古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北中曾根久伊豆神社

 北中曾根地域は、川妻(かわづま、上ともいう)・前(中前ともいう)・裏(中裏ともいう)・下の四集落で構成されていて、これら四つの集落のうち、川妻は愛宕社・裏は金山社・前では諏訪社・下では久伊豆社を祀っている。明治十二年までは中曾根村と称し、『郡村誌』によれば戸数一三五、人口七〇六というかなり大きな村であった。そのためか、全体で一つの神社を鎮守として祀るのではなく、村内にある村組が各々神社を持ち、それぞれの鎮守として祀ってきた。
『風土記稿』中曾根村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、〇諏訪社〇愛宕社〇金山社 四社共に観音院持」とあるのは、そうした状況が江戸時代から続いていることを示すものである。ここでは下の久伊豆社が村の鎮守となっており、明治の社格制定に際しても同社が村社となったが、それは久伊豆社の規模が四社の中では最も大きい神社であったためであり、信仰の上では四社共に同格といえる。
        
            
・所在地 埼玉県久喜市北中曾根1797
            
・ご祭神 大己貴命 猿田彦命
            
・社 格 旧北中曾根村鎮守 旧村社
            
・例祭等 初詣 11日 追花 319日 二百十日 91
                 二百二十日 911日 お日待 1019日 大祓 1225
 北中曾根金山神社から埼玉県道12号川越栗橋線に戻り、東行すること約500m先の丁字路を右折、更に南下した突き当たりを左折するとすぐ左手に北中曾根久伊豆神社が見えてくる。
 社周辺には適当な駐車スペースもないため、東側に隣接する民家の更に先に「北中曽根下集会所」があるので、そこの駐車スペースの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                北中曾根久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』「中曾根村」の解説
 東は備前前堀(びぜんまえぼり)川を境に六万部(ろくまんぶ)村・所久喜(ところぐき)村小河原井(こがわらい)、南は備前堀川を境に台・三箇(現菖蒲町)の二村と対する。騎西領に所属。正保四年(一六四七)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によると田高二四二石余・畑高一八二石余、同藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高八四〇石余、反別は田方四三町余・畑方五五町一反余、ほかに新開高三三六石余、田方一七町三反余・畑方二二町余があった。元禄郷帳では高一千一九五石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。
 
    鳥居の左側手前にある力石2ケ     力石の奥に祀られている道祖神らしき祠一基
        
             力石や祠と共に設置されている当社の案内板
 当社の創建の経緯は明らかではないが、北中曾根地域において「下」の人々によって祀られてきた社であり、『風土記稿』には観音院持ちの四社のうちの一社としてその名前が見えている。江戸時代、当社の別当である観音院は、天正17年(1579)入寂の法印照宥によって開かれた真言宗の寺院で、当社の300m程西方にあり、『風土記稿』では「本尊地蔵菩薩」となっているが、現在の本尊は「聖観世音菩薩」である
『新編武藏風土記稿 埼玉郡中曾根村』
 觀音院 新義眞言宗、正能村龍花院末、救世山と號す、開山照宥天正十七年十一月十五日寂す、本尊地藏を安ず、弘法大師の作、長三尺餘立像なり、 觀音堂 正觀音を安ず、立像にて長八寸七分、聖德太子の作なり、
 その後、神仏分離を経て明治3年に、近代社格制度に基づく村社となり、大正10年の神社合祀により、字森下の無格社・道祖神社を合祀したことにより、猿田彦命を祭神に加えた。更に昭和58年には字薬師前の八幡神社を合祀したという
        
                 すっきりとした境内
 
    参道左側に祀られている境内社       八幡神社の右側並び奥に祀られている
     左側から不明・八幡神社             境内社・八坂神社
        
                    拝 殿
 久伊豆神社  御由緒 久喜市北中曾根一七九七
 □御縁起(歴史)
北中曾根は、明治十二年までは単に中曾根村と称していた。当社はその鎮守として祀られてきた神社であり、『風土記稿』中曾根村の項にも「久伊豆社 村の鎮守なり」と記されている。往時の別当は観音院であった。観音院は当社の三〇〇メートルほど東に位置する真言宗の寺院であり、正能村(現騎西町)竜花院末で、開山の照宥が天正十七年(一五八九)に入寂したと伝えられる。
 当社の創建の経緯については明らかではないが、三間社の本殿には当社の歴史を伝える幾つもの貴重な資料が奉安されている。本殿の中央には全高三三センチメートルの木造の久伊豆明神像及び一対の矢大臣、宝暦九年(一七五九)銘の金幣、神鏡、延享二年に神祇管領吉田家から拝受した宗源祝詞・幣帛などがある。また、向かって左には天保五年(一八三四)の社殿再建の棟札がある。ただし、向かって右は空殿である。当社の主祭神は古くから大己尊命一柱だけで、三間社の形式となっている理由は定かではない。
 別当の観音院は、天保五年に社殿を再建した時には無住になっていたらしく、棟札には「別当観音院無住付江面村善徳寺住法印来賢記」とある。神仏分離を経て、当社は明治三年に村社となり、大正十年に字森下の無格社道祖神社を合祀したことによって、猿田彦命を祭神に加えた。更に、昭和五十八年には字薬師前の八幡神社を合祀した。
                                    境内案内板より引用

        
                  社殿からの眺め


【北中曾根諏訪神社】
 北中曾根久伊豆神社から300m程西行すると、同地域の諏訪神社が鎮座している。地図を確認すると、観音院のすぐ南側に社はある。
        
             ・所在地 埼玉県久喜市北中曾根1906
             ・ご祭神 建御名方神
             ・社 格 旧中曾根村前組鎮守
             ・例祭等 新年のお神酒上げ 11日 大祓 1220
 北中曾根地域の中の一集落である「前」の地内は、更に矢足(やだれ)・小林(おばやし)・立山・新屋・森下第一の五つの耕地に分けられ、当社の氏子の数は五五戸である。
 近年の農地改革が実施されるまでは、社の周囲の約一千坪は社の所有地で、そのうち、社の後方は一面森林であったが、昭和10年頃に畑に変わったため、景観は大きく変わった。現在の社殿は、昭和59年に氏子一同の協力により建て替えられたもので、地域の集会所の役目も果たしている。
        
                          
北中曾根諏訪神社正面
 当社がどのような経緯でこの地に祀られるようになったかは不明であるが、氏子の間では、信濃国一之宮である諏訪大社の下社が当社の本社であるとの伝えがあり、昭和59年の社殿再建の際には、これを記念して諏訪大社の下社に参詣を行っている。
氏子の間では、当社の祭りと並んで、すぐ北側にある観音院の灯籠が大きな年中行事とされていた。89日に行われる観音院のこの行事は、前集落と裏集落が合同で行っている行事とされ、双方の集落から登板で5名ずつ出てその世話をするようである。

 また、北中曾根地域では疫病除けの行事として510日には「お獅子様」があり、騎西の玉敷神社から借りて来たお獅子様が川妻・裏・前・下の各集落順に回っていくが、下は近年行事を中止した。前では、今もお獅子様が全戸を回っていて、そのうちの約半数の家では、昔ながらにお獅子様が座敷に暴れ込み、一家の悪疫を祓うという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」Wikipedia
    「境内案内板」等
 

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