古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

川角八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町川角1233
             
・ご祭神 (主)誉田別尊 (相)天照皇大神 春日大神
             
・社 格 旧川角村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭1010日前後
 東武越生線川角駅から北方向に進むこと1㎞程、埼玉県道114号川越越生線と交わる信号のある丁字路に達し、そこを左折する。県道を西行すること1.3㎞程にて「川角」交差点に到着、そこを右折する。道幅の狭い道路ながら両側には新旧の住宅が立ち並び、速度を落として安全に進んでいくと、正面遠方には越辺川右岸の豊かな山林が一面に広がり、その中に川角八幡神社の石製の白色鳥居が小さいながらもハッキリと見えてくる。社とは道を挟んで東側に「社務所・集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                  
川角八幡神社正面
『入間郡誌』による川角村の解説によれば、「川角村は入間郡の西北部に位し、北は比企郡今宿村に境し、東北に入西村あり。東南に大家村あり、西に毛呂村及越生町あり。川越町を去る四里。地勢西北境は丘陵なれども、村内概して広濶なる平原地にして、林野連り、河流の流域には水田を見る。土質も西北部は粘土或は砂土にして、其他は大抵黒色若くは赤色の軽鬆土也。農業の外、養蚕、製茶等の業盛にして、絹、麦、米、茶等は主要なる産物也。川角、西戸(さいど)、箕和田(みのわだ)、苦林(にがばやし)、大類(おおるい)、西大久保、市場、下川原の八大字より成る。
 川角村の地方古墳甚だ多し。殊に大字川角の東部及其飛地玉林寺の如きは其類頗る多く、玉林寺には一望一二町歩の間、約二十七八個の古墳を存する処あり。古は殆ど一面の古墳なりしならん土人呼で塚原と云ふ。塚を崩して出てたる玉石は道路普請等に用ゐ、石棺の板石は橋梁敷石等に用ゆ」と記載されている。
 また同じく『入間郡誌』には「大字川角」の解説も載せていて「川角は元川門とも記し、村の西部より中央部に及び、別に大類を隔てゝ、玉林寺と称する飛地を有せり。戸数一百十余。鎌倉街道の跡は其東部にあり。道に接して寺地の蹟あり。宿駅の存せし処あり。今や草生蟲嗚古の面影を見るべからず。小室氏、清水氏、岸氏、仲井氏を以て古しとなす」と、嘗て川角村は「
川門」と記されていたこと、また「玉林寺」と称する飛び地がある事(現在でも同じ地に飛び地はある)等を解説している。
              
                          入り口付近に建つ「道祖神」の石碑
  それぞれ側面には「右 川越道」、左側面には「左 坂戸道」と、嘗ての道標となっている。
            昔から人の往来が盛んな道であったのであろう。
        
 川角八幡神社の創建年代等は不詳ながら、平安時代にはすでに存在していたと伝えられていて、鎌倉時代には、源頼朝が奥州征伐の際に八幡神社に戦勝祈願をし、勝利を収めたことから、八幡神社は武神として広く信仰されるようになった。貞治2年(1363)の苦林野合戦により焼失、社地を当地に改めて応永年間(13941428)再建したという。江戸期には江戸幕府より社領55斗の御朱印状を慶安2年(1649)受領、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格している。
『新編武蔵風土記稿 川角村』
 八幡社 天照大神春日明神を相殿とせり、社領五石五斗の御朱印は、慶安二年に賜ひし由を云へど、小名に神田の名あり、もし當社の領地を唱へしならんには、舊くより社領ありしこと推て知るべし、南藏寺の持、
 南藏寺 新義眞言宗、今市村法恩寺の末、金剛山地藏院と稱す、前住英純今法流開山と定む、本尊薬師は銅立像にて、長一尺餘、天竺渡来の像なりと云、
 古碑 延文三年十二月十日と彫せり、

      参道途中で、境内右側にある芭蕉句碑とその案内板(写真左・右)
 毛呂山町指定記念物 史蹟 芭蕉の句碑
 昭和三十七年四月一日指定
   道傍の むくげは馬に 喰れけり(芭蕉翁)
 この句は、松尾芭蕉が馬上からむくげの花を眺めていた時、乗っていた馬が花をぱくっ、と食べてしまった様を詠んだ一句です。
 左側面と裏には<三世春秋庵連中 文政十二歳次(一八二九)己丑春三月>とあります。三世春秋庵とは、毛呂山の俳人川村碩布のことで、建碑の当時、この地の俳壇は春秋庵の最盛期でした。碩布は、文化十三年(一八一六)に春秋庵を継承し、三世と称しました。
 この句碑は、碩布の一門が建てたもので、句を記したのも碩布であると言われています。
 当初は、大字川角にあった南蔵寺の境内に建てられていましたが、大正三年(一九一四)に当地に移転しました。(以下略)
                                      案内板より引用
 
       
                    拝 殿
 八幡神社  毛呂山町川角一二三三(川角字宮前)
 当社の鎮座する川角は、越辺川流域の低地・台地に位置し、その地名は、地内で越辺川が大きく屈曲することから名付けられたという。
 社記によれば、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたころ、当地は既に村落を成していたとあり、当社は敬神の念が厚いその村人によって創建された社であるという。
 中世においては、鎌倉街道が地内を通っていたため、川角の村は繁栄し、人家も田畑も増え、当時近郷に並ぶものがないほどの大伽藍を誇った崇徳寺が建立されるに至った。
 しかし、貞治四年六月、足利基氏と芳賀高貞との戦いの際、兵火に罹り、当社も崇徳院も烏有に帰した。当社はその後、応永年間に社地を改めて再建されたが、崇徳院は再興ならず、地名にその名を留めるばかりとなっている。
 近世においても、当社は真言宗南蔵院を別当として栄え、慶安二年には五石五斗の朱印地を賜っている。
 明治初めの神仏分離により南蔵寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。また、大正元年に字原の稲荷神社を合祀したが、同社の氏子であった人々の強い要望により、昭和二九年に旧地に戻された。
 祭神は誉田別尊で、天照皇大神と春日大神を配祀するが、これは室町末期から流布された三社託宣によると思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」に記されている「苦林野合戦」とは、南北朝時代の貞治2年(1363年)に、鎌倉公方・足利基氏と宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可が鎌倉街道沿いの苦林野で戦った合戦である。
  室町幕府を開いた足利尊氏の子、足利基氏は、鎌倉府長官の鎌倉公方となり、補佐役である関東管領に上杉憲顕を起用した。また下野の武将宇都宮氏綱から越後守護職を剥奪し、憲顕に与えた。
 宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可(はがぜんか)は処遇に腹を立て、憲顕が鎌倉へ出仕するのを見計らって襲撃しようとした。この動きをきっかけに、足利基氏は総勢3,000人余りの軍勢を率いて鎌倉街道を進み、一方芳賀禅可は、嫡子高貞と次男高家に800騎を与えて戦いに向かわせた。
基氏軍と芳賀軍は、苦林野付近を舞台に激しい戦いを繰り広げ、足利基氏側が戦に勝利し、芳賀軍は宇都宮へ敗退したという。
 合戦の舞台となった苦林野一帯には、古墳時代の古墳(67世紀頃の豪族等のお墓)が数多く残されている。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の「苦林野図」には、前方後円墳のほか、多数の古墳が描かれている。 
 その中の1基である苦林古墳(大類1号墳)の上に、苦林野合戦供養塔がある。前面に千手観音像、背面に貞治4年(1365年)617日にこの地で、足利基氏、芳賀禅可両軍の戦があったことが刻まれている。
 
     拝殿向拝・木鼻部の細やかな彫刻        拝殿上部にある「八幡宮」の扁額
        
                                       本 殿
 当社の信仰としては、この地域では嘗て「八幡神社」の掛け軸が氏子の各家を回る信仰があった。八幡様と呼ばれるこの掛け軸は、箱に納められてあり、回す順番を記した板と共に一年中各戸に受け継がれた。八幡様が回ってくると、各家では床の間に掛けて、御飯を供え灯明をともして祀った。翌朝、当主が八幡様の前に座り「おかまいもできなくて申しわけありませんでした」と拝礼してから、隣の家に持参し「八幡様が来ましたので、おたの申します」と言って受け渡した。八幡様が泊まっていただく期間は一軒の家に一日から三日間ぐらいが慣例であった。また、ブク(忌服)の家は四十九日を終えるまでの間は八幡様を頂いてはいけないといわれ、この家を寄らずに隣の家に回された。

 また古くから氏子により続けられている芸能として、毛呂山町滝ノ入から伝わったものといわれるササラ(獅子舞)があり、現在でも例祭等にて奉納されている。獅子舞は、五穀豊穣や無病息災を祈願したもので、獅子頭をかぶった舞手が、勇壮な舞を披露している。
 獅子は雄獅子・雌獅子・判官の三頭で、判官は、その舞い方から別名「暴れ獅子」とも呼ばれている。そのほかの役割は、ササラッコ四名・笛吹四名から八名・蠅追い(はいおい)一名・法螺貝一名である。曲目は「前街道」「摺り込み」「宮廻り」「礼拝」「土俵の入」「塵摺り」「花掛り(はながかり)」「女獅子隠し」「發綾取」「七ッ五歌」「宮ぼめの歌」「並び摺り」「一列回り」「九座のササラ(漢字変換)」「一列並び」「水引上げ」「魚へん+尊 猫」「網掛」「發上げ・發下げ」の二十通りである。
 
        境内にある「宝篋印塔」とその案内板(写真左・同右)
 毛呂山町指定
 有形民俗文化財 八幡神社の宝篋印塔
 この宝篋印塔は、現在の川角小学校の場所にあった越生町法恩寺の末寺である南蔵寺の境内に置かれていたものである。南蔵寺は、明治時代初めの廃仏毀釈により廃寺となり、宝篋印塔も大正三年(一九一四)二葉学校(現川角小学校)の拡張に伴い、現在はる八幡神社の境内に移動された。江戸時代の天明八年(一七八八)正月に建てられたもので、当時多くの餓死者を出した天明の飢饉に対する供養塔と考えられる。平成二年(一九九〇)二月十五日、現在位置に移転改修する際、塔身(中段の方体部)の中に宝篋印陀羅尼経、観音経、般若心経等が納められているのが確認された。宝篋印塔は、平安時代末期から建立され始め、鎌倉時代から江戸時代にかけて数多く建立された、塔身に宝篋印陀羅尼経を納める供養塔である。町内に残る石塔の中では大型で優美な造りであり、たいへん貴重である。
 平成三年二月二日

                                      案内板より引用
 
       「大黒天」の石碑           拝殿手前で、道路側に祀られている
                              境内社・八坂社 
       
                          荘厳な雰囲気を醸し出している境内 

 ところで、越辺川右岸の台地上に位置している川角八幡神社に沿って南北に走る道路を北上すると、下り坂となり、その先には越辺川が流れ、その川に架かる「宮下橋」を渡る。越辺川の右岸一帯は豊かな山林となっているのに対し、左岸は景色が一変し、なだらかな平原となる。「西戸グラウンド」という運動場もあり、学生さんたちが暑い天候の中、汗を流しながらスポーツを楽しんでいた。
       
                                越辺川右岸方向を撮影 
       
                                  長閑な越辺川左岸
 目の前にある長閑な風景は、一見平穏そのものの印象が強いが、20191012日台風19号が日本に上陸し、関東・甲信・東北地方を中心に記録的な豪雨災害をもたらした。毛呂山町も、河川の越水や、土砂崩れ、住家浸水など大きな被害を受けた。この西戸グラウンドも、越辺川の越水により冠水したという。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「毛呂山町HP」「境内案内板」等
        
      
        
          
   

拍手[1回]


下川原星宮神社

 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、日本神話の天地開闢において登場する神であり、日本神話において最も初めに現れる神である。
『古事記』では神々の中で最初に登場する神である。別天津神にして造化三神の一柱。『日本書紀』の正伝には記述がなく、異伝(第一段の第四の一書)に天御中主尊として記述されている。
『古事記』『日本書紀』共にその事績は何も記されておらず、『延喜式神名帳』にも登場せず、祖神として祀られたことがほとんどない。このため、国文学者の守屋俊彦は、中国文化の天一神や日本神話の天照大神などをもとに考案された神格ではないかと推測している(『日本大百科全書』)。またこれを否定する意見もある。
 神名は天の真中を領する神を意味する。
 天之御中主神は哲学的な神道思想において重要な地位を与えられることがあり、中世の伊勢神道では豊受大神を天之御中主神と同一視し、これを始源神と位置づけている。江戸時代の平田篤胤の復古神道では天之御中主神は最高位の究極神とされている。

 現在、主にこの神を祭る神社には、妙見社系、水天宮系と、近代創建の大教院・教派神道系の3系統がある。
1 妙見社系の端緒は、道教における天の中央の至高神(天皇大帝)信仰にある。北極星・北斗七星信仰、さらに仏教の妙見信仰(妙見菩薩・妙見さん)と習合され、熊本県の八代神社、千葉氏ゆかりの千葉神社、九戸氏ゆかりの九戸神社、埼玉県の秩父神社などは妙見信仰のつながりで天之御中主神を祀る妙見社である。妙見社は千葉県では宗教法人登録をしているものだけでも50社以上もある。全国の小祠は数知れない。
2 水天宮は、元々は天之御中主神とは無関係だったが、幕末維新の前後に、新たに主祭神として追加された。
3 明治初期に大教院の祭神とされ、東京大神宮や四柱神社などいくつかの神社が祭神に天之御中主神を加えた。また大教院の後継である神道大教を中心とする教派神道でも、多くの教団が天之御中主神をはじめとする全ての神々(神祇)を祭神としている。

 その他、島根県出雲市の彌久賀神社などでも主祭神として祀られている。出雲大社では別天津神の祭祀が古い時代から行われていた。現在も御客座五神として本殿に祀られている。出雲大社が古くは高層建築であったことは別天津神の祭儀と関係があるとする説があるという。
        
             
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町下川原248
             ・ご祭神 天之御中主神
             ・社 格 旧下河原村鎮守・旧村社
             ・例祭等 例祭(妙見祭り) 1028日 
 下川原星宮神社は下川原地域のほぼ中央にあり。南西から北東方向に蛇行しながら流れる高麗川の北方に位する台地上に鎮座している。途中までの経路は森戸国渭地祇神社を参照。
 この森戸国渭地祇神社の南側には東武越生線・西大家駅がすぐ近くにあり、その駅北口から社の西側に接する南北に走る道があり、そこを北上し、東京国際大学坂戸キャンパスの運動場を左右に見ながら高麗川に架かる「森戸橋」を渡る。その後、埼玉県道114号川越越生線と交わる十字路を左折し、200m程先の信号のある丁字路を再度左折し、暫く進むと東武越生線・川角駅に到着する。要するに左回りしながら大きく迂回をするようなイメージである。東武越生線・西大家駅から川角駅はお互い繋がっている駅であるのだが、間に高麗川があり、高麗川の両岸は段丘崖となっている関係からか、最短ルートのような道路がなく、このような細かい説明となってしまう。
 東武越生線・川角駅の南口から城西大学方向に行く道路の西側にもう一本南側に伸びる細い道があり、そこを南下すると、進行方向左手に下川原星宮神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
                 下川原星宮神社参道
 参拝日は平日の午前中で、通学する学生さん方や通勤する方々も意外と多くいて、正面鳥居の撮影はその邪魔になることを考慮してできなかった。
 
               緩い上り坂の参道(写真左・右)
 下川原星宮神社の創建年代等は不詳ながら、嘗ては星宮と称されていたが、江戸時代の元和年間(16151624)に妙見社と改称し、村の鎮守として祀られていたという。慶安2年(1649)には江戸幕府より社領7石の御朱印状を受領、明治維新後の明治5年旧称の星宮に復し、村社に列格、明治40年日枝神社、稲荷神社を合祀している。
        
   参道の両側には大杉等が立ち並び、周囲の環境とは別世界の雰囲気を醸し出している。
      当日は青天の天候にも関わらず、境内は薄暗く、やや湿気もあるようだ。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下河原村』
 淺間社 村の鎭守にて、社領七石は慶安二年に賜へり、延命寺の領、

 星宮神社  毛呂山町下川原二四八(下川原字久保裏)
 下川原は高麗川と葛川に挟まれ、台地から低地に移る所にある。縄文中期・弥生・古墳・奈良・平安の遺跡が地内にあり、成立の古さを物語っている。また、当地は両墓制の行われる所として著名である。
 当地方には、流星に対する信仰を源としたと思われる、星を祀る社があり、飯能長沢の借宿神社、飯能南の我野神社、名栗の星宮神社、毛呂山の出雲伊波比神社(飛来大明神)などである。当社もこれらと同様の信仰を持つ社である。
 社記に「往昔星宮と称したが、元和年間妙見社と改称する。慶安二年妙見社領七石を賜う、明治五年旧号に復し星宮神社と称す」とある。
『風土記稿』には、妙見社の名は見えず、「浅間社村の鎮守にて社領七石は慶安二年に賜へり、延命寺の領」がある。『郡村誌』もこれをうけて「慶安二年己丑浅間社に領七石を付す。明治四年辛未浅間社領韮山県に合す」と載せている。これは『風土記稿』において妙けんと浅けんを誤ったためと考えられる。
 別当は隣接する真言宗息災山吉祥院延命寺であった。
 一間社流造りの本殿には、五八センチメートルの白幣を安置し、文政五午九月十七日造之の墨書があり、祭神は天之御中主神である。
 明治五年に村社となり、同四〇年三月には字矢島の日枝神社、字船原前の稲荷神社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                    本 殿
「埼玉の神社」によると、この社の氏子区域は大字下川原全域であり、150戸である。古くは農業が中心であったが、戦後は宅地化が進み、現在八割が会社員である。
 社の運営は、城西・上組・中組・久保・船原の各組から3年交替による5名の氏子総代と、家並順1年交替の神社当番10名により行われる。運営費は星祭りに集まる神社費を充てる。
 当社は女の神様だといわれ、婦人たちの信仰は厚い。古くは婦人の日参・月参りが盛んであり、現在も正参道向かって左に「女道」と呼ばれるゆるやかな参道が残っている。婦人たちを中心に月1回組単位で神社清掃奉仕がある。氏子全員の草刈り奉仕は古くから8月の初めで、現在は第一日曜日に行われている。
 今も赤飯を神社に上げる習慣が残っているが、戦前は各家で1029日(現在は28日)のお九日には夜中に赤飯を炊き、炊き上がると競って神前に供え、これをお籠もりをしている子供たちが頂いた。現在も祭礼日に供える家が何軒かある。
 1028日の「妙見祭り」別名星祭りとも呼ばれている。午前9時に総代と神社当番が社務所に集合し、干菓子を紙に包んで「お供物」を作る。これを午後から手分けをして氏子に配り、神社費を集める。祭典などは春祭りと同様であるが、戦前は脚折から神楽師を招いて一日にぎわったという。

  拝殿手前で参道左側にある星宮神社倉庫      参道を挟んで参道の右側にある
                          「星宮神社 社殿新改築記念碑」
「星宮神社 社殿新改築記念碑」
 御祭神 天之御中主之命
 創立年月 不詳 星宮神社ト称ス
 元和年間(西暦一六一五-一六二四) 妙見社ト改称
 慶安二年(一六四九年)徳川三大将軍家光公ヨリ村内七石ノ御朱印地ヲ賜フ 以後歴代将軍公ノ朱印状保管
 明治五年三月(一八七二年)  星宮神社ト改称シ村社ニ列ス
 明治四十年三月(一九〇七)  無格社日枝神社稲荷神社合祀ス
 大正六年(一九一七年)  旧社屋殿改修拝殿新築
 昭和二十六年(一九五一年)旧社殿瓦屋根葺替
 昭和五十五年(一九八〇年)新改築決議
 昭和五十六年十月(一九八一年)旧社殿解体(以下略)
 
  本殿奥に祀られている石祠。稲荷社か。        本殿右手に祀られている境内社・三峰社。
       
                       境内に聳え立つ杉のご神木(写真左・右)
        但し、境内には多数巨木・老木ともいえる大木が残されている。

 ところで、妙見信仰とは北極星や北斗七星を神格化した信仰である。古代、中近東の遊牧民や漁民に信仰された北極星や北斗七星への信仰は、やがて中国に伝わり天文道や道教と混じり合い仏教に取り入れられて妙見菩薩への信仰となり、中国、朝鮮からの渡来人により日本に伝わったといわれている。
 日本の妙見信仰は妙見菩薩に祈る信仰であるが、同一の仏神でありながら形を変え時代に沿った信仰形態を展開してきたということができる。そして時代の変遷を経て信仰の形態が変化していくとともに、日本各地に伝えられていった。特に信濃から関東・東北にかけての牧場地帯に多く見られる信仰で、「七」を聖教とし、将門伝説とは関係が深い信仰形態でもある。
        
                 参道からの一風景 

 秩父地方も古くから妙見信仰が伝わった地域であるが、この信仰が最初に伝わった時期はハッキリとは明らかではない。但し「秩父神社社記」等には「天慶年間(938947〕)、平将門と平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は、同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を撃ち破ることができた。以来、良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年、秩父に居を構えた際、花園村から妙見社を勧請した。これが、秩父の妙見社の創建である」と伝えている。
平良文はその後下総国に居を移したが、彼の子孫は秩父に土着し武士団「秩父平氏」を形成、武神として妙見菩薩を篤く信仰したという。

「埼玉の神社」では、社記に「往昔星宮と称したが、元和年間妙見社と改称する。慶安二年妙見社領七石を賜う、明治五年旧号に復し星宮神社と称す」との記述から、妙見社と改称する以前は「星宮」と称していた。この下川原地域は、縄文中期・弥生・古墳・奈良・平安の遺跡が発掘されていて、開発の早い地域であった。当然その地域には多くの人々が生活を営んでいたろうし、その地域独自の信仰もあったであろう。    
 では、妙見信仰前の信仰の中心であった「星宮」のご祭神は一体だれであったのだろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内社殿新改築記念碑文」等

拍手[1回]


脚折雷電社

 脚折雨乞(すねおりあまごい)は、埼玉県鶴ヶ島市脚折地域に伝わる雨乞いの伝統行事である。巨大な蛇体を作って練り歩き、雷電池(かんだちがいけ)へ導くことで降雨を祈願する。かつては旱魃の年に行われていたが、近隣の住宅地化と専業農家の減少によって途絶の危機に瀕し、1976年(昭和51年)以降は4年に1度行うことで保存継承を図っている。1976年(昭和51年)に市指定無形文化財、2005年(平成17年)に国の選択無形民俗文化財に選択された。また、2000年(平成12年)55日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。
 現在では、4年に一度、夏のオリンピックが開催される年に行われている。残念ながら2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染拡大防止のため開催中止となったが、2024年(令和6年)84日に8年ぶりの開催されている。
 先人たちの思いを今の人々が受け継ぎ、継承し、未来へ託すことへの苦労は並大抵なことではなかったはずである。現実この行事は、戦後の高度成長期、都市化や行事の担い手である専業農家の減少など社会環境の変化により、昭和39年(1964)を最後に一度途絶えてしまってしまう。しかし、昭和50年(1975)に、雨乞行事の持つ地域住民の結びつきや一体感を再認識した地元脚折地域住民が、「脚折雨乞行事保存会」を結成し、翌昭和51年、脚折雨乞を復活させたという。
 このように、嘗ては雨を神に願う行事から、現在では地域住民の絆を育む行事へと、「脚折雨乞」は時代の変遷の中で、その役割を変えながらも、地域の強い結びつきの中で確実に受け継がれていく事を願わずにはいられない。
 雷電池公園内に祀られているいささか小さい社ではあるが、地域の方々にとってはその存在自体の意義は極めて大きい。その尊敬の思いも含めて今回「社」として紹介した次第である。
        
             
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市脚折町522                  
             ・ご祭神 大雷神
                          ・社 格 脚折白鬚神社摂末社
             ・例祭等 脚折雨乞神事88日(4年毎)
 脚折白鬚神社から日光街道を南下し、200m程先の信号のある丁字路を左折する。その後道なりに進み、国道407号線との交点である「雷電池(西)」交差点を直進し、300m程行くと「雷電池公園」に到着する。その公園内に脚折雷電社は静かに鎮座している。
        
                  公園内にある雷電池
       
                  因みに「雷電池」と書いて、「かんだちがいけ」と読む。 
 『鶴ヶ島市HP』による脚折雨乞の由来として、「昔から日照りのとき、脚折の雷電池(かんだちがいけ)のほとりにある脚折雷電社(らいでんしゃ)の前で雨乞いを祈願すると、必ず雨が降った。特に安永・天明(17721789)の頃には、その効験はあらたかで近隣の人の知るところであった。 しかし、天保(18301844)の頃には、いくら雨を祈ってもほとんどおしるしがなくなってしまった。それは、雷電池には昔、大蛇がすんでいたが、寛永(16241644)の頃、この池を縮めて田としたため、大蛇はいつしか上州板倉(群馬県板倉町)にある雷電の池に移ってしまった。そのため雨乞いをしても、雨が降らなかった。」
       
                              公園内から脚折雷電社を望む。
 明治7(1874)夏の干ばつの時、「畑の作物が枯れそうなので、近隣の人が脚折雷電社で雨乞いをしたが、そのしるしがなかった。そこで脚折のムラ人が協議して、板倉雷電社に行き、神官に一晩中降雨を祈願してもらい、翌日、傍らの池の水を竹筒に入れて持ち帰った。
 脚折雷電社で、白鬚神社の神官が降雨祈願をしていたが、そこに板倉の水が到着したとたん、快晴の空がたちまち曇りだし、まもなく雨が降った」という。
        
             雷電池のほとりに鎮座する脚折雷電社
 白鬚神社 鶴ケ島町脚折一七一五
 雷電様は、飛び地境内の雷電池の傍らに祀られ、古くから雨乞いで著名である。この池は、昔は広く大きなもので、池の主である大蛇が棲んでいた。ところが寛永のころ干拓され池が小さくなり、大蛇は上州板倉の雷電池に引越してしまい、以来ここに祈っても雨が降らなくなってしまった。このため雨乞いの時には板倉の雷電社に祈ってお水をもらい、大蛇を作って池に入れて祈ると雨に恵まれたという。
 池のほとりに大蛇を待つと、いずこともなく「ドン、ドン、ドン」と単調な太鼓の音が聞こえてくる。やがて三〇〇人余りの人波を乗り越えて物凄い形相の大蛇(この時には竜と呼ばれる)が現れる。人々は余りのことに声もない。パかっと口を開けた竜が池に入る。三周して担ぎ手が酒を飲み、再び池に入り二周する。三〇〇人の担ぎ手は「雨降れたんじゃく、ここえ懸れ黒雲」と叫ぶ。まことに勇壮な光景である。(中略)昭和二余年に雨乞い保存会が出来て、照り降りかまわず四年に一度行うことになっている。
                                  「埼玉の神社」より引用

         
                              脚折雷電社社殿
 脚折での雨乞いに関して最も古い資料は、江戸時代の文化10年(1813)に記された「申年村方小入用帳(さるどしむらかたこにゅうようちょう)」で、その中に「壱貫四百文 右是ハ雨乞入用ニ御座候」と出てくるのが初見である。その後、弘化5年(1848)、文久2年(1862)の史料に、雨乞いの経費に関する記述が出てくる。
        
       脚折白鬚神社の境内に掲示されてあった「脚折雨乞」のパンフレット

「脚折雨乞」の主役である巨大な龍神は「龍蛇(りゅうだ)」と呼ばれる。前年から用意される竹や麦藁で作られる蛇体は、長さ36 m、重さ3 tになる巨大なものである。かつて脚折村の鎮守であった白鬚神社で祈祷を行い、途中善能寺を経由しておよそ2 kmの行程を練り歩いて脚折5丁目の雷電池に至る。龍蛇は板倉雷電神社の神水とともに池に導かれた後、担ぎ手により解体され、その一部を持ち帰れば幸が訪れるとされている。



参考資料「鶴ヶ島市HP」「鶴ヶ島市デジタル郷土資料」「Wikipedia」等

拍手[1回]


脚折白鬚神社

『鶴ヶ島市HP』によると、地名「鶴ヶ島」発祥の地の周りは昔、脚折村の鶴ヶ島という地名であったという。このあたりは、雷電池方面から流れ出る湧水により水田や沼地が広がっていた。その中に、小高い島のようなところがあり、そこにあった松に鶴が巣をつくったことが「鶴ヶ島」の発祥と言われている。太田道灌という室町時代の戦国武将が川越城を築いた(1457年)頃と伝わっている。
 この鶴ヶ島発祥に深く関わりのある「脚折」という地域名は、日本で鶴ヶ島にしかない大変珍しい名称である。地域名由来には諸説あるが、日本武尊の東夷征伐の折に人馬が脚を折ったことから名付けられたという伝承がある。又は、砂礫の多い地という意味で砂居(すなおり)または曽根居(そねおり)の転訛との説もあり、詳細は定かではない。ともかく、高倉・太田ヶ谷などは元脚折郷に属しており、この近辺の中心的集落であった。
        
             
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市脚折町61020
             
・ご祭神 武内大神 猿田彦命
             
・社 格 旧七ヶ村(膝折・太田ヶ谷・羽折・和田・高倉・
                  大六道・小六道)總鎮守・旧村社
             
・例祭等 初午祭 2月 祈年祭 43日 雷電様 88
 下新田、中新田、上新田を一直線に貫いている「鉄砲道」を道なりに直進し、1.1㎞程先にある「日光街道」と交わる交差点を右折する。南北に走る街道沿いには一戸建て住宅街が軒を重ねている中、350m程進むと、進行方向正面左手にこんもりとした脚折白鬚神社の社叢が見えてくる。
       
                  
脚折白鬚神社正面
『日本歴史地名大系』 による「脚折村」の解説では、「高倉村の北にあり、東は入間郡関間新田・片柳新田(現坂戸市)、北は同郡浅羽村・浅羽新田(現同上)。飯盛川が北東へ流れる。ほぼ南北に日光脇往還が通り、南方でほぼ東西に走る川越越生道と交差する。村名は臑折とも記される。
小田原衆所領役帳には小田原衆六郷殿の所領として河越筋の「折」二〇貫文がみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。近世には高麗郡加治領に属した(風土記稿)。寛永五年(一六二八)の名寄帳(田中家文書)によると田九町二反余・畑一八町二反余・屋敷一町余、名請人は寺院一を含めて四七名。慶安元年(一六四八)の川越藩による検地で田一九町八反余・畑六一町三反余・屋敷二町五反余となり、名請人六三名、うち屋敷持四四名(「検地帳」同文書)」と記され、江戸時代当時「臑折村」と称していた。
 また『新編武蔵風土記稿 
臑折村』では「用水は西の高倉村の溜井よりひけり、又村内の溜井よりも沃げり、まゝ旱損を患れども水損の害なし」と、近世各地に起こる用水不足からくる水害はこの地域にはあまりなかったことも記されている。

      鳥居に掲げてある社号額         入り口付近に設置されている案内板
 白鬚神社
 白鬚神社は、滋賀県高島市に鎮座する白鬚神社を総本社とする神社で、全国に約三百社が祀られています。
 当社は奈良時代に武蔵国に移り住み、この地を開拓した高句麗人が崇敬した旧入間郡内二十数社のうちの一社とされます。
 当社の祭神は天孫降臨の道案内をした国津神の猿田彦命と五代の天皇に仕えた伝承上の忠臣とされる武内宿彌の二柱です。両神とも老翁の姿で現れることから、長寿の神ともいわれています。
 神域は棟札によると、臑折(脚折)、太田ヶ谷・針[うかんむりに居](羽折)・和田、高倉、大六道(上新田)、小六道(中新田)に広がり、七ヶ村の総鎮守でした。
 御神木は社叢裏手にそびえる樹齢約九百年といわれる県指定天然記念物の大欅です。
 また、四年に一度行われる国選択無形民俗文化財「脚折雨乞」の巨大な龍神は当社で入魂された後、渡御に向かいます。
 令和五年三月  鶴ヶ島市

                                      案内板より引用 
        
            手入れが綺麗に行き届いた参道、及び境内
 奈良時代に創建された由緒と歴史がある神社。街道沿いに鎮座しているにも関わらず、鳥居を過ぎると、木々に囲まれた参道、及び境内は静寂な雰囲気に包まれている。時に聞こえる小鳥のさえずりさえも筆者の五感を燻らせられているように感じられ、何とも心地よい。
 
     参道左側にある手水舎         参道を進む左手に祀られている社家祖霊社
       
                                   拝 殿
『新編武蔵風土記稿 臑折村』
 白髭社 村の鎭守なり、例祭九月廿九日、往古は臑折・太田ヶ谷・羽折[此村今はなし]・和田[臑折村の小名]・高倉・大六道[今の上新田村なりと云]小六道[今の中新田村なりといふ]七ヶ村の總鎭守たりしと云、明暦の棟札の裏に、この七ヶ村の總社と載たれど、今は當村及び當村の新田の鎭守となれり、社後に大槻一株あり、圍一丈七尺に餘れり、本山修驗正福院の持、
 正福院 八幡山と號す、本山修驗、篠井村觀音堂配下なり、

白鬚神社 鶴ケ島町脚折一七一五(脚折字下向)
脚折は越辺川の支流飯盛川上流にある。縄文期から平安期にかけての集落跡が八幡塚・宮田・上山田をはじめ数か所あり、古くから開けた所である。
社記に「天智天皇の御代、朝鮮半島の戦乱を避け一族と共に我が国に渡来した高麗若光王は、霊亀二年西武蔵野を賜り、高麗郡を設けて東国七ケ国に居住する高句麗の人々一七九九人を集めた。若光王は日頃崇敬していた猿田彦命と武内宿禰を白鬚大神と称して高麗郡の中央に祀り郡内繁栄を祈り、また郡下に数社を祀る。当社はこのうちの一社」とある。
社蔵の棟札に「白鬚大明神本地十一面観音七ケ村惣社臑折大田谷針宮和田高倉大六道当所之鎮守・于時天正二甲戌年九月吉日」があり、広く崇敬されていたことがうかがえる。
社蔵文書「年貢皆済目録」に鎮守御供米二俵とあり、領主の崇敬が厚かったことが知られる。
一間社流造りの本殿は、宝永七年の再建であり、内陣に白幣及び十一面観音を安置する。
明治五年に村社となり、同四〇年には字若宮の八幡社、天神下の天神社を合祀する。
                                   「埼玉の神社」より引用
「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」によると、当社の祀職は別当本山派修験正福院の裔、宮本家が代々務めている。宮司宅に所在する「源氏家平野系図」によると、文明二年(一四七〇)より四代にわたり八幡山世代と称される人々が続き、元亀二年(一五七一)に平野弥次郎源重朝がそれを継いでいる。平野弥次郎は落ち武者で、兄弟である後の脚折村前方組の名主家の祖とともに、平野イツケの祖となっている。明治二年に復職し、平野姓を宮本に改めた。屋敷内にあった不動堂は脚折村新田の当山派修験者の庭に移された。社家に対する呼称としてはオミヤンチ(=お宮の家)、当主などがある。
       
             拝殿に掲げてある「白鬚神社」の扁額
        
                            拝殿左側には境内社の合殿が鎮座
  向かって左から神明社、愛宕社、八幡社、疱瘡社、天神社、諏訪社、稲荷社が祀られている。
       
           本殿奥に一際目立って聳え立つご神木である大欅
 この
ご神木である大欅(ケヤキ)は樹齢900年余りで、現在の樹高は約17m幹周りは約7mの巨木である。昭和7年に指定された当時は樹高が約36mで、枝も四方に生い茂っていた。しかし、昭和47年に風雨と自らの重さにより枝周り3mもの大枝が折れてしまった。このため幹の空洞部分を覆い、さらに東面の残った大枝を鉄柱で支える措置を講じられている。また、平成67年度にわたり樹勢回復のため腐朽部分の除去や樹脂補填等を行い、その後、平成18年度には、木の成長とともに前回の樹勢回復業務における樹木と樹脂の接合部分に剥離が生じた箇所の補修や、菌などの繁殖を抑えるため、日照、風通しを良好に保つための周辺環境も整備し、今日に至っているという。
なお、この大欅は「脚折のケヤキ」との名称で、昭和7年3月31日 埼玉県指定天然記念物に指定されている。
        
                        境内に設置されている指定文化財の案内板
 市指定有形文化財(彫刻)
 脚折白鬚神社十一面觀音菩薩立像  昭和六十二年十二月二十四日指定
 白鬚神社の十一面観音菩薩立像は、宝冠を被り、頭上に変化面を十面備え、右手は垂下し、左手に花瓶を執り蓮台上に立つ像である。眼と額の百毫には水晶が使われ、全身には金泥が塗られ、衣の部分には金箔が貼られている。
 白鬚神社所蔵の棟札・銘札から、室町時代より同社の本地仏として祀られていることが判る。また、作製技法は数材を合わせる寄木造りで、しかも正中矧ぎといって、合わせ目を正面にしている。これは万一割れが生じると正面に傷がくるので普通は側面にするのであるが、相当に自信のある作者によるものであろう。
 この十一面観音菩薩立像は傷みがはげしかったため、指定当時に修復を行っている。
像高 四ニ・〇センチメートル 製作時期 室町時代

 市指定有形文化財(歴史資料)
 白鬚神社 棟札・銘札  平成六年二月二十四日指定
 白鬚神社は霊亀年間(七一五~七一七)高麗人帰化の際、郡内に勧請した白鬚神社数社の内の一つであるといわれている。
 白鬚神社の境内にそびえる樹齢約九〇〇有余年の大けやき(県指定天然記念物)は、同社の古さを示す古木である。
 同社の収蔵庫には、天正二年(一五七四)から享保十二(一七二七)年におよぶ八点もの棟札・銘札 が所蔵されている。
 これらの棟札・銘札からは、七か村の総鎮守であった白鬚神社の信仰圏、神仏淆潰時代の本地仏などに関することのほか、地元の職人のてがみなど、さまざまな歴史的な事柄について知ることができる。また、一五〇年余りの期間に本地仏や社殿の造立、修復が頻繁に行われていることが判り、同社に寄せられた信仰の厚さをも窺うことができる。
 現在県内においては、神社の大半は確固たる由緒書を持っておらず、棟札やさまざまな奉納物の銘札などに記された銘文によって、その歴史を知り得る場合が多い。白鬚神社の棟札及び銘札についても同様であり、しかも安土桃山時代から江戸時代中期にかけて、これだけまとまって、保存されている例は県内の各神社をみても決して多いとは言えない。
 この棟札及び銘札は同社の歴史はもちろん、鶴ヶ島の歴史や埼玉県の宗教史を考える上でもたいへん貴重な歴史資料である。
                                     境内案内板より引用
        
                                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市HP」
    「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」「Wikipedia」「境内安案内板」等


拍手[1回]


羽折稲荷神社

 神社形式の一つで、社殿の配置上、本宮(ほんぐう)または本社より奥に位置する社殿または独立の社を「奥宮」と呼ぶ。神社には山麓祭祀(さんろくさいし)を起源とする場合が多く、神体山の山腹や山頂に社殿を配して同一祭神出現または降臨の本源とする。地方によって里宮(さとみや)に対する山宮(やまみや)、下宮(しものみや)に対する上宮(かみのみや)と称する場合もある。
 基本、同一の神社に複数の社殿があり、かつ社殿と社殿の間が非常に離れていて一見すると別のものにさえみえるような場合にこの名称を用いられることが多いようだ。
 使用の最も典型的な例として、山裾と山頂の二社に同一の祭神を祀る場合、山裾の神社(本社・本宮・下宮)に対して山頂の神社を奥宮・奥社・上宮という。
 鶴ヶ島市・羽折稲荷神社は、市域の大部分が平坦な台地となっているにも関わらず、「上社」「下社」に分かれて鎮座していて、実に不思議な形態の社でもある。
羽折稲荷神社上社】
        
             
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市下新田428
             ・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧指定村社
             ・例祭等 元旦祭・初午祭(2月初旬)・秋祭り(101415日)                        
 中新田神明社から「鉄砲道」に戻り、その道を1.1㎞程北東方向に進行する。下新田・中新田・上新田各地域を一直線に貫くこの道路が、大きく右カーブし始める信号付き5差路を埼玉県道114号川越越生線方向に右折し、300m程進んだ「下新田」交差点を左折、暫く進むと左手奥に羽折稲荷神社上社の朱色の鳥居が見えてくる。
 周囲に適当な駐車場はないので、心ならずも鳥居は潜り、その先にある社殿、その東隣の下新田会館の専用駐車スペースに停めてから参拝を開始した。
        
                 羽折稲荷神社上社正面
『新編武蔵風土記稿 下新田村新田』には「享保年中下新田村淸寶院と云る、當山派修驗開發せし新田なり」と記され、村の開発に修験の関与が大きかったことがわかる。
「稻荷社 華厳院の持
 華嚴院 當山修驗、入間郡小久保村教法院の配下なり、下同、
 淸寶院
 常福院 當山修驗、入間郡大仙波萬仁坊の配下なり、
 南蔵院 當山修驗、同郡入間村延命寺の配下なり」
 また「埼玉の神社」によると、現在は中止している祈年祭は、春祈祷と呼ばれ、大正期までは社前に注連を張り御幣を立てて、中央に湯の入った釜を据え、法印が榊を湯につけて参拝者を祓う「湯立神楽(ゆたてかぐら)」が行われていた。なお、荒神祭もこれと同様の祭事であった。
法印は地元の者が務めたという。江戸期、当地には華厳院のほかにも、同じ当山派修験の常福院、南蔵院があったことから、修験の活動が盛んな地であったことがうかがえよう。
        
                    拝 殿
 羽折稲荷神社上社の創建年代等は不詳ながら、明暦年間(16551658)頃に成立した下新田村の開発が進み、享保年間(17161736)には本山派修験清宝院が更に新田を開発、下新田村新田の鎮守として羽折稲荷神社下社を分祀して創建したとされる。羽折稲荷神社という名称から見ても分かるように、古くから祀られていたのは下の社である。明治維新後の社格制定に際して羽折稲荷神社下社が村社とされたものの、いつしか当社が「上の社・遥拝社」と認識されるようになり、祭礼の一切が当地で行われているという。
       
                                  境内の一風景
 年中行事は、元旦祭・初午祭(2月初旬)・秋祭り(101415日)の年3回。
 初午祭は、豊作を祈る祭りとなっている。この日の神饌は宿になる家を用意し、米の粉で作った粢(しとぎ)・小豆飯・鰯(いわし)・油揚げが神前に沿えられる。なかでも粢はさつま芋ほどの大きさで三方に載せる。
 また神饌は上の社と下の社と二膳用意する。これは、祭典が終了すると縁起ものとして子供たちに分けられる。粢の食べ方は上から押さえて煎餅のように薄くし、醤油をつけて食べると珍味であるといわれている。祭典後の直会は宿になった家で行い、昼は飯、夜は手打ちうどんが用意される。
*粢…もち米と米粉を楕円形に固めた餅のことで、神前などのお供物として使われていた。
 秋祭りは、以前は101617日であったが、戦後1415日に変更された。これは豊作感謝祭で「お九日(おくんち)」と呼ばれている。祭りの日の夕刻からは宵宮と称し、氏子は家の戸口や境内に灯籠を飾る。以前は、この日、子供たちが氏子を回り薪を集め、上の社の境内に積み上げて燃やした。15日の早朝、氏子は「藁(くさかんむり+包)(わらづと)」に赤飯を入れて神前に供え、豊作を祈願するとの事だ。

羽折稲荷神社下社
       
 羽折稲荷神社上社から北東に走る道路を650m程進む。周囲一帯広がる住宅街の中、進行方向右手にこんもりとした森が見えてきて、その中に羽折稲荷神社下社の朱色の鳥居が道路沿いに立っている。
 交通量の多い道路沿いに鎮座している故に路駐は不可。近くに「鶴ヶ島市北市民センター」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
 
   鳥居前で一礼し、森の中の参道を進む。   参道は途中左側に緩やかにカーブしている。

 羽折稲荷神社下社の創立は不詳であるが、羽折稲荷神社という名称から見ても分かるように、古くから祀られていたのは下の社である。慶安元年(1648)の検地帳に「宮地七反八畝二六歩林稲荷免」とあるのは下の社の境内地である。字羽折周辺には古代及び中世の遺跡が広がっており、下の社の創立も中世にさかのぼると推定される。
        
              参道途中に建つ「
官林下戻記念之碑」
                        官林下戻記念之碑
         夫敬神者皇國之大本須臾為弗可忽者也此地有名祠来由頗古
         彌羽折稻荷為村鎮守羽折蓋古地名著于文獻江戸世慶安元年
         境内二千三余百坪以除地奉祀明治初除地総上知焉為官林同
         三年列村社後會廟議設官林下戻特典之制以三十三年二月氏

         子胥議請之于官當時現籍為三十一戸氏子總代及有志者俣共
         協力當事而衆議院議員福田久松斡旋最努及三十七年十一月
         廿四日清浦農商務大臣允可之而七段九畝六歩地 復帰社境
         衆抃躍而更營社殿大整植林以益頌神徳之隆今也境内風氣自
         清氏人金寧蕃殖計五十戸而先人努力敬神漸顯於世於是厥子
         厥孫祖謀欲建碑以傳父祖功績於不朽來請余文乃為銘(以下略)
       
        
                       社叢林の中にひっそりと佇む
羽折稲荷神社下社
 その後、近世の開発によって集落の中心が上に移ると、羽折稲荷神社も上に分霊されていったものであろう。上の社の創立は、新田開発の時期や境内の石仏の銘文、ご神木(現在は二代目)の樹齢などから、近世前半を下らないと推定される。現在、氏子は下の社を奥社、上の社を遥拝社と意識しており、下の社の多くは上の社へ移行しているという。
        
                                 
羽折稲荷神社下社社殿
 稲荷神社  鶴ケ島町下新田四二八(下新田字羽折)
 当地は『風土記稿』によると、明暦のころ高倉村に属していた原野を開墾、分村して下新田村とした。次いで享保年間には、本山派修験清宝院が、更に新田を開発したという。
『風土記稿』下新田村の項には「稲荷社 村の鎮守なり、二月初午の日を例祭とす、村持」とあり、下新田村新田の項には「稲荷社 華厳院持」「華厳院 当山派修験、入間郡小久保村、教法院の配下なり」と載せている。
 現在、前者の稲荷社は“下の社”後者の稲荷社は“上の社”とも呼ばれていることからも、おそらく下新田村の開発に際し、五穀の実りを祈願して稲荷社を祀り、次いで枝村の新田開発に伴い、親村の鎮守であった同社の分霊を祀ったものと考えられる。
 明治期に入り、親村の稲荷社は古来一村の鎮守であったことから村社となった。しかし時代が下るに従い、集落状況や地理的条件、氏子の意識の変化などにより歴史的経緯が忘れられ、本来、新田の守り神として祀られた稲荷社を鎮守として仰ぐようになり、現在、氏子は下の社を奥社、上の社を遥拝社として意識しており、下の社の祭りの一切は上の社へ移行している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                              道路沿いにある鳥居方向を撮影
          現在下社の境内林は「ふるさとの森」に指定されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市デジタル郷土資料」
    「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia」「境内石碑文」等
 

拍手[1回]