古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上八ッ林氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町上八ッ林854
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9970893,139.4768275,18z?hl=ja&entry=ttu

 下八ッ林天神社から一旦「さくら通り」を南下して「下八ッ林」交差点を右折する。再び埼玉県道74号日高川島線に合流後、450m程進むと右側に上八ッ林氷川神社が見えてくる。社に対して県道を挟んだ南西側には「上八ッ林道下集会所」があり、適度な駐車スペースも確保されているので、そこのスペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                            
上八ッ林氷川神社正面
『日本歴史地名大系』における「上八ッ林村(かみやつばやしむら)・現川島町上八ッ林地域」の解説によると、「当村は、一本木村の南東にあり、東は吹塚村。集落は旧荒川筋の自然堤防上に長く発達する。東方の下八ッ林村と共に中世八林郷の遺称地。また古くは同村などと一村で八ッ林村と称していた。
 その後慶安年間(16481652)頃には八ッ林村から畑中、大塚(大墳)の両村が分出、寛文年中(16611673)には更に上・下二村の八ッ林村に分れたという(「郡村誌」など)。田園簿には八ッ林村とあり、田高一千三二石余・畑高一五四石余、旗本酒井領」
と記されている。
        
                    境内の様子
 八ッ林という地名は中世末頃から用いられていて、その当時の「八ッ林郷」は、出丸本、出丸中郷、出丸下郷、上大屋敷、下大屋敷、曲師、西谷、釘無、上狢、下狢、白井沼、飯島等十八か村を含んでいた。
 地名である「八ッ林」の「八(やつ)」は数多いという意味で、ここの微高地には古くから人が居住し、林が広がっていたものと思われる。八ッ林という地名はそのような景観から生まれた地名であるのだろうか。
       
            上八ッ林氷川神社のシンボルともいえる大ケヤキ
 上八ッ林氷川神社の広々とした境内にあってひときわ目立ち、堂々と聳え立っている。樹齢300年以上との事で、今まで見てきたケヤキの巨木・大木に比べれば、特別老木とは言えないかもしれないが、樹齢に対して意外と幹は太く貫禄があり、樹勢は生き生きとしていている。隆起した根張りも力強く、緑豊かな葉が生い茂っている大樹である。
        
                                 案内板
 けやきの大木 (町選定 天然記念物)
 上八ッ林の氷川神社に古くからあるけやきは、樹齢300年以上といわれご神木として人々から大切にされている。この木の由来は詳らかではないが巨木として樹相はまことにみごとなものである。また、樹高約四〇メートル、樹周約約五.二〇メートルもあるこの木は、天然記念物として大事に保護されている。なおこの木は、昭和五十五年十月九日、埼玉県主催の県の木指定十五周年記念ケヤキコンクール大木の部において、埼玉県知事より表彰された。
 平成二年十月 川島町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                                        拝 殿
 
          本 殿                境内社・詳細不明 
    社殿奥に祀られている石祠等           境内にポツンとある梵鐘
             
 上八ッ林氷川神社の東側並びにある火の見櫓とその手前に祀られている地蔵尊・庚申塔。錆びついている火の見櫓や周辺の風景を見るにつけ、幾世代前の「昭和」を感じる昔懐かしい雰囲気が辺りを包みこんでいるようだった。 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉県の鎮守の森」「境内案内板」等             

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畑中雷電及び下八ッ林天神社社

畑中雷電社】
        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町畑中47
             ・ご祭神 大雷命(推定)
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
 地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9990566,139.4871741,16z?hl=ja&entry=ttu

 三保谷宿氷川神社から埼玉県道74号日高川島線を北西方向に進む途中、進行方向右手側にぼんやりと社号標柱が見えたので、偶々立ち寄った社である。偶然とはいえ、このお社との出会いに感謝しつつ、社号標柱の前にある適度な駐車空間に車を停め、厳かな気持ちで参拝を開始した。
             
            県道からやや北側に設置されている社号標柱
        
                歴史の風格の趣を感じる鳥居
        
                     拝 殿
 この社に関して、境内には案内板等もなく、後日編集中においてもこれといった文献・資料もない。推察するに板倉町に鎮座する雷電神社からこの地に勧請されたものと考えられる。
 〇雷電社 村の鎮守なり、村持ち
                       「新編武蔵風土記稿 比企郡畑中村条」より引用

下八ッ林天神社】
        
             ・所在地 埼玉県比企郡川島町下八ッ林236 
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
 
途中立ち寄った畑中雷電社から埼玉県道74号日高川島線に戻り、北西方向に進路をとる。1.3㎞程進むと「下八ツ林」交差点に達し、そこを右折すると、すぐ右側に下八ッ林天神社が見えてくる。社の南側には「下八ツ林集落センター」があり、そこには駐車スペースも十分確保されていて、他の車両に迷惑がかからない場所に駐車してから参拝を行った。
        
                     下八ッ林天神社正面
 川島町下八ッ林地区は、江戸時代当時、下八ッ林村(しもやつばやしむら)と呼ばれていた。この村は上八ッ林村の東に位置し、古くは同村などと一村で八ッ林村と称していたが、後に畑中村等を分出、寛文元年(一六六一)の検地後、上・下の二村に分村したという(「風土記稿」等)。元禄郷帳に村名がみえ、高四九七石余。その後川越藩領となり、秋元家時代郷帳によると高は元禄郷帳と同じ。反別は田方九〇町九反余・畑方一九町七反余。以後の領主の変遷は谷中村に同じ。用水は上八ッ林村の用水の下流を利用。中山道桶川宿の加助郷を勤めていた(鈴木家文書)。「風土記稿」によると家数六六、鎮守は天神社、新義真言宗善福寺(現真言宗智山派)・同光勝寺、薬王寺・威徳寺等があるという。
             
                    鳥居の先に設置されている社号標柱
        
                     拝 殿
 下八ッ林天神社近郊には「道祖土家跡」と呼ばれる柱碑がひっそりと建てられている。因みに「道祖土」と書いて「さいど」と読む。この一族のルーツは、埼玉県さいたま市緑区道祖土地域と云われているが、一説では比企(ひき)郡八ツ林村の名主道祖土氏の祖先道祖土土佐守が戦国期に当地に住したためとする説もある。
 室町期には関東管領扇谷上杉氏の家宰太田氏の支配下にあり,太田道灌の陣屋が置かれ,道灌の没後はその追福のために養竹院が建立された(大字表,養竹院文書)。岩槻【いわつき】城主太田資正は,弘治348日の太田資正判物で道祖土図書助に,「三尾谷郷伝馬儀付而,田地指上百姓有之由,可及其断」と命じている。小田原の北条氏康は東武蔵に進出すると,永禄109月晦日の北条氏康判物で三保谷郷の代官職を八ツ林郷の道祖土図書助に安堵した。天正647日には,北条氏政の検地によって「三保谷代官道祖土土佐守」に対して「二百六十六貫八十文 田畠踏立辻」が書き出された。天正9年に太田氏房が岩付城主になってからは,岩付太田氏の支配下に入り,同14年には岩付城普請役が同1587日には陣夫役が三保谷郷道祖土図書助が命じられている(道祖土文書)。


 下八ッ林天神社東側に隣接して「薬師堂」が立っている。現在は真言宗智山派寺院の善福寺境外仏堂となっていて、江戸期には善福寺の門徒寺院として威徳寺と号し、不動明王を本尊とする本堂の他に、薬師堂・天神社を境内に擁し、江戸時代後期には寺子屋が開かれていたという。明治維新後の神仏分離により、威徳寺は善福寺と合寺された。
        
                                    
下八ッ林薬師堂
 下八ツ林村 
 威徳寺 
本尊不動を安ず
 薬師堂 古鰐口をかく、其圖上の如し、此鰐口元は、高麗郡佐西熊野堂にありしを、彼堂廢せし頃、應永七年持来て此堂に掛け、其時改めて裏面の銘を彫りし者なるべし、應永七年は明徳四年を下ること、僅に八年なれど、今も彼地に熊野堂なければ、其間に廢せしことしらる、
                               「新編武蔵風土記稿」より引用

        
                  境内にある案内板
 川島町町指定有形文化財・彫刻 薬師如来坐像
 所在地 比企郡川島町大字下八ッ林五八六
 指 定 昭和三十六年一月二十五日
 古くはここに威徳寺という寺があり、その薬師堂が現在のこの薬師堂である。ここの薬師様は古来霊験あらたかで有名であった。いまも秘仏とされており、十二年に一回の御開帳には賑わう。
 右手は施無畏印、左手の
の上に薬壺をのせたこの薬師如来坐像、高さ三十八㎝、ひのきの寄木造り、玉眼、鎌倉時代の作。
 川島町町指定有形文化財・工芸品 鰐口
 所在地 同所
 指 定 同日
 鰐口は堂などの軒先につるした平たい鉦である。参詣者は下げてある布縄を振ってこれを鳴らす。
 この鰐口はその銘によると、明徳四年(一三九三)佐西郷(狭山市笹井)の熊野堂へ、權律師良勝が奉納したものであったが、熊野堂が廃されたので、良勝の娘がこれを譲りうけ薬師堂に奉献したものと考えられる。この娘、有名なこの薬師様を慕って遠くから来て願をかけ、満願のお礼としたものであろう(現在は善福寺に所蔵されている)。
 直径二十二.cm 厚さ六.cm、青銅製、室町時代初期の見事な美的品である。周囲に次の銘がある。
(表面)明徳四年癸酉四月日 大工河内權伍國光
    
武州高麗郡佐西郷熊野堂律師良勝
(裏面)奉掛 薬師如来鰐口一面
    
應永七庚辰五月六日於本間氏女
                                      案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
日本歴史地名大系」「道祖土文書」
    「
川島町HP(観光・文化財マップ)」「境内案内板」等

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吉原宮原神社

 日本では古来、海の彼方からやって来くる神を「来訪神」と呼び、いずれ福をもたらすという蛭子の福神伝承が異相の釣魚翁であるエビス(夷/恵比寿など)と結びついた。
 日本神話では、イザナキ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との契りにおいて、最初に生んだ水蛭子神(ヒルコノカミ、水蛭子、蛭子神、蛭子命)は、身体には骨がなかったので、葦の船に乗せて流されてしまれ、オノゴロ島から流されてしまう。
 この「ヒルコ」と「エビス」が後代混同につながったとされ、また太陽神の巫女である「大日霊貴(おおひるめのむち)」に対する語、つまりヒルメに対するヒルコは「日る子(太陽の子)」であり、尊い「日の御子」であり、太陽神と関わり深い神故に流された、とする貴種流離譚に基づく解釈もあり、こちらでは日の御子を守り仕えたのがエビスであるとするという。
        
              
・所在地 埼玉県比企郡川島町吉原401
              
・ご祭神 蛭子命(恵比須神)(推定)
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 例祭 415

   地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9781383,139.492252,17z?hl=ja&entry=ttu
 牛ヶ谷戸諏訪社を起点に埼玉県道12号川越栗橋線を1㎞程南下し、「表」交差点を右折する。埼玉県道339号平沼中老袋線、通称「かわしま中央通り」に合流後、650m程進むと右側に吉原宮原神社の社叢林、及び道路に面した中央付近に鳥居が見えてくる
        
               県道沿いに鎮座する吉原宮原神社
        
            
鳥居には「宮原神社」と記された社号額あり
   
社号額の神紋は「丸に蔓柏」。「えびす宮総本社」である西宮神社も同じ神紋である。
 兵庫県西宮市社家町にある西宮神社は、全国に約3,500社あるえびす神社の総本社(名称「えびす宮総本社」)である。
 創建時期は不明だが社伝によると、伊弉諾岐命と伊弉諾美命との間に生まれた最初の子である蛭児命は、不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数にも数えられなかった。和田岬の沖に出現した蛭児命の御神像を鳴尾の漁師が引き上げて自宅で祀っていたところ御神託が降り、それによってそこから西の方に御神像を遷して改めて祀ったのが当社の起源だという。
 その後、境内の北隣に居住していた「神人」として人形繰りの芸能集団「傀儡師」が、全国を巡回し、えびす神の人形繰りを行って神徳を説いたことにより、えびす信仰が全国に広まった。境内に祀られる百太夫神は傀儡師の神である。中世に商業機構が発展すると、海・漁業の神としてだけでなく、商売の神としても信仰されるようになったという。
        
                   参道からの風景
     県道沿いに鎮座しているにも関わらず、境内参道の両側には豊かな樹木が覆い、
                静かな空間が辺りを包みこむ。
       
              境内に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 水蛭子神(ヒルコノカミ、水蛭子、蛭子神、蛭子命)は、日本神話に登場する神である。『古事記』において国産みの際、イザナキ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)が天御柱(あめのみはしら)を立て、八尋殿(やひろどの)で新婚生活を始めたときに最初に生んだ神と記されている。しかし、水蛭子(ヒルコ)の身体には骨がなかったので、葦の船に乗せて流されてしまれ、オノゴロ島から流されてしまう。『日本書紀』では「蛭児」と表記される。一書には複数回現れ、イザナギ・イザナミが生んだ最初または2番目の神として『古事記』に似たものもあるが、本文では三貴子(みはしらのうずのみこ)のうちアマテラスとツクヨミの後、スサノオの前に生まれ、「三歳になっても立つことができなかったので、天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)に乗せて風のまにまに放ち棄てた」と書かれている。
 始祖となった男女二柱の神の最初の子が生み損ないになるという神話は世界各地に見られる。特に東南アジアを中心とする洪水型兄妹始祖神話との関連が考えられている。
 この流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っている。『源平盛衰記』では、摂津国に流れ着いて海を領する神となって夷三郎殿として西宮に現れた(西宮大明神)、と記している。日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多い。
        
                拝殿に掲げてある由来書き
 由緒略記(通称 にしの宮)
 所在地 川島町大字吉原字宮附四〇一番地
 この神域(五一六坪)は後方の旧吉野川曲流の沖積地として前方に周囲三キロの環状自然堤防中樂に囲まれた円田(円形水田)が開け、その北後中央にまつる。
 この円田の位置は関東平野のほぼ中程にあり、極めて奇異珍域なり円は古来ご祭神夷の大神の霊験福徳円満に等しく、本社は平安時代後期、保元・平治(一一五六五九)の創建(八四〇年前)以来、吉原観音寺住職別当、古くは西宮太神社と称し特に近世江戸商人の崇敬篤く多数の奉造品を有す。
                                      案内板より引用

 ヒルコとエビス(恵比寿・戎)を同一視する説は室町時代からおこった新しい説であり、それ以前に遡るような古伝承ではないが、古今集注解や芸能などを通じ広く浸透しており、蛭子と書いて「えびす」と読むこともある。現在、ヒルコ(蛭子神、蛭子命)を祭神とする神社は多く、和田神社(神戸市)、西宮神社(兵庫県西宮市)などで祀られているが、恵比寿を祭神とする神社には恵比寿=事代主とするところも多い。
 
 拝殿手前左手に鎮座する境内社・三保谷神社        三保谷神社 本殿
        
               社殿の左側並びに鎮座する境内社。
       向拝部周辺の彫刻が精巧で凝っているにも関わらず、詳細等は不明。
        
                 拝殿から参道方向を撮影

「埼玉の神社」にも説明されているが、東日本各地への西宮神社の恵比須信仰の本格的な伝播は、恵比須像の神札を配札するようになるのは江戸時代前期の寛文年間(一六六一-七三)以降のことであり、この社の創建は直接的に「恵比須信仰」の影響を受ける以前の古い時期に祀れていたようである。
またこの社の創建に関して、何故「八幡神社」や「稲荷神社」「天神社」等、幾多の有名な社がある中で、わざわざ遠く摂津国にある「西宮神社」を選定し、「蛭子命(恵比須神)」をご祭神として勧請したのかは明らかではない。
 解明できない謎が多き社であるが、いずれにしても「とある一族・集団」が「しっかりとした信念と目的」を以ってこの社を勧請・創建し、この地域住民はこの社・神様を受け入れて、祭礼を現在に至るまで行っていることは確かである。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等

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表稲荷神社

 太田 資家(おおた すけいえ、? - 1522年(大永2年))は、戦国時代の武将。太田道灌の甥(異説あり)でその養子となる。息子には太田資頼がいる。父親については道灌の弟と推定されているが、太田資忠説と太田資常説があり、確証がない。
 養父が主君・上杉定正に殺害された後も扇谷上杉氏に仕え、永正の乱で敗れた成田顕泰に替わって岩槻城主になったとされる。ただし、資家の拠点は河越付近であり、岩槻城に入ったのは古河公方家臣の渋江氏や別の系統の太田氏(道灌子孫)とする説もあり、その場合資家の系統が岩槻城主となるのは次代の資頼からとする見方もある。
 養父ゆかりの武蔵国比企郡表地域に「養竹院」を建立して養父の冥福を祈っている。表稲荷神社は養竹院の鬼門除けとして奉斎され、後に表村の鎮守として祀られ、鰐口も奉納されるなど信仰を集めたという。
        
              
・所在地 埼玉県比企郡川島町表20
              
・ご祭神 稲荷神(推定)
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 不明

地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9803417,139.5001166,18z?hl=ja&entry=ttu

 牛ヶ谷戸諏訪社沿いに通る県道74号線を南下し、「山ヶ谷戸」交差点のY字路を右方向に進む。埼玉県道12号川越栗橋線合流後「ホンダエアポート」との看板のある手押し信号付き十字路を左折し、170m程進んだT字路をまた左方向に進む。住宅地が周囲を囲むその道路の突当たりに表稲荷神社がひっそりと鎮座している
        
                                    表稲荷神社正面
             杉林の社叢林に包まれてひっそりと鎮座する社。
        
        境内は決して広くはないが、日々の手入れはされているようだ。
 表村 稲荷社
 村の鎮守なり、古棟札二枚あり、一は天文廿三年二月九日とあり、一は天正十一年癸未卯月廿一日と記し、施主等の名あまた載せたり、小社といへども古き勧請なること知べし
『新編武蔵風土記稿』より引用

 稲荷神社 川島町表二〇(表字道内)

 杉林に包まれてひっそりと鎮座する当社は、社記によれば、天文十一年(一五四二)四月二十一日に下総国成田(現千葉県成田市)の住人某が、常陸国(現茨城県)筑波山麓にある某稲荷大神の分霊を持ち来り、養竹院の東北隅に祀ったことに始まるという。その後、天正十一年(一五八三)四月二十一日に、現在の境内地に移され、養竹院の鬼門除けの神として奉斎されてきた。
 更に、宝永八年(一七一一)三月三日には草葺の覆屋が造立され、次いで天保二年(一八三一)三月には拝殿が再建されるなど、次第に設備も整い、諸願成就の神として、多くの人々からも信仰されるようになっていった。『風土記稿』に、「稲荷社村の鎮守なり、古棟札二枚あり、一は天文廿三年(一五五四)二月九日とあり、一は天正十一年癸未卯月廿一日と記し、施主などの名あまた載せたり、小社といへども古き勧請なること知べし」とあるのも、そのように信仰が盛んになっていったことの表れであろう。
 神仏分離の後は、養竹院との関係はなくなったが、村社として、住民からは前にも増して厚く信仰されるようになった。しかし、社殿の老朽化が激しくなったため、昭和二十三年には境内の樹木を伐採し、拝殿と幣殿を改築した。そのため、一時は、樹木が少なく、寂しい境内になっていたが、氏子の植樹の成果が実り、杜が復興しつつある。
「埼玉の神社」より引用 

       
                     拝 殿 
 表稲荷神社の南西で直線距離にして100m程には禅宗臨済派の寺院である養竹院(ようちくいん)がある。寺伝によれば、太田道灌の甥で養子となっていた岩付城の太田資家が明応年間に養父の追福のために別の伯父である円覚寺前住職の叔悦禅懌(道灌の実弟にあたる)を開山に迎えて道灌の陣屋跡に建立したと伝えられている。また、院名は開基である資家の法名に由来するとされ、資家及びその嫡男資頼の墓も同院にある。
        

 表村 養竹院
 禅宗臨済派、鎌倉圓覺寺末、常樂山と號す、天正十九年十一月寺領の御朱印を賜ふ、其文に三保谷郷の内十石とあり、寺傳に云、當寺の境内は古へ太田備中守資長入道道灌の陣屋なり、其子信濃守資家明應の頃、父道灌追福のため、伯父叔悦禅師を開山として建立すと、禅師は天文四年(1535)七月十六日示寂す、開基資家は大永二年(1522)正月十六日卒し、法名を養竹院義芳道永と號す、今の院號は資家が謚號にとりしこと知べし、今按るに此寺傳少く誤まれるにや、信濃守資家は道灌が子にあらで姪なり、又此資家が法謚を以て院名にとれば、恐くは資家が菩提の爲に建しなるべし、今本尊薬師を本堂に安じ、傍に太田氏の位牌ををき、資清以来六人の法謚命日を記す、自得院殿實慶道眞庵主、□□□二月朔日、太田備中守資清、香月院殿春苑道灌庵主、文明十八年丙午七月二十六日、同左衛門太夫資長、養竹院殿義芳道永庵主、大永二年壬午正月十六日、同信濃守資家、壽仙院殿智樂道可庵主、天文五年丙午四月廿日、同美濃守資賴、智正院殿嶽雲道端庵主天正十九年卯月九月八日、同美濃守資正入道三樂斎、瑞瓊院殿靈顏道鷲庵主、寛永二十年癸未十一月十日、同安房守資武とあり、又寺傳に資武が時、家衰へ流浪して北越に赴き、夫より四代左兵衛資政がとき、河内國へ移り、今彼國に子孫ありと云
                                                              『新編武蔵風土記稿』より引用


 ただし、近年の研究では、太田資家を祖とする「岩付太田氏」が岩付城を本拠としたのは、資家没後の大永
4年(1524年)の事と考えられており、養竹院周辺が資家時代から資頼時代初期(岩付城攻略まで)の同氏の拠点であった可能性が高いと考えられている。

 岩付太田氏の没落後の、天正19年(1591年)に徳川家康から朱印地10石が与えられ、孫の徳川家光は寛永年間に鷹狩の際に養竹院に立ち寄って朱印地10石と境内地として1万坪を与えたとされている。開山を描いた「叔悦禅師頂相」は埼玉県の重要文化財となっている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
        
     

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牛ヶ谷戸諏訪社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町牛ヶ谷戸669
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 新年祭 327日 八坂様 713日 例祭 827日
                  新嘗祭 1127
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.987028,139.498083,17z?hl=ja&entry=ttu

 三保谷宿氷川神社から埼玉県道
74号日高川島線に戻り、首都圏中央連絡自動車道の高架橋下を南下、500m程進むとY字路となり、その三角形沿いに牛ヶ谷戸諏訪社は鎮座していて、「山ケ谷戸」交差点のすぐ北側にあるので比較的分かりやすい。社は南向きで、Y字路の先に鳥居が立っていて、鳥居の南側には若干の駐車スペースがあり、そこの一角に停めてから参拝を行う。 
        
                   牛ヶ谷戸諏訪社正面
            
                    社号標柱
 通常「牛ヶ谷戸」は「うしがやと」と読むが、別名「うしがいと」とも呼ぶ。嘗て足立郡側海斗村字牛飼・並木村字牛飼(大宮市)及び円阿弥村字牛飼(与野市)の一帯は古の牛ヶ谷と書いて「うしがい」と呼ばれていた。また入間郡宗岡村には小字に牛ヶ谷戸が存在して「ウシガイト」と註している。
 三保谷宿氷川神社同様に「谷」と名の付いた地域名であり、地形を確認すると、都幾川・越辺川・市野川・荒川の四河川によって作られた低平な沖積地域に属するこの牛ヶ谷戸地域は、水害に悩まされることも多かったが、水田を作るには適していた。
 現代を生きる我々の常識では、「谷(や・やつ)」の概念が強く響いてしまい、山間にはさまれた狭い谷(たに)間と単純に考えてしまうが、本来の意味は、居住にも耕作にも便利のところ、即ち人は一方の岡の麓に住み、間近く、田にもなり要害にもなるような水湿の地を控えた理想的な場所であり、人々はこの地に「谷」と名づけたのではなかろうか。
        
                境内に設置されている案内板
 御由緒
 御祭神  建御名方命
 古文書に初代の神主は、天文十三年(四四二年前)禰宜馬場帯刀とある。氏子中の馬場家先祖が、信濃国御本社より御分霊を勧請し、建立したと伝えられ、其の後、寛永十三年七月(三四〇年前)当地生れ、鈴木三右エ門立願して、社殿を造営されたと当時の棟札に明記されている。
 明治初年、神仏分離に当り、諏訪大明神は諏訪大神社と改称し、現在の諏訪社となった。
 明治三十年九月、大暴風雨に、社殿後方の御神木が倒れ、同時に社殿も大破したので、三二〇万円の経費を以って、倒された大杉一本で改築された。
 昭和五十年十一月、御本殿大改修を、経費七五万余円を投じて完工し、現在に至る。
 八坂社
 大正元年十二月に、牛ヶ谷戸字天王の地に鎮座せるを移転して、境内社と改めた。
 天神社
 古来より境内社として祀られている。(以下略*句読点は筆者追加筆)
                                      案内板より引用
        
                                        拝 殿 
 諏訪社 川島町牛ヶ谷戸二二三(牛ヶ谷戸字本村前)
 都幾川・越辺川・市野川・荒川の四河川によって作られた低平な沖積地は、水害に悩まされることも多かったが、水田を作るには適していた。そうして開かれたのが八ツ林郷と呼ばれる地域で、当社が鎮座する牛ヶ谷戸は、その中の一村として開発され、永禄年間(一五五八-七〇)には北条氏秀の所領として検地を受けている。
 創建については、後鳥羽天皇の御代(一一八三-九八) に足立郡から当地に移り住み、開拓を行った数家が式内社氷川大神の分霊を奉祀し、のち永正十二年(一五一五)に当地の矢部伊賀一族が再興したとする説、正応年間(一二八八-九三)に相州(現神奈川県)三浦郡矢部村から当地にやって来て帰農した太田資時が五穀成就を祈ってその産土神である氷川大神を祀ったことに始まるとする説などがある。ちなみに、江戸時代には当社の別当であった大福寺の東側と西側にある二軒の矢部家は、古くから当社の祭祀にかかわりが深く、神仏分離の後は行詮・覚太郎・周矩の三代にわたって当社の神職も務めた。
 当社には棟札が数枚残っているが、その中で最も古いものが永正十二年四月に本殿を造営した時のもので、表には「復興玉殿本地拾面観音垂迹氷川大明神」とある。その後、慶長三年(一五九八)九月に再度造営され、更に安政三年(一八五六)十二月に造営されたのが現在の本殿である。また昭和三年には御大典を記念して覆屋も造られた。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」「境内案内板」には諏訪社創建に「馬場家」及び「矢部家」が関わっていたという。馬場家・矢部家に関して「比企郡神社誌」には以下の記述がある。
〇比企郡神社誌
・馬場家

大字牛ヶ谷戸諏訪社由緒。氏子中の馬場家の先祖信濃国より氏神として祀る。古文書に初代の神主は天文十三年禰宜馬場帯刀とあるを見れば、其頃の御分霊を悟る事も出来る」
・矢部家

「大字平沼氷川神社由緒。後鳥羽天皇の頃、足立郡より当地に来住開拓せるもの数家あり、氷川大神を勧請す。永正十二年に至り宮祠の腐朽したるを恐れて矢部伊賀一族主宰となり再興す。慶長三年、名主矢部七郎兵衛・同与七郎、主任となり本社を改築す。寛永十九年、名主矢部七郎右衛門・同三郎右衛門・外氏子一同にて改造す。明治十六年、村長矢部杢太郎主導者となり拝殿及び玉垣を建造す」
        
                   境内社・八坂社
       拝殿の左隣に鎮座していて、近代補修の為か、拝殿より見た目立派に見える。
 
      八坂社の隣にある石碑         拝殿右隣に鎮座する境内社・天神社
        
                     本 殿

 最後に「牛ヶ谷戸」という一見変わった地名について考えてみた。日本全国には様々な地名があるが、一説には7万種類もあるとも言われている。地名の命名経緯については、原始・縄文の頃の言葉、アイヌ語に起因するものや、自然災害、地形の形状、動・植物等に起因するものや、全くの人造語など様々である。その中でも自然災害や地形の形状から付けられた「地名」は、ある意味、自然災害への戒め、警告、メッセージであり、これも石碑等と同様に、偉大な「先人の教え」とも言えよう。
 残念なことに、中には、既にその命名の経緯が忘れ去られているものも数多くある。また、地名は時を経るにつれ少しずつ変わっていく場合があり、古く忌み嫌われた名前から新しく現代的な名前に変わったりする場合や統廃合などの行政的理由による場合等もそれに当てはまる事例であろう。
『地名』に込められたメッセージは使用されている「文字」そのものではなく、その「読み」に本来の意味がある場合があることで、全く別の漢字が当てられている場合があるという。

 まず「牛」という「文字」で最初に思いつくのは家畜としての「牛」であろう。この家畜としての「牛」は、牛の起源は,200万年前にインド周辺で進化したと考えられる、今では絶滅した野牛の「オーロックス」が家畜用に改良されたものとの説が有力されていて、3世紀以降に朝鮮半島から日本へ輸入されたという。「牛」の名前由来は,色々な説があり、新井白石が著した日本語の辞書である『東雅』と言う本には,韓国語の方言で牛のことを「う」と言っているので,この「う」が日本にも伝わって「うし」になったと書かれている。また『日本名言集』では,牛は「うしし」と言っていたものが,「うし」になったと説明している。その理由として牛は,農耕などの使役のとき牛を鞭で打ちながら労働させたので「打ち使う獣」と言う意味で「うし」になったと解釈されているようだ。
        
                   境内の一風景

 対して「読み」としてのウシは「憂し」という古代語の意味を持っていて、不安定な土地を表し、過去の地すべり崩壊地や洪水の氾濫地、津波の常襲地域に名付けられた場合があるという。
 地域自治体ではハザードマップを作成・配布して、地域住民にその地域の様々な自然災害の危険を注意喚起してくれるが、そのうえで、自ら「先人の教え」でもある古い地名を調査して知っておくことは危機管理上更に有効であろう。ご家族で、近所を歩いて古い神社仏閣を探してその由緒などを調べてまわるとか、図書館で地域に関わる古文書を紐解くとか、土地の長老の方々に昔話を聴いてみるなどすれば、意外と地域の「古い地名」が得られるかもしれない。

 偉大なる祖先の方々は、嘗て自分たちに起こった災害の記憶を、「地名」や「言い伝え」として残してくれた。現代を生きる我々は、このことを十分に理解・感謝し、今後必ず起こりえるであろう「災害」から身を守る手立てを導き出さねばならないと今回の参拝で強く感じた次第だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「東雅(国立国会図書館デジタルコレクション)」「比企郡神社誌」
    「政府広報オンライン『防災』」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等

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