古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上五箇愛宕神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町大字上五箇8351
            
・ご祭神 火霊産命
            
・社 格 旧上五箇村鎮守・旧指定村社
            
・例祭等 春祭り 3月24日 夏祭り 724日 秋祭り 9月24日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1975842,139.46029,17.25z?hl=ja&entry=ttu
 行田市の「利根大堰」を北上し、群馬県に入り「上中森」交差点を左折する。栃木県道・群馬県道38号足利千代田線を1㎞程西行すると、上五箇愛宕神社が進路左側に見えてくる。実は当神社を更に1.3㎞程西行すると瀬戸井長良神社が鎮座しており、当初ブログに紹介する社をどちらにするか迷ったが、千代田町地域の中心的な社である事を考慮して、最初に瀬戸井長良神社を紹介した次第だ。
 周囲には適当な駐車スペースはないため、路駐し、急ぎ参拝を行う。
        
                 上五箇愛宕神社正面
『日本歴史地名大系』 「上五箇村」の解説
 [現在地名]千代田町上五箇
 東は上中森村、西は瀬戸井村、北は萱野村、南は武蔵国埼玉郡酒巻村・下中条村(現埼玉県行田市)と利根川中央で境界とする。用水として休泊堀が瀬戸井村から当村の中央辺を東流している。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に「上五ケ村」とあり、田方七石五斗余・畑方四六三石四斗余とある。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)では高八〇五石五斗余、田一一町八反余・畑六六町八反余である。天和二年(一六八二)幕府領、旗本筧・柴田・奥山領の四給となる。
 因みに「上五箇」と書き、「かみごか」と読む。なかなか個性ある地域名称だ。
              
        鳥居左側には「指定村社愛宕神社」と刻まれた社号標柱が建つ。
        
      鳥居を過ぎたすぐ左手には、出羽三山講の塚と共に「芭蕉句碑」が設置されている。
 上五箇地域は「さんやま講」という江戸時代から大東亜戦争終了まで続く出羽三山信仰が盛んな地域であったようだ。[千代田村の民俗』でも、「羽黒山の先達 吉永家の先祖は羽黒山の大先達で、この地方の信仰を高めた。免許状に「紋秀院紋十郎 天保元年十二月二十日生 信心好羽前羽黒山入門 大先達号賜 万延元年九月一日 上野東數山輪王寺宮殿下紋秀院授与」とある。この人は大正三年九月一日歿 享年八十五才となっている」と記載がある。当地の「吉永家」が中心となって、年輩のもの(五十 六十才位))の男性が集まり、人数は16人くらいで、信心者が集まって講をつくっていたという。
 この芭蕉の句碑は、出羽三山登山記念碑として建立された。この3つの句は芭蕉が奥の細道のさいに出羽三山で詠んだものとされる。明治33年(1900)建立。
 
 二の鳥居手前で、左側に祀られている旭向(ヒノムク)八幡神宮(写真左)・三山敬愛神社。塚上には出羽三山の神が刻まれた石碑がたっている(同右)。
 元々この旭向八幡神宮(祭神は八幡太郎義家)は上五箇の小字福田に鎮座していた。これは上組の福田で祭っていたものだが明治43年のとき、愛宕神社へ合祀した(明治時代の大洪水が関係しているのであろう)。祭日は914日である。この八幡様には、つぎのような伝説がある。
「八幡太郎義家が蝦夷征伐に行くとき、利根川を渡って陸上(五箇地先)へあがったときに、太陽があがったので旭向ということになったという。なお、埼玉には、しぐれ八幡があり、邑楽町には鞍掛というところがある。鞍掛というのは、義家が、そこまで行ってつかれたので乗っていた馬の鞍をかけたので、そこをそう呼ぶようになったという」
 今でも福田の人々が主になって祭っている。ここは利根川の沿岸近くにある 昔八幡太郎義家が蝦夷征伐に来て、埼玉側から群馬側へ五箇の渡しを使って利根川を渡り始めた。その時は日暮れだったが、渡りきったら日が上がっていたので埼玉側に「日暮れ八幡」を祭り、こちら側に旭日(ヒノムコウ)八幡を祀ったという。
 因みに現在旭向旭向八幡神宮は愛宕神社拝殿内に祀られている。
        
                上五箇愛宕神社 二の鳥居
        
                    拝 殿
上五箇村鎮守愛宕大神御身鉢ノ由来大略」
 本村鎮守愛宕大神ノ御尊像ハ村民モ是ヲ知ルニ由ナシ 然ルニ大正四年八月二十八日(旧七月十九日)三山講社ハ鎮守ノ御神前ヲ借リー七日ノ水行執行中鎮守ノ神勅ニ依リ申佐久 我上五箇村ハ往昔戦乱ノ為メ在京ノ公卿東下シテ此地二落付守護神ナル京都ノ愛宕大神ヲ奉祭セント今 ノ地上二築キ 愛宕大権現卜名ニシテ崇拝セリ 又駒形ノ地ニ一堂宇を建立シ祖先ヲ祭ラント 今ノ阿弥堂コレナリ 石ヲ今年去ル四百十六年以前朝廷ヲ返乱セントスルヲ 京都ノ愛宕大神ノ御尊像ヲ負ヒ来リ関宿付近ニ安置ノ場所ノナキ故 利根川ノ水源ヲ極メテコレヲ安置セントテ当村ヨリ戸数三戸ニシテ社アルヲ発見シ 今ノ阿弥陀堂ニ至リ是ヲ安置シ京都ニ帰リ 然ルニ京都ニテハ其御尊像ヲ八方捜索セシヲ更ニ見当ラ ズシテ後ニ神体ヲ彫リテ安置セリト云 上五箇始祖ハ吉永ノ祖先吉永五計ナリ 故ニ後世ニ伝フ可キト申渡サレタリ 故ニ茲ニ録ス 鎮守ノ御尊像ヲ彫シタル今ヲ去ル弐千九百九十九年
 右是文ハ鎮守神勅ニシテ性吉永ノモノ講社モ多キ故 煩シキ恐茲ニ申渡シアリテ大正四年秋此箱ヲ作リ記念是事記スルモノナリ 九月一日
                                「千代田村の民俗」より引用

        
                 拝殿上部にある扁額
   この扁額は江戸時代の儒学者にして書家の亀田鵬斉によるもの。亀田鵬斉は当地出身者。
        
           社殿右側に合祀されている境内社・末社四基
「千代田村の民俗」に「山王社 浅間社 湯殿社 八幡宮 神明社 八坂社」と記されているので、それらのどちらかであろう。

  境内社・末社四基のすぐ目の前にあるもう一つの芭蕉句碑(写真左)とその石碑(同右)。
   この二つの芭蕉句碑は指定外ながら千代田町のHPには文化財として紹介されている。
       
                     芭蕉句碑の並びに建てられている石碑群

 この上五箇地域には、「上五箇のササラ」という獅子舞が盛大に行なわれていたという。愛宕神社の祭日は三月二十四日七月二十四日九月二十四日の三回あり、夏祭りの七月二十四日(以前は旧六月二十四日)には、ササラと呼ばれる獅子舞が盛大に行なわれていた。
 愛宕神社のササラがいつ頃から始まったか記録はない。いい伝えでは、昔はここも天王様の祭りで、暴れて多くけが人が出るので、川向こうの埼玉県須賀村下中条(現行田市下中条)の長楽神社から獅子を取り入れたものという。
 獅子舞には色々の種類があり、演じることをスルという。今晩は「ハナ」をスルべとか、「橋」をスルべとかいって練習する。二十三日の祭宵には「ハナ」をスルきまりで、二十四日の祭日には総代の家へスリこむ時に「橋」をスル。また、千秋楽には「弓」をスルことになっている。「ハナ」は造花のボタンの花と桜の花を一対ずつ置いて舞うものである。「橋」は模型の橋を置いて、男獅子二頭が先に渡り、残された女獅子が後から渡るしぐさを舞にしてある。「弓」は舞っている途中で小道具の弓を出すと、獅子が何だろうと探ってみるしぐさをする。「四本づくし」は幣束を四隅に立てて舞うものである。
 獅子の行例は次の道順で村を回りながら、要所要所で獅子舞をする。愛宕神社(六〇分舞う)⇒小宮四社(一〇分ずつ四〇分舞う)⇒三橋神社(一〇分舞う)⇒県道⇒中道⇒駒形神(舞う)⇒堤防⇒渡船場⇒愛宕神社(昼食、再出発)⇒長生寺(弁天様を六〇分舞う)⇒社総代(三人のうち一人の家に寄り、六〇分舞う)。
 この巡行は社内の厄神除けに回るもので、道中笛を吹きながら一行が進む。身体の弱い子は親に頼まれて獅子頭をかぶせてやると、丈夫に育つ呪いになる。道順は決まっていて、社総代の家以外には個人の家には寄らない。昼食は愛宕神社で食べて再出発するが、同じ道を二度と通らない。道中の家々ではバケツに水を用意しておいて、一行に水を飲ませてくれる。信心でもあり、余興にもなっていた。 
       
 上五箇愛宕神社の北側で、栃木・群馬県道38号足利千代田線沿いに三橋神社は鎮座している。         
   境内に設置されている「亀田鵬齋(かめだ           拝 殿
   ぼうさい)誕生の地」の案内板
 亀田鵬齋(かめだぼうさい) 儒学者
17521826)宝暦(ほうれき)2年 上五箇に生まれ、本名長興(ながおき)堂号 善身堂(ぜんしんどう)
「この子に最高の学問を授けたい。」鵬齋の父萬右衛門(安長)(やすなが)は、我が子誕生に一大決心をし、離農をして一家で江戸へ出た。鼈甲商(べっこうしょう)に職を得たが妻に先立たれ、子育てと、教育費の蓄財に心血を注いだ。
 息子もこれによく応え、素読は飯塚肥山(いいづかひざん)、書は三井親和(みついしんな)、儒学は井上金峨(いのうえきんが)という一流の学者に学び、どこでも頭角を現わした。
 時満ちて「折衷学派」(せっちゅうがくは)の塾を開くと、旗本の子弟などで門人が千人余となり、名声を得た。しかし、「寛政異学の禁」により、異学の五鬼の筆頭とされ閉塾に追い込まれた。
 だが、日頃から豪放磊落(ごうほうらいらく)、義気に富んだ彼は自己を貫き通した。天明の浅間焼け・大飢饉には、蔵書を売り払い救援に当てたり、自費で泉岳寺(せんがくじ)に赤穂義士(あこうぎし)の顕彰碑(けんしょうひ)を建てたりした。
 越後方面へ下向の際には、地元の人達と交流し、特に良寛との友情は語り草になっている。
 仕事面では三絶(書・画・詩文が共に秀逸)の書家として活躍し、生活面では酒をこよなく愛し、文人仲間【大田南畝(おおたなんぽ)・酒井抱一(さかいほういつ)・大窪詩仏(おおくぼしぶつ)・谷文晁(たにぶんちょう)など)】と、度々「八百善」へ操り出した。
 墨蹟には、屏風・掛物・扁額・幟・碑等があり、千代田町を始め、各地に散在している。
 また、その子孫は、綾瀬(りょうらい)・鶯谷(おうこく)・雲鵬(うんぽう)と四代までは学者・書家、五代黄雲は画家というのも希有なことである。
 七十五歳で永眠。墓地は東京浅草称福寺(とうきょうとあさくさしょうふくじ)。
 この芭蕉の句碑は、出羽三山登山記念碑として建立された。3つの句は芭蕉が奥の細道のさいに出羽三山で詠んだものとされる。明治33年(1900)建立。
                           『千代田町HP
 郷土の偉人より』より引用




参考資料「日本歴史地名大系」「千代田村の民俗」「千代田町HP」「Wikipedia」等
  

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