社の総本社である。全国の弁天様の総本宮とも言われ、また別名裏伊勢と称されている。この社は航海の安全を祈願する神社で、主として瀬戸内海沿岸や近畿地方の海沿いの地域に多く存在する。
     宗像大社は、「鎮護国家・皇室守護および後悔の神として朝廷からも崇敬されたといい、庶民からも漁業・航海・交通の神として信仰を集めてきた。全国の厳島神社も宗像三女を祀っているという。なお、宗像系の神社は、5番目に多いとされている。
     ところで埼玉県は出雲系の社が多い県だが、この寄居町藤田地区にもこの宗像神社が鎮座している。(他にも大宮氷川神社の境内社、また大宮土呂地区等に宗像神社は存在する) 
     この寄居町の宗像神社は、奈良時代の大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、船や筏の交通を護るため、九州筑前(福岡県宗像市)の宗像大社のご分霊を移し祀ったものであるとのことだ。考えてみると地形的にも遠い福岡県宗像市と埼玉県寄居町が、神社で結びついている。なんと不思議な縁ではないだろうか。

    所在地    埼玉県大里郡寄居町藤田274
    御祭神    多記理比売命 狭依毘賣命 多記都比売命(宗像3女神)
    社  挌    旧村社
    神  徳    国家鎮護、交通安全、醸造守護、五穀豊穣、金運・財運の
             隆昌、芸能・稽古事成就、立身出世、長寿延命、災難除け、他
    例  祭    春祭 4月3日、秋例祭 11月3日

          
     宗像神社は埼玉県寄居町藤田地区に鎮座する。埼玉県道30号飯能寄居線を国道140号方面に向かい、左手に寄居町立寄居小学校を過ぎてから国道手前の細い十字路を左折し道なりに真っ直ぐ進む。2,3分進むと八高線の踏切があり、その先左側に宗像神社は鎮座している。
     駐車場は神社正面入り口、鳥居の向かい側の公会堂と、その隣にある数台駐車できるスペースがあり今回は集会所の駐車場に停め参拝を行った。
          
          
    宗像神社
     宗像神社は、奈良時代文武天皇の御代大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、舟や筏の交通を護るために、九州筑前(福岡県宗像郡)の宗像大社の御分霊を移し祀ったものです。
     宗像大社は、文永弘安の役(蒙古襲来)など北九州の護りや海上の安全に神威を輝かしていました。この地に御分霊を移してからは、荒川の流れが定まり、人々の崇敬を篤くしました。藤田五郎政行が花園城主(平安時代)として北武蔵一帯を治めるにあたり、ここを祈願所とし、北条氏もまた祈願所にしていました。
     春祭は4月3日、秋の例祭は11月3日で、当日は江戸時代から伝わる山車7台を引き揃え、神幸の祭事がにぎやかに行われます。なお、拝殿には寄居町出身の名彫刻家、後藤功祐の彫った市神様社殿があり、町の指定文化財として保存されています。
     祭神は、天照大神の御子である多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、狭依比賣命(きよりひめのみこと)、多岐津比賣命(たぎつひめのみこと)です。
     寄居町・埼玉県
                                                          案内板から引用

     この荒川はその名称通り、古来から「荒い川」であったという。その為か宗像神社は荒川のすぐ北側に鎮座している。宗像神社の由緒等を記した案内板とおり、「荒川の氾濫をしずめ」、「舟や筏の交通を護るため」、この地に海上安全の神として有名であったこの社の御分霊を移し祀ったということは道理であるし納得できることだ。
             
                                拝   殿
               
                             拝殿の右側手前にある町指定文化財,旧市神様社殿の案内板
    旧市神様社殿
      寄居町出身の彫刻家後藤功祐によって明治初期に作られたとされる、高さ約1.2メートルの社殿です。
     正面の屋根が曲線形に手前に延びて向拝(ひさし)となる「流造」と呼ばれる構造を持ち、細密な彫刻が全体に施されています。
     旧寄居町市街地の開拓当初には、市神様としてまつられ、商業の守り神として多くの人の信仰を集めていましたが、明治四十二年に小社合祀を行った際、ここに移され、現在は拝殿の中に保管されています。
     平成9年1月   寄居町教育委員会
                                                                                                                         案内板から引用
             
                              宗像神社 本殿
     宗像神社の創建の由来として意味深いことを記述しているホームページがある。それによると寄居の中心を流れる荒川は、大雨の後には必ずといってよいほど氾濫し、流域に住む人々は、毎年のように、洪水の被害を被っていたといわれて、口伝によればそうした荒川を鎮め、舟の運行の安全を祈り、人皇第42代文武天皇の大宝元年(701年)に宗像大社(福岡県:沖津宮、中津宮、辺津宮の三宮の総称)のご分霊を祀ったものと伝わっている。
     しかし、大宝元年(701年)以降、資料等で宗像神社という名は、明治の神仏分離まではないようで、かわりに「聖天宮」の下社として繁栄してきたという記録が残っている。
     
     聖天宮は、弘仁十年(819年)に弘法大師が修行中に寄居を訪れ、象ヶ鼻の荒川岸壁の岩を見て、大海を渡る巨像の姿を思わせるということから、そこを霊地とし自ら聖天像を彫り、その後、その地に住む人々が、祠堂を設けてお祀りしたことに始まったと伝わっている。聖天宮は、男体を祀る上宮と、女体を祀る下宮があり、上宮が象ヶ鼻に、下宮が宗像神社と配祀されていた。聖天宮は、武将の信仰も厚く藤原基経、源頼義、源義家が戦勝を祈願したといわれ、また、鉢形城主の北条氏邦も、聖天宮を城の鎮守としていて、その後徳川将軍家からも代々御朱印をうけ、二十石を除地として与えられていた。そういった聖天宮の繁栄から、宗像神社という名よりも、聖天宮下宮としての記録が多く残っているものと考えられている。ただ、聖天宮の信仰が盛んであった時代も宗像大社になぞらえ、下宮を辺津宮、下宮にある弁天社(現在の摂社にあたる厳島神社)を中津宮、上宮を沖津宮と呼んでいたようで、宗像神社としての信仰がそういった形で残っていたようだ。
     埼玉県、特に秩父地方を包括するこの北埼玉地方には古来より「聖天信仰」が深く土着、信仰されている何よりの証拠であろう。

     
    また社境内には神池があり、弁天池と呼ばれている。神池の中に島があり、厳島神社が祀られている。現在は御祭神は宗像神社と同じだが、江戸時代までは弁天社としてのお参りが絶えなかったと伝えられている。
     これは宗像神社の主祭神の狭依毘賣命は、又の御名を市寸島比売命と言い、弁財天と同神と考えられていることからもそのように推察されたようだ。


            拝殿の左側にある御興殿            社殿左側で、道路沿いにある八坂神社
              
                    境内社である長男神社・丹生神社・罔象神社等

         社殿右側にある弁天池と厳島神社         厳島神社の隣、高台に鎮座する境内社
                                          金刀比羅宮(左)、琴平神社(右)

     ところで宗像神社の例大祭は、毎年春と秋に行なわれる。春季例大祭は、4月3日に神社で祭典が行われ、祭典のみで鳳輦、山車の渡御等は行わない。秋季例大祭は11月第1日曜日とその前日の土曜日に行われる。近年の取り決めにて渡御、還御は順次の通り行われる。年番町は、本町、中町、栄町、武町の四町内が交替で行い、付祭りの際は、本町から武町の間が歩行者天国となり、各町山車は、その中で曳きまわしを行う、大変盛大なお祭りのようである。筆者は残念ながら実見したことがないので、今度ゆっくり体現してみたいものだ。

             
                    宗像神社の隣を通り過ぎる八高線を偶然撮影

     宗像神社は大宝元年創建という歴史ある社はもちろんのこと、現在でも五穀豊穣、家内安全、交通安全の神として、また寄居の鎮守として、地元の人々から信仰されている。大切にしたい日本文化の財産がここにも存在する。



                                                                                                                             

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