古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

安養寺八幡神社


               
             
・所在地 埼玉県鴻巣市安養寺126
             
・ご祭神 誉田別命 息長足姫命
             
・社 格 旧安養寺村鎮守 旧村社 
             
・例 祭 祈年祭並びに勧学祭 220日 例祭 914日 
                  
新嘗祭 1124
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.073495,139.5184691,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号バイパスを鴻巣方向へと進み、17号との合流地点である「箕田」交差点の手前にある「箕田(北)」交差点を左折する。通称「フラワー通り」と言われる道路を東方向に直進する。この道路は元荒川の南側にある通りで、街道の両側には生産者のハウスが並んでいて、ハウスの前には生産者の名前を表示する案内板が設置されている。因みに鴻巣市は全国的にも有数な花の産地である。
 話は戻って17号バイパス「箕田(北)」交差点からこのフラワー通りを東行する事3㎞程で、埼玉県道32号鴻巣羽生線と交わる信号のあるT字路にて終了するが、そこを左折する。すぐ先には元荒川が南北方向に流れ、そこに架かる「三谷橋」を越えて次の「安養寺(中)」交差点を右折、埼玉県道77号行田蓮田線合流後200m進んだ十字路を右折すると正面に安養寺八幡神社の鳥居が見えてくる。
 社の西側に隣接して安養寺自治会集会所があり、そこの正面玄関前に駐車スペースが僅かにあるので、そこに停めてから参拝を行った。
               
                              
安養寺八幡神社正面
 一の鳥居は進行道路に対して正面に見えるのだが、道路は鳥居付近で西側に折れ曲がり、境内の参道は当初は真っ直ぐ進むが、すぐに突き当たりとなり、そこを左方向に曲がる。
すると正面に二の鳥居、そこから続く高台の頂に社殿が鎮座する特異な配置となっている。
 後日確認するとこの社殿は西向きとなっている。元荒川方向に向いているか、それともある地域に対して身構えているのだろうか。
               
                     左方向に曲がる参道付近にある案内板
 八幡神社 御由緒 鴻巣市安養寺一二六
 □御縁起(歴史)
 安養寺の地名はかつて当地にあった寺の名に由来するという。神奈川県立金沢文庫蔵の「求聞持秘口決」の奥書には、天福二年(一二三四)二月十二日「武州忍保安養寺」で書写したとある。
『埼玉県伝説集成』によれば、安養寺の八幡様と市ノ縄の八幡様とは元荒川と挟んで東西に祀られていて、昔この両八幡様が互いに争った。安養寺の八幡様は白旗を押し立てて攻めたのに対し、市ノ縄の八幡様は大松の枝を振りかざして立ち向かい、荒川を挟んで激戦が展開されたが、安養寺の八幡様は、市ノ縄の八幡様の大松の葉で目を刺されて負傷し、ついに敗れた。それからは、安養寺の八幡様は松の木を恨み、かつ恐れて、境内には松の木を植えなかった。一方、市ノ縄の八幡様には松の木が亭々とそびえ茂った。安養寺の八幡様の前の田を「白幡田圃」と呼ぶのは、この戦いにちなんでいると伝えられている。
 当社の創建年代は明らかでないが、社蔵の『神社財産登録台帳』には「木像壱躰 奉竒進八幡御尊躰元禄十丁丑年(一六九七)十一月廾八日」との記載が見える。また『風土記稿』安養寺村の項には「八幡社 村の鎮守なり、良覚院持」とある。別当の良覚院は愛宕山と号する本山派修験で、開山の仲海が寛永六年(一六二九)に寂したという。神仏分離で廃寺となった模様で、その寺名さえも忘れられている。
 明治六年に村社となった。
 □御祭神
 ・
誉田別命 息長足姫命
                                      案内板より引用
               
                       左側に曲がると正面に二の鳥居が見えてくる。
             桜は今が満開。社には桜が良く似合う。
 
         二の鳥居             二の鳥居の先に設置されている
                         「八幡神社の算額(絵馬)」の案内板
 鴻巣市指定有形文化財(絵画) 昭和五十一年三月一日指定
 八幡神社の算額(絵馬) 
 算額とは、和算家が和算の問題と解答を木版に描き、神社仏閣に奉納したもので絵馬の一種である。
 八幡神社の算額は、大正四年に安養寺村の中村新蔵が奉納した。
 和算は、中国の影響を受けて我が国独特の高度な発達を遂げた数学である。江戸時代には関孝和らによって研究が深められ、西洋数学と遜色のない水準に達したが、応用技術と結びつかなかったために科学としての研究は深められなかった。しかし、地方人士の間で一種の知的競技として難問を出し合いその解答を算額にして公開することが流行した。算額は、当時の人たちの知的水準の高さの一端を窺い知る貴重な資料でもある。 参考:大正四年(一九一五)
                                      案内板より引用
               
                            古墳墳頂に鎮座する社殿
 〇八幡神社古墳(はちまんじんじゃこふん)
 ・所在地 鴻巣市安養寺126 八幡神社
 ・墳形 円墳。 東西45 南北23 高さ2.3m。
 ・埋葬主体部および周濠 未調査
 ・築造年代 6世紀初頭  出土品 
形象埴輪片、土師器、付近から鶏形埴輪

 45mの円墳と推定されているが、この数値が正しいとすれば県内の円墳としては上位20位以内に入る規模であり、鴻巣市明用地域にある明用三島神社古墳(前方後円墳・50m程)とやや同程度となる。
 荒川は「暴れ川」のごとく常に乱流を繰り返すため、古墳建造当時の流域等推し量ることは難しいが、現在の地形から推測しても、この古墳の埋葬者も元荒川水運を活用して蓄えた権力者だったのではなかろうか。
               
                                     拝 殿
 社自体かなり老朽化が進んでいるのだろうか。所々に「筋交い」で補強されている。この「筋交い」とは、柱と柱の間に斜めに入れて建築物や足場の構造を補強する部材である。構造体の耐震性を強める効果があり、地震や暴風などの水平力を受けたときに平行四辺形にひしゃげるように変形してしまう。そこで、対角線状に筋交いを加えて三角形の構造を作り、変形を防止する効果がある。

 ところで案内板には「安養寺の八幡様と市ノ縄の八幡様とは元荒川を挟んで東西に祀られていて、やはり嘗てこの両八幡様が互いに争った。安養寺の八幡様は白幡を押し立てて攻めたのに対し、市ノ縄の八幡様は大松の枝を振りかざして立ち向かい、荒川を挟んで激戦が展開されたが、安養寺の八幡様は、市ノ縄の八幡様の大松の葉で目を刺されて負傷し、ついに破れた。それからは、安養寺の八幡様は松の木を恨み、かつ恐れて、境内には松の木を植えなかった」と記載されている。
 不思議なことに、その
伝説と全く同じ内容の事が、熊谷市にも伝わっている。
 熊谷市旧妻沼町の聖天様は伝承・伝説では松嫌いで有名な寺院だ。その昔、聖天様は松の葉で目をつつかれたとか、松葉の燻しにあったという理由で、とても毛嫌いしている。ゆえに、妻沼十二郷の人たちは松を忌んでいるという。正月に門松を立てることはないし、松の木を植えない家もある。現在では伝承自体以前程でないにしろ聖天様の松嫌いは、その集落に住むほとんどの人が知っているだろう。
 妻沼の聖天様は、松平伊豆守と知恵比べをして負けたことから松嫌いになったともいい、または群馬県太田市の呑龍様との喧嘩中に、聖天様は松葉で目をつつかれたという。
                
                 古墳墳頂付近からの風景

 安養寺八幡神社の社殿は「西向き」と書いた。元荒川方向に向いていると言えそうだが、この社殿の方向を元荒川を延長すると、丁度「市ノ縄」地域となる。


 人々から厚く信仰される神仏でも、不思議と人間くさい一面が伝承・伝説では語られている。呑龍様を詣でたあとに聖天様へ行っても、ご利益はないとまことしやかに信じられているところをみても、慈悲深い仏とはいえ、喧嘩をすることもあるかと感慨深いエピソードであるが、この伝承・伝説にはもっと深い何かが隠されているようにも見える。勝手な推測ではあるが。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
Wikipedia」「国際日本文化研究センターHP」 
    「境内案内板」等

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上古寺氷川神社

 古寺という地域名は「埼玉の神社」によると嘗て文字通り古い寺があったことから地名となったと伝えられたという。明治十九年の地誌の下調書によると、聖武天皇の天平年間(七二九-四九)に各地に国分寺・国分尼寺が建立されたが、それ以前に当地の中央に既に大講堂という大きな堂宇があり、大宝年中(七〇一-〇四)に大和国葛城の行者、役小角が関東に下向し、その近傍を遊歴したという。
 後に小角が都幾山に移り慈光寺を建立し、その住職であった慈薫和尚がしばらく大講堂の住僧となっていた関係で、慈光寺の所管となる。貞観二年(八六〇)二月に左大臣清原晏世卿為公が勅使として郡司宣下の折、慈光寺の寺領・境界を定めた際に、この地には慈光寺以前に古い寺(大講堂)があったので古寺村と名付けたとされる。そして正慶二年(一三三三)に守邦親王が来寓して、その古い寺が東の王の意から東王寺となった。
 
しかしその後数度の火災により焼失したため、『風土記稿』上古寺の項には「氷川社 村の鎮守なり、村民持」と記され、既に別当寺は無くなっていた。
               
              
・所在地 埼玉県比企郡小川町上古寺566
              ・ご祭神 健速須佐之男命 竒稲田姫命 大那牟遅命(大己貴命)
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 10月第3日曜日  例大祭 

 埼玉県道273号西平小川線沿いにある「埼玉県指定 古寺鍾乳洞入口」の碑を更に1㎞程南下すると、上古寺氷川神社の標柱が見える。やや目立たない所に立っているため、見逃す可能性は多い。その後右折し舗装されていない、また道幅の狭い砂利道を進行する。
        
          「
古寺鍾乳洞入口」の碑のすぐ南側にある二十二夜待供養塔等の石造物

 埼玉県道273号西平小川線沿いにある「埼玉県指定 古寺鍾乳洞入口」の碑がある場所のすぐ南側は、嘗ての下古寺村と上古寺村の境界地であり、二十二夜待供養塔などの石造物も並んでいる。二十二夜待供養塔並びに立っている石碑の中央部には「南無阿弥陀仏」と刻まれていて、その上には阿弥陀如来の梵字「キリーク」と刻印されている。更に左右には「右 おがわ・左 ちちぶ」と刻まれている。嘗てこの地域に小川町方面と分岐して、天満神社から矢岸橋を渡って腰越村に続き、最終的に秩父方向に行く道が存在していたようだ。
            
                 県道沿いにある社の標柱
          
 舗装されていない砂利道を進むとほぼ正面に社の社号標柱が見える場所に到着する(写真左・右)。但し専用の駐車スペースは進行中見当たらず、途中路肩に停めてから徒歩にて目的地まで進む。鎮座地は上古寺の中央に位置していることもあり、古くから地内の人々の心の拠り所となってきたようだ。
 
 進行方向正面に小高くこんもりと茂る杜の入口がすぐに目につく(写真左)。杉・檜・椎の古木に包まれる中、長い参道を歩くと荘厳な雰囲気が漂い、いかにも神域にふさわしい景観を呈している。参道当初は石段があり、緩い上り斜面をスムーズに登る(同右)。
               
 石段が途中で終了し、木製の両部鳥居が見えてくる辺りから参道の様相は一変し、木の根が幾重にも参道を横切るように路面上を覆っていて、この参道は境内まで続く。
 かなり歩きづらいが、
幸いなことにこの木の根は階段代わりになっている。
               
                       参道の様子。最後まで木の根の階段を登る。

 斜面上、またか丘陵地や山の頂上部に鎮座する社は、現在綺麗な石段を積み重ねて参拝出来ているが、一昔前はどの社もこのような所が多かったのではなかろうか。自然と一体感となるこの心持が逆に心地よく、また社への純粋な信仰心へと導いてくれるようだ。
               
 木の根で構成されている階段を上っている途中、山頂の境内の若干下部・左側に「氷川神社のエンエンワ 中道廻りの順路」案内板が立っている。
                     
              境内前には一対の石灯篭が立ち、その右側には杉の大木が聳え立つ。
                 その先に境内が広がる。
 
      境内正面から拝殿を撮影。      境内にある『氷川神社のエンエンワ』案内板
  社殿が西を向いている珍しい神社である。 

 上古寺のエンエンワ 大字上古寺 [平成13823 町指定無形文化財]
 氷川神社は、役小角(役行者)が小祠を建立し武蔵一宮氷川大神の分霊を勧請したことに始まると伝えられている。御神体は木造神像で、製作時期は室町時代末期を下らない。また、境内からは中世の古瓦が出土し境内の姥神社の御神体は鬼瓦であることから、中世には瓦葺の社殿が建立されていたと考えられる。
「オクンチ」といわれる当社の秋祭りでは、「中道廻り」という珍しい行事が行われる。先達が全国60余州の一宮の神々を唱えると氏子が「エンエンワー」と大声で唱和し、供物を空高く投げて宮地に供えながら「中道」と呼ばれる唱道を一周する。八百万神を対象とした特徴的な神事であり、この祭りを「エンワンワ(因縁和)」とも呼んでいる。
 また、この地域を開発したとされる草分けの18戸の氏神を祀ったと考えられる御末社に、アオキの葉に粳米から作った「シトギ」と赤飯、洗米・塩を入れた小皿、茅の箸を台付きの盆にのせ、地区の子どもが献膳する。「シトギ」などのお供えの形態、装束や名称なども古い様式を踏襲しており、地区全体でその伝統を保持し伝承するなど、地域に密着した無形民俗文化財として大変貴重である。
                                      案内板より引用

               
                                 拝 殿

 氷川神社(上古寺五六六)
 因縁和の神事で有名な上古寺の氷川神社は、社記の『因縁和神事覚』によれば、斉明天皇の五年(六五九)九月十九日、役行者部(役小角)が関東に下向して廻遊していた際、この地の村人の敬神宗祖の念厚きに感じ、かつまたその景観をめで、霊感を得て地域中央の宮の森に小耐を建立すると共に、武蔵一宮氷川大神の分霊を勧請して手づから神像を木彫してこれを安置し、当地の繁栄鎮護を祈念したことに始まると伝えられる。この故を以て、氏子の間では毎年九月十九日に例大祭が斎行されてきた。
 社殿に武蔵一宮氷川神社の宮司岩井宅幸筆の「氷川神社別御魂」という扁額が幕末に掲げられたのも、こうした創立の経緯によるもので、役行者が彫ったと伝えられる神像は、氷川神社の神体として今も本殿内に大切に祀るられている。ちなみに、社の近くの金嶽川には屏風ケ岩という滝があり、そこで役行者が斎戒休浴したといわれてきたが、慶応年間(一八六五~六八) の洪水によって大石が崩れ込んで浅瀬になってしまっており、往時の面影はない。
 氷川神社で行われてきた特殊な祈願としては、養蚕倍成祈願と子供の癇封じがある。養蚕倍成祈願は、繭五~七個に糸を通し、拝殿の格子のところにつるすもので、養蚕が盛んに行われていた昭和三十年ごろまでは秋になるとよく上がっていた。癇封じは、竹を切って作った筒を二本つなぎ、これに酒を入れて供え、祈願するもので、昔は時折見かけたが、近年では絶えてしまった。
境内には、役行者が当地に寓居した時の手作りの面を祀る姥神神社、村の悪疫を被う八坂神社、火防の神として祀る天手長男神社、雨乞いや雷除けに御利益のある雷電神社、豊作や子孫繁栄をもたらしてくれる稲荷神杜などが祀られている。この稲荷神社は、白蟻除けの信仰もあり、神前の白狐像一対を借りて帰り、家の大黒様の横に祀っておくと白蟻が家に上がらないとの信仰がある。
 また、本殿の裏側には「御末社」と呼ばれる一八の祠が祀られている。この「御末社」は、氷川神社の創建当時、この地域を開発したとされる草分けの一八戸の氏神を祀ったもので、寺院でいう位牌堂のような印象を受ける。なお、秋の例大祭に行われる因縁和の神事では、全国七十余州の一宮への奉献に先だち、この「御末社」に対して献膳を行うのが習いとなっている。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
 
  拝殿に掲げてある「氷川大明神」の扁額     拝殿手前で左側にある『代々椎』の切り株

 境内には境内社が鎮座する。
   
 拝殿左側には『稲荷社・天手長男社・姥神社』        『御嶽大神』
 
   『御嶽大神』の奥には『境内三社』         拝殿右奥には『雷電社』
               
                 拝殿右側には社務所があり、その隣に八坂社が鎮座する。
      

参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」等  
                       

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下古寺天満天神社

 天満天神社が鎮座する下古寺という地域名は、元は「古寺」であり、その後「上古寺」「下古寺」と分かれた。この「古寺」という地域名も赴きある名前である。
「埼玉の神社」によれば、「比企郡古寺梅松院記」(『埼玉叢書』所収)には、竜王寺と当社の創建について次のように記されている。その昔、役小角が武蔵国を訪れた時、都幾山を開いたものの山中に水が一滴もなかったため、岩窟に籠もって水神にこの由を祈ったところ、八大竜王が現れて小角に五か所の霊水を賜った。そこで、小角は竜王の尊像を一刀三礼に彫刻し、岩窟の近くに竜王寺と号する一寺を建てたが、当時、この辺りには人家もなく、寺号を知る人も希であったため、ただ「都幾山の北に古寺がある」と伝えられるだけになってしまった。それが『古寺』の地域名の起こりという。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町下古寺167
             
・ご祭神 菅原道真公、八大龍王
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例大祭 1015

 増尾白山神社から埼玉県道11号熊谷小川秩父線を西方向に進み、700m程先にある「松郷峠入口」交差点を左折する。同県道273号西平小川線合流後、南方向に進路を取り槻川を越えて1.5㎞程進むと右側方向に微かに下古寺天満天神社の赤い鳥居が見えてくる。
 周囲には駐車場はない。通行に支障のない路肩に駐車する。周囲が田畑である舗装されていない道を徒歩にて鳥居方向に進む。
            
                   「古寺鍾乳洞」標柱 

 社に通じる道の入口には「埼玉県指定 古寺鍾乳洞 入口」という標柱がひっそりと建っている。「古寺鍾乳洞」は下古寺の槻川の支流で、金嶽川(かなたけがわ)左岸の山際にあり、総延長220m、高さは約 16m である。「新編武蔵風土記稿」にも「岩窟」と紹介される等江戸時代から「名所」と知られ一般開放され、埼玉県の天然記念物にも指定されてきた。とはいえ、1970年に観覧を中止して以来、閉鎖されたままで、地主によって入洞禁止の措置が取られているという。
               
                        舗装されていない農道を鳥居方向に進む。
      嘗ての日本の原風景を見ているような不思議な感覚を覚えながらの移動。
            その後土手のような場所があり、石段をのぼる。
 
             槻川の支流である金嶽川(写真左・右)
    清流で川魚が3月中旬であるにも関わらず、泳いでいるのが橋上からでも分かる。
      心が癒される一風景で、一昔前ならばどこにでもある風景だったのだろう。
               
                              下古寺天満天神社正面
 丘陵面に鎮座している社は、やはりこのアングルが一番似合う。最高の一枚が撮影できたと思う。
 
 意外と石段は急であり、手すり等もない。鳥居まで到着する(写真左)とその場は踊り場となっていて、その後更に石段が続く(同右)。社殿に通じる石段である。鳥居を過ぎると常緑樹が生い茂り、日中の参拝にも関わらずあたりはほの暗くなる。
                        
                鳥居の右側にある社号標柱
               
         石段を登ると拝殿側面に「桜林山」と書かれた扁額が見える。

『新編武蔵風土記稿』には「村の鎮守なり、別當梅松院、本山修驗、京都聖護院の末、梅林山龍王寺と號す、開山の僧を智海と云、本尊不動を安ず、智證大師の作と云、客殿の後に釋延救が千日の護摩を執行し、斷食して入定せしと云跡あり、又平村慈光寺の傳へには、此人慈光山にて入定せしといへり、猶慈光寺の條合せみるべし」と記載され、嘗て天満天神社のそばには、明治初年まで梅松院と称する本山派修験の寺院があったという。このお寺は「梅林山龍王寺」と号した。下古寺天満天神社はそのお寺が別当であり、それが扁額由来となっている。
               
                       拝 殿
        写真では右側に石段があり、登った先には削平した境内が広がる。
            拝殿は石段に対して横を向いた配置となっている。

 天満天神社(下古寺一六七)
 下古寺の天満天神社は、菅原道真公を祀ることから、学問を授け給う尊神として尊崇されており、特に入学・進学の際には天満宮に祈願礼拝すれば大願成就するといわれている。また、併せ祀られている八大龍王は、雨乞いに霊験があるとして信仰されてきた。
 この天満天神社のそばには、明治初年まで梅松院と称する本山派修験の寺院があった。今では寺は跡形もないが、寺伝の「比企郡古寺梅松院記」(『埼玉叢書」所収)によれば、梅松院は梅林山龍王寺と号し、水を得るため古寺鍾乳洞に籠って人大龍王の霊験を得た役行者が、自ら龍王の像を彫刻して祀った草庵に始まり、霊場としてしばしば行者の訪れるところとなっていたという。
 こうした行者の一人であった智海専戒という無筆の僧が、この地において天満天神から筆道を授かり、能書家となったことから、その思に報いんと一社を建立して八大龍王と共に天満天神を祀ったのが、天満天神社の創始とされる。智海はその後、松山城主上田能登守の嫡子上野介の書道の指南をするまでになり、文永五年(一二六八)二月十五日に没したと伝えられている。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
 
    境内に鎮座する境内社・八坂神社      同じく境内にある「道了大権現」の石碑


 今回の下古寺天満天神社の参拝が主で、事前に県指定文化財である「古寺鍾乳洞」を全く確認していなかったため、この鍾乳洞の場所が全く分からなかった。調べてみると鍾乳洞は神社の下側にあり、現在洞入口は鉄柵があって入れないようになっているという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」「国土地理院HP」等

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増尾白山神社


               
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町増尾32
             
・ご祭神 白山権現(菊理媛命、伊弉諾命、伊弉冉命)
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 天王様71415日 例祭101819

 上小川神社から国道254号線を西方向に進み、「相生町」交差点を直進し、埼玉県道11号熊谷小川秩父線に合流後600m程直進する。「小川消防団第二分団第一部」の小さな建物が進行方向右側に見えるので、そこを過ぎた直後のT字路を右折すると正面に増尾白山神社が見えてくる。市街地を通る為、県道から参道に曲がる道が少し分かりにくい事、また目標となる小川消防団第二分団第一部の建物も小さいので、移動時も周囲の状況を確認しながら安全に走行して頂きたい。今回ナビのありがたさを十分に思い知った次第だ。
 社の東側隣には長晶寺、その寺の南側には増尾公会堂があるので、そこの駐車スペースを利用して参拝を行った。
               
                             斜面上に鎮座する
増尾白山神社

 増尾地域は小川盆地の西南部に当たる。南北を丘陵に挟まれ、中央を槻川が流れる。当社の鎮座地である中条は、中城の意とされ、『風土記稿』増尾村の項に「古城蹟 村の東小名中条にあり、四方二町許の地にて、から堀の蹟所々に残り、又櫓の跡なりとて小高き所あり(中略)土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて、何の時代の人と云ことは伝へざれば詳ならず」と記し、城郭跡があったことを伝えている。       
            
            社号標柱       町指定天然記念物「白山神社の大カシ」
                              の標柱
               
                        鳥居を過ぎると、急な石段あり。
              石段が急で境内が狭いため、拝殿の正面写真が少し撮りづらい。
               
                     拝 殿

 白山神社(増尾三二)
 増尾の白山神社は、穴八幡古墳などのある八幡台の麓に鎮座しており、増尾の鎮守として信仰されてきた。境内には推定樹齢四〇〇年という樫の大樹があり、特に信仰や神木としての伝えはないが、昭和五十七年ごろから注連縄を張るようになった。
 社伝によれば、白山神社は大塚の大梅寺の開山である円了禅師が勧請した社で、加賀国(現石川県) の白山権現を禅家擁護の霊神として建治二年(一二七六)二月に遷座し、大梅寺の末寺で神社に隣接する増尾山長昌寺が神社の管理を行ってきたという。『新編武蔵風土記稿』には「今も大梅寺にて社務を司どれり」とあるが、白山神社は大梅寺と関わりの深い神社であることから、形式上は本山である大梅寺の管理下に置かれていたものと推測される。
 神仏分離によって、白山神社は明治三年に長昌寺と分離され、同四年に村社となった。氏子からは「白山様」の通称で親しまれており、諸願成就の御利益があるという。また、境内にある八坂神社は、元は白山神社と合殿であったが、昭和五十四年に社殿を新たに造営して別に祀るようになったもので、健康を祈願する参詣者が多い。
                                                        「小川町の歴史別編民俗編」より引用
           
            
白山神社の大カシ(小川町指定天然記念物)
             
 町指定天然記念物の大カシは、増尾地域内に鎮座する白山神社の石段の上、社殿の左手前に立っている。
 目通り5.3m、樹高約20m、推定樹齢700年のカシの大木。空洞が上部まで突き抜けていて、内部は真っ黒焦げの状態。老木でありながら樹勢は盛んであるようだ。
 小川町の天然記念物(1963312日指定)
               
                             拝殿上部の立派な彫刻
                 
                       拝殿左側に隣接している境内社・八坂神社。

 小川町大塚地域には「中城」と呼ばれる城跡がある。この中城跡は、中世の土豪猿尾(ましお)氏の居館跡(中城跡)とされていている。当地増尾は貞享4年(1687)まで「猿尾」と書き慣わしていた(新編武蔵風土記稿)とされ、中世の書には「麻師宇(ましう)」と記されていた。当地は、万葉集研究の基礎を築いたとされる仙覚律師が著した「万葉集註釈」に記載される「文永六年三月二日、於武蔵国比企北方麻師宇郷書写畢、仙覚在判」の地とされている。

〇新編武蔵風土記稿増尾村条
「古城蹟は村の東小名中条にあり、四方二町の地にて、から堀の蹟所々に残り、又櫓の跡なりとて小高き所あり。その辺今は杉の林となりたれど、城蹟のさま疑ふべくもあらず。土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて何の時代の人と云ふことは伝へざれば詳ならず」
武蔵志
比企郡青山村(小川町)、当村下村に古城・山上にあり。猿尾太郎と云人居しと云。古城下路傍に青石塔あり、康永二年十二月日の逆修と見えたり。橋供養塔青石銘に正慶二年四月二日・猿尾太郎種直有罪縛死の筵に居刻云々とあり」

 上記のように伝承では鎌倉時代の地元の豪族・猿尾太郎種直の居城跡とされ、学僧・仙覚律師がこの城で「萬葉集註釈」を文永6年(1269)に完成させたとも伝わっている。
               
                              拝殿から鳥居方向を撮影。

 但し今までの発掘等の結果では、鎌倉時代に遡る遺構・遺物は発見されておらず、現在残っている遺構は、明らかに戦国時代のもので、現在でも単郭ながら折れの有る高い二重土塁や空堀、櫓台などを見る事ができる。
 中城は、鎌倉街道山辺ノ道を見下ろす台地の先端に位置し、鎌倉街道山辺ノ道は八王子から飯能を経由して上州へと向かう古道である。そしてこの街道は戦国後期には、鉢形城大手口と滝山城、小田原城を結ぶメインルートとなった為、後北条氏にとって大変重要な道であったようだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「武蔵志」「小川町の歴史別編民俗編」「埼玉の神社」等
     
               

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上小川神社

 小川町は水の町である。当地は槻川・兜川流域の小川盆地に位置し、地内で両河川が合流する。古来、人々は槻川に対して支流の兜川を小川と呼んでいたのが地名に転化したと伝えられていて、川の成り立ちとまちの反映との親和性が非常に高い地域でもある。当地方は小川和紙で有名であるがその歴史は古く、『正倉院文書』の宝亀五年(七七四)に「武蔵国紙四百八十張」と載り、河川の利用と一帯に自生する楮を使用して、当地の産業として営まれていたと考えられる。
 小川町は嵐山町と並んで『武蔵の小京都』と謳われていて、歴史的価値のある寺社や仏閣、城跡などの名所旧跡が至るところに存在する。
 上小川神社は小川町市街地に鎮座する小さい社ではあるが、槻川の恩恵を受けて発展した『町の鎮守様』として長く町民の方々の崇拝を受けている「天王様」であり、定期的に開催された「市場の神」でもある。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町小川68
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 不明
             
・例 祭 春祭り 3月初午 例大祭(七夕祭り) 725日 
                  秋祭り 
1128
 角山八幡神社から一旦小川町市街地方向に南下し、国道254号線に合流後、小川警察署を目標に道なりに進む。その後警察著手前左側で、国道に面して「華屋与兵衛」と民家の間に上小川神社が静かに鎮座している。
 道路沿いに社号標柱が立っていて、その奥に車を駐車できそうなスペースはあるのだが、出来る限り、神聖な社の敷地内に車等の交通量の多い道路での出し入れの問題もあり、また警察著にも近いこと等慮って、近隣にあるコンビニエンスストアで買い物終了後、一時的に車は置かせていただき、社の参拝を行った。
               
                             国道254号線に面する上小川神社
           
       鳥居の前には桜が咲き始め、その奥にはご神木らしき巨木が聳え立つ。
               
                                 神明系の鳥居

「埼玉の神社」によれば、江戸幕府が開かれ寛永年間(一六二四-四四)以降、江戸が大消費都市となるに伴い、小川和紙の生産が大きく発展した。しかも、当地は江戸から秩父への往還の宿駅で、物資の集散地として毎月一・六日に市が立った。市が寛文二年(一六六二)に大塚村から移転し、同じころに東秩父村の身形神社の分霊を市神様として当社に勧請してからは、当社は商売繁昌の神として広く信仰を集めるようになった。なお、和紙は農家の副業として農閑期に営まれていたものであるため、当社は農民からの信仰も厚く、『風土記稿』は「天王社 村民持」と記している。
               
                     拝 殿

 上小川神社(小川六六)
 上小川神社は、市神すなわち小川の市の守り神として勧請された八雲神社(江戸時代には「天王社」と称した)に、大正四年九月十日に神明町の神明大神社と稲荷町の稲荷神社を合祀したことにより、社号を上小川神社と改めたものである。ちなみに、この杜号は、小川の総鎮守である下小川の八宮神社に対し、八雲神社が上手に位置することから付けられたものであるという。
 上小川神社の母体となった八雲神社の由緒については、東秩父村の身形神社の分霊を勧請して祀ったとか、大塚から小川に市が移つてきた際に、八雲大神の掛軸を市神として祀ったのが始まりであるなど諸説あるが、応永年間(一三九四-四二八)には現在の本町二丁目に石祠が建立されている。当初は往還の中央にあったこの石祠は、のちに新井屋瀬戸物店脇の道端に移して祀られていた。
 それが、大正四年に、神明大神社・稲荷神社との合併によって現在の境内に移ったのであった。現在の境内は、西光寺持ちの寺子屋があったところで、その後小川小学校の校舎が建てられていたが、同校が移転した跡地を利用して、神社の用地としたものである。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
               
                          幣殿・本殿。本殿は
土蔵造りでできている。
                 
 洪水対策であろうか、拝殿から本殿に至る下部には空洞となっていて、本殿は石を積み重ねて高くしている。「小川町 洪水ハザード」でも、この小川町中心街は
槻川と兜川の合流地点であり、町の形成にこの河川は欠かせない存在であったことは間違いないが、大きな水害が発生すると、この一帯は浸水等の被害もあったであろう。社の造り一つでもこのような歴史を架今着られるものだ。
 
  社殿左側奥にある「八意思兼命・手置帆負命・比古佐自命」と刻印された石碑(写真左)。また社殿の右側に鎮座する上小川神社境内社。三峰社だろうか(同右)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」
    「小川町 ハザードマップ」等

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