古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

勝呂白鳥神社

ヤマトタケルは、記紀などに伝わる古代日本の皇族で、『日本書紀』では主に「日本武尊」、『古事記』では主に「倭建命」と表記される。第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
 16才の時、景行天皇に命じられ九州の熊襲に攻め入り、その際、女装して首長川上梟帥の宴に紛れ込み、梟帥を刺殺した。この時、梟帥に賞され、日本武皇子の名が贈られた。その後、東国の蝦夷による乱が起き、再び尊が命を受け、途中、伊勢神宮に仕えていた叔母倭姫命より草薙剣を授けられ、これが焼津で賊の放った火から逃れるのに役立った。平定後、帰途尾張で宮簀媛と結婚した。其の後五十葺山で荒れ狂った神を鎮めようとして逆に病を煩い、満身創痍の状態となりながら伊勢に入り能褒野で没したと伝わる。
 白鳥神社は、日本各地に鎮座する日本武尊を祀る神社である。大鳥信仰の神社と同様に、日本武尊の伝説に因む白鳥信仰の神社であるものが多い。宗教法人としては全国に白鳥神社が111社、白鳥神社を名称に含む神社が1社、白鳥社が6社存在する。全国の白鳥神社に共通する「ヤマトタケルと白鳥伝説」では、日本武尊が鉄器という新しい金属農具を使った灌漑技術で、稲作を振興させたという伝説が白鳥信仰にむすびつけられたという。
        
             ・所在地 埼玉県比企郡小川町勝呂310
             ・ご祭神 日本武尊
             ・社 格 旧勝呂・木呂子両村鎮守
             ・例 祭 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0780802,139.2152652,15z?hl=ja&entry=ttu
 勝呂白鳥神社は古くは相模街道と呼ばれていた埼玉県道30号飯能寄居線を小川町から寄居町方向に進む。(途中、比企郡小川町から大里郡寄居町まで国道254号と重複している所もあり、説明することもややこしくなるため、ここでは県道30号にて統一表記する)JR竹沢駅を過ぎて、右側に津島神社を見ながら最初の手押しのT字路である交差点を左折し、左側に流れる兜川の源流である西浦川に沿って進むと勝呂白鳥神社に到着する。
 神社の鳥居手前に駐車スペースも確保されていて、そこに停めて参拝を行った。
        
                  勝呂白鳥神社正面
        
                     拝 殿
 境内碑
 当神社の御創建は、南北朝時代の初め現在の奥社が鎮まる土地に祀られたという。社伝によれば、当社の前谷津にあった「神出」という小字名を残す付近に毎夜光るものが現われ、土地の人々が恐れおののいていた。そこへ一人の旅の武士が通りかかってその話を聞き、その場所を掘ってみると、十一面観音の座像が出てきた。
 しかもその時、上空には白鳥が一羽舞い来たり、暫くすると向い側の森に舞い下りた。そこで武士は「これはあの森に祀れというお告げだ」と考え、この座像を奥社の地に安置したが、以来土地の者たちが、これを白鳥明神と崇め、日本武尊を御祭神として篤く信仰するようになった。
 御祭神は、光を発し何度も拝見すると眼を悪くするので、六十年に一度だけ開扉して御神像を拝することとなり、今回がその第十一回に当たる。
 撰文 宮司 宮澤貞夫 
 皇紀二千六百六十年 
 平成十二年十月十五日 
 埼玉県神社庁長 
 秩父神社宮司 京都大学名誉教授 薗田稔謹書
 
      拝殿に掲げている扁額           拝殿の奥の斜面上に鳥居が見える
        
          位置的に見てもどうやら白鳥神社の奥宮のように見える。
 
左から三光大神社、十一面観音、白鳥神社本殿    覆屋の左手には三峰神社が鎮座する。
             
                白鳥神社本殿からの眺め 
 ところで勝呂地区に鎮座する白鳥神社の創建には、増尾氏が関わってきたという。男衾郡竹沢勝呂村(小川町)は猿尾庄を唱えていて、その後、猿(ましら)の佳字を用いて増尾を猿尾と称したようだ。其の後その系統から木呂子村を所領として木呂子氏を称したという。
 平姓木呂子氏家譜に「畠山重忠の後裔・猿尾太郎種直(正慶二年・1333年卒)より出り候由。春栄の譜に種直の弟春栄とあり。大塚村に木呂子丹波守殿カキ上城有之」との記述があり、畠山一族の出身であることがわかる。畠山一族は重忠の名声により、とかく「坂東武者の鑑」とその一面のみ語られる事が多いが、その一族の本来の素性も語られるべきではないか、とも筆者は考察するところだ。猿尾氏に関しての資料として以下の書簡等があるのでここに紹介する。
風土記稿増尾村条
「古城蹟は村の東小名中条にあり、四方二町の地にて、から堀の蹟所々に残り、又櫓の跡なりとて小高き所あり。その辺今は杉の林となりたれど、城蹟のさま疑ふべくもあらず。土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて何の時代の人と云ふことは伝へざれば詳ならず」
武蔵志
「比企郡青山村(小川町)、当村下村に古城・山上にあり。猿尾太郎と云人居しと云。古城下路傍に青石塔あり、康永二年十二月日の逆修と見えたり。橋供養塔青石銘に正慶二年四月二日・猿尾太郎種直有罪縛死の筵に居刻云々とあり」
永禄十年大梅寺縁起
「大塚郷大梅寺は、仁治三壬寅年猿尾氏が霊山院初祖栄朝禅師を請して創建す」
大塚村栃本如意輪観世音縁起
「六条天皇の御宇、土豪増尾十郎兼信・斎藤六郎輝実、力を協せて殿堂の衰頽せるを再興し、荘園を寄進し、又百体観世音像を造りて、百僧を供養し給ふ。増尾氏は元弘の頃まで栄えたりしが、守邦親王に再挙を勧め事成らずして共に亡び、斎藤氏は一族と共に南朝に尽くし、一族中には名を顕はしたるあり。正徳二年正月看主」
        
                 社殿より正面鳥居を望む。
 勝呂という地名も何か曰くがありそうだ。
 冒頭「ヤマトタケルと白鳥伝説」では、日本武尊が鉄器という新しい金属農具を使った灌漑技術で、稲作を振興させたという伝説が白鳥信仰にむすびつけられた、と述べたが、「日本武尊伝説」自体が鉱山と密接な関係があるように思えてならず、そのうえ畠山一族である猿尾氏まで絡んでいる。勝呂白鳥神社近郊にある「竹沢駅」の地名竹沢も、元来秩父児玉党の出身である竹沢党から起こっている。
○靭負村の曹洞宗竹沢山雲竜寺裏に館跡あり。武蔵七党系図「有三郎別当大夫経行―保義―竹沢二郎行高―五郎行定(三郎トモ)」
○冑山本、武蔵七党系図「保義―行家―富野四郎大夫行義―□□―雅行―竹沢二郎行高―五郎行定」

『埼玉の神社』では、白鳥神社に関して《当社南方一キロメートルほどにある地を小名神出(じんで)と呼んでいる。ここは古くからマンガン・黄銅鉱などを産出する所である。》と述べ、この神社の創祀伝説を記している。また、『新編武蔵風土記稿』は、西光寺持ちの虚空蔵堂を記している。西光寺は明治の神仏分離時に廃寺となっている。白鳥神社には本殿と並んで、三光社が祀られているが、これは妙見神のことらしい。ちなみに、妙見神とは、北辰神、すなわち北極星信仰のことであって、日本在来のものではなく、渡来人が持ち込んだ道教の神である。勝呂地区の南隣、木部にも三光神社が鎮座している。

 勝呂の北東端にある標高
263.4mの金勝山がある。今では低山ハイキングコースとして有名な山となっているようだが、この一帯は白亜紀に変成した三波川変成岩の上に衝上断層を介して乗っている地質で、今でも前期 三畳紀 (25000万年前, 250 Ma)の金勝山花崗閃緑岩に見られるペグマタイトが産出している。ペグマタイトはほとんど石英, 長石, 雲母から構成されるが、チタン鉱物を伴うことがあり、ある一時期マンガン等の鉱物が産出したことも否定できない。鉱物学には至って低レベルな知識しか持ち合わせていないので、科学的に立証しているわけではないが、白鳥伝説といい、地名の由来、畠山一族がこの地域一帯を治めていたことを考えると、そのような仮説が漠然と浮かび上がってくるのだ。


          

拍手[2回]