埼玉古墳群(2)
埼玉古墳群 将軍山古墳
二重の方形をした周濠を持ち、埼玉県下で8番目の規模の前方後円墳である。 墳形は千葉県君津市内裏塚古墳群中の稲荷山古墳に類似し、後述の石室石材とともに埼玉古墳群を造成した武蔵国造と内裏塚古墳群を造成した須恵国造の親密な関係がうかがわれるという。
伊興の津
伊興氷川神社があるあたり、足立区東伊興町一帯から古墳時代の大規模な集落/祭祀遺跡である「伊興遺跡」が発掘されました。住居跡の他に多量の土師器、滑石製の紡錘車、有孔円盤、剣形品、平玉、臼玉、ガラス小玉、銅鏡、須恵器、子持勾玉等が出土しております。これらは日常生活における実用品ではなく、水と関係する祭祀に使用された祭器であると考えられております。
伊 興遺跡は毛長川沿岸の自然堤防上に位置しますが、毛長川は当時この辺りで400m程度の河道を持ち、ゆったりとカーブしていたので、水上交通の停泊地として理想的な安定した流れと水量、深さを有していたと思われます。また、当時はすぐ近く迄東京湾が達しており、利根川や荒川の河口も近く、この事から伊興遺跡近辺には港(津)があり、東京湾から関東平野内陸部へ人や物を輸送する為の中継地点として交通の要衝を為していたのではないかと推測されます。
例えば、西東海地方に多く出土する、口縁部断面がS字形になる「S字甕」という土器は、関東地方においては東京湾岸沿いでより古く、内陸部ではより新しい時代に出土する事が知られておりますが、埼玉県内でも事情は同様で、三ツ和遺跡からはS字甕が5世紀前半代の層から出土するのに対し、行田市近辺では5世紀後半から6世紀にかけての層から出土しております。またS字甕の分布の拡散は当時の川筋に従っておりますので、西方からの文物は当時の主要河川の河口が集中していた足立区の伊興遺跡を経由して、内陸部へとと伝播して行ったという事が推察されます。
伊興遺跡では、出土した祭器の多くは当時の川辺と思われる地域から多く出土していますので、豊漁や水上交通の安全を祈る祭祀が頻繁に行われていたのではないかと言われております。
つまり、毛長川流域の伊興地区は五世紀から七世紀にかけての約二百年間、この辺に大集落があったことが、ここ四十年来の調査で明らかになっており、関東地方の玄関口として、この地域を基点として各河川沿いに、旧入間川、元荒川、古利根川(中川)ルートに分かれ内陸各地へ至ったと推測される。
また近郊には伊興古墳群が存在し、現在確認出来ているものは全て6世紀後半以降の円墳であり、古墳築造が各地域の首長クラスのみならず、支配下のムラの有力者クラスにまで拡大した頃の群集墳であると考えられる。この古墳の出現時期6世紀後半はまさにさきたま古墳群の築造時期に重なり、当時の直接的にしろ間接的にしろ交易相手だった可能性が高いと思われる。
「埼玉の津」の近郊に「伊興の津」があり、その「伊興の津」を中心として舟運ネットワークによって情報を共有し形成されていたと推察される。その根拠として「埼玉郡」の存在があげられる。
この「埼玉郡」は不思議なほど南北に長く、東京湾から行田市周辺名で島状に点在する集落が古利根川や元荒川を通じて、同一の地域的交易圏を形成していたのではないかと考えられる。伊興から埼玉に至る交通路(水路)はまさに埼玉郡の郡内にすっぽりと包括されているし、何より埼玉郡内に鎮座する久伊豆神社はこの元荒川流域内に分布するのは偶然ではなく、その埼玉郡のトップによって政治的で戦略的な意図をもって建てられたものと現時点で考える。