瓦葺氷川神社
この「瓦葺」の地域名の名前の由来として「上尾市HP」では、『「瓦」 河原からきているとされていて、近くの綾瀬川を指しているのではともいう。「葺」とは「フケ」が転化した言葉で「フケ」とは、深田とか低湿地と言う意味があり、嘗て瓦葺地域は一面沼地であった。そのため、江戸との間を綾瀬川や見沼代用水を船が荷を積んでいったり来たりしていたそうである』との解説を載せている。
地域内には旧石器時代、縄文前期、古墳時代後期、平安時代の住居跡や遺品が検出されている「尾山台遺跡」等の多くの縄文遺跡があり、住居跡やピットなどの遺構や土器や石器などの遺物が発掘されていて、早くから開発が進んでいた地域であったようだ。
・所在地 埼玉県上尾市瓦葺1035
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧上瓦葺村鎮守・旧村社
・例祭等 例大祭 9月10日
中平塚氷川神社が鎮座している平塚公園沿いに南北に通る埼玉県道5号さいたま菖蒲線を南下し、2.4㎞程先にある丁字路を左折する。東北新幹線等の高架橋を潜りながらも更に道なりに1.5㎞進むと進路方向右側に瓦葺氷川神社の境内が見えてくる。
社の斜向かいにはコンビニエンスストアがあり、そこの駐車場をお借りしてから参拝を開始した。但し、交通量が意外と多い道路沿いに鎮座していて、コンビニエンスストアから横断歩道を渡る時には注意が必要だ。
交通量の多い道路沿いに鎮座する瓦葺氷川神社
『日本歴史地名大系』 「上瓦葺村」の解説
大宮台地原市支台上にあり、村域は本瓦葺村と入会う。北東は南東流する綾瀬川と原市沼(はらいちぬま)川がつくる低地。正保(一六四四―四八)から元禄(一六八八―一七〇四)の間に瓦葺村から分村したらしく(風土記稿)、元禄二年の大宮宿助郷証文(渡辺家文書)に上瓦吹村とみえ、勤高二七二石余。足立郡南部領に属する(風土記稿)。
田園簿では幕府領で、元禄一一年旗本阿部氏、同一五年旗本小川氏、その後旗本伏見氏に割かれた(享保六年「村明細帳」渡辺家文書)。国立史料館本元禄郷帳では阿部・小川両氏と幕府領。享保一六年(一七三一)南方の溜池を開発した地が検地を受けて幕府領の持添新田となった(風土記稿)。
瓦葺氷川神社正面
「新編武蔵風土記稿 上瓦葺村」には「下蓮田村より三沼代用水を引きいれ、當村に至り東西の二派に分れ、一は郡内西南の方村々の用水となし、一は東北数村の水田に沃ぎ、埼玉、足立兩郡の内三百四十六ヶ村の用水となせり、此邊元は用水不便にして、近きあたりの池沼或は溜井より用水を引入れしを享保十三年井澤彌惣兵衛命を奉じて彼池沼溜井を埋て新田となし、其かはりとして此用水を開けり、掛樋は長廿八間、高さ六尺、横四間あり、春冬の間はこの樋の内舟を通じて運漕に便する類、かゝる樋關東の國々には稀なることなり」と記載され、江戸時代の1728年(享保13年)に普請した見沼代用水の開削の際に、上瓦葺村には「見沼通船」の瓦葺河岸と称される河岸場が設けられて、江戸に物資を運ぶ拠点となっていた。
同時に農産物の一大産地であったようで、1875年(明治8年)の農業産物高は武蔵国郡村誌によると米243.32石、大麦365.5石、小麦42.5石、大豆38.25石、小豆4.5石、栗7.5石、稗17.5石、蕎麦1.83石、甘藷6320貫、里芋2400貫、菜種2832貫、大角豆4.5石、荏6.7石、胡麻3.25石、大根1000貫、人参40貫、薯蕷440貫、百合根160貫、柿440貫と実に多様な農産物が生産されていたとの事だ。
瓦葺氷川神社正面近くに設置されている案内板
瓦葺氷川神社 学問とスポーツの文武両道守護神
当、瓦葺氷川神社の創建時期については、永正三年(一五〇六)八月十日武蔵一の宮を選す。(武蔵国郡村誌より)、明治四十一年(一九〇八)同大字中の神明社、荒神社、天神社を合祀。とあります。
祭神は素戔嗚尊で家內安全、厄除けの神、縁結び、安産の神、学業成就、五穀豊穣、商売繁盛等々の守護神として参拝されています。
祭事は元旦祭、節分祭、九月十日の例大祭が行われております。平成二年十月二十五日には、菅原道真公で知られる、京都北野天満宮から分霊を受けて境內に天満宮を創建。「学問の神」として受験シーズンには、参拝者が多く見られます。また、昭和六十三年七月から埼玉県の高校野球の名門校である浦和学院野球部の皆様や関係される方々が、毎年県大会が始まる前に、 安全祈願、必勝祈願を斎行し、お守りを受けております。最近、浦和学院の活躍で「スポーツの神」としても知られるようになり、近隣のスポーツ少年やリトルリーグチーム、成人の野球チーム等々が参拝や祈願に訪れるようになりました。学生にとっては学問とスポーツの神として実に頼もしい神社とされています。
境內の庭ではグランドゴルフを楽しむ近隣の高齡者達が集い、毎日健康づくりを行っております。また、神社境內のお掃除、草取り等で、とてもきれいに使って頂いております。
境內に展示の大石に銘が彫られています。「奉納 力石三十メ目 瓦葺村 叶」。內容については、力石の後方に起源と歴史の紹介があります。
※瓦葺氷川神社では、お宮参り、七五三宮参り、厄除け等の祈願を申し受けております。
案内板より引用
境内の様子
近年の開発が進んでいる当地域にありながら、社の境内は落ち着いた雰囲気が漂い、日々の手入れもしっかりと為されているようだ。嘗ては参道脇に杉の古木があり、鎮守の森を形成していたが、1978年(昭和53年)までに全て枯死してしまった。その後、1980年(昭和55年)に行われた社殿の改築については、これらの古木を再利用したという。
拝 殿
拝殿に設置されている案内板
氷川神社 御由緒 上尾市瓦葺一〇二五-一
御縁起(歴史)
瓦葺は、元は一村であったが、正保から元禄のころ(一六四四-一七〇四)にかけて上瓦葺・下瓦葺・元瓦葺の三か村に分村した。当社は、そのうちの上瓦葺村の鎮守として祀られてきた神社であり、その創建については、『郡村誌』に「永正三年(一五〇六)八月十日武蔵一宮を遷すと云」と伝える。また、当社は明治六年に村社になったため、同四十一年には政府の合祀政策に従って地内にあった無格社の神明社・天神社の両社と神明社の境内にあった荒神社を合祀した。
境内周辺はかつては一面の畑で、祭礼日には当社の幟が岩槻からも見えたというほどであった。しかし、近年では周囲にマンションや店舗などの建物が増え、参道の両脇に鬱蒼と茂っていた杉の古木も昭和五十三年ごろには全て枯死してしまったため、境内の雰囲気は随分変わってしまった。昭和五十五年には本殿の修復及び拝殿の再建や末社上屋の新築など、境内の大整備が行われたが、その際、拝殿の腰板や天井裏の用材には、最後まで残っていた杉の古木の根元の部分を製材したものを利用した。
また、平成二年には、「地元に天神様を」という氏子や崇敬者の要望に答えて京都の北野天満宮から分霊を受けて境内に天満宮を創建した。この天満宮は、「学問の神様」として崇敬され、受験シーズンには特に参詣者が多い(以下略)
案内板より引用
本 殿
境内社・瓦葺天満宮 境内社・稲荷社 石神社
境内社の間には力石も置かれている。
瓦葺氷川神社所蔵の文化財 「奉納 力石さん住〆目 瓦葺村叶」
起源と歴史
力石の存在が確証されるのは、十六世紀に作られた「上杉本洛中洛外図屏風」で、弁慶石の銘を持つ力石が描かれている。また、一六〇三年の日葡辞書に力石の項があり「力試しをする石」とされている。江戸時代の連歌に「文治二年の力石をもつ」という句があり、おそらく文治二年(一一八六年)の銘か言い伝えがある力石があったのであろう。現存する力石に刻まれた年としては、寛永九年(一六三二年)が知られているかぎりもっとも古い。江戸時代から明治時代にかけては、力石を用いた力試しが日本全国の村や町でごく普通に行われていた。個人が体を鍛えるために行ったり、集団で互いの力を競いあったりした。神社の祭りで出し物の一つとして力試しがなされることもあった。
石の形は表面が滑らかな楕円形が多い。滑らかな石は持ち上げにくいが、体に傷をつけずにすむ。ほとんどの力石は六〇キログラムより重い。米俵より軽くてはわざわざ石を用意する意味がないという事であるらしい。上限は様々で、中には三〇〇キロに達するものもある。あまりに重い石は一人で持ち上げることは不可能だが、それはそれで別の挑戦する方法がある。
案内板より引用
境内社・三島社 香取社 境内社・三峰神社
社殿からの一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「境内案内板」等