古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上里町 嘉美神社

『日本歴史地名大系』 「立野村」の解説
 [現在地名]上里町嘉美
 七本木村の南に位置し、南は大御堂村。田園簿では高四九石余はすべて畑で、旗本新見領。国立史料館本元禄郷帳では旗本佐久間領(幕末に至ったとみられる)。「風土記稿」による家数三二。
 *鎮座地の嘉美地域は、明治7年に立野村と久上村が合併して嘉美村となっていて、その後、同22年に七本木村の大字となった。
        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町嘉美610
             
・ご祭神 熊野大神・櫛御気野命・菅原道真公・素戔嗚尊
                  
倉稲魂命・誉田別命・外二柱
             
・社 格 旧立野村鎮守・旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 13日 祈年祭 43日 夏祭り 7月第3日曜日
                  
秋祭り 1019日 新嘗祭 1123
 嘉美地域は上里町の南東部に位置し、東側は本庄市今井地域と接している。途中までの経路は今井金鑚神社を参照。今井金鑚神社から北西方向に900m程進み、丁字路を右折しすぐ先の路地を左折すると、「住宅型有料老人ホーム」が見え、その建物の西側奥に嘉美神社はひっそりと鎮座している。
 実は今井金鑚神社から北西方向に通じる道路沿いに当神社は鎮座しているのだが、道路に対して背を向けている配置となっていて、そこから正面鳥居方向に進むためには、右斜め手前方向に進まなければならず、上記のルート説明となった次第である。
 駐車スペースは境内に確保されており、境内北側にある「嘉美神社社務所」付近の空間に駐車させてから参拝を開始した。
        
              細い路地沿いに鎮座する
嘉美神社
 
  朱色の鳥居には「嘉美神社」の社号額がある。   境内の様子。一般道が社殿のすぐ後ろ側に
                       通っているとは思えない程静まり返っている。
 江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、村の鎮守の熊野社で、応永10年(1403)銘の石仏の阿弥陀仏が祀られ、口碑によると、村では群馬県碓氷郡の碓氷権現(熊野神社)を虫除に霊験ある作神として崇敬してきたということである。
『新編武蔵風土記稿 立野村』
 熊野社 村の鎭守なり、社内に應永十年癸未十月三日と銘がある、石佛の阿彌陀を安ず、
 末社 八幡 神明 稻荷
 15世紀前半の石仏の阿弥陀仏が祀られているという事は、当然創建時期は中世まで遡ると思われる。
 時代は下り、明治43年(1910)に13社を合祀し、社名が嘉美神社に改称された。
        
                    拝 殿
        
               拝殿前に設置されている案内板
 嘉美神社 御由緒  上里町嘉美六一〇
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の嘉美は、明治七年に立野村と久城村が合併して嘉美村となり、その後、同二十二年に七本木村の大字となった。
『風土記稿』立野村の項に「熊野社 村の鎮守なり、村持、社内に応永十年(一四〇三) 癸未十月三日と銘ある、石仏の阿弥陀を安ず」とあるのが当社で、創建は中世までさかのぼるものと思われる。口碑によれば当村では、古くから群馬県碓氷郡の碓氷権現(熊野神社)を虫除けに霊験のある作神として崇敬してきたという。このため当社は碓氷権現の分霊を勧請したとも考えられる。右の『風土記稿』に見える応永十年銘の仏像は、神仏分離により本殿から出され、 その後、所在は不明となった。また、古老によれば「江時代までは横村家が当社の神主をしていた」という。同家子孫の横村隆重家に残る「奉納結願文」によれば、当村は正徳元年(一七一一)に安保町・長浜町両村と本庄助伝馬役をめぐり紛争となった。そのため村人は、紛争の勝訴の祈願成就を祝って、当社への神位の授与を神祇管領吉田家へ願い上げ、享保十三年(一七二八)に正一位の神位を受けた。その後、社地を現在地に移し、社殿を再建したという。なお、旧社地は不明である。
 明治五年に立野村の村社に列し、同四十三年に嘉美に鎮座する字下郭天神東の村社天神社、字一本松西の村社皇大神社、字上郭天神西の村社天神社をはじめ一三社を合祀し、社名を嘉美神社と改称した。(以下略)
                                      案内板より引用
              
                     拝殿左側手前にある「奉祝紀念紀元二千六百年」碑
                                       嘉美神社
                       當社ハ舊熊野神社タリシガ明治四十三年七月字
                       上久城村社天神社字中久城村社皇大神社字下久
                       城村社天神社ノ三社ヲ合祀シ社號ヲ嘉美神社ト
                       改稱ス大正八年會計指定神社トナル昭和三年九
                        
月二十六日神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル
        
               社殿左側に祀られている富士塚
       
     富士塚のの後方に大きなケヤキのご神木が孤高の如く聳え立っている。(写真左・右)
 ご神木の幹の上部で2本に分かれているが、その上でまた繋がって穴ができている面白い姿である。
 
         社殿の右側奥に並んで祀られている石祠群(写真左・右)
 この社には永正12年(1515)の在銘石堂という石祠が存在する。石堂は石殿、石宮などとも呼ばれ、中世後期から出現する。村落内で仮宮を作って祀っていた神々が石宮になったと思われている。屋根はほとんどが草堂を模した寄棟造りであり、やがて近世にはいると、流造りの石宮が大勢を占めるようになる。
 石堂で中世在銘のものは少ない。当社の石堂の屋根は寄棟造り草堂形で軒が厚く、堂身は刳り抜きで、入り口は将棋の駒形、窓は入り口の上に左右各4窓がつけられており、中世の特色を示しているそうだ。
        
            社殿右側隣に祀られている境内社。詳細不明。
        
                 社殿から境内を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「上里町の神社」「境内案内板・石碑」等
 

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上里町 黛神社

 上里町には「黛(まゆずみ)」という名称の地域がある。黛地域は、利根川支流である烏川と神流川の合流点付近に位置していて、烏川とその右岸にある「上里ゴルフ場」の大部分が地域北限となり、南側は「御陣場川」がその南限境で、ゴルフ場から御陣場川までの狭い区域に民家が集中している。平均標高は烏川左岸が53m程、右岸で上里ゴルフ場、及びその南側の集落附近が5758m程で、埼玉県側が若干高いようだ。
 この地は、江戸時代には中山道から分岐し、上野国玉村(群馬県)に向う三国街道の道筋にあたり、烏川の藤の木渡場として栄えたところでもある。

        
              
・所在地 埼玉県児玉郡上里町黛1
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧黛村鎮守・旧村社
              
・例祭等 春祭り 43日 天王様 715日 大祓式 716
                   
秋祭り 1019
 金窪八幡神社から旧中山道である埼玉県道392号勅使河原本庄線を350m程西行し、「三国道入口」の標識のある丁字路を右折する。500m程進み、御陣場川を越えたほぼ正面に黛神社が見えてくる。
 黛神社は黛地域南側端部に位置しながらも住所は「児玉郡上里町黛1」。まさに地域の鎮守社である。
 社の東側隣には、社務所らしき建物があり、その駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                   黛神社正面
 上里町「黛」。筆者にとって不思議と心に響く心地よい名称である。
 不思議な地域名なので、調べてみると「黛」は「代」の下に「黒」と書く漢字で、訓読みでは「まゆずみ」と読み、眉墨の別表記ともいう。元々は中国語で「眉墨」を意味する字であり、平安時代の日本の上流社会では、眉毛を抜いた上で「掃墨」という粉末状の墨で眉を描く風習があり、「引眉」とも呼ばれた。但し実際に苗字として使用されている地域は関東地方が多く、特に群馬県に多く存在し、群馬県でも富岡市・安中市・高崎市・甘楽郡下仁田町に多いようだ。
 一方、上里町黛地域がルーツとの説もあり、「丹党黛氏」は当地に土着した武士団一族という。
 『武蔵国児玉郡誌』大字黛の黛神社は、往時丹党の支族黛某の勧請なり
 
 正面鳥居の左側に並んで祀られている石碑群        参道左手にある手水舎
    庚申塔や青面金剛碑等が並ぶ。
『新編武蔵風土記稿 黛村』には「黛村も元金窪村の内なり、金窪鄕に屬し、(中略)元祿十一年分村」と記載され、文禄四年(一五九五)の検地帳(萩原文書)に「武州賀美郡鉢形筋金窪之内黛村」と金津村の内として見えるが、元禄十一年(一六九八)に一村として分村したという。
              
                    「共進指定村社 黛神社」と刻まれている社号標柱
        
                           参道左手に設置されている案内板
 黛神社 御由緒
 ▢御縁起(歴史)  上里町黛一
 当地は、利根川支流の神流川と烏川の合流点付近に位置する。文禄四年(一五九五)の検地帳(萩原文書)に「武州賀美郡鉢形筋金窪之内黛村」と金津村の内として見えるが、元禄十一年(一六九八)に一村として分村した。すぐ南は忍保川と面し、西には中山道から分岐して上野国(群馬県)に至る三国街道が通っていた。当社は、村の西南端の低い台地上に鎮座する。また、東隣には天台宗観音寺があった。
『児玉郡誌』は「当社創立は詳ならざれども、往時丹党の氏族黛某の勧請せし神社なりと云ふ。初め黛大明神と称して烏川に接したる地にありしが度々水害に遇ひしを以て、何れの頃か現在の社地に移転すと云ふ、一時社具司明神とも称えし事あり、神階は正徳三年(一七一三)に正一位を奉授せらる、古文書二通今尚現存す。(以下略)」と載せている。ただし、『明細帳』では祭神を稲倉魂命と記している。
 なお、内陣に奉安される御影軸には、中央に雨宝童子、左下に正一位黛大明神、右下に正一位諏訪大明神が描かれている。
『風土記稿』黛村の項には「黛明神社・諏訪社以上二社、村の鎮守にて、観音寺持」とある。 明治の神仏分離により当社は別当の観音寺から離れ、明治五年に村社となった。一方、観音寺は明治七年に廃寺となった。明治四十四年には諏訪社・大杉神社・豊受神社の三社を境内に合祀した。(以下略)
                                      案内板より引用
 黛神社のご祭神は「倉稲魂命」で別名「稲荷神」と呼ばれていて、稲荷系の社と言える。
 その一方、黛神社は一時期「
社具司(しゃぐじ)明神」と唱えていたようで、この「社具司(しゃぐじ)」は諏訪系の社名である。案内板には「内陣に奉安される御影軸には、中央に雨宝童子、左下に正一位黛大明神、右下に正一位諏訪大明神が描かれている」との記載があり、内陣に奉安されている影軸の一方に「諏訪大明神」が描かれているのにも納得ができよう。
        
                   参道の風景
            よく見ると、石灯篭の高さが異様に低い。
 当地は利根川水系の烏川や神流川が合流する付近にあり、嘗て度々水害に見舞われていた地なのであろう。社地も移転をしていたようであり、この地域の水害の歴史をまざまざと見せつけられたような石灯篭の現在の姿を見るにつけ、少々驚きを禁じ得なかった。
       
                     参道途中、左手に祀られている境内社。詳細不明。
       
                                       拝 殿
            
                社殿左側に一際聳え立つ巨木。
                ご神木の類であろうか。
        
       巨木の並びに鎮座する境内社・左側には諏訪神社、右は大杉神社か。
 
境内社・諏訪神社の左側に祀られている石祠群      境内社・諏訪神社等の右側奥にも
  石碑には「猿田彦大神」と刻まれている。        数基の石祠があり。
       
                               社殿からみた参道の風景
       
              正面鳥居の右側にある「功績の碑」
 この鳥居の右側脇にある石碑は、昭和26年に建てられた「功績之碑」である。 この碑は、烏川及び神流川の堤外地の民有地を河川敷として無償没収する告示がされた時、全村民で訴訟を起こし、再び村民の土地として認められ、この功績をしるしたものであるという。
        
                          社の東側に隣接して建つ観音寺


参考資料「新編武蔵風土記稿」
「上里の神社」「Wikipedia」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等


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八町河原稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町八町河原468
             
・ご祭神 倉稲魂命 他十柱
             ・
社 格 旧八町河原村鎮守・旧村社
             *
「延喜式神名帳 武蔵國賀美郡 今木青坂稲実荒御魂神社」比定社
             
・例祭等 初午祭 2月初午 春季例祭 43日 例大祭 113
 上里町石神社から北東方向に通じる道路を直進し、1.2㎞程先の十字路を左折し、利根川堤防方向に進むと、その手前付近に八町河原稲荷神社は鎮座している。
地図を確認すると、利根川と烏(からす)川の合流点南岸の低地帯にあり、埼玉県最北部に位置している社のようである。
 この社の寛永四年(1627)銘をもつ石祠には「上州那波郡八町河原之持」とあり、当時烏川・利根川の流路変更によって上野国に所属していた時期もあったらしい。神川町の肥土廣野大神社の例もあるが、河川流域付近の社には、洪水等の自然災害は近代史前では、不定期に起こること自体宿命的な出来事ともいえよう。八町河原稲荷神社も、自然災害から地元住民を守る為に建立されたお社なのであろう。
        
                                八町河原稲荷神社
          正面からの撮影は禁止という事で、やや斜めからの風景
『日本歴史地名大系』 「八町河原村」の解説
八丁河原とも記す。利根川と烏(からす)川の合流点南岸に位置し、烏川の対岸は上野国那波郡沼之上(ぬまのうえ)村(現群馬県玉村町)、東は児玉郡新井村(現本庄市)、西は忍保(おしぼ)村。八町河岸(八丁河岸)および上野国に至る三国街道の渡船場(八町河原渡)があった。北条氏邦領について記録した鉢形北条家臣分限録(埼玉叢書)に「本国山城、千貫、随臣、加美八町河原住、桑原玄蕃」とみえる。地内にある稲荷神社の寛永四年(一六二七)銘をもつ石祠に「上州那波郡八町河原之持」とあり、当時は烏川・利根川の流路変更によって上野国に所属していたらしい。近世初期には本庄城主小笠原信嶺の知行地とされる(享保一二年「庄田三郎兵衛覚書」庄田家文書)

       
             社号標柱               趣のある手水舎
        
              鳥居近辺に設置されている案内板
 稲荷神社 御由緒  上里町八町河原2266
 □御祭神

 ・倉稲魂命 ・誉田別尊 ・罔象女神  ・菊理媛命
 ・伊弊諾尊 ・伊弊冉尊 ・天照大御神 ・豊受姫命
 ・迦具土命 ・大物主今 ・菅原道真公
 □御縁起(歴史)

 当社は八町河原の小字の一つである本村の北端に鎮座する。創建年代は、「児玉郡誌」に宝徳年中(西 一四四九-五二〉、「郡村誌」に天文年中(西 一五三二-五五)、「風土記稿」には天正年間(西 一五七三-九二)とそれぞれ載せられており、遅くとも中世後期には勧請されたことをうかがわせる。鎮座地については、「郡村誌」に「往昔は鳥川の畔にあり、其後安政6己未年(西 一八五九)八月中洪水に罹り社地崩壊せり、同年十一月本村の中央に仮宮建立遷座す」と記されている。
 本殿には、「稲荷大明神」「享保四己亥(西 一七一九)霜月吉祥日京稲荷社愛染法院暁雄」}と墨書された神璽筥が奉安されており、京都の伏見稲荷神社から拝受したことが知られる。
 明治四〇年二月十三日、八幡神社(植竹)、水神社(水神前)、白山神社(前河原)及び境内の神明愛宕、琴平、北野の各神社を合祀している。
 本殿右の大欅の元には、寛永四年(西 一六二七)上州那波之郡、八町河原之持と刻まれた石祀があり、その他境内には寛永四年建立の雷電神社や江戸期に栄えた八丁河原の舟運利用の永の神である大杉神社などが祀られている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 八町河原村』
 稻荷社 村の鎭守なり、天正の頃觀請すと云、宮守を關口和泉と云、先祖は要人とて、是もその頃の人なりと云、觀音寺持、下七社同じ、〇雷電社 〇水神社 〇天神社 〇神明社 〇愛宕社 〇大杉社 〇八幡社、
 觀音寺 新義真言宗、京都智積院末、中興僧快〇寶永五年修理すと云、本尊大日を安ぜり、
『新編武蔵風土記稿 八町河原村』に記載がある「関口氏」は他にも、『武蔵国児玉郡誌』に「寛永三年神主関口丹波、正徳三年神主関口左馬之助、其後関口和泉神主となる」と見える。因みにこの関口姓は武蔵国、上野国等に多く存在するようだ。
        
                     本 殿
 別当の観音寺は真言宗の寺院で、延宝元年(1673)に開創されたと伝えられるが、明治初年の神仏分離により観音寺から離れた。明治5年村社に列する。明治40年4月23日八幡神社(字植竹鎮座、祭神誉田別尊、慶長13(1608)創建、祭日815日)、水神社(字水神前鎮座、祭神美津和売命、天保元年(1830)創建)、白山神社(字前河原鎮座)及び境内の神明神社、愛宕神社、琴平神社、北野神社の各神社を本社に合祀しているという。
       
                       社殿西側には豊かな社叢林が広がる(写真左・右)
           この林は位置的に見ても防風林の役割もあるようだ。
 
  境内西側奥にある鳥居の笠木・島木部         社殿右側にある神興庫
以前あった鳥居を大切に保管しているのであろう  地域の祭りの山車(?)が保管されている
       
       ご神木(写真左・右)とその幹部分に祀られている寛永4年(1627)銘をもつ石祠。
        
                   社殿からの風景
        
                         境内南側隅に祀られている庚申塚、仏様等


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「上里 菅原神社HP」「埼玉苗字辞典」
    「境内案内板」等
 

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藤木戸諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町藤木戸138
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019日
                  新嘗祭 1211
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2386362,139.1161543,18z?hl=ja&entry=ttu
 上里町藤木地域は、利根川支流の神流川右岸に位置する。「藤木戸」という地名の由来は、地内の観音堂に藤の古木があったためであるという。
 藤木戸諏訪神社はその藤木地域西部に鎮座している。途中までの経路は大御堂浅間神社を参照。大御堂浅間神社から埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線を900m程北上し、「三町」交差点を左折する。その後群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線、通称「下仁田街道」に合流、西進し、1㎞程進んだ先のT字路を右折する。その後進路上右側に長幡小学校が見えるのだが、その学校を過ぎた地点の進行方向に対して左側に が鎮座する場所が見えてくる。
 但しこの通りには社の境内に通じる入口が残念ながらない。長幡小学校を通過する地点に十字路があり、そこを左折し、その後突き当たりを右折すると社の鳥居が見えてくるので、鳥居近くの境内の一角に車を停めて参拝を行った。
        
                                                           藤木戸諏訪神社正面
 鳥居は境内西にあり拝殿の向きに対して直角に位置している。加えて拝殿は南向きで、祭事にたてる上り用の柱は社の正面にあり神橋をはさむ。拝殿に対して正面には鳥居は現在ない。
 鳥居だけ移動したのか、不思議な立ち位置にある社ではある。
 
  鳥居の右側に並んで立っている庚申塚。     鳥居の先に鎮座する境内社
                             厳島神社
       
 厳島神社の隣には同じく境内社・八坂神社が鎮座(写真左)。その隣には秋葉神社(?)が鎮座している。この3社は横に並んで建てられている。
 
 境内社3社の向かい側には案内板が設置されている(写真左)。その境内社の並びに社殿が建っている。神橋の南側が本来の参道となるのだが(同右)、そこには鳥居らしいものはなく、石製の柱があるのみ。

諏訪神社 御由緒  上里町藤木一三八
□御縁起(
歴史)
藤木は、利根川支流の神流川右岸に位置する。地名の由来は、地内の観音堂に藤の古木があったためであるという。当社は村の中央に鎮座し、西隣には真言宗真福寺がある。
『児玉郡誌』には「当社の創立は後花園天皇の御宇長禄年中(一四五七~六〇)当地に一社を勧請して本村の鎮守とす、其後社殿頽破せるを以て天正年間(一五七三~九二)村民協力して再建せりと云ふ、また、明和年間(一七六四~七二)に至り領主松平大和守の崇敬あり、社殿を再興せられたり(以下略)」と載せられている。
また、本殿に奉安する木製の神璽には、「諏訪大明神社頭壹宇 維時文政二己卯(一八一九)仲春廿七日鎮座 藤木・並木・新堀・沖惣氏子中 別当真福寺現住如海代」との墨書が見える。このうち、並木・新堀・沖は現在藤木戸村の小字名となっている。
別当の真福寺は『風土記稿』藤木村の項に「新義真言宗、大御堂村吉祥院末、藤木山不動院と号す、本尊薬師」と載る。同寺は、大永年間(一五二ー~二八)の創建と伝わり、寺内には天文十五年(一五四六)二月十五日銘をもつ逆修五輪塔がある。
当社は、明治初年の神仏分離により真福寺から離れ、村社となった。明治三十九年には、字並木に鎮座する無格杜日宮神社とその境内社である八幡神社と菅原神社を合祀した。
□御祭神 建御名方命…五穀豊穣、厄除、開運
                                      案内板より引用
        
                                      拝 殿
       
           社殿の右側で、道路沿いに立っているご神木
 藤木戸諏訪神社の南側には「楠川(しょうかわ)」という河川が東西に流れている。楠川は、神流川が乱流していたころの支流で、その痕跡は今でも曲流地形として残されている。古代はこうした曲流地形の脇にある自然堤防上に集落を営み、その下に耕作地を作って、開発を進めてきた。藤木戸地区には楠川を分水するための堰が数多くみられるという。
 因みに上里町には、塩川や小川と書いて「しょうかわ」と読む小字名がみられるが、これらはすべて楠川が流れる流域にあって、楠川に由来する地名と考えられている。
        
         社殿の右側に鎮座する境内社。菅原神社・稲荷社・三峯神社
 この諏訪神社の辺りは、字関邸といい、もとは楠川の堰を守る屋敷があったといわれている。今でも、神社の境内には水路があり、楠川(上流)と御陣場川(下流)の分岐点となっている。道路を隔てて諏訪神社の反対側、藤木戸公会堂の脇に「一級河川御陣場川起点」の石碑が建っている。楠川は、御陣場川と名前を変え、ここから下流は県管理の一級河川となっている。
 因みに御陣場という地名は、滝川一益と北条氏直とが戦った神流川合戦の際に北条方が陣を敷いたところといわれている。
        
                                「楠川」の流れ 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉県北部地域振興センター本庄事務所HP」「境内案内板」等 

                

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三町諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町三町720
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祭 43日  秋祭 1019日(どちらも近くの日曜日)
                  新嘗祭 1123日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2363366,139.1242599,17z?hl=ja&entry=ttu
 上里町三町地域は大御堂地域の北側に位置し、三町の地名由来としては、江戸時代、藤岡道沿いにつくられた安保町、長浜町、横町の三つの町場が、明治9年に合併して三町村(みまちむら)になったことに由来する。
 途中までの経路は大御堂浅間神社を参照。大御堂浅間神社から埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線を900m程北上し、「三町」交差点をそのまま直進。その後最初のY字路を左斜め方向に進み、すぐ先の細い十字路を左方向に曲がると、その奥に三町諏訪神社の広い境内に到着する。
 境内入口右側には社務所があり、駐車可能な広い空間もあるので、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                
三町諏訪神社正面
 
    鳥居の手前に石碑等が並び、       鳥居を過ぎてすぐ左側に御嶽山神等
 参拝客をお招きしているような配置である。      石神が並ぶ塚あり。
        
          お日様の陽光をたっぷりと浴びた明るい社という印象。
            境内は広く、日々の手入れも行き届いている。

 社殿の左側に休憩所である東屋が設置されており、公園のように整備されている。この地の方々には憩いの場となっているようだ。
        
                      参道左側に設置されている「
三町水道記念碑」
 三町水道記念碑
 当三町地区は地質的に地下水が非常に深くその水は冬は暖かく夏は冷たい美味良水として古くから定評がありました。特産だった西瓜を井戸の中に入れて冷却しての賞味は正に天然のめぐみでもあった。
 しかしそれと引き換えにこの水源の確保としての、深井戸の掘削には多額の経済的負担を余儀なくされる土地柄でもありました。如何せん、全戸とはいかず昭和三十年代には三町全体で約十数基しかなかった。一日も欠かせぬ生活用水のすべてを『貰い水』として賄う家庭が大半であった。
 文字どうり『井戸端会議』として温もりのある隣人交流もあったが、水の運搬と尚もその不足分を近くを流れる農業用水を利用して補う労力ば苦行であった。こうした窮状を速やかに打開し、全戸給水、水道設置は、三町全区民の悲願でもありました。
 昭和三十九年その気運が盛り上がリ三町簡易水道組合が結成され、当地内を水源として鑿泉工事に着手した。そして、昭和四十二年五月三日念願の工事が完成し、給水を開始した。昭和四十三年には隣地の大御堂地区より、こうした順調な運営情況に合わせて組合加入の申し込みがあり、ここに三町・大御堂水道組合「初代組合長・村島富三郎」が発足した。「第二代組合長・関本岩蔵」以後、三十年間、歴代組合長三代、全組合戸数九百三十一戸、一致協力して廉価による水資源供給を維持し発展してきました。やがて時代の変遷と、全町公営化に伴い、平成八年、三町・大御堂水道組合は発展的解消をした。
 さらに一歩進して大きな視野に立ち、現在の地球環境の変化と万が一の災害を想定する時、この水源の重要さを痛感します。平素は水辺公園の憩いの水として目を楽しませ、一旦危急の場合水栓の変換操作により、直ちに各家庭に直結し援水装置となる当鑿泉は不滅の宝として温存すべき最大の所以である。
願わくば、この趣旨が末永く理解されこの朽ちる事のない水源の泉のごとく後世に受け継がれるよう念願します。ここに往時の役員名を刻み関係各位のご協力に敬意を表しながら、これを記念してこの碑を建立するものである。
平成十四年十二月吉日 三町水道組合長 渋澤栄一撰文
                                     境内碑文より引用
        
                                   拝 殿
        
                拝殿手前左側にある案内板
 諏訪神社 上里町大字三町字諏訪裏七二〇
 □由緒
 江幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』安保町の項に「諏訪社 當所及び長濱町・横町村等の鎮守なり、末社 八幡 稲荷 別当宮本坊 當山修験、大御堂村寶蔵寺配下、開山本行坊萬治四年四月示寂、本尊不動を安ぜり」と載っている。当社は旧横町・安保町・長浜町の三か村の鎮守として祀られてきた。
 また、『神社明細帳』には、「創立年月不詳と云えども一度回禄(火災)の災いに罹りのち、安永四年村民協力して再建す」と記されている。しかし、 社殿の竣工は四年後のことらしく、棟札には安永八年(一七七九)の年銘がある。当社の祭祀は江時代は「風土記稿」に載る別当宮本坊が代々務めてきたが、明治初年の神仏分離により、当社から離れた。
 明治五年村社となり、同四十二年に字寺東の稲荷神社と字寺西の社天王社を境内に遷し祀った。社殿は覆屋の中に本殿が祀られ、昭和五年新築の拝殿と幣殿で結ばれている。
 当地の獅子舞は「判官流一人立連舞獅子」といい、貞享二年(一六八五)に獅子頭を作ったことに始まるという。現在使われている獅子頭は明和七年 (一七七〇)に新調したものである。大正期から途絶えていたが、昭和三十二年に復活。同五十五年埼玉県知事より「文化ともしび賞」を授与された。現在は獅子舞保存会により継承され、奉納されている。境内には、古くから土俵が築かれ相撲の奉納が続いている。
 □御祭神 建御名方命
 □御神徳 地域の繁栄と人々の守護 五穀豊穣、厄除、開運
                                      案内板より引用
 
 社殿左側に鎮座する境内社・石祠群(写真左)。左から順に
神明・今宮・社日・八坂・秋葉の各社。また社殿右側には同じく境内社・石祠として、左側より菅原神社・稲荷神社が鎮座する(同右)。
       
                          境内に聳え立つご神木

 三町諏訪神社で毎年10月に開催される「秋の大祭」で子供相撲と共に奉納される伝統行事で、貞享年間に作られたとされる獅子頭が伝えられており、古くから雨ごいや地域の繁栄を祈って行われてきたという。
○諏訪神社獅子舞
・管理者 三町諏訪神社獅子舞保存会
・指定日 昭和37222日 上里町無形文化財
・貞享2(1685)銘の獅子頭


参考資料「新編武蔵風土記稿」「上里町公式HP」「境内案内板」等
                       

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