古谷上古谷神社
・所在地 埼玉県川越市古谷上3564
・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命 彦狭島命
・社 格 旧古谷上西部半村産土神・旧村社
・例祭等 元旦祭 祈年祭 4月6日 八坂祭 7月14・15日
例祭 10月14日 新穀感謝祭 12月15日
今回、川越市旧県社三社(川越氷川神社・三芳野神社・古尾谷八幡神社)の参拝を終え、川越市街地方向に戻るその途中、国道16号線を西行し、伊佐沼付近でこんもりとした社叢林が見えたので、急遽参拝を行った社である。
境内東側に参拝用の駐車場も完備されている。
明治期まで「赤城神社」として旧古谷上西部半村の産土神として崇敬された社。創立年代は不詳ながら、当地は古くから人々の開発が進んでいた地でもあり、当社は古墳とも塚ともいえる高台上に鎮座する。荒川や入間川の合流地点にある地域でもあり、『新編武蔵風土記稿』にも「水損あり」との記述あり、当時の人達はたびたび起る洪水に悩まされていた為に、群馬県三夜沢鎮座の赤城神社に勧請、鎮座当時すぐ西側にあった伊佐沼が荒れ狂わない様お願いする為に赤城神社をお祀りしたのではないかといわれている。以降、河川と沼の守り神として信仰された。
因みに、嘗ての氏子区域は、古谷上東半村が一ノ宮神社、古谷上全域は八坂神社と分かれていたが、大正2年に当社に合祀し、古谷上全域が当社の氏子区域となる。
古谷上古谷神社正面
写真左側にある社号標柱には「上郷鎮守 古谷神社」と刻まれている。
『日本歴史地名大系』 「古谷上村」の解説
鴨田(かもだ)村の南、入間川右岸の低地に立地。東は入間川を隔てて足立郡上宝来(かみほうらい)村。古谷上郷ともいう。中世古尾谷庄の内。慶安元年(一六四八)の検地帳(川越市立図書館蔵)には「河越領上郷村」とみえ、田八四町二反余・畑四〇町三反余、このほか蔵根(ぞうね)・中嶋など荒川の堤外に田一五町一反余・畑六一町一反余。田園簿に古谷上郷とみえ、田高九九四石余・畑高五八〇石余・野高一五八石余、ほかに野銭永二貫文を上納、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一千六七〇石余、反別田九二町八反余・畑九八町二反余、ほかに開発分高一〇八石余(反別田六町余・畑六町三反余)。
地域の鎮守様という表現がふさわしい佇まいのある社
二の鳥居
鳥居の先で左側にある手水舎 石段の手前で参道右側にある案内板
古谷神社の由来
新編武藏風土記稿 (天保元年「一八三〇年」江戸幕府編さん)に伊佐沼は長さ十七町、巾三町余とあり、メートルに直すと長さ約一八五〇米、巾約三三〇米となり、県道川越上尾線から十六号国道迄伊佐沼だった事が記されています。
赤城山の沼の霊を祀った群馬県勢多郡宮城村三夜沢鎮座の赤城神社をこの塚上に勧請(文和年中一三五一年)した時はここの西側は伊佐沼でした。当時の人達はたびたび起る洪水がこの伊佐沼辺では荒れ狂わない様お願いする為に赤城神社をお祀りしたのではないでしょうか。又本殿西側にお祀りして居ります水神様は元荒川の上江橋 (古谷小学校の南東側)脇からお移ししました。 この辺では他にも古谷本郷上組、大宮市西遊馬高木などにも水の神弁財天(嚴島神社)をお祀りしています。水難の多い地方ならではの事でしょう。
又この塚は古墳と云う方が多いのですが、発堀した記録もなく確定出来ません、ここのすぐ南東五十米位の所に熊野神社を祀った塚がありました。その跡から墳輪、直刀、土器が出ていますし古谷上蔵根二一五からも埴輪、土器が出て居り、県内行田市の古墳とほぼ同年代(六世紀末か、七世紀始め)のもので同じ水田地帯で条件もよく似ていますが何とも云えません。(以下略)
案内板より引用
案内板において、この塚は古墳というが、発堀した記録もなく確定できてはいないとの事。但し『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』によると、「赤城神社古墳」という名称にて「円墳」「径30m」として登録されている。但し築造年代は記載されていない。
案内板の右側に祀られている末社合祀殿。 境内の案内板には「前庭」と表示されている。
菅原天神社(三ヶ戸)・菅原天神社(古川端)・稲荷神社(赤城神社境内社)・稲荷神社(一宮神社境内社)・一本杉稲荷神社(上ヶ谷戸)・金刀比羅神社(一本杉稲荷神社境内社)・稲荷神社(屋敷)・金刀比羅神社(上谷)・白山神社(八坂神社境内社)・愛宕神社(蔵根)・日枝神社(古川端)。
手水舎の左側奥に祀られている浅間社 末社合祀殿の右手前方にある神楽殿
および、富士講に関わる石碑等
石段上に社殿は鎮座する。
古谷神社(あかぎさま) 川越市古谷上三五六四(古谷上字赤城)
古谷上は入間川右岸の低地にある。当社は『風土記稿』に「赤城社 この辺土地低く水患あれば、其災を避んと近き比塚をきづき上に社を建つ、この辺の鎮守なり」とある。
社記によると、当社は赤城古墳の上に祀られ、大正九年に境内地より埴輪が出土し帝室博物館に寄贈したという。この古墳は明治期まで当社の祀職であった宮崎某が遠祖を葬るといわれ、同家に「当家者豊城入彦命御子八網田王従者母比取乎計良之後裔也王依父命開拓武蔵野到古尾谷有一族歿而葬之是則赤城塚也乎計良請守之是我家之大祖也」の文書を蔵する。
『明細帳』に「創立年紀詳ナラズト雖トモ寛文ノ頃迠ハ全村挙テ当社に属シ氏神ト仰ギ尊敬シ来リシガ年暦不詳村中両分シテ西部半村ノ産土神ト崇敬セリ然ルニ明治四年同郡古谷本郷古尾谷八幡神社ノ氏神トナリシヨリ当社ハ只信仰社トナレリ」とある。
当地は古くから開かれた所であり、開拓時に群馬県の赤城神社を鎮守として勧請したものであろう。祭神は大己貴命・豊城入彦命・彦狭島命である。
大正二年に堤外の一ノ宮神社・堀ノ内の八坂神社・同境内社韓神社を合祀し、社名を赤城神社から古谷神社に改めた。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
『新編武蔵風土記稿 古谷上村』
赤城社 この邊土地低く水患あれば、其災を避んと近き比塚をきづき上に社を建つ、この邊の鎭守なり、
熊野社 塚上にあり、村内善仲寺持、
一ノ宮社 此邊の鎭守なり、稻荷社
天滿宮
稻荷社 村内善行寺の持、
姥神社 村持、
稻荷社 實相院の持、
境内社・姥神社 水神・韓天神社・〇・〇の石祠
高台上の鎮座する社殿からの眺め
