宮戸八幡大神社
・所在地 埼玉県本庄市宮戸107-1
・ご祭神 誉田別尊
・社 格 旧村社 創建・建立 文正年間(1466~1467)
・例 祭 祈年祭 4月15日 初穂奉告祭 7月20日・12月20日
例大祭 10月15日 新嘗祭 11月23日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2393791,139.2388439,19z?hl=ja&entry=ttu
宮戸八幡大神社は国道17号深谷バイパスを岡部方向に進み、「道の駅おかべ」の先にある岡(東)交差点を右折する。群馬・埼玉県道259号新野岡部停車場線を道なりに真っ直ぐに北上し約2km進むと右側にこんもりとした社叢と道沿いに沢山の墓地、そして大日堂が見える。(横瀬神社並びに華蔵寺)その手前の十字路を左折し、また道なりに1㎞程真っ直ぐ進み、2番目の十字路を右折すると宮戸八幡神社が見える。
正直実母方の墓地がある華蔵寺、横瀬神社からそう遠くない場所にこのような社があるとは想像も出来なかった。これも神社散策での奇縁ともいえる。
駐車スペースは社の道を隔てた場所が広い空間となっていて(但しそこが駐車場かは分からなかったが)そこの一角に車を停めて参拝を行った。
宮戸八幡神社正面から撮影
鳥居の左側にある案内板
八幡神社 御由緒 所在地 本庄市大字宮戸一○七-一
□御縁起(歴史)
当地は利根川南岸の自然堤防上に位置し、利根川と当地との間には群馬県境町の飛地があり、かつての武蔵・上野両国境に位置する。
社伝によれば、当社は文正年中(一四六六~六七)に新田三河守家純(岩松家純)が五十子に陣を張った際、上野国新田郡岩松郷(群馬県新田郡尾島町岩松)の八幡宮の分霊を奉遷して鎮祭したという。また『児玉郡誌』には、承応元年(一六五二)の社殿改築の棟札に「横瀬郷鎮守八幡大神社」と記されていたことや、地頭所より年々祭祀料が寄附されていた旨が述べられている。
『風土記稿』宮戶村の項には「八幡社 村の鎮守、観泉寺持」と記されている。当社の東隣に本堂を構える観泉寺は、八幡山無量院と号する真言宗の寺院で、応永年間(一三九四~一四二八)に新田氏の家臣金井主水が開基したと伝えられ、万治三年(一六六〇)に新田郡世良田村惣持寺の法印祐伝が再興し、当時は惣持寺の末寺であった。
当社は神仏分離を経て、明治四年に村社となり、同四十年に字中道北の八幡太神社、字山神の山神社、字藤塚の稲荷社の三社の無格社を本殿に合祀した。同四十一年には神饌幣帛料供進神社に指定された。
平成十年七月十八日、同地区に鎮座していた清水川稲荷神社を配祀した(中略)
案内板より引用
境内は決して広くはないが、境内はちゃんと整備されている
静かな佇まいと共に荘厳さも持ち合わせた社
宮戸地区は本庄市の最北端東寄りに小和瀬地区とともに位置していて、利根川に近く、低地部に属している。宮戸の歴史は古く、天正19年(1591)の検知帳にこの地が記されていることから、江戸時代に入ってかなり早い時期に検知が行なわれている。『風土記稿』を確認すると江戸時代から明治初期までは榛澤郡藤岡領に属していた。
因みに宮戸の名前の由来は不明で、お宮があったことから由来するか、「ヤト」からくる湿地帯だった事からとしていて、はっきりとした根拠もなくわかっていない。
案内板の左側にある「本庄市指定文化財 宮戸八幡大神社の格天井絵」
宮戸八幡大神社の天井花鳥画は拝殿の天井に描かれた28枚の花鳥画で、江戸時代末作成。宮戸出身の角田岱岳をはじめ、島村の金井烏州、金井研香らの作で、保存状態もよく、彩色でみごとであるという。
金井は寛政8年(1796年)、佐位郡島村(現佐波郡境町大字島村字前島)に生まれ、本名を泰といった。金井家は新田氏の支族で、その祖は金井長義と言われている。近世には近在に聞こえるほどの豪農であった。父の萬戸は酒井抱一などと交際をした俳諧の名手であった。 烏洲ははじめ兄の莎邨(詩文に優れる)から経史を学んだが、21歳の時に江戸へ出て、しばしば父のもとを訪れた青木南湖などから画書を学んだ。25歳の時、兄莎邨が夭折したので帰郷し、金井家を継ぎ代々の家名である彦兵衛を名乗った。 天保3年(1832年)には関西をまわり、頼山陽など多くの名家と交誼した。このころから画名をうたわれるようになり、子持村白井雙林寺の大襖絵や前橋市龍海院の大維摩像や『赤壁夜遊図』(境町指定重要文化財)などが描かれている。その画風は筆に勢いがあり気韻に富んでいる。
また『無声詩話』(嘉永7年)は卓越した近世画論として高い評価を得ている。江戸後期の県内における画才詩文が最も優れた存在であったが、安政4年(1847年)に62歳で没している。弟に金井研香(南宋画家)、子に杏雨(画家)、金井之恭(貴族院議員、書家)がいる。(伊勢崎市教育委員会)
金井烏州は江戸時代後期の画家であり、上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市境島村)に生まれていて、その苗字と出生地が示す通り、新田一族である金井氏の後裔にあたる。烏洲の号は、故郷の島村が利根川へと流れ込む烏川の洲にあったことにちなむ。
鳥居を過ぎてすぐ左側にある末社群 末社群の隣には神楽殿あり
拝 殿
拝殿向拝部の見事な彫刻
社伝によれば、当社は文正年間(1466~1469)に新田三河守家純(岩松家純)が五十子に陣を張った際、上野国新田郡岩松郷(群馬県新田郡尾島町岩松)の八幡宮の分霊を奉遷して鎮祭したという。また「児玉郡誌」には、承応元年(1652)の社殿改築の棟札に「横瀬郷鎮守八幡大神社」と記されていたことや、地頭所より年々祭祀料が寄付されていた旨が述べられている。「風土記稿」宮戸村の項には「八幡社 村の鎮守、観泉寺持」と記されている。観泉寺は当社の東隣に位置する。明治四年神仏分離を経て、村社となる。
神楽殿の隣に鎮座 祖霊社か 社伝の左側奥にある末社群
宮戸八幡神社は利根川南岸の自然堤防上に位置し、利根川と当地との間には群馬県境町の飛地があり、かつての武蔵・上野両国境に位置している為、新田系の氏族関連の地名や、苗字も多く存在する。実は自分の母方の系統も元を辿れば、新田氏族の家来である「横瀬8騎」の後裔にあたる。
○三友氏
・深谷市福応寺由緒書
「元弘三癸酉五月東征伐之論旨給はり御一同不残御加勢に付桃井直常公、横瀬党三供主計等、右六騎者桃井公之旗下也」。金山城主横瀬氏と共に行動し横瀬姓を名乗る。六騎先祖書写に「三供主計兼村(永和三年十月十八日卒)―三供彦太郎村房(応永十二年五月十二日卒)―横瀬加賀房利(文安二年十一月十一日卒)―横瀬新右衛門房保(寛正二年十一月四日卒)―横瀬主計房教(応仁二年十二月三日卒)―横瀬新太郎芳茂(延徳三年十月二十九日卒)―横瀬新左衛門房次(永正十七年二月四日卒)―横瀬彦右衛門房賀(弘治元年十二月十一日卒)―三供新右衛門繁房(元亀二年二月二十七日卒)―三供新兵衛」
新田家本流は南北朝時代足利氏と対立し、激戦の末に没落する。そして足利方に回った新田足利流岩松氏が新田家の本貫地である地域を必死に守り、同時に新田家を後世に残す役割を果たした。宮戸八幡大神社の創建・創立にはその岩松系の一族が関わっている。
遠い歴史の中で先人たちが苦悩し、努力をしたおかげで今の自分が存在している。川の流れのように歴史も過去から現在に至る悠久の流れの中に今の自分がいる。遠い先人たちの思いを感じながら、同時にその奇妙な縁を感謝しつつ、厳かな気持ちで参拝を行った次第だ。
拝 殿
拝殿向拝部の見事な彫刻
社伝によれば、当社は文正年間(1466~1469)に新田三河守家純(岩松家純)が五十子に陣を張った際、上野国新田郡岩松郷(群馬県新田郡尾島町岩松)の八幡宮の分霊を奉遷して鎮祭したという。また「児玉郡誌」には、承応元年(1652)の社殿改築の棟札に「横瀬郷鎮守八幡大神社」と記されていたことや、地頭所より年々祭祀料が寄付されていた旨が述べられている。「風土記稿」宮戸村の項には「八幡社 村の鎮守、観泉寺持」と記されている。観泉寺は当社の東隣に位置する。明治四年神仏分離を経て、村社となる。
神楽殿の隣に鎮座 祖霊社か 社伝の左側奥にある末社群
宮戸八幡神社は利根川南岸の自然堤防上に位置し、利根川と当地との間には群馬県境町の飛地があり、かつての武蔵・上野両国境に位置している為、新田系の氏族関連の地名や、苗字も多く存在する。実は自分の母方の系統も元を辿れば、新田氏族の家来である「横瀬8騎」の後裔にあたる。
○三友氏
・深谷市福応寺由緒書
「元弘三癸酉五月東征伐之論旨給はり御一同不残御加勢に付桃井直常公、横瀬党三供主計等、右六騎者桃井公之旗下也」。金山城主横瀬氏と共に行動し横瀬姓を名乗る。六騎先祖書写に「三供主計兼村(永和三年十月十八日卒)―三供彦太郎村房(応永十二年五月十二日卒)―横瀬加賀房利(文安二年十一月十一日卒)―横瀬新右衛門房保(寛正二年十一月四日卒)―横瀬主計房教(応仁二年十二月三日卒)―横瀬新太郎芳茂(延徳三年十月二十九日卒)―横瀬新左衛門房次(永正十七年二月四日卒)―横瀬彦右衛門房賀(弘治元年十二月十一日卒)―三供新右衛門繁房(元亀二年二月二十七日卒)―三供新兵衛」
新田家本流は南北朝時代足利氏と対立し、激戦の末に没落する。そして足利方に回った新田足利流岩松氏が新田家の本貫地である地域を必死に守り、同時に新田家を後世に残す役割を果たした。宮戸八幡大神社の創建・創立にはその岩松系の一族が関わっている。
遠い歴史の中で先人たちが苦悩し、努力をしたおかげで今の自分が存在している。川の流れのように歴史も過去から現在に至る悠久の流れの中に今の自分がいる。遠い先人たちの思いを感じながら、同時にその奇妙な縁を感謝しつつ、厳かな気持ちで参拝を行った次第だ。