古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

間々田稲荷神社

 間々田は、旧妻沼町男沼地区の集落で、熊谷市の北西部、利根川右岸の自然堤防上に位置している。因みにこの地域では利根川支流である「小山川」が利根川右岸へ、また「早川」は反対側の左岸で合流するため、この付近の河川敷には広大な洲が発達している。「間々田」地名由来として、「埼玉の神社」では、崖を示す『マフチ』に由来すると説明している。
 また「くまやく健康だより 第
47号」で「妻沼の地名」由来を紹介され、そこに「間々田」は、地形変化の多い場所を意味する方言の「まま」という意味の他、利根川の洪水被害を受けると、各所に間を空けて田畑が再び造られたことを意味するともいう。どちらにしても、利根川という大河川の影響を受けていて、地名の由来も河川による浸食等で出来た地形を表現している事には変わらないようだ。

「新編武蔵風土記稿」幡羅郡の間々田村の項には「間々田村は原郷と唱ふ、庄領の名。民戸九十八、東西十八丁余、南北十五丁、東は出来島村、南は太田村、西は上野国新田郡前小屋村、北は利根川を隔て、同国同郡堀口村なり。」と書かれていて、間々田地域も、前項「出来島」地域同様利根川によって南北を分断されている地域である。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市間々田248
             
・ご祭神 大日孁貴命 豊受姫命 素戔嗚命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 初午 2の午、99日 祈年祭 218日 例祭 418
                  
新嘗祭 1125
 間々田稲荷神社は妻沼台白山神社鎮守男沼神明宮の西側、出来島伊奈利神社の南方にあり、周囲一帯田畑風景が続く中に、南北200m程、東西130m程の狭い空間の中、社を中心として集落が形成されている。正に「鎮守様」といった趣がこの社には感じる。
 途中までの経路は鎮守男沼神明宮を参照。埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線から「熊谷市消防団男沼分団」が右側斜向かいに見える十字路を左折して、道なりに西行する。辺り一帯の田畑風景を眺めながらも、やや正面に見える集落を目指すと、昔ながらの防風林に囲まれた住居が立ち並ぶ中、正面に間々田稲荷神社の鳥居が見えてくる。
 社に隣接した左側には間々田コミュニティセンターがあるので、そちらの前に駐車してから、参拝を行った。
             
   社の西方向で、埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線沿いには社号標柱が立っている。
         写真では道路の遥か先に間々田稲荷神社の社叢林がみえる。
        
                                      稲荷神社正面
 一の鳥居は石製の明神鳥居、すぐ先に続く二の鳥居は朱を基調とした同系鳥居で、白と赤のコントラストは見た目も美しい。
 社の境内にも言えることだが、正面付近の手入れも行き届いていて、ゴミ一つない。周面住民の方々の日々の努力には頭が下がる思いがする。
        
                                      境内の様子
     高台の上に社殿は鎮座。古墳、又は塚の可能性もあるというが、詳細は不明。
       
            拝殿に通じる石段の手前で、右側にある巨木。
            この社周辺にはこのような巨木・老木が多い。        
        
                                         拝 殿
 間々田稲荷神社の例祭である初午には、神社境内にて万作踊りが奉納されていた。江戸時代末期から明治・対象・昭和と長年に亘り、この地域内行事として万人に親しまれてきたという。この万作踊りは、大東亜戦争時の昭和15年から平成元年まで中断されていたが、平成2年に復元し、同年熊谷市指定文化財に指定され、現在は地域で継承されている。

「間々田万作おどり」 熊谷市指定無形民俗文化財
・所在地 間々田
・所有者(管理者) 間々田万作おどり保存会
妻沼地域の間々田にある伊奈利(いなり)神社の祭礼(初午(はつうま))の当日、神事の後の奉納行事として踊られます。利根川の水運にも恵まれ、養蚕や米麦などの豊な生産地であった間々田では、五穀豊穣(ごこくほうじょう)への祈りと、収穫の感謝を込めて、万作踊りが継承されています。
江戸時代から始まった踊りも、戦後において一度途絶えたことがありましたが、保存会によって復活し、今に至っています。
太鼓や四()つ竹(だけ)を用いての「手踊(ておど)り」や「手拭(てぬぐ)い踊り」は、老若男女を問わず地元の人々に親しまれています。
・指定年月日 平成241
                                                 「埼玉県県民生活部文化振興課HP
」より引用
 
 参道を中心にして、左右共に高台の斜面上に立ち並ぶ幾多の霊神の石碑の数々(写真左・右)。参道に対して左側斜面上には「合祀碑」もある(写真左、中央部)。
 石碑の中には「豊斟渟尊・国常立尊・国狭槌尊」等彫られている神様もあり、おそらくこの斜面は御嶽塚も兼ねていると思われる。
 
  社殿のある高台の左手には境内社が鎮座している。高台下で、左隣に鎮座する「蚕影神社」(写真左)。蚕影神社の左側並びに長屋風に鎮座する「神輿庫」「湯殿神社」「秋葉神社」「八坂神社」(同右)。

「大里郡神社誌」には境内社・蚕影神社に関して「境内末社 蚕影神社は天棚機比咩を祀れり又御名は天萬拷幡比賣命は天祖大日孁貴尊の神勅を遵奉して天の神機殿に奉仕られ機業祖神の一柱に坐し」と記載されていて、実際近年まで養蚕が氏子の主要な収入源であったことから、養蚕の無事を願う氏子の気持ちに切実なものがあり、折節に祈願が行なわれていたという。
        
           鳥居を過ぎて左側には猿田彦大神の石祠、奉納庫、詳細不明な石祠あり。       
        
                                 境内の一風景

「大里郡神社誌」によると間々田稲荷神社に関して以下の記載がある。

「明治五年九月入間縣に於て村社に列せられたりき、その鎮座の御代年月は傳へなければ詳かならざるも令義解和名妙武蔵風土記稿にも伝へるが如く幡羅郡或いは原郷に作りて間々田は長井庄に属して古来よりの名地なりけり古より同村小字伊勢といへる所に神明の鎮座ましまして大日孁貴尊を齋奉り小字伊奈利臺に豊受姫命を祀奉りき、こは神風の伊勢国内外の神宮の大神等を齋奉りて往古此地を開拓せしとなむまた月読神社と同神なる小字天神坪鎮座ましまし素戔嗚命をも合祀りし御社にして地名も幡羅郡永井の庄なるからに間々田と命名せしものならむ間々田は甘味田にて瑞穂の国の八束穂の稲また麦豆の熟廣成れるを壽詞し嘉名けらし(中略)
 此間々田の伊勢内外の神にはいとふかき所縁ある神社にて妻沼の神社と共に古社なること論なかるべし(以下略)」


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉県県民生活部文化振興課HP」
    「くまやく健康だより 第47号」等 

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出来島伊奈利神社

 旧妻沼町は利根川流域に位置している関係からか、地域名もまさに河川の影響を受けた名称が多く存在する。そもそも「妻沼」という地名自体「聖天宮縁起」という資料によると、「男沼」「女沼」という沼が東西に二つ存在していて、現在の妻沼の中央部に女沼が、妻沼北西部に男沼が位置していたといい、これらの沼は利根川氾濫後にできた沼と云われている。その他の地域の名の由来も箇条書きで説明する。
「善ヶ島」…洪水が起きると盛り上がった場所が島のように見えたことから、川の流れから逃れてきた人を助ける「善(よい)」島としてこの地名がついたという。西部に位置する「出来島」や対岸の「妻沼小島」も洪水時にできた島ということから、同じ意味であるという。荻野吟子が生まれた妻沼東部の「俵瀬」は利根川や福川の洪水の影響で、俵のような島ができたということで、「俵島」と呼ばれていた。
「間々田」…地形変化の多い場所を意味する方言の「まま」という意味の他、利根川の洪水被害を受けると、各所に間を空けて田畑が再び造られたことを意味するともいう。
「葛和田」…「和田」は河川の湾曲する入り江をいい、「葛」に関しては、鎌倉時代には葛の花が咲く地とも言われたそうで、また「葛」と同じ読み方かたから、江戸に送り届ける米麦や大豆の皮(もみ殻などのくず)を集めた場所という説もある。
「上江袋」…「袋」は「沼地」という意味。熊谷市の旧別府村方面から川の水を貯える場所を「江袋沼」と名付け、周辺の地名となったという。
「道ヶ谷戸」…「谷戸」は「湿地」を意味する他、「戸」は川の水路を管理する水門の意味もある。
「長井」…「長大に点在する井戸」を語源とする説。別説では「埼玉県地名誌」によると、「井」は川を意味し、「長」は「利根川」を示す説もあり。

 当たり前のことであるが、地域の名称の由来として最も多いのは、その土地の地形を表す言葉である。古い時代に付けられた地名に多く、自然改変の結果やその場所の施設・機能に由来する地名が付けられるのは、その種の活動が出現しなければ出てこない。更に土地の形や歴史、過去に住んでいた人等のさまざまな情報が地名には含まれているといっても良い。
 自分が住んでいたり所有していたりする土地の名前はどんな由来があるのか、誰もが一度は興味を持つ瞬間があると思う。地名はその地域の重要な情報や特徴を、先人たちが我々後代の人間に教え、諭し、警告してくれる重要な「遺産」ともいえよう。
                    
             ・所在地 埼玉県熊谷市出来島10
             ・ご祭神 稲荷神
                  別雷命 素盞嗚命 天御中主命 天手力男命 大日孁貴命
                  伊弉那美命 事解男命 速玉男命(大里郡神社誌より参照)
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 出来島あばれみこし〈7月下旬〉
 旧妻沼町出来島地域は男沼地域の西側に位置し、地形は地域の中央を東西に流れる利根川で南北に分断されていて、北部は利根川河川敷に位置する。集落は利根川右岸の土手以南に点在する長閑な田畑風景が続く地域である。

 出来島伊奈利神社は鎮守男沼神明社から北西方向、利根川右岸にある堤防からすぐ南側に鎮座する。途中までの経路は鎮守男沼神明社を参照。埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線を西進、「熊谷市消防団男沼分団」と、隣接する「男沼公民館」の十字路を直進し、400m程進むと右側に「熊谷市立男沼小学校」が見え、進行方向に隣接する工場の先の十字路を右折。道幅の狭い道路を暫く進むと、途中二手に分かれるY字路に達するので、そこは左方向に進路をとると、利根川の堤防が見え、その手前左側に出来島伊奈利神社が鎮座している。
 周囲に専用駐車場はない。鳥居の前の道路も道幅が狭いため、対向車両等交通の妨げにならない場所に路駐し、急ぎ参拝を行った。
        
                               出来島伊奈利神社正面
 境内は広く、参拝時期も冬であったので、樹木の茂りもなく、陽光が境内一帯に広がっていて、気持ちよく参拝できた。但し案内板等なく、詳しい由来等ないのが残念。
        
                                     拝 殿
 利根川に接する妻沼地域の集落は、上流から間々田・出来島・台・妻沼・善ケ島・大野・葛和田・俵瀬があり、利根川と共に歴史を刻んできた。「出来島」の地域名は、一旦洪水になると、村が水面に浮かぶ島のようになることから付けられたといわれている。
 嘗て利根川は常に氾濫し、村落の境界は常に変動していて、上記の集落は利根川の氾濫と闘いながら共存したと言える。
 

      拝殿右側には堤防に繋がる高台となっていて、多くの石碑、石祠等がある。

 めぬまの東西「あばれ御輿」のうち、「東」は葛和田大杉神社(熊谷市葛和田591)の祭礼だが、「西」は出来島八坂神社(伊奈利神社:熊谷市出来島10)の祭礼である。7月中旬の日曜日、みこしは昼前に神社を出発し、揉んだり水を掛け合ったりと楽しく盛り上げながら地区の家々を回り、歓待を受ける。16時前後に神社前から利根川河川敷に下り、川に入れてひとしきり揉んだあと、みこしを川中に立ててとんぼに上り、水中にダイビングする。
 関東有数の奇祭は、みこしを引き上げて神社へ還すまで始終笑いに満ちているという。
               
                              
出来島伊奈利神社 境内の様子

 上州(今の群馬県)世良田(現群馬県太田市)に鎮座する世良田八坂神社での祇園祭りは、400年以上の歴史を持ち、利根川対岸の住民もこぞって見学に出掛け、周辺の地域はこの祇園祭の影響を受けてきた。
 また連続堤が築かれるまでは、現在の群馬県利根川沿いの集落は、舟を移動手段していたことから隣の村であり、経済活動や地域文化の一帯感があったと推測される。
 世良田の祇園祭りに担がれる神輿が新調された際に、古い神輿を出来島に譲渡すことが決まり、神輿を利根川に流して、出来島河岸で引き上げたことから、祭りが始まったといわれている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「くまやく健康だより 第47号」
    「くまがや市商工会HP「くまがやねっと情報局HP」「Wikipedia」等
         

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鎮守男沼神明社


        
               
・所在地 埼玉県熊谷市男沼225
               
・ご祭神 大日孁貴神(天照大御神)
               
・社 格 旧村社
               
・例 祭 不明
 鎮守男沼神明社は妻沼台白山神社の北西に鎮座する。途中までの経路は妻沼台白山神社を参照。埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線を1㎞程西進し、「熊谷市消防団男沼分団」と、隣接する「男沼公民館」がある手前の十字路を右折し、正面左側を眺めると鎮守神明社の社叢がすぐに見える。社の入口には数台分の駐車スペースがあり、路駐等の心配はない。
 周囲一面田園風景の中にポツンと静かに佇む「地域の鎮守様」といった第一印象。
        
                  鎮守男沼神明社正面
           周囲は綺麗に整備をされていて、境内も手入れも行き届いている。
        
                   神明系の鳥居
  鳥居の左右に社号標柱が建てられており、左に「鎮座天満宮」、右に「鎮守神明社」とある。    
「男沼の起源」として、「熊谷市 Web博物館」では以下の解説をしている。
「男沼の名称は隣村女沼に対するものと考えられる。男沼村・女沼村ともに利根川の浸水地域に位置していることから、その昔利根川の乱流で台地(今の大字台)を挟み、2つの沼ができた。その沼の近くに男体様(男沼神社境内に東向きに建つ祠)があり、下の沼の辺りには女体様(大字女体の白髪社の付近に西向きに建つ)があったことから、上の沼を男沼(おどろま→泥沼の意味)、下の沼を女沼(後に妻沼に改名)と呼んだのがルーツであると言われる。
 確かに地元の古老に言わせると、現在町民運動公園の北、工業団地として開発された地域は、土地が(雉尾堤の北側から大堀地区にかけて)低湿で泥沼状態のところが多かったと聞く。また、妻沼聖天様境内北の芝川ほとりに弁天裏と称する所がある。その低地の中心部にすりばち状の沼があってこれを目沼と呼んだ。また、女体様の関係でいつしか女沼と書くこともあり、女沼と目沼とが併用されている時代もあった。」
「柳田国男氏の地名研究によれば、沼を名とした土地は沼によって耕地を開いたことを意味する。人々が沼に着目したのは、一つに天水場と違って水が涸れてしまうことがないこと、もう一つは要害の便があることを挙げ、小野や谷(や)について、新しい農民がこの方面に着目したことを意味すると述べている。このようなことから沼の地名が付くところは、水田耕作民たる私達の祖先の足取りを語るものとも言える。」
        
                            高台に鎮座する鎮守男沼神明社拝殿
 
         拝殿正面               拝殿に掲げてある扁額
 
 見ずらいが拝殿右側には境内社が鎮座する。    社殿左側裏には石祠。やはり詳細不明。
         詳細不明
           
           鎮守男沼神明社入口左側にある「男沼樋門改修之碑」

 男沼地区は、上流から流れてくる悪水や利根川の氾濫により湛水を余儀なくされた地域で、一時は集団移村が検討されたこともあった。文政2年(1819)頃、長勝寺住職十三世の堪能和尚がこの湛水除去の手段として、利根川に水を流す樋門をつくる計画をたて、建設された。
男沼樋門は、この樋門を大正六年(1917)に煉瓦造りに改築したもので、男沼鎮守神明宮の境内に、男沼樋門改修之碑(1918年建立)がある。

 また幡羅郡妻沼村の記事に、渡場として「当村より上野国へ達する利根川の舟渡なり、対岸古戸村なるを以て古戸渡と呼ぶ、この道は熊谷宿より上野への脇往還なる」とある。
「風土記稿」の「古戸渡」という記述から、この辺りが陸水運の要衝の地で、東山道山武蔵路の利根川渡河の地を示し、その周辺の社は東山道武蔵路を守る為に建立した神社とも考えられるという。

 結論として、神社が街道を守るように配置されている例は幾つか見られる。しかし、拝む方向に拝む対象があるのが普通であり、この辺りの神社は、女沼・男沼・利根川など水に対する信仰から生まれたものと見るのが自然ではないだろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「熊谷市文化財日記」「関東平野にある女体神社」
    「熊谷市 Web博物館」等

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妻沼台白山神社


        
              
・所在地 埼玉県熊谷市妻沼台331
              
・ご祭神 菊理媛神
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 不明
 国道407号線を熊谷警察著から北上し、刀水橋の南に位置する、「登戸」交差点を左折する。埼玉県道45号本庄妻沼線合流後、すぐ先に同276号新島尾島線に分岐する交差点があるが、その手前の細い十字路を右折し、まっすぐ走って行くと左手側に白山神社が見えて来る。
 残念ながら専用駐車場、社務所等は無い。神社脇に路駐し、参拝を急ぎ参拝する。
 
            妻沼台白山神社正面        参道を進むと右側にある「土地改良之碑」

 社の参道は東向きにあるが、行き止まり地点で右側、つまり北側に直角に曲がり、その正面に社殿が鎮座している配置となっている。

「土地改良之碑」
 本地区は妻沼町のほぼ中央北部に位置して東に国道四〇七号を控え北は利根川南に登り戸西は台を隔てて男沼門樋悪水路に囲まれた肥沃な沖積台地で一部陸田を含む畑地より成り受益面積は四十八.二ヘクタールである。此処台若宮耕地は古くより排水の便が悪く圃場は形状不規にして道路が狭曲し常に照れば旱魃降れば堪水の害に悩まされ永く農家経済安定の障碍となる。為に予ねて関係者相集い土地改良の推進協議計画中の処昭和四十六年十月備前島賢順助役の指導により団体営畑地帯総合整備事業に採択され幾多の困難を経て同四十七年十二月土地改良区を設立し工事に着手す。爾来組合員一七〇余が総力を結集し二か年の歳月と一億円の巨費を投し四十九年三月良く此の大事業を完遂し地域発展の基盤が確立されたことは慶びに堪えず。茲に関係各位に深く謝意を表し併せて此の感激を碑に刻し後世に伝える(以下略)。
                                     「碑文」より引用
「土地改良之碑」は決して社と直接的に関係する内容の碑文ではないが、この地域の歴史の一端を垣間見る貴重な歴史的な遺産でもある。境内にはこの碑の他に「開田の碑」もあり、そこにも「大里郡旧男沼村大字台並びに旧妻沼町の一部耕地は粘土質壊土横層である為に降雨には堪水し旱魃には乾枯し」とも記載があり、地域一帯は肥沃な沖積台地にあるのも関わらず、排水の便が悪いため、長年農作業に携わっている方々の苦労を軽減するため、土地改良事業を実施した経緯が刻まれている。
              
                              
南向きの鳥居
               また右前には「塞神」の石碑がある。
        
                                   境内の様子
 妻沼の地は、嘗ては利根川の乱流地帯であった。口碑によると、利根川が繰り返し流れを変えるうちに、上下に同形の大きさの沼が生じ、上に男体様を祀っていたので「男沼」、下に女体様を祀っていたので「女沼」、と称するようになったと云われている。
 一方、妻沼聖天宮の縁起によれば、昔、伊弉諾・伊弉冉の二柱の神の鎮座により、「女沼」・「男沼」と称したという。因みに「女沼」は古い表記であり、その後「目沼」、「妻沼」となったと考えられ、一方「男沼」は「お泥沼(おどろぬま)」が名称が変化したといわれている。
 
また女沼と男沼という二つの沼の間には、「台」と称する微高地が伸びているが、これは利根川の自然堤防上にあり、周囲よりやや高い所であり、妻沼台白山神社が鎮座する周辺地域をいう。

 伝説では、
「昔、妻沼に女体様が、男沼に男体様が住んでおられた。この二神は夫婦神で仲睦まじく、男体様が女体様を訪ねられる時は、女体様が途中にある高台の当地まで出迎えられ、お帰りは見送られて、この高台を休み台に別れを惜しまれていた。それから当地を台と呼ぶようになり、また男体様の社は東向きに、女体様の社は西向きに祀られ、白山社は両社の中間にあって南向きに祀られている」
 と云われている。
 女体様は白髪神社(妻沼1038)、男体様とは男沼天満宮(男沼225)のことと推定される。

 この辺りの神社は、女沼・男沼・利根川など水に対する信仰から生まれたものと見るのが自然と考えられる。
        
                     拝 殿
 白山神社  妻沼町台二七九(台字大明神)
 台は、利根川の自然堤防上にあり、周囲よりやや高い所である。伝説では「昔、妻沼に女体様が、男沼に男体様が住んでおられた。この二神は夫婦神で仲睦まじく、男体様が女体様を訪ねられる時は、女体様が途中にある高台の当地まで出迎えられ、お帰りは見送られて、この高台を休み台に別れを惜しまれていた。それから当地を台と呼ぶようになり、また男体様の社は東向きに、女体様の社は西向きに把られ、当社は両社の中間にあって南向きに祀られている」という。女体様は白髪神社、男体様とは神明社のことであろう。
『風土記稿』は「白山社、蔵王権現社、以上二社、共に村の鎮守にて円満寺持」と載せている。この白山社が当社のことで、蔵王権現社は中島にあり、明治初期に曾登神社と改称し、明治四十一年に当社に合祀している。ちなみに、円満寺は天文三年(一五三四)、僧良栄の創建との伝えがある。
 口碑によると、古くは当社内陣に、青い小さな像が祀られていたが神仏分離調査の折に持ち去られたという。また、本殿の下に大きな石が据えられていて、これが昔の神体であるとも伝えている。
 曾登神社は、当社に合祀され境内に祀られているが、一方、旧地でも権現様と呼んで跡地に社殿を建て、古くからの神像を祀り現在に至っている。この神像は室町初期の作と推定される蔵王権現像である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
        
              拝殿右側に鎮座する境内社・曾登神社

「熊谷デジタルミュージアムHP」には、熊谷市指定有形文化財である彫刻「蔵王権現像」が紹介されていて、そこには以下のように記載されている。

・所在地 妻沼台
・所有者(管理者) 曽登神社
・時代 室町時代
・法量 像高40.0cm
 檜の寄木造りの立像。かつて妻沼台の白山神社に合祀されていましたが、里人の要請により現在地に移されました。焔髪が逆立ち、振り上げた右手に三鈷杵を持ち、右足をあげた形をしています。色彩はあせていますが、雄渾な作品で、力強さとバランスを供えた優品です。
・指定年月日 昭和34417



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「熊谷デジタルミュージアムHP」等

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榎戸伊奈利神社


        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市榎戸1127
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧榎戸村鎮守 旧村社
              
・例 祭 春祭り3月中旬 芋っ葉灯籠71718日 新嘗祭 1128
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1059743,139.4435886,19z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線を旧吹上町市街地方向に進み、「鎌塚(北)」交差点を右折、埼玉県道365号鎌塚鴻巣線に合流後500m程先の「榛名陸橋(北)」交差点を右折する。元荒川を越える手前で陸橋から左方向に分離する道路を進み、突き当たりを右折。JR高崎線に沿うような道路を350m程進み、踏切のある十字路を過ぎた最初のT字路を右折すると右側に「榎戸集会所」が見え、その東側隣に榎戸伊奈利神社が住宅街の中に隠れるように鎮座している。
 
榎戸集会所の駐車スペースの一角をお借りしてから、参拝を開始する。
        
           南北に伸びる参道、その先には朱色の鳥居あり。
 榎戸地域は旧吹上町の北西部に位置し、東西は500m程、南北800m程の細長い形で形成されており、元荒川の右岸に広がる農業地域の一角を占めている。榎戸伊奈利神社は、その中央部を通る中山道の街道から北に少し離れた所に鎮座しており、昭和二十年代に耕地整理が実施されるまでは、中山道まで一直線に長い参道が続いていた。また境内の周囲は、今でこそ住宅が建て込んでいるが、嘗て民家は全くなく、楢の林が当社と宝性寺を包み込むように広がる閑静な場所であったという。
        
                               
榎戸伊奈利神社 正面鳥居
        
                     拝 殿
        
               拝殿の左側に設置されている案内板
伊奈利神社  御由緒 吹上町榎戸一-一
□御縁起(歴史)
町の北西部に位置する榎戸は、元荒川の右岸に広がる農業地域の一角を占めている。当社は、その中央部を通る中山道の街道から北に少し離れた所に鎮座しており、昭和二十年代に耕地整理が実施されるまでは、中山道まで一直線に長い参道が続いていた。また、境内の周囲は、今でこそ住宅が建て込んでいるが、かつては民家は全くなく、楢の林、が当社と宝性寺を包み込むように広がる閑静な場所であった。
この榎戸で最も力を持っていた家が、「榎戸の殿様」と称されていた横田家で、かつては当社の祭事の経費の半分は同家が負担していた。横田家は、一三代ほど続いた後、昭和二十年代半ばに絶えてしまったが、当社の参道の脇には同家の墓所があり、町指定文化財になっている。ちなみに『風土記稿』榎戸村の項にも、同家は「旧家半十郎」として載り、「降奥国会津郡」から寛永十一年(一六三四)に当地に来て土着したと記されている。
当社の由緒については、『風土記稿』に「稲荷社 村内の鎮守とす、弁財天社 天満宮」と載る程度で、創建についての詳しい事情は知られていない。しかし、右記のような状況から考えると、社殿の建立や境内の整備についても、横田家が大きくかかわっていたと思われる。また、『風土記稿』には別当についての記載がないが、立地から見て、当社に隣接していた宝性寺が祭祀に関与していた可能性が高い。
□御祭神と御神徳
・倉稲魂命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用

「新編武蔵風土記稿足立郡榎戸村条」には「旧家半十郎、村民にて眼療を業とせり、氏を横田と云ふ。古は陸奥国会津郡の民なりしが、寛永十一年、当所に来りて土着せり。其の家系を閲するに、山内五郎左衛門尉俊綱が後胤にて、俊綱より六代横田兵部大輔俊治、はじめて横田を氏とす。其の子刑部大輔頼俊は又山内を称せり。此の人より六代越中守俊泰の次男を横田左馬助光弘と云ふ。これ半十郎が祖先なり。それより、左馬助長房、左馬助光房、丹波守隆房、安芸、兵庫、善九郎など連綿と記したれど、事跡、年代等すべて詳ならず。たゞ善九郎は天正十八年に流浪せし由見ゆれど、何れに仕へしかは載せず。それより後はすべて伝を失へり。又祖先の持ちしものとて槍一筋を蔵す」と記されている。
        
                 境内社・天神社と辨天社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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