古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

古海長良神社

『日本歴史地名大系 』「古海原前古墳群」の解説
 利根川左岸の後背湿地に囲まれた邑楽台地の南辺西寄りに立地する。東西約八〇〇メートル、南北約五〇〇メートルで、標高二五―三〇メートルの範囲に二六基の小型墳が分布するが、大半はすでに消滅している。昭和五九年(一九八四)から一号墳と二号墳が、道路新設に伴って発掘調査された。一号墳は墳丘の大部分が削られて墳形や規模は不明であるが、現墳丘高約三・三メートル、径約三〇メートルほどである。埋葬施設は墳頂直下に上下に重なって四基検出されている。
 群馬県大泉町・古海地域には、遺跡や規模は小さいながらも古墳が数多く存在しており、発掘調査の結果、その遺跡や古墳からは埴輪(はにわ)や土器、石器、大刀(たち)、鏡などの埋蔵文化財が数多く出土していて、古海原前(こかいはらまえ)1号古墳や古海松塚11号古墳は群馬県指定史跡に指定されている。
古海地域東側にある「古海原前(こかいはらまえ)1号古墳」は、5世紀後半に造られた帆立貝式古墳で、四重に重なった埋葬施設が検出された。埋葬施設からは、副葬品として、捩文環式環頭大刀(ねじもんかんしきかんとうたち)と呼ばれる直刀、同向式画文帯神獣鏡(どうこうしきがもんたいしんじゅうきょう)と呼ばれる鏡、鉄製の馬具・轡(くつわ)、鉄鏃(てつぞく)、玉(ぎょく)類、供献土器(きょうけんどき)類などが出土している。
古海松塚11号古墳は、帆立貝式古墳で、円筒埴輪、人物埴輪、馬形埴輪、大刀形埴輪、須恵器甕(すえきかめ)、高坏(たかつき)などが出土した。出土遺物の特徴から、5世紀後半のものと考えられている。人物、馬形埴輪については、東日本でも最も古い段階の人物、馬形埴輪に位置付けられており、群馬県内では最古に属しているという。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡大泉町大字古海2209
            
・ご祭神 藤原長良公(推定)
            
・社 格 不明
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.2310908,139.4098957,17.25z?hl=ja&entry=ttu
 舞木長良神社から栃木県道・群馬県道38号足利千代田線を大泉町方向に2.5㎞程進行し、「新福寺」交差点を左折する。群馬県道314号古戸舘林線にかわり、その県道を道なりに900m程進むと、進行方向右手に高徳寺が、そしてその寺に隣接するように古海長良神社が見えてくる。
 古海長良神社のすぐ左側には「古海西公民館」もあり、駐車スペースも十二分にある。
        
                  
古海長良神社正面
 古海長良神社の一の鳥居に掲げてある社号額には「贈正一位 太政大臣 長良大明神」と物々しい神階で表記されていて、規模は小さいながらも格式のある社なのであろう。
        
                  参道正面先の高台上に社殿は鎮座している。
 群馬県邑楽郡大泉町古海地域、また珍しい地域名で、「古海」と書いて「こかい」と読む。埼玉県道ように群馬県も「海なし県」であるのも関わらず、地域名が「海」が付く。いつものように『日本歴史地名大系 』で調べてみると「南を利根川が流れ、東は舞木村・新福寺(しんぷくじ)村(現千代田町)、西は仙石(せんごく)村、南は武蔵国幡羅郡善ヶ島村(現埼玉県大里郡妻沼町)、北は吉田村と接する。天正一二年(一五八四)と思われる六月二日の北条氏直書状(大藤文書)に「自新田古海へ相動候」とあり、大藤式部丞が北条氏にくみして当地域で戦っている。同年七月二三日には同人宛に「館林古海」での働きに対し北条氏直感状(同文書)が出されている。近世は初め館林藩領。寛文郷帳では田方四六石二斗余・畑方六三二石四斗余で、田方に「田方水旱両損」と注記される。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)に高七九二石七斗余、田二町七反余・畑七一町一反余とある。慶安三年(一六五〇)のほか度々小規模の検地が行われ、延宝八年(一六八〇)の村高は八二七石四斗余」と「古海村」の解説がされているが、残念ながら「古海」の地名由来までは分からず、他の資料等確認しても同様であった。
          
 群馬県大泉町・古海地域には、遺跡や古墳が数多く存在している。この社も高台上に鎮座しているのだが、現在は土塁・塚としての分類となっているようだ。
        
                    拝 殿
                            古海長良神社の由緒等は不明。
 盛夏の暑い中での参拝であるのだが、石段上の境内は鬱蒼とした森に囲まれているためか、暑さはしのげる。昼間の参拝にも関わらず境内はほの暗い。さすがにこの天候故、日中散歩をする近所の方も全く出会わず、社周辺は人気は全くなし。
 県道沿いに鎮座していて、車の往来も適度にあるのだが、境内に入ると車のエンジン音もほとんど聞こえなくなる。いつも思う事だが、森に囲まれている社は、我々一般の日々の喧騒とは無縁な、不思議な余韻に満ちた空間とも言えよう。
        
                                        本 殿
 
  拝殿に通じる石段左側に祀られている      社殿左側に祀られている境内社三基
  「猿田彦大神」、その隣の石祠は不明          どれも詳細は不明
       
                 境内の周囲には豊かな樹木に覆われている。
        その中でも社殿奥に聳え立つ巨木は、一際目立つ(写真左・右)
        
                         石段上部から鳥居方向を撮影
      境内はほうき等により掃き清められ、こじんまりながら纏まっている社だ。 
 
 古海長良神社の東側に隣接して、高徳寺がある。太平記でおなじみの児島高徳を開祖として開山されという。規模といい、嘗ては古海長良神社の別当的な寺院であったのではなかろうか。
        
             
高野山真言宗・醫王山延命院高徳寺正面
        
              入口付近に設置されている案内板 
 児島高徳公と高徳寺
 この高徳寺は後醍醐・後村上・長慶天皇と南朝三代の天皇に仕えた児島高徳(剃髪して志純義晴)を開祖として開山されました。
 児島高徳は一三一一年備前国児島の尊瀧院(岡山県)で生まれて一三三二年後醍醐天皇が隠岐へ流される時 院ノ庄の御館の庭で「天莫空勾践・時非無范蠡」という十字の詩を書いて自ら范蠡を以て任ずるの意を奏上しました。その後新田義貞の傘下で戦い義貞死後は義貞の弟脇屋義助に従って四国征伐に赴き、義助の死後はその子義治を擁して京都で再挙を計画したが功ならず、正平七年(一三七三年)攝津の天王寺に行宮せられた後村上に召されて「関東に下って兵を集めよ」との勅命をうけて新田氏・宇都宮氏・小山氏などの協力で兵一万人を京都へ向かわせるなど、新田氏との関係が深かった。
 この上州へ建徳二年(一三七一年)新田庄御滞在中の宗良親王の許へ使いしたつを契機として、この地古海に隠棲して軍口守護神であった摩担利尊像を安置し、宗良親王に仕えたり、南朝の再興にも苦慮した。十一年…永徳二年十一月二十四日(一三八二年)享年七十二でこの寺で永眠されました。
 昭和五十五年七月一日 文岡野鉄次郎
                                      案内板より引用

 児島 高徳(こじま たかのり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる武将。現在の岡山県倉敷市にあたる備前国児島郡林村出身。和田備後守範長の子。三宅備後三郎と称し備前(現岡山県)に住したという。元弘(げんこう)の変(1331)に際し後醍醐天皇に応じ備前に挙兵した。乱後隠岐(おき)に配流される天皇を途中で奪おうとして失敗、のち天皇が伯耆国・船上山(せんじょうさん・現鳥取県琴浦町)に脱出するや、一族を率い馳せ参じた。建武政権崩壊後も南朝側として行動し、1343年(興国4・康永212月には、丹波守護代荻野朝忠(おぎのともただ)と共謀し挙兵せんとしたが成功せず、ついで脇屋義治(わきやよしはる・新田義貞の弟脇屋義助の子)を大将としてひそかに入洛し足利尊氏らを討とうとしたが露見、義治とともに信濃に逃れた。これ以後その活動がみえなくなる。但し、これらの事跡は『太平記』にしかみえず、その実在が問題とされている。
 
        高徳寺境内           高徳寺と古海長良神社の間にある七母殿

 この人物は謎が多い。意外と歴史通の方々には認知度の高い人物であるにも関わらず、まず生没年がはっきりと分かっていない。一応、高徳の子孫の所蔵する『三宅氏正伝記』には、正和元年(1312年)生誕、弘和二年(1382年)十一月二十四日、上野国邑楽郡古海村に於いて没したと記されている。享年は七十二。この『三宅氏正伝記』は、高徳の研究に於いて重要、且つ貴重な資料とされる家伝書であるが、これらが正確かといえば、資料自体の正当性の点から疑問符が残るため、やはり生没年は不詳とせざるを得ないという。
 新田荘がある群馬県東毛地方では、高徳が晩年に古海太郎広房という武将を頼ってこの地に移り住み、出家して備後三郎入道志純義晴と名乗り、建徳2年(1371年)から弘和2年(1382年)に没するまでを過ごしたと伝えられている。また、群馬県大泉町古海には、高徳のものとされる墓や住んでいたとされる寺(高徳寺)、高徳を祀る神社(児島神社)などがある。
 古海長良神社から100m程南方ににある「児島高徳墳墓」は、昭和541130日に、大泉町指定史跡に指定されている。



参考資料「日本歴史地名大系」「大泉町HP」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia」
    「高徳寺掲示板」等
  

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