古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

表稲荷神社

 太田 資家(おおた すけいえ、? - 1522年(大永2年))は、戦国時代の武将。太田道灌の甥(異説あり)でその養子となる。息子には太田資頼がいる。父親については道灌の弟と推定されているが、太田資忠説と太田資常説があり、確証がない。
 養父が主君・上杉定正に殺害された後も扇谷上杉氏に仕え、永正の乱で敗れた成田顕泰に替わって岩槻城主になったとされる。ただし、資家の拠点は河越付近であり、岩槻城に入ったのは古河公方家臣の渋江氏や別の系統の太田氏(道灌子孫)とする説もあり、その場合資家の系統が岩槻城主となるのは次代の資頼からとする見方もある。
 養父ゆかりの武蔵国比企郡表地域に「養竹院」を建立して養父の冥福を祈っている。表稲荷神社は養竹院の鬼門除けとして奉斎され、後に表村の鎮守として祀られ、鰐口も奉納されるなど信仰を集めたという。
        
              
・所在地 埼玉県比企郡川島町表20
              
・ご祭神 稲荷神(推定)
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 不明

地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9803417,139.5001166,18z?hl=ja&entry=ttu

 牛ヶ谷戸諏訪社沿いに通る県道74号線を南下し、「山ヶ谷戸」交差点のY字路を右方向に進む。埼玉県道12号川越栗橋線合流後「ホンダエアポート」との看板のある手押し信号付き十字路を左折し、170m程進んだT字路をまた左方向に進む。住宅地が周囲を囲むその道路の突当たりに表稲荷神社がひっそりと鎮座している
        
                                    表稲荷神社正面
             杉林の社叢林に包まれてひっそりと鎮座する社。
        
        境内は決して広くはないが、日々の手入れはされているようだ。
 表村 稲荷社
 村の鎮守なり、古棟札二枚あり、一は天文廿三年二月九日とあり、一は天正十一年癸未卯月廿一日と記し、施主等の名あまた載せたり、小社といへども古き勧請なること知べし
『新編武蔵風土記稿』より引用

 稲荷神社 川島町表二〇(表字道内)

 杉林に包まれてひっそりと鎮座する当社は、社記によれば、天文十一年(一五四二)四月二十一日に下総国成田(現千葉県成田市)の住人某が、常陸国(現茨城県)筑波山麓にある某稲荷大神の分霊を持ち来り、養竹院の東北隅に祀ったことに始まるという。その後、天正十一年(一五八三)四月二十一日に、現在の境内地に移され、養竹院の鬼門除けの神として奉斎されてきた。
 更に、宝永八年(一七一一)三月三日には草葺の覆屋が造立され、次いで天保二年(一八三一)三月には拝殿が再建されるなど、次第に設備も整い、諸願成就の神として、多くの人々からも信仰されるようになっていった。『風土記稿』に、「稲荷社村の鎮守なり、古棟札二枚あり、一は天文廿三年(一五五四)二月九日とあり、一は天正十一年癸未卯月廿一日と記し、施主などの名あまた載せたり、小社といへども古き勧請なること知べし」とあるのも、そのように信仰が盛んになっていったことの表れであろう。
 神仏分離の後は、養竹院との関係はなくなったが、村社として、住民からは前にも増して厚く信仰されるようになった。しかし、社殿の老朽化が激しくなったため、昭和二十三年には境内の樹木を伐採し、拝殿と幣殿を改築した。そのため、一時は、樹木が少なく、寂しい境内になっていたが、氏子の植樹の成果が実り、杜が復興しつつある。
「埼玉の神社」より引用 

       
                     拝 殿 
 表稲荷神社の南西で直線距離にして100m程には禅宗臨済派の寺院である養竹院(ようちくいん)がある。寺伝によれば、太田道灌の甥で養子となっていた岩付城の太田資家が明応年間に養父の追福のために別の伯父である円覚寺前住職の叔悦禅懌(道灌の実弟にあたる)を開山に迎えて道灌の陣屋跡に建立したと伝えられている。また、院名は開基である資家の法名に由来するとされ、資家及びその嫡男資頼の墓も同院にある。
        

 表村 養竹院
 禅宗臨済派、鎌倉圓覺寺末、常樂山と號す、天正十九年十一月寺領の御朱印を賜ふ、其文に三保谷郷の内十石とあり、寺傳に云、當寺の境内は古へ太田備中守資長入道道灌の陣屋なり、其子信濃守資家明應の頃、父道灌追福のため、伯父叔悦禅師を開山として建立すと、禅師は天文四年(1535)七月十六日示寂す、開基資家は大永二年(1522)正月十六日卒し、法名を養竹院義芳道永と號す、今の院號は資家が謚號にとりしこと知べし、今按るに此寺傳少く誤まれるにや、信濃守資家は道灌が子にあらで姪なり、又此資家が法謚を以て院名にとれば、恐くは資家が菩提の爲に建しなるべし、今本尊薬師を本堂に安じ、傍に太田氏の位牌ををき、資清以来六人の法謚命日を記す、自得院殿實慶道眞庵主、□□□二月朔日、太田備中守資清、香月院殿春苑道灌庵主、文明十八年丙午七月二十六日、同左衛門太夫資長、養竹院殿義芳道永庵主、大永二年壬午正月十六日、同信濃守資家、壽仙院殿智樂道可庵主、天文五年丙午四月廿日、同美濃守資賴、智正院殿嶽雲道端庵主天正十九年卯月九月八日、同美濃守資正入道三樂斎、瑞瓊院殿靈顏道鷲庵主、寛永二十年癸未十一月十日、同安房守資武とあり、又寺傳に資武が時、家衰へ流浪して北越に赴き、夫より四代左兵衛資政がとき、河内國へ移り、今彼國に子孫ありと云
                                                              『新編武蔵風土記稿』より引用


 ただし、近年の研究では、太田資家を祖とする「岩付太田氏」が岩付城を本拠としたのは、資家没後の大永
4年(1524年)の事と考えられており、養竹院周辺が資家時代から資頼時代初期(岩付城攻略まで)の同氏の拠点であった可能性が高いと考えられている。

 岩付太田氏の没落後の、天正19年(1591年)に徳川家康から朱印地10石が与えられ、孫の徳川家光は寛永年間に鷹狩の際に養竹院に立ち寄って朱印地10石と境内地として1万坪を与えたとされている。開山を描いた「叔悦禅師頂相」は埼玉県の重要文化財となっている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
        
     

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牛ヶ谷戸諏訪社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町牛ヶ谷戸669
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 新年祭 327日 八坂様 713日 例祭 827日
                  新嘗祭 1127
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.987028,139.498083,17z?hl=ja&entry=ttu

 三保谷宿氷川神社から埼玉県道
74号日高川島線に戻り、首都圏中央連絡自動車道の高架橋下を南下、500m程進むとY字路となり、その三角形沿いに牛ヶ谷戸諏訪社は鎮座していて、「山ケ谷戸」交差点のすぐ北側にあるので比較的分かりやすい。社は南向きで、Y字路の先に鳥居が立っていて、鳥居の南側には若干の駐車スペースがあり、そこの一角に停めてから参拝を行う。 
        
                   牛ヶ谷戸諏訪社正面
            
                    社号標柱
 通常「牛ヶ谷戸」は「うしがやと」と読むが、別名「うしがいと」とも呼ぶ。嘗て足立郡側海斗村字牛飼・並木村字牛飼(大宮市)及び円阿弥村字牛飼(与野市)の一帯は古の牛ヶ谷と書いて「うしがい」と呼ばれていた。また入間郡宗岡村には小字に牛ヶ谷戸が存在して「ウシガイト」と註している。
 三保谷宿氷川神社同様に「谷」と名の付いた地域名であり、地形を確認すると、都幾川・越辺川・市野川・荒川の四河川によって作られた低平な沖積地域に属するこの牛ヶ谷戸地域は、水害に悩まされることも多かったが、水田を作るには適していた。
 現代を生きる我々の常識では、「谷(や・やつ)」の概念が強く響いてしまい、山間にはさまれた狭い谷(たに)間と単純に考えてしまうが、本来の意味は、居住にも耕作にも便利のところ、即ち人は一方の岡の麓に住み、間近く、田にもなり要害にもなるような水湿の地を控えた理想的な場所であり、人々はこの地に「谷」と名づけたのではなかろうか。
        
                境内に設置されている案内板
 御由緒
 御祭神  建御名方命
 古文書に初代の神主は、天文十三年(四四二年前)禰宜馬場帯刀とある。氏子中の馬場家先祖が、信濃国御本社より御分霊を勧請し、建立したと伝えられ、其の後、寛永十三年七月(三四〇年前)当地生れ、鈴木三右エ門立願して、社殿を造営されたと当時の棟札に明記されている。
 明治初年、神仏分離に当り、諏訪大明神は諏訪大神社と改称し、現在の諏訪社となった。
 明治三十年九月、大暴風雨に、社殿後方の御神木が倒れ、同時に社殿も大破したので、三二〇万円の経費を以って、倒された大杉一本で改築された。
 昭和五十年十一月、御本殿大改修を、経費七五万余円を投じて完工し、現在に至る。
 八坂社
 大正元年十二月に、牛ヶ谷戸字天王の地に鎮座せるを移転して、境内社と改めた。
 天神社
 古来より境内社として祀られている。(以下略*句読点は筆者追加筆)
                                      案内板より引用
        
                                        拝 殿 
 諏訪社 川島町牛ヶ谷戸二二三(牛ヶ谷戸字本村前)
 都幾川・越辺川・市野川・荒川の四河川によって作られた低平な沖積地は、水害に悩まされることも多かったが、水田を作るには適していた。そうして開かれたのが八ツ林郷と呼ばれる地域で、当社が鎮座する牛ヶ谷戸は、その中の一村として開発され、永禄年間(一五五八-七〇)には北条氏秀の所領として検地を受けている。
 創建については、後鳥羽天皇の御代(一一八三-九八) に足立郡から当地に移り住み、開拓を行った数家が式内社氷川大神の分霊を奉祀し、のち永正十二年(一五一五)に当地の矢部伊賀一族が再興したとする説、正応年間(一二八八-九三)に相州(現神奈川県)三浦郡矢部村から当地にやって来て帰農した太田資時が五穀成就を祈ってその産土神である氷川大神を祀ったことに始まるとする説などがある。ちなみに、江戸時代には当社の別当であった大福寺の東側と西側にある二軒の矢部家は、古くから当社の祭祀にかかわりが深く、神仏分離の後は行詮・覚太郎・周矩の三代にわたって当社の神職も務めた。
 当社には棟札が数枚残っているが、その中で最も古いものが永正十二年四月に本殿を造営した時のもので、表には「復興玉殿本地拾面観音垂迹氷川大明神」とある。その後、慶長三年(一五九八)九月に再度造営され、更に安政三年(一八五六)十二月に造営されたのが現在の本殿である。また昭和三年には御大典を記念して覆屋も造られた。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」「境内案内板」には諏訪社創建に「馬場家」及び「矢部家」が関わっていたという。馬場家・矢部家に関して「比企郡神社誌」には以下の記述がある。
〇比企郡神社誌
・馬場家

大字牛ヶ谷戸諏訪社由緒。氏子中の馬場家の先祖信濃国より氏神として祀る。古文書に初代の神主は天文十三年禰宜馬場帯刀とあるを見れば、其頃の御分霊を悟る事も出来る」
・矢部家

「大字平沼氷川神社由緒。後鳥羽天皇の頃、足立郡より当地に来住開拓せるもの数家あり、氷川大神を勧請す。永正十二年に至り宮祠の腐朽したるを恐れて矢部伊賀一族主宰となり再興す。慶長三年、名主矢部七郎兵衛・同与七郎、主任となり本社を改築す。寛永十九年、名主矢部七郎右衛門・同三郎右衛門・外氏子一同にて改造す。明治十六年、村長矢部杢太郎主導者となり拝殿及び玉垣を建造す」
        
                   境内社・八坂社
       拝殿の左隣に鎮座していて、近代補修の為か、拝殿より見た目立派に見える。
 
      八坂社の隣にある石碑         拝殿右隣に鎮座する境内社・天神社
        
                     本 殿

 最後に「牛ヶ谷戸」という一見変わった地名について考えてみた。日本全国には様々な地名があるが、一説には7万種類もあるとも言われている。地名の命名経緯については、原始・縄文の頃の言葉、アイヌ語に起因するものや、自然災害、地形の形状、動・植物等に起因するものや、全くの人造語など様々である。その中でも自然災害や地形の形状から付けられた「地名」は、ある意味、自然災害への戒め、警告、メッセージであり、これも石碑等と同様に、偉大な「先人の教え」とも言えよう。
 残念なことに、中には、既にその命名の経緯が忘れ去られているものも数多くある。また、地名は時を経るにつれ少しずつ変わっていく場合があり、古く忌み嫌われた名前から新しく現代的な名前に変わったりする場合や統廃合などの行政的理由による場合等もそれに当てはまる事例であろう。
『地名』に込められたメッセージは使用されている「文字」そのものではなく、その「読み」に本来の意味がある場合があることで、全く別の漢字が当てられている場合があるという。

 まず「牛」という「文字」で最初に思いつくのは家畜としての「牛」であろう。この家畜としての「牛」は、牛の起源は,200万年前にインド周辺で進化したと考えられる、今では絶滅した野牛の「オーロックス」が家畜用に改良されたものとの説が有力されていて、3世紀以降に朝鮮半島から日本へ輸入されたという。「牛」の名前由来は,色々な説があり、新井白石が著した日本語の辞書である『東雅』と言う本には,韓国語の方言で牛のことを「う」と言っているので,この「う」が日本にも伝わって「うし」になったと書かれている。また『日本名言集』では,牛は「うしし」と言っていたものが,「うし」になったと説明している。その理由として牛は,農耕などの使役のとき牛を鞭で打ちながら労働させたので「打ち使う獣」と言う意味で「うし」になったと解釈されているようだ。
        
                   境内の一風景

 対して「読み」としてのウシは「憂し」という古代語の意味を持っていて、不安定な土地を表し、過去の地すべり崩壊地や洪水の氾濫地、津波の常襲地域に名付けられた場合があるという。
 地域自治体ではハザードマップを作成・配布して、地域住民にその地域の様々な自然災害の危険を注意喚起してくれるが、そのうえで、自ら「先人の教え」でもある古い地名を調査して知っておくことは危機管理上更に有効であろう。ご家族で、近所を歩いて古い神社仏閣を探してその由緒などを調べてまわるとか、図書館で地域に関わる古文書を紐解くとか、土地の長老の方々に昔話を聴いてみるなどすれば、意外と地域の「古い地名」が得られるかもしれない。

 偉大なる祖先の方々は、嘗て自分たちに起こった災害の記憶を、「地名」や「言い伝え」として残してくれた。現代を生きる我々は、このことを十分に理解・感謝し、今後必ず起こりえるであろう「災害」から身を守る手立てを導き出さねばならないと今回の参拝で強く感じた次第だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「東雅(国立国会図書館デジタルコレクション)」「比企郡神社誌」
    「政府広報オンライン『防災』」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等

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三保谷宿氷川神社


        
            
・所在地 埼玉県比企郡川島町三保谷宿572
            
・御祭神 素戔嗚尊
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 祈年祭 224日 例祭 410日 神興渡御式 715
                 
新嘗祭 1130
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9913326,139.4964761,17z?hl=ja&entry=ttu

 両園部氷川神社から日高川島線を東方向に5㎞程進む。首都圏中央連絡自動車道の陸橋が前方に見える右カーブ付近の十字路を左折するとすぐ左側に氷川神社の社号標柱が立っていて、そこから北側に舗装された参道が延びているのが分かる。参道を200m進むと北側正面に「三保谷宿集落センター」とその並びに三保谷宿氷川神社の鳥居が見えてくる。
 鳥居の南側で、道路となっている参道右側には小さいながら児童遊具のある公園があり、その並びには駐車が数台可能なスペースも確保されており、そこに停めてから参拝を開始した。
        
          鳥居から200m南側に立つ三保谷宿氷川神社の謝号標柱
 この三保谷宿地域は荒川と市野川が合流する地点の南側に位置していて、辺り一面に水田を中心に低地が広がっている。「谷」と名の付いた地名が周辺多いが、これは低湿地だったことに由来すると考えられる。その河川の氾濫等で形成された自然堤防上に社は鎮座している。
        
                               三保谷宿氷川神社鳥居正面
 三保谷宿は嘗て「ミオノヤ」と云い、比企郡三保谷宿はミオノヤと号していた。時には「三尾谷」「三尾乃野」「水尾谷」「丹生屋」「美尾屋」とも記すこともあるようだ。江戸時代には三保谷宿村及び山ヶ谷戸・吉原・牛ヶ谷戸・紫竹・表・上新堀・下新堀・宮前の九ヶ村は三保谷郷を唱えていて、現在は「ミホヤ」と読まれている。
        
                           広大な境内、静かな空間が辺りを包む。
 この三保谷郷より出た一派に三尾谷氏がいて、この地は室町期から戦国期に見える三保谷郷の本郷の地といわれている。『平家物語』寿永四年(一一八五)二月十八日の屋島合戦に見える美尾屋十郎広徳の本拠地で、美尾屋氏の居館は現在三保谷宿の南側にある大字表にあり、社の南方1㎞周辺にある広徳寺が菩提所であるという。

〇比企郡表村 廣徳寺
 大御山西福院と號す、新義眞言宗、二十六ヶ寺の本山にて、江戸大塚護持院の末山也、古は三河國誕生院の末なりしが、元禄の頃今の如く本山をかへしと云、天正十九年寺領五石の御朱印を賜へり、相傳ふ當山は水尾谷四郎廣徳が開基なりと、廣徳が法謚を勇鋒殘夢居士と號す、開山の僧名を傳へず、中興開山宥範應永六年寂す、本尊五大明王弘法大師の作也、
 大御堂。此堂は大同年中造立せし所なりと云、されば水尾谷が、當山を開きし前より、道場はありしと見ゆ、然れども密宗の祖弘法大師大同中の人なるを以て末流の寺院やゝもすれば大同と稱するは常なり、とかく古き堂なることは疑ふべからず、大御堂と云こといづれ故あるべし、本尊三尊の彌陀定朝の作なりと云、ときはこれも大同より遥の後のものなるべし、
水尾谷四郎墓
大御堂の背後に高一丈、はゝり十間程の塚あり、石塔などもなし、是源平戰争のとき源氏に屬して、惡七兵衛景清と勇を争ひし、水尾谷四郎が墓なりと云、此人著名にて犬うつ童もしれど、【平家物語】に武蔵國の十人水尾谷十郎。同四郎と並べ記して、此事實は十郎がことゝなせり、されば寺傳は全く俗説に從ひたるものと見ゆれど、その誤りしも古きことにや、謡曲八嶋の内に、水尾谷四郎が景清とかけ合たる由見えたり、又【東鑑】文治五年七月奥州征伐の供奉の列に、十郎が名は載たれど、その他の事實を記さざれば、とかく考るに由なし、羅山詩集に、水尾谷四郎舊跡の詩あり、題下云、此處有小祠、世傳水尾野谷四郎舊跡也、其詩に云、刀劔忽摧心欲迷、此人力與景清斎、一頸一腕角相觸、兩箇闘牛元是泥、又土人の説に、いつの頃か塚中より古鏡・古鈴等を得しとて、今寺二収む鏡は圓徑四寸四分裏面に鳳凰の形に似たる模様あり、別に文字もなければ、年代考ふべきことなけれど、古物なることは論なし、古鈴は満面錆やつれて、緑色塗抹せしごとし數すべて五あり、その形上の如し(以下略)
                               「
新編武蔵風土記稿」より引用
        
                     拝 殿
三尾谷氏は平家物語や吾妻鑑において以下の記述がある。
【平家物語】 屋島の戦い
判官義経、あれ馬乗りの上手な若党ども、はせ寄せてけちらせと宣へば、武蔵国の住人みをの屋の四郎・同藤七・同十郎、上野国の住人丹生四郎、信濃国の住人木曽の中次、五騎つれてをめいてかく。楯のかげより漆塗の矢竹に黒ぼろの羽をつけて作った大きな矢をもって、まっさきにすすんだる、みをの屋の十郎が馬の左のむながいづくしを、ひやうづばと射て、筈のかくるるほどぞ射こうだる」
【吾妻鑑 巻五】  
「文治元年十月十七日、関東の厳命により、水尾谷十郎以下六十余騎は、義経を六条室町亭に襲ふ」
【同書 巻六】
文治二年六月十八日、水尾谷藤七は、使節として上洛す」この巻にはミオノヤと註している。
【同書 巻九】
文治五年七月十九日、頼朝奥州進発随兵に、三尾谷十郎」
【同書 巻十】
建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に三尾谷十郎」
【同書 巻十六】
「正治二年十二月二十七日、官軍、帝命に背く柏原弥三郎が住所近江国柏原庄に発向するの刻、三尾谷十郎は件の居所の後面の山を襲うの間、賊徒逐電す」

 廣徳寺の縁起には「當寺は平城天皇の御代大同年間の創立にして鎌倉時代に至り漸く衰毀の傾向を来した頃當郷を食邑した頼朝の驍将美尾屋十郎廣徳の菩提所なるを以って夫人二位の尼公が主となり大御堂及び本堂、坊舎の数棟を再建せられ廣徳寺と稱して、廣徳の冥福を祈った」と記されており、源頼朝に仕えていた美尾谷十郎廣徳の菩提を弔うために、女将軍である北條政子が廣徳寺の大御堂・本堂など坊舎を再建し、寺名も美尾屋十郎の「廣徳」と名付けたという。頼朝のみならず北條政子にもお気に入りの家臣だったことがこの一文にも分かるであろう。
       
                    境内に設置されている「氷川神社幣拝殿改築記念碑」
「氷川神社幣拝殿改築記念碑」 御由緒
 当社の創建年代は、不詳であるが、武蔵国一宮氷川神社より御分霊を奉祀したと伝えられている。
 社伝によると、元禄十年九月に社殿を再建し、内陣に金幣を納めた。その後、宝暦十年十二月、御神体に彩色を施し、安永五年七月、本殿を改築、さらに、弘化四年十一月拝殿と覆屋を再建し、御神体に彩色を施したとある。
その後、昭和三十三年、火災に遭い、本殿、幣殿、拝殿を焼失したが、翌三十四年に再建している。
 しかし、幣殿、拝殿は仮復旧だったため、腐朽が甚だしく、遠からず改築をと、氏子の崇神の念厚く一同で決議し平成五年から資金の積み立てを開始し、九年に着手、完成したものである。
        
                     本 殿
 ところで、廣徳寺内にある御影堂の境内案内板によれば、「仰々鈴木家トハ源義経ノ重臣鈴木三郎重家ガ主・義経ガ兄頼朝トノ仲ガ不和トナリ奥州平泉ヘ逃レシタメ義経追慕ノタメ熊野ヲイデテ田木ノ吉田(現東松山市)ニ至リシニ大雨ノタメ河川氾濫シ川ヲ渡ルコトガデキズコノ地ニ逗留シ一子ヲ儲シガモトヨリ死ヲ期シテノ奥州ヘノ旅路ニツキ子供ヲ連テ出立デキズ重家困惑シ友人デアル美尾谷(屋)十郎廣徳ト語イテ廣徳ニハ子ガナク其ノ子ヲ哀レニ思ヒ養子トナシ美尾谷ノ姓ヲ継ガシメタト傳ヘラレル然シ乍ラ其ノ子孫ハ三代マデ美尾谷ノ姓ヲ継承セシガ元来鈴木氏ノ子孫デアルノデ四代目ヨリ元ノ鈴木ノ姓ニ改メッタトイウ、これにより廣徳寺の大檀那美尾谷(屋)の姓はきえ鈴木氏の姓が現存する」と記されていて、ここでは「美尾谷」姓が4代目には「鈴木」姓に代わる理由を物語風に描いているが、事の真相は寧ろ逆で、「鈴木」姓の集団が三保谷宿地域に移住後「美尾谷(三保谷)」となり、その後本来の苗字に戻した、と考えた方が自然と考える。源義経の臣鈴木三郎重家の血統逸話は後に付け足したものではなかろうか。 
        
                    拝殿手前で左側には合祀社、及び浅間塚が鎮座する。
        
                                     合祀社
      左側より熊野神社・稲荷神社・愛宕神社・天神社・八幡神社・三峰神社
        
                                  浅間塚
石段手前の両脇には「力石」が設置されている。浅間塚は正式名「富士浅間塚古墳」といい、15mの円墳。墳頂には『富士浅間神社』の石碑が建立されている。
 
 
        力石(案内板より)         御祭神・木花咲耶姫命(案内板より)
 この石は、「力石」と言って、昔、力自慢の若   この浅間様は、「初山」の名で親しまれ「子
者がこれを担いで御本殿の回りを一周した者が、 育ての神」
としての信仰が篤く、この山に登
姓名を刻んで社前に奉納したものと言われます。 り参拝することにより富士山に登山したのと
                       
同じになると言われております。
初山のお子様が健康に育つように、この力石に  
手を触れて下さい。              
「初山」とは、新生児の健やかな成長を祈る
                       もので、神社では両親に抱かれて参拝したお
                       子様の額(ひたい)に朱印を押して無事な育
                       成をお祈りしています。
        
 境内から南東方向遠方には「首都圏中央連絡自動車道」が見え、大小の車両が忙しく移動している。自動車道と社の境内に空の風景が相まって、この微妙なコントラストであるにも関わらず、そこにある種「美しさ」を感じてしまう。この全てを包みこむ包容力こそ「日本」らしさなのかもしれない。
 現実での自動車道等の喧騒が目の前に見えるこの地において、この社は、そして神様方はどのような思いはせているのだろうか。


参考資料「平家物語」「吾妻鑑」「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」
    「境内案内板(三保谷宿氷川神社・廣徳寺)」等


 


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岩松八幡宮

 源 義国(みなもと よしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将で、源義家の三男。新田・足利両氏の祖であり、足利尊氏と新田義貞は遠孫に当たる。母は藤原有綱の娘だが、母親の家系は学者として朝廷に仕えた中級貴族であり、従って、生まれたのは京都であるが、いつの頃からか東国に下向したらしい。源頼信-源頼義-源義家と伝領した摂関家領上野国八幡荘を相続した。但し長兄義宗が早世し、次兄義親が西国で反乱を起こすと、三兄の義忠と共に次期「源氏の棟梁」としての期待を受けた。しかし、久安6(1150),参内する途中で藤原実能と争い恥辱を受けたとして義国の郎従が実能邸を焼き払った事件により、勅勘をこうむり,下野国(栃木県)足利に下る。当然義家からは後継者から外されていった。
 その後叔父義光との抗争(常陸合戦)には敗れ、常陸国は従子でもある佐竹氏の初代当主である佐竹昌義(義光の孫)に譲ることになったが、足利荘を成立させるなど、上野国の隣国である下野国にも着実に勢力を築いていった。晩年にも勅勘を被るなど、気性の荒さは改まらず、「荒加賀入道」と言われた。
 ところで義国は犬間郷(現在の尾島町岩松)に館を構え、そのとき鬼門よけとして伏見稲荷の分霊を祭ったのが、冠稲荷なのだそうだ。後に仁安年中(1166-1169)新田義重が京都大番のおり山城国男山より小松を持ち帰り、この地に植えて岩清水八幡を勧請し岩松八幡宮と称した。以来犬間(猪沼)郷を岩松郷に改めたという。八幡宮は源氏の守護神として崇敬され、新田の庄各地に分霊が奉祀された。岩松八幡宮が新田の総鎮守といわれるようになったのは、世良田長楽寺の住僧松陰西堂の「松陰私語」に金山城主岩松尚純の一子夜叉王丸が七歳の時当家代々の慣例により八幡宮において元服し、昌純と名乗ったとの記述もみられるところから、南北朝以来新田の庄の実権が岩松氏に移ったことによると考えられる。
        
             
・所在地 群馬県太田市岩松町2511
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧郷社 新田総鎮守
             
・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2529731,139.3322813,17z?hl=ja&entry=ttu

 堀口賀茂神社から直線距離で800m程北東方向先に鎮座する岩松八幡宮。西側には「いぬま公園」が隣接しているが、その公園以外は田畑風景が続く長閑な地域にポツンと社は立っている。
 駐車スペースはないようなので、西隣にある公園の駐車場(4、5台駐車可能)をお借りしてから参拝を開始する。
        
                              岩松八幡宮正面
        
       鳥居の手前には狛犬があるが、岩塊の頂きに狛犬が設置されている。

        
               朱色の鳥居が鮮やかに映える。
        鳥居の社号額には「新田総鎮守 岩松八幡宮」と記されている。
 この鳥居はよく見ると通常の「両部鳥居」とは違う。「両部鳥居」とは、左右2本の主柱の前後を袖柱(そでばじら)が支える仕組みとなっていて、主柱は上部で大貫(おおぬき)を通して繋ぎ、その上に大鳥居の屋根下の棟にあたる笠木(かさぎ)・島木(しまぎ)が置かれている構造。しかし岩松八幡宮の鳥居をよく見ると袖柱が前方一対どちらもなく、後ろ側のみで支える構造となっている。このような両部鳥居は初めて見た。
        
              拝殿の手前に設置されている案内板

 岩松八幡宮  所在地 太田市岩松町二五一番地一
 誉田別命(応神天皇)を祭神とするこの社は、市野井(新田町)の生品神社、鹿田(笠懸村)の赤城神社と共に新田の三社といわれ、明治五年栃木県(当時この地は栃木県に属した)において郷社に列せられた。
 創建は仁安年中(1166-1169)新田義重が京都大番のおり山城国男山より小松を持ち帰り、この地に植えて岩清水八幡を勧請し岩松八幡宮と称した。以来犬間(猪沼)郷を岩松郷に改めたという。
 八幡宮は源氏の守護神として崇敬され、新田の庄各地に分霊が奉祀された。岩松八幡宮が新田の総鎮守といわれるようになったのは、南北朝以来新田の庄の実権が岩松氏に移ったことによると考えられる。
 正木文書「新田庄田畠在家注文 嘉応二年(1170)目録」の中で「八幡のミやに二町五反」の除地の記載があり、これが一社のものであるかどうかについてはつまびらかでないが、応永十一年(1404)の村田郷地検目録には八幡神田が筆頭に記され、応永十七年(1410)の上今居郷地検目録八幡天神に起請(誓いをたてる)して作成されていることは、当時両郷とも岩松氏の支配地であったことから岩松八幡宮と見られる。また、世良田長楽寺の住僧松陰西堂の「松陰私語」に金山城主岩松尚純の一子夜叉王丸が七歳の時当家代々の慣例により当八幡宮において元服し昌純と名乗ったとの記述も見られ、往昔この社の隆盛と庄内での崇敬のほどがうかがわれる。なお境内には新田義貞を祭神とする摂社新田神社がある。
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
 岩松氏(いわまつし)は、日本の氏族で本姓は源氏。その家系は清和源氏のうち河内源氏の棟梁であった鎮守府将軍源義家の子、義国を祖とする「足利氏」の支流である。
 岩松氏は元々足利義兼の庶長子の足利義純を祖とする。義純は大伯父新田義重に養育されたといい、その子新田義兼の女を妻とした。が、後に畠山重忠の未亡人(北条時政女)を娶って源朝臣畠山氏の祖となり、先妻である新田義兼の女との間に生まれた子たちは義絶された。
 義絶され新田氏に残った子・岩松時兼・田中時朝兄弟が、新田義兼がその妻(新田尼)に譲った所領の一部(新田荘岩松郷など)を譲られたことにより家を興す。こうしたことから、岩松氏は母系である「新田氏」を以って祖と仰いできた。但し、父系は足利氏を祖とし、室町時代には足利氏の天下となったことから新田の血筋を誇りとしながら、対外的には足利氏の一門としての格式を誇った。
 このように父系を清和源氏足利氏、母系を清和源氏新田氏に持つ岩松氏は、『尊卑分脈』によれば、清和源氏足利氏の一族とされるが、通常新田岩松氏と称され、両方の血を受け継ぐという微妙な立ち位置にいたのに加え、新田氏4代目当主である政義が、その家督相続をした段階では少年であったが為に、祖母である新田尼は所領の大部分を岩松時兼に相続させてしまう。岩松氏は新田氏一族でありながら、その創立時点から新田氏本宗家との因縁があった。また新田一族で本宗家に近い大館氏の大館宗氏と用水争いを起こした際に、惣領の新田基氏・朝氏父子の裁定に従わないなど、新田本宗家に対しある程度の自立性を持っていたようである。
        
                                   本 殿
   赤い透塀(すかしべい)の隙間から見える本殿は拝殿と独立していて門も設置されている。

 その後鎌倉時代末期には、本宗家の新田義貞の鎌倉幕府打倒のための挙兵に参加したが、倒幕後は新田氏と共に京都には行かず、当地に残り足利氏に従った。経家は、建武の新政で飛騨守に任ぜられ、北条氏の遺領伊勢笠間荘 以下十箇処の地頭職を賜り、鎌倉将軍府執権の足利直義の指揮下にあって、関東経営に当たった。建武三年(1335)中先代の乱の際、鎌倉に迫った北条時行軍を迎撃するが惨敗し討死、岩松一族は宮方と武家方とに内部分裂を起こしたが、その岩松氏本家を継いだ岩松直国は足利方の立場を堅持し続ける

 結果として岩松氏は、成立の経緯から、新田一族と足利一族の立場を使い分け、鎌倉時代、南北朝時代以降新田氏本宗家が没落する中でたくみに世の中を渡りきり、新田荘を中心に上野国に栄えた。
 
社殿の左側に祀られている「衡立岐大神」の石祠。       本殿奥に鎮座する境内社。
 八衢比賣命と八衢比許命の名も刻まれている。          詳細不明

 この衡立岐大神とは「岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)」と云われ、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。
 神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。
        
         社殿の左側手前に鎮座する社あり。摂社・新田神社だろうか。

 

参考資料「おおた観光サイトHP」「WEB GUNMA」「Wikipedia」等
   

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尾島雷電神社


        
              
・所在地 群馬県太田市尾島町1691
              
・ご祭神 大雷命(おほいかづちのみこと)(推定)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 えびす講 1119日・20
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2586497,139.3262426,19z?hl=ja&entry=ttu

 阿久津稲荷神社のすぐ西側にある「尾島一丁目」交差点を右折すると、すぐ西側に雷電神社が見えてくる。互いに近距離に鎮座しているので、分かりやすい。
 駐車スペースも社の南側に「尾島一丁目会館」があり、そこの一角をお借りして、尾島雷電神社・阿久津稲荷神社両社を参拝した。
        
                             尾島雷電神社 二の鳥居正面
   実のところ、
一の鳥居は県道354号線に面していて、交通量も多く、結局撮影できず。
 一の鳥居から北方向に参道が続き、その先に二の鳥居がある。二の鳥居から先が境内となる。
 
   街中にありながら境内は比較的広い。   
境内参道の右側には「猿田彦大神」等の石碑がある。
     石碑の奥には嘗て巨木・大木があったのだろうか。その切株が残っている。
        
                                      拝 殿
 太田市・新田郡(につたごおり)尾島地区は人口約1万4千数百人ほどの小さな町であるが、自然や歴史・文化の香りが今でも残る地域でもある。
 町の南部を利根川が流れ、北には上毛三山の赤城・榛名・妙義の山々に囲まれている為、冬は上州名物空っ風が吹き、夏は雷が度々発生するという地形的な特徴がある。
 古くは12世紀に新田氏の始祖である義重の子義季がこの地を領有し、徳川姓を名乗ったことから「徳川氏発祥の地」と呼ばれ、時の徳川幕府の厚い庇護を受けて来た。その後、幕府の破滅により経済基盤を失い、地域自体は衰退するが、今なお往時を偲ばせる貴重な文化財や史跡等が町のあちこちに点在している。
 また江戸時代、津軽藩の飛び地がこの地域にあったことから、現在、友好都市である弘前市の協力のもと、毎年8月の1415日に「尾島ねぷた祭り」が開催されている。
        
                 拝殿に掲げてある扁額
        
                    本殿覆堂
 
    絢爛豪華な本殿彫刻。どうやら彩色修復の作業が行われているようだ。

 雷電神社(らいでんじんじゃ)は、北関東地方を中心に日本全国に点在する神社。一様に雷除けの神とされるが、祭神や由緒は必ずしも一定ではない。
 群馬県邑楽郡板倉町板倉には、旧社格は郷社で、関東地方の「雷電神社」「雷電社」の事実上の総本社格とされている板倉雷電神社が鎮座している。主な祭神は火雷大神、大雷大神、別雷大神。
 板倉雷電神社の影響を受けているかどうかは不明だが、本殿等の彫刻の豪華さはずば抜けているように感じるのは、筆者の思い過ごしだろうか。
 とはいえ、残念ながら尾島雷電神社の由緒等は不明。雷除けの神を祀っていて、本殿は寛政10年(1798)に建築されたものとのことというが、どのような経緯で、このような素晴らしい彫刻を施した社が建てられたか、知っている方がいたらお教え願いたい
 現在は冠稲荷神社の兼務社であり、そちらのHPを見ると、毎年1119日・20日に「えびす講」なる祭事が行われるという。
        
                                   境内の一風景

 えびす講とは、年中行事としてえびすを祀る庶民信仰であり、神無月(旧暦10月)に出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神(夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須)ないしかまど神を祀り、1年の無事を感謝し、豊作や大漁あるいは商売繁盛を祈願する出雲系関連の祭事である。当社では釣竿の飾り、「お宝」の頒布や、熊手、福笹の頒布などを行っているという。


参考資料「
太田市観光物産協会HP」「旧尾島町HP」「冠稲荷神社HP」「Wikipedia」
 


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