中山氷川神社
・所在地 埼玉県比企郡川島町中山1790
・ご祭神 素戔嗚尊 応神天皇 建御名方神 清寧天皇 菅原道真公
・社 格 旧村社 神饌幣帛供進神社
・例祭等 春祭 3月28日 夏祭 7月18日 秋祭 10月17日
神幸祭 12月14日 例祭12月15日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9863814,139.4514261,17z?hl=ja&entry=ttu
国道254号線を川島・川越方面に南下し、「首都圏中央自動車道・川島IC」の手前にある信号のある十字路を右折し、道なりに800m程進む。と右側に中山氷川神社の朱の鳥居が見えてくる。
社の東側に隣接する「宮本集落センター」には駐車スペースもあるので、そこに停めてから参拝を開始する。
中山氷川神社正面
朱色の木製鳥居のすぐ先に石製の二の鳥居が立っている。
(中山村)氷川社
八幡・諏訪の二神を合祀す、村の鎮守なり、棟札に延暦三甲子年九月吉日、武州比企郡川嶋之内土袋庄中山村願主長圓と記す、されど此年號さらに信ずべからず、何ものか彼世かゝる無稽のことを、なし置しと見えたり、善能寺持、
『新編武蔵風土記稿』より引用
「埼玉の神社」にも上記と同様に、
当社の創建を伝える史料としては、宝永七年(一七一〇)の棟札がある。この棟札の裏側には
「守護山郷内繁昌祈攸 別当善能寺
「武州比企郡川嶋土袋庄中山村江口村六兵衛、願主隆貞」の文字と共に、「延暦三年甲子(七八四)九月勧請 二十七年破損造立 自享禄元年(一五二八)宝永七年迄八十四年 従延暦三年宝永七年迄九百廿七年」と、由緒が記されている。
しかし『風土記稿』が「延暦三年」という年号に疑問を投げかけており、実際に当社が神社として形を整えたのは、村の開発と同じころと推定される。
と記載されている。
参道途中に設置されてある案内板
氷川神社 畧記
鎮座地 川島町大字中山字宮本一七九〇番地
御本殿 銅板葺流れ造十二坪
境内地 五百八十坪
境内社 稲荷神社 祭神倉稲魂命
御由緒
当社は延曆三甲子三月武藏国大宮高鼻鎮座氷川神社より勧請すと伝えられる 社伝享禄元戊子八月、慶安四戊子六月、貞享九甲子六月、宝永庚寅八月、享保十乙巳九月造立造修あり 享保十九年三月十五日宗源宣旨を以て氷川八幡諏訪三神共正一位大明神号を授けらる 宝暦六丙子十月外廓拝殿、寛政十一己未四月、文政己卯八月本殿立修あり 天保十二年辛丑九月山形藩主秋元但馬守より御影石鳥居一基奉納あり 明治四年村社 明治三十九年二月社務所落成 明治四十年三月神明白髭社、上廓白髭社、天神社を合祀す 明治四十一年三月神饌幣帛供進神社に指定 昭和四十九年三月社務所改築 昭和五十三年七月拝殿屋根造修する
案内板より引用
南北に長い参道があり、その先に拝殿が鎮座する。
比企氏は鎌倉時代に北条氏との権力闘争の末に「比企の乱」にて一族はみな討たれ、比企一族は滅亡したことになっている。しかし当時二歳であった能員の子である能本は比企氏族滅の中、唯一生き残る。『新編鎌倉志』によると、能本は伯父の伯蓍上人に匿われて出家し、京で順徳天皇に仕え、承久の乱後に順徳天皇の佐渡国配流に同行した。後に4代将軍九条頼経の御台所となった頼家の娘の竹御所の計らいによって、鎌倉に戻ったという。鎌倉に妙本寺を建立し、比企一族の菩提寺となった。建長5年(1253年)には日蓮に帰依していて、その後も比企氏の血統は生き続けることになる。
拝 殿
比企郡川島町中山地域の田園地帯にある金剛寺には、15世紀から比企氏の墓所が多数存在する。
『新編武蔵風土記稿 中山村条』
「金剛寺 清月山元光院と號す、新義眞言宗、入間郡石井村大智寺末、本尊釋迦を安ず、開山詳ならず、後に比企佐馬助則員中興す、境内に則員が墓あり、法名元光元和二年三月十九日卒すと、今用る院號は此法謚に取し事知べし、則員子孫は村民にあり、
鐘樓。鐘は正保年間中興檀越則員の子、次左衛門義尚建立せしが、此鐘損ぜし故、延享年中改め鑄しと云」
本 殿
境内社・左から八坂神社、天神社
境内社・白髭神社 境内社・稲荷社
『新編武蔵風土記稿』には「比企佐馬助則員」という人物が登場する。比企の乱後、生き延びた一族が、地方の所領に潜伏していたとも、名前を変え地元に潜伏していたとも、菩提寺である金剛寺に匿われていたとも、後北条氏のように比企地方を領有するための正当性を示すため当時の地元有力武士が比企氏を称したなど諸説がある。
とにかく比企氏は室町時代初頭に再び比企地方に姿をあらわし上杉氏等に仕えた後、後北条氏の勢力が拡大すると後北条氏に仕えたとも言われている。江戸時代になると一族は幕府や諸藩に仕官、地元で帰農する等、その子孫は現代も脈々と続いている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等