柏戸出流神社
・所在地 埼玉県加須市柏戸874
・ご祭神 不明
・社 格 上柏戸村鎮守
・例祭等 春祭り 3月6日 土用干し 7月24日 秋祭り 10月1日
向古河鷲神社から埼玉県道368号飯積向古河線を北上し、「三国橋」交差点を直進する。道路は栃木県道・群馬県道・埼玉県道・茨城県道9号佐野古河線に変更となり、渡良瀬川の堤防沿いに1.4㎞程進む。その後「柏戸」Y字路である交差点を左斜め方向に進路を変え、通称「わたらせ通り」を900m程西行すると、右側に「上柏戸集会所」が見え、その手前に柏戸出流神社の朱の鳥居が見えてくる。但し、社の鳥居は「わたらせ通り」沿いではなく、やや奥側に立っていて、その手前には民家もある為、よく確認しなければ通り過ぎてしまうので注意は必要だ。なお、上柏戸集会所に駐車スペースあるので、その点は一安心だ。
柏戸出流神社正面
『日本歴史地名大系』 「柏戸村」の解説
東は向古河(むこうこが)村、北は渡良瀬川を境に下野国都賀(つが)郡下宮村(現栃木県藤岡町)、下総国葛飾郡悪戸(あくと)新田、古河城下船渡町(現茨城県古河市)。中山道と日光道中を結ぶ脇往還が通る(風土記稿)。「カシワ」には砂丘、自然堤防の意があり、「戸」は津の意とみられることから、村名は渡良瀬川の自然堤防に位置したことによるとされる(埼玉県地名誌)。天正一一年(一五八三)の八月八日付の足利義氏遺臣等連署状写(喜連川家文書案)によると、二〇年来の大洪水で、関宿(現千葉県関宿町)・高柳(現栗橋町)とともに柏戸の堤も決壊している。
鳥居の手前にある庚申塔
参道の先に拝殿が見える。左側の建物は上柏戸集会所
『新編武蔵風土記稿 柏戸村』
「出流權現社 祭神詳ならず、柳生村南藏院持、」
『新編武蔵風土記稿 柳生村』
「南藏院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、權現山藥師寺と号す、開祖は足利義氏の臣杉山大膳なり、この日と永正中修驗となり、當所に住し、名を快昌と改め、大永元年寂せりと、」
拝 殿
当地は武蔵・下野両国境沿いに位置する。古くから古河公方足利氏に仕えた根岸・出井・橋本の各氏が居住していたが、足利氏の衰弱と共に足利氏に仕えていた武士たちが続々と帰農し、この地を開発したという。
『風土記稿』柏戸村の項に「鷲明神社 村内の鎭守なり、万治二年勧請せりと云、延命寺持、下二社同じ、山王社 八幡社 慶長十五年鎌倉八幡を移し祀れり、出流權現社 祭神詳ならず柳生村南藏院持、太神宮 村民持」と載せる。山王社・太神宮は、創立年代は不詳であるが、出流権現社は正徳二年の勧請で、正徳六年に神祇管領から宗源宣旨を受けていて、これを御神体として本殿内に所蔵している。
上柏戸の出流神社では、春祭り(三月六日)・土用干し(七月二四日)・秋祭り(一〇月一日)の三回、更に中柏戸の八幡神社、下柏戸の日枝神社でもそれぞれに祭りを行っており、当地の神社信仰の厚さがうかがえる。
七月二四日の「土用干し」には、午前十一時過ぎから上柏戸の各戸一名ずつが神社に集まる。正午きっかりに拝殿に一同が座り、宮世話人が本殿の扉を開け、「これから御神体の虫干しをします」と言い、宗源宣旨を出して拝殿に広げる。行事に先立ち宮世話人は、出流沼で体を清めるのが仕来りであったが、現在は略されている。宗源宣旨の虫干しを行った後、宮世話人が、これを広げたまま持ち、「出流様の御神体を頂く」と称して、参列者の頭上を祓う。終わると銀杏の葉を入れて、再び本殿を納めるという。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
本殿の左側に祀られている境内社の詳細は不明
大相撲界に昭和30〜40年代の高度経済成長期、相撲黄金時代を支えた「柏鵬時代」を知っている方はいるであろうか。横綱大鵬と並び称された第47代横綱柏戸の四股名は、18世紀後半、安永年間に活躍した幕内力士「柏戸村右衛門」にそのルーツがある。
初代柏戸は元文3(1738)年柏戸村の出井(いでい)家に生まれ、縁あって騎西出身の伊勢ノ海が創立した伊勢ノ海部屋に入門しました。宝暦8(1758)年、19歳で初土俵を踏み、幕内上位になるにおよんで故郷の地名にちなみ「柏戸村右衛門」と改名した。
*参考資料 古河志・柏戸村条
「相撲力士柏戸村右衛門、初は出井清次郎と云。村民出井新内なる者の弟也。宝暦中、伊勢海五太夫弟子となし柏戸村右衛門と改め称せしむ。天明元年伊勢海没し、嗣て伊勢海村右衛門と号し、寛政八年五月二十日五十九歳にして没せり。弟子某を柏戸勘太夫と名のらしむ。その弟子を柏戸宗五郎と云ふ、今存在する是也。此村右衛門出生の家、今柏戸村の農民たり」
社殿からの一風景
最高位は前頭(まえがしら)三枚目であったといわれていて、後に弟子の三代目柏戸が大関に進んだことから、「柏戸」は格式ある四股名として後代に受け継がれることとなった。
天明3(1783)年に三代目伊勢ノ海を襲名し、その後、毎場所のように差添(さしぞえ)や勧進元(かんじんもと)を務め、当時の相撲界の隆盛に貢献した。また「決まり手」を定めるなど、さまざまなルールを確立したことで、相撲が広く普及する基礎を築いたという。
因みに、第69代横綱で歴代最多45回の幕内優勝を誇る白鵬の四股名は、1961年九州場所で横綱に同時昇進した大鵬と柏戸が競い合った「柏鵬時代」に由来する。「柔の大鵬、剛の柏戸」と呼ばれた両横綱の融合した力士になるように願いを込め、当初は「柏鵬」という案も浮上したが、色白だったこともあり「白鵬」に落ち着いたという。
【柏戸八幡宮】
・所在地 埼玉県加須市柏戸
・ご祭神 誉田別命(推定)
・社格・例祭等 不詳
柏戸出流神社から直線距離にして700m程南東方向に柏戸八幡宮は位置していて、南北に通る埼玉県道46号加須北川辺線のすぐ西側の田畑地域の中、車幅が車両一台しか通れない農道沿いにポツンと鎮座している。
「埼玉の神社」にも説明等なく、『新編武蔵風土記稿 柏戸村』には「慶長十五年鎌倉八幡を移し祀れり」と簡潔に載せている程度である。
柏戸八幡宮正面
拝 殿
社殿手前で参道左側に並ぶ石仏群
石仏群の右隣には「〇〇太神宮」の石碑が祀られ、その脇に葉「中柏戸村」と刻まれている。
その右隣には「八幡大〇」と刻まれている石碑も祀られている。
柏戸八幡宮遠景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「広報かぞ」
「Wikipedia」等