堀の内羽尾神社
この藤原恒儀という人物は別名「恒儀様(ゴウギサマ)」と呼ばれ、昔から親しまれ、非常な力持ちで角力、つまり相撲が強かったと伝承もあり、土師氏の始祖野見宿禰を暗に連想させる。
・所在地 埼玉県比企郡滑川町羽尾4806
・御祭神 日本武尊 藤原恒儀
・社 挌 旧指定村社
・例祭等 春祭り 4月吉日 例大祭 10月吉日 秋祭り 10月吉日
羽尾神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、滑川消防分署交差点前の信号を右折するとすぐ右側に鎮座している。右折する交差点は大型ショッピングモールが左側にある交差点なので、経路を説明する際には、まず迷うことのない解りやすい社と言える。
社に隣接してすぐ北側には小さいながらも公園の駐車スペースもあり、身障者用の駐車スペースも設置されている駐車場もあり、そこに停めてから参拝を開始する。
参道右側にある社号標
参道正面の石鳥居
鳥居の右側に設置されている案内板
羽尾神社由緒
一 御祭神 倭建命 藤原恒儀
一 由緒
当神社は、往古より「恒儀様」と尊称され、町崇敬の産土神社である。
また、伝来の古書に「倭建命、天長六(西暦829年)年鎮座」と明記されている。
また、別の祭神「藤原恒儀」は、青鳥判官と称し、隣地東松山市に在る青鳥城址の城主で、天長六年九月二十日の卒した人と伝えられる。
後年に至り当社に合祀されたと云う。
そして、当社は、藤原恒儀の嫡子恒政と家臣藤原竹連によって創建されたと伝承されている。
明治四年村社となり、大正五年四月指定村社に昇格した。
案内板より引用
羽尾村 恒儀社
村内の産神なり、土人の話に當社は、青鳥判官藤原恒儀の靈を祀る所なり、恒儀は天長六年九月廿日卒せし人なり、今隣村石橋村の内、字内青鳥と唱ふる地に、恒儀の住せし城蹟といふものあり、享保年中當社の神官を附んとて、京都吉田家へ請しに、恒儀は力ある人にて、相撲のことにつき、清原熊鷹と云るものを撲殺せしにより、勅勘の身となりし由、王政玉と云書にも見えたれば、位階は進めがたし、是まで社號をつねきと唱へ来れど、この後はこふきと稱すべしといひしよし改號せりと、按に王政玉と云書名うたがはし、又恒儀のことも他の書に所見なければ、つまびらかならず、姑く傳るままを記せり、
『新編武蔵風土記稿』より引用
羽尾神社 参道
羽尾神社は比企丘陵の尾根の微高地先端に建てられており、一の鳥居から決して高くはない2つの石段を登ると社殿が見えてくる。この羽尾神社は今でこそ社として鎮座しているが中世には羽尾館、つまり城的機能を持つ館があったのではないかと言われている。、
現地を訪れると確かに神社背後にわずかに土塁や空堀らしい跡が確認でき、台地先端を掘り切っているように見える。ただはっきりとした明確な遺構とは言えないことも確かで、神社の建立・改築の際に相当手が入っている可能性もある。
拝 殿
拝殿の額には「鎮護宮」と書かれている。 本 殿
ところで羽尾の「羽」は羽生の地名の由来とと同じく「埴輪」の「埴」、つまり、土師族出身の移住民がこの羽尾地方に住んできたことをこの地名は意味するのではないだろうか。土師氏は土器を製作する集団を土師部といい、ハゼ、ハニシとも称していた。この滑川町を含む比企地方の地名「比企」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀 ...と関係するという説が有力で、この日置部は太陽祭祀を司り、暦に精通している。暦の精通は、当初は豊漁に通じ、農耕の発展で豊作に通じて、祭事の中心になる。つまり、日置部は、一部をシャーマンに残し、祭事の道具の埴輪や土偶に関わる土師氏になっているという。
社殿からの一風景
この日置部集団は太陽を祀る祭祀集団であり、測量をする と共に、また、製鉄や土器製作の新しい方法を身につけた技術集団である。
6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器が生産がはじまっており、8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。このことはある高度の技術者集団の移住が考えられる。
また羽尾神社の祭神である藤原恒儀は滑川村誌 民俗編によると、この人物は大麦の穂で目を突いて、片目になってしまったことから、羽尾地区では大麦は禁忌作物であり、また恒儀にまつわる片目の伝承があるという。また武蔵国郡村誌の比企郡羽尾村によれば、羽尾村の琴平社(現在は羽尾神社に合祀か?)の祭神は金山彦命だった。金山彦命は金属精錬との関わりが深い神なので、羽尾地区の片目伝承との関連性が興味深い。
つまり藤原恒儀はこの地域の古代鍛冶集団の長であった可能性が非常に高いのではなかろうか。
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「滑川ふるさと散歩道HP」等