古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

森友瀧尾神社


        
              
・所在地 栃木県日光市森友995
              
・ご祭神 (主)田心姫命
                   (配)大己貴命 味耜高彦根命 軻遇突知命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 節分祭 23日 祈年祭 217日 夏越の大祓 7月海の日
                   新嘗祭 1123日 例大祭 12月25日 他
 森友瀧尾神社は日光市南東側に位置する今市エリア内に鎮座する社である。JR日光駅から国道119号を南東方向に13㎞程進み、「森友」交差点を左折すると進行方向右側に「縁結び・子宝・安産の大しめ縄 ひめがみさま 森友瀧尾神社」と書かれた縦長の看板が見えてくる。地図を確認すると、国道119号線とそれに並行して北側を通る水無バイパスとの間に鎮座している。
 専用駐車場も看板付近にあり、そこに停めてから参拝を行う。
       
          道路沿いに看板(写真左)、社号標柱(同右)が立つ。
『日本歴史地名大系』 「森友村」の解説
 南を赤堀川が南東へ流れ、北は荊沢(おとろざわ)村、西は今市宿。河内郡に属する。中央を東西に通る日光街道の大沢・今市両宿から各一里の立場(宿村大概帳)。一里塚があり、中央の街道両側に集落がある。日光山往古社領六十六郷に「守友郷」がある(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。
「梅津政景日記」元和八年(一六二二)四月二六日条に「もりとも」とみえ、日光へ向かう佐竹義宣一行は同夜当村に宿泊したという。
        
 比較的小さめな鳥居が出迎えてくれる。それにしても鳥居の両サイドにある一対の狛犬の衣装が、その図体に対してアンバランスのように見えて、それが不思議と可愛いらしく感じてしまう。
        
                    拝 殿
 拝殿前には「お百度参り」の為の「お百度石」がある。当神社は、主に安産祈願、子授け祈願などのお参りが多く参拝者に親しまれているとの事。
 当日雨も上がり、晴れ間が見えているが、路面は濡れていた。境内には砂利が敷かれているようだが、拝殿前は窪んでいるため水溜りが残っている。多くの参拝者がここを訪れていた証拠であろう。それにしても水溜まりから映し出される社殿が美しい。
 
 拝殿に掲げられている注連縄は、出雲大社の大注連繩作りをされている方の指導を受け、現在は当地の保存会にて奉製されているという。大きくて立派なしめ縄は見ていて圧巻(写真左・右)である。

 因みに出雲大社の注連縄は左右が逆に張られている。本来神社神道では、神様に向かって右方を上位、左方を下位とするため、一般的に神社では上位の右方が綯い始めで、左方を綯い終りとする張り方となっている。
 出雲大社の本殿内には、客座五神として「天之御中主神・高御産巣立日神・神産巣立日神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・天之常立神」の五柱の神が祀られているが、尊貴第一の神たる「天之御中主神」が上位となる一番左に祀られている。また、江戸時代の祭事の記録では、神様へお供え物を進める際、上位のお供え物を向かって左へ、下位のお供え物を向かって右へ進める作法となっている。 このように、古く出雲大社では一般的な神社とは反対に、向かって左方を上位、右方を下位とする習わしがあり、よって注連縄を張る際には上位である左方が綯い始めで、右方を綯い終りとする張り方となっているという。(出雲大社HP参照)
        
           拝殿前にある「縁結び子宝の大注連繩」の案内板
「縁結び子宝の大注連繩」
ここに御奉納されました大注連繩は、
毎年十二月十五日の例大祭前に奉製ご奉納されます。
日光藁文化保存会会員が奉製ご奉納いたしました。
この大注連繩作りをご指導下さいましたのは、
出雲大社の大注連繩作りをされている菅恒義先生です。
先生には平成十四年、十五年とご指導を賜りました。
現在は、日光藁文化保存会独自で奉製しております。
当社は、この出雲の大注連繩作りの為に、
毎年五月末 土曜日に「おお杉青刈り祭」を行い、
青刈りし乾燥、高品質の青藁を厳選し、
確保 大注連繩を奉製します。
重さ   約三〇〇キログラム
最大周囲 一メートル七〇センチ
長さ   四メートル
二本の繩は男性・女性を意味し、ふさは
しめの子といい、三人の子供をあらわしています。
縁結び子宝の大注連繩です。
                                      案内板より引用

        
                     本 殿
 神護景雲称徳天皇の御代(1251年以上前)森友瀧尾神社の主祭神である田心姫命が旅の途中、森友森脇の腰掛の地に休憩され、建長四年(1252)後深草天皇の御代に腰掛の地に祠が建立され、田心姫命が祀られたことが森友瀧尾神社の創始という。その後大正五年(1916)現在地に遷宮した。

 森友瀧尾神社のご祭神である田心姫命(たごりひめのみこと)は、日本神話に登場する女神で、福岡県宗像市に鎮座する宗像大社を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である『宗像三女神』の一柱で、宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている。
 この女神は天照大御神と須佐之男命の誓約により誕生した三女神の一柱で、『古事記』では多紀理毘売命、『日本書紀』では田心姫(たごりひめ)・田霧姫(たきりひめ)と表記される。『古事記』では別名を奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)とされているが、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名としている。『古事記』の大国主神の系譜では、大国主神との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と下照比売(したてるひめ)を生んだと記されている。
「宗像三女神」の一柱でありながら、三女神の一柱として祀らず、田心姫命にみを独立して祀っているのが森友瀧尾神社である。
        
                         社殿の右側奥にある「腰掛石」
 
 案内板によれば、この腰掛石は、神様がお座りになる尊い石で、紙垂も巻かれているが、この石に触れたり座ったりすることは可能で、それどころか、良い御縁があり、病が癒え子宝に恵まれ、安産で家庭が円満になると、遥々栃木県内外から参拝者が訪れるという。
 腰掛石は屋根付きの建物で綺麗に整備されている(写真左)。また近くには案内板も設置されている(同右)。また建物の欄間には見事に装飾された彫刻もある。

「腰掛石」
 ここに鎮まります腰掛石は、神様がお座りになる尊い石です。
 神護景雲称徳天皇の御代(一二五一年以上前)森友瀧尾神社 主祭神 田心姫命が旅の途中、森友森脇の腰掛の地に休憩されました。
 建長四年(1252)後深草天皇の御代に腰掛の地に祠が建立され、田心姫命が祀られたことが森友瀧尾神社の創始です。
 この石に触れたり座ったりすると、良い御縁があり、病が癒え子宝に恵まれ、安産で家庭が円満になると、遥々栃木県内外から参拝者が訪れます。
 この建物の欄間に装飾されている彫刻は、「双龍栗鼠葡萄極彩色彫刻」です。
 木彫師 中井伸明氏 塗師 佐藤則武氏 彩色師 手塚茂幸氏が制作され奉納されました。
 彫刻には、子宝、安産、病気平癒は勿論、家内安全、子孫繁栄、豊穣金運等の御利益の深い意味合いがあります。
                                      案内板より引用



参考資料「出雲大社HP」「栃木県神社庁HP」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

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和泉磐裂神社


        
               
・所在地 栃木県日光市和泉914
               
・ご祭神 (主)磐裂神・根裂神 配神 王位神
               
・社 格 旧村社
               
・例祭等 例祭 113
 七里生岡神社から一旦国道119号線に合流後、今市方面に進路をとる。といっても七里生岡神社から国道まで分かりやすい道はないので、来た道を引き返すように戻るルートを選択、結果的にはかなりの遠回りとなるが、あまり地理に詳しくないので、そこは慎重に対応。その後、国道を3㎞程進み、「杉並木公園」の西端近くで、国道と旧日光街道と合流する信号のある交差点の一つ手前の路地を右折する。丁度コンビニエンスとガソリンスタンドとの間の道であるので分かりやすい。
 右折した道路は丁度南方向に進行する。途中「天台宗・月蔵寺」を右手に見ながら更に南下、まもなくJR日光線の線路を越えるが、そのまま直進を続ける。300m程進むと十字路に到達、そこを右折して、そこからまた300m程進んだところにある丁字路を左折する。そして暫く道幅が狭く、道路の両側には杉林が生い茂げ、寂しさも漂う上り傾斜面の道路を道なりに進むと、その道は行き止まりとなるが、その手前右側に和泉磐裂神社の鳥居と社号標柱が見えてくる。
 駐車スペースは鳥居がある場所から先の行き止まり地点手前に確保されている。そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
*追伸として、
道路を進む中では全く気づかなかったが、和泉磐裂神社に向かう途中に「磐裂の霊水」があったとの事。迂闊にも通り越してしまったことは、残念極まりない。やはり余裕のあるプランを事前に立てなければいけないと深く反省した。
        
               斜面上に鎮座する和泉磐裂神社
 日光は歴史も古く、日光権現を祀る山々が知られるようになった宗教地域である。その後。江戸時代に徳川家康および徳川家光などの江戸幕府の初期の将軍によって徳川家の廟地となった。明治以降は観光地・景勝地として日本における代表的な地域の一つとなり、日光東照宮や中禅寺湖・華厳の滝、日光連山、日光湯元温泉など、国際観光都市として多くの観光客で賑わいを見せている。
 ただ個人的な好みである点を最初にお断りするが、筆者は観光地の神社も勿論好きではあるが、現在は閑散としていて、目立たない場所であっても、昔からその地域を見守って下さっている社や祠を参拝したり、その地域の歴史を考察することが何より好きであるその地域に住む人たちの何気ない生活の時を、社は静かに、そして長い間絶えず見守ってきてくれている。生活の一部に社はしっかりと根付いていて、密着度が違うのだ。
 この地に降り立ち、社の鳥居を見た瞬間に、そのような思いが脳裏をよぎった。
 
 鳥居前で一礼し、参拝を開始する。鳥居にもたげるようにかかるモミジの紅葉が美しい。参拝当初は石段を登り(写真左)、その後緩やかな上り斜面先の二の鳥居まで真っ直ぐな参道が伸びている(同右)。参拝時、雨は止んでいたが、路面は濡れていたので、足元には注意しながら社殿方向に進む。適度に長い石段・参道。そして参道両側に聳える杉林の先に見える小さな鳥居とのコントラストが不思議と美しい。
        
                 参道途中にある庚申塔
『日本歴史地名大系』 「和泉村」の解説
南東へ流れる大谷(だいや)川南岸段丘上にあり、田川が南東へ流れる。西は野口村、南は山久保村、東は平ヶ崎村(現今市市)。泉村とも記される。村名は丘陵裾に湧泉があるからとも、和泉国から移した薬師如来を上泉(じようせん)寺(廃絶)に祀ったことにちなむともされる(「薬師如来略縁起」如来寺文書)。
慶安郷帳に泉村とみえ、畑高一四八石、日光領。同領となった時期は不明。元禄一四年(一七〇一)の日光領目録では和泉村とあり、高二九二石余。天保八年(一八三七)の神領組売木仲間規定帳(星芳夫文書)では当村から一人が加わっている。また朝鮮種人参が栽培されていた(日光道中略記)。
        
                 二の鳥居から境内を望む。
                鬱蒼とした森に囲まれ、昼間の参拝にも関わらず薄暗い境内
        
                   境内の一風景
 天長三年(826)九月創建。嘉祥元年(848)頃の慈覚大師円仁作と伝わる虚空蔵尊が月蔵寺に祀られた。宝暦三年(1753)五月に日光山星宮の御分霊を勧請して村の鎮守とした。
 江戸期には虚空蔵尊,妙見天童と称し,維新に際し磐裂神社と改称し現在地に遷宮した。
     
                        拝殿手前に聳え立つ巨木(写真左・右)
              
                                 「震災復興記念碑」
「震災復興記念」
 昭和二十四年十二月二十六日午前八時十七分、突如として激震に襲われ山は崩れ大地は裂け、社殿や家屋は傾きあるいは倒れ、甚大な被害を受ける氏子は一体となり三神社の復興に努め社資と氏子の奉仕により磐裂神社雷神宮を復興し、磐裂神社に拝殿を新築して王位神社を合祀し復興奉告祭を昭和二十六年四月三日執行し、この未曾有の災禍を銘記し碑を建て永久に記念す。
 昭和二十八年四月三日 氏子中
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
        
                     本 殿
 和泉磐裂神社の御祭神である磐裂神(イワサク・イハサク)・根裂神(ネサク)は、日本神話に登場する神であり、『古事記』では石析神・根析神、『日本書紀』では磐裂神・根裂神と表記されている。
『古事記』の神産みの段で伊邪那岐神が十拳剣で、妻の伊邪那美神の死因となった火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)の首を斬ったとき、剣の先についた血が岩について化生した神で、その次に石筒之男神(磐筒男神)が化生している。
『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、第七の一書では磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。
「石折神(古事記)」は、「磐裂神(いわさく・日本書紀)」とも表記され、岩を裂く神であり、また、岩を裂くほどの切れ味をもった剣の威力そのものを神格化した存在であるといわれている。また「根折神」も上記と同様で、堅い木の根すらも切り裂くほどの威力という意味となる。磐石(いわむら)の神である「石筒之男神」と共に生まれたことから、この二柱の神も素直に磐石の神であったと解釈することもできよう。
        
                               拝殿からの眺め
 この磐裂・根裂を祭神とする神社はさほど多くないものの、栃木県に集中しており、県内に磐裂根裂神社や磐裂神社、根裂神社が何社もある。
 これは奈良時代の735年に下野国芳賀郡で生まれたとされる勝道上人(しょうどうしょうにん)が日光山登頂を三度目にして成功させたときに盤裂神の助けによるとしたことから盤裂神に対する信仰が始まったようだ。
 神仏習合時代は盤裂神の本地仏は「虚空蔵菩薩」とされ、栃木県日光市の磐裂神社は、かつて「星の宮」と称して虚空蔵菩薩を祀っていたとされている。「虚空」は広大無辺の宇宙を表しており、そこには無限の知恵があるとされ、そこから「星神」と結びついていったと考えられている。勝道上人が日光山で虚空蔵菩薩を感得したことで日光修験の本地仏が虚空蔵菩薩とされ、結果として栃木県に磐裂根裂神社が多くなったのだろう。
        
       
和泉磐裂神社の鳥居から北側道路沿いに並んで置かれている石仏像群


 ところで、この「星神」「星の宮」「星神社」は大きく分けると妙見菩薩信仰系と虚空蔵菩薩信仰系、それと天香香背男(アメノカカセオ)または天津甕星(アマツミカボシ)を祀る神社の3系統になる。
 この天香香背男、ないし天津甕星に関して、筆者は非常に高い関心を持っている。以前から疑問に思っていたことがあるのだが、日本神話には「星神」の話が極端に少ないのはどうしてなんだろう、ということだ。神話ではアマテラスを太陽神、月読尊(ツクヨミ)を月の神とする以外では、この天香香背男が唯一の「星の神」であり、その他星に関する話がほとんど書かれていない。
 嘗て日本人は古代ギリシャやローマ、メソポタミアは勿論、隣国の古代中国にも星座に関する知識や思想はあり、当然その考え方は日本にも入ったはずである。
 日本人が星について無関心だったわけではなく、四方海に囲まれている海洋国家でもあり、古墳時代には高松塚古墳やキトラ古墳の天井画には多くの星座が描かれているし、旧石器時代以降、多くの人たちが大陸や半島から海を渡ってやっていて、彼らは星の知識が当然あったはずだ。そうでなければ長い航海はできない。

 色々と考えることが多いが、本件には直接関係ないので、いずれ項目を設けてじっくりと考察したい…そんな神である。



参考資料「栃木県㏋」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内震災復興記念碑文」

      
           
                 

  

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七里生岡神社

 日光山輪王寺の強飯式(ごうはんしき)は、日光修験の名残をとどめるもので、日光三社権現とその応化(おうげ)たる大黒天・弁財天・毘沙門天から御供(ごくう)を戴く儀式である。42日、三仏堂では紋服裃姿の強飯頂戴人(ごうはんちょうだいにん)が大盃の酒や三升の飯を高々と盛り上げた椀を山伏に強いられる。その姿は、とてもユーモラスとの事だ。
 ほかに、平成812月に国指定重要無形民俗文化財に指定された「鹿沼市上粕尾の発光路(ほっこうじ)強飯式」(13)、昭和382月に市指定重要無形民俗文化財に指定された「日光市生岡神社の子供強飯式」(1125)が知られている。
        
              ・所在地 栃木県日光市七里1862
              ・ご祭神 (主)大己貴命 (配)田心姫命 味耜高彦根命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 例祭・子供強飯式 1125
 清瀧神社から国道122号に戻り、東行して日光市街地方向に進む。さすが観光名所である日光。東照宮付近には多くの観光客で賑わいも見せている。特に海外から来た観光客の人々の多さ。あらゆる国籍の方々が国道沿いの歩道を歩いている光景を見ると、ここ3年間コロナ騒動で自粛傾向にあった海外旅行も本年度から解禁となったことで、多くの方々が旅行を楽しむことができるようになり、この日光にも活気が出てきて来たのだろうと、肌で感じた次第だ。
 国道122号線を進むこと4㎞程、「神橋」交差点を右折し、東武日光線・JR日光線の各日光駅を左手に見ながら暫く直進、人通りの賑やかな街中を過ぎると、正面には巨大な杉が両側に列を成して並ぶ風景が飛び込んでくる。さすがに国道は綺麗に舗装され、所々に民家が立ち並んで杉並木がない所もあるが、それでもこの杉並木は歴史を感じるビジュアルであろう。特に「神橋」交差点から3㎞先にある「七里」交差点から先は多くの杉並木が国道沿いに見られるようになる。
 その後「七里」交差点から1㎞強先に路地があり、そこを右折し、この細い道路を道なりに進む。 当日は雨交じりの天候、賑やかな日光市街地とはがらりと変わって農道のような道路を進む心細さを感じつつも、ここは我慢して進行、日光宇都宮道路の上を進む先には開けた場所があり、そこには民家が立ち並ぶ場所の一角に七里生岡(いきおか)神社は鎮座している。
        
                  
七里生岡神社正面
『日本歴史地名大系』には 旧「七里村」の解説を載せている。
 南東へ流れる大谷(だいや)川右岸にあり、今市扇状地の扇頂部にあたる。村域の大部分を山地が占め、北部を志度淵(しどぶち)川が流れて大谷川に注ぐ。同川段丘上を日光街道が東西に通り、集落は街道沿いに続く。西は日光東町、東は野口村。村名は、村内生岡から日光山神橋(しんきよう)までが六町を一里として数えると七里であることによるとされる(堂社建立記)。南東部の生岡を含む上野(古くは上野口ともいう)は、弘仁一一年(八二〇)空海によって創建されたと伝えられる大日堂を中心に開け、中世には信仰の一拠点であった。慶安郷帳に村名がみえ、日光領、畑高七三石余。元禄一四年(一七〇一)の日光領目録では二〇〇石余。
        
               鳥居の手前に設置されている「
生岡神社強飯式」の案内板
 日光市指定文化財
 生岡神社強飯式
 種別…年中行事
 生岡神社は、弘仁十一年(820)弘法大師が来山し、この地に大日如来を祀った時をもって開基とする。大日堂は明治の神仏分離令により「生岡神社」の名の下に、昔ながらの氏子や信奉者の崇敬を集めている。同社に古来より伝承する神事に「強飯式」「お飯食」「春駒」の三種があり、総称して「上野の強飯式」と呼ばれている。昔は正月八日に行われたが現在は十一月二十五日に執行される。「強飯式」は子供が主役となって演じられる。
 行事の次第は、拝殿の祭典終了後、拝殿正座に太郎坊、側座に次郎坊の両名が白衣装に目籠笊をかぶって膳の前に着座する。
(強飯式)法螺貝の合図で山伏が太郎坊前に進み、目籠笊の上に藁注連をかぶせ、「コリャ、御新役、当山の作法七十五杯、ツカツカおっ取り上げての召そう(以下略)」と口上を述べて立ち去る。つづいて独特な衣装の強力が登場して生大根で床を打ち、「コリャ、中宮祠の木唐皮(中略)生岡神社の生大根」「(前略)一杯二杯に非ず七十五杯、ツカツカおっ取り上げての召そう」と述べて退去終了する。
(お飯食)新役両名の前に里芋を高盛りした高杯が置かれ、別当職が前に跪き、芋をつまんで新役の口元に差しだし、「お飲食に案内もん」と唱えながら三回ほど回して口にねじ込む。これを両名に三回ずつ行って神事が終了する。
(春駒)まず、木彫りの馬頭で馬身が青竹の春駒に脇別当がまたがり、別当は幣束を持って手網を取って、床を右大回りで三回跳ね回る。次ぎに太郎坊、次郎坊が春駒にまたがり、手網は脇別当が取る。最後に神前に拝礼して式が終了する。
昭和三十八年二月十三日指定 日光市教育委員会
                                      案内板より引用 
        
                     拝 殿
 七里地域・北東部の上野(うわの)に鎮座する。祭神は大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命。神護景雲元年(七六七)の創建とも伝え(旧県史)、明治初年に廃絶した生岡大日堂の鎮守であった。大日堂のある地は勝道が日光開山前に修行した地と伝え、神出現の地であるので生岡とよばれるようになったとされる(日光道中略記・堂社建立記)。「日光山滝尾建立草創日記」によれば、弘仁一一年(八二〇)二荒山に初めて登拝した空海は、九月一日「野口生岳」にとどまって大日遍照像を刻んだという。
       
         社殿奥に聳え立つご神木である「生岡の杉」(写真左・右)
        
           「栃木県指定天然記念物 生岡の杉」の案内板
 栃木県指定天然記念物  生岡の杉
 所有者 生岡神社
 昭和三十二年十二月十五日指定
 スギ科 目通周囲 約七メートル
 枝張り 東  西 約十二メートル
     南  北 約十四メートル
     推定樹齢 五〇〇年
 地上約3メートルより木末に至る間に落雷による焼胴が見られるが、樹勢は旺盛であり、県内有数の巨木である。
 この神木は非常に旧く、祭神は日光二荒山神社と同じであり、主祭神は大己貴命で、神護景雲元年(七六七)正月八日に創建されたという。
 現在の神殿は天正十八年兵火にあい改築されたものである。
 栃木県教育委員会 生岡神社
                                      案内板より引用
       
 ご神木の「
生岡の杉」の奥手には、日光市指定天然記念物である「生岡神社のエゾエノキ」もある(写真左・右)。1994811日指定。案内板に「幹・根元に見られる板状あるいは盾状の襞(ひだ)は他に例を見ない特異なもの」と記されているように、凹凸の幹が独特の陰影をこの木に与えているようだ。
        
               社殿奥に祀られている石仏像等
        
                境内に祀られている石像物群

 
生岡神社はもともと生岡大日堂という寺で、江戸時代までは日光山輪王寺の僧侶が強飯式を行っていた由緒あるお寺だったが、明治期の神仏分離令により、生岡大日堂は廃され、生岡神社のみ残った。いわば神仏習合の名残りが、この石像物等、この社の雰囲気全体に残されているようにも感じた。


参考資料「日本歴史地名大系」栃木県公式HP」「
Wikipedia」「境内案内板」等
      

  


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清瀧神社

 湯立(ゆだて/ゆたて/ゆだち)とは、神前に大きな釜を据えて湯を沸かし、神がかりの状態にある巫女が持っている笹・幣串をこれに浸した後に自身や周囲に振りかける儀式で、古くは神意をうかがう方式であったと思われるが、後世には湯を浄め祓う力のあるものとみなし、舞と結合して芸能化した。
 その釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称を湯立神事(ゆだてしんじ)という。ゆだち,湯立神楽(ゆだてかぐら/ゆたてかぐら)ともいう。古くは神憑り,託宣する神事であったが,現在では湯による祓禊の意味が濃くなっている。
 日光市・清瀧神社には古くから湯立神事が行われている。弘法大師が同神社を創建した820(弘仁11)年から続く伝統行事で、当初は修験者の荒行の一つとされていた。大釜で塩湯を沸かし、それに笹の葉を浸して塩湯の滴り落ちる熱湯を神職が頭上より受けるもので、この笹の葉は、家内安全と無病息災のご利益があるとされている。
        
             
・所在地 栃木県日光市清瀧 1-626-26
             ・ご祭神 (主)大海津見神
                  (配)高龗神 大己貴命 田心姫命 味耜高彦根命
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 節分祭追儺式 23日 例祭(湯立神事)515
                  秋祭り 1015日 他
 大間々町塩原貴船神社から国道122号経由にて日光方向に48㎞程進む。途中草木ダムや足尾地域の風景を愛でながら、休憩を挟んだり、のんびりとしたドライブを楽しむ。中でも草木ダム手前の桐生市黒保根町付近では、「メロディーライン」という道路に溝を作り、その上を一定の速度(制限速度)で走ると、走行音がメロディーを奏でるようにした道路があり、大体50㎞で走行すると童謡「うさぎとかめ」が聞こえてくる。このメロディーライン設置の目的は、
 ①制限速度で走らないと聞こえないから、スピード抑制効果あり。
 ②居眠り防止。
 ③土地にちなんだメロディーで、観光地をイメージアップ。
 童謡「うさぎとかめ」の曲の作詞者は、みどり市出身の石原和三郎(1865-1922)氏との事。童謡作詞家としての石原氏の業績に対し、童謡ふるさと館が開館。資料は旧花輪小学校記念館にも展示してあるというが、今回は残念ながらそこには寄らなかった。
 その後華厳滝から東方向に日光・今市の両市を流れて鬼怒川に合流する大谷川を越えたすぐ先にある「細尾大谷橋」交差点を直進し、国道122号線から離れ、北東方向に進路を取り2㎞程進むと、左手に清瀧神社が見えてくる。因みにこの「大谷川」は「だいやがわ」と読む。後日地図を確認すると、日光道・清滝ICのすぐ西に鎮座し、日光東照宮といろは坂登り口の中間に位置しているようだ。
        
           広々とした空間の中に静かに佇むというイメージ
 
  やはり世界的にも有名な観光地「日光」           入り口近くにある社号標柱
 英語表示もされ、案内板にも投資の仕方が違う。
        
             参道入り口付近に設置されている案内板
 清瀧神社
 御祭神 (主)大海津見神
     (配)高龗神 八坂神 八荒山三神 稲荷神
 祭 日  例祭 五月十五日 秋祭 十月十五日

 御神徳  延命長寿、病気平穏、厄除開運、家内安全
 特殊神事 古式 湯立神事 五月十五日
 由緒沿革
 古伝に依れば弘仁十一年(820)弘法大師空海が来晃し滝尾・寂光・生岡等と共に当社を創建した。社名は、社殿背後のお滝を含めた地形が中国大鷲山の清滝に似ているところから命名されたという。
 往時は、二荒山登拝の要路として、又、密宗修験の霊場として大いに栄えた。お滝の御神水は、古来生命保全の霊水として広く信仰されており、又社前の池は、応永十二年(1406)鎌倉官領の追討を受けた常陸国小栗城主小栗判官満重を恋慕する美女照手姫が判官の無事息災祈願の際に洗面したところから、“照手姫の化粧池”と伝えている。
                                      案内板より引用
 案内板に記載されている「小栗 満重(おぐりみつしげ)」は、室町時代前期から中期にかけての武将で、常陸国真壁郡小栗を領した常陸小栗氏の当主。通称は孫次郎。官途名は常陸介という。
 小栗氏の所領は関東にありながら室町幕府の御料所となっていた中郡荘と近接しており、早くから幕府中央と関係を結んでいた。この満重は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で禅秀に味方したため、戦後に鎌倉公方の足利持氏から所領の一部を没収されていた。これを恨んだ満重は、応永25年(1418年)・応永28年(1421年)に鎌倉府に反抗的な動きを見せている。応永29年(1422年)に宇都宮持綱・桃井宣義・真壁秀幹らと共謀して反乱を起こし、一時は下総結城城を奪うなどした。しかし反乱の長期化・強大化を懸念した持氏が応永30年(1423年)に大軍を率いて自ら出陣すると、反乱軍はたちまち崩壊して満重も居城の小栗城で自刃して果てたという。

 但し小栗満重は歴史上の人物より、伝説上の人物(小栗判官伝説)として有名で、特に江戸時代には人形浄瑠璃や芝居などで一躍有名になった。
 小栗落城後、満重は実は死なず、脱出して落ち延びたという。そのとき、相模の旧知である横山大膳という人物を頼った。このとき、横山の娘・照手姫と恋仲になった。ところが横山は小栗の首を差し出して褒美を得ることを目論んでいた。そのため、宴会を開いて酒を勧めたのだが、これが毒酒だった。小栗とその部下は何の疑いも無く飲んでしまい、そして命を落とし、持っていた金品も略奪された。
 ところが満重だけは虫の息ながら生きており、部下と共に遺棄された場所で僧侶に助けられて手厚い看病を受けた。特に熊野権現の霊験と温泉の効果があったという。恋仲になっていた照手姫は父の所業に悲嘆して家を出たが、追っ手に捕らえられて身ぐるみ剥がされた上で追放された。そして下女として働くことになる。
 本復を果たした満重は常陸に戻って再起を果たし、裏切った横山を討ち、下女になっていた照手姫を見つけ出して約束どおり夫婦になった。そして幸せに暮らしたという。

 史実と案内板の年代がかなりの隔たりがあるが、それは「小栗判官伝説」の説話の一つである『説経節』がその元ネタではないかと考える。
 当時僧侶や巫女たちは、一般庶民への布教のため、特に室町時代以降には譬え話や因縁話が取り入れられ、芸能化しつつ発展し『説経節』となったという。これは説経浄瑠璃とも呼ばれ、近世には語り物芸能として独立し発展した。
 この説教節『小栗の判官』には「日光山の申し子で美貌の娘である照手姫」という一文があり、そこを参照して案内板に加筆したのではないか、と思われる。
 但しこれはあくまで筆者の勝手な推測ではある
        
             長い参道の先には2基の石製の鳥居が立つ。
        参拝時は雨交じりの天候であったので、境内は全体的に薄暗い。
 また筆者の技量不足から、今回カメラの手振れ、また編集の失敗等で、ピンボケが多かった。

   一の鳥居のすぐ右側にも案内板がある。    一の鳥居と二の鳥居の間には手水舎あり。
  日本語表示の他に、英語表示もされている。
        
                     拝 殿
   
     拝殿の左側には池がある。         拝殿手前に設置されている案内板
 案内板に記載されている「照手姫の化粧池」か。

 日光市指定文化財 清瀧神社のサワラ
 種別 天然記念物
 員数 一本
 樹高 三十五.五メートル
 目通周囲 五八八センチメートル
 枝張り 東(六・五)西(六・五)南(六)北(五・六)*単位はメートル
 推定樹齢 約五〇〇年
 清瀧神社のご神木として清滝地区の人々に昔から崇められている大木である。日本のサワラの分布は福島県より岐阜・福井県の本州中部各地に自生し、さらに熊本・長崎などにも僅かな自生が知られている。サワラはヒノキに似ているが、鱗状の葉先が尖るなどの特長で見分けられる。川沿いの湿潤な土地を好む性質があり、清滝下のこの場所はふさわしい生育環境となっている。
この木は、環境省が集計した北関東の巨樹巨木調査記載の上位3本を上回る大きさであり、本県では最大のサワラと見られる。
 サワラの名は、ヒノキより材が「さわらか(軽くてやわらかい)」なことから起きたとする説がある。材は水湿に強いことから、風呂や桶などの利用に優れている。サワラはヒノキより園芸品種が多く、葉が黄色で、全国の生け垣に盛んに使われている。ニッコウヒバ(オウジンシノブヒバ)も、サワラを原種として育てられた品種である。
 平成十五年七月二十三日指定  日光市教育委員会
                                      案内板より引用

        
     社殿の後方は崖となっていて、その崖面には一筋(すじ)の滝が流れていた。
      神社の後ろに滝があるとは驚きであり、これこそご神体といえるものだ。


参考資料「栃木県神社庁HP」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「精選版 日本国語大辞典」
    「ぐんラボ」「ぐんまメロディーラインHP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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大間々町塩原貴船神社

 みどり市(みどりし)は、群馬県東部(東毛地域)に位置する市で、2006年(平成18年)327日に、新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村の21村が合併し発足し、平成の大合併において群馬県で新たに誕生した唯一の市である。また群馬県初のひらがな名の市でもある。
 地形は南北に長く、北部には足尾山地が連なり、その山塊に源をもつ渡良瀬川が市の北東から南東にかけて流れている。東町地区の主な地域はこの渡良瀬川に沿うように形成されていて、上流部には草木ダムが豊富な水をたたえ、首都圏に水を供給する役割を担っている。中部から南部にかけての地域は、渡良瀬川の清流がつくりだした「大間々扇状地」により形成されている。
 この大間々扇状地は、足尾山地に源を有する渡良瀬川が赤城山の南東部の麓で関東平野に達し、桐生市から伊勢崎市や太田市に達する地域に土砂を堆積して形成されている。
 扇頂部はみどり市大間々町付近。この旧大間々町(おおまままち)は源を日光の山並みに発する渡良瀬川が、赤城山の東麓をとおり関東平野に出て作った扇状地の要に位置する。
 大間々(おおまま)の「まま」とは、切り立った傾斜地崖「まま」のことで、町の面積の70パーセントが緑におおわれた緑豊かな場所である。嘗ては、足尾銅山から発掘された銅を運ぶ銅山街道(あかがねかいどう)の宿場町として、また絹や農作物の市場として栄えた町であるという。
 旧大間々町北部の塩原地域に鎮座する貴船神社は京都・貴船神社の分霊を祀ったとされ、例年県内一の20万人もの初詣参拝者が訪れるという信仰篤い社でもある。
        
            
・所在地 群馬県みどり市大間々町塩原785
            
・ご祭神 高龗神 大山祇神 大穴牟遅神
            
・社 格 不明
            
・例祭等 節分祭 21日-3日 例大祭 51
                 秋祭 
101日 他
 筆者が在住する埼玉県熊谷市からは、国道17号バイパス「西別府」交差点先の上武道路に合流し、利根川を越え群馬県に入り、伊勢崎方面に向かう。17㎞程進んだ「流通団地前」交差点を右折し、栃木県道・群馬県道39号足利伊勢崎線沿いに東行する。その後「流通団地東」交差点を左折、今度は群馬県道291号境木島大間々線を大間々町方面に北上し、国道122号線と交わる丁字路を左折、渡良瀬川を越えた直後の群馬県道257号線との交点にある丁字路を左折し、3㎞程同県道に沿って進むと大間々町塩原貴船神社正面に到着する。自宅からこの社まで40㎞程、途中でいくつか別件にて寄り道をしたが、1時間30分位で到着することができる。
        
                 大間々町塩原貴船神社正面
 参拝当日は残念ながら雨交じりの天候で、平日の為、他の参拝客は全くなし。雨の影響からか足尾山系には霧も発生していたが、
それが不思議と紅葉時期とのコントラストに絶妙に合い、また社周辺の鬱蒼たる森の目の前に立った時、自分の存在の小ささを実感したと共に、何万年という途方もない月日を通して熟成されて到達した日本人独自の「天地自然の法則」、つまり大自然を畏れ謹み崇めて神としてきた考え方に深く共感する次第だ。
 当たり前のことだが、人間は水がなくては一日たりとも生きられない。本来その水を育むものは豊かな緑、森林であり、日本の神様は「清浄」を最高としている。その清浄をもたらす根源は水である。
 その水の神様として高龗神を祀っている大間々町塩原地域に鎮座する貴船神社にやっと参拝することができた。感激もひとしおだ。
        
              大間々町塩原貴船神社 正面一の鳥居
       鳥居は石段に達するまでに3基見え、自然と厳かな気持ちにさせてくれる。
 当社は大間々町の中心から足尾街道の対岸を渡良瀬川に沿って遡上した地にある古生層の断崖上に鎮座し、赤城山の雄姿を仰ぐこともできるという。
 社伝によれば、天暦10年(956年)に関東地方が干魃に襲われた際、山城国の貴船神社(現在の京都府京都市左京区鎮座の貴船神社)から神霊を勧請して降雨と五穀豊穣を祈願したところ霊験著しく甘雨を得たため、渡良瀬川流域の山地に祀ったのが創まりで、江戸時代の寛文8年(1668年)に現在地に遷座したという。        
        
      参道を進む途中、左側には環境庁・群馬県が設置している社の案内板がある。
    社の創建に関して、国家省庁や、地方自治体のお墨付き頂いた看板にも見える。
          
                  案内板の左側には鳥居があり、その先には手水舎がある。
    この手水舎の奥から、斜面上に祭られている境内社群に向かう道があるようだが、
              正面参道に戻り、参拝を改めて行う。
        
                          石段の様子
 石段の真ん中付近には4基目の鳥居があり、そこを越えるともうすぐ境内が見えてくる。この石段の両脇にも豊かな木々が生い茂げり、森の中で浄化された空気を体いっぱいに吸いこむと、体の隅々まで清められたかのようなすがすがしさに包まれるような気持ちになるから不思議である。
        
                     拝 殿
               
                                         案内板
(但しこちらは入り口付近に設置されている案内板。境内にもあるが、内容はほぼ同じなのでこちらを紹介する)
 貴船神社由緒
 ●創立
 平安時代の天暦十(九五六)年、東国(関東地方)がひどい干ばつに襲われたとき、山城国(京都)の貴船神社の祭神が、古来より祈雨・止雨祈願の神として信仰されてきた高おかみ大神で、その分霊を奉り降雨と五穀豊穣を祈願したところ、それがかなえられたので、関東平野の最北端、渡良瀬川流域の山地に祭られ、現在地に建立されたのは、江戸時代の寛文8(一六六八)年といわれています。
 ●御祭神
 御祭神は高龗大神のほか、大山祇大神、大穴牟遅大神が合わせてまつられています。
 高龗大神(たかおかみのおおかみ)
水の神さまで国土を永遠に湿潤にして草木の生育をたすけ、人々の生活を豊かにする。雨をともなう龍神としての信仰があり、特に雨乞いの神として崇められてきた。
 大山祇大神(おおやまづみのおおかみ)
 山々の精霊を統括支配し、五穀豊穣をもたらす神。
 大穴牟遅大神(おおなむちのおおかみ)

 国土を治め、守護し、人々の病めるのを治し、不幸を救う神。
 外数神

 ●御神徳
 貴船大神は、関東地方を干ばつから守り、古くから水の神さまとして信仰されてきました。人類をはじめ地上に生育する全ての生物は一として水の恩恵を受けないものはありません。ですから貴船大神を崇敬し、その御神徳に浴すことは、衣食住の安全、即ち生活の保証を得ることになり、家内安全、商売繁盛、水の浄化力から厄除の神、また水の力は願い事を成就させるとして心願成就の神、そして交通安全の守護神として篤く崇敬されています。
 ●貴船信仰
 貴船の神は開運の神・心願成就の神として信仰されています。貴船神社の「きふね」は、昔は「気生根」とかかれ、水は気の生ずる根源であり、生命の原動力である気が蘇ると元気が出て運が開け、願い事を成就できるという信仰です。水神の鎮まる貴船神社に参拝すると、気力が生じて願い事を成就できることから縁結び、恋愛成就の神としても知られています。 このように貴船の神は、衣食住の源である水を司る神、その水の源である雨をもたらす神として、また開運・心願成就の神として人々の崇敬をうけてきました。
                                      案内板より引用


      拝殿に掲げてある扁額         境内には小さいながらも手水舎あり。
        
              貴船神社境内から石段を下るその一風景
        
     石段には踊り場が数カ所あり、その右手の先には境内社群が祀られている。
   赤い鳥居の先には境内社があり、その周りにも古そうな石祠が並んで祀られている。             

 案内板の記載によると、昔「貴船」は「気生根(きふね)」と書かれ、水は気の生ずる根源であり、生命の原動力である気が蘇ると元気が出て運が開け、願い事を成就できるという信仰であるという。そのことから、縁結びや開運、心願成就の神様としても広く信仰されている。
人が事成す時は、やはり「気」は必要なのだ。そのことを改めて感じさせてくれたことに対して感謝をしながら、この厳かな雰囲気の社参拝を終えることができた。


参考資料「みどり市HP」「旧大間々町HP」「貴船神社公式HP」「
Wikipedia」
 

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