古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

須江黒石神社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町須江412
              
・ご祭神 少彦名命
              
・社 格 旧須江村鎮守・旧村社
              
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0027644,139.3253522,16z?hl=ja&entry=ttu
 竹本黒石神社から一旦南下し、埼玉県道171号ときがわ坂戸線に戻り、その道を東行する。350m程進んだ丁字路を左折、その後100m先の路地を右折すると、進行方向左手の目立たない所に須江黒石神社の正面鳥居、及び社号標柱が見えてくる。
 両黒石神社との距離は非常に近く、直線距離でも600m程しかない。
 近郊に専用駐車スペース、自治会館はない。路面駐車してから急ぎ参拝を行う。
 社は南向きで、岩殿丘陵地面に鎮座しているが、社の南方正面は、長閑な鳩川の支谷沿いに水田が開ける農業地域である。
        
                  須江黒石神社正面
『日本歴史地名大系』 「須江村」の解説
 [現在地名]鳩山町須江

 奥田村の西に位置し、南は大橋村、西は竹本村、北は山嶺を挟み将軍沢(しようぐんざわ)村・鎌形村(現嵐山町)など。村内を鳩川の支流大橋川が流れ、南には同川のつくる低地が広がる。松山領に属した(風土記稿)。
 古墳時代後期の鳥木横穴のほか、奈良・平安期の窯跡である岡城窯跡をはじめとする一〇ヵ所あまりの窯跡があり、南比企窯跡群の中核地域になっている。
       
 鳥居の前方右手にある社号標柱(写真左)と、その右並びに建つ石碑。「富士講」か(同右)。
        
                    鳥居正面
           石段を伴う長い参道であることが目視でも分かる。
  丘陵地斜面上に鎮座する社独特の風景。このアングルは筆者にはとてつもなく美しく感じる。
 
       勾配のあまりない登り階段となっているので、あまり疲れも感じない。
           参道周辺の雰囲気も良く、落ち着きはらっている。
        
                        数段の石段を越えると広い境内に達する。
 境内に達するまでの間、特別奉納された燈篭や、記念碑等の石碑もなく、集会所や倉庫などがある程度。何もないと言ってしまえばそれまでだが、物寂しさは全く感じられなかった。むしろ映画かアニメのワンシーンに登場するような、一昔ならばどこにでもあった素朴な風景で、「余計なものを省いた美しさ」が境内に到着した瞬間に受けた印象である。
 考えてみると、とかく社の格式を、奉納された燈篭や額、記念碑・案内板で飾り立てようとする現在の傾向に対して、鳩山町のお社の多くは、本来の地域の鎮守様としてのありようを無言で諭してくれているようでもあった。まあ筆者の勝手な解釈ではあるが。
       
            参道を進む途中、右側に聳え立つ「鳩山町景観樹木」であるタブノキ。
                指定年月日 平成6年8月1日
                        当社のご神木でもある。
        
                     拝 殿
黒石神社  鳩山町須江四一二
 鳩山町須江地域は、岩殿丘陵の中央部に位置し、鳩川の支谷沿いに水田の開ける農業地域である。須江の地名は須恵器にちなむといわれ、古墳時代後期の鳥木横穴のほか、奈良・平安期の窯跡である岡城窯跡をはじめとする一〇ヵ所あまりの窯跡があり、南比企窯跡群の中核地域になっている。
 須江黒石神社の創建年代等は不詳ながら、明治維新まで「枡井戸遺跡地」近くにあった瑠璃光院が別当を務めており、舛井戸遺跡は瑠璃光院の御手洗井戸として寛徳年間(1044-1046)に建設されたと伝えられることから、古くより祀られてきたのではないかという。江戸期には須江村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治44
年境内末社の愛宕社、および廃寺となった瑠璃光院(医王社)を合祀している。
『新編武蔵風土記稿』須江村の項には、「黒石明神社村の鎮守なり、瑠璃光院持」とあり、その瑠璃光院については、本山派修験の須江山光雲寺宮本坊と号し、薬師堂があったと記載されている。明治初年の神仏分離以降太平洋戦争前までは、地元の日野岡家が代々当社の祀職を務め、同家が本山派修験の流れを汲み、永く当社を守り続けたという。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 拝殿の左側に祀られている唯一の構造物である境内社(写真左・右)。但し社名等詳細は不明。
        
         参道を含めた境内全体に不思議な雰囲気を醸し出している社。
        
                              社の南側に広がる田園風景 
 
 因みに須江黒石神社の東側で道路沿いから「日野岡家住宅長屋門」と「舛井戸遺跡」がある。
 残念ながら「日野岡家住宅長屋門」は事前の勉強不足の為、写真に収めることができなかった。
「日野岡家住宅長屋門」
・国登録有形文化財(建造物)
登録年月日 2007731
 丘陵の南裾にあり,南面して建つ。東西棟の寄棟造,もと茅葺で,平面は桁行15.7m,梁間4.6
mの規模を有し,中央に門口を構え,両側を部屋とする。軒は出桁造,小屋は扠首組で,正面外壁の腰は押縁下見板張とする。形式は簡素であるが,丁寧なつくりである。
        
                              舛井戸遺跡」
 
       舛井戸遺跡」の案内板        井戸の内部。僅かだが水があり、湧水という。
『村指定記念物  舛井戸遺跡』
 寛徳年間のころ(西暦一〇四五年)この地に日出薬師尊があった。参詣する善男善女の御手洗井戸として建設された。以来、今日に至るまで渇水することなく明泉が湧出している。
 先人たちが伊勢神宮、黒石神社に参拝の折に身体を浄めた泉といい伝えられている。又干魃の際には住民の飲料水として近年まで用いられていた。昭和三十二年道路拡張工事により一時埋立られたが、地元有志により復元され由緒ある遺跡として保存することとした。
 昭和5641日 鳩山村教育委員会
                                      案内板より引用

 説明板は「鳩山村」となっているが、この1年後の昭和57年(19824月の町制施行で「鳩山町」に変っている。行政上、簡易的に「村」の一文字だけシール等を貼ったりして、「町」に変えるよりこのままの方が趣きがあるものだ。



参考資料「文化遺産オンライン」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「案内板」等

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竹本黒石神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町竹本1078
             
・ご祭神 日本武尊
             
・社 格 旧竹本村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9995914,139.3170483,16z?hl=ja&entry=ttu
 泉井神社から「亀小通り」を北上し、900m程先の埼玉県道171号ときがわ坂戸線との交点である丁字路を左折する。その後200m進んだ細い路地を右折すると、その突当たりに竹本黒石神社の鳥居が見えてくる。細い路地地点には竹本黒石神社の社号標柱があり、それが目印となるが、道路沿いからは少し離れた場所にあるので、曲がる際には注意が必要だまあ今では車両にはナビが標準装備されていて、設定さえ間違わなければ、まず迷うことはない。
 細い路地を曲がり、そこを暫く進むと、道路の行き止まりとなっていて、鳥居の右手に駐車可能なスペースがあり、そこの一角に停めてから参拝を開始する
       
                               竹本黒石神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「竹本村」の解説
 [現在地名]鳩山町竹本
 大橋川支流黒石川の上流域に位置し、東は須江すえ村、南は上泉井村・下泉井村。「たかもと」とも読み(元禄郷帳など)、松山領に属した(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高二〇〇石余・畑高六五石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本日比野領。
 
 参道の両側には豊かな森林に覆われていて(写真左)、石段上に拝殿が設けられている(同右)。丘陵地面に位置している鳩山町の社は市街地以外はこのような配置となっているものが多い。
        
  石段を登り終えると比較的広い空間が広がり、更に一段高い場所に拝殿が鎮座している。
                 左側には社務所がある。
        
                                       拝 殿 
                            周囲一帯には趣のある雰囲気が漂う。

 鳩山町竹本地域は岩殿丘陵の西部で、丘陵を樹枝状に浸食して流れる鳩川の支流大橋川の上流地域に位置する。丘陵に挟まれて、細長く東西に耕地がのびている。竹本黒石神社の創建年代等は不詳ながら、当地の名主家保積家が氏神として創祀したと伝えられている。
 江戸期には東光寺持ちの社で、竹本村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年に(旧東光寺持ちの)菅原社(天神社)を合祀している。
 
        拝殿左側に祀られている境内社(写真左・右)。詳細不明。
       
          参道右手に見える鳩山町景観樹木である「カシ」の巨木
                           指定年月日 平成10年9月1日
                              指定番号 第21号 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等



      

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泉井神社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町泉井320
              
・ご祭神 健御名方命 応神天皇
              
・社 格 旧上泉井村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭/ささら獅子舞 10月第2日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.995511,139.315043,18z?hl=ja&entry=ttu
 熊井黒石神社から一旦東方向に進み、「上熊井農産物直売所・ちょっくま)付近の丁字路を左折する。通称「亀小通り」を北上、鳩山町立亀井小学校を過ぎた「泉井地区集落センター」に隣接して泉井神社は鎮座している。因みに「泉井」と書いて「いずい」と読む。
 社の隣にある泉井地区集落センターには十分な駐車スペースがあり、そこの駐車場の一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
               
亀小通り沿いに鎮座する泉井神社
『日本歴史地名大系』 によると、嘗て泉井地域は上泉井・下泉井・大橋の三村に分かれていたといい、泉井神社が鎮座していた地は上泉井村と云った。この村は、下泉井村の西、泉井川の上流域に位置し、南は熊井村。当村および下泉井村・大橋村の三村は嘗て一村で、泉井村と称していたが、正保年間(一六四四―四八)以降に三村に分村したとされる。泉井の地名は地内に湧水が多かったことによると伝える。松山領に属していた。
        
                石段上に立つ泉井神社の鳥居
 泉井神社の創建については詳細不明であるが、治承年間(11771181)に比企掃部允が創建したと伝えられている。
 この比企掃部允は平安時代後期の武士で、源頼朝の乳母である比企尼の夫。比企氏の出自には諸説あるが、『埼玉叢書』所載「比企氏系図」によれば父を波多野遠義の孫の藤太遠泰とし、比企氏の母系子孫にあたる薩摩藩による「武蔵国王孫比企氏系図」によれば父は武蔵介宗職で、早世した兄・宗員の跡を襲ったとする。
 比企掃部允は武蔵国比企郡の代官で、源為義・義朝に仕えたとする説がある。諸系図は比企氏を源氏類代の家人とし、源義家以来の鎌倉館の留守を祖父の代より務め、また保元の乱で為義が敗死すると郡内の岩殿丘陵に隠居して仏事に務めたとしている。
 妻の比企尼が乳母を務めた源頼朝が平治の乱で敗れて伊豆国に流罪になると、妻とともに比企領に下向して頼朝の衣食の便宜を図ったという。
       
           境内の片隅に、孤高の如き屹立する
鳩山町景観樹木である「モミ」の巨木
        
           拝殿までにはもう一段石段を登らなければならないが、
             その石段の手前で左側にある「
合祀記念碑」
        *地面に近い刻字の中に解読できない文字もあり、その場合は〇で表記した。

                                    
合祀記念碑
          
本殿ハ元無格社諏訪八幡ノ両座祭神ハ建御名方命應神
          
天皇ノ二柱ヲ奉祀スルナリ然ルニ明治三十九年勅令
          
第二二〇号ヲ以テ神社合祀ノ件御發布アラセラレ〇○
          
旨ニ基ヅキ合祀出願明治四十年五月十四日指令地〇○
          一二七六号ノ四ヲ以テ認可セラル是ニ於テ字櫻坂一二
          三九番元村社黒石神社祭神大己貴命字愛宕一〇二三番
          元無格社稲荷神社祭神倉稲魂命仝字一〇〇九番元無格
          社愛宕神社祭神軻遇突智命ノ三神ヲ合祀シ社號ヲ村社
          泉井神社ト改稱明治四十三年二月十九日指令〇○第〇
          七六号ノ五ヲ以テ神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル〇
                          テ茲ニ其由ヲ録ス
                     
昭和二丁卯年三月(以下略)

 石段を挟んだ反対側には、
鳩山町指定無形文化財である「泉井神社獅子舞」の案内板がある。
        
                        「
泉井神社獅子舞」の案内板
 鳩山町指定無形文化財 泉井神社獅子舞
 指定 昭和五十二年五月十八日
 所在 大字泉井 泉井神社
 長禄元年(一四五七)七月、諏訪大明神を勧請して祭祀し、悪魔退散、無病息災、五穀豊穣を祈願したのが、この獅子舞のはじまりである(明治四十年、近隣三社を合祀し、社号を諏訪八幡神社から泉井神社に改めた)。
 獅子舞は、三頭の嗣子、猿田彦、花笠、行司、万燈、笛、唄とからなるササラ獅子舞で、毎年十月の第二日曜日に奉納される。
 現在、氏子全員により獅子舞保存会を結成し、保存に努めている。
 平成二十四年三月 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                 石段上に見える拝殿
        
                                        拝 殿
 泉井神社 鳩山町泉井三二〇
 当社は元来「諏訪大明神」と称していた。『明細帳』によれば、天徳二年(九五八)に健御名方命を字蛇子沢の地に勧請したが、長禄元年(一四五七)七月に至り、神幣が字正南の地に飛んで来たことから、これを神のお告げであるとして遷座を行った。これが現在の鎮座地である。その後、元禄十年(一六九七)に字北ヶ谷に勧請した八幡神社を合祀して相殿としたことから宝暦八年(一七五八)一二月に社殿を再建したという。
『風土記稿』には「諏訪八幡合社 村の鎮守なり、宝泉寺持」とある。これに見える宝泉寺は宝珠山と号する真言宗の寺院で、当社西方五〇〇mほどの地にあったが、明治期に入って廃寺になったようで、跡地には地蔵尊が残されている。
 明治初年の社格制定に際して当社は無格社となり、字桜坂の黒石社の方が村社となった。
 しかし、明治四十年の合祀に際しては当社がその中心となり、黒石社をはじめとして字愛宕の無格社愛宕社・稲荷社の三社が当社に合祀された。これにより社号の八幡神社・諏訪神社合殿を村名を採って泉井神社と改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                                        本 殿
 
    社殿左側にある境内社・御嶽山        本殿右側奥に境内社・稲荷神社
        
                                   境内の一風景

 ところで、熊井黒石神社から「亀小通り」の北上途中、東側の高台附近に『南比企窯跡群(みなみひきかまあとぐん)』といわれる遺跡がある。南比企窯跡群は、鳩山町を中心に嵐山町・ときがわ町・東松山市の一部にかけて広がり、6世紀初頭から10世紀前半頃まで須恵器や瓦を生産した。
 奈良時代中頃(8世紀中頃)には武蔵国分寺創建期の瓦を大量に生産し、南へ約40km離れた国分寺まで運ばれ、最盛期の窯の数は500基ほどあったと言われ、東日本最大級の規模という。
 その「南比企窯跡群(律令制期東国屈指の大窯跡群)」の東側の一画を占め、当窯跡群の中核を成す、鳩山町のほぼ全域に広がる窯跡群の総称を「鳩山窯跡群」という。

 6世紀初頭に東松山市高坂の丘陵東裾で須恵器の窯として操業を開始し、7世紀後半には鳩山町の石田遺跡や赤沼古代瓦窯跡などで勝呂廃寺(坂戸市)の瓦や須恵器を生産するようになります。 そして、8世紀半ばになると鳩山町の新沼窯跡を中心に武蔵国分寺創建期の瓦を大量に生産し、生産された瓦は南へ約40km離れた国分寺へ運ばれたという。
 泉井地域に所在する遺跡はこの「新沼窯跡」で、昭和34年に発掘調査され、武蔵国分寺創建期の瓦を生産した窯跡として知られていた。平成22年から実施された発掘調査により、26基もの窯跡の存在が明らかとなった。大半は8世紀中頃から後半の武蔵国分寺創建期のものであるが、一部で9世紀中頃の須恵器が出土していることから当該期の窯跡も存在すると考えられる。出土瓦の中には、古代の郡名を記した瓦「郡名瓦」が多く含まれているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「鳩山町役場HP 鳩山窯跡群」「境内案内板・記念碑文」等
 

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高野倉八幡神社

 鳩山町高野倉地域は、地内中央部を流れる越辺川支流鳩川の最上流水源地帯にあたり、鳩川両岸に水田が、三方を囲む丘陵部には畑が細長く広がる農業地域である。ゴルフ場の開発も盛んで西部の丘陵には越生ゴルフクラブ、南部の丘陵には日本カントリークラブのゴルフ場がある。
 高野倉八幡神社は、この高野倉の鎮守として北部の丘陵斜面に祀られていて、社を含めた周囲一帯は「高野倉ふれあい自然公園」という里山公園が広がっていて、自然に囲まれた環境で散歩するのにおすすめである公園だ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町高野倉545
             
・ご祭神 品陀和気命(応神天皇)
             
・社 格 旧村社。旧名 鬼子母神社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9929694,139.2996226,16z?hl=ja&entry=ttu
 熊井黒石神社から北にある鳩川沿いの道路を北西方向に進み、途中「百地蔵通り」に合流し、道なりに進むと「高野倉ふれあい自然公園」の横看板が見えるので、そこを右折すると、公園内斜面上に高野倉八幡神社は鎮座している。
 公園内には舗装はされていないが、駐車スペースは確保されていて、そこから斜面上に徒歩にて歩いて行くと、高野倉八幡神社が見えてくる。
        
              「高野倉ふれあい自然公園」案内板
 鳩山町にある新しく整備された公園のようで、平日でもあり、ゆったりと散策できる穴場的な公園。公園内には「鳩山町景観樹木」に指定されている大きなもみの木が2本林立している。また、入口付近には御堂山があり、高野倉八十八ヵ所、八幡神社のイチイガシ(町指定天然記念物)に隣接し、鳩山の「四季」が堪能出来る里山公園である。
            
  駐車場からでもすぐ目視できる程、近くの斜面上に屹立しているイチイガシ。樹勢も旺盛。
       町指定天然記念物であり、同時に高野倉八幡神社のご神木でもある。
            因みに「イチイガシ」は「一位樫」と書く。
        
               近くに案内板が設置されている。
 鳩山町指定記念物 八幡神社のイチイガシ
 指定 昭和五四年四月二五日
 所在 大字高野倉八幡神社
 この大木は、樹高約二〇m、樹齢が四百年とも六百年とも言われ、八幡神社の御神木として地元の方々によって大切に守られてきました。平成五年九月一六日に、現名称に変更いたしました。
 イチイガシの天然分布は九州に最も多く、北限は茨城県で、埼玉県、群馬県、栃木県、福島県では全く発見されていません。このことは、八幡神社のイチイガシが、昔、なんらかの理由で植栽されたもので、さらには、八幡神社の歴史観と併せて、極めて貴重な天然記念物であると言えます。
 平成六年三月 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用

 
 イチイガシの左側脇に通っている道は社に通じる参道にもなっているようだ(写真左・右)。理由は分からないが、この社には鳥居がなく、社号標も見当たらなかった。
        
                  高野倉八幡神社境内
        なだらかな丘陵地面の境内からまた一段高い場所に鎮座する社。
 現代の技術によりしっかりと公園全体が管理された中に鎮座している社ではあるが、時に里山ならではの原風景も木々の中に垣間見られる。そして境内に立ち周囲を見渡すと、何故か時が止まっているような雰囲気さえ醸し出すから不思議な感覚だ。
        
                     拝 殿
 高野倉八幡神社の創建年代等は不詳であるが、社記では仁寿元年(851)の創建と伝えている。明治維新前までは「鬼子母神」などと称し、正圓寺の境内として当社は扱われていた。境内に残された御神木の「イチイガシ」は、温暖性植物でその分布の中心は、九州や四国、紀伊半島などの暖かい地方に分布の中心があり、高野倉の例は、自生北限をはるかに超えた、関東地方でも房総安房を除くとほとんど例のないと言われる、たいへん貴重な樹木であることから人工的に植樹されたものと思われ、樹齢600年とも伝えられることから、創祀年代もその頃ではないかとも推測されている。

 ところで「鬼子母神」は仏教を守護する善女神の一人。多くの子をもっていたが,常に他人の子を奪って食べるので,仏が鬼子母の子を隠して,子を食う罪をさとした。以後仏教に帰依し,その守護神となったという。日本では主として,安産,保育の神として信仰され、ときに盗難よけの神ともされる。単独で信仰されるほか,密教では「普賢十羅刹女 (ふげんじゅうらせつにょ) 」図中にも加えられている。
『新編武蔵風土記稿』においてこの社は、「鬼子母神」と称していたが、其の後「八幡神社」と改称する。その八幡神社と改称した理由などは不詳との事だ。
        
                     本 殿
 
 高野倉八幡神社には二基境内社が祭られている。社殿石段下で参道に対して左側にひっそりと祀られている石祠(写真左)、本殿奥右側にある境内社(同右)。どちらも木製の標があるのだが、薄くて解読不能。石祠のほうは「天満(?)天(?)〇」と読めなくもない。
        
                           社殿下参道よりイチイガシを撮影

 ところで「高野倉ふれあい自然公園」の入り口付近には、百地蔵や八十八ヶ所石塔、大師堂跡などが残されていて、「お堂山」と呼ばれる山頂までは散策できなかったが、古い時代から信仰の地だったようで、今も地域の方々によって大切にされている様子が窺える。
 
                 八十八カ所石塔が斜面に沿って並んでいる(写真左・右)。

         阿弥陀堂          お地蔵様には手を合わせ祈願させて頂いた。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鳩山町HP」
    「
百科事典マイペディア」「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「公園内案内板」等

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熊井黒石神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町熊井1015
             
・ご祭神 日本武尊
             
・社 格 旧熊井村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9862534,139.311396,16z?hl=ja&entry=ttu
 熊井毛呂神社から進路を北西方向にとると、埼玉県道41号東松山越生線に合流、更に西方向に進む。途中左手方向で、小高い丘上に上熊井農産物直売所「ちょっくま」が見えるが、そこからは200m程先に上熊井集落センターがあり、その右隣に熊井黒石神社の石製の鳥居が見えてくる。
 熊井毛呂神社同様、熊井地域は周囲一面豊かな緑が生い茂り、田畑風景が広がる長閑な空間。熊井黒石神社正面は丘陵地面となっているようだ。
        
                  熊井黒石神社正面
『日本歴史地名大系 』「熊井村」の解説
 [現在地名]鳩山町熊井
 大豆戸の北西、越辺川支流鳩川の流域に位置し、東は大橋村、西は高野倉村。応安元年(一三六八)七月、越生兵庫助は当地などの本知行分を報恩(法恩)寺(現越生町)に寄進している(報恩寺年譜)。田園簿によれば田高四〇一石余・畑高二三九石余で幕府領。元禄郷帳では高六六三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本内藤領。ほかに万願寺領がある。「風土記稿」成立時には旗本三家と幕府領の相給。本検地は元和六年(一六二〇)・貞享元年(一六八四)に行われ、天明六年(一七八六)には持添新田(幕府領)の検地が行われた。
               
『新編武蔵風土記稿 熊井村条』
「按に入間郡今市村法恩寺の年譜録、慶安元年七月越生兵庫助田畑を以て、法恩寺へ寄付せし條に云、武蔵国比企郡内熊井云云、田畑在家等事、越生兵庫助本知行分也と見えたれば、当村は貞治・応安の頃越生氏の領地にして、後報恩寺領たりしこと知るべし」
 黒石明神社
 村の鎮守なり、本地佛十一面觀音を安ず、妙光寺持、下三社同、
 妙光寺
 慶安二年寺領九石の御朱印を賜ふ、新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺の末、熊井山不動院と號す、開山竺翁は弘安九年の示寂にて、其月日は失へり、本尊不動を安ず、傳教大師の作れる所と云、
 熊井地域には、黒石神社と毛呂神社が二社地域の鎮守様として鎮座している。そのうち、黒石神社が村の鎮守社、一方毛呂神社は産土神(うぶすなかみ)として、大切に今でも祭られている。他の地域でもあまり見られない祭祀体系だ。
        
                            鳥居前で一礼してから参拝開始
 熊井黒石神社の参道の隣には車でも通行可能なルートも存在しているのだが、ここは基本通り徒歩にて参拝。なだらかな登り斜面ではあるが、疲れる程ではない。しかし思っていた以上に長い参道ではある。
 
 参道は長く、100m程あるのではなかろうか(写真左・右)。しかし途中踊り場も設置されているので、気持ちよく参拝に望めた。当日雨交じりの天候ではあったが、それが却って参道両側に広がる豊かな森林浴を体全体浴びながら、少しずつだが確実に近づく神様への崇拝の念が高まるような面持ちとなるのだから不思議な感覚だ。
        
                 目の前に見えてくる社殿

 熊井黒石神社の創建年代等は不詳であるが、『明細帳』は祭神を日本武尊とし、由緒は「尊東夷征伐還御ノ還御休憩アリシト依テ勧請スト云、創建不詳、思フニ其頃村落未開ナリシモ尊ヲ勧請、未開土地モ開キ居民モ繁殖ニ至ヤ、因テ尊ヲ鎮守ト崇ムト右旧記ナシト雌モ古来人口ニ伝テ存ス」と記している。
 当社の別当を務めていた妙光寺は、熊井太郎忠基の子孫が開基、竺翁(弘安
91286年寂)が開山したとされることから、熊井氏が当社の創建に関与したことが推測されている。

 熊井 忠基(くまい ただもと、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代の武士で、源義経の側近。義経19人衆もしくは8人衆にも数えられる。名は太郎。忠元ともいう熊井 忠基(くまい ただもと、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代の武士で、源義経の側近。義経19人衆もしくは8人衆にも数えられる。名は太郎。忠元ともいう。
「本朝武功正伝」によると一ノ谷の戦いで功を立てた。『武蔵国郡村誌』によると熊井(現在の埼玉県比企郡鳩山町)には忠基の館跡があり、そこには忠元が甲冑を埋めた鎧塚がある。義経が頼朝と不仲になり奥州に逃れたため、忠基は奥州藤原秀衡の元へ向かったというが、詳細は不明。但し、宮城県には今も熊井忠基の子孫を名乗る熊井姓の人たちがいるとの事だ。
        
                     拝 殿
        
  境内には新しく改築した社殿のみ。その社殿右側に「黒石神社竣工記念碑」が立っている。

 黒石神社竣工記念碑
 黒石神社は熊井村氏子に敬われてきた鎮守である。 創立年代は未詳であるが「鳩山風土記稿」等によると明治四十年に愛宕社 八幡社 神明社の三社を本社に合祀 八幡社の社殿を移築し従来の拜殿につなげ社務所とした。
 更に大正三年に境内にあった愛宕社 天神社の二社を本社に合祀 その後 維持管理を行ってきたが歴史ある社殿 鳥居も老朽化が進み、このたび氏子の総意により改修工事を実施 財源は上熊井大字会計より充当した 社殿 参道 鳥居 幟旗竿その他の附帯工事など施工し ここに完成を祝し記念碑を建立して後世に伝えるものとする。(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                      拝殿から下界を見下ろすような位置から撮影

 境内周囲は手水舎と社殿のみであり、さっぱりとした印象。但しそれがこの社の神聖性を増しているようにも感じた。何もないと言ってしまえばそれまでだが、「余計なものは取り払う」精神も日本独特の考え方である。
 それ以上にこの長い参道には深い感銘を受けた。古くは神聖な山、滝、岩、森、巨木などに「カミ」(=信仰対象、神)が宿るとして敬い、社殿がなくとも「神社」とした。また神は目に見えないものであり、元来神の形は作られなかったことを考えてみると、この長い参道をも含めたこの広い空間こそが神が宿るお社でもあるのだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内記念碑文」等

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