古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下清久諏訪神社

 久喜市下清久地域で、近年まで行っていた氏子の年中行事の一つに「鎌どっかえ」があり、参拝者に甘酒を振る舞ったことから「甘酒祭り」とも称されていた。
 氏子は毎年927日になると、それまで一年間、自宅の神棚に飾っておいた当社の「鎌」に新しく作った「鎌」を添えて当社に返し、再び別の「鎌」を借りて、五穀豊穣を祈り自宅の神棚に飾った。「鎌」は、竹の柄に柘植(つげ)で作った刃を付け、刃の内側を墨で黒く塗ったものであった。また、体に出来物ができた時は、この「鎌」でその箇所を刈り取る仕草をすると治るといわれた。
 このように嘗ては盛んに行われた「鎌どっかえ」も、氏子に勤め人が増えたことによる農家の減少や医療技術の発達により、昭和
30年を境に徐々に衰退し、更に、勤め人が一層増加したことにより甘酒を作る人手が不足するようになり、昭和60年に甘酒作りを中止すると、ほとんど行われなくなった。このため、総代・役員・行事が話し合い、平成6年に正式に「鎌どっかえ」の中止を決めたという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市下清久599
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧下清久村鎮守・旧村社
             ・例祭等 夏祭り(行灯祭り) 726
 久喜市下清久地域は、古利根川の乱流期に形づけられた自然堤防上に位置していて、青毛堀川と備前前堀川の間の低地・台地に位置する農耕地帯である。地域東側には南北方向に蛇行しながら流れる新川用水が上早見地域との境となっていて、地図を確認すると、上早見千勝神社から新川用水を隔ててほぼ真北に下清久諏訪神社は鎮座している位置関係となっていて、この二社は直線距離にして200mも離れていない。
        
              道路沿いに下清久諏訪神社は鎮座
    社の正面となる社号幟を立てる柱から見ると、鳥居はやや西向きとなっている。
           後日地図を確認すると、南西方向に向いている社
『日本歴史地名大系 』「下清久村」の解説
 上清久村の東に位置し、北は新川用水を境に久本寺(くほんじ)村。天正一八年(一五九〇)八月の徳川氏関東入国にあたり、松平康重は忍(現行田市)から騎西(現加須市騎西)へ移ったが、所領二万石のうち四千石不足であったため、検地と下清久二千石で補充したという(石川正西聞見集)。村高から考えても下清久村一村ではなく付近一帯が含まれていたと思われる。騎西領に所属し、検地は上清久村に同じ(風土記稿)。田園簿によれば川越藩領で、田高一七七石余・畑高一五九石余、ほかに野銭永七〇文があった。
        
            道路沿いに移動すると下清久諏訪神社正面となる
                                          社の正面としてしっくりとするアングルだ。
 創建年代は不明である。ただ下清久村が清久郷から分村したのが1596年(慶長元年)以前であり、分村時に信濃国一宮の諏訪大社から分霊を勧請したものという。近くの清福寺が別当寺であった。1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
 氏子区域は近世の下清久村を引き継ぐ大字下清久で、総代は、氏子を「上」「中」「本村」「宮守」「新田」の五つの村組に分けて、各一名ずつの計五明で選出され、人気三年で神社運営に当たるという。このほか「行事」と呼ばれる当番が、家並み順に二名ずつ計一〇名選出され、夏祭りの準備や境内の清掃を担うとのことだ。
        
            正面東側手前側にある青面金剛と(石)橋供養塔
        
          鳥居を過ぎてすぐ左側にある「諏訪大社参拝記念碑」
           その並びに祀られている熊野大神と神明宮の石祠
        
            「諏訪大社参拝記念碑」の左側にある力石二基
       
                    拝 殿
 諏訪神社  久喜市下清久五九九(下清久字宮浦)
『風土記稿』によれば、往古、当地が属していた清久郷は、慶長元年(一五九六)までに上清久・下清久に分けられ、それぞれ一村となった。『埼玉県地名誌』によれば、清久という地名の由来は、古利根川の乱流期に形づけられた自然堤防上に位置していることによるという。鎮座地の下清久は、青毛堀川と備前前堀川の間の低地・台地に位置する農耕地帯で、東の境には新川用水が流れている。
 当社はこの新川用水のすぐ西側に鎮座しており、『風土記稿』下清久村の項には「諏訪社 村の鎮守なり、清福寺持、下二社同持、〇熊野社〇神明社」とある。口碑によれば、創建は、清久郷が分村するに当たって、信濃国一宮の諏訪大社の分霊を下清久村の鎮守として勧請したものであるという。別当の清福寺は久喜町真言宗光明寺末で瑠璃山と号し、中興開山の法印宥源は延宝五年(一六七七)に入寂した。
 神仏分離により、当社は清福寺の管理下を離れ、明治六年五月に村社となった。
 本殿内には「大明神勧請安鎮座」と墨書された神璽をはじめ、三重の厨子に納められた、神体とされる諏訪大明神立像や、「諏訪大明神 願主斎藤幸右衛門献謹拝 明治二巳年十二月吉日」と墨書された金幣が奉安されている。
                                                                   
「埼玉の神社」より引用

       境内に祀られている稲荷社              本 殿

 社の祭事は7月26日の夏祭りの年1回である。この夏祭りは「行灯祭り」とも称し、氏子が分担して作った行灯を当日の朝、「行事」と称する当番が境内や当社に至る道筋に100基ほど飾る。午前中に神職の奉仕により祭典が執り行われ、終了後、樽神輿を子供が担ぎ、各耕地ごとに受け継ぎながら、二時間ほどかけて氏子区域を一巡し、当社に戻るという。その後、午後七時に行事が行灯をともすと、氏子が銘々で参拝する。
 夏休み中ということもあって、境内は家族連れの参拝者や、連れ立って遊びに来る子供たちで終日にぎわい、午前中から境内ではカラオケ大会や、境内に設営された綿飴や金魚すくい等の模擬店で盛り上がるという。
 地域の重要な祭事と同時に、近隣住民同士のコミュニテーに欠かせない仲間意識が芽生える伝統行事は、今後も大切にしてもらいたいとつくづく感じる次第だ。
        
             境内にひときわ目立ち聳え立つご神木



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」

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上早見千勝神社


        
              
・所在地 埼玉県久喜市上早見583
              
・ご祭神 大己貴命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 春例大祭 412日 秋祭り 725
 前項上清久長宮神社と同様に、六万部愛宕神社から一旦南下し、埼玉県道12号川越栗橋線との交点を東行し、東北自動車道を過ぎた「六万部橋(東)」交差点を更に直進する。埼玉県道146号六万部久喜停車場線と県道は変更となるが、900m程道なりに進むと、進行方向左手に上早見千勝神社が見えてくる。
        
                 
上早見千勝神社正面
『日本歴史地名大系』による 「上早見村」の解説
 久喜本町の西に位置し、北は久本寺(きゆうほんじ)村(現鷲宮町)、南東は下早見村。南は新川用水を境に江面(えづら)村。騎西領に所属(風土記稿)。現市域に現存する最古の検地帳である元和七年(一六二一)の武州騎西領上早見村地詰帳(野房家文書)によると、畑三三町余が打出され、分付百姓の記載もみられる。検地奉行は私市(きさい)城の城主大久保氏の家臣。正保四年(一六四七)にも検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一九九石余・畑高二八五石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では反別は田方二三町三反余・畑方三二町八反余、ほかに新開高三五石余、田方一町六反余・畑方二町三反余があった。
 
   参道途中に設置されている案内板     社号標柱には「武蔵国上早見」と刻まれている。 
       
             鳥居は参道を進み、境内との境に建つ。
      参道周辺には綺麗に玉砂利が敷かれ、手入れも行き届いているようだ。
 千勝社の創建時期等は不明であるが、かつて埼玉郡上早見村(明治合併以後は大字上早見)の村社であり、1950年(昭和25年)時点での境内地面積は293坪であった。1909年(明治42年)72日に行われた合祀では、浅間社(字本田)・十二社(字本田)・神明社(字本田)・天神社(字本田)・厳島神社(字本田)・稲荷社(字本田)が集められている。 
        
         鳥居の手間で、参道右側に祀られている境内社・稲荷神社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上早見村』
千勝社 觀喜院の持
觀喜院 新義眞言宗、久喜町光明寺の末、無量山と號す、本尊不動
聖天社 阿弥陀堂 〇金勝寺 同末、如意山と號す、本尊隨求明王

 千勝社 御由緒  久喜市上早見五八三
 □御縁起(歴史)

 上早見村は古くは下早見村と一村であり、上と下に分村した時期は伝えられていないが、元和七年(一六二一)の「武州騎西領上早見村地詰帳」(野房文書)が現存するので、分村はこれ以前と思われる。
 当社は、上早見村の字新田に鎮座する。『風土記稿』上早見村の項に「千勝社 歓喜院の持」と載り、歓喜院については「真義真言宗、久喜町光明寺の末、無量山と号す、本尊不動」とある。本寺である光明寺は白鳳十年(六八一)に行基が開基し、建長四年(一二五二)に法印賢信が中興開山したと伝わる古刹であり、境内には久喜町の鎮守である千勝社を祀っていた。恐らくは、新田開発が進められる中で、歓喜院の住職が本寺に祀る干勝社を当地に勧請したのであろう。その年代については定かではないが、久喜町の千勝神社が永正十四年(一五一七)に足利政氏により勧請されたと伝えられることから、これ以降のことと思われる。
 本殿には、明和七年(一七七〇)に神祇管領吉田家から「千勝大明神幣帛」を拝受した際の祝詞が保管されている。
 当社は、明治に入り歓喜院の管理下を離れ、明治六年に村社となった。現在、歓喜院の本堂内には本尊と並んで高さ二六センチメートルほどの木製虚空像菩薩立像が祀られている。これは、江期に当社に祀られていたが、明治初年の神仏分離により歓喜院に移されたものと伝えられる。
                                      案内板より引用
        
              綺麗に整えられた境内及び参道一帯
 


参考資料「新編武蔵府独港」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等  
    

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上清久長宮神社

 新川用水は埼玉県北東部を流れる農業用水路であり、上流部では騎西領用水(きさいりょうようすい)と呼ばれる。埼玉県加須市外田ヶ谷の星川(見沼代用水)より分水し、加須市・久喜市・南埼玉郡宮代町を流れ、久喜市・南埼玉郡宮代町との境界付近で備前前堀川に合流する。久喜市内ではかつての南埼玉郡久喜町・江面村との町村界の一部を成していた。また、久喜市(六万部、上清久)・北葛飾郡鷲宮町(中妻・久本寺)の市町界を成していた。備前前堀川との合流地点には「万年堰」という堰がある。
 上清久長宮神社は上清久地域の北西部に鎮座し、すぐ北には新川用水が流れている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上清久333
             
・ご祭神 息長足姫命
             
・社 格 旧上清久村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 419日 天王様 715日に近い日曜日
                  
秋祭り 1019
 六万部愛宕神社から一旦南下し、埼玉県道12号川越栗橋線との交点を東行する。東北自動車道を過ぎた「六万部橋(東)」交差点を左折し、北上すること1㎞程で「上清久」交差点に達し、そこを左折する。埼玉県道151号久喜騎西線を暫く西行すること500m程で、上清久長宮神社の鳥居が進行方向右手に見えてくる。
 境内には本村集会所があり、駐車スペースも確保されている。
        
                 上清久長宮神社参道
 社は県道沿いに鎮座しているが、参道は南側にも伸びていて、古い鳥居の台座が道路脇に置かれていることからも、嘗てはこの場所に鳥居が置かれていたのではなかろうか。
 
『日本歴史地名大系 』「上清久村」の解説
 六万部村の北東に位置し、北は新川用水を境に中妻・久本寺(現鷲宮町)の二村と対する。東は下清久村、六万部村の南部に飛地がある。上・下の清久村一帯は「吾妻鏡」養和元年(一一八一)二月一八日条などにみえる大河戸次郎秀行(清久氏)の本貫地であった。建長年間(一二四九〜五六)と推定される年不詳の某陳状(中山法華経寺「双紙要文」裏文書)に武蔵国清久とみえる。天正八年(一五八〇)三月二一日、足利義氏は北条氏照に対し、清久郷など五郷から人夫を毎年五〇人・二〇日間出させることとし、今回は四月二日と三日に下総古河に参集させるよう命じている(「足利義氏印判状写」喜連川家文書案)。騎西領に所属(風土記稿)。
        
                 上清久長宮神社正面
              開放感のある明るい社という印象
 11世紀末の平安時代末期頃、久喜市域には清久(きよく)次郎秀行という武士がいた。この清久氏は鎌倉~南北朝時代に現在の久喜市上清久一帯で活躍した武士団である。藤原秀郷の子孫大河戸行方(重行)の二男秀行が、当地「清久」に居住して清久氏を名乗り、現在の久喜市清久に居住したと伝わっている。秀行は源頼朝に仕えた御家人で『吾妻鏡』等の書物や書簡等にもその名が見られる。
『新編武蔵風土記稿 上清久村』
「古へ當所に清久次郎といへる人住せし故起りし名にて、【太平記】清久山城守など見えたるも、當所に住せし人ならんと云へり、」
『秋田藩太田系図』
「太田四郎行光―大河戸下総権守行方―清久二郎秀行(兄太郎広行)―小二郎左衛門尉秀綱(弟鬼窪五郎行盛)―次郎胤行―弥二郎秀胤―又次郎左衛門尉祐行―小次郎左衛門尉秀言。胤行の弟下清久四郎師綱―四郎二郎行氏(弟寺崎四郎三郎行茂)―小次郎行綱―孫次郎国行」と。尊卑分脈に「大河戸行方―清久三郎秀行―三郎兵衛尉秀綱―弥二郎秀胤」
『清久村郷土誌』
清久次郎・根拠を此処に定むるや、その臣瀬田五郎をして加吾宿(水深村字籠宿)の地を、藤本太郎をして藤本(上清久村字藤本)の地を、小河原某をして赤旗(下清久村鎮守赤幡社)の地を開かしむ。元弘三年北条氏滅亡するや清久氏また滅びて、瀬田・藤本・小河原某等皆農に帰す。
吾妻鑑卷二十五』
・承久三年六月十四日宇治合戦に敵を討つ人々に清久左衛門尉。同年八月二日、清久五郎行盛・子息太郎は下向す
吾妻鑑卷四十』
建長二年三月一日、清久左衛門が跡
吾妻鑑卷四十一』
建長三年正月二十日、北条時頼の随兵に清久弥二郎秀胤
吾妻鑑卷四十三』
建長五年八月二十九日、下総国下河辺庄の堤防修築の奉行に清久弥次郎保行
太平記卷十三』
中先代蜂起の時、北条時行に従ふ兵に清久山城守あり
太平記卷二十四』
康永四年八月二十九日、足利尊氏天龍寺供養の従兵に清久左衛門次郎
        
                    拝 殿
 長宮神社  久喜市上清久三三三(上清久字長宮)
 清久の地名は『風土記稿』によれば当地に清久次郎と名乗る人物が居住していたことに由来するという。建長年間(一二四九〜五六)と推定される某陳情(中山法華経寺「双紙要分」裏文書)に武蔵国清久とあるのが文献上での初見であるが、上下に分村した時期は不明である。当社は上清久村の西端に鏡座し、すぐ北には新川用水が流れる。
 当社の創建については伝えられていないが、当社が鎮座する耕地(村組)を本村と呼ぶことから、村開発の早い時期から村の鎮守として祀られていたと考えられる。
『風土記稿』上清久村の項に「長宮明神社 村の鎮守にて、祭神は大己貴命なり、鷲宮・久伊豆・長官の三社を相殿とす、光明院の持、末社 稲荷三宇 荒神 疱瘡神」と記され、別当を務めた光明院は、「同宗(新義真言宗)にて、下総国前林村東光村の末、瑠璃山地蔵寺と号す、本尊地蔵を置く」と載る。
 三間社春日造りの本殿内には、元文二年(一七三七)に神祇官領吉田家から「正一位長官大明神」の神位・神号を拝受した際の幣帛が奉安されている。元文四年(一七三九)の稲荷大明神の石祠や宝暦堅六年(一七五六)の石灯篭等が境内に建つことから、この時期に村の経済が発展し、それが当社の信仰に結びついていった様子がうかがえる。
 明治に入り当社は光明院の管理を離れ明治三年に村社となった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社は江戸期には大己貴命を祀っていたが、明治に入ってからは『郡村誌』に「祭神未詳」と載り、『明細帳』には」息長足姫命(神功皇后)を祀ると見え、現在に至っている。こうした変遷の理由は明らかではないが、氏子らは一貫して当社を「長宮様」と呼んで厚く信仰してきたという。
        
  鳥居の脇には常夜灯の石が二基あり、左から「文化九申二月 初午」「文化七年牛九月」
       と刻まれていて、その右側の石祠は稲荷大明神と刻印されている。
       
         参道を挟んで
常夜灯や石祠が並ぶその反対側には、左から
 「力石」「社殿改築記念碑」「手水鉢」「奉造〇〇燈篭」「稲荷大明神」が並列している。

 毎年7月15日に近い日曜日に行われる上清久の「天王様」祭りについては、八坂神社に安置してある御幣台の裏面に元文3年(1738)戊午歳五月吉祥日と墨書きされているのが発見されていることから、この時期より祭りが行われていたと推測されていて、明治以前は、毎年旧暦67日から15日まで行われていたが、その後、現在の日に行われている。
 元は旧騎西町の私市(騎西)城内に祀られていたが、城攻めに遭った際に新川に流され、地内の千勝橋に掛かっていたのを村人が見つけて、橋の袂に祀ったのが天王社の始まりであるという。
 三耕地が一年交代で当番を務め、三名で天王組と称する人たちが祭りの準備を行う。
 祭り当日は、八坂神社を出た神輿が、若者たちの手で上清久地内の各耕地を威勢よく曳き廻す。また、山車3台が曳き廻されるが、これらは地区内の邪気をはらうということだ。昼には、人形を乗せた山車が運行するが、夜になると提燈五百数十個をつけた提燈山車が「提灯祭り」と称して地内の主要道路を曳き回し、午後十時には解散となるという。
        
                 社殿から鳥居の先の参道方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「
Wikipedia」等

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戸崎日吉社

 日吉社(さんのうさま)  騎西町戸崎一五二七(戸崎字名倉耕地)
 当地には古城跡があり、戸崎右馬允という者の居城であったという。現在も川下側に城の土手跡がある。
 低地のため古くはしばしば大水に見舞われたので、社地の隣に盛り土を行い、この上に馬を連れて避難したという。これを馬塚と呼んでいる。
『郡村誌』に「城跡に竜宝寺を創建す」とあり、城跡から当社を見ると鬼門に当たることから城守護の社として創建された可能性が高い。
 社蔵の『日吉社記録(弘化三年七月)』には「鎮守内に往古より社家有りしが先年消失し、以来利八という者、社を再建し跡を継ぐ。同時に三両の金を差し出し是を氏子に貸し付けて、利足分で今後の社修覆の足合とした云々」とある。この貸付制は現在まで行われ「人別(にんべつ)」と呼ばれている。
 また同書追録に「鎮守山王大権現を明治五年のころに日吉大神と改称する、祭神は国狭土之命也」とあり、更に合祀について「明治四十年神社合併のこと起り、当社を同字村社諏訪神社に合併せんとするも当社の鎮座地名倉は以前名倉村と称えた一村であり、他に移すことは許されないと陳情し合併を免かれし云々」と載せている。
 現在の本殿は、社記によると弘化三年の再建と思われる。内陣に束帯の神像三〇センチメートルを安置する。境内に神使石像(猿)がある。
                                   「埼玉の神社」より引用
       
              
・所在地 埼玉県加須市戸崎1527
              ・ご祭神 大山咋命
              ・社 格 旧戸崎村名倉耕地鎮守
              ・例祭等 春祭り 413日 夏祭り 718
                   例大祭 1028日 決算 12月中旬
       *「埼玉の神社」では、「秋祭り 10月15日」と記述されている。
 戸崎諏訪神社から北東方向で直線距離にして400m程の戸崎字名倉の地に は鎮座している。前項でも述べているが、この地域は、同市西部に位置し、見渡す限り平坦な地域で、地域南部と中央部一部には住宅や民家はあるが、それ以外は周囲一面豊かな水田地帯が広がっていて、この地域中央部一部に民家が点在すると述べたその地こそ、名倉地区である。
        
                  戸崎日吉社正面
『埼玉苗字辞典』では、「埼玉郡戸崎村字名倉(騎西町)は古の村名で、『武蔵志』には、「羽生領太田庄名倉村山王社」と見え、騎西町場大英寺元禄十年碑に名倉村と載せているように、字名名倉は、元禄時期「名倉村」と一村を形成していたという。
 
鳥居近郊に並列して祀られている石碑、仏像等      鳥居の右脇に祀られている
 記念碑の左側二番目に天満宮の石祠あり    「水神」と刻まれた石碑が置かれている。
        
       鳥居から「名倉集会所」を右手に観ながら参道を進むと、突き当たり、
               直角右方向に方向転換し一対の石灯篭の先に社殿が見えてくる。
        
                「名倉集会所」付近に設置されている社の案内板
        
                    拝 殿
 日吉社 例大祭 十月二十八日
 当社は山王社とも呼ばれ、大山咋命を主祭神とする。特に安産の神として崇敬され、出産が近づくと、灯明 (ロウソク)の燃え残りをいただく信仰がある。陣痛が始まったときにこれを灯すと、火が消えるまでにお産が済むという。そのため、お産が軽く済むよう短いものが喜ばれるという。こうしたことから、当社は女性の神としての伝説が残されている。
 昔、社前に池があった頃、隣村の天王様(お神輿)
が村内に乗り込んできた。これに激怒した山王様は「女の領地に男の天王が足を踏み入れるとは何事だ、それを防がなかった村人も許さん」と村中に悪病を流行らせてしまった。困った村人は、翌年、またやってきた天王様を待ち受け、神輿もろとも境内の池に放りこみ、ようやく退散させたという。その後は山王様の怒りも解け、悪い病は消え去ったという。(以下略)
                                      案内板より引用
 
        拝殿の手前にある一対の「
神使石像(猿)」(写真左・右)

 ところで、「加須インターネット博物館」の中のコンテンツに加須市内にある「昔ばなし」が載っており、その中に当地に関わる昔話も掲載されている。

山王様(さんのうさま)と天王様(てんのうさま)」
戸崎の名倉耕地(ごうち)に「山王様」という神様がまつられています(日吉社)。お産にご利益があることから「女性の神様」としても知られています。
むかしむかしのことです。隣村で天王様のお祭りがありました。

「ワッショイ。ワッショイ」
威勢のいい掛け声と共に、神輿を担いだ若者たちがやって来ると、いつの間にか、わがもの顔で村中を練り歩き始めました。村人はあっけにとられ、ただ茫然と見ておりました。
それからしばらくたつと…原因不明の病気が村中に流行りました。村人はあれこれ噂しましたが、原因はさっぱりわかりませんでした。
そんなある日のことです。一人の村人が山王様にお参りすると、どこからともなく不思議な声が聞こえてきました。
「女の神が支配する土地に、男の神が勝手に入ってくるとは何事だ!それを防がなかった村人も許さん!」
原因不明の病気は山王様の祟りだったのです。村人は怒りを和らげようと、あれこれ行いましたが、なかなか山王様の怒りは治まりませんでした。そうこうするうち、また、次の年のお祭りが近づいてきました。
「また、隣村の天王様の神輿がやって来たらどうすんべ。向こうは大勢だしなあ」
「今年やっつけねえと、山王様がもっと怒るべ。みんなでやっつけるしかなかんべ」
そして、祭りの日になりました。村人は神輿が来るのを境内の池のそばで、じっと待っていました。
「ワッショイ。ワッショイ」

掛け声がだんだんと近づき、大きくなった瞬間、みんなで神輿めがけて一斉に飛びかかりました。突然の出来事に驚いた隣村の若者たちは慌てふためき、神輿もろとも池に放り込まれてしまいました。
「バンザーイ、バンザーイ」

一目散に逃げ帰る若者を前に、村人は大喜びしました。
それ以来、山王様の怒りは治まり、元の静かな村になったということです。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須インターネット博物館」等
       

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戸崎諏訪神社

 諏訪神社  騎西町戸崎二三八八(戸崎字元屋敷)
 当地には『風土記稿』によると「城下」の小字があり、「城跡の形あり、廻りに土手とおぼしき跡見ゆ、戸崎右馬允といふものゝ居蹟なりと云ふ、」と載せる。更に『郡村誌』には、この城跡に竜宝寺を建立したとある。この城は、戸崎城あるいは名倉城と呼ばれたという。
 当社の創建も戸崎城に居た戸崎氏にかかわり、口碑によると同氏のゆかりの地である信濃国から一の宮の諏訪大社の分霊を受け祀ったことに始まるという。
 祭神は武御名方命であり、一間社流造りの本殿には束帯の諏訪明神座像を安置する。
 往時の別当は、真言宗諏訪山瑠璃院宝光寺で、当社のほかに字下耕地の牛頭天王社の別当も務めていた。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年村社となり、同四〇年には宮元屋敷の厳島社と字下耕地の八坂社を合祀した。現在この二社は境内末社として祀っているが、八坂社は元地にも祠が現存し、子供神輿が納められている。
「埼玉の神社」より引用
        
             
・所在地 埼玉県加須市戸崎2388
             ・ご祭神 武御名方命
             ・社 格 旧戸崎村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 327日 八坂祭 711
                  例大祭 827日 秋祭り 1127
 加須市戸崎地域は、同市西部に位置し、見渡す限り平坦な地域で、地域南部と中央部一部には住宅や民家はあるが、それ以外は周囲一面豊かな水田地帯が広がっている農業地域である。
 あまりに平坦な穀倉地域ゆえに、平永稲荷神社から目視ができる程で、稲荷神社正面入り口に接する道路を650m程東行し、突き当たりの路地を右折すると、遠目ながら戸崎諏訪神社の境内遠景が見えてくる。
 但し、社に通じる道は、舗装はされているが、道幅は狭い。周囲にはこれといった参拝用の専用駐車場はないようなので、適当な場所に路駐して、急ぎ参拝を開始した。
        
                戸崎諏訪神社 境内遠景
『日本歴史地名大系』「戸崎村」の解説
 正能(しようのう)村の北にあり、集落は騎西領用水左岸の自然堤防上に立地する。鎌倉時代戸崎右馬允の居城があったと伝え(風土記稿)、竜宝(りゅうほう)寺は戸崎城跡に創建したという(郡村誌)。城下(しろした)・城付(しろつき)の小名がある。永正一一年(一五一四)七月一日の尊能証状写(武州文書)に「武州中崎西之内自戸崎郷下之事」とみえ、崎西(きさい)のうち戸崎郷より下の年行事職を大円坊に申付くべきことを弾正忠尊能が証している。羽生領に所属(風土記稿)。寛永二年(一六二五)一二月設楽甚三郎(貞代)は徳川氏から「戸崎村」で三三九石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。
       
               参道入口に建つ鳥居と社号標柱 
 当地は『吾妻鑑』や『新編武蔵風土記稿』に、鎌倉時代に戸崎右馬允国延の居城があった「戸崎城」があったと伝え、『郡村誌』によれば、社の西側近郊にある金桂山 龍寳寺(竜宝寺)が戸崎城跡に創建したという。 
吾妻鑑卷三
「寿永三年三月十八日、伊豆国に進発する頼朝の御前の射手に戸崎右馬允国延が定めらる」
吾妻鑑卷五
「文治元年十月二十四日、横山、西、小河、戸崎右馬允国延、河原、仙波等は頼朝の勝長寿院落慶供養に供奉す」
『新編武蔵風土記稿 戸崎村』
「小名 城下 城跡の形あり、廻りに土手とおぼしき跡見ゆ、戸崎右馬允といふものゝ居蹟なりと云ふ、」
郡村誌』
臨済宗竜宝寺。其城跡へ当寺を創建すと云」

   鳥居近くに建つ「耕地整理記念碑」    境内にある「県営埼玉型ほ場整備事業の竣工記念碑」
 記念碑文によると、戸崎地域周辺は平坦な水田地域で、農地自体は、昭和14年の耕地整理により整備されてはいるが、一反区画で整備されているほか、道路は狭く用排水路も土水路が残っていて、用排分離もされていないため、効率的な営農が行える状態ではなかったといい、そこで、平成26年度に戸崎地区周辺一帯の整備事業が行われたとの事だ。
 
     一の鳥居の先にある庚申塔       参道の先にある「社殿改築竣功記念碑」
 諏訪神社 社殿改築竣功記念碑
 碑文
 当神社は古来、戸崎の里の総鎮守としてこの地に鎮座し、武御名方命を祀る。村人の幸福と五穀豊穣を恵む、その神徳は遍く広く厚きものあり。
 明治四十年の頃、字元屋敷に在りし厳島神社、並びに字下耕地鎮座の八坂社を合祀し、爾来、里人いよいよ四季の祭りに努め来たりしが、平成七年五月一日の深更、不慮の火災起こりて社殿宝物等悉く烏有に帰す。村人の嘆き悲しみは極まれり。
 されども、やがて社殿再興の気運、氏子の間に高まり、明くる平成八年八月、重立つ人々信州諏訪大社に詣でて、分霊を奉裁し〇新社殿竣功を祝うに至りぬ。
 茲に新しき神殿造営の経緯を記し、村人の厚き敬神の心を書き留め、この里の末永き安寧と弥栄を祈念するものなり。
 平成八年(一九九六年)十月吉日(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
     周囲一帯水田が広がっているとは思えない程、境内は社叢林が社を覆っている。
 参道は鳥居から進むが、境内社・八坂社が祀られている所から右側直角に曲がり、社殿に通じる。
        
                  境内社・八坂社
 当社の祭りの一つに、毎年711日に行われる八坂祭がある。この八坂祭は別名「天王様」とも呼ばれ、末社八坂社の祭りである。この日は大人神輿と子供神輿が練られ、村の厄払いが行われる。古くから天王様の風に当たると悪い病気にかからないといわれ、神輿が来ると氏子は沿道に出て拝むという。
「戸崎の村に過ぎたるものは天王様とお獅子様」といわれるほど、氏子は当地にある獅子を自慢する。普段、獅子は宝光寺薬師堂に奉安してあるが、五月一〇日には村の厄払いのため、これを出して氏子を回る。氏子の家に着くと、勢いをつけて座敷に上がり家を祓って風のごとく飛び出ていくもので、無病息災の意味も込められている。
 
社殿に通じる参道左側に並ぶ伊勢参宮記念碑等    参道右側に並列された奉納石燈籠等
        
                    拝 殿
 写真には見えずらいが、拝殿前にある賽銭箱に刻まれている神紋は「違い鎌」という。俗にいう鎌紋とは、農具として使われる鎌をモチーフとした家紋。鎌は諏訪明神の御神体で、祭具として崇められ、また豊穣を祈る意味を持つことから信仰的な意義により家紋となったという。
 
        拝殿に掲げてある扁額         社殿近くに設置されている掲示板
 諏訪神社  例大祭 八月二十八日
 当社は武御名方命を主祭神とし、五穀豊穣を司る神として崇敬される。創建は不詳であるが信州諏訪大社(現長野県)の分霊を祀ったものと思われる。平成七年五月一日深夜、火災により社殿を消失、翌八年に再建されている。
 古くは、地内の宝光寺の管理となっていたが、神仏分離により同寺を離れ、明治五年に村社となっている。また、同四〇年には厳島社と八坂社を合祀している。
 なお、当神社周辺は戸崎城の跡と伝えられ、明治時代の地図によれば土塁が廻っていたことがわかる。平成七年の試掘調査では、堀跡や土塁の痕跡が確認されている。また、平安時代の須恵器や土師器などが出土していることから、当時、ここに集落があったことがわかる。
加須市教育委員会

                                      掲示板より引用 
        
            社殿の東側に祀られている境内社・厳島社

 毎年8月27日に行われる例大祭(本祭り)は、作物の豊作を祈願する祭りで、「鎌どっかえ」と称する行事がある。祭りが近づくと、氏子は銘々で鎌に模して付木に篠の柄を付けたものを二本つくり、「諏訪神社」と書き、自分の名前を記す。当日、これを持って神社に参詣し、神前に供えて、他の鎌と取り換える。鎌は家に持ち帰られ、神棚に、また家によっては悪病除けのため玄関に供えるという。
 また、
当社の境内には道祖神があり、足の病気を治すご利益があるとされている。そのため、かつては草鞋が奉納されていたという。残念ながら境内を確認したが、それらしき祠等は確認できなかった。
        
              参道から入り口付近の鳥居を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「埼玉苗字辞典」「境内掲示板・記念碑文」等
 

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