古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

荒子八幡神社


                 
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町荒子472
             
・ご祭神 誉田別尊
             
・社 格 不明
             
・例 祭 不明

 万光寺氷川神社を東方向に進み、埼玉県道76号鴻巣桶川線に交わるT字路を右折する。周囲を田畑風景が広がる中、県道進行方向に対して左側に鎮守の杜らしい社叢林が見えているものの、左折して直接社に繋がっている道がない。一旦社叢林を通り過ぎてから「衛生研究所入口」交差点を左折し、同県道33号東松山桶川線を東方向に進み、500m程進んだT字路をまた左折し、道なりに進み「台山排水路」を越えた北側に荒子八幡神社の社叢がはるか遠くに見える。

『新編武蔵風土記稿』によれば、荒子は、「村民良助が先祖茂兵衛」という人物が慶長年間(一五九六-一六一五)に開発したという。慶長十九年の伊奈半十郎の検地や正保の改めの図からも知られるように、当初は開発者の名を採って「茂兵衛新田」と呼ばれていたが、寛文のころ(一六六一-七三)に現在の名に改めたと伝えている。当社の境内は、この荒子の集落の北方にあり、村の鎮守として祀られてきた。境内の周囲は一面の水田で、社殿は水害を避けるために塚の上にある。
               
             「台山排水路」から見る荒子八幡神社

 実はそこから舗装された道はなく、車両は勿論路駐。徒歩にてあぜ道を進み、やっと社に到着する事が出来た。周囲は舗装されていなく地元民でないと分からない場所にあるわりには、不思議と神社の前には大きな駐車スペースが有る。
                
                                  荒子八幡神社正面

 一面の田畑風景の中にポツンと古墳のように見える塚状の丘があり、その丘周辺に社叢林が覆っていて、よく見ると鳥居が2基並んで立っている。遠目からでも規模もそれほど大きくはないようだ。
「陸の孤島」と表現しても全く違和感なく、それでいて長く続く参道のようなあぜ道の先に見える小さい鳥居に、特別な感覚をおぼえたことも事実である。社に通じる道が舗装されていない所も、逆に威厳さや荘厳さを醸し出しているような摩訶不思議な社。
 
      荒
子八幡神社 一の鳥居        境内参道の先、丘上に拝殿が見える。
  参拝客など筆者以外全く見られないが、一旦境内に入ると意外と綺麗に整っていている。
               
                石段を登った先に拝殿が鎮座する。

 吉見町荒子地域は、市野川と文覚川、その間を流れる農業排水路である「台山排水路」が合流する地点から北側にその地域の大部分が該当し、平均標高は12m程の低地帯である。子八幡神社が鎮座する場所は、荒子地域中央部・台山排水路の北側にあり、社に近づくにつれ徐々に標高が緩やかに高くなり、尚且つ丘上に鎮座するので、周囲に比べても高い場所となっている。
 因みに荒子八幡神社の標高は14.7mである。
 
            拝 殿                拝殿上部にある扁額

 八幡神社 吉見町荒子四七二
『風土記稿』によれば、荒子は、「村民良助が先祖茂兵衛」という人物が慶長年間(一五九六-一六一五)に開発したという。慶長十九年の伊奈半十郎の検地や正保の改めの図からも知られるように、当初は開発者の名を採って「茂兵衛新田」と呼ばれていたが、寛文のころ(一六六一-七三)に現在の名に改めたと伝えている。当社の境内は、この荒子の集落の北方にあり、村の鎮守として祀られてきた。境内の周囲は一面の水田で、社殿は水害を避けるために塚の上にある。
 当社の本殿は、文政四年(一八二一)に熊谷の宮大工によって造営されたと伝えられているが、それ以前のことについては、明らかではない。また『風土記稿』荒子村の項には、村内の神社についての記載がない。しかし、当時の荒子は「家数七十余」と、この地域では比較的大きな村であったから、村に鎮守がなかったとは考えにくく、『風土記稿』も善長寺(明治四年に廃寺)について「八幡山と号す、本尊不動」と載せているところから、そのころ既に当社が存在していたことがうかがわれる。
 したがって、当社は、はじめは『風土記稿』の筆者に見落とされるほど、塚の上に石の祠が一つある程度の極めて小さい神社であったのを、文政四年に至って社殿を造営し、その後次第に設備を整えて現在の姿になったのではないかと考えられる。
                                  「
埼玉の神社」より引用
               
                 拝殿上部から石段下を撮影

「横見郡」は横見郡(よこみぐん)は、埼玉県(武蔵国)にあった郡で、現在の比企郡吉見町。古くは熊谷市の一部(旧大里郡吉見村、古代の御坂郷)の地域も含まれていた。安閑天皇元年(534年)の武蔵国造の乱後に献上された4つの屯倉のうちの1つ横渟屯倉はのちの横見郡に当たると推測されている。
 当時の資料では「小」郡で、高生郷(たけふ)・御坂郷・余戸郷(あまるべ)の3郷で、今の比企郡吉見町にあたると通説では言われているが、一説によると、古代における横見郡の郡域は、より広範囲に広がっていたと考えられている。

『和名類聚抄』によれば、横見郡は高生郷・御坂郷・余戸郷の三郷で構成されていた。
 このうち高生郷は吉見町田甲を遺称地と見て、吉見町北西部から東松山市北東部に、御坂郷は熊谷市南東部から東松山市北部に、余戸郷は吉見町「荒子」を遺称地と見て、吉見町南部から川島町にかけての一帯に、それぞれ比定するのが一般的である。


 荒子八幡神社の右側隣には境内社・稲荷神社が鎮座している。
        
                                  稲荷神社正面
 
        稲荷神社鳥居             鳥居に掲げられた社号額
               
               隣に鎮座している八幡神社と同じ形態の参道と丘上に鎮座する社
               
                                 稲荷神社 拝殿



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」等


 

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