倉田氷川神社
『法恩寺年譜』に登場する倉田孫四郎基行は武蔵七党の一派である児玉党越生氏に属する平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将である。この越生氏の一派である倉田氏が現桶川市倉田地域に館を構えていたという。
但し異説もあり、『新編武蔵風土記稿 越生郷 今市村』の小名に「倉田」が存在し、そこには「村の西南によりてあり、按に法恩寺年譜錄に云、倉田孫四郎基行は當郡の刺史兒玉武藏守惟行の家弟たるにより、後倉田の邑に退隠すと、倉田はもし此地のことにや、されど隣郡足立に、倉田村あれば、彼村なりしも又知べからず」「其後文治年中當所の令たりし、倉田孫四郎基行と云者出家して瑞光坊と號し、其妻を妙泉尼と稱せしが、当寺再興のことを右大將頼朝へ願ひしかば、頓て越生次郎家行に仰せて、堂塔以下舊の如く造営ありしと、時に建久元年のことなり」と解説され、倉田基行の本拠地は越生内にあったのではないかともとれる解説が記載されている。
さて真相はいかなることであろうか。
・所在地 埼玉県桶川市倉田881
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧倉田村鎮守・旧村社
・例祭等 例大祭 4月8日 祇園祭 7月14日
倉田氷川神社の鎮座する桶川市倉田地域は、同市東部にあり、大宮台地上に位置する。北本市・宮内氷川神社の参拝後に向かった社ではあるが、移動経路がやや複雑であるので、ここでは久喜市菖蒲町上栢間に鎮座する神明神社、並びに天王塚古墳からのルートにて紹介する。
神明神社並びに天王塚古墳南側に走る埼玉県道77号行田蓮田線を、概ね南東方向に進み(途中同県道12号川越栗橋線が経路途中にあるが)、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)を通過したのち、元荒川に沿って東行する。同県道はその後一旦南行してすぐに綾瀬川に沿って東行するのだが、そのまま南行し、新幹線高架下に沿って左折し250m程進むと、左手に倉田氷川神社の鳥居が見えてくる。
周囲には適当な駐車スペースはないが、人通りのない高架橋下の道路でもあり、社の社叢林と道路に面した迷惑のかからない場所に一時的に停めてから参拝を開始した。
倉田氷川神社正面
『日本歴史地名大系』 「倉田村」の解説
小針領家(こばりりようけ)村の南、大宮台地上にある。東・南は小針新宿(こばりしんじゆく)村(現伊奈町)・上(かみ)村(現上尾市)。蔵田とも記される(天正一九年一一月日「徳川家康朱印状」明星院文書)。南北約八〇メートル・東西約一五〇メートルの平地林のなかに浅い空堀をめぐらした館跡があり、倉田孫四郎の館跡と伝えられる。倉田孫四郎基行の名は「報恩寺年譜」にみえ、南北朝期「倉田之邑」に隠棲したとある。現岩槻市勝軍寺蔵の金剛界西院初夜作法奥書に、天文二二年(一五五三)二月一八日「賜武州足立倉田明星院御本書写畢」とある。天正一九年(一五九一)伊奈忠次は小室村(現伊奈町)の無量寺閼伽井(あかい)坊屋敷に陣屋を置くにあたり、同坊を「倉田明星院」へと移らせた(同年六月六日「伊奈忠次替地手形」明星院文書)。
鳥居の左側に建つ社号表柱
神社を見て回っていると、気になる社号標柱が多く存在する。社号標の「社名」の上に表記されていた「社格」はセメント等で塗りつぶされているのだ。
明治時代以前の「神仏習合」により、複雑化した神社も「神仏分離令」の名のもと再編成を実施。その後第二次世界大戦の終わりまで、「近代社格制度」という新たな制度を制定し、『延喜式』に倣って新たに神社を等級化し、同時に神社を政府の管轄下に置き、保証や支援を行っていた。
昭和21年(1946年)2月2日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の神道指令により神社の国家管理が廃止されると同時に廃止。GHQの干渉を恐れ、石の社名標の社格が刻まれた部分をセメントで埋めた神社が多かった。その後セメントを除去した社名標もあるが、現在でもそのままのものも多い。
今日でも「旧社格」などの名称で神社の格を表す目安とされることがあり、今後もこのまま塗りつぶしたままで良いのかと思うこの頃だ。
正面入り口付近に設置されている案内板
氷川神社御由緒 桶川市倉田八八一
□御縁起(歴史)
倉田の地内には、南北約八〇メートル、東西約一五〇メートルの平林地の中に空堀をめぐらした館跡があり、倉田孫四郎の館跡と伝えられている。倉田孫四郎基行の名は「報恩寺年譜」に見え、南北朝期「倉田之邑」に隠棲したとある。館跡の北西隅には倉田孫四郎の氏神であったとされる神明社がある。また館跡付近には多数の板石塔婆があり、特に南方約一〇〇メートルの明星院には六七基の板石塔婆が集められている。ちなみに、同院は室町初期の創建とされる真言宗の古刹である。
当社はこの館跡の北東二五〇メートルほどの地に鎮座しており、その方角から推して、館の鬼門除けとして祀られたとも考えられる。『風土記稿』倉田村の項には「氷川社 村の鎮守なり、村民持下同じ、末社 天王社、稲荷社、疱瘡神社」と記されている。
本殿には、正徳三年(一七一三)の本殿棟札、享保十八年(一七三三)に神祇管領吉田家により正一位に叙された際に拝受した幣帛・宗源宣旨・宗源祝詞・更に万延元年(一八六〇)に「倉田村願主星野美恵女」により奉納された神鏡などが納められている。この中で棟札には「遷宮導師別当明星院廿五世尊盛」の名が見え、明星院が別当であったことがわかる。
神仏分離を経て当社は明治六年に村社となり、同四十年に加納の氷川天満神社への合祀司令が出されたが、昭和十八年に取り消された。(以下略)
案内板より引用
高架橋のすぐ北側にありながら静まり返った境内
参道から拝殿に通じる途中には境内社が数社あるのだが、その境内社までの道がしっかりとしたアスファルトで舗装されているので、歩きやすくなっている。
境内社・第六天神 境内社・天皇神社
神楽殿
倉田地域には「倉田の祇園祭」と呼ばれるお祭りがあり、古い伝統を伝える行事として貴重なものであるという。毎年7月14日に近い日曜日に、氷川神社の氏子54軒の家々をまわって、疫病退散と五穀豊穣を祈願する祇園祭が行われている。
祭り当日の朝、倉田氷川神社に合社されている八雲神社を地区の共有地にある仮小屋(現倉田集会所脇)に移す。ここ神輿とともにまつられた後、村まわりが始まる。
村まわりの一行は、神霊をうつした「牛頭(ぎゅうとう)」と呼ばれる幣串を先頭に、天狗、獅子頭、山車(だし)持ち、万燈の順で進む。この行列に、軽トラックにそれぞれ乗せられた神輿と囃子方が続く。氏子の家々をまわる途中、13カ所の休憩所で合流し、飲食をともにする。収穫されたばかりの小麦で作られた饅頭もこのときに振る舞われる。
昭和30年代までは各家の室内には茣蓙が敷かれ、村まわりの一行は土足のまま縁側から入って室内を通り抜けたといわれている。
拝 殿
「桶川市HP」によれば、当地域には無形民俗文化財に指定されている「倉田の囃子」がある。HPの解説をそのまま引用する。
倉田の囃子(無形民俗文化財)
倉田のお囃子は、江戸神田囃子松本流を継いでいます。江戸後期の頃は、いわゆる古囃子という初期のお囃子が伝えられていたようですが、現在伝承されているものは明治の頃に足立郡菅谷村(現上尾市菅谷)から習ったものと伝えられています。
楽器は附太鼓(小太鼓)2、玉太鼓(大太鼓)1、スリガネ1、笛1の5人囃子で、屋台囃子、昇典、神田丸、鎌倉、四丁目(しちょうめ)、矢車(やぐるま)、ひょっとこ囃子、道中(どうちゅう)の8曲が演奏されていました。このうち昇典と道中は「静か物」と呼ばれます。現在は屋台囃子を主に演奏しています。なお、この屋台囃子は10の曲に分かれています。
4月と10月の倉田氷川神社の祭礼や、7月14日の村廻り、7月15、16日の桶川祇園祭などで演奏され、お祭を盛り上げています。
拝殿の左側に祀られている境内社・稲荷神社、疱瘡神社
社殿から見る参道の様子。
鳥居の先に新幹線の高架橋が見える。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「桶川市HP」
「桶川市歴史民俗資料館 民俗資料展示 解説シートHP」「Wikipedia」
「境内案内板」等