舞木長良神社
[現在地名]千代田町舞木
南を利根川が流れ、東は赤岩村、西は古海(こかい)村(現大泉町)、南は武蔵国幡羅郡葛和田(くずわだ)村(現埼玉県大里郡妻沼町)、北は新福寺(しんぷくじ)村・福島(ふくじま)村。貞観年中(八五九〜八七七)舞木氏の所領に由来する村名とされる(邑楽郡町村誌材料)。地元の伝承によれば、舞木村はもと中島村といい、貞観年中藤原長良がこの地に本拠を定め、武蔵国羽生(現埼玉県羽生市)の猪熊森高を討った際、春日社前で榊に祈り、帰陣の時にこの榊が空に舞上がり、中島に落ちたので舞木村と改めたという。応安七年(一三七四)下野小俣(現栃木県足利市)の鶏足(けいそく)寺二九世尊誉は「舞木駒形堂」で仏事を行っている。
『日本歴史地名大系』での、地元の伝承によれば、舞木長良神社の地域名「舞木(まえぎ)」の由来が伝わっている。貞観年間(859~77年)に藤原長良が武蔵国羽生の猪熊森高を攻める際、春日社前で榊に四垂を掛け戦勝祈願を行った。その後、猪熊との戦いに勝利し再度訪れた時、榊が空中に舞い上がり隣地の中島村に落ちた。そこで中島村を舞木村と改めたという。
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町舞木267
・ご祭神 藤原長良公(推定)
・社 格 旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.com/maps/@36.2138679,139.4306178,16z?hl=ja&entry=ttu
瀬戸井長良神社から利根川沿いに通じる栃木県道・群馬県道足利千代田線を2㎞程西行すると、三叉路となるので、そこを左斜め方向に200m程も直進すると右手側に舞木長良神社の大きな朱塗りの鳥居が見えて来る。すぐ南側は利根川の堤防が東西に広がる地だ。
舞木長良神社正面
舞木長良神社北東方向近郊には「舞木城址」があり、現在は小さな公園になっていて、その遺構等は全くみえない。昭和44年までは小学校があったようだ。住宅地の中にポツンとあるので、あまり目立たないが、その公園内には「藤原秀郷公誕生之地」と刻まれた石碑がある。
舞木城址 所在地 千代田町舞木五一
舞木城は、面積およそ三ヘクタール、周囲に土居と溝〇をめぐらせた平城で、藤原秀郷が承平年中(九三一〜九三七)に築城したと伝えられ、その後享禄年間(一五二八〜一五三一)まで秀郷の子孫が居城していたという。また舘林盛衰記には、享禄の頃赤井照光が大袋城(現在の館林市羽附)から舞木城へ年始の道すがら子狐を助け、その狐の導きによって舘林城(尾曳城)を築いたと記され、舞木と舘林とのつながりを浮き彫りにしている。
この地は明治四十二年に小学校の敷地となり、昭和四十四年には、小学校の移転により「たわら住宅団地」が造成され現在に至っている。(千代田町教育委員会より掲示)
また『千代田町HP』には藤原秀郷に関して以下の内容を紹介している。
藤原秀郷
平安中期東国の豪族藤原秀郷(俵藤太)(たわらのとうた)は、藤原北家房前の子左大臣魚名(さだいじんおうな)(川辺大臣)より三代下った村雄(むらお)(下野権大掾河内守)(しもつけごんだいじょうかわちのかみ)の子で、出生は舞木・赤岩他多説がある。
成人して弓の名人となりその豪勇伝説はあちこちに残っている。主なものは、「三上山の百足(むかで)退治」と、「平将門(たいらのまさかど)の乱」の平定(天慶三年)である。
その功により下野国押領使から從四位下野守(じゅうしいしもつけのかみ)(武蔵守も兼務)に任官し、功田も賜った。又、築城にも才能を発揮し、下野国唐沢山城が有名である。
当地の伝承は「赤城山の百足退治」と舞木城の築城である。舞木城址は永楽小学校の敷地として六十年間使用された後、現在は「俵団地」としてその名を留め、一角に顕彰碑が建っている。秀郷の子孫は各地に亘り分布しているが、当地でも「秀郷流」を名乗ってその拡大をはかり、先の「小黒磨流」と複雑に絡み合いながら佐貫荘を維持した。
藤原秀郷に関して幾多の伝承・伝説があるため、逆に史実としての人物像がかすんでしまっているのも確かで、謎の多き人物であることには違いない。この舞木の地が秀郷生誕の地であることも決して否定はしないが、客観的な事実として受け止めるには、まだ十二分な照明はされていないように見える。但し秀郷の子孫である藤原秀郷流の佐貫氏やその一族である舞木氏がこの地に存在していたことは、事実である。
境内の様子
藤原秀郷流佐貫氏一族に舞木氏がいた。上野国邑楽郡佐貫庄舞木村(千代田町)より起ったという。元々佐貫荘(現・群馬県館林市周辺)は、藤原秀郷流の佐貫氏が拠った土地であったが、室町時代以降は佐貫氏庶流である舞木氏が支配しており、15世紀前半には舞木駿河守持広が登場する。この舞木駿河守持広は岩松満純(持国の伯父)の追討では、被官の赤井若狭守とともに参加し、永享の乱で活躍した。
『国立国会図書館デジタルコレクション 鎌倉大草紙』
応永二十三年(1417)千葉介兼胤岩松治部大輔入道天用両人は禅秀のむこなれば不及申、渋河左馬助舞木太郎児玉党には大類・倉賀野・丹党の者ども其外荏原蓮沼別府玉井瀬山甕尻、甲州には武田安芸入道信満には禅秀の舅なれば最前に来る(中略」
応永二十四年(1418)卯月二十八日、禅秀聟岩松入道天用は禅秀が残党を集め上野国岩松に蜂起しけるを舞木宮内丞馳向合戦してこと/\く追散しお天用を生捕にして鎌倉へ奉りければ五月十三日瀧口へ引出首をはねられけり
その後、永享12年(1440年)結城合戦では結城方にくみし、山内上杉家の家宰・長尾忠政(忠綱の子)により謀殺され舞木氏は没落、代わって上野赤井氏の赤井照光が舞木佐貫一族を打倒し庄頭の地位を得る。しかし舞木氏は決して滅亡したわけでなく、足利鑁阿寺文書にも「弘治二年(1556)舞木兵庫太夫景隆花押。永禄三年(1560)舞木兵庫太夫定綱花押」等の書状が今でも残っている。
拝 殿
瀬戸井長良神社と同じく、拝殿は利根川に対して正面を向いている。
瀬戸井長良神社の項において、説明を既にしているが、藤原北家房前の子真楯(またて)の孫冬嗣(ふゆつぐ)の嫡男長良について、千代田町にはこんな伝承がある。赤岩の東隣、瀬戸井北の大沼に大蛇が棲んでいて、利根川に水を呑みに現れたり、ときどき娘を攫ったりして村人を苦しめていた。「都から長良様という偉いお方が桐生にお出でになっていなさる。」と、人伝てに聞いた里人は、長良に大蛇退治を頼みこんだ。長良は、御殿女中(ごてんじょちゅう)で弓の名手のおさよ殿に大蛇の両目を射させ、なおも抵抗する大蛇を刀で十八切りにし、頭を瀬戸井に、その他を近郷に分け与えた。これに感激した里人は長良様を祀(まつ)るようになった。「十八長良」の由来である。
舞木長良神社もこの「十八長良」の一社と推測され、瀬戸井長良神社から勧請して、当地に鎮座したと考えられる。
本 殿
拝殿左側前方には不思議な巨石があり、その巨石の奥には境内社二社が祀られている。
この巨石は元からここにあった物であろうか。かなりの大きさだ。ご神体ともいえそうな貫禄ある外観だ。奥に祀られている境内社は、左側は不明。右の境内合祀社は 左から水天宮・戸隠神社。
社殿左側に並ぶ石碑群
左から金刀比羅宮・庚申供養塔・道祖神・不明・不明・雷電宮・不明・石仏・権現・弁財天。実は後列にも石祠三基あるのだが、この石祠の詳細は不明。
権現と弁財天の間には「権現・弁財天の遷宮 舞木権現地区の区画整理にともない、町田〇宅(舞木二一四)に奉られていた権現・弁財天を長良神社境内に移転した。平成十六年九月吉日 権現地区 氏子一同」と刻まれている石碑がある。
社殿の右手には石碑が六基あり、一番左側には「神域整飾記念碑」がある。
「神域整飾記念碑」
千古の歴史とともに奉安しこの地に鎮座まします長
良明神は盛運なり このたび利根川改修に当り〇舞木
地先利根堤防の拡張が計画され昭和四十八年三月神域
の整備を計ることとなった 神殿並びに境内の整飾と
〇か活用について神社総代等鳩首協議を重ねた結果永
く祀る歴史の尊厳を基調とし恵まれた環境を考慮し境
内を将来に託す子供達の良き運動の場とすることに決
した 国の補償費四百万円をあて昭和四十八年十月着
工同五十年十月完工〇此の間工事の掌に当る一同の献
身的奉仕による計画実践督励によって社殿神徳の高揚
に努めここに斯くの如く感性を見たのである 壮麗な
る社殿と明るく崇高なこの神域こそ利根河畔に当村氏
の生活の拠点たることを念じて之を記す
江沢卓郎撰並書
左側三番目にある大黒天の線刻画碑 右端の石碑は御嶽山大神御璽
石碑群の右手には祭祀用の用具がある殿であり、中に神興舎が保管されている。
参考資料「国立国会図書館デジタルコレクション 鎌倉大草紙」「日本歴史地名大系」
「千代田町HP」「埼玉苗字辞典」「舞木城址 案内板」「Wikipedia」「境内石碑文」等