古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

琴寄横沼神社

 瞽女(ごぜ)とは、目明きの手引きに連れられて、三味線を携えて僻陬の村々を唄をもって渡り歩いた日本の女性の盲人芸能者を意味する歴史的名称。その名は「盲御前(めくらごぜん)」など、中世以降の貴族などに仕える女性の敬称である「御前」に由来する説と、中国王朝の宮廷に務めた盲目の音楽家である「瞽師」や「瞽官」の読みから転じた「瞽女(こじょ)」に由来する説がある。
 近世までほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人であるという。
 瞽女は将軍・大名に仕え、箏・三弦を教授するなどして定住する者もあったが、多くは仲間と共に門付けをしながら村々をめぐり歩くため、一年の多くを旅で過ごすことになる。娯楽らしいものにも乏しかった農民は、毎年のようにやってくる瞽女を親しみを込めて「ゴゼサ」「ゴゼンボ」と呼んで温かく迎えたのであった。テレビもラジオもない時代のため、宿泊先には歌謡を聞きに付近から人々が集まり、夜の更けるまで瞽女の唄を聞いて楽しんだのであった。瞽女も農民の好みに絶えず心をくだき、唄を通じて心のふれあいが生まれた。農民にとっては、瞽女の唄ばかりではなく旅の話を聞くことも楽しみであった。廻村した地域に関するたわいない話であっても、情報の少ない農民にとっては興味深かった。また、瞽女が人々の信仰の対象ともなっていたことも注目される。瞽女が貧者に善根を施して利益を与えることに加え、子育て、蚕の孵化(ふか)、稲・麦の発芽をうながす霊力や死者の霊を慰め供養する力などを有する聖なる来訪者として意識されていたためである。そのため彼女らに対し村入用で宿を提供し、手引人足が次村まで送り届けるというように、村全体で盲人を受け入れる体制が整えられていたという。
 加須市琴寄地域に鎮座する横沼神社は、1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1912年(明治45年)の神社合祀により、周辺の神社が合祀された。その中に「護世社(ごぜしゃ)」がある。「護世」は女性盲人芸能者「瞽女(ごぜ)」のことであり、利根川の洪水で琴を持った瞽女の遺体が岸辺に流れ着き(寄り)、彼女を手厚く葬ったことが当地の地名「琴寄」の由来であるという。「琴寄」という地域名には、その優雅な響きとは相反する悲しい「瞽女」の伝承・伝説が残されている。
        
              
・所在地 埼玉県加須市琴寄344
              
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              
・社 格 旧琴寄村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭 415日 1015
 新井新田八幡神社から北上し、「間口」交差点を右折して国道125号栗橋大利根バイパスに合流後、旧栗橋町方向に東行する。その後、700m程先にある「豊野台工業団地」交差点を左折、そして1㎞程先にコンビニエンスがある交差点を右手前方向に進路変更し、そのまま道なりに暫く進むと琴寄横沼神社が左手に見えてくる。
 境内東側には社務所があり、そこには専用駐車場も確保されている。
       
                  
琴寄横沼神社正面
『日本歴史地名大系』 「琴寄村」の解説
 [現在地名]大利根町琴寄
 本村と新田が下新井村を挟んで離れており、本村は同村の南、新田は北東に位置し、本村の南西を古利根川が流れ、川沿いに堤がある。対岸の間口村との間に渡船場があった。村名は、昔利根川が満水したとき琴を抱いた瞽女が流れ寄り、この地で絶命、哀れに思った村人が厚く葬ったことに由来するという。この瞽女を祀ったと伝える護世(ごぜ)社が横沼神社に併祀されている(大利根町地名考)。
 田園簿によれば田高一一五石余・畑高六四五石余で、幕府領。このほか善定寺(ぜんじようじ)領七石がある。元禄一〇年(一六九七)の検地帳(小林家文書)によると、検地奉行は上野前橋藩家臣。畑屋敷のみで都合一七三町一反余・高四八九石余。
        
                    境内の様子
 広い境内。そしてその奥には、塚とも古墳とも思え、洪水対策なのか小高い丘上に社は鎮座している。常緑樹は社を取り囲むように聳え立っているのだが、参拝時期は2月下旬の冬時期であり、もし紅葉の時期に参拝すれば、銀杏等が金色に染まりさぞ美しいのであろうと、その点は残念な感想。ともあれ、「村の鎮守様」の雰囲気を感じさせる荘厳さを持つ社
       
       社に向かう石段の手前左側に聳え立つイチョウのご神木(写真左・右)
        
              石段の右手にある古そうな灯籠と石祠 
          灯籠群の奥には「富士〇〇大神」と刻印された石碑が建つ。
        
                 石段上に鎮座する社殿
『新編武蔵風土記稿 琴寄村』
 横根明神社 村の鎭守なり、祭神詳ならず、善定寺持、下二社持同じ、末社 稻荷 天王
 〇天神社 〇諏訪社 〇八幡社 眞福寺持 〇愛宕社 長樂院持 〇淺間社 地藏院持
 〇本護世明神社 祭神詳ならず、寶光院持、 〇湯殿權現社 長泉寺持、

 横沼神社(みょうじんさま) 大利根町琴寄三四四(琴寄字後川
 当社が鎮まる琴寄は、『大利根町誌』によると昔利根川が洪水の折、今はない後川に琴を胸に抱いた瞽女が命絶えて流れ着いたことに由来するという。
 社伝によると、往時、琴寄は鷲宮町の鷲宮神社の氏子であったが、人家が増えたため、元和年間に社を建てたのに始まると伝え、本来鷲宮神社と号すべきであったが、社殿の横に沼があったことから横沼神社の社名が付けられたという。『明細帳』に載せる祭神が天穂日命・武夷鳥命であることから、鷲宮神社の分霊を祀ったことを推察できるが、江戸期の祭神は『風土記稿』に「祭神詳ならず」とあり、その確証は得ない。
 同社名の神社として羽生市下村君の鷲神社は、『風土記稿』に「鷲明神横沼神合社」と載り、さらに「横沼明神は御諸別王の息女を祀る所といへど、是も定かなる拠をきかず」とあり、当社との関係は明らかではない。
 明治五年に村社となり、同四五年には字西後川耕地の護世社をはじめ、横沼・八幡・諏訪・天・雷電・浅間・湯殿・愛宕・塞の各社が合祀された。このうち護世社は、現在拝殿に祀られており、天正年間の創立と伝え、当地琴寄の地名の起こりとなった瞽女を手厚く葬った社といわれている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 氏子区域である琴寄地域は、琴寄本田と琴寄新田の大きく二つに分かれ、それぞれ地域も下新井地域を挟んで離れている。その中でまた小さく耕地が分かれており、その数はおおよそ10耕地である。当社に合祀された社は、本来各耕地ごとに祀られていた小さな祠であったという。
      
      社殿に向かって右側に祀られている   社殿に向かって左側に祀られている
          境内社・八坂神社          境内社・御嶽神社
       
             本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社
            稲荷神社の右隣にも稲荷神社の石祠が祀られている。
       
                 社殿から境内を眺める。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「多摩市デジタルアーカイブ」
    「Wikipedia」等
   

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阿佐間八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市阿佐間991
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧阿佐間村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 325日 春季例祭 415日 夏越大祓 715
                   宵宮祭(灯籠祭)914日 例大祭 915日 他
 間口八幡浅間神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を1㎞程西行し、同県道346号砂原北大桑線と合流する「阿佐間」交差点を南東方向に進むと、阿佐間八幡神社の正面鳥居に到着する。
        
                 阿佐間八幡神社正面
 鳥居を過ぎた社の参道西側には加須市公共施設『旧南保育所』があるのだが、この保育所は建物の老朽化を踏まえ、現在「民族資料保管庫」として使用しているという。今後は耐用年数等を考慮し、資料については移転させると共に、建物を解体し、売却を含めた利活用を検討する等の適切な処分を図るとの事だ。
 因みにこの建物の先には社の専用駐車スペースがあり、その一角に車を停めてから参拝を開始する。
 
      開放感ある参道の様子              神社の掲示板 
                      当月の行事等の連絡あり、参拝側には便利だ。
『日本歴史地名大系』 「阿佐間村」の解説
 [現在地名]大利根町阿佐間・豊野台
 間口村の西に位置し、北を古利根川、南を島川が流れ、古利根川沿いに堤防がある。松永新田に飛地がある(郡村誌)。田園簿には阿左間村とみえ、田高一〇七石余・畑高五一一石余、ほかに野金七両二分、幕府領。寛文四年(一六六四)の羽生中高辻之覚(松村家文書)によると承応年間(一六五二―五五)の検地高四七八石余。
        
                手入れの行き届いた境内
「埼玉の神社」によると、阿佐間の地名の由来は、「マ」には沼地の意があり、「アサ」は浅い意があるところから、古利根川に沿う沼地、あるいは湿地にちなんで付けられたといわれる。また、村の開発にかかわった人々にちなみ、古くは「七軒百姓」とも称されたという。
 大利根町は、豊野・東・元和・原道の四地区からなり、阿佐間のある豊野地区のみ羽生領であり、他の三地区は向川辺領であった。豊野地区は、阿佐間・杓子木・生出・間口・北大桑・新井新田などからなり、他の地区で鷲神社を多く祀るのに比べ、当地区では八幡神社が多く目につく。このことは歴史的に川辺領と異なり羽生領の影響をうけていたことを思わせ、当地の八幡神社も七軒百姓と称された当時の帰農武士たちにより祀られたものと考えられるという。

 旧阿佐間村鎮守社で明治6年村社となった社。当地の信仰は篤く、日清・日露戦争時には、当地出身の出兵兵士は全員無事に帰還することができた為、その後の太平洋戦争(大東亜戦争)には武運長久の神として厚い信仰を受けたという。
        
                               境内に設置されている案内板
        
                              拝 殿
『新編武蔵風土記稿 阿佐間村』
 八幡社 村の鎭守にて、金乘院のあづかる所なり、
 金乘院 新義眞言宗、南篠崎村普門寺の末、星子阿彌陀寺と稱す、本尊不動、開山榮賢と云、貞享四年十二月二十七日示寂す、金毘羅社
 南藏院 当山派修驗にて、江戸青山鳳閣寺の配下、正当山と號す、本尊不動、

 阿佐間八幡神社 御由緒
 ○御縁起(歴史)
 創建年月日は定かでないが、承応二年(一六五四)には、村の鎮守とあり人々は八幡大神を阿佐間の守護神として崇め、八幡様に神恩感謝の誠を捧げ、折々のお祭りを厳粛に斎行してきた。尚江戸期には旗本松平家の知行地となっている
 その間、元禄五年三月十五日(一六九二)社殿老朽化により改築を代官松平主計頭に願い出ている。元禄十五年三月十五日(一七〇二)台風により社殿破損のため、松平主計頭金四両を寄進し修営。さらには、元禄九年九月十六日に新畑二反一畝三分を主計頭源昭利が寄進している
 人々の信仰厚く、享保三年十二月八日には、神祇神道管領卜部朝臣兼敬の名において「正一位八幡宮」の宗源宣旨がなされている
 氏子此を大いに慶び灯籠祭りをおこなった。
 それ以来九月十四日の「宵宮祭」には今日まで灯籠祭が続いている。
 更に文政三年(一八二〇)社殿改築。明治三年(一八七〇)社殿改築。その後一三○年を経て老朽化甚だしく、氏子全員の総意により、平成十五年十一月(二〇〇三)銅板葺の社殿に改築(日本建築工芸設計事務所監督)
 ○御祭神と御神徳
 八幡大神(誉田別尊)
 殖産興業の神。邪を祓い悪を正す神。母子神の大愛を垂れたもう神、武家の信仰厚く武神として崇められる。大東亜戦争中は武運長久を祈る人々が社頭に額ずいた。(以下略)
                                      案内板より引用

 
  社殿左側に祀られている境内社・金毘羅宮  社殿右側には左から(〇)、三笠山社・八海山社
                        ・御嶽山社、秋葉神社の三基の石祠あり
             
                  境内にあるご神木
        
             境内奥に祀られている境内社、合祀社
 左側の境内社は残念ながら読めない。合祀社は湯殿山神社・熊野山神社・白山神社の三社。
        
                社殿からの境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
 

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間口八幡浅間神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市間口479
              
・ご祭神 誉多別命 木花咲耶姫命
              
・社 格 旧間口村鎮守・旧村社
              
・例祭等 雹祈祷 325日 春祭り 415日 秋祭り 915
                   
夏祭り 77日に近い日曜日 及び15
 新井新田八幡神社から一旦北上してから国道125号線に合流、「間口」交差点をそのまま直進し北上する。400m程進んだ「間口八幡神社」交差点を左折すると、進行方向左手に間口八幡浅間神社の広い境内と塚上に鎮座している社殿が見えてくる。
 社の境内北側には、駐車可能なスペースもあり、その一角に停めてから参拝を開始した。
        
                          間口八幡浅間神社正面 
『日本歴史地名大系』 「間口村」の解説
 琴寄(ことより)村と古利根川を隔てて南に位置。古利根川沿いに堤防があり、南西は島川が流れる。天正一三年(一五八五)正月一四日の北条家印判状写(相州文書)に「まくち御領分之由候」とみえ、一色中務大輔に利根川の東に在陣中は船渡しを停止し、船を引上げ、船橋は一ヵ所のみとするよう命じている。間口が一色氏領分の重要地点であったことがわかる。
 当村を含む七村が羽生領(風土記稿)。田園簿によると田高一五石余・畑高五六九石余で、幕府領。このほか野銭永七貫七五〇文。元禄郷帳では高四〇一石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本渥美・細井の相給。
        
                   境内の様子
               境内は思った以上に広いながら、綺麗に手入れされている。 
 現在、社の氏子区域は間口全域で、蟹穴・新田・本田の三耕地からなっている。古くは米麦を中心として豆類・綿・藍などが生産されたが、米の生産調整政策により蔬菜・いちご等への作付け転換が進められたという。
        
                              参道左側にある手水舎
『新編武藏風土記稿 間口村』
 八幡淺間合社 村の鎭守にて東曜寺の持、
 東曜寺 新義眞言宗、下總國葛飾郡前林村東光寺末、八幡山神功院と云、本尊不動、開山宥秀は寬永十九年三月二十六日寂す、古へ東照宮此邊御遊覽獵のとき、當寺ヘ渡御ありし頃、來秀漬菜を差上げしに御意に叶ひ、戲に漬菜坊と呼せられしより、遂に自らの坊號となれりと云、其正しきことを知らず、此僧の肖像を堂中に安ず、鐘樓 享保七年新鑄の鐘をかく、阿彌陀堂、

       
                               塚上に鎮座する拝殿
 八幡浅間神社  大利根町間口四七九(間口字道南)
 当地は、武蔵七党の一つ児玉党の流れをくむ修理亮という者が帰農して開いたといわれ、大鹿姓を名乗り、江戸期に入ると代々名主を務める家となった。
 当社は、阿佐間との村境、間口の一番上に当たる字道南に鎮座する。道南は、氏子集落の西方に当たり、社殿は集落を見守るように東向きに建てられている。
『明細帳』には「往古ヨリ二社合殿、明治六年中村社ニ申立済」と載せ、八幡社と浅間社がいつ合殿になったか伝えていないが、境内にある力石には「奉納八幡 浅間宮」と並記され、更に「元禄十六年正月吉日武州埼玉郡羽生領間口村」とあることから、江戸中期には既に合殿であったことが知られる。祭神は、誉多別命・木花咲耶姫命の二柱である。
 社殿内に並記される本殿は二社共に一間社流造りの同寸法であり、同時に造られたものとみられる。享保一六年二月一三年両社とも吉田家から宣旨により正一位の神位を受けている。
 往時、別当職を村内の八幡山神功院東曜寺が務めていたが、明治初めの神仏分離により東曜寺から離れ、大字阿佐間の旧修験南蔵院が復飾して神職となり南條を名乗り奉仕する。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
    石段左側に置いてある力石               本 殿
僅かに「奉納 浅間 八幡社 元禄十六」と読める。       塚下から撮影
        
            社殿の左側に祀られている境内社・八坂神社
 八坂神社の中には立派な神輿が安置されている。この神輿は、77日に近い日曜日、及び15日に行われる夏祭りの際に使用される神輿であろう。
 当社の祭事は年七回行われているが、その中で最大の賑わいをみせるのが77日に近い日曜日、及び15日に行われる夏祭りである。
 夏祭りは2回に分けて行われ、まず7日に近い日曜日には子供神輿が練られるが、近年の子供の減少により、農業用トラクターに神輿を載せて、これに子供たちとPTAが付く形に変わっている。 順路は、社⇒蟹穴地区⇒新田地区⇒本田地区(地域境に行く)⇒社となる。
 2回目の15日には、大人神輿が練られる。当日午前中に気も市が神霊遷(みたまうつし)が行われ、午後から子供神輿と同じ順路を渡御する。途中、各耕地に設けられた神酒所、地域の有力者の家に寄り、酒のふるまいをうけ、午後9時ごろ社に還御するという。
        
              本殿の右側奥に祀られている合祀社
            左側から浅間社2社・稲荷社2社祀られている。
        
                社殿から参道方向を撮影
    社は当地域の西側端部に鎮座し、集落を見守るように東向きに建てられている




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
            


 
                       

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新井新田八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市新井新田38
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧新井新田村鎮守
              
・例祭等 雹祈祷 3月25日
 北大桑香取神社から「北大桑観音通り」を1㎞程東行し、「北大桑(新井)」交差点を左折する。進行方向右手にある真言宗智山派の大願寺を眺めながら、更に北上し、中川に架かる豊野橋を渡り終えた直後の丁字路を右折すると、大きな工場の間に挟まれて、住宅街からもポツンの取り残されたように新井新田八幡神社は鎮座している。
        
                 
新井新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「新井新田」の解説
 [現在地名]大利根町新井新田・豊野台
 北大桑村の東に位置し、中央を島川が流れる。元禄郷帳では新井新田村とみえる。北大桑村新井の住民による開拓と伝える(大利根町地名考)。田園簿によると皆畑で一五三石余、ほかに野銭永三〇〇文、幕府領。寛文四年(一六六四)の羽生中高辻之覚(松村家文書)によると承応年間(一六五二―五五)の検地高一三〇石余。元禄郷帳では八〇石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。
        
                    拝 殿
 八幡神社  大利根町新井新田三八(新井新田字八幡脇)
 当地は利根川中流域右岸に位置し、中央を島川が流れる。新井新田の地名の由来は、近世初期に北大桑村新井の住民が開発したことによるという。当社の創立も村の開発にかかわると思われる。
 祭神は誉田別命である。二間社流造りの本殿内の一方には、高さ六二センチメートルの金幣を祀り、「八幡大神寄進北新井新田村旦中別當間口村東星寺宝永二乙酉天九月吉日」と記す。なお、祭神が一柱であるのに対して、本殿がなぜ二間社となっているかは不詳である。
『風土記稿』新井新田の項には「八幡社 村の鎮守なり、間口村東曜寺持、天神社 北大桑村大願寺持」とある。当社の別当を務めた真言宗八幡山弥陀院東曜寺は、古くは八幡山神功院東星寺と称しており、元亀元年の創立と伝える。また、天神社は北耕地の耕地鎮守として現在も祀られ、別当を務めた真言宗大願寺は江戸末期から明治初期にかけて当時の住職が大酒を飲み、放蕩をして多額の借金をつくったため寺から追い出され、無住になったので、その後、檀家であった当地はすべて神葬祭に改め、現在に至っている。
 祀職は神仏分離以降、南條家で代々努めている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 社殿の右側に祀られている境内社・稲荷社   境内に建つ「八幡神社新築記念碑」等の石碑
                        力石のような石も2個並んで置いてある。
        
               正面鳥居付近から見る社の一風景
 当社は新井新田の鎮守として厚く信仰されている。古くは「八幡八社参り」と称して大利根地区にある八幡社を八社参拝して回るとご利益があるとされ、毎月一日・一五日はよく行われたという。
 当社の拝殿は、宿としての役割も兼ね備えており、11日の元日には毎戸一名が拝殿に集まり、区長の年頭の挨拶に始まる新年会が催される。また325日には雹祈祷(ひょうぎとう)と称して、農家の組合総会を兼ね、また時には「榛名講」の代参のくじ引き等も行れたり、種々の話合いがされたという
 また、西隣の北大桑地域で行われる「天王様」(77日・15日)に当地の子供たちも参加し、はやり病を防ぐとして、子供神輿が練られているとのことだ。当地の開発には
近世初期に北大桑村新井の住民が関わったといい、現在でも交流は続いているのであろう。

            社の北側の東西に走る道路の向かい側には、
       幾多の庚申塚を含む石碑や供養塔等が並んである。(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
  

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北大桑香取神社

 中川は埼玉県と東京都の東部、関東平野の中部を流れる川。全長 84km。埼玉県羽生市北方の利根川から分流し、南東流して幸手市付近から南流、松伏町で古利根川、吉川市で元荒川と合流する。その後、東京都に入って、新中川放水路を分けてのち、中川放水路となって東京湾に注ぐ。嘗ての利根川の流路で、上流部は島川、中流部は庄内古川、下流部は古利根川の流路にもあたっている。古くから氾濫を繰返し、江戸時代以降たびたび改修されたという。
『日本歴史地名大系  北大桑村の解説』によると、この島川は、現在の中川の最上流部にあたり、明治年間からの改修により、庄内古川とともに下流の古利根川に結び付けられて中川に統合された。江戸時代には羽生領(現加須市・羽生市・騎西町・大利根町辺り)の悪水落を水源とし(風土記稿)、北大桑村道橋(現大利根町)から川口村(現加須市)で浅間川(古利根川)に合し、八甫村(現鷲宮町)、狐塚村(現栗橋町)、高須賀村・権現堂村(現幸手市)で利根川(権現堂川)へ合流する区間を島川(島川堀)とよんだ(寛政一〇年「羽生領用水組合御普請箇所記」見沼土地改良区文書)。
 天正九年〜一五年(一五八一〜八七)頃に比定される六月三日付北条氏照書状写(武州文書)には、北条氏が直接支配する八甫の上流へ上る商船が三〇艘にも及んでいることが記されており、戦国期には島川筋が主要な水運路として利用されていたことがわかる。近世初頭の利根川改修では、文禄三年(一五九四)に会の川が締切られたと伝えられ、浅間川から島川筋は利根川の主流となったとの事だ。
 加須市北大桑地域は、東北自動車道加須ICの東側に位置し、北側に嘗ての島川と呼ばれた中川が北側に流れ、南は葛西用水路を境としてその北岸にある東西に長い地域である。
        
             ・所在地 埼玉県加須市北大桑808 
             ・ご祭神 経津主神
             
・社 格 旧北大桑村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
 国道125号線を久喜市旧栗橋町方向に進み、東北自動車道加須ICの先にある「北大桑(西)」交差点を右折する。通称「北大桑観音通り」を道なりに東行すること600m程で「北大桑」交差点に達し、正面左手にコンビニエンスが見え、そのすぐ東側隣に北大桑香取神社の境内及び社殿が見えてくる。
        
          
「北大桑観音通り」沿いに鎮座する北大桑香取神社
『日本歴史地名大系』 「北大桑村」の解説
 杓子木村の南に位置し、南は南大桑村(現加須市)。北を島川が流れ、南の村境を葛西か用水が流れる。また日光道中の迂回路である日光御廻道が通る。中世には大桑として史料に表れ、南北に分村していないことがわかる。天正八年(一五八〇)と推定される三月二一日の足利義氏印判状写(喜連川家文書案)に「大桑郷」がみえ、古河公方足利義氏は北条氏照に対し、同郷など五郷から古河への人足徴発を命じている。同一八年六月五日の北条家印判状(鷲宮神社文書)、年欠五月三日の鷲宮神領書上(旧鷲宮神社文書)、現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月の棟札により鷲宮神領であったことがわかり、北条家印判状には「拾貫文 大桑之内」、鷲宮神領書上には「拾貫文 本郷香雲院領大桑郷之内 此物成五貫文」、棟札には「大桑村」と記されている。
        
                  静まり返った境内
 北大桑香取神社の創建年代は不明である。ただ当社で所蔵されている金幣に「元禄十二己卯(1699年)」と記載されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。隣にあった「金剛院」が別当寺であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。なお、明治末期の神社合祀政策について、当社では特に周辺神社の合祀は行われていない。
 また
当社には江戸時代の仏師円空が彫ったという「円空仏」を3体所蔵している。
 
    参道左側に祀られている琴平社      拝殿に通じる石段の手前にある案内板
 有形文化財 絵画   香取神社の絵馬
  指定年月日  昭和六十一年十二月八日指定
  所 在 地  加須市北大桑八〇八番地
  所有者  等   香取神社
    制 作 年   延亨三年(一七四六)
 絵馬は「神仏に祈願または恩返しのしるしとして奉納する絵の額」といわれ、生馬に代えて奉納されたものですが、江戸時代になると単に祈願の目的だけでなく、芸術品としての奉納が盛んになりました。
 この絵馬が描かれた延亨三年(一七四六)は、江戸時代第九代徳川家重のころで、奉納の目的は不明ですが、当時の風俗がよく描かれており、絵師の名も判明しています。
 作者絵情斎は三同曾信などとも呼ばれ、一六八〇年加須市川口に生れ、一七五五年死亡、江戸で制作活動に従事した浮世絵師です。
 江戸時代の風俗を知る貴重な資料として指定しました。
 昭和六十三年三月三十一日 加須市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 香取神社 大利根町北大桑八〇八
『風土記稿』島川の項に、羽生領内の悪水を利根川に流す島川に、逆流を防ぐ門樋がある様子が記してある。これが当地の事であり「古く水溢の患多き所」ともある。同書に「香取社 村の鎮守なり、金剛院持、金剛院 本山修験幸手不動院配下音羽山と云」とある。
 当社の創立は不詳であるが、内陣に安置する金幣(九四センチメートル)に「香取大明神(梵字)奉寄進元禄十二己卯ノ十二月吉日 羽生領大桑村并生出村 阿左間村惣氏子」の銘がある。これは当社が往時この辺一帯の総鎮守であった事を伝えている。このほか円空仏三体を安置する。当社の参道脇に神霊社(かんれいしゃ)と称する小祠がある。これは昔、旅の浪人がこの地に来て村人を助けて種々の事業を進め、一応仕事が済んだ時、村人が鳩首してこの者を長く村内に留めて置けば、いずれこの村を牛耳られることになる。皆で謀って殺そうと折を見ていると、浪人が金剛院への年始の帰りで足元がおぼつかない、これを襲い、武槍で目を突き、近くの池に投げ込んで殺害したが、以来この地は眼病の者が多く、このため小祠を祀りその霊を慰めたものという。 
 当社の祭神は経津主命である。別当金剛院は当社の裏にあったが、明治期に退転したといわれ、現在は建物もない。
 末社に琴平神社があるが由緒不詳である。このほか、境内には村内より集めたという石祠、天満宮・多賀大明神等一〇社ほどがある。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿上部に掲げてある扁額             本 殿
        
             社殿の左側手前にある石祠等がある。
「埼玉の神社」に記してある「村内より集めたという石祠、天満宮・多賀大明神等10社」なのであろう。
        
              本殿の右側奥に祀られている浅間社

 当社の氏子は北大桑全域を一応氏子としていが、これは明治五年村社となって以降である。本来の氏子は北大桑・中組である。というのも、当地は各耕地に鎮守があり、それぞれに祭りを行っている。八ッ島は大日社・弁天社を、芝は八幡社、保谷は八幡社、北は山王社、台は権現社、新井が八幡社を祀る。当社は中組が祀っている社である。
 当所は明治期に合祀が行われなかったところである。ゆえに、付近の耕地鎮守を含めて、古くからの祭りの形態を色よく残しているといえる。これにより氏子は元旦祭をお正月様、春秋の祭礼をお日待と呼んでいる。各家ではあんびん餅を作り、赤飯を蒸して祝うが、氏子は祭礼だといって神社に参詣はしない。参詣は竈番が代表して行っている。毎月一日・一五日の早朝も竈番は祭礼と同様に神前に灯明をともし太鼓を打ち参拝を行っている。
             
              境内に一際目立つイチョウの御神木
        
                石段上から正面参道を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等
  

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