古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中平塚氷川神社

 上尾市平塚地域は市北東部の大宮台地上に位置する南北に長い地域である。この「平塚」という地域の由来は当地に緩やかな傾斜の塚が存在していたことに因んでいるとの事だ。北足立郡伊奈町との境界となる低地を原市沼川が流れ、その低地と台地の境界は傾斜が緩やかで不明瞭である。地区の東側を北足立郡伊奈町小室、南側を原市や二ツ宮、西側を上尾宿や上尾村、北側を菅谷や須ケ谷と隣接していて、地域内は埼玉県道5号さいたま菖蒲線を境に西側が市街化区域で準工業地域(北部や南部は工業地域)に指定され宅地化が進むが、市街化調整区域となる東側は原市沼川付近に開発の手が加えられておらず原風景を留めている。
 また北部の平塚一丁目・二丁目も市街化調整区域で、大音団地と称する住宅団地も見られるが、主に耕地整理された耕作地である。
『新編武蔵風土記稿』において、旧上中下平塚村の規模としては上平塚村が東西10町・南北15町余、中平塚村は東西5町半・南北6町余、下平塚村が東西4町・南北8町余であった。
 この平塚地域中央部には「平塚公園」という小さな森の中に遊具施設やミニアスレチック等がある自然豊かな公園であるのだが、その敷地内で北側一角の鬱蒼とした社叢の先に中平塚氷川神社が静かに鎮座している。
        
             
・所在地 埼玉県上尾市平塚1514
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧上中下平塚村鎮守・旧村社
             
・例祭等 ふせぎ 327日 例祭 44日 天王様 714
 二ッ宮氷川神社の北側に東西に走る埼玉県道150号上尾蓮田線があり、そこに合流後右折し、700m程進んだ「県立がんセンター入口」交差点を左折する。埼玉県道5号さいたま菖蒲線に入り、道なりに北上すると「平塚公園」が進行方向右手に見え、その公園を過ぎた十字路を右折し、暫く進むと、中平塚氷川神社の朱色の両部鳥居が見えてくる。
 正面鳥居から北東方向に参道が伸びていて、その参道に沿った車道があり、その突当たりに駐車スペースがあったので、そこに停めてから参拝を開始した。
        
             鬱蒼とした森の中に佇む中平塚氷川神社
『日本歴史地名大系 』「上平塚村」の解説
須ヶ谷村の南西、大宮台地原市支台の北部にある。足立郡上尾領に属する(風土記稿)。田園簿では平塚村とあり、田八五石余・畑一七九石余、岩槻藩領。弘化二年(一八四五)書写の下平塚村記録之書出し覚(神田家文書)に承応三年(一六五四)「壱村限リ相別ク」とあることから、この年に上平塚・中平塚・下平塚の三村に分れたとみられる。
「中平塚村」
上平塚村の南にある。承応三年(一六五四)平塚村が三村に分れて成立(弘化二年写「下平塚村記録之書出し覚」神田家文書)。足立郡上尾領に属する(風土記稿)。元禄七年(一六九四)の桶川町助郷帳(須田家文書)に中平塚村とあり、勤高一五五石。領主の変遷は上平塚村と同じ。ただし寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)にみえる岩槻藩領の平塚村は当村をさすとみられ、勤高一五五石余・役家七軒となっている。
「下平塚村」
中平塚村の南、大宮台地原市(はらいち)支台上にある。西寄りを菖蒲(現菖蒲町)方面へ向かう道、南の原市村境を幸手方面へ向かう道が東西に通る。東側は原市沼から北へ延びる低地。足立郡上尾領に属する(風土記稿)。江戸初期にはのちの上平塚村・中平塚村とともに平塚村一村で、岩槻藩領時の寛永四年(一六二七)の年貢割付状(神田家文書)に下平塚村の名がみえる。田七町五反余(分米三三石余)、畑屋敷九町八反余(六貫文余)。しかし慶安期(一六四八―五二)の割付状(同文書)ではいずれも平塚三ヵ村を合せた記載となっており、田園簿でも平塚村として記される。
 
    
中平塚氷川神社正面鳥居          鳥居上部に掲げられてある社号額
 鳥居の横には可愛いお地蔵様が祀られている。    「正一位氷川大明神」と表記
        
                            長い参道の先に社殿が見える。
 参拝日は平日の午前中で、雲一つない青天日であったにも拘らず、鬱蒼とした社叢に囲まれた長い参道は仄暗い。但し時に木々の間から木洩れ日が参道を照らすその美的景観は何とも美しい。筆者の手前勝手な感性を押し付けるつもりは毛頭ないのだが、この参道の光と影に包まれているような神秘的な雰囲気を五感で感じ取る日本人の感性とは不思議なものであるとつくづく思う次第だ。
        
                   境内の様子
 中平塚氷川神社の創建年代等は不詳。承応年間(16521655)の創建と伝えられ、平塚村が上中下の3村に分村した時期に祀られたのではないかという。現在の平塚公園一帯が社の境内地であったともいい、かなりの規模であったのであろう。明治6年村社に列格、明治40年、大字中平塚にあった石神社等八社と大字上平塚の神明社、大字下平塚の稲荷社を合祀している。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上平塚村』
 神明社二宇 稻荷社 以上三社觀藏院の持、
 觀藏院 新義眞言宗、上尾宿遍照院末、大應山天德寺と號す、開山秀清は文明十六年正月十五日寂す、本尊十一面觀音を安ず、 山王社 天神社 地藏堂、
『中平塚村』
 氷川社 上中下平塚村の鎭守なり、末社 稻荷社 疱瘡神社、旗神社 別當寶壽院 新義眞言宗、上平塚村觀藏院末、
 淺間社 寶壽院持、
 六所明神社 密藏院持、
 八幡社 持同じ、
 稻荷社二宇 村民持、
 密藏院 新義眞言宗、倉田村明星院末、能滿山求聞寺と號す、本尊虚空藏を安ず、天神社 薬師堂
『下平塚村』
 稻荷社二宇 花藏院の持、
 第六天社 同じ持、
 花藏院 新義眞言宗、上平塚村觀藏院門徒、本尊馬頭觀音を安ず、疱瘡神社、
        
               境内に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒 上尾市平塚一五一四
 御縁起(歴史)
 当社は雑木林に覆われた広い境内地を有し、現在その一部は平塚公園となって市民の憩いの場として親しまれている。
 創立は、社伝によると、承応年間(一六五二-五五)のことであるという。平塚村は弘化二年(一八四五)の「下平塚村記録之書出し覚写」(神田家文書)によると、承応二年に上・中・下三村に分かれたとあることから、分村と相前後して祀られたとみられる。
『風土記稿』中平塚村の項には、「氷川社 上中下平塚村の鎮守なり 末社稲荷社 疱瘡神社 旗神社 別当 宝寿院」と載り、当社は、分村して以降も中平塚一村のみの鎮守ではなく、三村の総鎮守として信仰されていたことがわかる。
 また、天明二年(一七八二)の宗源祝詞があり、神祇管領家卜部良延から「正一位氷川大明神」の社号額の揮毫を受けた旨が記されている。現在鳥居に掛かる社号額がこの時のものであろう。別当の宝寿院については、真言宗の寺院で、当社の本殿のすぐ北側にあったが、明治六年に廃寺となった。
 明治六年四月に当社は村社となった。同四十年、大字中平塚にあった石神社など八社と大字上平塚の神明社、大字下平塚の稲荷社を合祀した。しかし、上下平塚の両社の合祀は書類上のもので、実際には現在も元のまま祀り続けられている。
                                      案内板より引用

        
                    本 殿
 平塚地域は天水場であったため、昭和20年代までは雨乞いの儀式を行っていた。まず総代が、夜明けと共に榛名神社(群馬県)へ神水を受けに行き、その間に若い衆が境内の池の水を掻い出した」。戻ると神水を池の中に投げ、全員で祝詞を唱える。終わると密蔵寺へ移り境内に筵(むしろ)を敷いて酒を浴びるほど飲んだもので、大抵は一両日中に雨が降ったという。
        
              参道左側で拝殿の手前にある神楽殿
中平塚氷川神社では春時期に神社での祭礼に神楽を奉納していて、「中平塚の祭りばやし」という。この祭りばやしは、神田ばやし系の祭りばやしである。明治時代後期である文久年間(186164)に、大太鼓の善さんと呼ばれる名人がいたと伝えられることから、すでにこの頃には中平塚で祭ばやしが伝承されていたことが分かる。
その後、明治時代中期には、西門前の若松座(神楽師)から、同じ神田ばやし系の祭りばやしである桑屋流の新ばやしを伝授され、現在に至っている。この新ばやしに対して、それ以前に伝えられていたはやしは、「古っぱやし」という。また、中平塚からは、昭和50年に蓮田市閏戸にはやしを伝授している。
 
          境内に祀られている境内社(写真左・右)詳細は不明。
「中平塚の祭りばやし」の曲目には、「屋台」、「昇殿」、「鎌倉」、「四丁目」、「岡崎」があり、「昇殿」と「四丁目」は今日では演奏されていない。「屋台」は「ブッツケ」、「地」、「新切」、「三ツ目新切」、「乱拍子」、「キザミ」、「大切」で構成されていて、このうち「地」は、ほかの構成要素の間をつなぐ役割をしている。
 上演の機会としては、元旦祭、55日のはやし講、7月の上尾夏祭り、中平塚の天王様がある。上尾夏祭りでは、宮本町に招かれてその山車に乗って演奏している。このほか、8月第1土曜日には上・箕の木地区の天王様に招かれて演奏していた。また、嘗て昭和30年代には、原市や蓮田の夏祭りの際に招かれて上演することもあった。
 なお、この祭りばやしには、付属芸能としておかめ・ひょっとこの踊りがあり、この踊りは「岡崎」を演奏に合わせて行うものとの事だ。
「中平塚の祭りばやし」は上尾市の「民俗文化財・無形民俗文化財」の指定を受けている。指定年月日は平成25716日。
        
            神楽殿の並びに祀られている境内社・浅間大神
 中平塚のお獅子様は、「フセギ」とも呼ばれ、毎年327日に行われる。「フセギ」とは病気や災害などの悪いものが地区に入らないよう防ぐための民俗行事であるのだが、当地にもこの行事があり、「埼玉の神社」によると、当番が早朝のうちに市内平方の八枝神社からお獅子様(獅子頭)を借りてきて、公民館の床の間に安置する。お昼ごろから、氏子が銘々でこのお獅子様に参拝し、悪疫除けの神札を受けて帰る。嘗ては若衆がお獅子様を持ち、氏子各家を祓って回ったという。
 例祭は午前11時から拝殿に総代・当番・若衆のほか、市議会議員らが参列して宮司が祭典を行う。この日、堤崎の安藤太夫が、朝から氏子の主だった家々を巡って巫女舞を舞い、更に当社の祭典が終わるのに合わせて境内の神楽殿で神楽を奉納する。参拝者は境内に茣蓙(ござ)を敷き、酒を酌み交わしながら見物して楽しむ。
 また、翌日には「氷川講」の日と呼ばれ、氏子全員で境内の片づけを済ませた後に、密蔵院の境内にある中平塚区民会館に席を移して宴会を開く。この日は新旧当番の交替も行うため、宴会で旧当番の慰労の意味もあるという。
        
                                    境内の一風景
 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市HP」「境内案内板」等
    
 
 

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