古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

阿夫利天神社

 神奈川県伊勢原市の大山に鎮座する「大山阿夫利神社」は、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)で、旧社格では県社に列していて、現在は神社本庁の別表神社である。
 社伝によると崇神天皇の御代に創建されたとされ、天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。以後、神仏習合が続く。
 この社は別名「雨降山〈あふりやま〉」という。大山は山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり(あふり)山」とも呼ばれ、雨乞いの対象としても知られていた。大山阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国を護る山・神の山としてあがめられてきた。
 その後、江戸期以前の神仏習合時代には、石尊大権現が祀られていた。この石尊大権現は、大山の山岳信仰と修験道的な信仰が融合した神仏習合の神で、十一面観音を本地仏としている。
 本庄市中央地域に鎮座する当社は、寿永年間(1182~1185)に本庄太郎家長が城を当地に築いた時、厚く信仰していた「石尊大権現」をこの地に勧請し、明治初年まで安養院が別当であった。その後、大正2年に天神社等を合祀し、社号を阿夫利天神社と改称したという。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市中央3438
            ・ご祭神 大山祇大神 天満天神(菅原道真公) 大雷大神 高靇大神            
            ・例祭等 祈年祭 225日 春祭(勧学祭) 425
                 例祭(お神酒上げ神事) 93日 新嘗祭 1125
 仲町愛宕神社の参拝前、社の北側にあるショッピングモールの駐車場に車を停めてから参拝したのだが、その駐車場所から目を西側に転じると、遠目からも分かるこんもりとした森が見え、徒歩にて数分歩くと、阿夫利天神社に到着することができる。
        
                  阿夫利天神社正面
 本庄市中央地域は、本庄市役所や本庄城跡から「駅前通り」を隔ててすぐ西側に隣接する、現在の行政区域で南北約500m・東西650m程の横に長い四角形の地域であり、この地域の北側境には古小山川が流れる。水源は元来湧水であったが、残念ながら現在は枯渇していて、現在の河川水量は少なく、現在の主な水源は生活排水と御陣場川からの導水である。その河川周辺の標高が約47mに対して、南側境である中山道は57m程で、台地面と低地面との断崖によって形成される。地域の北西域にある阿夫利天神社もその社の北側にある若泉公園とは標高差56m程で、台地面との境となっていて崖下に公園が東西に広がる
 
  石段の左側に並ぶ庚申塔三基と石祠一基     石段右側に建つ社号標柱
 阿夫利天神社は「石尊様の山」と呼ばれる高台の北端部に鎮座している。その高台の北側の付け根に湧水池があり、嘗ては常時、水が湧きだしていたという。
 社伝によれば、この湧水は、天明七年(一七八七)に旱魃となった折、阿夫利神社の御神体を社殿北側にある池の中洲に移して雨乞いをしたところ、霊験を得て雨が降り、同時に湧水を得たのが始まりであるという。この霊験譚は、村内ばかりでなく周辺の村々まで知れ渡り、当社は「水の神様」として厚く信仰され、現在の寄居町や群馬県高崎市辺りからも、石尊講と称して多くの人々が多数参拝したとのことだ。 

石段を登り終えるとさっぱりとした参道が続く。  参道途中右手に案内板が設置されている。
 阿夫利天神社 所在地 本庄市中央34
 阿夫利天神社の祭神は大山祇命、大雷命、高靇神、菅原道真、天手長男命の五神である。
 社伝によると、寿永年間(一一八二~八五)に本庄太郎家長が城を当地に築いた時、厚く信仰していた相州大山(神奈川県伊勢崎市)の石尊大権現をこの地に勧請したのが始まりと伝えられ、戦国時代の本庄宮内少輔も深く崇敬したという。
 その後、天明三年(一七八三)七月の大かんばつの時、石尊社を池上に遷して降雨を祈ったところ、たちどころに霊験を得たといわれる。
 寛政三年(一七九一)に社殿を再建、大正二年に天神社ほかを合祀し、社号を阿夫利天神社と改称した。
                                      案内板より引用
        
     参道を進むと、正面に社殿、右側には神楽殿、左側には社務所が見える。
 
      石段上に鎮座する社殿              石段下で、右側に設置されている案内板
        
                    拝 殿
 阿夫利天神社御由緒   本庄市中央三-四—三八
 ▢御縁起(歴史)
 当社は、大正二年、阿夫利神社に天神社が合祀され、社名を阿夫利天神社と変更したものである。
 阿夫利神社は、社伝によると、寿永年間(一一八二~八四)源頼朝によって領地を受けた児玉党の本庄庄太郎家長が、かねてより信仰していた相州大山石尊大権現を、領地内の当所に勧請したのが始まりである。文明十三年(一四八一)その隣接地に、本庄藤太郎雪茂 (僧号伊安))が若泉山安養院無量寺を開基し、以後、明治初年の神仏分離まで、同寺が別当職を務めた。
 一方、天神社は、「阿夫利天神社由緒書」(埼玉叢書第三巻所収)によれば、天正二年(一五七四)に本庄城主本庄宮内少輔実忠の命により城の鎮守として奉斎されたことに始まる。本庄氏退去の後、城主となった小笠原掃部太夫も、鎮座地のほかに五反余の土地を寄進し「天神林」と名付けた。慶長十七年(一六一二)小笠原氏国替に伴い本庄城が廃城になると、天神社は村人の手によって守られ、名主七左衛門・問屋伊左衛門らが中心となって寛永六年(一六二九)に御霊を天神林に再建した祠へ移した。寛文七年(一六六七)に同社は、別当寺管霊山自在院慈恩寺境内(現在の照若町)に移された。その後、大正二年に町役場建設用地として天神社鎮座地が指定されたことにより、阿夫利神社に合祀となった。
 平成十二年一月、放火により社殿が焼失したが、御神体が残り、平成十四年九月に再建され、現在に至っている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                本殿から社殿全体を撮影
 阿夫利天神社の例祭は、毎年93日に行われる盛大な祭りである。嘗ては、923日の2日間行われ、古くから香具師(やし)の間で「三大高待」と呼ばれ、大宮氷川神社の十日待、秩父神社の妙見待と並び称される程の賑わいであった。
 この例祭では、神楽の奉納や、水を恵む神様に御神酒を奉納する「御神酒上げ神事」が行われる。この「御神酒上げ神事」は、参加している旧本庄宿の12ヵ町の各町内の旦那衆が、お神酒樽を首に掛けた町内頭と呼ばれる鳶職の親方を先頭にして、四斗樽の御神酒を荷車に載せ、木遣りと共に引いて神社に奉納する勇壮な神事である。この神事は、午後6時頃出発し、各町は、町名の入った提灯を下げ、町内ごとに昇殿すると持参した「お神酒樽」を神前に供え、町内の安全を祈念する。その後、各町内に戻り、自治会館や料理屋でお神酒を頂き直会をする。
 
  本殿の西側にひっそりと祀られている    本殿奥で、森に覆われている一角に鎮座する
       境内社・出世稲荷社         境内社・宝登山神社(一番右)と多数の石祠

 阿夫利天神社の氏子区域は江戸時代初期より中山道で栄えた旧本庄宿の12ヵ町で、宮本町・泉町・上町・照若町・七軒町・仲町・本町・南本町・台町・末広町・朝日町・諏訪町であり、この宝登山神社の台座に刻印されている「照若講」とは、この12ヵ町のひとつである照若町の講者からの奉納であろう。
 
        阿夫利天神社・本殿奥に脇道があり、下り斜面を降りると、
     崖下の空間を利用して「若泉公園」が東西に広がっている。(写真左・右)
 
  公園南側の崖面下には嘗ての湧水跡と     崖面西側には、画像が小さくて見ずらいが
     思われる痕跡がみえる。          不動明王と二童子が祀られている。 


            社の南側に隣接してある普寛霊場(写真左・右) 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市 観光協会HP」Wikipedia」「境内案内板」等                
 

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仲町愛宕神社

 慶長8年(1603年)、征夷大将軍となった徳川家康のもと、江戸幕府が創立され、江戸と京都、大阪などを結ぶ交通網の整備は領国経営の上でも重要な施策となった。内陸を通る中山道の整備もその一つである。そして、かつて本庄に城下町を創った新田氏家臣の末裔と言われる人々(戸谷、諸井、森田、田村、内田、今井、五十嵐等)も慶長年間頃より中山道沿いに移り住むようになった。
 寛永10年(1633年)に本陳が設置された。寛永14年(1637年)には人馬継立場となり、寛文3年(1663年)には榛沢郡榛沢村で開市していた定期市を本宿に移転し、宿場町としての形態を整えた。そして、元禄7年(1694年)に助郷村制度が確定された。
 本庄城(慶長17年に廃城)に最も接近して創られたのが本宿であり、本庄宿の中では最も歴史が長い。本宿より西方で、京都よりには上宿ができ、両者の間には中宿が成立した。三つの宿は、その後、「本町」「仲町」「上町」と呼ばれるようになった。
 その後、西国や日本海方面より、江戸に出入りする時の内陸の中継点として、宿の機能は年々拡大されていき、3町より始まった本庄宿も、天保14年(1843年)には、宿内人口4554人、商店など全ての家数を合わせ1212軒を数える中山道最大の宿場町として発展する事になる。
        
            ・所在地 埼玉県本庄市中央152
            ・ご祭神 愛宕大神 天手長男大神 子安稲荷大神 
            ・例祭等 祈年祭 315日 例祭 424日 祇園祭 715
                 新嘗祭 1124
 国道17号線を本庄市街地方向に進み、「日の出四丁目歩道橋」のある交差点を左折する。その後、旧中山道で埼玉県道392号勅使河原本庄線を西行すること1.7㎞、本庄駅前通りとの交点である「本庄駅入口」交差点を直進し、240m程先の丁字路を右折し、暫く北行すると、進行方向左手で、住宅街の一角に愛宕神社の小さい鳥居が見えてくる。
 社のすぐ北側には「仲町会館」が隣接しているのだが、事前リサーチによる駐車スペースの確保が確認できなかったので、そこから150m程先にあるホームセンターの駐車場の一角をお借りしてから参拝を開始した。 
       
                 小じんまりとした鳥居
   民家が建ち並ぶ細い路地の先にこんもりとした森に囲まれた古墳上に社は鎮座している。

 当社は、『風土記稿』本庄宿の項にも開善寺の境内社として記載されているところから、寺の鎮護のために創建されたものとも思われ、『児玉郡誌』は「天正十九年城主小笠原掃部太夫信嶺の勧請せし社なりと伝ふ」と載せている。神仏分離の後は、開善寺の管理を離れ、地元仲町の人々によって祀られるところとなった。なお、神仏分離の際、本地仏として本殿内に安置されていた勝軍地蔵木像は開善寺に預けられることになり、現在も同寺で大切に祀られている。 
     
 社殿に至る石段の左手にある2本立ちとなっているケヤキはご神木とされており、今尚樹勢は旺盛。
           市の天然記念物に指定されている(写真左・右)
 本庄市指定文化財 天然記念物  指定年月日 昭和431023日。
 仲町愛宕神社のケヤキ
 愛宕神社は古墳上に祀られ、社殿に至る石段の左手に神木として所在しています。ケヤキは南北に2本立ちとなっていて、南樹は目通り周囲4メートル、北樹は目通り周囲4.3メートルです。
「本庄市HP
」より引用
             
              古墳の墳頂上に鎮座している社殿
   古墳の回りを覆う社叢林が旺盛のため、昼間の参拝にも関わらず、この一帯はほの暗く、
              神秘的な雰囲気を醸しF出している。
 当社で行われる「祇園祭」は仲町が本庄の中でも先駆となって始めたもので、戦後は一時期廃れたが、昭和24年に神輿渡御を復活したところ、商店街活性化の一助として他の町内でも次々と神輿を出すようになり、今は「本庄祇園祭」と称する大イベントに成長した。昼は子供神輿、夜は大人の神輿が威勢よく渡御するこの祭りは、本庄の夏の風物詩ともなっている。
 
  社殿に掲げてある「愛宕山」の社号額    石段の頂上部付近に設置されている案内板
 愛宕神社 所在地 本庄市中央15
 愛宕神社は、旧開善寺境内の南東にある古墳上に祀られている。
 天正19(1591) 本庄城主小笠原信嶺が勧請したと言われている。祭神は火之迦具土命で、天手長男命、若宇迦能売命が合祀されている。
 神殿に至る石段の左手にあるケヤキは神木とされており、根元から南北二樹に分れている。
 南樹は目通り周囲3.7メートル、枝張り東西約16メートル、北樹は目通り周囲4メートル、枝張り東西約20メートル、一本で社叢(しゃそう)を形成している。このケヤキは、昭和43年本庄市指定の文化財となっている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
             社殿付近に設置されている社の御由緒
 愛宕神社 御由緒  本庄市中央152
 □ 御縁起(歴史)
 本庄城の城跡から見て、南西500メートルほどの所にある愛宕山と呼ばれる古墳の上に当社は鎮座し、石段の脇には神木の大欅(おおけやき)が枝を広げている。この古墳は、愛宕山の西方500メートルほどの所にある古墳と夫婦塚であるといわれ、彼方の古墳の上には寺坂町の天神社が建つ。
 当社の位置は、臨済宗妙心寺派の寺院である開善寺の旧寺領の南東端に当たる。開善寺は、天正18年(1590)に本庄城主の小笠原掃部大夫信嶺によって開かれ、慶安2年(1649)に三代将軍家光から一五石の御朱印を賜ったことで知られており、歴代将軍から拝受した朱印状を納めた漆塗りの箱は市指定文化財になっている。当社は、『風土記稿』本庄宿の項にも開善寺の境内社として記載されているところから、寺の鎮護のために創建されたものとも思われ、『児玉郡誌』は「天正十九年城主小笠原掃部太夫信嶺の勧請せし社なりと伝ふ」と載せる。
 神仏分離の後は、開善寺の管理を離れ、地元仲町の人々によって祀られるところとなった。社格は無格社であったが、氏子の厚い信仰と「由緒ある社である」との誇りにより、明治末期にしばしば要請のあった村社等への合祀の話も退け、独立した社を維持してきた。なお、神仏分離の際、本地仏として本殿内に安置されていた勝軍地蔵木像は開善寺に預けられることになり、 現在も同寺で大切に祀られている。
                                      案内板より引用
『新編武蔵風土記稿 本庄宿』
 開善寺 同宗臨済派、京都花園妙心寺末、疊秀山と號す、寺領十五石の御朱印は、慶安二年十一月十七日賜へり、開山球山は時の領主小笠原掃部信嶺の室、久旺尼院の兄にて春日局の叔父なり、信濃國伊奈郡川路村開善寺に住し、天正十九年こゝに來り、一寺を草創し、則彼寺號を襲ひ且住職せりと、この僧は寛永三年八月十二日示寂、開基小笠原信嶺は慶長三年二月十九日卒す、則開善寺徹州道也と號す、
 九條袈裟一領 表紺地赤金欄、裏は白綿地なり、久旺尼院及春日局二人手親縫ひしものと云、箱の裏に星霜既久理破壊せる故、寛政年中小笠原相模守長敬改製せることを記せり、この外信玄出陣の畫像等あり、 鐘 寛延年中再鑄の銘あり 愛宕社 稻荷社
 当社には天手長男神社と子安稲荷神社の二社が末社として祀られていたが、両社共に本殿内に合祀された。そのため、昭和十二年ごろまでは、「愛宕大神」「天手長男大神」「子安稲荷大神」の三種の神札があったが、現在はこれらをまとめて「愛宕三神神璽」として頒布しているとの事だ。
        
                 石段上からの一風景
 本庄市中央地域は、本庄駅がすぐ南東側にあるため、住宅街や近代的なオフィスビル類などが多い地域なのだが、かつて、徳川幕府の政策の都合から宿場町として栄え、商人の町として発展し、18世紀には中山道で最大の宿場町となり、その後、明治以降は生糸・絹織物の産地として栄えたためか、嘗ての宿場町の古きよきまち並みが多く残り、特に中山道を通ると、蔵や商家、寺院など当時の面影を残す風景に出会え、市としての文化度や成熟度が非常に高い地でもある。
 但し、本庄宿は、宿場町としては規模が大きかったため、何度か大きな火災被害を受けたともいい、江戸時代当時の面影を残す建物は少ない。本庄宿の蔵作りは街道沿いの正面ではなく、店先を一つ下がった部分に建設されていて、これらは隣家の蔵と繋がり、蔵の帯とも言うべき家並みを作った。というのも、火事になった時に「防火帯」の役目を果たしたからであり、商家の資産を保管していた蔵々が火災の時に防火拡大を防ぐ「盾」となったという。
 これも近世当時の建物が少ない理由である。
 
このような歴史的な背景を推察するに、この地に「火防の神」の意味合いも強い愛宕神を祀ったのも、創建された理由の一つとして挙げられるのではなかろうか。実際氏子の間では「愛宕様のおかげで、中山道からこっち(北側で当社のある方)は古くから火事が少ない」という。慶応元年(一八六五)の開善寺所蔵の御朱印地図面を見ると、現在の仲町会館の東の辺りに湧水があり、愛宕山を巻き込むように沼が形成されていたが、この沼の水が防火用水としての役割を果たしていたことがうかがえる。但し、この沼は町の発展に伴って埋め立てられたらしく、大正時代末には既に姿を消している。
        
           ご神木の根元には三基の庚申塔と仏像がある。
 周囲が自然に恵まれた中で、ご神木が旺盛に根を台地に下ろして聳え立つ風景は度々見ることはあるのだが、このような住宅街の一角、特に路地幅が狭く、民家が密集している中で、このように立派な巨木が聳え立つ姿は威厳さえ醸し出している。地域の方々が如何に大切に守ってきたのであろう。

 
       仲町愛宕神社のすぐ東側に鎮座している戸谷八稲荷神社(写真左・右)
         鳥居扁額にはうっすらと「正一位稲荷大明神」と刻印
        
              社の傍らに聳え立つケヤキの御神木

 
    
開善寺正門の向かいにあった          小笠原掃部太夫信嶺公夫妻の墓
 「小笠原掃部太夫信嶺夫婦の墓」の案内板
 本庄市指定史跡  小笠原掃部太夫信嶺公夫妻の墓
 公は徳川氏の家臣で、もと信州松尾城主、天正十八年 (一五九〇年)豊臣氏の関東攻めにより、本庄氏滅亡の後当城を賜わり、同年九月入城し本庄領一万石を領した。慶長三年(一五九八年))二月十九日、五十二才にして逝去した。法名徹抄道也大居士、なお公の墓石宝篋印塔は古墳上に築かれている。
 昭和三十三年三月二十八日  本庄市教育委員会                               案内板より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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下清久諏訪神社

 久喜市下清久地域で、近年まで行っていた氏子の年中行事の一つに「鎌どっかえ」があり、参拝者に甘酒を振る舞ったことから「甘酒祭り」とも称されていた。
 氏子は毎年927日になると、それまで一年間、自宅の神棚に飾っておいた当社の「鎌」に新しく作った「鎌」を添えて当社に返し、再び別の「鎌」を借りて、五穀豊穣を祈り自宅の神棚に飾った。「鎌」は、竹の柄に柘植(つげ)で作った刃を付け、刃の内側を墨で黒く塗ったものであった。また、体に出来物ができた時は、この「鎌」でその箇所を刈り取る仕草をすると治るといわれた。
 このように嘗ては盛んに行われた「鎌どっかえ」も、氏子に勤め人が増えたことによる農家の減少や医療技術の発達により、昭和
30年を境に徐々に衰退し、更に、勤め人が一層増加したことにより甘酒を作る人手が不足するようになり、昭和60年に甘酒作りを中止すると、ほとんど行われなくなった。このため、総代・役員・行事が話し合い、平成6年に正式に「鎌どっかえ」の中止を決めたという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市下清久599
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧下清久村鎮守・旧村社
             ・例祭等 夏祭り(行灯祭り) 726
 久喜市下清久地域は、古利根川の乱流期に形づけられた自然堤防上に位置していて、青毛堀川と備前前堀川の間の低地・台地に位置する農耕地帯である。地域東側には南北方向に蛇行しながら流れる新川用水が上早見地域との境となっていて、地図を確認すると、上早見千勝神社から新川用水を隔ててほぼ真北に下清久諏訪神社は鎮座している位置関係となっていて、この二社は直線距離にして200mも離れていない。
        
              道路沿いに下清久諏訪神社は鎮座
    社の正面となる社号幟を立てる柱から見ると、鳥居はやや西向きとなっている。
           後日地図を確認すると、南西方向に向いている社
『日本歴史地名大系 』「下清久村」の解説
 上清久村の東に位置し、北は新川用水を境に久本寺(くほんじ)村。天正一八年(一五九〇)八月の徳川氏関東入国にあたり、松平康重は忍(現行田市)から騎西(現加須市騎西)へ移ったが、所領二万石のうち四千石不足であったため、検地と下清久二千石で補充したという(石川正西聞見集)。村高から考えても下清久村一村ではなく付近一帯が含まれていたと思われる。騎西領に所属し、検地は上清久村に同じ(風土記稿)。田園簿によれば川越藩領で、田高一七七石余・畑高一五九石余、ほかに野銭永七〇文があった。
        
            道路沿いに移動すると下清久諏訪神社正面となる
                                          社の正面としてしっくりとするアングルだ。
 創建年代は不明である。ただ下清久村が清久郷から分村したのが1596年(慶長元年)以前であり、分村時に信濃国一宮の諏訪大社から分霊を勧請したものという。近くの清福寺が別当寺であった。1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
 氏子区域は近世の下清久村を引き継ぐ大字下清久で、総代は、氏子を「上」「中」「本村」「宮守」「新田」の五つの村組に分けて、各一名ずつの計五明で選出され、人気三年で神社運営に当たるという。このほか「行事」と呼ばれる当番が、家並み順に二名ずつ計一〇名選出され、夏祭りの準備や境内の清掃を担うとのことだ。
        
            正面東側手前側にある青面金剛と(石)橋供養塔
        
          鳥居を過ぎてすぐ左側にある「諏訪大社参拝記念碑」
           その並びに祀られている熊野大神と神明宮の石祠
        
            「諏訪大社参拝記念碑」の左側にある力石二基
       
                    拝 殿
 諏訪神社  久喜市下清久五九九(下清久字宮浦)
『風土記稿』によれば、往古、当地が属していた清久郷は、慶長元年(一五九六)までに上清久・下清久に分けられ、それぞれ一村となった。『埼玉県地名誌』によれば、清久という地名の由来は、古利根川の乱流期に形づけられた自然堤防上に位置していることによるという。鎮座地の下清久は、青毛堀川と備前前堀川の間の低地・台地に位置する農耕地帯で、東の境には新川用水が流れている。
 当社はこの新川用水のすぐ西側に鎮座しており、『風土記稿』下清久村の項には「諏訪社 村の鎮守なり、清福寺持、下二社同持、〇熊野社〇神明社」とある。口碑によれば、創建は、清久郷が分村するに当たって、信濃国一宮の諏訪大社の分霊を下清久村の鎮守として勧請したものであるという。別当の清福寺は久喜町真言宗光明寺末で瑠璃山と号し、中興開山の法印宥源は延宝五年(一六七七)に入寂した。
 神仏分離により、当社は清福寺の管理下を離れ、明治六年五月に村社となった。
 本殿内には「大明神勧請安鎮座」と墨書された神璽をはじめ、三重の厨子に納められた、神体とされる諏訪大明神立像や、「諏訪大明神 願主斎藤幸右衛門献謹拝 明治二巳年十二月吉日」と墨書された金幣が奉安されている。
                                                                   
「埼玉の神社」より引用

       境内に祀られている稲荷社              本 殿

 社の祭事は7月26日の夏祭りの年1回である。この夏祭りは「行灯祭り」とも称し、氏子が分担して作った行灯を当日の朝、「行事」と称する当番が境内や当社に至る道筋に100基ほど飾る。午前中に神職の奉仕により祭典が執り行われ、終了後、樽神輿を子供が担ぎ、各耕地ごとに受け継ぎながら、二時間ほどかけて氏子区域を一巡し、当社に戻るという。その後、午後七時に行事が行灯をともすと、氏子が銘々で参拝する。
 夏休み中ということもあって、境内は家族連れの参拝者や、連れ立って遊びに来る子供たちで終日にぎわい、午前中から境内ではカラオケ大会や、境内に設営された綿飴や金魚すくい等の模擬店で盛り上がるという。
 地域の重要な祭事と同時に、近隣住民同士のコミュニテーに欠かせない仲間意識が芽生える伝統行事は、今後も大切にしてもらいたいとつくづく感じる次第だ。
        
             境内にひときわ目立ち聳え立つご神木



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」

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上早見千勝神社


        
              
・所在地 埼玉県久喜市上早見583
              
・ご祭神 大己貴命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 春例大祭 412日 秋祭り 725
 前項上清久長宮神社と同様に、六万部愛宕神社から一旦南下し、埼玉県道12号川越栗橋線との交点を東行し、東北自動車道を過ぎた「六万部橋(東)」交差点を更に直進する。埼玉県道146号六万部久喜停車場線と県道は変更となるが、900m程道なりに進むと、進行方向左手に上早見千勝神社が見えてくる。
        
                 
上早見千勝神社正面
『日本歴史地名大系』による 「上早見村」の解説
 久喜本町の西に位置し、北は久本寺(きゆうほんじ)村(現鷲宮町)、南東は下早見村。南は新川用水を境に江面(えづら)村。騎西領に所属(風土記稿)。現市域に現存する最古の検地帳である元和七年(一六二一)の武州騎西領上早見村地詰帳(野房家文書)によると、畑三三町余が打出され、分付百姓の記載もみられる。検地奉行は私市(きさい)城の城主大久保氏の家臣。正保四年(一六四七)にも検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一九九石余・畑高二八五石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では反別は田方二三町三反余・畑方三二町八反余、ほかに新開高三五石余、田方一町六反余・畑方二町三反余があった。
 
   参道途中に設置されている案内板     社号標柱には「武蔵国上早見」と刻まれている。 
       
             鳥居は参道を進み、境内との境に建つ。
      参道周辺には綺麗に玉砂利が敷かれ、手入れも行き届いているようだ。
 千勝社の創建時期等は不明であるが、かつて埼玉郡上早見村(明治合併以後は大字上早見)の村社であり、1950年(昭和25年)時点での境内地面積は293坪であった。1909年(明治42年)72日に行われた合祀では、浅間社(字本田)・十二社(字本田)・神明社(字本田)・天神社(字本田)・厳島神社(字本田)・稲荷社(字本田)が集められている。 
        
         鳥居の手間で、参道右側に祀られている境内社・稲荷神社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上早見村』
千勝社 觀喜院の持
觀喜院 新義眞言宗、久喜町光明寺の末、無量山と號す、本尊不動
聖天社 阿弥陀堂 〇金勝寺 同末、如意山と號す、本尊隨求明王

 千勝社 御由緒  久喜市上早見五八三
 □御縁起(歴史)

 上早見村は古くは下早見村と一村であり、上と下に分村した時期は伝えられていないが、元和七年(一六二一)の「武州騎西領上早見村地詰帳」(野房文書)が現存するので、分村はこれ以前と思われる。
 当社は、上早見村の字新田に鎮座する。『風土記稿』上早見村の項に「千勝社 歓喜院の持」と載り、歓喜院については「真義真言宗、久喜町光明寺の末、無量山と号す、本尊不動」とある。本寺である光明寺は白鳳十年(六八一)に行基が開基し、建長四年(一二五二)に法印賢信が中興開山したと伝わる古刹であり、境内には久喜町の鎮守である千勝社を祀っていた。恐らくは、新田開発が進められる中で、歓喜院の住職が本寺に祀る干勝社を当地に勧請したのであろう。その年代については定かではないが、久喜町の千勝神社が永正十四年(一五一七)に足利政氏により勧請されたと伝えられることから、これ以降のことと思われる。
 本殿には、明和七年(一七七〇)に神祇管領吉田家から「千勝大明神幣帛」を拝受した際の祝詞が保管されている。
 当社は、明治に入り歓喜院の管理下を離れ、明治六年に村社となった。現在、歓喜院の本堂内には本尊と並んで高さ二六センチメートルほどの木製虚空像菩薩立像が祀られている。これは、江期に当社に祀られていたが、明治初年の神仏分離により歓喜院に移されたものと伝えられる。
                                      案内板より引用
        
              綺麗に整えられた境内及び参道一帯
 


参考資料「新編武蔵府独港」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等  
    

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上清久長宮神社

 新川用水は埼玉県北東部を流れる農業用水路であり、上流部では騎西領用水(きさいりょうようすい)と呼ばれる。埼玉県加須市外田ヶ谷の星川(見沼代用水)より分水し、加須市・久喜市・南埼玉郡宮代町を流れ、久喜市・南埼玉郡宮代町との境界付近で備前前堀川に合流する。久喜市内ではかつての南埼玉郡久喜町・江面村との町村界の一部を成していた。また、久喜市(六万部、上清久)・北葛飾郡鷲宮町(中妻・久本寺)の市町界を成していた。備前前堀川との合流地点には「万年堰」という堰がある。
 上清久長宮神社は上清久地域の北西部に鎮座し、すぐ北には新川用水が流れている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上清久333
             
・ご祭神 息長足姫命
             
・社 格 旧上清久村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 419日 天王様 715日に近い日曜日
                  
秋祭り 1019
 六万部愛宕神社から一旦南下し、埼玉県道12号川越栗橋線との交点を東行する。東北自動車道を過ぎた「六万部橋(東)」交差点を左折し、北上すること1㎞程で「上清久」交差点に達し、そこを左折する。埼玉県道151号久喜騎西線を暫く西行すること500m程で、上清久長宮神社の鳥居が進行方向右手に見えてくる。
 境内には本村集会所があり、駐車スペースも確保されている。
        
                 上清久長宮神社参道
 社は県道沿いに鎮座しているが、参道は南側にも伸びていて、古い鳥居の台座が道路脇に置かれていることからも、嘗てはこの場所に鳥居が置かれていたのではなかろうか。
 
『日本歴史地名大系 』「上清久村」の解説
 六万部村の北東に位置し、北は新川用水を境に中妻・久本寺(現鷲宮町)の二村と対する。東は下清久村、六万部村の南部に飛地がある。上・下の清久村一帯は「吾妻鏡」養和元年(一一八一)二月一八日条などにみえる大河戸次郎秀行(清久氏)の本貫地であった。建長年間(一二四九〜五六)と推定される年不詳の某陳状(中山法華経寺「双紙要文」裏文書)に武蔵国清久とみえる。天正八年(一五八〇)三月二一日、足利義氏は北条氏照に対し、清久郷など五郷から人夫を毎年五〇人・二〇日間出させることとし、今回は四月二日と三日に下総古河に参集させるよう命じている(「足利義氏印判状写」喜連川家文書案)。騎西領に所属(風土記稿)。
        
                 上清久長宮神社正面
              開放感のある明るい社という印象
 11世紀末の平安時代末期頃、久喜市域には清久(きよく)次郎秀行という武士がいた。この清久氏は鎌倉~南北朝時代に現在の久喜市上清久一帯で活躍した武士団である。藤原秀郷の子孫大河戸行方(重行)の二男秀行が、当地「清久」に居住して清久氏を名乗り、現在の久喜市清久に居住したと伝わっている。秀行は源頼朝に仕えた御家人で『吾妻鏡』等の書物や書簡等にもその名が見られる。
『新編武蔵風土記稿 上清久村』
「古へ當所に清久次郎といへる人住せし故起りし名にて、【太平記】清久山城守など見えたるも、當所に住せし人ならんと云へり、」
『秋田藩太田系図』
「太田四郎行光―大河戸下総権守行方―清久二郎秀行(兄太郎広行)―小二郎左衛門尉秀綱(弟鬼窪五郎行盛)―次郎胤行―弥二郎秀胤―又次郎左衛門尉祐行―小次郎左衛門尉秀言。胤行の弟下清久四郎師綱―四郎二郎行氏(弟寺崎四郎三郎行茂)―小次郎行綱―孫次郎国行」と。尊卑分脈に「大河戸行方―清久三郎秀行―三郎兵衛尉秀綱―弥二郎秀胤」
『清久村郷土誌』
清久次郎・根拠を此処に定むるや、その臣瀬田五郎をして加吾宿(水深村字籠宿)の地を、藤本太郎をして藤本(上清久村字藤本)の地を、小河原某をして赤旗(下清久村鎮守赤幡社)の地を開かしむ。元弘三年北条氏滅亡するや清久氏また滅びて、瀬田・藤本・小河原某等皆農に帰す。
吾妻鑑卷二十五』
・承久三年六月十四日宇治合戦に敵を討つ人々に清久左衛門尉。同年八月二日、清久五郎行盛・子息太郎は下向す
吾妻鑑卷四十』
建長二年三月一日、清久左衛門が跡
吾妻鑑卷四十一』
建長三年正月二十日、北条時頼の随兵に清久弥二郎秀胤
吾妻鑑卷四十三』
建長五年八月二十九日、下総国下河辺庄の堤防修築の奉行に清久弥次郎保行
太平記卷十三』
中先代蜂起の時、北条時行に従ふ兵に清久山城守あり
太平記卷二十四』
康永四年八月二十九日、足利尊氏天龍寺供養の従兵に清久左衛門次郎
        
                    拝 殿
 長宮神社  久喜市上清久三三三(上清久字長宮)
 清久の地名は『風土記稿』によれば当地に清久次郎と名乗る人物が居住していたことに由来するという。建長年間(一二四九〜五六)と推定される某陳情(中山法華経寺「双紙要分」裏文書)に武蔵国清久とあるのが文献上での初見であるが、上下に分村した時期は不明である。当社は上清久村の西端に鏡座し、すぐ北には新川用水が流れる。
 当社の創建については伝えられていないが、当社が鎮座する耕地(村組)を本村と呼ぶことから、村開発の早い時期から村の鎮守として祀られていたと考えられる。
『風土記稿』上清久村の項に「長宮明神社 村の鎮守にて、祭神は大己貴命なり、鷲宮・久伊豆・長官の三社を相殿とす、光明院の持、末社 稲荷三宇 荒神 疱瘡神」と記され、別当を務めた光明院は、「同宗(新義真言宗)にて、下総国前林村東光村の末、瑠璃山地蔵寺と号す、本尊地蔵を置く」と載る。
 三間社春日造りの本殿内には、元文二年(一七三七)に神祇官領吉田家から「正一位長官大明神」の神位・神号を拝受した際の幣帛が奉安されている。元文四年(一七三九)の稲荷大明神の石祠や宝暦堅六年(一七五六)の石灯篭等が境内に建つことから、この時期に村の経済が発展し、それが当社の信仰に結びついていった様子がうかがえる。
 明治に入り当社は光明院の管理を離れ明治三年に村社となった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社は江戸期には大己貴命を祀っていたが、明治に入ってからは『郡村誌』に「祭神未詳」と載り、『明細帳』には」息長足姫命(神功皇后)を祀ると見え、現在に至っている。こうした変遷の理由は明らかではないが、氏子らは一貫して当社を「長宮様」と呼んで厚く信仰してきたという。
        
  鳥居の脇には常夜灯の石が二基あり、左から「文化九申二月 初午」「文化七年牛九月」
       と刻まれていて、その右側の石祠は稲荷大明神と刻印されている。
       
         参道を挟んで
常夜灯や石祠が並ぶその反対側には、左から
 「力石」「社殿改築記念碑」「手水鉢」「奉造〇〇燈篭」「稲荷大明神」が並列している。

 毎年7月15日に近い日曜日に行われる上清久の「天王様」祭りについては、八坂神社に安置してある御幣台の裏面に元文3年(1738)戊午歳五月吉祥日と墨書きされているのが発見されていることから、この時期より祭りが行われていたと推測されていて、明治以前は、毎年旧暦67日から15日まで行われていたが、その後、現在の日に行われている。
 元は旧騎西町の私市(騎西)城内に祀られていたが、城攻めに遭った際に新川に流され、地内の千勝橋に掛かっていたのを村人が見つけて、橋の袂に祀ったのが天王社の始まりであるという。
 三耕地が一年交代で当番を務め、三名で天王組と称する人たちが祭りの準備を行う。
 祭り当日は、八坂神社を出た神輿が、若者たちの手で上清久地内の各耕地を威勢よく曳き廻す。また、山車3台が曳き廻されるが、これらは地区内の邪気をはらうということだ。昼には、人形を乗せた山車が運行するが、夜になると提燈五百数十個をつけた提燈山車が「提灯祭り」と称して地内の主要道路を曳き回し、午後十時には解散となるという。
        
                 社殿から鳥居の先の参道方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「
Wikipedia」等

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