古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下里八坂神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町下里2348
             
・ご祭神 須佐之男命(推定)
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0482108,139.2827061,16z?hl=ja&entry=ttu
 上小川神社から埼玉県道11号熊谷小川秩父線、並びに国道254号線を2.8㎞程東行すると、国道左側脇で、小高い山の麓に下里八坂神社の鳥居が見えてくる。
 国道脇で鳥居周辺には、丁度駐車可能な空間があり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
        
                                 
下里八坂神社入口付近
『日本歴史地名大系』 での「下里村」の解説
 小川村の南東、小川盆地の東部に位置し、西は青山村、南西は日影村(現玉川村)。村域の中央を槻川が蛇行する。玉川領に属した(風土記稿)。至徳四年(一三八七)閏五月二一日の天龍寺寺領土貢注文案(天龍寺文書)に「一、下里郷 銭捌拾貫文」とあり、この頃、当地は京都天龍寺の寺領であった。
 天龍寺重書目録(鹿王院文書)に収められる応永二七年(一四二〇)四月一九日の足利義持御教書案によれば、同寺領である下里郷などの段銭以下、諸公事・臨時課役・守護役などが免除されている。なお年未詳の天龍寺寺領目録(同文書)にも「武蔵国下里郷」が記載されているが、当地が天龍寺領としていつまで存続したかは不詳。
 
  参道入口左側には馬頭観音がずらりと並ぶ。   鳥居の右側奥にある「無格社 八坂神社」
                          、手前には「鳥居建設記念碑」。
 
   鳥居を越えると、いよいよ参拝スタート   鳥居を越えてすぐ参道左側に祀っている庚申塔 
      勾配のある石段を登る。       青面金剛(しょうめんこんごう))と石祠
       
             社殿まで長い石段が続く(写真左・右)。
    緑泥片岩で組まれた石段は傾斜こそあるがしっかりとしているため意外と登り易い。
 見た目通りの昔からの手作り感のある石組。材料は同地域内に緑泥片岩の採掘場所があるので、資材調達は特に問題はないと思うが、この斜面を人の力のみで作り上げたその労力は、想像するだけでも大変だっただろうと思いながら一直線の石段を登った。石段の数は数えなかったが、200段以上はあると体感した。但しこの石組は幅があまりない所もあり、登る際には、つま先歩きのような歩き方となり、そこだけはやや不便を感じた。
 
 石段の両側には、鬱蒼とした林と大杉等の巨木で埋め尽くし、日中参拝しているにも関わらず、ほの暗いが、樹木の枝葉の間からさし込む日の光は眩しく、そよ風は爽やかな新緑の木の香りに満ちていて心地よい。
 またこの古風な石段を粛々と登っていくと、この石段を作り上げた多くの地元住民の方々の思いが聞こえるような気がして、理屈では説明しがたい、第六感的な不思議な感覚が研ぎ澄まされたような気持ちになる。今まで数多く社に参拝しているが、時に不思議な感性が右脳を駆け巡り、直感力が増幅するような心持ちになる。
        
                     拝 殿
 拝殿正面には対をなす樹木が立つ。鳥居替わりであろうが、上手く撮影できないため、斜めからの撮影となった。
 八坂神社 小川町下里二三四八
 当社は、小川町の東端にそびえる遠ノ平山の中腹に南面して位置し国道二五四号に面して建つ鳥居をくぐり、百余段の石段の参道を登り詰めた所に鎮座する。地元の人は、参道入口の辺りを神南沢と呼んでいる。また、国道の走る谷を挟んで南側には観音山があり、西斜面には暦応三年(一三四〇)の開山と伝わる天台宗大聖寺が建つ。
 社伝によると、当社は宇多天皇の寛平年間(八八九-九八)に素盞嗚尊を奉斎したとあり、当時上郷地区に疫病が流行し、その猛威に怯えた郷人が創建したという。そして、いつのころからか大聖寺の守護神として祀られるようになった。江戸期の同寺との関係も『風土記稿』に当社のことが載らず詳らかではない。文化七年(一八一〇)に社殿を改築したと伝わるのみである。そして、明治初年の神仏分離により大聖寺の手を離れた当社は、無格社となった。その後、明治四十三年には現在の石段が組まれている。
 なお、遠ノ平山は通称御嶽山と呼ばれ、頂上にはかつて御嶽神社が祀られて、大正以前には橋本姓を名乗る祀職が籠もって祈禱をしていたという。その後、後継者もなく、社殿の荒廃に伴い、当社の末社である三峰・金毘羅の相殿に合祀した。朽ちた社殿は昭和二十年代まで残っていたが、現在では嵐山方面から登る参道と旧社地を伝える碑が建つのみとなっている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
           境内社。三峯神社・金比羅神社・御嶽神社が合祀 
       

 下里八宮神社で紹介した「下里ささら獅子舞」は、7 13 日〜 15 日の 3 日間、下里八宮神社・八坂神社・大聖寺に奉納してきたという。
 下里の獅子舞の歴史は古く、かんばつや疫病を追い払うため、享保年間(171636年)に始められたと伝えられている。別名「防ぎの祭り」ともいわれ、難病や疫病が村に入らないように、村境に悪疫退散のお札を青竹にはさんで立つ。ささら獅子舞は、わらじがけの獅子3頭、伴奏のササラ、笛、万灯等、4050人が大聖寺と鎮守の八坂神社に舞を奉納するものである。
 この獅子舞の奉納は、例年715日に近い日曜日に奉納されていて、八宮神社は毎年、大聖寺は八坂神社との隔年であるという。


参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「小川町議会だより 64 HP」
    「
比企ライフネットHP」等 


       

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