六万部大神宮社
・所在地 埼玉県久喜市六万部539
・ご祭神 天照大御神
・社 格 旧六万部村本村鎮守
・例祭等 お神酒上げ 1月1日 灯籠 7月10日
北中曽根下集会所から東行し、一旦埼玉県道12号川越栗橋線に合流した信号のある交差点を直進する。その後、曹洞宗清鏡寺の山門を拝みながら暫く進み、最初の十字路を左折すると、進行方向右側に農地の先に垣根があり、その奥に六万部大神宮社の白い鳥居と社務所のような社殿が小さく見えてくる。
実のところ、加須市割目地域に鎮座する割目久伊豆神社からは東西に通る道路で繋がっており、400m程しか離れていない位置関係にある。
六万部大神宮社正面
「大神宮」を冠する社としては、やや簡素でこじんまりした境内、及び社殿である。
境内に設置されている案内板
久喜市六万部地域。如何にも仏教に関連しそうな地域名だ。この六万部という地域名の由来として、『新編武蔵風土記稿 六萬部村】では「村名の起り古へ當所に法華塚ありて、六萬部の供養塔ありしをもてかく名付く」と載せていて、「埼玉の神社」では「口碑によれば、六万部の経巻をこの地に鎮めたことに由来する」という。
この六万部地域は、本村・新田・関ノ上・谷田向・仁丁町の五つ組に分かれ、当社はそのうちの本村で祀る神社である。
本村は六万部の北西部に位置する農業地域である。『風土記稿』六万部村の項では、村の開発について「古は上清久村の内なりしが、慶安四年同村の民三十余此地に移り来りしより、一村となれり云」と載せているが、「本村」という呼称から推測すると、この慶安四年の移住は、まず当地から行われたものと考えられる。
「大神宮様」も通称で親しまれる当社は、伊勢神宮の内宮と同じく天照大御神をご祭神としていて、内陣には、両部神道におけるこの世にあらわれた姿である雨宝(うほう)童子像(全高二七㎝)が安置されている。
拝 殿
大神宮社 御由緒 久喜市六万部五三九
□御縁起(歴史)
六万部の地名は、口碑によれば、六万部の経巻をこの地に鎮めたことに由来するという。現在、西公民館の北側にある「お経塚」が、その経巻を埋めた場所とされており、塚の上に石碑が建てられている。この六万部では、村全体で祀る鎮守は昔からなく、本村・新田・関ノ上・谷田向・仁丁町の五つの村組合各々で別個(新田と関ノ上は合同)の神社を祀ってきた。当社はそのうちの本村で祀る神社である。
『風土記稿』六万部村の項によれば、村の開発は慶安四年(一六五一)といわれているため、当社の創建はその後間もないころのことと推測され、氏子の間では「伊勢にお参りできない人が遥拝できるようにお祀りしたのがこの社」「伊勢に一度行った人が二度目に行った時に伊勢から御神体を受けて来て建立した社」などの話が創建にまつわる口碑として伝えられている。ちなみに『風土記稿』に「神明社村民の持にて、村内の鎮守なり」とあるのが当社のことである。
この当社の境内は、本村の西の外れに位置し、その周囲には鬱蒼とした杉が生い茂っている。古くは、その中にそびえ立つ樅の巨木が神木として大切にされていたが、この樅の木はキティ台風で倒れてしまい、杉の大木も幾本かは昭和二十二年に鳥居を再建した時に伐採したため、樹林の規模は小さくなってきてはいるものの、今では貴重な緑地であり、森を維持するため杉が植樹されている。
境内案内板より引用
境内に祀られている境内社二基
左から稲荷社・三峰社
元旦にある「お神酒上げ」と七月十日の「灯籠」の二つが当社の年間行事であるが、嘗て「お獅子様」という行事も行われていた。この行事では、騎西に鎮座している玉敷神社(明神様)から借りてきた「お獅子様」を若衆が担いで回り、地内の悪疫除けをするのだが、当社がその出発点となり、そこで祈願を行い、氏子の各戸を回る。各戸には土足のまま暴れ込み、全戸を回り終えると、村境で「辻切り」をしてから新田に「お獅子様」を渡した。現在では、「お獅子様」を借りることはしないで、当番が玉敷神社に奉納金を持参し、希望者の分だけ神札を受けてくるという形に簡略化されている。
静まり返った境内
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等