古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

秀安鷲宮神社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市秀安112
              ・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              ・社 格 旧秀安村下郷鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 318日 秋例祭 1015
 羽生市秀安地域は、平均標高1416m程の加須低地の中、旧利根川によって形成された自然堤防上に位置している。途中までの経路は須影八幡神社を参照。埼玉県道412号南羽生停車場線を400m北上し、十字路を左折、暫く進むと進行方向右手に「加羽ヶ崎秀安 土地改良記念碑」が見え、そこの路地を入ると「秀安第一集会所」が見え、その集会所の北側隣に秀安鷲宮神社は鎮座している。
        
                  秀安鷲宮神社正面
『日本歴史地名大系 』「秀安村」の解説
 旧利根川によって形成された自然堤防上に位置する。自然堤防は当村から北隣の下羽生村にかけて連なる。室町初期と推定される岩松持国本領所々注文(正木文書)にみえる「応永十一年頃、岩松持国本領所々注文、武州秀泰郷」の「秀泰郷」を当地とする説がある。田園簿によると田高二八一石余・畑高一七〇石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本藤枝領と鷲宮領・長泉寺領。藤枝領は宝永二年(一七〇五)からで、天明五年(一七八五)絶家となって上知(「寛政重修諸家譜」など)。

 当地域は、幕政期、「上郷」「下郷」に分かれ、それぞれ鎮守様を祀っていた。上郷鎮守は御嶽権現社で、『風土記稿』編集時はこの御嶽権現社が秀安村の鎮守社であり、鷲宮神社は単に下郷鎮守社でしかなかった。その後明治4の社格制定の時に御嶽神社は無格社に、鷲宮神社は村社となり、上郷の人々は当社の氏子となったのだが、いつのころか旧「上郷」「下郷」の区域に分かれ、氏子も下郷のみとなってしまったようである。
        
                    拝 殿
 鷲宮神社(おわすさま)  羽生市秀安一一二(秀安字下郷)
 当社は下郷地区の西外れに集落を見守るように鎮座する。
 往時、同大字内の真言宗御嶽山医王院長泉寺を別当としていた。享保七年に造立され、祭神は天穂日命・武夷鳥命の二柱で、それぞれに金幣を祀る。
 本殿は一間社流造りであり、当社の造営修復等の記録として現存する天保九年の棟札には「右御本社享保七辛卯長泉寺恵〇代造立氏子助進 天明元辛丑年建替今年逅六十年目同寺秀宜代氏子寄進 天保九戊戌祀本社建替拜殿新造立 天明ヨリ今年迄五十八年目 氏子寄進」とある。
 明治二五年に屋根替え、昭和二六年に建て替えを行って、現在に至っている。
 また、年代は不明であるが、字下郷の諏訪屋敷と呼ばれるところから、諏訪神社を合祀したとされ、社殿内に当社と並んで、一間社流造りの本殿が祀られている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 秀安鷲宮神社は、「おわす様」の名で親しまれているが、その名称由来は「お鷲様(おわしさま)」と思われる一方、本殿内に並立鎮座している諏訪神社の「おすわ様」とも関連があるかもしれないとも考えた。というのも、嘗て8月には夏祭りが行われていたのだが、その祭りは合祀社である諏訪神社の祭典といわれ、お祭り当日、参道では夏の虫を全部焼き殺すためといって、氏子たちが麦藁を持ち寄り、お焚き上げと称して燃やしたという。但し、この風習・行事は農薬の普及により廃されたようだ。
        
  境内北側にある「伊勢参宮記念碑」と、その奥にある「
加羽ヶ崎秀安 土地改良記念碑」

 伊勢講は現在でも数年おきに行っており、現在、12月に忘年会を兼ね、下郷地区で会食を行っている。その際、床の間に神様のための膳を供え、新穀感謝祭を行うのだが、氏子はこれも伊勢講と呼んでいるという。
 また、この下郷地域は現在でも「榛名講」が氏子の大半により結成され、318日の祈年祭の後、4枚の代表が榛名神社へ辻札・嵐除け札・筒粥表などを受けに行く。また、七年に一度、総立ちといって講員全員で参拝に行く。代参から帰ると、神札を他の地域との境に立てる。榛名講は戦前、養蚕が盛んな頃に養蚕倍盛祈願として行ったが、その後養蚕農家がいなくなってしまったので、今は豊作祈願の信仰と変わったという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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上村君雷電神社


        
             
・所在地 埼玉県羽生市上村君809
             
・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧上村君村鎮守
             
・例祭等 梵天祭 331日 夏祭り 715
 上村君避来矢神社と共に上村君の鎮守と呼ばれた社。避来矢神社から埼玉県道・群馬県道304号今泉舘林線に東行し、右折後300m程進んだ十字路を左折する。車一台分程の道幅しかないような狭い農道、周囲一帯が田畑風景の中で、さすがに人気が全くない道を進むと、前方にポツンと「上村君新田集会所」が見え、その並びに上村君雷電神社が静かに鎮座している。
        
                                 
上村君雷電神社正面
 当社は、同地域内に鎮座する避来矢神社と共に上村君の鎮守と呼ばれ、両社の年中行事も重なるものが多い。従って氏子区域・役員・運営費もまた重複し、氏子個人の初詣や初宮参り・新婚宮参り等の参詣は両鎮守へ行くことが多いという。
 この地域は上村君避来矢神社で解説したように、古くから落雷が多い土地柄で、昔は雷の大きいのが鳴ると蚊帳の中にうずくまり「雷神様、雷神様」と唱えたものという。また、耕作地に落雷があり作物に被害を受けると、注連を四方に張り、被害が広がらぬように祈ったという。
 また戦後、日照りが続いた年があり、陸稲が弱ったため、区長の発案により雨乞いが行われた。まず神前で祈願し、鳥居の前にある池の水を氏子全員で汲み出したという。
 
     
境内地正面の左右両端部の場所に青面金剛の庚申塔がある(写真左・右)。
 
 境内に並んだ「太々御神楽」「伊勢講記念碑」     境内東側には力石がある。

 羽生市では上村君・桑崎・下手子林の3団体が獅子舞保存会を結成して活動をしており、市指定無形民俗文化財に指定されている。そのうち「上村君の獅子舞」は、戦国時代末期の元亀・天正年間(15701592)に羽生城の救援に訪れた上杉謙信が将兵の士気を鼓舞するため、上野国(現在の群馬県)からささら舞師を呼んではじめられたという伝承がある。
 獅子舞は避来矢(ひらいし)神社と雷電神社で奉納されていて、現在は714日に近い土曜日または日曜日に実施されている。
        
                                     拝 殿
 雷電神社 羽生市上村君八〇五(上村君字新田)
 当地は村君郷と称し、江戸初期には上村君・下村君に分村する。村君郷の初見は文明一八年の道興准后の『廻国雑記』に「誰世にかうかれそめけん朽はてぬ、その名もつらきむら君の里」と歌われ、当地を通った旨が見える。更に『風土記稿』には、「下村君永明寺に蔵する永禄六年廣田式部少輔直繁の文書にも、太田庄北方村君の郷と見えたり、されば当村は古へ太田庄の内北方に属せしならん」と載せる。
『明細帳』には「往古上君村下村君村一村タル時総鎮守二シテ其後上下村君分村ノ時両村鎮守争トナリシカ到底ハ本村二帰セシモノト口碑二伝フ其他詳ナラス」と記され、その創立を当地が村君郷と呼ばれていた時代にさかのぼっている。
 祭神は別雷命である。神仏分離以前の別当は総徳院が務めた。口碑によると、総徳院の住職が博打で負けて、その形に神社の立木を大小残らず取られたため、これに驚愕した前新田・後新田の両氏子が協議の上で寄附を募り、慶応三年一○月に五五両で買い戻したといい、境内に『當雷電神社樹木奉納寄進記』の石碑が残る。時代は下り、戦後の学制改革により当地にも中学校新築が告げられたが、終戦直後の経済的窮迫から建築費捻出を氏子の共有地と意識される当社境内の大木の売却に求め、多くが伐採された。幕末期において氏子が資力を尽くしたにもかかわらず、鎮守の森の景観はこれを機に一変した。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
       
上村君雷電神社から東側少し離れた場所にポツンと祀られている石祠

 どの神様を祀ったものなのかは判明せず。但し「埼玉の神社」には両鎮守の境内及び飛び地境内にはそれぞれ天神社が祀られ、戦後までは天神講が盛んに行われたという。この石祠はその天神社であろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「羽生市HP」等

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上新郷愛宕神社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市上新郷6728
              
・ご祭神 火産霊之命
              ・社 格 旧上新郷村鎮守
              
・例祭等 例祭日 624
 羽生市の最北端で、国道122号線が利根川を渡る「昭和橋」のたもとに位置する「道の駅 はにゅう」から、上記昭和橋を西方向に進む。栃木県道・群馬県道・埼玉県道7号佐野行田線を道なりに進行すると左カーブに曲がり、南方向に進路は変わるのだが、そこはそのまま1㎞程進むと「愛宕神社前」交差点に達し、その手前左側に上新郷愛宕神社が見えてくる。
        
                
上新郷愛宕神社一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「上新郷村」の解説
 東は会の川を挟んで桑崎(くわさき)村、上岩瀬(かみいわせ)村・中岩瀬村・下岩瀬村など。旧利根川自然堤防上の村で、河畔砂丘の跡もみられる。嘗て利根川は当地で二又に分流していたが、文禄三年(一五九四)忍城(現行田市)の城主松平忠吉の付家老小笠原三郎左衛門吉次により締切られたと伝え、旧河道は会の川となった(川俣締切跡として県指定史跡)。小笠原吉次が当地西福(さいふく)寺に宛てた同年三月の会の川堤見廻り証状があった(風土記稿)。
 忍領に所属(風土記稿)。天正一九年(一五九一)六月、忍城主松平家忠に宛行われた一万石のうちに「新郷・下新郷・荒木・別所」の四千七二四石がある(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。慶長一三年(一六〇八)三月一五日の騎西郡忍領之内新郷御検地水帳(漆原家文書)があり(二二冊のうち一冊現存)、上新郷・下新郷の別記がない。
        
                 二の鳥居 延宝5年9月銘
 一の鳥居から一旦左側に曲がった先に二の鳥居があり、そこから正面に社殿が見えてくる。
            よく見ると、鳥居の左側柱の根元に力石が1個ある。
 江戸時代、この上新郷地域には八王子宿から日光へ至る日光脇往還と呼ばれる街道が通る交通の要衝にある宿場町で、本陣や脇本陣が設けられていた。現在でも社の南側には上新郷の宿場町が広がっている。当時、街道沿いでは「新市」が立ち、510の付く日には市が開かれていたと『新編武蔵風土記稿』には記されている。
『新編武蔵風土記稿 上新郷村』
「又八王子千人同心日光山への交代も、此道にかゝれり、毎月五十の日市ありて、諸品を鬻ぐ(ひさぐ)、其始は傳へざれど、【家忠日記】天正十九年十月二十一日の條に、新郷市日を百塚に新市を立て引んとし、同二十六日新郷市の儀大方相済とみえたり、」

        
                                   参道の様子
 よく見ると、社殿は小高い塚の上に建てられている。当初は高台と思ったが、調べてみると「愛宕神社古墳」とも呼ばれている古墳(円墳)であるという。愛宕神社古墳は、現在墳丘が大きく変形しているが、直径15m、高さ2.5mの円墳と推定され、かつてこの古墳から大刀、鎧が出土したとの伝承があるという。この新郷地域には、「新郷古墳群」と呼ばれている古墳群が存在していて、愛宕塚古墳・前浅間塚古墳・横塚古墳・鐘山古墳、三墓山古墳・下新郷横塚古墳・下新郷1号墳の七つの古墳が知られているが、江戸時代当時からして、利根川の流れは幾筋にも分流しており、新郷川俣付近においては、南流して加須市を流れる会の川筋と現在の河道を東流する筋と分かれていたという。それより遥か古い時代は、利根川、及びその支流が至る所に乱流する洪水常習地帯ではなかったろうか。行田市・酒巻古墳群のように埋没している古墳がこの地域にも存在しても決しておかしくはない。
『新編武蔵風土記稿 上新郷村』にも「百塚と云は村内の小名にして、今も其唱へあり」と載せてあり、古墳を匂わせるような地名が残っている。
 どちらにしても、この地域は、自然災害に苦しめられながらも、古くから人々が集落を築き、生活を営んでいたことは間違いないであろう。
        
                    拝 殿
 愛宕神社(おだきさま)  羽生市上新郷六七二八(上新郷字坂本)
 新郷は両野(上野・下野)往還・日光裏街道として利根川を前にした交通の要衝にある宿場町であり、五十日(五の日と十の日)に六斎市が立つ商業の町であった。町の中心となる本宿は江戸期に上・中・下の三宿に分けられた。
 文化元年上新郷村名主須永某の書き上げに「愛宕神社は俗におだき様と呼ばれ除地壱反六畝六歩、免地町並三番壱反拾二歩、祭神火産霊之命、本殿梁間三間桁行三間屋根瓦葺、内宮八尺四方屋根柿葺(こけらぶき)、拝殿梁間二間桁行四間屋根瓦葺、石灯籠寛文年紀、石手水鉢正徳年紀、石鳥居延宝年紀」とあり堂々たる神社であったことが知られる。
 当社の別当は、境内地にあった真言宗愛宕山勝軍寺が務めていた。慶応四年三月八日、当社本地仏勝軍地蔵は松平家の武運長久を祈ったものとして官軍に焼かれたとの口碑がある。
 現在の本殿は、明治二五年に社殿が暴風雨により倒壊し、再建したものである。
 明治四五年、下宿の天神社、上宿の寄木神社、小須賀道の道祖神社、西新田の諏訪神社を合祀し、更に大正一二年に下宿の東照宮社を境内社として合祀している。右のうち天神社は、合祀後、旧氏子区に疫病がはやったため返還する。境内末社に根本神社があり、コッパ天狗を祀るという。また、昭和の始めまで口が鳥のようになり背中に羽根がある天狗の木像を安置していた。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                             社殿から境内方向を撮影
 この交差点は社が丁度出っ張り部となっていて、二の鳥居から南側には県道が通っている。
       まるで、嘗て社の参道がかなり南側に伸びていたような配置である。
 
 石段を下りると、すぐ左側には社務所があり、その隣に境内社が横一列に並び、祀られている。
 左から根本神社・寄木神社(写真左)。その右隣には、諏訪社・合祀社が祀られている(同右)。合祀社には、塞神・秋葉社・三峰社・道長千波神・金毘羅社・東照宮が祀られている。
 因みに、境内社の根本神社は、古くはブリキで作った草鞋や羽団扇を描いた絵馬が上げられた。寄木神社は利根川を流れ着いたという「大明神」と刻した木片を祀り、古くは子供たちが行灯をともしたという。道祖神社は旅の神といわれ、出かける時に大きな草鞋と竹筒二本に神酒を入れて供えたという。
        
              境内にある、所謂神興庫であろうか。
 祭礼日は六月二四日で、古くは前日の宵祭りには露店も多くにぎわった。また、翌晩は本祭りで、近くはもとより、群馬方面からも若衆が遊びに来たという。夜には芝居があり、夕方六時には神興が出た。
 祭り当日には「西新田の獅子舞」が行われた。奉納される場所は、愛宕神社・中宿八坂神社・本陣・祥雲寺・別所問屋新井久兵衛家の五カ所である。宝永二年に始めたと伝え、「新道角助流・地獄佛門破」と白字に抜いた小豆色染の旗がある。舞は「花掛」「注連掛」「笹掛」「弓掛」「獅子隠し」「鐘巻」「門掛」「極掛」があったが、昭和五〇年を最後に、それ以降は中止されている。現在は、宵祭りに舞台を掛けカラオケ大会を行い、神興を境内に飾っているという。
        
                         上新郷愛宕神社遠景
                 このような角度から見ると、やはり古墳に見えてくる。
 この古墳の主は、当地域の経済的な優位性、つまり、利根川水系の舟運による交易に従事し、財を成した人物である可能性はあるのではなかろうか。

        
    上新郷愛宕神社から北側利根川沿いに「勘兵衛マツ」と呼ばれる松並木がある。

 上新郷の日光脇往還沿いに松が植えられたのは、寛永5年(1628)と伝えられている。この年の4月、江戸幕府第3代将軍の徳川家光が日光東照宮を参拝しており、景観を整えるためか、当時の上新郷村を治めていた忍城主が家臣の勘兵衛に松の植樹を命じたと言われている。そのためこの松並木は「勘兵衛マツ」と呼ばれるようになったという。
 江戸時代には100本以上を数えたという勘兵衛マツは、明治8年(1875)の調査では69本になる(「新井家文書」)。その後、台風による倒木などにより数を減らし、昭和56年(1981)の調査では9本が確認されたが、平成30年(20183月現在、江戸時代から現存する勘兵衛マツは黒松1本のみとなっている。
 勘兵衛マツは埼玉県指定天然記念物大正15219日指定)樹高 約11.7m 幹周り 約2.4m。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「羽生市 HP」
    「Wikipedia」等

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柏戸出流神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市柏戸874
             
・ご祭神 不明
             
・社 格 上柏戸村鎮守
             
・例祭等 春祭り 36日 土用干し 724日 秋祭り 101
 向古河鷲神社から埼玉県道368号飯積向古河線を北上し、「三国橋」交差点を直進する。道路は栃木県道・群馬県道・埼玉県道・茨城県道9号佐野古河線に変更となり、渡良瀬川の堤防沿いに1.4㎞程進む。その後「柏戸」Y字路である交差点を左斜め方向に進路を変え、通称「わたらせ通り」を900m程西行すると、右側に「上柏戸集会所」が見え、その手前に柏戸出流神社の朱の鳥居が見えてくる。但し、社の鳥居は「わたらせ通り」沿いではなく、やや奥側に立っていて、その手前には民家もある為、よく確認しなければ通り過ぎてしまうので注意は必要だ。なお、上柏戸集会所に駐車スペースあるので、その点は一安心だ。
        
                  柏戸出流神社正面
『日本歴史地名大系』 「柏戸村」の解説
 東は向古河(むこうこが)村、北は渡良瀬川を境に下野国都賀(つが)郡下宮村(現栃木県藤岡町)、下総国葛飾郡悪戸(あくと)新田、古河城下船渡町(現茨城県古河市)。中山道と日光道中を結ぶ脇往還が通る(風土記稿)。「カシワ」には砂丘、自然堤防の意があり、「戸」は津の意とみられることから、村名は渡良瀬川の自然堤防に位置したことによるとされる(埼玉県地名誌)。天正一一年(一五八三)の八月八日付の足利義氏遺臣等連署状写(喜連川家文書案)によると、二〇年来の大洪水で、関宿(現千葉県関宿町)・高柳(現栗橋町)とともに柏戸の堤も決壊している。
        
                鳥居の手前にある庚申塔
        
          参道の先に拝殿が見える。左側の建物は上柏戸集会所
『新編武蔵風土記稿 柏戸村』
「出流權現社 祭神詳ならず、柳生村南藏院持、」
『新編武蔵風土記稿 柳生村』
「南藏院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、權現山藥師寺と号す、開祖は足利義氏の臣杉山大膳なり、この日と永正中修驗となり、當所に住し、名を快昌と改め、大永元年寂せりと、」
        
                    拝 殿
 当地は武蔵・下野両国境沿いに位置する。古くから古河公方足利氏に仕えた根岸・出井・橋本の各氏が居住していたが、足利氏の衰弱と共に足利氏に仕えていた武士たちが続々と帰農し、この地を開発したという。
『風土記稿』柏戸村の項に「鷲明神社 村内の鎭守なり、万治二年勧請せりと云、延命寺持、下二社同じ、山王社 八幡社 慶長十五年鎌倉八幡を移し祀れり、出流權現社 祭神詳ならず柳生村南藏院持、太神宮 村民持」と載せる。山王社・太神宮は、創立年代は不詳であるが、出流権現社は正徳二年の勧請で、正徳六年に神祇管領から宗源宣旨を受けていて、これを御神体として本殿内に所蔵している。
 上柏戸の出流神社では、春祭り(三月六日)・土用干し(七月二四日)・秋祭り(一〇月一日)の三回、更に中柏戸の八幡神社、下柏戸の日枝神社でもそれぞれに祭りを行っており、当地の神社信仰の厚さがうかがえる。
 七月二四日の「土用干し」には、午前十一時過ぎから上柏戸の各戸一名ずつが神社に集まる。正午きっかりに拝殿に一同が座り、宮世話人が本殿の扉を開け、「これから御神体の虫干しをします」と言い、宗源宣旨を出して拝殿に広げる。行事に先立ち宮世話人は、出流沼で体を清めるのが仕来りであったが、現在は略されている。宗源宣旨の虫干しを行った後、宮世話人が、これを広げたまま持ち、「出流様の御神体を頂く」と称して、参列者の頭上を祓う。終わると銀杏の葉を入れて、再び本殿を納めるという。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                                       本 殿
           本殿の左側に祀られている境内社の詳細は不明
        
 大相撲界に昭和3040年代の高度経済成長期、相撲黄金時代を支えた「柏鵬時代」を知っている方はいるであろうか。横綱大鵬と並び称された第47代横綱柏戸の四股名は、18世紀後半、安永年間に活躍した幕内力士「柏戸村右衛門」にそのルーツがある。
 初代柏戸は元文31738)年柏戸村の出井(いでい)家に生まれ、縁あって騎西出身の伊勢ノ海が創立した伊勢ノ海部屋に入門しました。宝暦81758)年、19歳で初土俵を踏み、幕内上位になるにおよんで故郷の地名にちなみ「柏戸村右衛門」と改名した。

*参考資料 古河志・柏戸村条
「相撲力士柏戸村右衛門、初は出井清次郎と云。村民出井新内なる者の弟也。宝暦中、伊勢海五太夫弟子となし柏戸村右衛門と改め称せしむ。天明元年伊勢海没し、嗣て伊勢海村右衛門と号し、寛政八年五月二十日五十九歳にして没せり。弟子某を柏戸勘太夫と名のらしむ。その弟子を柏戸宗五郎と云ふ、今存在する是也。此村右衛門出生の家、今柏戸村の農民たり」

        
                  社殿からの一風景 
 最高位は前頭(まえがしら)三枚目であったといわれていて、後に弟子の三代目柏戸が大関に進んだことから、「柏戸」は格式ある四股名として後代に受け継がれることとなった。
 天明
31783)年に三代目伊勢ノ海を襲名し、その後、毎場所のように差添(さしぞえ)や勧進元(かんじんもと)を務め、当時の相撲界の隆盛に貢献した。また「決まり手」を定めるなど、さまざまなルールを確立したことで、相撲が広く普及する基礎を築いたという。
 因みに、第69代横綱で歴代最多45回の幕内優勝を誇る白鵬の四股名は、1961年九州場所で横綱に同時昇進した大鵬と柏戸が競い合った「柏鵬時代」に由来する。「柔の大鵬、剛の柏戸」と呼ばれた両横綱の融合した力士になるように願いを込め、当初は「柏鵬」という案も浮上したが、色白だったこともあり「白鵬」に落ち着いたという。



柏戸八幡宮
        
               ・所在地 埼玉県加須市柏戸
               ・ご祭神 誉田別命(推定)
               ・社格・例祭等 不詳
 柏戸出流神社から直線距離にして700m程南東方向に柏戸八幡宮は位置していて、南北に通る埼玉県道46号加須北川辺線のすぐ西側の田畑地域の中、車幅が車両一台しか通れない農道沿いにポツンと鎮座している。
「埼玉の神社」にも説明等なく、『新編武蔵風土記稿 柏戸村』には「慶長十五年鎌倉八幡を移し祀れり」と簡潔に載せている程度である。
        
                  柏戸八幡宮正面
        
                                       拝 殿
       
                           社殿手前で参道左側に並ぶ石仏群
 石仏群の右隣には「〇〇太神宮」の石碑が祀られ、その脇に葉「中柏戸村」と刻まれている。
         その右隣には「八幡大〇」と刻まれている石碑も祀られている。
       
                                   柏戸八幡宮遠景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「広報かぞ」
    「Wikipedia」等 

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向古河鷲神社

 北川辺町は、埼玉県北東端で、埼玉県内で唯一町全域が利根川の左岸(北側)にあり、一説には「北川辺」の名称も「利根川の北の川辺の町」の意味で名づけられたとされる。現在は加須市の北部を占める地域であり、群馬、栃木、茨城の3県と隣接している。
 実は、江戸初期までは埼玉県本体と陸続きであったが、利根川の瀬替え(1621)によって孤立化してしまった歴史的な経緯がある地でもある。また利根川、渡良瀬川に挟まれた沖積低地に位置しており、度重なる水害に悩まされてきた。
 現在、埼玉県の他の自治体とは利根川で隔てられており、電話の単位料金区域 MA は埼玉県内ではなく茨城県古河市と同一の古河MAに属する。但し古河MAは茨城県内区域ではなく、NTT栃木支店の管轄内で栃木県内区域でもある。
 ところで、向古河地域は「古河」の名称がつく地であるのだが、行政区域上は埼玉県に属していて、この地の由来は「古河の対岸に当たる地」との事のようだ。
 室町時代後期、古河公方の直参で、鎌倉から成氏に従って古河に来た人達を称して「十人士」というのだが、この人達が居住していたのが向古河地域であり、まさに古河公方の膝下という土地柄でもあり、享徳の乱勃発時、武蔵国や上野国等から襲撃する関東管領上杉勢から主君を護る最後の砦でもあった。
 電話の単位料金区域のみならず、茨城県古河市とは渡良瀬川を隔てて地理的にも近く、同市との結びつきは古くから盛んであったのだろう。

        
             
・所在地 埼玉県加須市向古河4861
             
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
             
・社 格 旧向古河村鎮守
             
・例祭等 春祭り 415日 夏祭り(子笹流獅子舞) 724
                  秋祭り 1015日 新嘗祭 1123日 大祓 12月下旬
 駒場鷲神社から北東方向に通じる埼玉県道368号飯積向古河線を1.2㎞細進むと、渡良瀬川の堤防前に達し、そのまま道なりに500m程北上する。進行方向右手には上記河川の堤防が延々と続き、目を左側に転ずれば、「加須市立北川辺東小学校」の綺麗な校舎を眺めながら、土手よりも遙かに標高の低い場所ながら多くの民家が軒を連ねる風景に、現在の長閑な風景を愛でる一方、過去に自然災害、特に水害の多かったこの地域に住んでいた先人の方々の苦労に思いを巡らせたものだった。
 そんな取り留めのない思いを巡らせながら車を進行させると、信号のない丁字路に達するので、そこを左折すると、すぐ右手に向古河鷲神社が見えてくる。因みにこの丁字路を直進すると「三国橋」交差点があり、その橋を渡ると茨城県古河市となる。まさに県境に鎮座する地域、及び社である。
        
        すぐ東側は県道が南北に通り、渡良瀬川の堤防が間近に見える。
  また社に参拝するためには、すぐ先にある路地を右折して、少し下りなければならない。
       
                向古河鷲神社 境内の様子
 鷲神社(みょうじんさま) 北川辺町向古河四八六-一(向古河字帳免)
 渡良瀬川右岸に位置する当地が「むこうこが」、あるいは「むかいこが」とも呼ばれるのは、古河の対岸に当たることによる。古くは当村から古河城下の渡船場を結ぶ船があり、古河との強い結び付きは、交通手段の変わった今日まで続いている。向古河では、磯・松橋・小堀・稲葉・荒井・池田・秋山・桜井・永島・君塚の十家を十人士と呼ぶ。いずれも元は古河公方成氏の家臣で鎌倉から成氏に従って古河に来た人たちで、古河城の対岸向古河に住んでいたが、古河公方の威勢が衰えるとともに当地に土着し百姓になったと伝える。
 当社の創立は『風土記稿』に「村の鎮守なり、万治二年の頃勧請と云、真光寺持」とあり、同村に鎮座の天神社は「文明の頃古河城鎮護のため、京都北野を写して勧請すと云伝ふ」と記す。天満社は、その昔、古河城構築の際、度々堤が切れ、いたずらに月日を費やし、困難を極めたことから城主自ら天満社と正観音の霊に祈願したところ、霊験により流水が穏やかになり、程なく竣工したため、城主が二神を敬い天神社と正観音を祀ったと伝える。
 なお、別当で、この正観音を境内の観音堂に祀る真言宗正観山真光寺は、古河公方成氏の開基といわれ、古河徳星寺の末社であったが、明治期に廃寺となっている。
 明治五年には前記の天神社ほか六社が当社に合祀され、同時に河川改修により、当社を字北通から現在地に移転した。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    拝 殿
 当社は向古河の鎮守として、明神様・お鳥様と呼ばれ、子育て・安産の神として、氏子はもとより古河・野木(茨城県)・藤岡(群馬)方面からの参拝が見られたという。参拝する女性たちは、元を半紙で包み麻で結わえた髪の毛を拝殿の格子に下げて祈願し、願いがかなうと礼参りとして鶏を描いた絵馬を上げたという。また、祈願の方法の一つとして特に体の弱い子供は、「麻のように丈夫に育つように」と麻を神社から借り、これを子供の首に掛け自然に切れて落ちるまで首輪としたという風習もあったらしい。
また、当地方は渡良瀬川からの出水が度重なるため、稲藁が取りにくく、藁不足であった。そのため、社前の注連縄に苦労し、神前に上げられる髪の毛をお祈りの込められた「霊力の籠るもの」として注連縄を作り、鳥居に掛けた。この風習は昭和一〇年まで続けられたといい、その後麻に変えられ、更に昭和四〇年からは藁繩を注連縄としている。
        
                 境内に設置されている「
指定有形文化財 板絵着色手習図」
 指定有形文化財 板絵着色手習図
 種別番号  絵画 第五・六号
 指定年月日 昭和五十八年三月二十一日
 管理者   向古河鷲神社氏子
 第五号は、たて一一○センチ、よこ一二二センチ。右端に観音坐像がまつられているので、真光寺の観音堂に掲げられていた絵馬であることがわかる。絵師は不明であるが、個々の人物を写実的にとらえ、全体的には遠近法を用いて、繊細な筆の運びで秀れた描画としている。歴史的資料として貴重であるだけでなく、美術的にも高く評価されている。
 第六号は、たて一一○センチ、よこ一三八センチ。部屋に梅が飾られ、襖に梅の老木が描かれているので、天満宮に掲げられた絵馬であることがわかる。嘉永四(1851)年、一亀斎直照の筆になるもので、おちついた環境を示し、その中で腰をすえて手習をしているという図柄である。ただひとり両手を挙げてあくびをしている筆子が、かえってその静かな雰囲気を強調していておもしろい。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                県道沿いから本殿を撮影
 当社の行事は年間6回行われ、7月の夏祭りが最大の行事である。この行事は合祀社八坂社のもので、天王宮耕地が中心となり行われる。祭り当日には、子笹流と伝えられるササラ(獅子舞)と大杉囃子が、それぞれ道中を組んで当社に集まり、神前に奉納した後、各戸を回り、庭先で行うため、終了するのは夜中になったという。
 
 二の鳥居の先にある手水舎の右側にある力石   一の鳥居の右側で、遊具の近くにある庚申塔 

 庚申塔の右側にある「史蹟万葉古河埜」の碑     「万葉遺跡 古河渡」の案内板
 史蹟万葉古河埜渡
 麻久良我乃許我能和多利乃可良可治乃(まくらがのこがのわたりのからかちの)
 於登太可思母奈宿莫敝兒由恵爾(おとたかしもなねなへこゆゑに) 

 万葉遺跡 古河渡
 万葉時代が編まれた古代、古河から行田にかけて水郷の地でした
 この付近には、古河の渡しがあったといわれ、万葉集に「古河渡」を歌った歌二首が収載されています。
 まくらがの古河の渡りのから梶の
     音高しもな寝なへ子ゆえに
 (古河の渡しに響き渡る梶の音の高さのようにうわさが高いわけがわからない。
 あの人とは何の関わりもないのだから)
 逢はずして行かば惜しけむまくらがの
     古河こぐ船に君も逢はぬかも
 (逢わないまま別れてしまうのは惜しいものです。
 
古河をこぐ舟で逢えたらいいのですが)                碑文・案内板より引用
        
                                境内の一風景
 氏子の間では、昭和年代まで、作神として群馬県板倉町の雷電神社が信仰され、雷電神社日参講がある。これには雷電神社日参講と書かれた幟旗があり、代参当番に当たった二名が早朝神社二参拝し、帰ってくると旗を家の前に立てて置き、夕刻に次の当番の家に渡す。この地は雷電神社が近く、二時間程で往復ができるため、このような参拝の方法をとり、田畑の雷除けをしていたという。

『日本歴史地名大系』「向古河村」の解説
 現北川辺町の北東部、渡良瀬川右岸に位置し、北東は同川を隔てて下総国古河城下船渡町・同国葛飾郡悪戸新田(現茨城県古河市)に対する。同川の船渡しで古河城下日光道中に通じる道があった。南は駒場村、西は柏戸村、北西は同川を隔てて下野国都賀郡下宮村(現栃木県藤岡町)。「頼印大僧正行状絵詞」に至徳三年(一三八六)一一月一〇日のこととして「向イ古河」から出火し、烈しい川風のため、鎌倉公方足利氏満の居所に炎がかかったという。「松陰私語」によると、文明一〇年(一四七八)七月二三日、古河公方足利成氏が成田(現熊谷市)から古河へ帰城の途中「向古河観音堂」で休息している。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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