古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大串氷川神社

 大串次郎重親(おおくし じろう しげちか)は、平安時代後期の武士。武蔵国を拠点とした武士団、武蔵七党の一つ、横山党の出身。大串氏は、由木保経の次男・孝保が称したのに始まり、武蔵国横見郡大串郷(現在の比企郡吉見町大串)を本領とする家柄であり、重親はその孝保の子であった。畠山重忠とは烏帽子親、烏帽子子の関係にあり、名前の「重」の一字は重忠から拝領したものと考えられている。
 宇治川の戦い、その後奥州合戦で活躍する。奥州合戦では、重忠に随伴し、阿津賀志山の合戦で敵の総大将藤原国衡を討ち取ることに貢献した。和田義盛が矢を射掛けて国衡が負傷してうろたえたところに重親の部隊が猛攻撃をしかけ、深田に馬の足を捕らわれもたついている国衡を討ち取り首級をあげたことが、『吾妻鏡』に記されて、重親は討ち取った国衡の首を重忠に渡している。
 その後畠山重忠が追討された二俣川の戦いにも参戦する。このとき重親は安達景盛などと共に重忠と対峙したが、弓を収めて撤退した。北条時政の讒訴によって追討されることとなった重忠への同情からの行動だといわれている。畠山重忠とは烏帽子親、烏帽子子の関係にあり、名前の「重」の一字は重忠から拝領したものでもあり、度重なる合戦では畠山一党として随伴した「情」もあったろう。なんと心優しい坂東武者ではなかろうか。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町大串613
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明

 大里比企広域農道(通称 みどりの道)と埼玉県道33号東松山桶川線の交わる「大串」交差点南側に大串氷川神社は鎮座している。地図を確認すると、前河内日吉神社からほぼ南側で、直線距離でも100m程しか離れていない。
               
                              大串氷川神社正面
         氷川神社の鳥居前には庚申塔と辯財天が共に祀られている。
               
                          庚申塔(写真左側)と辯財天(同右側)。
           辯財天は右手に剣を、左手には宝珠を持っている。
               
                      大串氷川神社鳥居。右側端部が欠けている。

「埼玉の神社」によると、「武蔵七党の一つ横山党の大串氏は、八王子市由木に住する由木氏から分かれた一派で、当地を本貫とし、前河内・江綱・久保田などを領したという。中でも、大串次郎重親は、寿永三年(一一八四)の宇治川の先陣で平家と戦ってその名を馳せ、更に、文治五年(一一八九)の源頼朝の奥州征伐に従って戦功のあったことでよく知られており、その後も戦国時代まで、鎌倉管領方に属し、武功を立てている」との記載があり、鎌倉時代大串氏はこの「大串」地域のみならず「前河内・江綱・久保田」地域も領有していたという。

大串次郎重親に関して「新編武蔵風土記稿 大串村条」において長文を載せて紹介している。途中漢文体もあるので、筆者の解釈にて訳す。
大串次郎重親墓、毘沙門堂の背後に在り、五輪の石塔にして、面に永和二年丙辰十二月日沙弥隆保と彫る。これ重親が法諡なりと云ふ。大串は武蔵七党の内、横山党にて、祖先は小野篁の後胤、横山大夫義高の苗裔、由木六郎保経の二子を大串次郎孝保と号す、是れ大串の祖にして、其子大串次郎重保、又重親と号せし由、彼の系譜に見ゆ。又【東鑑】文治五年八月十日錦戸太郎国衡討死の条に、重忠門客大串次郎、国衡に相逢ふ。国衡駕する所の馬は、奥州第一の駿馬、高楯黒と号する也。大肥満、国衡之に駕す。毎日必ず三箇度平泉高山を馳登ると雖、汗を降さざるの馬也、而して国衡義盛の二箭を怖れ、重忠の大軍に驚く。道路を閣て深田に打入るの間、数度鞭を加ふと雖、馬敢て陸に上る能はず。大串等於得理梟首大遮也云々と見ゆ。此の余【平家物語】、及び【源平盛衰記】宇治川合戦の条に、重忠に扶けられて重親が川を渡せし事を載せたり。重親は畠山重忠が鳥帽子子にして、屡々戦功もありしとぞ。さるを今此の墓に永和二年とあれど、重親が錦戸太郎国衡を討しは文治五年にして、其の年代百八十余年を隔たる、されば爰に記せる沙弥隆保は大串氏の人にて、重親が子孫などなるを、たまたま著名たるによりて、重親が墓といひならはせしか」
 
      参道の先に拝殿が鎮座する。           拝殿の手前に設置されている
                           「氷川神社由来記」

 氷川神社由来記
 本社は鎮座の年代を詳かにせざるも、大串次郎重親、武蔵一宮氷川神社より勧請すと伝えらる。社蔵の記録文書等は累次の洪水により流亡し尽し、僅かに比企郡神社誌に「口碑に永徳及び元禄の社殿造営を伝う」との記事あるのみ。然れども作神として時代を超えて農民に尊崇されて今日に至りしこと明らかなり。
 明治四年六月村社に列せられ、明治四十年四月大串六社の合祀をみる。大正二年拝殿の造替を視、昭和五十九年十二月には拝殿が改築され、次いで平成八年三月神門建替を行ふ。
 社前には享保十四年十七年の銘ある燈籠二基あり。また三十五貫目と刻せる石あり、芭人の力競べせし有様僅かに伝ふ。
 是に由来の散逸を懼れ、石に刻して識となす。(以下略)
                                     由来記文より引用

               
                     拝 殿
               
                            拝殿前にある石燈籠
享保十四年十七年の銘ある燈籠二基あり、左側の燈籠には「正一位氷川大明神」と刻印されている。
               
 境内には石祠(写真左)あり。詳細不明。また社殿奥には「愛宕大権現」の石碑もあり(同右)


 ところで横山党大串氏は小野氏系図によると、「「〇横山次郎大夫経兼―由木六郎隆家―大串野五隆保(少代)―次郎重保(重親)」と記載されていて、武蔵国横見郡大串郷(現在の比企郡吉見町大串)を本領とする武蔵七党・横山党に属する一族である。

 大串次郎は畠山重忠同様に、大串郷の鍛冶支配頭領の可能性も高い。というのも、始祖であり、重親の父である隆保は「大串」苗字であるのと同時に「少代」を号していて、比企郡正代村(現東松山市正代地域)の有名なる『正代鋳物師』の出身、もしくは知行地ゆえに少代氏をも称していたという推測は眉唾ものではない。
               
                                  境内の一風景

 
因みに正代地域は鎌倉時代には「小代郷」と呼ばれ、小代氏(児玉党を出自とする武士)の居住地であった。小代氏の配下に置かれ、鋳物生産を行っていたのが、小代鋳物師(いもじ)と呼ばれる集団である。
 大串次郎重親はこのように「大串」地域を中心に「前河内・江綱・久保田」各地域を領有し、「正代」地域も支配していた。もしかしたら「前河内・江綱・久保田」各地域も、鋳物生産をする拠点がそれぞれあったかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
比企郡神社誌」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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前河内日吉神社


               
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町前河内1
             ・ご祭神 日吉大神 大山咋命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭 415日 秋祭 1214

 江網元巣神社から埼玉県道33号東松山桶川線を東方向に進み、「大串」交差点手前左側で県道沿いに前河内日吉神社は鎮座している。社の右隣には前河内集会所があり、集会所と社の間に駐車スペースがあるので、そこの一角に車を停めたから参拝を行った。
 因みに「前河内」と書いて「まえごうち」と読む。
            
              境内西脇に設置されている社号標柱    
               
                               前河内日吉神社正面
               
                   境内は規模は小さいながらも手入れが行き届いている。
               
                                      拝 殿
 拝殿の前にある一対の天水桶。この天水桶は古くからある雨水を貯めておくタンクで、寺社に於いては主に防火用水として用いられてきたものだ。

日吉神社 吉見町前河内一
社伝によると、当社は文亀二年(一五〇二)に近江国の日吉神社から勧請したという。
社蔵資料として宝暦六年(一七五六)の社殿棟札がある。これには「祭主高橋内記源照朝」「願主江戸下谷各■籐八郎」「世話人筑井平四郎・恩田伴七・福田杢右衛門・高橋武兵衛」らの名が見える。また、元文四年(一七三九)から宝暦五年(一七五五)までの十七年間をかけて、神官が氏子から毎年二季の初穂を取り集めて金二〇両を調え、社殿の造営費に充てた旨が記されている。
『風土記稿』には「山王社 村の鎮守なり、最勝寺持」とある。これに見える最勝寺は真言宗の寺院で、江戸初期の草創と伝えられる。
恐らくは、別当の最勝寺とは別に、先の棟札に「祭主」としてその名が見える高橋家が社人として日常の祭祀を司っていたものであろう。内陣に奉安されている金幣の墨書には「大正拾年奉納当社社掌高橋泰全」と記されている。
現本殿は宝暦六年造営当時のものと思われ、重量感のある堂々とした三間社流造りである。その形式から三柱を祀ったものと考えられるが、棟札には「日吉大神・大山咋命」の二柱を伝えるのみである。なお昔この地は下総国佐倉藩の所領であった時代があり、藩主により惣五様(佐倉惣五郎の霊)が当社に祀られたという伝承がある。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   本殿。本殿左側には御札所がある。       本殿右側に鎮座する合祀社等。
                      若宮大神・火(大)穴大神・八幡大神、天神社
               
     参拝を終えて何気に振り返ったところ、瓦に不思議な紋があった。「菊水紋」である。

「菊水紋」の始まりは鎌倉時代、後鳥羽上皇にある。徳に菊を好んでいた上皇は、持ち物に文様として取り入れており、これが代々使われていくうちに皇室の紋章となったという。その後、後醍醐天皇より恩賞として菊紋を下賜された楠木正成が、そのまま用いるのは恐れ多いと、信奉する水分神社の流水紋と合わせた『菊水紋』を創ったとされ、その後楠木氏・和田氏の代表家紋として定着したという。
 楠木氏は通説によれば橘氏の後裔といい、本姓橘氏としているが、正成以前のことは詳らかではなく、鎌倉時代には河内金剛山観心寺領の土豪であったともいわれている。商業活動に従事した隊商集団の頭目であったという説もある。

 一方、楠木という名字の地が摂津・河内・和泉一帯にないことから土着の勢力という従来の説にも疑問が出始めている。
 元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん」 という落首が記録されている、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意味とされ、楠木氏はもともと武蔵国御家人で北条氏の被官(御内人)で、霜月騒動で安達氏の支配下にあった河内国観心寺は得宗領となり、得宗被官の楠木氏が代官として河内に移ったと推定している意見もある。

『吾妻鏡』には、楠木氏が玉井・忍・岡部・滝瀬ら武蔵猪股党の武士団と並んで将軍随兵とあり、もとは利根川流域に基盤をもつ武蔵の党的武士のひとつだった可能性も否定できない。武蔵国内の在地勢力は北条氏が冷遇したためか、党的武士は、早くから北条得宗家の被官となって、播磨や摂津・河内・和泉など北条氏の守護国に移住していた。
 河内の観心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領であり、正成の家は得宗被官として河内に移住したものでないかという説もなかなか説得力はある。

 案内板等にも詳しい由来がない。何か社と紋が関連する説話等知っている方がいたら、その点に関してご教授の程宜しくお願いしたいと切に思う。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」等

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江綱元巣神社

 ナキサワメとは日本神話に登場する天津神系統の女神で、泣沢女神や啼沢女命と呼ばれ、哭沢女命とも表記される。
『古事記』国産み・神産みの段においてイザナギ(伊邪那岐)イザナミ(伊邪那美)との間に日本国土を形づくる数多の子を儲ける。その途中、イザナミが火の神であるカグツチ(迦具土神)を産むと陰部に火傷を負って亡くなる。「愛しい私の妻を、ただ一人の子に代えようとは思いもしなかった」とイザナギが云って、イザナミの枕元に腹這いになって泣き悲しんだ時、その涙から成り出でた神は、香具山の麓の丘の上、木の下におられる。この神がナキサワメである。
 神名は「泣くように響き渡る沢」から来ているという説がある。また、「ナキ」は「泣き」で、「サワ」は沢山泣くという意味がある。「メ」とあるので女神であるという。

 太古の日本には、巫女が涙を流し死者を弔う儀式が存在し、そのような巫女の事を泣き女という。この儀式は死者を弔うだけではなく魂振りの呪術でもあった。泣き女は神と人間との間を繋ぐ巫女だった。ナキサワメは泣き女の役割が神格化したものとも言われており、出産、延命長寿など生命の再生に関わる古代より信仰を集めていた。また、雨は天地の涙とする説があり降雨の神様としても知られている。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町江綱1501
             
・ご祭神 啼沢女命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 49日 例祭 419日 新嘗祭 1127
                  
冬至祭(星祭)1223

 江綱元巣神社が鎮座する江綱(えつな)地域は、市野川左岸に位置し、集落は主に自然堤防上に形成されている。江綱の地名は、河川にかかわると考えられ、また元巣も、鎮座地が元は洲であったことに由来する。文化十六年(1819年)6月の『武蔵国横見郡江綱村墨引兼絵図』には、市野川左岸に「元巣社」が記されている。
               
                                   江綱元巣神社正面
            
            「供進社 江綱神社」と表記されている社号標柱

 下細谷天神社から一旦東方向に進み、埼玉県道345号小八林久保田青鳥線に交わる十字路を右折し、県道を吉見町役場等の市街地を通り過ぎるように2㎞程南下する。その後コンビニエンスストアのある「江綱」交差点を左折し、埼玉県道33号穂が市松山桶川線に合流後東方向に進む。750m程進むと道路正面右側に「元巣神社」の看板が見えるので、そこを右折するとすぐ右側に社の社叢林が見えてくる。
 残念ながら周辺には社務所や集会所等もなく、駐車スペースはない。車両の邪魔にならない場所に路駐してから急ぎ参拝を開始する。
                       
                               神明系の
江綱元巣神社鳥居

 江綱元巣神社は水を司る啼沢女命を祭神としている。社伝によれば、大和国の畝傍山の麓に鎮座する畝尾都多本神社の分霊を勧請したと伝える。畝尾都多本神社の祭神は、伊弉諾命の涙から生じた啼澤女命で、「哭澤の杜」に祀られる古社であり、延喜式内社である。この神を祀る社は、関東では当社のみであることから「関東一社」の別名がある。恐らく、涙が水沢のごとく流れるの意から沢とかかわり、またサワメが雨にも通じる語であるので、いずれにしても水を司る神として祀られたことは明らかである。ちなみに、氏子は当社を「命綱の神」とか「命乞いの神」と呼んでいる。
               
          参道右側には手水舎がある。柱には凝った彫刻が施されている。
               
                                      拝 殿
 
 拝殿正面上部には扁額や奉納額(写真左)、その左側には新しい扁額(同右)が掲げられている。
               
 また江綱元巣神社の拝殿向拝部、兎ノ毛通し・唐破風下・中備には種々の立派な彫り物が飾られている。
 
       木鼻の獅子(写真左・右)もなかなか凝った彫刻を施している。

 裏側には彫師の銘があり、「武州 熊谷町 彫刻師 飯田祐次郎」と表記されている。この飯田家は大麻生河原明戸の生んだ宮大工にして彫刻師で、久能山東照宮の五重塔改修の折に、名工としての名を馳せ、「和泉守」を拝命したことから、代々宮大工棟梁としてその名を継いでおり、江戸時代後期から明治時代までに各地に多くの作品を残している。
 飯田家の一族には建築だけでなく彫刻にも優れた人材も輩出しており、残された作者名からは「飯田岩次郎」「飯田仙之助」「飯田常吉」「飯田竹三郎」「飯田元三郎」「飯田勇次郎」飯田岩吉」「飯田岩五郎」等の名がみえる。
 さて江綱元巣神社に表記されている「飯田祐次郎」とは「飯田勇次郎」その人であろうか。
               
                          拝殿付近に設置されている案内板

 元巣神社略記
・鎮座地 埼玉県比企郡吉見町大字江綱一五〇一番
・御祭神 啼沢女命
・由緒
 元巣神社はその昔、大和国畝尾啼沢の社より女神啼沢女命を御霊星御奉斎いたしました。
関東地方では、只一社の御社でありますので関東一社とも称せられて、古くから上下の信仰が極めて厚い神社であります。
 御奈良天皇の御代天文元年藤原重清がこの地方に下向いたしましたが、当時庶民が水難に遭い、病に苦しむ状をあわれみ、病気平癒と五穀豊穣の祈請したと謂われ、また源頼朝は特に元巣神社尊信し、大串次郎重親を使として厄難消除道中安全祈願祭を数度に亘り斎行したところ、神徳の顕現により種々の危難を脱れたと伝えられております。
 爾来、元巣神社の御社名いよいよ高く、諸民の尊崇を受けて社殿の造営、祭事の厳修等御社運は隆盛をきわめ寛永七年八月二十七日宗源宣旨を以って正一位を授けられた御神威の輝かしい神社であります。
・御神徳
 元巣神社には伊邪那岐神の別御霊を併せ祀ってありますので、命乞神、命奴志神、命比売神、玉緒神、命綱神とも称えられ御社名のように「元の巣に帰る」という古くからの信仰により、交通安全守護神として関東一円にその名を知られており、又、病難徐、家運隆昌守護の神としてその御神徳は広大無辺であります。(以下略)
                                      案内板より引用

 
          本 殿              社殿左側に鎮座する境内社・三峯社
               
                    社殿左側に鎮座する境内社・稲荷社 天神社合祀社。
               
          稲荷社 天神社合祀社の左側に並列鎮座する境内社・浅間社。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「くまがやねっと情報局」「Wikipedia」等


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下細谷天神社


               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町下細谷313-1
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祭 325日 例祭 75日 秋祭り 1017

 吉見町下細谷地域は地域中央部には吉見町役場があり、南側に接している久保田地域と共に町の市街地に当たる場所で、行政区域も町役場を中心に東西約1.3㎞、南北約1.2㎞のやや正方形に近い地域である。
 地域全体低地帯に属している。地域の平均標高は12m15m。標高が高い下細谷天神社でも16.3m程。東西にはそれぞれ台山排水路、横見川が南北に流れていて「新編武蔵風土記稿」にも「吉見用水を引けど、水不足なれば大里郡恩田村より出る清水、及び和田吉野川の水を引て沃(そそ)く」と記載され、嘗て水の被害が多かった場所である事も地形を確認すると分かる。
 下細谷天神社は吉見町役場から北側250m程の場所に鎮座する地域の鎮守様である。
               
                                    下細谷天神社正面

 下細谷天神社は埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線沿いにある吉見町役場を350m程北上し、変則的な十字路を左折し、暫く進むと進行方向左側で道路沿いに社は鎮座している。
 和名野芽神社からは一旦東方向に進路を取り、横見川沿いに進むとすぐ先に十字路が見えるので、そこを右折する。あたり一面長閑な田畑風景が広がる道を東行すること500m程で、またもや十字路に達し、左折し暫く進むと右側に下細谷天神社が見えてくる。
 社は道路沿いに鎮座し、社殿は東向き。鳥居のある正面周辺には駐車スペースはないが、西側社殿の奥に駐車可能な空間があり、そこに停めてから参拝を行う。
               
                社号標柱の先に鳥居が見える。
 
       下細谷天神社鳥居           鳥居の先には比較的長い参道が続く。
               
          境内は綺麗に整備されていて、手入れも行き届いている。
      また社殿の手前には広い空間があり、両脇には椅子も設置されている。
        吉見町唯一の「下細谷ささら獅子舞」が奉納される場であろう。

 下細谷ささら獅子舞  町指定無形民俗文化財
 通称「ささら獅子舞」と称する三頭の獅子による獅子舞で、このささら獅子舞は静岡県から東北地方にかけて広く分布している。県内では約200箇所で伝承されていることが確認されている。かつて吉見町内には下細谷・松崎・一ツ木に獅子舞があったが、後継者の問題などから、現在ではこの下細谷地区に伝わる獅子舞だけが残っている。
 下細谷ささら獅子舞は、今から400年前ほど前の江戸時代前期に東北地方から伝わったと言われている。吉見地域で飢饉があり、同様な飢饉に見舞われていた東北地方を視察に行った際に、疫病退散・豊作祈願の獅子舞があることを知り、習い伝えたのが始まりと言われている。かつては旧暦の72627日(現在の92627日)に行っていたが、現在では例年10月中旬の日曜日に行われている。
 獅子舞は獅子3頭(男獅子2頭・女獅子1頭)、花笠をかぶるザキッコ4人(小学生)、笛吹き10数人、山伏役1人(ホラ貝を吹きながら一人で行列の先頭に立つ。ホラ貝を吹くのは祭りの場を清める意味を持つ。)、棒使い16人で構成され、全員で40人ほどになる。
 古代、田植え行事には屋根に菖蒲を葺き、早乙女たちは身を清め忌みごもりして田に入り、神を祭る心で厳粛に田植えを行ったと言われている。平安時代になると、早乙女たちが苗を植える間、男たちは笛や鉦・太鼓を叩きササラを摺って田の神を祭る行事が営まれるようになった。これが田楽の起こりで、その後、田楽は神社の祭礼にも取り入れられるようになった。下細谷のササラ獅子舞もこの田楽の流れを汲むものである。
                                   「吉見町HP」
より引用
               
                                 拝 殿

 天神社 吉見町下細谷三一三-一
 社伝によると、当社の創建は寛文元年(一六六一)七月五日のことである。その後、天保十四年(一八四二)十一月に本殿を、嘉永四年(一八五一)三月に幣殿・拝殿をそれぞれ造営した。
 造営史料としては、本殿の石造台座に刻む銘文がある。これには「天保十四癸卯年十一月吉祥日」の年紀があり、別当照明寺をはじめ、同じ地内にある明王院の法印盛秀の名や世話人らの名が見える。現在の本殿はこの時のものと伝え、精緻な彫刻が施された秀逸な造りである。内陣に奉安する神牌には、中央に「十一面観世音菩薩」、その左右に「天満宮本地佛」「彌勒菩薩」と刻まれ、神仏習合の模様を伝えている。
『風土記稿』下細谷村の項には「天神社 村の鎮守なり、照明寺持」とある。この照明寺は幕末に火災に遭い廃寺になったと伝えられる。
 明治四年に村社に列し、同四十年には字東上の無格社熊野社を当社に合祀し、併せて字中の無格社愛宕社と字諏訪の無格社諏訪社を境内に移転した。
 なお、当社には、寺子屋教育の模様を描いた奉納額(天文元年・一八六四)があり、往時地内で寺子屋が行われていたことがわかる。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
拝殿に掲げてある扁額は「天神社」「諏訪神社」        本 殿
     の二社。不思議な配列だ。
               
             境内に設置された「天神社 改築記念碑」

 平成23年3月11日に発生した「東日本大震災」により、天神社の屋根が崩壊した。総代・氏子一同の話し合いにより、社殿を新しく建て替えることになったという。
 細谷天神社のみならず、多くの寺社が先の震災により被害を被り、未だに補修、改築されていない所もある。自然災害であるのでどうしようもないが、痛ましいことだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「吉見町HP」「埼玉の神社」等

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和名野芽神社

 カヤノヒメは、日本神話に登場する草の神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。
 神産みにおいて伊邪那岐命 (いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみ)の間によって風の神・木の神・山の神と共に生まれた野の神。またの名を野椎神という。 『古事記』においては、山の神である大山津見神との間に、48柱(天之狭土神・国之狭土神・天之狭霧神・国之狭霧神・天之闇戸神・国之闇戸神・大戸或子神・大戸或女神)の神を生んだ。
『日本書紀』五段本書には、「次に草の祖、草野姫を生む。亦は野槌と名す」とあり、神名の「カヤ」は萱のことである。萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。
 別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である。
「八百万の神」を信奉する嘗ての日本人の自然に対する細やかな配慮を感じる「草の神」を祀る神社がこの和名
野芽神社である。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町和名464
             
・ご祭神 草野姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 春祭り 425日 例祭 1017日 秋祭り 1028

 久米田神社から北方向に1km程進んだ高台の一角に鎮座している和名野芽神社。進路途中「和名保育園」と「和名集会所」があるY字路の左斜め方向に進むとほぼ正面に社の社叢、及び鳥居が見える。後日地図を確認すると吉見町役場からでも北西に1㎞程の距離である。
 神社脇に駐車できる広い空間があり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
               
                                  和名野芽神社正面
      周囲は民家も少なく、高台の一角にひっそりと鎮座しているという第一印象。
 
        石製の明神鳥居            鳥居上部に掲げる社号額
               
             参道の先には小さな拝殿が静かに鎮座する。
                                                        拝 殿

 野芽神社 吉見町和名四六四
 吉見丘陵の東端部一帯は、古くから谷田が開かれた所で、中世には、横見郷と呼ばれていた。当社の鎮座する和名は、この横見郷に属した村で、その地名は、『郡村誌』に「地味 真土三分 赤色埴土七分」とあるように、埴土の多い土地であるため、「埴」が転訛したものと考えられている。
 穂先にある剛毛である芒のことを意味している。『曾丹集』に「我守るなかての稲も芒は落ちてむらむら穂先出でにけらしも」という歌があるが、稲や麦の穂先に伸びる芒は豊かな実りをもたらすもの、すなわち穀霊が宿る依代に見立てられていたことは十分に推察できる。横見郷の総鎮守は、式内社の横見神社に比定されている飯玉氷川明神社(旧号)で、「飯玉」という社号が示すように稲に宿る穀霊を祀る社であることを考え合わせると、当社もまた、芒に宿る穀霊を祀った社であるということができよう。なお、『明細帳』によれば、祭神は草野姫命となっている。
 また、拝殿には、江戸時代に奉納された「正一位野(埜)芽大明神」という社号額が二枚掲げられており、そのうちの一枚の裏面には「享保十二未(一七二七)八月二日」の年紀が見えることから、このころ京都の吉田家から極位を受けたものと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
     拝殿に掲げてある扁額         社殿の左奥に鎮座する境内社・詳細不明


 和名野芽神社から西方向に進み、和名沼の西側端附近に「和名埴輪窯跡群」が嘗て存在していた。吉見町HPによると「古墳時代の遺物である埴輪は500℃以上の高温で焼くために、半地下式の登窯やトンネル等の施設が必要であった。和名埴輪窯跡群は、そうした登窯が集中しており和名沼の北側斜面一帯に広がっている。昭和49年に行われた発掘調査では、円筒埴輪・形象埴輪を伴って4基の登窯を検出しているが、この付近一帯にはさらに多くの窯跡が存在していると考えられる」と説明されている。県指定 重要遺跡に指定されている。
               
                           「 和名埴輪窯跡群」案内板

 和名埴輪窯跡群
 古くから、ここ和名沼の北側斜面一帯は、多くの埴輪が発見されることで知られていました。昭和四十九年に行われた発掘調査では四基の埴輪を焼いた登り窯の跡が見つかっています。昭和六十二年にはさらに一基の窯跡があることが確かめられ、そのままこの場所に遺されています。これら以外にもたくさんの登り窯跡があると考えられており、県内有数の埴輪窯跡群のひとつです。
 埴輪は、今からおよそ一六〇〇年前から一二〇〇年前頃まで続いた古墳時代の豪族の墓である古墳の廻りに設置されたものです。
 ここで焼かれた埴輪には、人物、馬などの形象埴輪や円筒埴輪があり、近くの久米田古墳群をはじめとする吉見丘陵や、岩鼻古墳群などの松山台地上に造られた多くの古墳に設置するために生産されたと考えられます。 吉見町教育委員会
                                      案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「吉見町HP」Wikipedia

  

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