平沼氷川神社
・所在地 埼玉県比企郡川島町平沼323
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧平沼村鎮守 旧村社
・例祭等
国道254号線を南下し、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の川島IC付近で交じる「つばさ・みらい通り」を左折し、最初の信号のある交差点を右折する。埼玉県道76号鴻巣川島線合流後、300m程進んだT字路を更に左折すると、平沼氷川神社の境内に通じる場所に到着する。
社の東側に隣接している「平沼集落センター」の駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
平沼氷川神社正面
周囲は北側にICの洗練された高架橋が、そして西側には近代的な大型モールが遠くから見える中、対照的に東・南側は川島町特有の沖積低地帯の田畑風景が広がり、集落がその一帯に寄り添いながら点在し、その集落内の真ん中に鎮座する、まさに「鎮守の社」といったような印象。
石製の鳥居(写真左)を過ぎると玉砂利が敷かれた綺麗な境内が広がる(同右)。
日頃からの手入れも行き届いているようで、気持ちよく参拝を行うことができた。
『日本歴史地名大系 』より「平沼村」の解説
[現在地名]川島町平沼
白井沼(しろいぬま)村の西にあり、北は上八ッ林(かみやつばやし)村。小田原衆所領役帳には小机(こづくえ)城(現神奈川県横浜市港北区)城主北条氏秀の所領として、「卅五貫文 比企郡平沼」とあり、弘治元年(一五五五)に検地が行われている。天正一八年(一五九〇)五月日には「伊草 中山 平沼」に前田利家の禁制(写、武州文書)が下されている。
田園簿では田高五一五石余・畑高五三石余、旗本酒井領。ほかに氷川明神領高一石二斗、大福だいふく寺領高八斗。その後川越藩領となり、秋元家時代郷帳では高五六四石余、ほかに検地出高として高三四七石余がある。
拝 殿
『比企郡神社誌』において、「大字平沼氷川神社由緒。後鳥羽天皇の頃、足立郡より当地に来住開拓せるもの数家あり、氷川大神を勧請す。永正十二年に至り宮祠の腐朽したるを恐れて矢部伊賀一族主宰となり再興す。慶長三年、名主矢部七郎兵衛・同与七郎、主任となり本社を改築す。寛永十九年、名主矢部七郎右衛門・同三郎右衛門・外氏子一同にて改造す。明治十六年、村長矢部杢太郎主導者となり拝殿及び玉垣を建造す」と記されている。
平沼氷川神社の創建年代等は不詳ながら、平安時代後鳥羽天皇の御代(1183-1198)に足立郡から移住して当地を開拓した矢部氏を中心とした集団が大宮氷川神社を勧請したという。
この矢部氏は、平沼地域及び三保谷郷山ヶ谷戸を開発した時から今に至るまでも多く存在している。
・平沼地域
上記『比企郡神社誌』参照
・三保谷郷山ヶ谷戸地域
『八ツ林村道祖土文書』
「天正六戊寅年卯月七日、三保谷郷検地書出、二十三貫八百三十二文・養竹院分(表村)、十九貫五百六十五文・福島給田、三貫七百七十文・矢部大炊助給田、三保谷代官道祖土土佐守百姓中、江雪奉之(板部岡融成)」
『道祖土系図』
「道祖土図書康満は後福島与右衛門満吉と号す。比企郡老袋村(川越市)にて五十貫の地を給ふ。天正十八年岩付落城に付武州登戸村(鴻巣市)に来り住居す。功臣矢部刑部は兄土佐守康玄に仕ふ」
境内に設置されている「神社改修記念碑」
神社改修記念碑
當平沼氷川神社社殿は明治十六年五月氏子七十五名により総額二百十七圓七十銭の寄附金を得て創建せしものなり
以来百余年を経過し近年その腐朽甚だしく氏子これを憂慮し協議の結果昭和五十九年二月総意に基づき改築することに決定し直ちに建築委員会を組織し資金の積み立てを開始諸準備に着手する
改築は位置面積共に旧来通りであり総工事費は八百三十一萬三千圓で氏子百四戸の同額積立寄付金と特別奉納金等により昭和六十一年一月十七日起工、同三月末完工せり
また社前の石囲石段は明治三十七年氏子の寄進なれど本村町議歴代区長これを新たに奉献す、今ここに荘厳な鎮守の杜に新装の香漂う社殿と周辺を目前に拝し一同の深い敬神の念と相互協力に結ばれ栄えて今事業が達成せられし事は誠に喜びと感激の極みである依ってこれを記念し後世のためにこの碑を建立す
昭和六十一年十二月吉日 氏子中
拝殿左側には境内社2社が並列して祀られている。
境内社・津島神社 境内社・天神社
社の東側に隣接している「平沼集落センター」前に聳え立つ立派な松の大木。
参考資料「比企郡神社誌」「八ツ林村道祖土文書」「道祖土系図」「日本歴史地名大系」
「境内神社改修記念碑」等