古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下岩瀬八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市下岩瀬528
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧下岩瀬村鎮守
              
・例祭等 不明
 小松三神社から南北に通じる道路を北上し、国道122号線合流手前の細い十字路を左折する。進行方向の右手には、真新しい「羽生病院」の建物が見えるのだが、病院の敷地を通り過ぎる手前あたりで、道路の反対側を見ると、下岩瀬八幡神社の白い石鳥居が見えてくる。地図で確認しても、丁度上記病院の南側に鎮座しているので、説明はしやすい。
 社に隣接している「下岩瀬東区集会所」に数台分の駐車スペースあり。
        
                 
下岩瀬八幡神社正面
 社は東向きで、鳥居の東側にも参道は続いているのだが、専用駐車場の如く、車両が多数駐車されていたため、遠景からの撮影はできなかった。周辺を確認すると、社の周囲は羽生病院や一般企業・工場、大学等多く誘致し、市としては経済的な収入源ともなり、また地域の活性化にも繋がることにもなろうが、下岩瀬地域の風景に限っていえば、ここ数十年で環境も激変してしまったのであろう。
 但し、境内にはご神木であろう、樹齢300年程と推定される松の大木があり、地域の環境が変わりゆく中、孤高の如く聳え立っている姿が不思議と心強く感じられた。
        
                    拝 殿
 八幡神社  羽生市下岩瀬五二八(下岩瀬字内野)
『風土記稿』のよると、隣村砂山の辺りを流れる会の川は、昔は流れも広く、当村もこの川に沿った地のため岩瀬の名が起こったとある。
 また、口碑にこの村を開いた村人が五穀豊穣を祈って稲荷社を祀り、それが後に八幡神社に変わったとあるが、詳細は不明である。
 社記によると、当社はもと若宮八幡社と称し、入江駿河守の屋敷鎮守であったが、後にこの屋敷はつぶれて社が残ったとある。また、一説に慶長五年当村入江宗六なる者が創立したが、その後、元和三年に同家と話し合いの上、本村鎮守になるとある。別当は幕末まで、真言宗医王寺が務めていた。
 祭神は誉田別命で、内陣に騎乗の八幡大明神像を安置している。
 本殿は、朱塗りの一間社流造りであるが造営年代は不明である。
 主な奉納物としては、文久二年奉納の川中島合戦の大絵馬や、当地の村人が伊勢参りの記念として上げた伊勢参宮の図がある。
 また、境内には、弘化四年の三峰大権現の石祠があり、このころに三峰講が盛んに行われていたことをうかがわせる。
 現在、当社の所有地は境内の前方に約九百坪ほどあり、これは往時、願掛けをしてこれがかなったため寄附をしたものといわれている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
   拝殿手前で左側に建つ伊勢講記念碑等      社殿の右側奥に祀られている石祠等
                       左側は不明。隣の石祠は境内社・三峰大権現

 氏子区域は下岩瀬の下組で、氏子数は約九〇戸であるという。当地は、現在水田稲作を中心とする農業地帯であるが、戦前は陸稲(おかぼ)や豆を栽培していた。また、養蚕も盛んであり、当地には蚕の種類も多く、取れた繭は羽生の仲買に出荷していたという。
       
          社殿のすぐ近くに聳え立つ大松のご神木(写真左・右) 
『日本歴史地名大系』 「下岩瀬村」の解説
 中岩瀬村の西にあり、南東から南にかけては会の川左岸の自然堤防で小松村に続く。古くは上・中の岩瀬村と一村で、宝永年間(一七〇四〜一一)三村に分れたともいうが(風土記稿)、田園簿・元禄郷帳・天保郷帳ともに岩瀬村一村で高付されている。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等  

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砂山愛宕神社

 大昔、荒川筋を流れていた利根川も、次第に東に移し、会の川筋へと流れをかえていった。嘗て須影地域を流れていた旧利根川は、現在残る砂丘等の地形から見ても、砂山から3回程、大きく流れを変えているといわれている。
 当初は砂山で大きく左折し、現在の手子堀用水路筋を流れていたが、その後、南方に直進し、現在の星川筋へと流れを変え、何時の頃か、現在の会の川筋の流れになったという。
この地域周辺の地名は河川に関連した名が多い。
「川崎」は、川の先(前)、いわゆる利根川の南側の地という意。「砂山」は、文字通り自然堤防である砂丘から名付けられた地名。「須影」は、須は州であり、水流で運ばれた土砂が堆積して、水面上に現れたところ、影は、その背面、いわゆる利根川によって運ばれ堆積した砂丘の背面(北側)の土地の意。「加羽ケ崎」は、かつては蒲ケ崎と書いたと記されていて、崎には南側の意とともに突き出した先端との意味もあり、ここの崎は後者で、利根川の屈曲点に位置する蒲の生えている地の意味と思える。
 これらの地名から察するに、利根川が嘗て流れていた最も古い流路である「手子堀用水路筋」の頃に付けられた地名と考えられるという。
        
              
・所在地 埼玉県羽生市砂山142
              
・ご祭神 火之迦具土神
              
・社 格 旧砂山村鎮守・旧村社
              
・例祭等 春祭り 424日 秋祭り(秋日待) 1015
 イオンモール羽生の南側にある「上川崎公園」から北西方向に通る道路を700m程進み、丁字路を左折すると、すぐ右手に砂山愛宕神社が見えてくる。因みに、
社に隣接している「砂山集会所」に駐車スペースあり。
        
                  
砂山愛宕神社正面
 羽生市砂山地域は、『日本歴史地名大系』 「砂山村」の解説によると、「須影村の西、旧利根川河道に沿う自然堤防上に位置し、同川の搬土作用によって形成された内陸性砂丘がある。南は会の川、東は南方用水路とに挟まれ、北西から南東へ長く延びる」と載せている。近世以前の利根川はクモの巣のように乱流していて、現在の会の川も旧利根川流路の一つと云われた。砂山地域に鎮座する愛宕神社の『縁起』 によると、天正年間に「利根川決壊により田畑が崩壊した」とある。利根川の中流から下流にかけては、肥沃で広大な平野がひらけ、特に江戸時代以降は穀倉地帯となった代わりに、大雨のたびに洪水に見舞われる氾濫域にもなっていた。
        
                 参道正面から見た境内の様子。参道左側に砂山集会所がある。
 
     参道右側に並んで建つ石碑       更に並ぶ石碑・記念碑。左から「辨才天」
左から「参宮記念碑」「〇〇大神」「小御岳」 「土地奉納之碑」「二十三夜供養」「拝伊勢参朝記」
        
                    拝 殿
 愛宕神社  羽生市砂山一四二(砂山字下宿)
 当地開墾の年代は『風土記稿』に「文禄の頃という」とある。『明細帳』によると、当村は天正年間に起こった古利根川決壊による濁流に押し流され田畑はすべて壊滅したが、その後、村人の努力により文禄年間荒地を再び開墾して、村を興し、ここに京都より分霊した愛宕神社を祀ったという。更に慶長三年社殿を再建し、村鎮守と称して小松村の修験宝珠坊が別当を務めていたが、元禄一二年同坊はその地位を失ったため、同村小松寺がこれを引き継ぎ、慶応三年までその職を務めたとある。一方、『風土記稿』には「村の鎮守とす 嶋山寺持」と載り、現存する嘉永三年の社殿建立棟札には「砂金山島山寺現住十七世玄瞳叟代」と見えることから、幕末においては曹洞宗島山寺が管理に当たっていたものと考えられる。現在、砂山新田には「法印」の家号を残す宮本・宮崎・宮地・笹井の四家があり、このうち明治期には宮本家の祖先である宮本敬之進が社掌を務めた。社殿は嘉永三年九月に今の地に移転した。元地は村人に愛宕山と親しまれてきた村の南東にある砂山であったと伝える。当時の移転理由は定かではないが前記棟札により、名主磯田甚左衛門が中心となり村人が力を合わせて社殿を移し、本社・拝殿を造営したことが知られる。
 当社は明治五年に村社となり、同四○年には上宿の天神社・新田の稲荷社を合祀したが、このうち稲荷社は旧社地に戻されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 稲荷社に関しては、当地の神社合祀にかかわる口碑に、明治末期、新田の稲荷様を愛宕様に合祀したが、新田に住む神職の宮本家に突然火の玉が出現し、屋敷各所を移動したため、これは不吉な兆しとの訴えにより稲荷様は直ちに元の地に戻されたと伝えている。
       
                    本 殿 
        
                       拝殿の左側に祀られている石碑等
   一番左側に建つ石碑には「稲荷宮」「〇〇大権現」「〇神宮」と刻まれているようだ。
          真ん中は「熊野」かもしれないが、解読が難しく断念。
             
            砂山集会所の南側に孤高の如く聳え立つ巨木
        
               社殿から砂山地域方面を眺める。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「羽生須影地区歴史年表 一須影地区の今むかし一HP」等


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桑崎三神社

 埼玉県指定天然記念物 中川低地の河畔砂丘群・桑崎砂丘
(記念物 天然記念物 埼文指第556号 平成29324日指定)
 利根川の旧河道沿い(中川低地を含む)には、川が運んだ榛名山・浅間山の噴火による噴出物などの土砂がたまったのち、それらが平安〜室町時代の寒冷期の強い季節風によって吹き溜められ、砂丘が形成されました。
 桑崎砂丘は、羽生市から越谷市にかけて点々と分布する中川低地の河畔砂丘群の中では、最上流部の位置にあります。
 指定地にある桑崎三神社は、長さ450m、幅50mの砂丘上にあり、本殿の北側では砂丘の高まりを観察することができます。
 この桑崎砂丘を含む内陸性の砂丘群は、地質学的研究により形成のメカニズムが明らかである例として希少であり、学術的価値の高いものです。
 平成291028日 埼玉県教育委員会 羽生市教育委員会
                                      案内板より引用

        
              
・所在地 埼玉県羽生市桑崎723
              
・ご祭神 誉田別命 菅原道真公 倉稲魂命
              
・社 格 旧桑崎村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭 915に近い日曜日
 国道122号線羽生バイパスを利根川方向に北上し、「桑崎」交差点を左折、750m程進行すると秩父鉄道の踏切が2か所見える変則的な十字路となるので、手前の踏切がある道に右折する。その後、道なりに500m程北上すると、左側に赤松林の囲まれた桑崎三神社・境内社である白山社・弁天社・御嶽社を祀る築山が、その西側並びに社の広い境内が見えてくる。
        
 道路沿いにある桑崎三神社・境内社である白山社・弁天社・御嶽社を祀る築山が最初に目に入る。桑崎三神社は写真の左側に鎮座している。
        
                  桑崎三神社正面
『日本歴史地名大系』 「桑崎村」の解説
 会の川左岸の自然堤防とそれに連なる後背湿地にある。東は上羽生村、南は上岩瀬・中岩瀬の二村と自然堤防に沿って連なり、西も上岩瀬村。田園簿によれば田高一九九石余・畑高三一一石余、幕府領で、ほかに野銭永三五〇文。国立史料館本元禄郷帳では旗本藤枝領と白山社、全福寺、上岩瀬村医王寺の寺社領。藤枝領は宝永二年(一七〇五)から天明五年(一七八五)まで(「寛政重修諸家譜」など)。寛政二年(一七九〇)陸奥泉藩領となり、幕末まで同藩領(改革組合取調書など)。承応三年(一六五四)・貞享四年(一六八七)に検地が実施されたといい、化政期の家数六八(風土記稿)。
        
                              境内の様子
 桑崎地域は利根川がこの場所の西側を流れていた頃の、今から約450年位前には、集落が出来ていた所という。嘗て利根川だった頃に上流から運ばれた大量の土砂の堆積した桑崎砂丘上に、桑崎三神社が奉られて鎮座する。元々桑崎地域には、「全福寺」を別当寺とする「天神社」「稲荷社」、医王寺を別当寺とする「八幡社」の3社があったが、全福寺は明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれ、その後、天神社と稲荷社は八幡社に合祀され、「桑崎三神社」に改称したという。
 
      境内西側にある神楽殿          桑崎地域の「獅子舞」の案内板
 指定文化財 獅子舞(桑崎地区)
(無形民俗文化財 羽生市指定第7 平成891日追加)
 親獅子、中獅子、後獅子の3頭で構成されます。期日は、11日の元旦と旧暦の815日に近い日曜日の十五夜祭に行われます。十五夜祭では、3回に分けて「〆」「花」「弓」の3曲を舞います。笛、獅子、棒、花笠の役の人たちが列をつくり境内を周回した後所定の位置につき、棒術に続いて獅子舞が奉納されます。その前日には前夜祭が行われ、鳥居の外で舞います。
 獅子頭などの道具は、獅子宿に保管してあり、使用するときはそのつど借用に伺うという形態をとっています。この方法は市内ではここだけのものです。
 由来は、利根川が洪水で決壊したとき、獅子頭が流れ着いたのが起こりであるとの伝承があります。現在この貴重な文化財を後世に伝えるため、子供たちへの伝承に努めています。
 平成14320日 羽生市教育委員会
                                      案内板より引用

 915日の例祭は、「十五夜のお祭り」ともいい、古くから当地に伝わるササラ(獅子舞)や剣道の試合が奉納される。例祭当日の午後、まず「八幡神社奉納県道」と称し、勝ち抜きの剣道大会が行われた後、ササラが行われる。獅子は三頭あり、ほかに花笠が四人、棒使いが二人いる。ササラの間には、地元の婦人会や子供育成会による踊りが行われ、祭りが終了するのは午後一〇頃になるという。
        
                    拝 殿
 桑崎神社(はちまんさま)  羽生市桑崎七二三(桑崎字堀内)
 桑崎は会ノ川と利根川に囲まれた農業地域に位置し、古くから米麦を中心とした農業が営まれていた。また、字堀内には、城館・空濠・土塁の跡があり、戦国時代を彷彿させる。
 この桑崎には、もともと神社が三社あった。このことは『風土記稿』にも「天神社 村の鎮守とす、稲荷社 以上全福寺持、八幡社 上岩瀬村医王寺持」と載ることからも明らかである。これが、明治初めの神仏分離のため、明治四年に全福寺は廃寺となり、天神社・稲荷社は八幡社に合祀された。その結果、社名も桑崎三神社と改められ、明治七年四月には村社となっている。
 本殿には、祭神である誉田別命・菅原道真公・倉稲魂命の三柱の幣束のほかに、八幡様と呼ばれる弓・矢を持った高さ二八センチメートルの八幡大明神がある。像の底部には「宝暦十一年辛巳九月十五日 大正二年一月再色 彫刻師大字小須賀 松木平幸」の墨書がある。
 境内は約一四五〇坪あり、境内の東に白山社・弁天社・御嶽社を祀り、赤松林に囲まれている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 当社は桑原の鎮守として祀られ、氏子からは「鎮守様は何事でも願いを聞いてくれる」といわれ、五穀豊穣・家内安全をはじめ、種々の奇岩がなされ、「大願成就」と書いた額などの奉納も多い。
 氏子の間では、家例として、「正月の三が日にお雑煮を食べてはいけない」と昔から言われており、元日の早朝にうどんを打ち、三が日の間はこのうどんを食べる習慣があるが、食生活の変化から、戦後はしだいにこの風も守られなくなったとのことだ。
 
 社殿の左側に祀られている境内社。詳細不明。       社殿の右側手前にある
   境内社の傍らには三峯社の石祠あり         「桑崎三神社改築記念の碑」
 
  社殿左側奥に祀られている境内社・末社    社殿右側に祀られている境内社・末社
        
              境内東側に白山社等を祀る築山がある。
 
   境内社・白山社の手前で、参道左側に     元禄2年9月10日銘の庚申塔、その奥に 
     並ぶ「弁財天」等の石碑          祀られている御嶽山神社の石碑
       
 「埼玉県指定天然記念物 中川低地の河畔砂丘群・桑崎砂丘」の案内板等が設置されている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内案内板」等                   


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秀安鷲宮神社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市秀安112
              ・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              ・社 格 旧秀安村下郷鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 318日 秋例祭 1015
 羽生市秀安地域は、平均標高1416m程の加須低地の中、旧利根川によって形成された自然堤防上に位置している。途中までの経路は須影八幡神社を参照。埼玉県道412号南羽生停車場線を400m北上し、十字路を左折、暫く進むと進行方向右手に「加羽ヶ崎秀安 土地改良記念碑」が見え、そこの路地を入ると「秀安第一集会所」が見え、その集会所の北側隣に秀安鷲宮神社は鎮座している。
        
                  秀安鷲宮神社正面
『日本歴史地名大系 』「秀安村」の解説
 旧利根川によって形成された自然堤防上に位置する。自然堤防は当村から北隣の下羽生村にかけて連なる。室町初期と推定される岩松持国本領所々注文(正木文書)にみえる「応永十一年頃、岩松持国本領所々注文、武州秀泰郷」の「秀泰郷」を当地とする説がある。田園簿によると田高二八一石余・畑高一七〇石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本藤枝領と鷲宮領・長泉寺領。藤枝領は宝永二年(一七〇五)からで、天明五年(一七八五)絶家となって上知(「寛政重修諸家譜」など)。

 当地域は、幕政期、「上郷」「下郷」に分かれ、それぞれ鎮守様を祀っていた。上郷鎮守は御嶽権現社で、『風土記稿』編集時はこの御嶽権現社が秀安村の鎮守社であり、鷲宮神社は単に下郷鎮守社でしかなかった。その後明治4の社格制定の時に御嶽神社は無格社に、鷲宮神社は村社となり、上郷の人々は当社の氏子となったのだが、いつのころか旧「上郷」「下郷」の区域に分かれ、氏子も下郷のみとなってしまったようである。
        
                    拝 殿
 鷲宮神社(おわすさま)  羽生市秀安一一二(秀安字下郷)
 当社は下郷地区の西外れに集落を見守るように鎮座する。
 往時、同大字内の真言宗御嶽山医王院長泉寺を別当としていた。享保七年に造立され、祭神は天穂日命・武夷鳥命の二柱で、それぞれに金幣を祀る。
 本殿は一間社流造りであり、当社の造営修復等の記録として現存する天保九年の棟札には「右御本社享保七辛卯長泉寺恵〇代造立氏子助進 天明元辛丑年建替今年逅六十年目同寺秀宜代氏子寄進 天保九戊戌祀本社建替拜殿新造立 天明ヨリ今年迄五十八年目 氏子寄進」とある。
 明治二五年に屋根替え、昭和二六年に建て替えを行って、現在に至っている。
 また、年代は不明であるが、字下郷の諏訪屋敷と呼ばれるところから、諏訪神社を合祀したとされ、社殿内に当社と並んで、一間社流造りの本殿が祀られている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 秀安鷲宮神社は、「おわす様」の名で親しまれているが、その名称由来は「お鷲様(おわしさま)」と思われる一方、本殿内に並立鎮座している諏訪神社の「おすわ様」とも関連があるかもしれないとも考えた。というのも、嘗て8月には夏祭りが行われていたのだが、その祭りは合祀社である諏訪神社の祭典といわれ、お祭り当日、参道では夏の虫を全部焼き殺すためといって、氏子たちが麦藁を持ち寄り、お焚き上げと称して燃やしたという。但し、この風習・行事は農薬の普及により廃されたようだ。
        
  境内北側にある「伊勢参宮記念碑」と、その奥にある「
加羽ヶ崎秀安 土地改良記念碑」

 伊勢講は現在でも数年おきに行っており、現在、12月に忘年会を兼ね、下郷地区で会食を行っている。その際、床の間に神様のための膳を供え、新穀感謝祭を行うのだが、氏子はこれも伊勢講と呼んでいるという。
 また、この下郷地域は現在でも「榛名講」が氏子の大半により結成され、318日の祈年祭の後、4枚の代表が榛名神社へ辻札・嵐除け札・筒粥表などを受けに行く。また、七年に一度、総立ちといって講員全員で参拝に行く。代参から帰ると、神札を他の地域との境に立てる。榛名講は戦前、養蚕が盛んな頃に養蚕倍盛祈願として行ったが、その後養蚕農家がいなくなってしまったので、今は豊作祈願の信仰と変わったという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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上村君雷電神社


        
             
・所在地 埼玉県羽生市上村君809
             
・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧上村君村鎮守
             
・例祭等 梵天祭 331日 夏祭り 715
 上村君避来矢神社と共に上村君の鎮守と呼ばれた社。避来矢神社から埼玉県道・群馬県道304号今泉舘林線に東行し、右折後300m程進んだ十字路を左折する。車一台分程の道幅しかないような狭い農道、周囲一帯が田畑風景の中で、さすがに人気が全くない道を進むと、前方にポツンと「上村君新田集会所」が見え、その並びに上村君雷電神社が静かに鎮座している。
        
                                 
上村君雷電神社正面
 当社は、同地域内に鎮座する避来矢神社と共に上村君の鎮守と呼ばれ、両社の年中行事も重なるものが多い。従って氏子区域・役員・運営費もまた重複し、氏子個人の初詣や初宮参り・新婚宮参り等の参詣は両鎮守へ行くことが多いという。
 この地域は上村君避来矢神社で解説したように、古くから落雷が多い土地柄で、昔は雷の大きいのが鳴ると蚊帳の中にうずくまり「雷神様、雷神様」と唱えたものという。また、耕作地に落雷があり作物に被害を受けると、注連を四方に張り、被害が広がらぬように祈ったという。
 また戦後、日照りが続いた年があり、陸稲が弱ったため、区長の発案により雨乞いが行われた。まず神前で祈願し、鳥居の前にある池の水を氏子全員で汲み出したという。
 
     
境内地正面の左右両端部の場所に青面金剛の庚申塔がある(写真左・右)。
 
 境内に並んだ「太々御神楽」「伊勢講記念碑」     境内東側には力石がある。

 羽生市では上村君・桑崎・下手子林の3団体が獅子舞保存会を結成して活動をしており、市指定無形民俗文化財に指定されている。そのうち「上村君の獅子舞」は、戦国時代末期の元亀・天正年間(15701592)に羽生城の救援に訪れた上杉謙信が将兵の士気を鼓舞するため、上野国(現在の群馬県)からささら舞師を呼んではじめられたという伝承がある。
 獅子舞は避来矢(ひらいし)神社と雷電神社で奉納されていて、現在は714日に近い土曜日または日曜日に実施されている。
        
                                     拝 殿
 雷電神社 羽生市上村君八〇五(上村君字新田)
 当地は村君郷と称し、江戸初期には上村君・下村君に分村する。村君郷の初見は文明一八年の道興准后の『廻国雑記』に「誰世にかうかれそめけん朽はてぬ、その名もつらきむら君の里」と歌われ、当地を通った旨が見える。更に『風土記稿』には、「下村君永明寺に蔵する永禄六年廣田式部少輔直繁の文書にも、太田庄北方村君の郷と見えたり、されば当村は古へ太田庄の内北方に属せしならん」と載せる。
『明細帳』には「往古上君村下村君村一村タル時総鎮守二シテ其後上下村君分村ノ時両村鎮守争トナリシカ到底ハ本村二帰セシモノト口碑二伝フ其他詳ナラス」と記され、その創立を当地が村君郷と呼ばれていた時代にさかのぼっている。
 祭神は別雷命である。神仏分離以前の別当は総徳院が務めた。口碑によると、総徳院の住職が博打で負けて、その形に神社の立木を大小残らず取られたため、これに驚愕した前新田・後新田の両氏子が協議の上で寄附を募り、慶応三年一○月に五五両で買い戻したといい、境内に『當雷電神社樹木奉納寄進記』の石碑が残る。時代は下り、戦後の学制改革により当地にも中学校新築が告げられたが、終戦直後の経済的窮迫から建築費捻出を氏子の共有地と意識される当社境内の大木の売却に求め、多くが伐採された。幕末期において氏子が資力を尽くしたにもかかわらず、鎮守の森の景観はこれを機に一変した。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
       
上村君雷電神社から東側少し離れた場所にポツンと祀られている石祠

 どの神様を祀ったものなのかは判明せず。但し「埼玉の神社」には両鎮守の境内及び飛び地境内にはそれぞれ天神社が祀られ、戦後までは天神講が盛んに行われたという。この石祠はその天神社であろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「羽生市HP」等

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