古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北大桑香取神社

 中川は埼玉県と東京都の東部、関東平野の中部を流れる川。全長 84km。埼玉県羽生市北方の利根川から分流し、南東流して幸手市付近から南流、松伏町で古利根川、吉川市で元荒川と合流する。その後、東京都に入って、新中川放水路を分けてのち、中川放水路となって東京湾に注ぐ。嘗ての利根川の流路で、上流部は島川、中流部は庄内古川、下流部は古利根川の流路にもあたっている。古くから氾濫を繰返し、江戸時代以降たびたび改修されたという。
『日本歴史地名大系  北大桑村の解説』によると、この島川は、現在の中川の最上流部にあたり、明治年間からの改修により、庄内古川とともに下流の古利根川に結び付けられて中川に統合された。江戸時代には羽生領(現加須市・羽生市・騎西町・大利根町辺り)の悪水落を水源とし(風土記稿)、北大桑村道橋(現大利根町)から川口村(現加須市)で浅間川(古利根川)に合し、八甫村(現鷲宮町)、狐塚村(現栗橋町)、高須賀村・権現堂村(現幸手市)で利根川(権現堂川)へ合流する区間を島川(島川堀)とよんだ(寛政一〇年「羽生領用水組合御普請箇所記」見沼土地改良区文書)。
 天正九年〜一五年(一五八一〜八七)頃に比定される六月三日付北条氏照書状写(武州文書)には、北条氏が直接支配する八甫の上流へ上る商船が三〇艘にも及んでいることが記されており、戦国期には島川筋が主要な水運路として利用されていたことがわかる。近世初頭の利根川改修では、文禄三年(一五九四)に会の川が締切られたと伝えられ、浅間川から島川筋は利根川の主流となったとの事だ。
 加須市北大桑地域は、東北自動車道加須ICの東側に位置し、北側に嘗ての島川と呼ばれた中川が北側に流れ、南は葛西用水路を境としてその北岸にある東西に長い地域である。
        
             ・所在地 埼玉県加須市北大桑808 
             ・ご祭神 経津主神
             
・社 格 旧北大桑村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
 国道125号線を久喜市旧栗橋町方向に進み、東北自動車道加須ICの先にある「北大桑(西)」交差点を右折する。通称「北大桑観音通り」を道なりに東行すること600m程で「北大桑」交差点に達し、正面左手にコンビニエンスが見え、そのすぐ東側隣に北大桑香取神社の境内及び社殿が見えてくる。
        
          
「北大桑観音通り」沿いに鎮座する北大桑香取神社
『日本歴史地名大系』 「北大桑村」の解説
 杓子木村の南に位置し、南は南大桑村(現加須市)。北を島川が流れ、南の村境を葛西か用水が流れる。また日光道中の迂回路である日光御廻道が通る。中世には大桑として史料に表れ、南北に分村していないことがわかる。天正八年(一五八〇)と推定される三月二一日の足利義氏印判状写(喜連川家文書案)に「大桑郷」がみえ、古河公方足利義氏は北条氏照に対し、同郷など五郷から古河への人足徴発を命じている。同一八年六月五日の北条家印判状(鷲宮神社文書)、年欠五月三日の鷲宮神領書上(旧鷲宮神社文書)、現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月の棟札により鷲宮神領であったことがわかり、北条家印判状には「拾貫文 大桑之内」、鷲宮神領書上には「拾貫文 本郷香雲院領大桑郷之内 此物成五貫文」、棟札には「大桑村」と記されている。
        
                  静まり返った境内
 北大桑香取神社の創建年代は不明である。ただ当社で所蔵されている金幣に「元禄十二己卯(1699年)」と記載されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。隣にあった「金剛院」が別当寺であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。なお、明治末期の神社合祀政策について、当社では特に周辺神社の合祀は行われていない。
 また
当社には江戸時代の仏師円空が彫ったという「円空仏」を3体所蔵している。
 
    参道左側に祀られている琴平社      拝殿に通じる石段の手前にある案内板
 有形文化財 絵画   香取神社の絵馬
  指定年月日  昭和六十一年十二月八日指定
  所 在 地  加須市北大桑八〇八番地
  所有者  等   香取神社
    制 作 年   延亨三年(一七四六)
 絵馬は「神仏に祈願または恩返しのしるしとして奉納する絵の額」といわれ、生馬に代えて奉納されたものですが、江戸時代になると単に祈願の目的だけでなく、芸術品としての奉納が盛んになりました。
 この絵馬が描かれた延亨三年(一七四六)は、江戸時代第九代徳川家重のころで、奉納の目的は不明ですが、当時の風俗がよく描かれており、絵師の名も判明しています。
 作者絵情斎は三同曾信などとも呼ばれ、一六八〇年加須市川口に生れ、一七五五年死亡、江戸で制作活動に従事した浮世絵師です。
 江戸時代の風俗を知る貴重な資料として指定しました。
 昭和六十三年三月三十一日 加須市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 香取神社 大利根町北大桑八〇八
『風土記稿』島川の項に、羽生領内の悪水を利根川に流す島川に、逆流を防ぐ門樋がある様子が記してある。これが当地の事であり「古く水溢の患多き所」ともある。同書に「香取社 村の鎮守なり、金剛院持、金剛院 本山修験幸手不動院配下音羽山と云」とある。
 当社の創立は不詳であるが、内陣に安置する金幣(九四センチメートル)に「香取大明神(梵字)奉寄進元禄十二己卯ノ十二月吉日 羽生領大桑村并生出村 阿左間村惣氏子」の銘がある。これは当社が往時この辺一帯の総鎮守であった事を伝えている。このほか円空仏三体を安置する。当社の参道脇に神霊社(かんれいしゃ)と称する小祠がある。これは昔、旅の浪人がこの地に来て村人を助けて種々の事業を進め、一応仕事が済んだ時、村人が鳩首してこの者を長く村内に留めて置けば、いずれこの村を牛耳られることになる。皆で謀って殺そうと折を見ていると、浪人が金剛院への年始の帰りで足元がおぼつかない、これを襲い、武槍で目を突き、近くの池に投げ込んで殺害したが、以来この地は眼病の者が多く、このため小祠を祀りその霊を慰めたものという。 
 当社の祭神は経津主命である。別当金剛院は当社の裏にあったが、明治期に退転したといわれ、現在は建物もない。
 末社に琴平神社があるが由緒不詳である。このほか、境内には村内より集めたという石祠、天満宮・多賀大明神等一〇社ほどがある。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿上部に掲げてある扁額              本 殿
        
             社殿の左側手前にある石祠等がある。
「埼玉の神社」に記してある「村内より集めたという石祠、天満宮・多賀大明神等10社」なのであろう。
        
              本殿の右側奥に祀られている浅間社

 当社の氏子は北大桑全域を一応氏子としていが、これは明治五年村社となって以降である。本来の氏子は北大桑・中組である。というのも、当地は各耕地に鎮守があり、それぞれに祭りを行っている。八ッ島は大日社・弁天社を、芝は八幡社、保谷は八幡社、北は山王社、台は権現社、新井が八幡社を祀る。当社は中組が祀っている社である。
 当所は明治期に合祀が行われなかったところである。ゆえに、付近の耕地鎮守を含めて、古くからの祭りの形態を色よく残しているといえる。これにより氏子は元旦祭をお正月様、春秋の祭礼をお日待と呼んでいる。各家ではあんびん餅を作り、赤飯を蒸して祝うが、氏子は祭礼だといって神社に参詣はしない。参詣は竈番が代表して行っている。毎月一日・一五日の早朝も竈番は祭礼と同様に神前に灯明をともし太鼓を打ち参拝を行っている。
             
              境内に一際目立つイチョウの御神木
        
                石段上から正面参道を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等
  

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北平沢天神社


        
             
・所在地 埼玉県日高市北平沢620
             ・ご祭神 菅原道真公 春名大神 八幡大神 大山祇神 木花咲耶姫
             
・社 格 旧平沢村鎮守・旧村社
             ・例祭等 例大祭 425日 1123
 毛呂山町市街地を南北に貫く埼玉県道30号飯能寄居線を日高市方向に進む。「埼玉医科大学国際医療センター」を左手に見ながら更に南下し、1㎞程先の十字路を左前方向に進むと、左側に北平沢天神社の境内と長い参道が見えてくる。
        
                北平沢天神社の社号標柱
            ここから境内まで150m程の長い参道が始まる。
『日本歴史地名大系』 「平沢村」の解説
 原宿村の北にあり、北は入間郡多和目村(現坂戸市)・同郡葛貫村(現毛呂山町)、南は新堀村。ほぼ中央を高麗川が北東流し、北境を東へ流れてきた宿谷(しゆくや)川が合流する。上野国方面から川越へ向かう道が北東へ、同道から分れて南下し相模国へ向かう道(鎌倉街道)がほぼ南北に通る。宝治二年(一二四八)二月二八日の高麗景実譲状(新渡戸文書)に「むさしのくにこまのこほりひんかしひらさわのうちきやふつかやしき」がみえ、娘の「とよいや御前(景実女土用弥)」に永代を限り譲与された。この所領は正慶二年(一三三三)三月二八日以前に尼蓮阿(土用弥)とその娘尼慈照から慈照の子曾我左衛門太郎入道光頼へ譲られ、光頼は「東平沢内田畠屋敷」などの安堵を申請し、同日高麗太郎次郎入道に事実確認のため下文等の備進などが命じられている(「某奉書」「曾我(高麗)系図」遠野南部文書)。 
                参道の様子(写真左・右)
 社号標柱から境内まで気にならない程度の         参道の途中に建つ鳥居
   ゆるやかな上り坂となっているようだ。
        
              境内の梅の花も咲き始めていている。
           少しずつだが、季節は確実に春の到来を告げている。
        
                 石段上に鎮座する社殿
        
              石段手前に設置されている案内板
 天神社    所在地 日高町大字平沢
 天神社は、祭神に菅原道真公、春名大神、八幡大神、大山祇神、木花咲耶姫を祀ったものであり、創立年代は不詳であるが、道真公画像が伝えられている。明治四十一年には村内にあった諸神社を移転合祀し、当時の高麗川村の北半分を占める南北平沢の総鎮守となった。背面に社有林を配し、南面に広い境内があって地域を代表する景勝地である。現在の社務所の位置には、大正六年まで平沢地区の学校が置かれていて、文字どおり子供たちは天神様のふところで勉強した。
 例大祭は、毎年四月二十五日と十一月二十三日で、この日その年のお嫁さんがお参りする「嫁のまち」の習わしがあり、昔は村芝居なども上演されていたが、今では若者の演芸がそれに代って行われている。
 神社の西方にそびえる富士山には、浅間神社が祀られており、天神社と一体的なものとして村人から深い信仰を集めている。
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 社がある地は、高麗川左岸で、同河川がようやく平野部に出る地点でもあり、僅かに水田が広がっている。社のすぐ西側には小高い山が控えており、その裾に鎮座する。境内に設置されている案内板では、背面の山は社有林だそうだ。なだらかな斜面上に鎮座している社殿から南面を望むと、広い境内と長い参道の先に集落が密集していて、まさに当地の人々を守る鎮守様のような位置関係にあるようだ。
        
                    本 殿
 案内版にも載せているが、当社の祭事は、春秋二回の例大祭である。春は四月二十五日、秋は十一月二十三日に祭典を執行する。当社では春秋の例大祭を「嫁の待」と呼ぶ。これは前回の祭り以後に当地に嫁して来た者及び当地から他所へ嫁いで行った者が、花嫁姿で仲人に手を引かれて参拝する習わしがあるためだそうだ。但し、近年は結婚式場や貸し衣装で披露をおこなうため、このような行事は行われなくなったようだ
 また
嘗て当社の祭事では、戦前は秋川の芝居師を頼んでいたが、戦後は境内に仮設される舞台で地元の青壮年が芝居を演じていたようだ。芝居の演目は「菅原伝授手習鑑」「仙台萩」「太閤記」「奥州安達原」「本朝二十四孝」「義経千本桜」等。
       
            社殿前に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
 
  社殿の左側に祀られている境内社・合祀社      七社権現社の右側に祀られている境内社
   左から八幡・稲荷合祀社、七社権現社         左から稲荷社、芝宮社

 当社の奥宮と呼ばれた、浅間神社の祀られている富士山は、江戸期には富士講の行者を中心に信仰を集め、現在でも「オシシ岩」等の名所が残されている。因みに「富士山」と書いて「ふじやま」と読む。また、同所にある「ウバ神社」は「ジジババ様」とも呼ばれ、花柳界の人々の信仰があった。
        
                        社殿右側に祀られている境内社・神明神社
        
                 石段下から境内を望む
 
 天神社  日高町北平沢七七〇(平沢村上組字天神峰)
 当社の創建については、現在、末社稲荷神社にある石棒(四三センチメートル)が、口碑に明治まで本殿内にあったといわれること、また、氏子の間では「天神様が終わるともう蚕やら田んぼやらだ」「今年も秋の取入れも無事に済んで天神様だ」などと語られており、当社の祭事が農事歴に組み込まれていること、更に明治四十一年、当社に合祀された富士浅間神社の鎮座地、つまり当社裏に当たる富士山(ふじやま)の位置などを考え合わせると、当社における天神の称号は古く、農耕の神として当地の開発とともに祀られたものと推察される。
『風土記稿』に、別当を天台宗清光院と記しているが、一間社流造りの見世棚の本殿内には、菅原道真公の「絵板」(縦八五センチメートル・横四九・五センチメートル)が奉安され、表は梅花の下に坐す束帯姿の菅公を刻し、裏に「武州高麗郡平澤村寄進松福院住職尊永 絵板絵師朴斉 元禄己巳暦五月吉日」とある。また、口碑には、当社近くの天台宗松福院が別当だったともいい、別当の移動があったことが考えられる。
 明治四一年、同字上組日影森の七社権現社、同字宮ヶ谷戸の芝宮、同字下組の神明社、字富士山の富士浅間社などを合祀したが、このうち富士浅間社は信仰を集めていたことから山上に石祠が残された。
                                  「埼玉の神社」より引用 




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等 
 

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新堀熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市新堀387
              
・ご祭神 伊耶那美命 速玉男命 事解男命
              
・社 格 旧本新堀産土神
              
・例祭等 例祭(お九日) 101819
 新堀稲野辺神社から「もくせい通り」を550m程南下し、丁字路を右折すると、進行方向左手に新堀熊野神社が見えてくる。
 この新堀地域には、大きく分けると、「荒井」「大宮」「野口」「本新堀(本来は新堀であり、通称として本新堀というのだが、大字名との混同を避けるため、通称の方を用いる)」「四本木」「吹上」「原の南」「原の北」の八つの集落があり、各々産土神として社を祀っていて、当社はそうした集落で祀られている社の一つである。
 因みに本新堀には「新堀」姓の家がたくさん多いという。
        
                  
新堀熊野神社正面
 当社は、始め新堀家の氏神として祀られていたが、村の発展に伴い、本新堀の産土神として祀られるようになり、今日に至っている。
 当社の管理や祭事の運営には、総代と当番が当たる。総代は、「オキノイエ」の当主が務めるのが慣例となっていて、当番は氏子が二名ずつ一年交代で務めるという。
        
                   境内の様子
 当地域の氏子の生業としては、養蚕と麦・甘藷・大豆・小豆などの畑作が中心である。農地の大部分は台地上にあるため、水利が悪く、戦前はしばしば干害に悩まされていた。そこで、作物の葉が萎えてくると、人々は雨乞いを行って、降雨を祈願したこともあったという。
        
                    拝 殿
 熊野神社  日高町新堀三七八(新堀字宮ノ前)
 往古、紀州の熊野からこの地へ来て村を開いたと伝えられる新堀某にちなんでその名がつけられた新堀は、高麗川に沿う農業地帯の一角を占めている。当社は、新堀の中でも最も早く開かれたとされる本新堀のほぼ中央に、高麗川を背にして鎮座している。祭神は伊耶那美命・速玉男命・事解男命の熊野三神、本殿は三間社流造りである。
 本新堀には新堀を姓とする家が多いが、中でも「オキノイエ」の屋号を持つ新堀家は、村を開いた新堀某の直系の子孫で、この近辺の新堀姓の家の総本家といわれ、当社はこの「オキノイエ」の氏神として創建された社であると口碑にある。ちなみに、同家の現在の当主は一七代目の米次郎である。
「オキノイエ」は、度々火災に遭っているため、当社の創建に関する資料は残っていないが、同家の当主が代々当社の総代を務めていることや、同家の墓地が当社境内に隣接していることなどを見ても、同家と当社の関係の深さは容易に推察されよう。
『風土記稿』には、当社は観音寺持ちの「熊野三神権現社」の名で記載されている。別当の観音寺は真言宗の寺院であったが、神仏分離によって廃寺となった。その後、いつのころからか旧観音寺の堂宇は薬師堂と称されるようになり、様々な会合の場として利用され、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
            社殿の左側に祀られている石祠一基  愛宕社
                植木の奥に見えるのが本殿
        
          社殿の右側に並列して祀られている境内社・稲荷社
    稲荷社の右隣に待つあっれている「お仮屋」 大口真神の神札が納められている。

 祭事は年二回で、元旦祭と当社の例祭であるお九日(おくんち)がある。お九日の祭日は101819日の両日である。近年では幟を立て、祭典を行うだけであるが、以前は18日の宵宮(宵祭り)に、お籠もりをしていた。祭典については、古くから当社の祀職を高麗神社社家の高麗家が兼務しているため、本来の祭日である19日には、高麗神社の祭典と重なり、神職が出社できないことから、18日に行っている。
 また、明治期には、参道を使って、流鏑馬も行われていた。現在より広く、長かった参道を馬で駆け抜け、的を射る様は、子供心にも実に勇壮に映ったと古老は伝えている。
        
                社殿から参道正面を撮影
 参拝日は2月下旬の平日。天候も初春を思わせるような温かい陽気で、今や梅が満開な時期だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
  
                                

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新堀稲野辺神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市新堀591
              
・ご祭神 武御名方命
              
・社 格 不明
              
・例祭等 例祭 4月第一日曜日(餅遊び)・1019
 JR八高線高麗川駅より駅前通りを西行し、「高麗川駅入口」交差点を右折する。埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、1.2㎞先の十字路を左折、通称「もくせい通り」に達する丁字路を右折すると、すぐ左手に新堀稲野辺神社の社叢林が見えてくる。
 専用駐車場はないので、社の北側の路地に一時的に路駐し、急ぎ参拝を行う。
        
                道路沿いに建つ社号標柱
『日本歴史地名大系 』「新堀(にいほり)村」の解説
 高岡村の東にあり、ほぼ中央を高麗川が蛇行しながら北へ流れる。北は平沢村、南は野々宮村・楡木村。東部を上野国から相模国へ向かう道がほぼ南北に通り、坂戸へ向かう道が北東へ通る。高麗郡高麗領に属した(風土記稿)。慶長二年(一五九七)九月の高麗郡新堀郷新井村地詰帳写(高麗家文書)があり、新井村は当村南部の小名新井にあたる。田園簿では田一一石余・畑一七八石余、幕府領。
        
                 
新堀稲野辺神社 遠景
 写真を見ても分かる通り、平均標高75m前後のなだらかな武蔵野台地一帯に広がる田畑風景の中、社の区域のみ真っ直ぐに伸びた木々に囲まれ、別次元の世界に入ったような錯覚すら感じさせる不思議な社。
        
                                 
新堀稲野辺神社正面
    鳥居の手前で右側には灯篭があり、そこには「石尊大権現」と刻印されている。

『入間郡誌』には、「字原にあり。 創立不明、元新堀新田稲野辺原にありしを今の地に移せり」と載せていて、当時の別当を務めていた建光寺や檀家等の努力により、宝暦11年(1761)現在の社地に移されたという。また当社は、古くは「諏訪大明神」と号していたが、いつのころからか「稲野辺神社」と呼ばれるようになり、現在では諏訪明神の社号は忘れ去られている。
 現在の氏子区域は、新堀のうちの原地区であり、生業の主なるものは麦作・茶の栽培・養蚕であったが、現在は兼業農家が多くなっているという。
        
                                       拝 殿
『新編武蔵風土記稿 新堀村』
「傳へ云古へ紀州熊野より新堀氏の人、この地に來て草創せしゆえ、卽ち村名となせり、今も村民に其の氏族のもののこれり」
「稲ノ邊社 當社は鬼鹿毛(おにかげ)と云、名馬の霊を祀りし所にて、もとは囃明神と號せしを、土人訛りていなのへと唱へり、今新田の地に古松一株あり、是かの馬を繋し木にて、古は此社その木のほとりにありしを、後當所に移せりと云、」

 稲野辺神社  日高町新堀五九一(新堀字原)
 その昔、紀州熊野から移り住んだ新堀氏が開いた村であると伝える新堀の地に鎮座し、武御名方命を祀っている。当社は、かつて「諏訪大明神」と号し、現在の新堀新田に鎮座していたが、正慶二年(一三三三)に新田義貞が鎌倉幕府攻撃のために出陣の途次、社前に休んだところ軍馬が大いに嘶(いなな)き兵勢を盛んにしたことに伴い、「嘶明神」又は「嘶諏訪明神」と号するようになり、いつしか、この「嘶き」が訛って「稲野辺」となったと、その由緒が明治四年本社拝殿建立棟札の裏面に記されている。
 嘶ガ原は五百町にわたる広大な地で、馬草場として周囲の村々の入会地とされていたが、享保年中に当地の開発が行われ、その際当社の社地は狭まり、また嘶ガ原は村の中心から離れているため、当社は氏子から粗末に扱われ、その由緒も忘れられがちになった。そこで当時の別当を務めていた建光寺の法印常相がこうした現状を愁いて、これに代わる社地を強く望んだが実現せず、その後数十年の歳月を経て宝暦一一年法印尊印の時、檀徒及び村民の努力により現在の社地に遷座された。
 なお現在、祀職を務める高麗家に所蔵されている寛永年間の高麗神社絵図面には、覆屋内に本殿と並んで嘶明神が祀られているが、当社とこの社との関わりについては不詳である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
         本 殿           境内にひっそりと祀られている御嶽社の石祠
        
                  静まり返った境内

     ところで、社の北側で道を隔てた場所に嘗ての別当であった建光寺がある。
 
川越市内の天台宗仙波中院の末寺である建光寺     道路沿いに設置されている案内板

 建光寺   所在地 日高町大字新堀
 建光寺は、福徳山地福院建光寺と称し、川越市内の天台宗仙波中院の末寺である。本尊に阿弥陀如来像(坐高49.5cm)を安置している。当時の創立年代等は不詳であるが、境内にある墓碑には、寛永11年(1634)僧尊慶建光寺を中興、承応3年(1654910日入寂と記されている。
 そのほか境内には地蔵堂があり、地蔵菩薩像(坐高26.4cm)を安置している。この地蔵菩薩像は子育地蔵、延命地蔵として崇められ、特に安産の折にはその御礼として、米一升を御供えとして捧げる習わしがある。毎年823日を縁日として現在でも近在の人々のお参りでにぎわい、建光寺のお地蔵様として親しまれている。
 昭和五十八年三月 日高市
                                      案内板より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「案内板」等

        



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上鹿山高麗川神社

 上鹿山地域は、新田氏あるいは武田氏の家臣が住み着いて開発した村であるといわれ、南北朝時代には家も六軒しかなかったと伝えられている。当社が隣接する猿田の人々によって勧請された社であることから推察すると、上鹿山よりも猿田の方がより早く開けた場所であったと思われる。
 当社は、武運の神として知られる日本武尊を主祭神とし、また、武士によって勧請されたとも伝えられていることから、創建当初は土着の武士の氏神として、あるいは守護神として信仰されたものと思われる。その後、村の発展に伴い、村の鎮守としても性格を強め、今日においては、明治42年に合祀した諸社が旧地に復したにも関わらず、旧高麗川村の鎮守として広く信仰されている。
 もともと、この辺り一帯は、中世においては鹿山村と呼ばれていたが、近世に至って現行の大字に相当する上鹿山・中鹿山・下鹿山・鹿山の四つに分かれた。しかし、この分村の理由は明らかでないという。
        
             
・所在地 埼玉県日高市上鹿山170
             
・ご祭神 日本武尊 橘姫命
             
・社 格 旧上鹿山村鎮守・旧指定村社
             
・例祭等 初午祭 2月初午 春祭り 41415日 祇園祭81415
                  
秋祭り 111415
 JR八高線「高麗川駅」ロータリーから駅前通りを西行し、最初の十字路である「高麗川駅」交差点を左折し、道なりに南下する。途中、埼玉県道15号川越日高線の高架橋を潜るのだが、そのまま200m程進むと、進路右側に上鹿山高麗川神社の鳥居が見えてくる。
 専用駐車場は境内北側隣に確保されていて、わかりやすく便利である。
              
                道路沿いに建つ社号標柱
       
                 上鹿山高麗川神社正面
『日本歴史地名大系』による「上鹿山村」の解説
 野々宮村・猿田(やえんだ)村の東にあり、東は女影・中鹿山・鹿山・原宿の各村。ほぼ中央を小畔(こあぜ)川が北東へ流れる。南北に相模国から上野国への道が通る。古くは中鹿山村・下鹿山村・鹿山村と一村であったといわれる。小田原衆所領役帳には、他国衆の三田弾正少弼の所領として高麗郡の「賀山」がみえる。近世には高麗郡高麗領に属した(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田七四石余・畑六四石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本雨宮領。
        
              鳥居の左側に設置されている案内板
 高麗川神社
 当初は八剣神社と称し上鹿山村社でしたが、明治11年に同じ上鹿山の八坂神社、稲荷神社が移されました。明治42年には中鹿山村社の熊野神社、下鹿山村社の白幡神社、鹿山村社の熊野神社、原宿村社の稲荷神社など15社を合祀して高麗川神社と改めました。しかし、昭和15年ごろに旧村社を分祀したため、合祀前の状態に戻りました。
 高麗川神社は、日本武尊、橘姫命の2柱、八坂神社には素戔嗚尊、稲荷神社には倉稲魂命を祀っています。
 境内の中央に四方に広げてたたずむ「タブの木」は、根本近くから二股に分かれ、2本の木のように見えます。幹回りは北側で5.2m、南側で5.3mです。樹高はともに約22mをはかります。樹齢は約300年と言われ、御神木として大切にされています。
 境内入口には大正5年頃に青梅農林学校より当時の上鹿山青年会が苗木を分けてもらい植樹した「ゆりの木」があります。北米原産の木蓮科の樹木で、成長が早く平成21年に伐採しました。現在の幹周りは3.4m、樹高は約10mをはかり、樹齢は90年になります。

 八坂神社の祭ばやし   市指定文化財 無形民俗文化財
                 昭和62427
日 指定
 毎年81415日に行われるギオンマツリと呼ばれている八坂神社の例祭で、豊作祈願と安全祈願、悪疫退散の願いを込め、祭りばやしを奉納しています。
 本社の囃子は、福原村中台(川越市)に伝わる王蔵院(世田谷区)の王蔵院流旧祭囃子を教わったのが始まりだと云われています。
 お囃子は山車の上で演奏され、子どもたちが曳き綱を引いて上鹿山地区を一巡します。山車は江戸時代末から明治時代の半ばに北多摩郡砂川村(立川市)で使われていたもので、飯能市宮本町に渡り、大正時代になり上鹿山で使われるようになりました。
 編成は笛1、締め付け太鼓2、大太鼓1、金15人で演奏します。代表的な曲は屋台、昇殿、鎌倉、子守、ニンバなどです。獅子、三番叟、にんば、おかめ、ひょっとこ、外道、白狐などの踊りに合わせて次々と曲が変化しています。
 平成222月 日高市教育委員会
                                      案内板より引用 

        
               上鹿山高麗川神社 境内の様子
 高麗川神社の創建年代等はハッキリと分かっていないが、『新編武蔵風土記稿』において「八劔社」と称し、猿田村のものが日本武尊を讃えて祀ったとも、元亨2年(1322)に猿田村に住む猿田豊前守吉清という武士が勧請したとも伝えられ、どちらの伝承にしても猿田村の人が創建に関わっていたとされている。
 江戸期には上鹿山村の鎮守として祀られ、慶安2年(1649)には江戸幕府より社領3石の御朱印状を受領している。明治11年に上鹿山の八坂神社・稲荷神社を当社境内へ遷座、明治42年には中鹿山の熊野神社、下鹿山の白幡神社、鹿山村社の熊野神社、原宿の稲荷神社など15社を合祀して高麗川神社と改称したとの事だ。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上鹿山村』
 八劔社 日本武尊・橘姫命を祭ると云、慶安二年社領三石の御朱印を賜ふ、村の鎭守なり、例祭九月廿九日、社の傍に橘の樹あり、圍二丈許、神職田中賴母吉田家配下なり、
 稲荷社 西光寺持、下皆同じ、天王社 山神社 二月初午の日例祭あり、辨財天社 丹生社
 花木明神社 中鹿山村泉乘院の持、
 愛宕社 村持
 
 拝殿にある廻りの外廊下正面左側には4枚のパネルが展示されていて、左側から県知事より神饌幣帛供進神社の指定を受けた書面(写真左)、その右隣には高麗川神社(旧社号 八剱神社)の案内板(同右)が設置されている。
        
  高麗川神社の右隣には、明治23年10月30日に発表された「教育勅語」の全文が、一番右側には「八劔神社」の由来・案内板が展示されている。
   
         本 殿               本殿右側にある「山車庫」
 当社において、最も賑わっているのは、8月14・15日に行われる「八坂神社の祭ばやし」である。八坂神社の例祭でもあり、嘗ては「天王様」と呼ばれていた。この行事は、本来は疫病除けとして執行されていて、境内社の八坂神社の例祭でもあった。しかし、現在では夏の風物詩的な行事となり、祭り本来の意味は薄れてしまったようだは、年々賑わいを増しており、氏子のよき親睦の場となっているようだ。
 
    拝殿から一番左側に祀られている       八坂神社の右隣に祀られている
       境内社・八坂神社              境内社・稲荷神社
        
                   境内中央に孤高の如く聳え立つ椨(たぶ)の古木
 この古木は、根本近くから二股に分かれ、如何にも2本の木のように見える。幹回りは北側で5.2m、南側で5.3mで、樹高はともに約22mをはかる。樹齢推定400年とも推定され、老樹の根株のひこばえから成長したものであると伝えられている。勿論当社のご神木である。
        
           
椨(たぶ)の古木の根元に祀られている丹生宮の石祠



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
 

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