古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

向古河鷲神社

 北川辺町は、埼玉県北東端で、埼玉県内で唯一町全域が利根川の左岸(北側)にあり、一説には「北川辺」の名称も「利根川の北の川辺の町」の意味で名づけられたとされる。現在は加須市の北部を占める地域であり、群馬、栃木、茨城の3県と隣接している。
 実は、江戸初期までは埼玉県本体と陸続きであったが、利根川の瀬替え(1621)によって孤立化してしまった歴史的な経緯がある地でもある。また利根川、渡良瀬川に挟まれた沖積低地に位置しており、度重なる水害に悩まされてきた。
 現在、埼玉県の他の自治体とは利根川で隔てられており、電話の単位料金区域 MA は埼玉県内ではなく茨城県古河市と同一の古河MAに属する。但し古河MAは茨城県内区域ではなく、NTT栃木支店の管轄内で栃木県内区域でもある。
 ところで、向古河地域は「古河」の名称がつく地であるのだが、行政区域上は埼玉県に属していて、この地の由来は「古河の対岸に当たる地」との事のようだ。
 室町時代後期、古河公方の直参で、鎌倉から成氏に従って古河に来た人達を称して「十人士」というのだが、この人達が居住していたのが向古河地域であり、まさに古河公方の膝下という土地柄でもあり、享徳の乱勃発時、武蔵国や上野国等から襲撃する関東管領上杉勢から主君を護る最後の砦でもあった。
 電話の単位料金区域のみならず、茨城県古河市とは渡良瀬川を隔てて地理的にも近く、同市との結びつきは古くから盛んであったのだろう。

        
             
・所在地 埼玉県加須市向古河4861
             
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
             
・社 格 旧向古河村鎮守
             
・例祭等 春祭り 415日 夏祭り(子笹流獅子舞) 724
                  秋祭り 1015日 新嘗祭 1123日 大祓 12月下旬
 駒場鷲神社から北東方向に通じる埼玉県道368号飯積向古河線を1.2㎞細進むと、渡良瀬川の堤防前に達し、そのまま道なりに500m程北上する。進行方向右手には上記河川の堤防が延々と続き、目を左側に転ずれば、「加須市立北川辺東小学校」の綺麗な校舎を眺めながら、土手よりも遙かに標高の低い場所ながら多くの民家が軒を連ねる風景に、現在の長閑な風景を愛でる一方、過去に自然災害、特に水害の多かったこの地域に住んでいた先人の方々の苦労に思いを巡らせたものだった。
 そんな取り留めのない思いを巡らせながら車を進行させると、信号のない丁字路に達するので、そこを左折すると、すぐ右手に向古河鷲神社が見えてくる。因みにこの丁字路を直進すると「三国橋」交差点があり、その橋を渡ると茨城県古河市となる。まさに県境に鎮座する地域、及び社である。
        
        すぐ東側は県道が南北に通り、渡良瀬川の堤防が間近に見える。
  また社に参拝するためには、すぐ先にある路地を右折して、少し下りなければならない。
       
                向古河鷲神社 境内の様子
 鷲神社(みょうじんさま) 北川辺町向古河四八六-一(向古河字帳免)
 渡良瀬川右岸に位置する当地が「むこうこが」、あるいは「むかいこが」とも呼ばれるのは、古河の対岸に当たることによる。古くは当村から古河城下の渡船場を結ぶ船があり、古河との強い結び付きは、交通手段の変わった今日まで続いている。向古河では、磯・松橋・小堀・稲葉・荒井・池田・秋山・桜井・永島・君塚の十家を十人士と呼ぶ。いずれも元は古河公方成氏の家臣で鎌倉から成氏に従って古河に来た人たちで、古河城の対岸向古河に住んでいたが、古河公方の威勢が衰えるとともに当地に土着し百姓になったと伝える。
 当社の創立は『風土記稿』に「村の鎮守なり、万治二年の頃勧請と云、真光寺持」とあり、同村に鎮座の天神社は「文明の頃古河城鎮護のため、京都北野を写して勧請すと云伝ふ」と記す。天満社は、その昔、古河城構築の際、度々堤が切れ、いたずらに月日を費やし、困難を極めたことから城主自ら天満社と正観音の霊に祈願したところ、霊験により流水が穏やかになり、程なく竣工したため、城主が二神を敬い天神社と正観音を祀ったと伝える。
 なお、別当で、この正観音を境内の観音堂に祀る真言宗正観山真光寺は、古河公方成氏の開基といわれ、古河徳星寺の末社であったが、明治期に廃寺となっている。
 明治五年には前記の天神社ほか六社が当社に合祀され、同時に河川改修により、当社を字北通から現在地に移転した。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    拝 殿
 当社は向古河の鎮守として、明神様・お鳥様と呼ばれ、子育て・安産の神として、氏子はもとより古河・野木(茨城県)・藤岡(群馬)方面からの参拝が見られたという。参拝する女性たちは、元を半紙で包み麻で結わえた髪の毛を拝殿の格子に下げて祈願し、願いがかなうと礼参りとして鶏を描いた絵馬を上げたという。また、祈願の方法の一つとして特に体の弱い子供は、「麻のように丈夫に育つように」と麻を神社から借り、これを子供の首に掛け自然に切れて落ちるまで首輪としたという風習もあったらしい。
また、当地方は渡良瀬川からの出水が度重なるため、稲藁が取りにくく、藁不足であった。そのため、社前の注連縄に苦労し、神前に上げられる髪の毛をお祈りの込められた「霊力の籠るもの」として注連縄を作り、鳥居に掛けた。この風習は昭和一〇年まで続けられたといい、その後麻に変えられ、更に昭和四〇年からは藁繩を注連縄としている。
        
                 境内に設置されている「
指定有形文化財 板絵着色手習図」
 指定有形文化財 板絵着色手習図
 種別番号  絵画 第五・六号
 指定年月日 昭和五十八年三月二十一日
 管理者   向古河鷲神社氏子
 第五号は、たて一一○センチ、よこ一二二センチ。右端に観音坐像がまつられているので、真光寺の観音堂に掲げられていた絵馬であることがわかる。絵師は不明であるが、個々の人物を写実的にとらえ、全体的には遠近法を用いて、繊細な筆の運びで秀れた描画としている。歴史的資料として貴重であるだけでなく、美術的にも高く評価されている。
 第六号は、たて一一○センチ、よこ一三八センチ。部屋に梅が飾られ、襖に梅の老木が描かれているので、天満宮に掲げられた絵馬であることがわかる。嘉永四(1851)年、一亀斎直照の筆になるもので、おちついた環境を示し、その中で腰をすえて手習をしているという図柄である。ただひとり両手を挙げてあくびをしている筆子が、かえってその静かな雰囲気を強調していておもしろい。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                県道沿いから本殿を撮影
 当社の行事は年間6回行われ、7月の夏祭りが最大の行事である。この行事は合祀社八坂社のもので、天王宮耕地が中心となり行われる。祭り当日には、子笹流と伝えられるササラ(獅子舞)と大杉囃子が、それぞれ道中を組んで当社に集まり、神前に奉納した後、各戸を回り、庭先で行うため、終了するのは夜中になったという。
 
 二の鳥居の先にある手水舎の右側にある力石   一の鳥居の右側で、遊具の近くにある庚申塔 

 庚申塔の右側にある「史蹟万葉古河埜」の碑     「万葉遺跡 古河渡」の案内板
 史蹟万葉古河埜渡
 麻久良我乃許我能和多利乃可良可治乃(まくらがのこがのわたりのからかちの)
 於登太可思母奈宿莫敝兒由恵爾(おとたかしもなねなへこゆゑに) 

 万葉遺跡 古河渡
 万葉時代が編まれた古代、古河から行田にかけて水郷の地でした
 この付近には、古河の渡しがあったといわれ、万葉集に「古河渡」を歌った歌二首が収載されています。
 まくらがの古河の渡りのから梶の
     音高しもな寝なへ子ゆえに
 (古河の渡しに響き渡る梶の音の高さのようにうわさが高いわけがわからない。
 あの人とは何の関わりもないのだから)
 逢はずして行かば惜しけむまくらがの
     古河こぐ船に君も逢はぬかも
 (逢わないまま別れてしまうのは惜しいものです。
 
古河をこぐ舟で逢えたらいいのですが)                碑文・案内板より引用
        
                                境内の一風景
 氏子の間では、昭和年代まで、作神として群馬県板倉町の雷電神社が信仰され、雷電神社日参講がある。これには雷電神社日参講と書かれた幟旗があり、代参当番に当たった二名が早朝神社二参拝し、帰ってくると旗を家の前に立てて置き、夕刻に次の当番の家に渡す。この地は雷電神社が近く、二時間程で往復ができるため、このような参拝の方法をとり、田畑の雷除けをしていたという。

『日本歴史地名大系』「向古河村」の解説
 現北川辺町の北東部、渡良瀬川右岸に位置し、北東は同川を隔てて下総国古河城下船渡町・同国葛飾郡悪戸新田(現茨城県古河市)に対する。同川の船渡しで古河城下日光道中に通じる道があった。南は駒場村、西は柏戸村、北西は同川を隔てて下野国都賀郡下宮村(現栃木県藤岡町)。「頼印大僧正行状絵詞」に至徳三年(一三八六)一一月一〇日のこととして「向イ古河」から出火し、烈しい川風のため、鎌倉公方足利氏満の居所に炎がかかったという。「松陰私語」によると、文明一〇年(一四七八)七月二三日、古河公方足利成氏が成田(現熊谷市)から古河へ帰城の途中「向古河観音堂」で休息している。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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