仁手諏訪神社
・所在地 埼玉県本庄市仁手353
・ご祭神 健御名方命 妃八坂刀売命
・社 格 旧元仁手村鎮守・旧指定村社
・例祭等 祈年祭 4月3日 例祭 10月19日に近い日曜日
新嘗祭 12月9日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2436692,139.2112425,16z?hl=ja&entry=ttu
仁手諏訪神社は国道17号を本庄市方向に進み、歩道橋がある「日の出四丁目」交差点を越え、次の信号のない交差点を右折する。道幅の短い道路を道なりに進み、小山川を越えて尚も進むと、正面に傍示堂稲荷神社が見えてくるが、そこから北側にこんもりとした社叢が見える。そこが仁手諏訪神社であり、傍示堂稲荷神社からも400m弱北側で、ほぼお隣さん状態で仲良く鎮座しているような印象も受けた。
仁手諏訪神社正面
正面鳥居の左側にある案内板 鳥居を過ぎると参道と共に広い境内が広がる
○本庄市指定文化財「諏訪神社獅子舞」
この獅子舞は日下開山常陸角兵衛流獅子舞といわれる。それは天明八年(1788)当時この流派の奥義を極めた高原喜八が諏訪神社の氏子に伝授したのがはじまりといわれるからである。のちに仁手の家々の多くの人がこの舞の技能をおさめ毎年十月十九日の祭礼に、神社に奉納し今日まで継続されている。特にこの舞に使用される獅子頭は延宝三年(1675)仁手村の領主笹山彦左衛門が常陸国の城主蔭山数馬から拝領したものといわれ、特色がある。
昭和37年3月23日 本庄市教育委員会 境内案内板より引用
拝 殿
本 殿 拝殿脇にある案内板
諏訪神社御由緒 所在地 埼玉県本庄市仁手三五三
□縁起
創立年代は不詳であるが、「明細帳」によれば、上杉忠清が本庄領主であった永禄四年(1561)には下畑五段十五歩の除地があり、本庄美濃守が本庄領主だった天正十一年(1583)にはその所轄となって萱野四段歩の寄付を受けたという。また、氏子の梅沢甚三郎家の先祖は、鉢形城の最後の城主である北条安房守氏邦の家臣で、落城後に当地に来て土着したとの伝えがある。
これらの伝承と、鉢形城内に諏訪神社が祀られていたこと、本庄領一帯では長禄から天正(1457~1592)にかけて諏訪神社が勧請されている例が多いことなどを合わせて考えると、仁手諏訪神社は鉢形城麾下の諏訪信仰を背景にして勧請された社の一つであると思われる。ちなみに、利根川の対岸に位置する上仁手にも諏訪神社があり、北条氏麾下の茂木某の勧請と伝えている。
『風土記稿』の元仁手村の項に「諏訪社 村の鎮守なり、宗福寺の持」とあり、江戸期は真言宗の諏訪山宗福寺が当社の別当であった。しかし、実際の祭祀は、宗真院のすぐ西に居を構えていた茂木家が行っており、記録によれば文政八年(1825)に茂木兵吾が京都の吉田家の配下となり、その子孫は明治十年(1877)まで当諏訪神社の神職を務めた。また元禄十五年(1702)に社殿が改築されたと伝えるが、老朽化のため、本殿以外は昭和六十年(1985)十一月に建て替えられた(中略)
境内には社殿と並んだ状態で、境内社・末社等が鎮座しているが、その詳細は不明である。『風土記稿』等資料により、合祀社は「戸隠神社」「大杉神社」外四社(不明)であり、末社に関しては稲荷神社,蚕影神社、祖霊社等らしいのだが、それ以上は判明しなかった。
道路沿いにある案内板
諏訪神社 所在地 埼玉県本庄市大字仁手三五三
祭 神 健御名方命 妃八坂刀売命
当社の創立はいつのころか明らかでないが、かなり古い社で、元禄四年(1691)に当時の領主・上杉忠清が神田五反五畝十五歩を寄進しこえて元禄十五年(1702)には、社殿改築されたと伝えられる。その後老朽化したので昭和六十年(1985)十一月諏訪神社社殿、稲荷神社、蚕影神社、祖霊社、末社を往時のままに復元新築した。
文政八年(1825)ころは、京都吉田の配下、茂木兵吉が神主となり、その子孫が明治十余年頃まで奉仕していた。明治四十四年(1911)境内社の戸隠神社、大杉神社外四社を合祀。
新嘗祭 12月9日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2436692,139.2112425,16z?hl=ja&entry=ttu
仁手諏訪神社は国道17号を本庄市方向に進み、歩道橋がある「日の出四丁目」交差点を越え、次の信号のない交差点を右折する。道幅の短い道路を道なりに進み、小山川を越えて尚も進むと、正面に傍示堂稲荷神社が見えてくるが、そこから北側にこんもりとした社叢が見える。そこが仁手諏訪神社であり、傍示堂稲荷神社からも400m弱北側で、ほぼお隣さん状態で仲良く鎮座しているような印象も受けた。
仁手諏訪神社正面
正面鳥居の左側にある案内板 鳥居を過ぎると参道と共に広い境内が広がる
○本庄市指定文化財「諏訪神社獅子舞」
この獅子舞は日下開山常陸角兵衛流獅子舞といわれる。それは天明八年(1788)当時この流派の奥義を極めた高原喜八が諏訪神社の氏子に伝授したのがはじまりといわれるからである。のちに仁手の家々の多くの人がこの舞の技能をおさめ毎年十月十九日の祭礼に、神社に奉納し今日まで継続されている。特にこの舞に使用される獅子頭は延宝三年(1675)仁手村の領主笹山彦左衛門が常陸国の城主蔭山数馬から拝領したものといわれ、特色がある。
昭和37年3月23日 本庄市教育委員会 境内案内板より引用
拝 殿
本 殿 拝殿脇にある案内板
諏訪神社御由緒 所在地 埼玉県本庄市仁手三五三
□縁起
創立年代は不詳であるが、「明細帳」によれば、上杉忠清が本庄領主であった永禄四年(1561)には下畑五段十五歩の除地があり、本庄美濃守が本庄領主だった天正十一年(1583)にはその所轄となって萱野四段歩の寄付を受けたという。また、氏子の梅沢甚三郎家の先祖は、鉢形城の最後の城主である北条安房守氏邦の家臣で、落城後に当地に来て土着したとの伝えがある。
これらの伝承と、鉢形城内に諏訪神社が祀られていたこと、本庄領一帯では長禄から天正(1457~1592)にかけて諏訪神社が勧請されている例が多いことなどを合わせて考えると、仁手諏訪神社は鉢形城麾下の諏訪信仰を背景にして勧請された社の一つであると思われる。ちなみに、利根川の対岸に位置する上仁手にも諏訪神社があり、北条氏麾下の茂木某の勧請と伝えている。
『風土記稿』の元仁手村の項に「諏訪社 村の鎮守なり、宗福寺の持」とあり、江戸期は真言宗の諏訪山宗福寺が当社の別当であった。しかし、実際の祭祀は、宗真院のすぐ西に居を構えていた茂木家が行っており、記録によれば文政八年(1825)に茂木兵吾が京都の吉田家の配下となり、その子孫は明治十年(1877)まで当諏訪神社の神職を務めた。また元禄十五年(1702)に社殿が改築されたと伝えるが、老朽化のため、本殿以外は昭和六十年(1985)十一月に建て替えられた(中略)
境内には社殿と並んだ状態で、境内社・末社等が鎮座しているが、その詳細は不明である。『風土記稿』等資料により、合祀社は「戸隠神社」「大杉神社」外四社(不明)であり、末社に関しては稲荷神社,蚕影神社、祖霊社等らしいのだが、それ以上は判明しなかった。
道路沿いにある案内板
諏訪神社 所在地 埼玉県本庄市大字仁手三五三
祭 神 健御名方命 妃八坂刀売命
当社の創立はいつのころか明らかでないが、かなり古い社で、元禄四年(1691)に当時の領主・上杉忠清が神田五反五畝十五歩を寄進しこえて元禄十五年(1702)には、社殿改築されたと伝えられる。その後老朽化したので昭和六十年(1985)十一月諏訪神社社殿、稲荷神社、蚕影神社、祖霊社、末社を往時のままに復元新築した。
文政八年(1825)ころは、京都吉田の配下、茂木兵吉が神主となり、その子孫が明治十余年頃まで奉仕していた。明治四十四年(1911)境内社の戸隠神社、大杉神社外四社を合祀。
大正九年(1920)四月、本県より幣帛料供進社に指定。諏訪神社に奉納される獅子舞は日下開山常陸角兵衛流獅子舞といわれる。
それは、この流派の奥義を極めた高原喜八から諏訪神社の氏子に伝授したのがはじまりであったからである。
その後氏子の相伝となり10月19日の祭礼に奉納されるが特にこの舞に使用される獅子頭は延宝三年(1675)に仁手村の領主蔭山数馬から拝領したものといわれている。
なお、当社奉納の獅子舞は市の指定文化財になっている。
昭和61年3月 境内案内板より引用
ところで本庄市仁手地区は、本庄市の利根川沿いにある最北部西端に位置する地区で、昔から利根川や烏川の影響を強く受けざるをえない地形的な宿命を持った地区でもある。特に水害では明治期に大きな被害が出ており、分かる範囲でも、明治23年、同31年、同43年と大きな被害を受けていて、特に31年には堤防決壊1件、堤防破壊2軒の記録が残されている。
この地区は現在利根川が北部を流れているが、嘗ては烏川の氾濫原に位置していたらしく、仁手・上仁手・下仁手の旧3村は元々は一つの村であったと思われ、中世期には上野国那波郡に属していた。その後寛永年間の大洪水により、烏川の流路変更に伴い、武蔵国に入った。
境内南側の門の端部び立つ庚申塔、及び猿田彦大神(写真左・右)
天正8年北条氏邦朱印状(長谷部文書)には「栗崎・五十子・仁手・宮古島・金窪」の地名が見え、当時の鉢形北条氏の直接支配する勢力範囲の北限を示しているという。
この「仁手(ニッテ)」の地名由来として上野国足利一族の「新田(ニッタ)氏」からの転訛とも、「ニタ」は湿地の意味から由来するとも言われている。
それは、この流派の奥義を極めた高原喜八から諏訪神社の氏子に伝授したのがはじまりであったからである。
その後氏子の相伝となり10月19日の祭礼に奉納されるが特にこの舞に使用される獅子頭は延宝三年(1675)に仁手村の領主蔭山数馬から拝領したものといわれている。
なお、当社奉納の獅子舞は市の指定文化財になっている。
昭和61年3月 境内案内板より引用
ところで本庄市仁手地区は、本庄市の利根川沿いにある最北部西端に位置する地区で、昔から利根川や烏川の影響を強く受けざるをえない地形的な宿命を持った地区でもある。特に水害では明治期に大きな被害が出ており、分かる範囲でも、明治23年、同31年、同43年と大きな被害を受けていて、特に31年には堤防決壊1件、堤防破壊2軒の記録が残されている。
この地区は現在利根川が北部を流れているが、嘗ては烏川の氾濫原に位置していたらしく、仁手・上仁手・下仁手の旧3村は元々は一つの村であったと思われ、中世期には上野国那波郡に属していた。その後寛永年間の大洪水により、烏川の流路変更に伴い、武蔵国に入った。
境内南側の門の端部び立つ庚申塔、及び猿田彦大神(写真左・右)
天正8年北条氏邦朱印状(長谷部文書)には「栗崎・五十子・仁手・宮古島・金窪」の地名が見え、当時の鉢形北条氏の直接支配する勢力範囲の北限を示しているという。
この「仁手(ニッテ)」の地名由来として上野国足利一族の「新田(ニッタ)氏」からの転訛とも、「ニタ」は湿地の意味から由来するとも言われている。