古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

行田八幡神社

 行田市は埼玉県北西部に位置する人口8万7000人の都市である。この地域は古代「忍庄」と言われ、行田、谷郷、長野、上中条、小曽根、下川上地域が属していた。戦国時代,行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、忍城(おしじょう)を築城した。文明11年(1479)の古河公方足利成氏の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられる。当時の城主は成田顕泰といい、以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで、約百年のあいだ成田氏が忍城主であった。
 
永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いている。

 忍城の築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっていて、そこに残る島や自然堤防をたくみに利用して、忍城が築かれた。別名「浮き城」としてその名を轟かせ、関東七名城に謳われた戦国の世を生き抜いた名城で、行田市各地域に点在する神社も忍城防衛の一拠点として築かれたと考えられる。

 この「ぎょうだ」は、「(湿地から)田に成つた地」の「行(なり)田」の転とされている説もある。

所在地   埼玉県行田市行田16-23
主祭神   誉田別尊    第15代天皇、皇祖神や武神(弓矢神)
        気長足姫尊  仲哀天皇の皇后 安産、子育ての神
        比亮大神    主祭神の妻や娘、宗像三神の説もあり
        大物主神    蛇神、水神、雷神、稲作豊穣の神、疫病除けの神
                  酒造り(醸造)の神、国の守護神

         神素羞鳴尊  嵐・暴風雨の神、厄除けの神、縁結びの神
                  安産の守護神
社  格   行田総鎮守
通  称   西向き八幡  封じの宮   
例  祭   例祭9月15日、祈年祭3月15日、行田八坂祭7月下旬土・日
         
愛宕神社祭10月23日など



 熊谷市から国道125号線で行田市方向に向い、「行田郵便局入口」の信号を右折し、同左郵便局を通りすぎると左側に当神社がある。駐車場は、参集殿の前の道路沿いにある。よく整備されていて便利である。行田の市街地の中心部にある神社。かっては忍城のあったところで江戸の北部を守る大事な要衝だった。八幡神社は武門の守り神であり、藩主や藩士の信仰も厚かったという。その面影を残す立派な社殿だ。



行田八幡神社御由緒

 当神杜は、源頼義・義家が、奥州討伐のためこの地に滞陣した折、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられています。
 当初、佐間村田中に鎮座、俗に田中(でんちゅう)八幡と称せられましたが、天文年中に、現在の地に移されました。この時、忍城主成田下総守長泰公は深く当杜を崇敬して社殿を修補し城下総鎮守といたしました。是れより、「城主八幡」また社殿の向きから.「西向き八幡」の名があります。
 応神天皇、神功皇后を主祭神とし、比売神、
大物主神素羞鳴尊
を配祀神として御祀りしています。
 現在の社殿は、皇紀二千六百五十年を記念して造営が進められ、平成元年十一月の竣功であります。次いで平成十二年には参集殿が竣功いたしました。

                                                                                 境内案内板より引用








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宮塚古墳

 埼玉県熊谷市広瀬にある古墳。荒川中流域の段丘上に所在し、小規模古墳が密集する広瀬古墳群のなかの1基で、古墳時代末期の数少ない上円下方墳として貴重である。保存の状態も良好で学術上価値が高いことから、1956年(昭和31)に国の史跡に指定された。7世紀後半の築造と推定され、東辺17m、西辺24m、高さ約2m規模の下方部の土盛りに、径約10m、高さ約2.5mの上円部を築成。

 関東地方では珍しく、墳丘は上円下方の形態をとどめるが、元来円墳か方墳であったのが後世の耕作によって削られたという見解もあり、葺石(ふきいし)の一部も残存している。山王と称せられる平地にあるため「山王塚」、あるいは「お供え塚」の別称をもつ。


 所在地    熊谷市広瀬608
 築造時期    7世紀後半頃
 区  分     国指定史跡(1956年5月15日)
 形  状     上円下方墳 
 埋葬者    不明

                                                   
          
 熊谷市広瀬地区、熊谷運動公園の南側に位置し、雑木林の中に静かに佇む。専用駐車場もなく国指定史跡として整備はされていないので、宮塚古墳という名前は知っていても、どこにあるのか地元の人もあまり知られてはいない現状だ。正直この古墳に行く専用道路も一本もあればありがたいのだが、周囲は畑に囲まれてそれすらない。
             
                  宮塚古墳から少し離れた道路沿いにある案内板 

  この古墳の特徴は、高さ約2mの方台の上に円墳が乗っていて、上円下方墳と呼ばれる全国的にも珍しい古墳である。天智天皇陵にも使われているとの事。円墳には盛土が崩れないよう装飾を兼ねた葺石が所々にあり、最上部には石祠がある。

  上円部には確かに葺石らしい石が多数ある。         上円部には石祠が一基ある
              
 下方墳部付近を撮影。保存状態も決して良いとは言えず、下方墳部とはいえ畑のあぜ道とも何故か見えてしまうくらいの状態だ。


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田中神社

 熊谷市三ヶ尻地区には式内社論社が2社存在する。一社は三ヶ尻八幡神社であるが、もう一社はこの田中神社である。境内はそれほど広くなく、式内社論社の中でも小さい社と言われている。しかし規模は小さいながら式内社論社としての風格がある。 
 この田中神社の境内には要石と言われる磐倉(ご神体)、境界石が存在し、幡羅郡、大里郡、榛沢郡の境界に建っているそうだ。関東で要石があるのは、鹿嶋神宮、香取神宮が有名で他8例のみ。埼玉では初の発見と言うことらしい。
 また、古来より田中天神と云われて、産土神・ 水神様を信仰していた。天神とよばれるが菅原道真の天神ではなく、古代以来の天津神天神信仰であり、小さい社とはいえ歴史の淵源は深い。明治末年、三尻字新堀新田の八幡神社に一時合祀されたが、その後まもなく、氏子の申立によつて現地に復帰再興した。
 神体として瓢箪形の石三個と金幣三本を本殿に祀る。

所在地    埼玉県熊谷市三ヶ尻671
主祭神    武甕槌命 (配祀)少彦名命 天穗日命
         『神名帳考証』(延経)天津彦根命
           『式社考』『神社要録』『大日本史』武甕尻命
         『神社命附』『風土記稿』『武乾記』少彦名命・天穂日命
社  格     旧村社 延喜式神名帳 田中神社 武蔵国幡羅郡鎮座
由  緒    由緒不明
        
江戸時代は「天神社・天神宮・田中天神社」と称していたが、明治末年三尻字新
                  堀新田の八幡神社に一時合祀、その後まもなく、現地に復帰再興したという。
例  祭
      1月25日 例祭

 
 国道140号彩甲斐街道と埼玉県道47号深谷東松山線の交差する、武体西交差点の南西側すぐそばに田中神社は鎮座する。荒川の扇状地内。四方を水田に囲まれている。もとは天神社。また水田の中にあるので田中天神といわれるようになったという。
 駐車できるスペースはなく、路上駐車しようにも日頃より交通量の多い県道のため、武体西交差点脇にあるコンビニエンスの駐車スペースを利用し、そちらに駐車して参拝する。
 
             県道の歩道から一の鳥居を撮影
 
 社は規模は小さいながら式内社論社としての風格がある。また参道も以前に比べて綺麗に整備されているようだ。
 境内には要石があり磐倉(ご神体)、境界石であり、幡羅郡、大里郡、榛沢郡の境界に建っているそうだ。また、古来より田中天神と云われて、産土神・ 水神様を信仰していた。天神とよばれるが菅原道真の天神ではなく、古代以来の天津神天神信仰であり、小さい社とはいえ歴史の淵源は深い。
  
  二の鳥居の手前左側にある地震封じの要石     鳥居奉献記念の石碑にも要石の由来等紹介
                                              している
     
 
関東で要石があるのは、鹿嶋神宮、香取神宮が有名で他8例のみ。埼玉では初の発見と言うことらしいが、詳しいところはわからない
               
田中神社
 抑抑(そもそも)武蔵国44座の1社とたたえ奉る延喜式内田中神社の御祭神は武槌命少名彦名命天穂日命を奉祭し土人の古き伝説には田中天神と呼び菅原道真公併祀の鎮守にて家内安全交通安全学問高揚の神として氏子の崇敬今に壮んなり。
ここに御影石の大鳥居を御奉献そ大神の御安泰と氏子の守護と繁栄を御祈念申し奉る。
右側に埋存せる天然石は常陸国鹿島の要石と同様の伝説を存す、又武蔵国幡羅大里榛名の三郡の彊域を示す境界石として永遠に伝えん。
                                                                                                                                                                                                   社頭掲示板より引用

  『式社考』『神社要録』『大日本史』では田中神社の祭神が武甕尻命記述されている。この武甕尻命は武甕槌命と同人物というらしいが、本当はどうであろうか。旧事本記には大貴己命と系譜として、五代孫に武甕尻命の名前が出てくる。

旧事本記
     大己貴(おおむなち)命が胸形の奥津宮の多紀理毘売命を娶して生める子、阿遅?
   高日子根神(迦毛大御神)と妹高比賣命(下光比賣命)


     大己貴(おおむなち)命が胸形の辺津宮の高(津)降姫神を娶して生める子、都味歯八重事代主神と妹高照光姫大神命。


     孫都味歯八重事代主神、八尋熊鰐になりて、三島溝杭女活玉依姫のもとに通って・・云々。


     三世孫天日方奇日方命、四世孫健飯勝命、五代孫健甕尻命、六世孫豊御毛主命、七世孫大御気主命、八世孫阿田賀田須命 和邇君等祖 云々。十一世孫大鴨積命、磯城瑞籬宮(祟神朝)御世賜加茂君姓。次、大友主命同朝御世賜大神姓。

ここでは武甕尻命は決して武甕槌命と同人物ではない。謎はますます深まる。



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三ヶ尻八幡神社

  三ヶ尻八幡神社が鎮座する熊谷市。その広さは武蔵国の21郡中、幡羅、大里2郡の大部分、榛沢、男衾2郡の一部と4郡にまたがる範囲を占める。特に幡羅郡は、『和名抄』によれば七郷一余戸という北武蔵最大規模の郡であった。広さだけではなく、熊谷市のあった荒川流域の北側は早くから開けた地域であり、古くは武蔵國が東山道に属していていた影響で、隣国の上野(群馬県)・下野(茨城県)とともに、早くから文化が発達し、稲作や養蚕・機織などがさかんで、人口も多かったものと思われる。
  熊谷市域の古墳は、石原・広瀬・肥塚・中西・箱田・柿沼・上之・玉井・別府・上中条・三ヶ尻・吉岡など、163基の古墳があったといわれている。おおよそ6~7世紀につくられた古墳が多いという。
 三ヶ尻周辺では荒川流域の北岸にあって、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であったことから、早くから稲作が行われていたらしい。またこの地域の三ヶ尻古墳群にはかつて11カ所の古墳があったことが記録されていて周辺は宅地化が進み、ほとんどの古墳が消滅してしまったが、それでも数基の古墳は保存されている。

           
                      ・所在地 埼玉県熊谷市三ケ尻2924
                      ・ご祭神 誉田別命 (合祀)大日霊貴命 菅原道真
                      ・社 格 旧村社 延喜式神名帳 田中神社 武蔵国幡羅郡鎮座
                      ・例祭等 祈年祭 325日 例祭 415日 新嘗祭 128
                              *祭日は「大里郡神社誌」を参照
  三ヶ尻八幡神社は、埼玉県道47号線深谷東松山線で三尻中学校のすぐ南側、三尻公民館の奥に鎮座する。北側には三尻小学校があり、丁度2つの学校に挟まれた場所にある。駐車スペースはその三尻公民館を利用して参拝を行った。
             
                                         県道沿いにある三ヶ尻八幡神社社号標と一の鳥居
                           
                           一の鳥居より参道を望む
『日本歴史地名大系』での 「三ヶ尻村」の解説
 [現在地名]熊谷市三ヶ尻・御稜威(みいず)ヶ原
 幡羅郡深谷領に所属(風土記稿)。荒川左岸の櫛挽台地南東縁の櫛挽面と寄居面にまたがり、北は拾六間村、南は大里郡大麻生村。中世は三ヶ尻郷に含まれていた。「風土記稿」に「古ハ甕尻又尻トモカケリ、村名ノ起リ詳ナラス、或云当村ニ狭山トイヘル山アリ、其形瓶ヲ覆フニ似タルヨリ起リシ名ナリトイヘト、ウキタル説ニテウケカヒカタシ、(中略)又此村ハ当郡及大里・榛沢三郡ノ後ニ当レハ、今ノ名起レリナト土人ノ伝ヘアリ、是ハ今ノ文字ニ改メシヨリ附会セルコトナルヘク」とあり、二つの村名由来が載るが、「大日本地名辞書」は「村内なる狭山の形容、を覆せて、尻を見るが如くなれば、此名の起り明白なり」と前者の説をとっている。狭さ山とは現在の観音山で、標高七七・四メートルの新生代第三紀の残丘、櫛挽台地と沖積扇状地の接する地点に突出している。
 天正一八年(一五九〇)の三千石以上分限帳(「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)によると、三宅惣右衛門康貞は「武州見賀尻」で五千石を宛行われたが、慶長九年(一六〇四)に五千石を加増され三河挙母藩に移封となった(寛政重修諸家譜)。
                       
                                                      寛永6年(1629)築造の二の鳥居
             
                              
台地面に向かって参道が続く。
                                    実はこの参道は南(正確には南西)方向で、社殿は北向き

              
                                                     参道途中に設置されている案内板       
 八幡神社
 熊谷市三ヶ尻八幡神社社叢ふるさとの森  昭和59年3月30日指定(埼玉県)
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。
 この「ふるさとの森」八幡神社は、天喜4年(1156)、鎮守府将軍源頼義と、嫡男八幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、特にこの地に兵をとどめ、戦勝を祈ったところであります。
 ここは、平成12年に新装となった本殿・拝殿を中心として、多くの大樹が緑豊かな社叢を形成し、中には、義家が愛馬をつないだといわれる杉の巨木も,神木として時を語っております。
 林相は、主に、スギ・ヒノキ・スダジイ・モミ・カシなどから構成されています。
 平成16年3月    埼玉県熊谷市
                                                        掲示板より引用

「ふるさとの森」の案内板が設置されている場所は、広い空間となっていて、現在は参拝用の駐車スペースとなっているが(写真左)、ここには「三尻村 靖国神社」の社号標柱が立ち、広いスペースの一番西側奥には靖国社がひっそりと鎮座している(同右)。
         
                              拝 殿          
         
                                                                        本  殿 
 
      拝殿手前左側にある手水社                        拝殿手前にある祓戸大神
                                                          瀬織津姫命と何か関係があるのだろうか。
 境内には数多くの石碑が並び祀られている。この地に鎮座している社に対して、昔から延々と今に至るまで、氏子・総代を初めとする多くの方々が崇高の念をもって祀り、奉納してきた歴史を垣間見る思いがする。
           
 八幡神社  
篆額 鶴岡八幡宮 宮司 吉田茂穂
 当社の創建は、第70代後冷泉天皇の御宇天喜4年、鎮守将軍源頼義・義家父子奥州出陣の砌、当地に旌旗を停め戦勝を祈願したことに溯る。寿永2年後の征夷大将軍源頼朝、当時の三ヶ尻郷を相模国鶴岡八幡新宮若宮御領として寄進されてより、当社は同宮の分祀として源家武士の崇敬篤く、更には三ヶ尻の里の総鎮守として庶民の尊崇を集めていたのである。
 寛永6年びは時の領主天野彦右衛門深く当社を崇敬し、八幡型大鳥居一基と鷹絵額五枚を献上している。天保年間、三河田原藩家老華山渡辺登、故あって当地に滞在し著した訪甕録は、当時の深厳な境内と総彫刻極彩色の本殿の威容を記し、往時の地域住民の崇敬深きを伺わせているのである。下って昭和20年、郷社列格の栄に浴し、昭和63年嘗て華山も紹介した明和5年建造の本殿が熊谷市の文化財に指定された。
 かくして氏子はもとより、近郷近在からの崇敬弥増し、神威は益々高まった、平成4年には由緒深き本殿の尊厳を維持するべく、覆殿改築に着手、工事は順調に進捗していた。ところが同年10月20日夜半、突然原因不明の火災に遭い、完成を目前としていた覆殿はもとより本殿以下全ての社殿を焼失するところとなった。まさに青天の霹靂、関係者は茫然と自失寸するばかりであった。しかし一同悲しみを乗り越え社殿再建への思いに結集し、八幡神社御社殿復興準備委員会を結成、計画の立案にとりかかった、平成6年には予て要望していた第61回伊勢神宮式年遷宮の古殿舎撤去古材譲与も聞き届けられろところとなり、約56石の桧材が平成6年7月の佳日を卜し遙か伊勢路より搬送された、また、本社鶴岡八幡宮には物心両面に亙る支援を忝のうし、社殿再建への気運はいやが上にも加速した、平成7年八幡神社御社殿復興奉賛会を設立、伏して広く浄財を募ったところ、赤誠溢れる氏子崇敬者等の暖かい協賛を賜り、遂に平成10年5月15日天高く響く着工の槌音を聞いたのであった。幸いにも本社との御神縁により卓越せる技術を誇る建設業者に工事を依頼し、加えて地元建築業者の協力を仰ぎつつ、本殿・拝殿・透塀の改築につき、懸案の境内整備事業も完了した。時恰も皇紀2660年、御祭神応神天皇降誕1800年の佳年であった。
  社殿完成により早一年、新緑目にしみる神域に思いを新たにし、いささか慶事の経緯にふれその概略を石に刻し、併せて赤誠を捧げし各位の芳名を後世へ伝えんとする次第である。
平成13年12月吉日
八幡神社宮司 篠田宣久謹書

                                                     境内石碑より引用
 この三ヶ尻八幡神社は鶴岡八幡宮と古くから交流があったらしい。
 天喜4(1056)年源頼義、義家父子は奥州争乱鎮定(前9年の役)に出陣の折、三ヶ尻に来て戦勝祈願を行っていることから始まる。今も境内には、義家が愛馬をつないだという杉の古木が神木として祀られている。続いて寿永2(1183)年、後の征夷大将軍源頼朝は当時の三ヶ尻郷を相模の国鶴岡八幡宮若宮御領として寄進し、同宮の分祀として尊崇を集める。所願成就のため武蔵國波羅郡内尻(みかじり)郷を相模國鎌倉郡内鶴岡八幡新宮・若宮御領として寄進する旨が記され、頼朝の花押のある寿永2年2月27日付の文書である。
 この縁で、三ヶ尻に奉納米を作るため神饌田を復活させ、三ヶ尻小学校、籠原小学校、鎌倉の鶴岡八幡宮子供会の子供たちが合同で田植えをし、稲刈りをし、刈り取った米は11月23日に鶴岡八幡宮で行われる新嘗祭に奉納される。三尻八幡神社の氏子さんたちもまた、毎年、大注連縄を編み鶴岡八幡神社に奉納している。このように、熊谷の三ヶ尻八幡神社と鎌倉の鶴岡八幡宮は我々が思う以上に深い関係があったようだ。
                                   
                                      社殿
の左側には「八幡太郎義家公駒留めの杉がある。
 源頼義と幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、この地に兵を留めて戦勝祈願をしたとされ境内には義家が愛馬をつないだとされる杉が神木としてのこっている。
                                
境内社 琴平神社(写真左側)・浅間神社(同右)   合祀社 八坂社、雷電社、稲荷社等

   琴平、浅間神社手前に鎮座している御嶽神社            社叢の奥に鎮座している境内社・産泰神社 
            
  
ヶ尻八幡神社の社殿横には「社日」と言われる石柱が存在し、各面には、五柱の神名が記されている。
 「天照皇大神、大己貴命、稲倉魂命、埴安媛命、少彦名命」。
天照皇大神が正面最上位で、その右面から上記の順で並ぶ。
            
                             社殿からの一風景
 ところで三ケ尻八幡神社はかつて「甕尻郷」が鶴岡八幡宮領となり、その遙拝のために勧請された社である」という。かつてこの地は三ヶ尻ではなく甕尻と呼ばれていた、ということだ。では「甕」とはなんという意味であろうか。
「甕
 貯蔵や運搬に用いられる容器としての日常生活道具と同時に、弥生時代中期には北九州、山口地方を中心に埋葬のために遺体を納める容器として甕が使用され、
甕棺墓の風習があったことが判っている。弥生時代の甕棺墓の特徴は、成人専用の甕棺が作られた点、青銅製武器類(銅剣・銅矛・銅戈など)や銅鏡などの副葬品が見られる点にあり、一般集落構成員の墓と有力者層の墓とは別に造られるようになった。青銅製品などの副葬品にも差が出てきたり、この地域社会にいくつかの階層ができあがっていったことがわかる。
  他の利用例として
 
(1)祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」とあり、祭祀用として重要な用具だったことが判る。
  
(2)「播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境としたとも伝えている。
 
これらの例から、大甕(おおみか)は、酒を入れた器で、神事に使われ、また何らかの境界に埋められることもあったことが知られている。
 
弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎え、弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。このような変遷は、地域社会の大きな変貌があったと考えられる。
  このように「甕」は、古代日本において、生活の中だけでなく、埋葬、祭祀の際にも重要な役割を果たす用具だったことが窺わせる。

 さてこの「甕」を冠した神々は記紀等に詳しく記載されている。
槌命
    雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。
   武(タケ)は美称、甕槌(ミカヅチ)は「甕ツ蛇(みかつち)」と訓む。香取の神は経津主 (ふつぬし)命で、フツヌシは「瓮ツ主(へつぬし)」と訓む。『常陸国風土記』のほ時臥山説話は、蛇神信仰   から甕の神(鹿島・香取神)信仰に移っていたことを物語る説話と考えられている。
速日神(ミカハヤヒノカミ)
 神産みにおいて伊弉諾がカグツチの首を切り落とした際、十拳剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱であり、火の神とされる。
  
建御雷男神と同様に刀剣の神であるとも言われる。『日本書紀』には武甕槌神の先祖であるとも記されているが、その後に樋速日神、甕速日神、武甕槌神が同時に生まれたとも記されている。
之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤヂヌミ)
 大国主神の 子孫で、天之甕主(あめのみかぬしの)神の娘、前玉比売(さきためひめ)を娶す。
   (* 前玉比売は前玉神社の祭神)

天之主神 (アメノミカヌシ)
 前玉比売の親神
主日子神(ミカヌシヒコ)
 大国主神の 子孫の速甕之多気佐波夜遅奴美神と前玉比売との間に生まれた神

津日女命(アマノミカツヒメノミコト)
 出雲風土記などに記載されている出雲神話の神という。
天津(アマツミカボシ)
 「日本書紀」にみえる神。高天原(たかまがはら)にいる悪神。経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)が葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するためにつかわされる前に服従された。
 別名に天香香背男(あまのかかせお)。
 
日本神話に登場する星神で、悪神と明記される異例の存在である。


 このような「甕」を冠した神々と「甕尻郷」の甕とは何か関連性があるのか、それとも単なる偶然か。埼玉県美里町広木に鎮座する甕甕神社近くに鎮座する延喜式内社 田中神社の祭神、武甕尻命との関係にも興味が広がった。



 

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山田淡州神社

  伊古乃速御玉比売神社の周辺には淡洲神社が濃密に分布していて、その特徴は南北方向には広範囲だが、東西方向は狭い。淡洲神社は滑川町土塩、福田、山田に、大雷淡洲神社が滑川町山田に、阿和須神社が滑川町水房にある。因みに「淡州」と書いて「アワス」と読む。文字通り四国「阿波国」に関係する社である。不思議なことだが関東地方には「アワ」の名がついた神社が数多く存在する。千葉の「安房」が、徳島の「阿波」から来ていることは有名だが、阿波国は「粟国」と書かれた時代もあり、阿波国内に「粟島」「淡島」があり、「阿波」「安房」「粟」「淡」、みな「阿波国」発祥の地名だそうだ。
 この淡州神社が鎮座する比企郡も実は「阿波国」と親密な関係があった地帯のようで、平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場するが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説がある。
  ところで『埼玉名字辞典』において日置部一族は忌部氏、齋藤氏と同族であるとの記述がある。忌部氏は大和時代から奈良時代にかけての氏族的職業集団で 、古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・宮殿、神殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる。アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とし、天太玉命の孫天富命は、阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀を植え、また太玉命社を建てた。これが、安房社で、その地は安房郡となりのちに安房国となったと伝えられる。いま、安房神社は安房国一宮となっている。
 安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していて、安房国忌部の同族である日置一族は武蔵国比企郡に土着して、地名も日置の語韻に近い「比企」と称したという。この両国は古代から密接な関係があったらしい。「淡州神社」という一風変わった名称の社の存在こそ何よりの証拠ではないだろうか。
             
            ・所在地 埼玉県比企郡滑川町山田765                                                  ・ご祭神 誉田和気命 息長足日売命 素盞鳴命
            ・社 格 旧山田村鎮守 旧村社
            ・例祭等 祈念祭 315日 禦祭 51日 夏祭 714
                 秋祭 1016日 新嘗祭 1215日 大祓 1227
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0855273,139.3719081,18z?hl=ja&entry=ttu           
 淡州神社は埼玉県道250号線、森林公園停車場武蔵丘陵森林公園線を道なりに北上して行くと、山田交差点の西側、進路に対して左側に淡洲神社が鎮座している。駐車場は一の鳥居前に駐車できるスペースがあり、そこに車を停め参拝を行うことができる。
           
                         正面社号標柱と社の説明板
 淡洲神社 滑川村大字山田(上山田)
 祭神 誉田和気命 息長足日売命 素盞鳴命
 由緒 当社は神功皇后が三韓鎮定に大功があったのを里民尊崇して此の地に神霊を奉斎したと伝承される。神社所蔵の古書によれば創建の年代は応永二(西暦一三九五)年とあり、往古は邑の総鎮守であったと云う。明治四年三月村社の格に列す。境内地五百七十七坪あり老樹うっ蒼と茂り古社の風格を漂わせている。(以下略)                               案内板より引用

 
           山田淡州神社正面鳥居             斜面上に鎮座、石段を上ると境内が見える。      
              
              
                                      拝 殿
 淡洲神社  滑川町山田七六六(山田字宮前)
 当地は滑川左岸の駅開谷の低地と丘陵部に位置し、山田の地名は、この開析谷に聞かれた田に由来する。古来、水利が悪く、地内には天水を貯え耕作に供した溜池が多く点在しでいる。
 当社の創建は『明細帳』によると、「勧請年紀不詳、往古紀州神社御分霊ト言伝而已尤モ宝永七年(一七一〇)三月霊代ヲ改メテ鎮守たり」とある。この紀州神社とは、元の和歌山県海部郡加太町鎮座の式内社加太神社と思われる。俗に淡島明神と称し、近世になり「淡島の願人」と呼ばれる者たちが、淡島様の功徳縁起を説いて諸国を回り、関東にもその信仰が広まっていた。こうした背景により当社も勧請されたものであろう。また、当社内陣には、「正一位阿和能須大明神宝永七年庚寅九月吉日武州比企郡上山田村鎮守」と記された金幣が奉安されており、「霊代ヲ改メテ」の記載は正一位の神位拝受を機に金幣が納められたことを示している。
 別当は東光寺であった。同寺は医王山瑠璃光院と号した天台宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離により廃寺となり、現在では当社の南方に小さな堂が建つのみとなっている。
 明治四年に村社となり、同四十年七月には字大沼に鎮座する無格社八雲神社を本殿に合祀した。昭和二十七年、拝殿の造営に伴い本殿並びに幣殿も大修理を行っている。
                                                       「埼玉の神社」より引用

 淡州神社の祭神が品陀和氣命というのも不思議な感じだ。八幡神社でよさそうなものだが、元々の御祭神は淡洲明神で、水の神様だったのだろう。伊古乃速御玉比売神社項でも書いたが埼玉県で溜池がとても多い比企郡滑川地方で、明治の明神号使用禁止で御祭神が差し替えられたのかも知れない。
               
 拝殿の左側に向かい、石段を上って行くと御嶽山大神の石碑と石斧群がある(写真左)。正面は御嶽山大神。八海山大神、覚明霊神、清龍祓戸大神、十二大神、毘古那神、火産霊神、塞三柱大神、一心霊神等神々の石碑が立ち並ぶ(同右)。
                
                                 拝殿の左側に向かうと奥に天神天満社が祀られている。
                           
                                        天神天満社の奥にひっそりと佇む石神らしき石

 磐座あたりかと考えたが、それにしてはあまりに寂しい状態で放置されていた。この淡州神社にはこのような石神がよく見ると多数存在しているようだ。人類の祖先が道具として、石を利用し始めたことは太古のことであり、人類の歴史が石器時代で幕を開けたように、石は人類と深い関わりを持ちながら共に歩んできた。日本でも多数のおびただしい旧石器時代からの石器が発掘されている。日本のみならず世界の文化の出発点として石は無くてはならない存在だった。現代でも石臼や漬け物石などの生活の道具として、あるいは石仏や墓石などの信仰の対象として、または伝説の素材としての巨石や奇石、建築土木においては礎石や石積みなど、あらゆる場で根強く信頼され利用されている。

 残念ながら、時代の急速な変化によって、石の文化は生活の場から急激に姿を消しつつある。特に近年は神仏に対する畏敬の念が喪失し、信仰の対象となっていた様々な石造物は人々の記憶から消失されようとしている。時代の変化と言ってしまえばそれまでだが、寂しいことである。

 

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