割目久伊豆神社
北は今鉾(いまぼこ)村、東・南・西は中曾根村(なかぞねむら・現久喜市)など。「風土記稿」に「往古此地ハ中曾根村ノ内ニ割込テアリシ故村名ニ負セシ由」とあり、中曾根村と一村であったという。騎西領に所属(同書)。
田園簿によると田高一〇四石余・畑高七九石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二八〇石余、反別は田方一五町余・畑方一七町余、新開高一一二石余、反別は田方六町余・畑方六町八反余。
・所在地 埼玉県加須市割目491-1
・ご祭神 大己貴命(推定)
・社 格 旧割目村鎮守・旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.com/maps/@36.0800015,139.6286684,18z?hl=ja&entry=ttu
埼玉県加須市南東部で、久喜市に隣接した場所に「割目」という地域がある。 因みに「割目」と書いて「わりめ」と読む。これは, 『角川日本地名大辞典11埼玉』において、旧割目村は中曾根村内に割込んでいたので付けられた名であるという説明が載っている。
また『新編武蔵風土記稿』にも同様の記述がある。
『新編武蔵風土記稿 割目村』
「割目村は江戸よりの行程及鄕庄の名前村に同じ、村名の起り往古、此地は中曾根村の内に割込てありし故、村名に負せし由、其頃は未だ一村に分れず、其後分鄕せし時かく名づくと云、されど正保の改にも一村と載せたれば、分鄕せしはいと古きことなるべし(中略)東西十八町、南北二町許、細く長き村なり、これ中曾根村の内に割込てありしを分村せし故、かくの如き地形となりしなるべし」
割目久伊豆神社正面
今回の参拝は、久喜市菖蒲地区にある大型ショッピングモールである「モラージュ菖蒲」に急遽買い物を頼まれ、そのモールに行く途中に偶々出くわした社である。全く予想もしていなかった場所であったのだが、これも神様からの新しい出会いの賜物と、ありがたく参拝させて頂いた。
モラージュ菖蒲から南北に通じる埼玉県道12号川越栗橋線を北上する。県道は途中から東西方向に進路が変わるのだが、500m程過ぎた十字路を左折し、その突当たりの丁字路の右側に割目久伊豆神社の鳥居が見えてくる。
駐車スペースは周囲にはない様子なので、路駐して急ぎ参拝を行う。
参道を進むと右側に祀られている境内社 境内社の左側奥にある力石2基
大黒様と狐の置物が置かれているのが印象的
この力石は、どちらも天保11年(1840)に奉納されたもので、写真左の力石は「六十五貫目」、右側は「四十二貫目」と刻印されている。1貫=3.75㎏であるので、現代の重さ(g)に直すと、それぞれ左244㎏、右158㎏となる。どちらにしてもかなりの重さである。
参道右側には「改築記念」がある。 「改築記念」の脇にある大木の幹部分と石祠
改築記念
當久伊豆神社境内ニ一老杉在 居〇一丈六尺
有餘長サ九拾尺只空洞有ヲ惜ム時二大正拾壹
年三月拾五日霹靂一〇忽チ落雷洞内ニ火ヲ發
シテ炎々夕リ消化ニ努ムル事二晝夜ニ及ブ
雖効無ク遂ニ認可ヲ得テ伐木スルニ至ル 〇
而社殿之頗廢其極ニ達ス以故為記念當字〇〇
故中野茂右衛門氏改築之議ヲ提出スル〇〇ヲ
讃同於是大正拾貳年拾壹月拾壹日起ニ茲ニ落
成ヲ告グ擧式ニ際シ建碑為記念
大正拾三年拾月拾五日
井上喜三郎謹書
この改築記念の碑には、大正時代にあった落雷が、当時社のご神木であったであろう大杉に直撃し倒木してしまった事、同時にその被害が社殿にまで及ぼしたことが記されている。写真右側にあるように境内には大木の幹部分しか残されていないものが残されているが、近くに石祠も設置されているところから、もしかしたら記念の碑に出てくる大杉であったのかもしれない。
但し、この改築記念の碑には、社に関する由来等の記載はなく、また資料等確認しても同様で、創建等は全く不明。『新編武蔵風土記稿』においても「久伊豆社 村の鎭守なり、村民持」としか書かれていない。
拝 殿
拝殿手前左側に鎮座する「正一位諏方大明神」 本 殿
社殿からの一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「角川日本地名大辞典11埼玉」
「境内石碑文」等