古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

奈良梨八和田神社

  奈良梨宿(ならなしじゅく)は、川越・児玉往還にあった宿場で、現在の比企郡小川町大字奈良梨の奈良梨交差点周辺が該当する。この地はかつての鎌倉街道上道の拠点として、戦国時代には平時に馬3頭、戦時に馬10頭を置く伝馬宿であった。天正10年12月9日の北条家伝馬掟には、奈良梨に対して、西上州の通路にして伝馬を高見及び菅谷まで綱立すること、一日につき平時は馬3匹、戦時には馬10匹を備えて置く。それぞれ公用荷物に限り無賃で輸送すること、それ以外の荷物は一里一銭の公定駄賃を取るように指示している。
 戦国時代の後北条氏は内政に優れた大名として知られていて、早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際には大掛かりな検地を行うことで増減収を直に把握し、段階的にではあるが在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、また飢饉の際には減税を施すといった公正な民政により、安定した領国経営を実現した。伝馬制も同様に内政を得意とする後北条氏らしく細やかな規定だ。これらの事柄からここ奈良梨は戦国時代には伝馬駅宿に定められ、宿が形成されていたことを知ることができる。
所在地   埼玉県比企郡小川町奈良梨939
御祭神   建御名方命(推定)
社  挌   旧村社
例  祭   不明

      
 奈良梨八和田神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線と同県道296号菅谷寄居線が交わる奈良梨交差点の北側に奈良梨八和田神社、旧名諏訪神社は鎮座している。埼玉県道296号線沿いに嘗て鎌倉街道上道はあったと考えられ、この奈良梨も重要な拠点の一つであったことは上記後北条氏の伝馬掟でも判明している。八和田と書いて「やわた」と読むが、決して八幡系の社ではなく、諏訪神社系統のようだ。
         
 一の鳥居から二の鳥居や社叢までの長い参道。ちなみに一の鳥居は二つの県道が交わる『奈良梨』交差点沿いにあり、両県道の交通量の多さから今回撮影ができなかった。
         
                         二の鳥居正面参道

  二の鳥居の手前で右側には厳島社とその周りには水堀のような池があるが、農業用の溜池だろうか。
           
                             拝    殿
 八和田(やわた)とは、かつてのこの付近の村名だった比企郡八和田村に由来する。元々諏訪神社といい、明治23年に上横田・下横田・中爪・奈良梨・能増・高見・伊勢根・高谷の八か村が合併して八和田村を作ったので、この諏訪神社もその村社として、幾つかの神社を合祀し、村社として、現在の社名へと改称されたという。
 
              神楽殿                           本    殿 
                       
  昔、信州諏訪の大祝諏訪小太郎頼水が、東国に下る折、「神木の刺さった所を住居にせよ」との氏神(諏訪神社)の託宣によって、神木の枝をちぎって東方に投げたところ、奈良梨に飛来して逆さに突き刺さり、そのまま根を下ろして成長したという。この大杉は水を呼ぶといわれ、奈良梨の耕地は余程の日照りが続いても田植えの水に困ることがないという言い伝えがあり、氏子の人たちの信仰を集めている。
 当地では「蛇はお諏訪様の使いである」との言い伝えがあり、特に白蛇を見ると吉兆であるといわれている。現に神木の割れ目から白蛇が顔を出した時には氏子中が大騒ぎになったという。また、当地の境内にある弁天池と普賢寺は堀でつながり、弁天池に棲む白蛇と普賢寺の本尊である普賢菩薩が夜な夜な行き来をするという興味深い伝説も残されている。
                                               「埼玉の神社」埼玉県神社庁
                  
                           八和田神社の大杉

  高さ約30m、目通り約5.7mの大スギ。赤茶けた幹が威容を誇る。周辺は田園地帯のため遠くからもよく目立つ。樹齢は約800年以上と推定され、小川町の天然記念物に指定されている。

 また八和田神社の鰐口は、延徳・弘治の銘を刻したもので、もと高坂村常安寺に延徳3年(1491)大成と永順に寄り懸けられたが、その後、弘治3年(1557)男衾郡鉢形錦入の新井土佐守によって寄進されたものだといわれる。大きさは、面の径34.6センチ、胴の厚さ18.5センチを測り、鰐口としては大型である。
           
 この八和田神社の鰐口は、町指定文化財(工芸品)として小川町の指定を受けている。

 

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