上里町 嘉美神社
[現在地名]上里町嘉美
七本木村の南に位置し、南は大御堂村。田園簿では高四九石余はすべて畑で、旗本新見領。国立史料館本元禄郷帳では旗本佐久間領(幕末に至ったとみられる)。「風土記稿」による家数三二。
*鎮座地の嘉美地域は、明治7年に立野村と久上村が合併して嘉美村となっていて、その後、同22年に七本木村の大字となった。
・所在地 埼玉県児玉郡上里町嘉美610
・ご祭神 熊野大神・櫛御気野命・菅原道真公・素戔嗚尊
倉稲魂命・誉田別命・外二柱
・社 格 旧立野村鎮守・旧村社
・例祭等 歳旦祭 1月3日 祈年祭 4月3日 夏祭り 7月第3日曜日
秋祭り 10月19日 新嘗祭 11月23日
嘉美地域は上里町の南東部に位置し、東側は本庄市今井地域と接している。途中までの経路は今井金鑚神社を参照。今井金鑚神社から北西方向に900m程進み、丁字路を右折しすぐ先の路地を左折すると、「住宅型有料老人ホーム」が見え、その建物の西側奥に嘉美神社はひっそりと鎮座している。
実は今井金鑚神社から北西方向に通じる道路沿いに当神社は鎮座しているのだが、道路に対して背を向けている配置となっていて、そこから正面鳥居方向に進むためには、右斜め手前方向に進まなければならず、上記のルート説明となった次第である。
駐車スペースは境内に確保されており、境内北側にある「嘉美神社社務所」付近の空間に駐車させてから参拝を開始した。
細い路地沿いに鎮座する嘉美神社
朱色の鳥居には「嘉美神社」の社号額がある。 境内の様子。一般道が社殿のすぐ後ろ側に
通っているとは思えない程静まり返っている。
江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、村の鎮守の熊野社で、応永10年(1403)銘の石仏の阿弥陀仏が祀られ、口碑によると、村では群馬県碓氷郡の碓氷権現(熊野神社)を虫除に霊験ある作神として崇敬してきたということである。
『新編武蔵風土記稿 立野村』
熊野社 村の鎭守なり、社内に應永十年癸未十月三日と銘がある、石佛の阿彌陀を安ず、
末社 八幡 神明 稻荷
15世紀前半の石仏の阿弥陀仏が祀られているという事は、当然創建時期は中世まで遡ると思われる。
時代は下り、明治43年(1910)に13社を合祀し、社名が嘉美神社に改称された。
拝 殿
拝殿前に設置されている案内板
嘉美神社 御由緒 上里町嘉美六一〇
□御縁起(歴史)
鎮座地の嘉美は、明治七年に立野村と久城村が合併して嘉美村となり、その後、同二十二年に七本木村の大字となった。
『風土記稿』立野村の項に「熊野社 村の鎮守なり、村持、社内に応永十年(一四〇三) 癸未十月三日と銘ある、石仏の阿弥陀を安ず」とあるのが当社で、創建は中世までさかのぼるものと思われる。口碑によれば当村では、古くから群馬県碓氷郡の碓氷権現(熊野神社)を虫除けに霊験のある作神として崇敬してきたという。このため当社は碓氷権現の分霊を勧請したとも考えられる。右の『風土記稿』に見える応永十年銘の仏像は、神仏分離により本殿から出され、 その後、所在は不明となった。また、古老によれば「江戶時代までは横村家が当社の神主をしていた」という。同家子孫の横村隆重家に残る「奉納結願文」によれば、当村は正徳元年(一七一一)に安保町・長浜町両村と本庄助伝馬役をめぐり紛争となった。そのため村人は、紛争の勝訴の祈願成就を祝って、当社への神位の授与を神祇管領吉田家へ願い上げ、享保十三年(一七二八)に正一位の神位を受けた。その後、社地を現在地に移し、社殿を再建したという。なお、旧社地は不明である。
明治五年に立野村の村社に列し、同四十三年に嘉美に鎮座する字下郭天神東の村社天神社、字一本松西の村社皇大神社、字上郭天神西の村社天神社をはじめ一三社を合祀し、社名を嘉美神社と改称した。(以下略)
案内板より引用
拝殿左側手前にある「奉祝紀念紀元二千六百年」碑
嘉美神社
當社ハ舊熊野神社タリシガ明治四十三年七月字
上久城村社天神社字中久城村社皇大神社字下久
城村社天神社ノ三社ヲ合祀シ社號ヲ嘉美神社ト
改稱ス大正八年會計指定神社トナル昭和三年九
月二十六日神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル
社殿左側に祀られている富士塚
富士塚のの後方に大きなケヤキのご神木が孤高の如く聳え立っている。(写真左・右)
ご神木の幹の上部で2本に分かれているが、その上でまた繋がって穴ができている面白い姿である。
社殿の右側奥に並んで祀られている石祠群(写真左・右)
この社には永正12年(1515)の在銘石堂という石祠が存在する。石堂は石殿、石宮などとも呼ばれ、中世後期から出現する。村落内で仮宮を作って祀っていた神々が石宮になったと思われている。屋根はほとんどが草堂を模した寄棟造りであり、やがて近世にはいると、流造りの石宮が大勢を占めるようになる。
石堂で中世在銘のものは少ない。当社の石堂の屋根は寄棟造り草堂形で軒が厚く、堂身は刳り抜きで、入り口は将棋の駒形、窓は入り口の上に左右各4窓がつけられており、中世の特色を示しているそうだ。
社殿右側隣に祀られている境内社。詳細不明。
社殿から境内を撮影
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「上里町の神社」「境内案内板・石碑」等