古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上里町 黛神社

 上里町には「黛(まゆずみ)」という名称の地域がある。黛地域は、利根川支流である烏川と神流川の合流点付近に位置していて、烏川とその右岸にある「上里ゴルフ場」の大部分が地域北限となり、南側は「御陣場川」がその南限境で、ゴルフ場から御陣場川までの狭い区域に民家が集中している。平均標高は烏川左岸が53m程、右岸で上里ゴルフ場、及びその南側の集落附近が5758m程で、埼玉県側が若干高いようだ。
 この地は、江戸時代には中山道から分岐し、上野国玉村(群馬県)に向う三国街道の道筋にあたり、烏川の藤の木渡場として栄えたところでもある。

        
              
・所在地 埼玉県児玉郡上里町黛1
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧黛村鎮守・旧村社
              
・例祭等 春祭り 43日 天王様 715日 大祓式 716
                   
秋祭り 1019
 金窪八幡神社から旧中山道である埼玉県道392号勅使河原本庄線を350m程西行し、「三国道入口」の標識のある丁字路を右折する。500m程進み、御陣場川を越えたほぼ正面に黛神社が見えてくる。
 黛神社は黛地域南側端部に位置しながらも住所は「児玉郡上里町黛1」。まさに地域の鎮守社である。
 社の東側隣には、社務所らしき建物があり、その駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                   黛神社正面
 上里町「黛」。筆者にとって不思議と心に響く心地よい名称である。
 不思議な地域名なので、調べてみると「黛」は「代」の下に「黒」と書く漢字で、訓読みでは「まゆずみ」と読み、眉墨の別表記ともいう。元々は中国語で「眉墨」を意味する字であり、平安時代の日本の上流社会では、眉毛を抜いた上で「掃墨」という粉末状の墨で眉を描く風習があり、「引眉」とも呼ばれた。但し実際に苗字として使用されている地域は関東地方が多く、特に群馬県に多く存在し、群馬県でも富岡市・安中市・高崎市・甘楽郡下仁田町に多いようだ。
 一方、上里町黛地域がルーツとの説もあり、「丹党黛氏」は当地に土着した武士団一族という。
 『武蔵国児玉郡誌』大字黛の黛神社は、往時丹党の支族黛某の勧請なり
 
 正面鳥居の左側に並んで祀られている石碑群        参道左手にある手水舎
    庚申塔や青面金剛碑等が並ぶ。
『新編武蔵風土記稿 黛村』には「黛村も元金窪村の内なり、金窪鄕に屬し、(中略)元祿十一年分村」と記載され、文禄四年(一五九五)の検地帳(萩原文書)に「武州賀美郡鉢形筋金窪之内黛村」と金津村の内として見えるが、元禄十一年(一六九八)に一村として分村したという。
              
                    「共進指定村社 黛神社」と刻まれている社号標柱
        
                           参道左手に設置されている案内板
 黛神社 御由緒
 ▢御縁起(歴史)  上里町黛一
 当地は、利根川支流の神流川と烏川の合流点付近に位置する。文禄四年(一五九五)の検地帳(萩原文書)に「武州賀美郡鉢形筋金窪之内黛村」と金津村の内として見えるが、元禄十一年(一六九八)に一村として分村した。すぐ南は忍保川と面し、西には中山道から分岐して上野国(群馬県)に至る三国街道が通っていた。当社は、村の西南端の低い台地上に鎮座する。また、東隣には天台宗観音寺があった。
『児玉郡誌』は「当社創立は詳ならざれども、往時丹党の氏族黛某の勧請せし神社なりと云ふ。初め黛大明神と称して烏川に接したる地にありしが度々水害に遇ひしを以て、何れの頃か現在の社地に移転すと云ふ、一時社具司明神とも称えし事あり、神階は正徳三年(一七一三)に正一位を奉授せらる、古文書二通今尚現存す。(以下略)」と載せている。ただし、『明細帳』では祭神を稲倉魂命と記している。
 なお、内陣に奉安される御影軸には、中央に雨宝童子、左下に正一位黛大明神、右下に正一位諏訪大明神が描かれている。
『風土記稿』黛村の項には「黛明神社・諏訪社以上二社、村の鎮守にて、観音寺持」とある。 明治の神仏分離により当社は別当の観音寺から離れ、明治五年に村社となった。一方、観音寺は明治七年に廃寺となった。明治四十四年には諏訪社・大杉神社・豊受神社の三社を境内に合祀した。(以下略)
                                      案内板より引用
 黛神社のご祭神は「倉稲魂命」で別名「稲荷神」と呼ばれていて、稲荷系の社と言える。
 その一方、黛神社は一時期「
社具司(しゃぐじ)明神」と唱えていたようで、この「社具司(しゃぐじ)」は諏訪系の社名である。案内板には「内陣に奉安される御影軸には、中央に雨宝童子、左下に正一位黛大明神、右下に正一位諏訪大明神が描かれている」との記載があり、内陣に奉安されている影軸の一方に「諏訪大明神」が描かれているのにも納得ができよう。
        
                   参道の風景
            よく見ると、石灯篭の高さが異様に低い。
 当地は利根川水系の烏川や神流川が合流する付近にあり、嘗て度々水害に見舞われていた地なのであろう。社地も移転をしていたようであり、この地域の水害の歴史をまざまざと見せつけられたような石灯篭の現在の姿を見るにつけ、少々驚きを禁じ得なかった。
       
                     参道途中、左手に祀られている境内社。詳細不明。
       
                                       拝 殿
            
                社殿左側に一際聳え立つ巨木。
                ご神木の類であろうか。
        
       巨木の並びに鎮座する境内社・左側には諏訪神社、右は大杉神社か。
 
境内社・諏訪神社の左側に祀られている石祠群      境内社・諏訪神社等の右側奥にも
  石碑には「猿田彦大神」と刻まれている。        数基の石祠があり。
       
                               社殿からみた参道の風景
       
              正面鳥居の右側にある「功績の碑」
 この鳥居の右側脇にある石碑は、昭和26年に建てられた「功績之碑」である。 この碑は、烏川及び神流川の堤外地の民有地を河川敷として無償没収する告示がされた時、全村民で訴訟を起こし、再び村民の土地として認められ、この功績をしるしたものであるという。
        
                          社の東側に隣接して建つ観音寺


参考資料「新編武蔵風土記稿」
「上里の神社」「Wikipedia」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等


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