横瀬神社
埼玉県深谷市横瀬の横瀬神社別当寺であった華蔵寺大日堂建立時に記録された棟札は、横瀬がかって上野国(現在の群馬県)であったことを証明する貴重な資料となっている。当時の武蔵国と上野国の境は、豊里中学校裏手あたりと思われる。
明治維新の時慶応4年(1868年)太政官布告「神仏分離令」から起こった廃仏毀釈運動が各地でおきた。仏事の廃止、仏具の破壊、僧侶の神職転向等の嵐が吹き荒れた。横瀬では新田公ゆかりの古刹を保護するために、他所から神社を山門の前に移築して、村社 横瀬神社として華蔵寺は寺院の一部だとごまかした。「横瀬神社は以前別なところに在った」「無住の時があった」との伝承はその証明であろう。
所在地 埼玉県深谷市横瀬1358
社 格 旧村社
主祭神 伊弉諾命、伊弉冉命二座。 (配祀)豐受姫命
例 祭 4月10日
横瀬神社は国道17号深谷バイパスを岡部方向に進み、道の駅おかべを越えた岡東交差点を右折する。群馬・埼玉県道259号新野岡部停車場線を道なりに真っ直ぐに北上し約2km進むと右側にこんもりとした林と道沿いに沢山の墓地、そして大日堂が見え、そこを右折してそのまま進むと左手に華蔵寺の駐車場があるのでそこに駐車することが出来る。横瀬神社は前記華蔵寺敷地内南側に静かに鎮座し、一見すると寺院の一施設の様に感じるくらい目立たない位置にある。まるで華蔵寺側がこの社を隠しているような印象だ。
横瀬神社 社号標 参道 東西に長く伸びていて正面に小さく
一の鳥居が見える。
立派な横瀬神社拝殿
屋根瓦には五七の桐が浮き彫りにされているが、これは横瀬氏及びその子孫である由良氏の家紋という。またよく見ると狛犬が異様に高い位置にある。洪水対策用に作られたものか。
拝殿とその奥には本殿鞘殿
鞘殿内には彩色豊かで見事な壁面彫刻の本殿
深谷市指定文化財
当社は、後深草天皇の御代の建長年中(1249~56)に、土地の豪族・横瀬三郎為清の勧請によるもので、「聖天宮」の名で、横瀬七郷(横瀬、新戒、古市、大塚、中瀬、高島、石塚)の総鎮守として崇敬された。
一説に、建武年間(1334~)、武蔵守新田義宗の子の国寿丸が、難を避けて、僧となり密かに横瀬村に移住し、二体の尊体を安置して聖天宮を勧請したという。国寿丸は、当社神前において還俗し、横瀬新六郎貞氏と名のり、後に上野国金山城主となって近地を領した。以来七代にわたる城主の厚い崇敬があった。
徳川幕府時代に至り、横瀬三郎の後裔たる横瀬信濃守は、幕府の高家衆となって江戸神田於玉ヶ池に住んだが、祖先の縁故により、同家からは毎年初穂料として金百疋づつの奉納があり、代々の慣わしとなった。別当の華蔵寺の住僧は、毎年正月元旦に神前に於て横瀬家の武運長久の御祈祷を修行した神札・神供を、利根川の便船を使って届けた。
明治維新の後、土地の名により横瀬神社と改称した。
本殿の左側には境内社 稲荷社 明治43年大洪水の水標が拝殿前にある。
自分自身、この地域には思い入れがある。この横瀬地域は母方の実家があり、華蔵寺には先祖代々の墓所が実際にある。母方の姓は「三友」と言い、幼少の時期、新田氏についてよく話を聞いていた。この地域は鎌倉時代末期、清和源氏新田氏の所領であり、横瀬地域は通称「横瀬六騎」と呼ばれる新田家家臣団が存在していたという。
横瀬六騎
金山城主横瀬氏の出身地である横瀬郷の富田・栗田・須長・荻野・古氷・三供(三友)の六氏は、宗悦の一門に加へられ横瀬氏を名乗り、宗虎が金山城主として安定した頃に全員本名に復姓した。
新田正伝或問に「○富田左京兼昌(応永九年卒)―横瀬右近大夫時昌(永享五年卒)―大次郎信昌―左膳重昌―左近之助清昌―左近太郎清宗―大次郎清信(天文九年卒)―富田大三郎清定(天正二年卒)。○栗田平蔵吉久(応永三年卒)―横瀬平七吉勝(永享六年卒)―平馬常吉―助之進常友―孫四郎常記―新次郎常周(弘治元年卒)―栗田孫三郎繁常(元亀二年卒)。○須長幸三郎行幸(応永十一年卒)―横瀬隼人孝棟(嘉吉二年卒)―内蔵助孝林―隼人孝敬―兵庫助孝至―隼人孝泰―内蔵助孝美(天文十五年卒)―須長隼人助繁孝(天正九年卒)。○荻野伊三郎道朝(応永十五年卒)―横瀬掃部道春(永享十二年卒)―織之助道定―縫之助道村―縫之助道吉―枩之助道忠―七三郎道隆(天文十年卒)―荻野丹下道種(天正五年卒)。○古氷図書之助行直(応永七年卒)―横瀬治部行忠(嘉吉三年卒)―半十郎行温―七郎左衛門行恒―図書之助政恒―久米之助道政―古郡丹後政方(永禄十年卒)。○三供右太郎村房(応永十二卒)―横瀬加賀房利(文安二年卒)―新右衛門房保―主計房教―新太郎房茂―新右衛門房次―彦右衛門房賀(弘治元年卒)―三供新右衛門繁房(元亀二年卒)」と見ゆ。金山城主横瀬氏の本名はわからず。