古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

末野神社

 寄居町は埼玉県の北西部、都心から70km圏に位置している。荒川の中流域、長瀞のすぐ下流に位置し、その左岸に街が発達する。古く秩父住還の街道筋にあり、宿場町として栄えた。また、街の対岸にはかつて鉢形城があり、その城下町でもあった。寄居から山よりは秩父山地と上武山地に挟まれた渓谷となっている地形から、古くから地の利を生かした要害であった。現在でも国道140号、国道254号及びJR八高線・東武東上線・秩父線が接続する交通の要衝地となっている。国道140号線は今でも秩父に至る主要道路であり、律令国家以前の古代において秩父国造はこの地の重要性を認識していただろうし、この地の確保は自国の命運を握っていたと推測する。

 
所在地    埼玉県大里郡寄居町末野495-1
 主祭神    
豊宇気昆売命、建御名方命、宇迦之御魂命 他10神
  
 社  格     不明 後述 「大里郡神社誌」によると社格は旧村社であったのでここに訂正する。)
 
      
 由  緒    
末野神社は、諏訪神社、稲荷神社七社、天御中主神社、天神社、他11社が合祀・移転
                     され飯玉大明神と命名され,後明治43年2月3日末野神社と改称された。
 行  事
       元旦祭(1月1日)・記念祭(4月4日)・しんなめ祭(12月8日)他

          
地図リンク
  末野神社は国道140号線を長瀞方向へ向かい、寄居末野郵便局先の末野交差点を右折し踏切を越えすぐに左折し、道なりに直進し5分位で左方向にこんもりとした社が見える。線路脇で道路沿いの神社だが、森のある静かで落ち着いた雰囲気を持つ神社だ。付近の山麓には埼玉三大窯跡のひとつである奈良期の「末野窯跡群」もあり、神社自体も重厚感のある落ち着いた社であるにも関わらず、案内板がないため、主祭神も由緒も創建年代も全くの不明。
 ただ末野の名前の由来としては、須恵器を生産した野であったとも、荒川扇状地の行き詰まりの地であるという地形的な意味あいから付けられたとも云われている。
 
            社号標と鳥居                       参道より社殿を望む
    社殿は鳥居をくぐって右側に鎮座している                   
               

           
                            拝       殿 
 由来等の案内板が全くない。これほどの社殿なのに残念。また拝殿の彫刻が目を見張るほど素晴らしく、拝殿の左側の壁面には神殿改修記念の額にも龍と狛犬が飾られている。
 
             鞘堂内本殿             荒川に地形的に近いせいか土台がしっかりしている 
                                     石垣と間違えるような男性的な外観

  末野神社は国道140号線沿いに鎮座している。ゆえに荒川、またその支流である逆川に地理的に近く、鎮座地の標高も他の地域よりも低いように見える。社殿の基礎部分寄居の隣町長瀞の岩畳で有名な結晶片岩を使用しているようなので、社というよりも、城のイメージが強く、印象深かった。
                                                                             
『埼玉の神社』 末野神社について
 ≪元来末野には鎮守が三社あり、それぞれ氏子区域を異にしていた。その三社とは、西から飯玉神社(江戸時代には飯玉明神社)、箱石神社(江戸時代には箱石権現社)、諏訪神社で、いずれも創建の年代は不明ながら、古くからそれぞれの地区の住民に厚く信仰されてきた。
 これらの鎮守三社を政府の合祀政策に従って地内の各地に祀られていた他の無格社と共に
明治四十二年に飯玉神社に合祀し、更に同社を末野神社と改称した。

 末野神社の境内にある石碑「末野神社」に、明治四十二年の合祀にかかわったすべての神社が記載している。その二十四社は以下のとおり。


 字金場の村社飯玉神社、字諏訪東の村社諏訪神社、字関根の稲荷神社・八坂神社、字蔵屋敷の稲荷神社、字関口の天御中主神社・稲荷神社、字羽場の山神社・水神社・大天白社・稲荷神社、字上大正寺の稲荷神社・白山神社、字浦山の稲荷神社・八幡神社、字八王子の山神社・天手長男神社・琴平神社、字箱石の浅間神社、字竹原の天神社、字日山の二柱神社・稲荷神社、字東日山の神明社、字山神の山神社。       
 
           学問の祖・大木之森天神宮                                 末社二社
        
     
         社殿北側奥にあった社日
  末野神社から真北に円良田湖がある。円良田湖は逆川を堰き止めた人造湖であるが、逆川流域の窯跡群は、末野窯跡第2支群といい、円良田湖南端付近から末野神社付近まで、逆川によって開析された谷の東傾斜面に位置し、奈良から平安期にかけて、須恵器窯として使用されていたようだ。

末野窯跡
  飛鳥時代(七世紀)から平安時代中期(十世紀)へかけて、須恵器や瓦が盛んに焼かれた登り窯跡で、付近に九十基近く存在していたことが判明しており、末野窯跡群と総称されている。古代の 一大焼き物産地だったわけで、近くに原料の粘土採掘坑跡も確認されている。ここで焼き上げられた製品は、荒川の水運を利用して、各地へ運ばれていったに違いない。奈良時代前期(八世紀 前半)に創建された武蔵国分寺(国分寺市)の屋根瓦も、ここで焼かれている。今も須恵器片や瓦片の出土例があり、地名の末野も、須恵、陶から出たものという。登り窯による焼成法は、五世紀の 中ごろ大陸から伝えられたといわれる。末野には、早い時代に、朝鮮半島から渡来した須恵器づくりの技術をもつ集団が住みつき、大陸文化を広めていったということだろうと推測される。

 末野遺跡は、「すえの」の名が示すとおり古墳時代から窯で焼成された堅い土器(須恵器)を生産していた場所でした。そもそも古代武蔵の国(現在の神奈川県の一部と 東京都及び埼玉県  全域)には、四大窯跡と呼ばれる須恵器生産の拠点がありました。南から、南多摩窯跡群(東京都八王子市)、東金子窯跡群(埼玉県入間市)、南比企窯跡群(埼玉県東松山市、鳩山町他)、  末野窯跡群(埼玉県寄居町他)の4か所で、内3か所が埼玉県西部に集中しています。
  末野遺跡では、窯跡群の一部が調査され、古墳時代後期(1400年前)から平安時代の須恵器窯が調査されています。生産されていたのは、須恵器甕・皿・坏などの食器類のほか、瓦、埴輪   など多彩な製品が確認されています。さきたま古墳群の中の山古墳で使われている埴輪もここから供給されていたことが分かっています。また末野遺跡は、須恵器生産に関連する窯跡群の他、 須恵器を生産する工房の跡や材料の粘土を採掘した跡に加え、鉄生産の行っていた痕跡も残しています。 
                                                                                                埼玉県教育委員会ホームページより引用
                                                                                    


            

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