古社への誘い 神社散策記

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埼玉古墳群(1)


 
      
                         丸墓山古墳前の桜並木

 埼玉古墳群は、埼玉県行田市にある、9基(*浅間塚古墳、戸張口山古墳を含めると11基)の大型古墳からなる古墳群である。利根川と荒川に挟まれたローム台地の北端に位置し、5世紀後半から7世紀前半にかけて約150年間継続的に築造された大型の前方後円墳が密集する日本有数の大型古墳群である。この古墳群は昭和13年8月に国の史跡として指定を受け、「さきたま風土記の丘」として整備された。


 さきたま古墳群

  関東平野の中央部に位置する埼玉古墳群は、日本有数規模の古墳群である。前方後円墳、円墳、方墳という多様な形態を示す大型墳が密集し、古墳時代の中期から終末期にかけて継続的に造営されており, 我が国の古墳文化の実相を端的に示す文化遺産である。また規格上の特徴として全国的にも稀な長方形二重周堀で、周堀間の中堤帯や後円部に造出しを有し、8基の前方後円墳は全て同じ方向軸であるなどの固有の特徴を有している。古墳群の出土品には、稲荷山古墳から出土した115文字の国宝・金錯銘鉄剣をはじめとして、銅鋺や馬冑・旗竿等、国内においても希少性の高い文物が多く含まれている。さらに、埼玉古墳群に供給された埴輪を生産した窯跡(鴻巣市 生出塚窯、東松山市 桜山埴輪窯、寄居町 末野窯)や石室に使用した石材も判明していることも貴重である。

 埼玉県はここを史跡公園「さきたま風土記の丘」として整備。県内の県立さきたま資料館には、金錯銘鉄剣をはじめとする貴重な出土品が展示してある。また、1997(平成9)年には将軍山古墳展示館がオープンし、復元された古墳内部の石室が実物大で見学できる。

                    

 
 ところで、埼玉古墳群には他の地方の古墳群にはない不思議と謎が存在する

1 大型古墳(丸墓山古墳は除く)はなぜか後円墳の方向が全て北西に向いているのはなぜか。
2 丸墓山古墳だけ円墳なのはなぜか。
3 埼玉古墳群の埋葬者は本当に笠原氏一族なのか。
4 埼玉古墳群は5世紀から7世紀にかけて成立していたと考えられているが、狭い地域に大型古墳が周濠を接するような近さで、一貫した計画性をもって次々と築造されたのはなぜか。
5 大和地方の天皇陵クラスの大古墳にしか見られない二重周濠が、一地方の古墳にすぎない前方後円墳のほとんどに巡らされているのはなぜか。
6 これほどの大古墳群を150年にわたり継続的に築造した一族が、その後歴史の彼方へ消えてしまったかのようにどの文献にも出てこない。それはなぜか。
7 この古墳群には大きな集落が見つかっていない。人々の生活の痕跡が見つかっていないのはなぜだろう。
8 そもそも、この古墳群をなぜこの埼玉の地につくったのか。

以下の項目について素人ながら検証したいと思う。


1 5世紀頃の古代埼玉郡の地形

 
嘗てこの地方は北の利根川と南の元荒川に挟まれた低湿地帯で池や沼が非常に多く、埼玉の津は元荒川に連なる沼の船着場だったようだ。小埼沼はここから南東2km程の元荒川の支流・旧忍川沿いの田園地帯の中に、宝暦3年(1753)年に忍城主・阿部正因に依って比定され建立された石碑と祠(ほこら)が立って居る。

 この地が嘗て沼地だった証拠の一つとして、旧忍川を越えて小埼大明神の北1km程の沼地は現在「古代蓮の里」になっている。ここの古代蓮は、ゴミ焼却場建設の際に出土した種子が発芽したものだそうだが、そもそも蓮は湿地帯の沼などに自生する植物で、古代蓮の種子が出土するということ自体、この地が古代から湿地帯だったことを意味する。

 「小埼沼」の歌 巻9-1744の雑歌(詠み人知らず)
  埼玉(さきたま)の、小埼(をさき)の沼に、鴨(かも)ぞ、羽(はね)霧(き)る、おのが尾に降り置ける霜を、掃(はら)ふとにあらし  
 

 武蔵国を歌った相聞歌 巻14-3380(詠み人知らず)
 佐吉多万(さきたま)の津におる船の風をいたみ 綱は絶ゆとも音な絶えそね

  

 
 このように行田市には沼地が多い。後世であるが永世6年(1509年)に武蔵国の忍城を訪れた連歌師・宗長が「城の四方は沼地にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にも重なり、水鳥が多く見え、まことに水郷である」と綴ったと書物に記されている。16世紀初頭でこのような状況であるならば、それからまた1,000年昔の埼玉地方はさらに多くの沼地、湿地帯が点在し、未開の原野が広がっていたのではないか、と推測するのは飛躍しすぎだろうか。

 嘗て万葉時代には「埼玉の津」と呼ばれたように、江戸湾が内陸部に大きく食い込み、水郷であり湿地が多かった。大小の河川が蛇行しながら流れ、東京湾に注ぎ込んでいた時代には、沼と沼を川や水路でつなげ、交通や荷物運搬の手段として舟を使用していたのである。主な河川は、利根川と荒川であり、流れの経路が変えられる以前は大きい舟でまとめて荷物を運び、いろいろな所に設けられた河岸場(やっちゃば)で荷物を小舟にわけて運んだといわれている。羽生や行田、熊谷にもやっちゃ場はあったと記されている。

 つまり万葉集に登場する「埼玉の津」は河港でかつて埼玉古墳群を築いた一族の対外的交流拠点として古墳に使われた石材や埴輪をはじめ多くの物資や文化が行き交った「内海の港(津)」だったと思われる。


 ところで、この時代の交通、交易のための船はどの程度の大きさだったのだろう

 日本の船舶は古代の丸木舟以来、外板が応力を受け持つモノコック構造だったのである。舟形埴輪に見られる古墳時代の準構造船、平安時代の遣唐使船、明治時代の打瀬船、あるいは丸子船や高瀬船など内水面で使用された船舶に至るまで、日本の船舶は全てこのような設計思想のもとに建造されていた。
                                    ウィキペディアより引用

 古墳時代当時に使用していた船は、全長5~8メートル程度の丸木船が主流ではなかったと思う。このような船は太平洋、日本海等、外洋航海には不向きで、主に河川での運用であった。埼玉県ではこのような丸木船の発見は25例あり、草加市立歴史民俗資料館の展示室には「縄文時代の丸木舟」が透明ケースの中に納められているので興味のある方は御薦めする。
 さてこの程度の規模の船による運搬では、食料補給の問題、漕ぎ手など人的問題等考慮すると、遠海航法は到底できず、陸地を離れずに見える範囲の地形や山を目視しながら航海するといった「地乗り航法」
が主流だった。また、通常は夜間航海は行わなず、天候など状況が悪化したらすぐに島影、岬、湾内のような安全圏に避難できるくらい慎重であったようだ。

 以下の点を踏まえると、「埼玉の津」に到着するためには、補給等の関係で、その前にも多くの「津」の存在がなければ到底実現できないと思われるが、武蔵国でそのような遺跡、痕跡はあるのだろうか





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